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コピーライター→映像製作会社ロボット→広告代理店ビデオプロモーション→再びコピーライター(フリーランス)。 メディアとコンテンツの未来を切り拓くコミュニケーションをデザインします。講演・執筆依頼もお気軽に!

ぼくたちはリーチ(=視聴率)とは別の視点の指標をつくれるか

昨日の記事「“イカ”と”とんび”には誰も優劣がつけられない、はずなのに・・・」では、録画された番組を視聴することに広告価値がないってことかなあ、という問題提議をした。そこにテレビ放送の課題と、突破口があるのではないかと、ここ数年考え続けてきたんだよね。

その答えになる、わけでもないのだけど、でも何か答えの周辺にたどり着けるんじゃないかと、ソーシャルテレビをこのところのテーマにしてきた。答えの周辺のひとつが、テレビを見ながらのつぶやきの分析だ。

その成果のひとつを、ソーシャルテレビラボで記事にまとめた。何をしたかというと、10月クールのドラマのツイートを収集したデータを、テキストマイニングにかけたのだ。詳しくはこのリンクから、当該記事を読んでくださいな。ドラマについてのツイートを、含まれるキーワードで分類してみたのだ。フラットな好感度を示す言葉、例えば”いい”とか”かわいい”とか、そういうものを含むツイートがいくつあるか。気持ちが高ぶって興奮したような言葉、”すごい”とか”面白い”とかを含むツイートはどうか。そして否定的な言葉を含むもの。“イヤだ“とか”つまらない”とか、そういうツイートはどれくらいあるか。

それぞれをカウントし、全体の中での割合を算出する。すると、好意度が高いもの、興奮度が高いもの、などと傾向が見えてくる。また1クール全体を追うと、好意度や興奮度が上下する推移も見える。そんな分析をしてみた。

これだけで何かがパッとわかるわけでもないけど、これをもとに何かが見えてこないかな、というわけだ。

これでぼくは何をしようと言うのだろう。

昨日の記事に書いた”録画された番組は視聴率にカウントされない”ことの問題とは煎じ詰めると「広告指標が、リーチ、つまり接触した人の数しかない」ことにあるのだと思う。

確かにどれだけリーチがあるかは、広告活動にとって最重要だろう。誰にも見られない広告には何の価値もない。できるだけ多くの人に見てもらうのが広告の基本使命だ。

ただ、見てもらうだけですべて解決ではない。それは、その商品を知らない人には認知させる、という効果がある。そういう広告は看板みたいなものだね、とこれは先週の記事で書いたことだね。また、買おうかなとすでに思ってる人には値段をバーンと伝えることもできるだろう。これはチラシ的な役割だ。

そういう、認知や告知とはちがう何かが、広告の役割にはあるはずだ。それは、リーチとは別の指標で測るべきもののはずだ。

例えば、まったく同じCM映像15秒があるとして、ぼーっとテレビを観ている時に流れた場合と、YouTubeに置いてあるよ面白かったよとお友達に聞いて観に行く場合とでは、印象がまったく違うのではないだろうか。

リーチとは別の、深さとか奥行きといったものも、指標化できないものかと、もやもや考えるのだ。

書きながらまだ整理できてないなあと思うのだけど、そういうもやもやした広告の効果を測るモノサシは存在しないのだ。

そこにこそ、ぼくらがこれから取り組むべき答え、メディアやコンテンツがこれからどうなっていくかの、向かっていくべき道筋があるのではないかと、ぼくは思う。

・・・もう少し書かないといけないのだけど、また続きは次回ね・・・

“イカ”と”とんび”には誰も優劣がつけられない、はずなのに・・・

やはりこの連休は大雪とイカだった。

まあ大雪はこのブログとして語る題材でもないので置いといて、まずはイカだ。ダイオウイカだ。

きっと皆さん観たはずだ。いや観なくても何やら日曜9時にNHKでダイオウイカの番組を放送したらしいという情報は耳にしただろう。NHKスペシャル「世界初撮影!深海の巨大イカ」がそれだ。10年間、研究チームとNHKが力を合わせてダイオウイカを追い求めて、ついにその姿をカメラにおさめた。それを放送するというのだからワクワクするじゃないの。

ダイオウイカと言えば、どうやらいるらしいということで、マッコウクジラと戦う姿が図鑑のイラストに描かれていたりした。ディズニー映画「海底2万哩」ではノーチラス号に巻きついてネモ艦長と戦った。あのダイオウイカが、生きた姿でテレビで観れる。これは見逃せないよ。

ところが同じ時間、TBSでは日曜劇場「とんび」が初回2時間スペシャルで放送される。うーん、これもぜひ観たい!ついでにフジテレビのドラマ「dinner」も観ておきたい気がするし、日曜洋画劇場では「アバター」を放送するという。なんて悩ましい日曜日だ!

まあしかし、焦点はやはりイカと、とんびだ。とんびか、イカか。イカか、とんびか。悩んだ末に、結論は、イカを生で観て、とんびは録画であとで観る、というものだった。

これは決して、イカがとんびに勝ったわけではない。ライブで観るならイカ、という考え方だ。

イカを観ながらソーシャルメディアが盛り上がることが容易に想像でき、その面白さはぜひとも体験したかったのだ。逆にとんびは、あとでひとりでじっくり観るのがいいと考えたわけだ。絶対泣くだろうしな、おれ。

さて、9時になりイカがはじまった。予想通り、ソーシャルメディアはイカで埋め尽くされた。いや予想以上だなあ、これは。例えば、ソーシャルテレビ用アプリemoconではいきなりこんな感じで盛り上がった。

はじまったらいきなり、こうだ。

#nhkとは別に#イカ、というハッシュタグもつくられ、そこも盛り上がった。


こういうタイムラインを見ながら番組を観ると、もう俄然楽しくなるのだ。

やがてクライマックスでダイオウイカに出会う。ツイッターのトレンドも、いよいよこんな状態だ。

オーマイガー、とは、ダイオウイカを目にした時のニュージーランドの教授の発した言葉だ。

ぼくも「オーマイガー」と真似しながら、大いに番組を楽しんだ。いやー、ほんとに日本中がイカに夢中になったのではないかな。

さて、イカ視聴が終わると、風呂にも入って落ち着いてから録画してあった日曜劇場「とんび」を視聴。70年代の瀬戸内とおぼしき田舎町を舞台に、運送屋に勤める父親・ヤスと、その息子・旭の物語。母親・美佐子と三人で暮らすささやかな家庭の幸福に、自分の家族との生活を誰しも重ね合わせるだろう。

幼い頃の旭を演じる子役がびっくりだ。3歳でこんなに演技ってできるものなのだろうか。いやあれは演技というより、あのドラマ世界にほんとうに棲んでいる子供なのではないか。とまで言いたくなるほど天使のような純粋さで演じていた。第一話の最後に起こる事件に、涙が止まらなかった。これは毎週かかさず観ることになるだろう。素晴らしい作品だ。

・・・そんな素晴らしい日曜日の夜を過ごしながら、テレビ放送とは何かをあらためて考えてしまった。

さっき書いた通り、ライブでイカを観て、とんびは録画でじっくり観た。”録画でじっくり観る”という視聴スタイルは、もはや確立されたものだ。どこの家庭でもそうだろう。ビデオテープがHDDになり、ハイビジョンになり、ライブ視聴と変わりない高画質で録画視聴できる。考えようによっては、腰を据えて観ることができる時にこそ、録画したものを観る。それだけ期待し、評価した番組だからこそ録画で観るわけだ。

ところが、テレビ局のビジネス構造からすると、そういう視聴スタイルは困るのだ。視聴率にならないからだ。視聴率はあくまで、ライブ視聴を集計したものだ。そうじゃないと、CMを観たことの指標にならないからだ。

しかしここには、大きな矛盾が生じてしまう。腰を据えて観たいような評価している番組ほど、録画視聴される確率が高まる。これはドラマに顕著な傾向だ。だが、ニュースでもバラエティでも同様ではある。ぼくもWBSとアメトーークは録画してある。放送に間に合わないと、腰を据えて録画で観るのだ。その際は当然ながら、CMをびゅんびゅん飛ばしてしまう。

録画視聴でも、意外にCMも観るものだ、というデータもあるようだ。それもそうだろう。確か、70%のCMは観られるんだったと思う。それでも、30%はCMが飛ばされる。広告価値は下がる。

テレビ放送は、いまや理屈に合わなくなりつつあるのだ。番組の中に、番組と番組の間に、広告枠がありそれを売っている。番組を売っているのではないのだ。一所懸命作るのは番組なのに、その間にある時間を広告代理店が売ってくれることで商売になる。

その構造からすると、ぼくの家を舞台にした戦いで、とんびはイカに負けたのだ。ライブで観てもらえない限り、とんびに付随する価値は下がってしまうのだ。ぼくがどれだけ涙を流しても、そこに経済価値はない。なんだろう、これは?おかしくないだろうか?おかしすぎないだろうか?

辻褄が合わなくなってきている。

そうだ。だからぼくたちは、新しい辻褄を作らなければならないはずだ。辻褄をごまかすのはもう通用しない。

テレビ放送がマーケティング装置であるのなら、マーケティング装置としての設計図をもう一度作らなければならないのだと思う。

マスメディアでの広告はブランディングのほんの一部にすぎなくなっていくんだろうね

昨日、「広告は看板とチラシの役割に集約されていくのだろう」と題した記事を書いた。このところずーっと考えている、メディアとコンテンツとマーケティングの関係が変わりつつあることを、どうやってもこうやってももやもやしちゃう、そのもやもやをくっきりさせようという企画意図だ。もやもやがまだホットなうちに、続きを書き進めようと思う。お友達のコメントももらったしね。

実は昨日の記事は、ある日経の記事が触媒となってぼくの脳みその中で化学反応が起こって書いたものだ。その記事とは、これ。「任天堂・岩田社長が語る“本当の”ソーシャルゲーム 」というインタビュー記事だ。けっこう話題になってたから、読んだ人も多いんじゃないかな。

ニンテンドーダイレクトのどうぶつの森のプロモーション映像。47分!

ソーシャルゲームの躍進のあおりを受けてゲーム専用機が売れなくなって窮地の任天堂が、新ゲーム機WiiUと「どうぶつの森」でまた大きく浮上した。これについて岩田社長自身がこってり手の内を明かしながら語っている。

中でも驚いたのがこの部分だ・・・(以下、引用)

「我々が用意した仕組みと、お客さんが発揮したクリエイティビティーのかけ算になって、すごく面白いものになった。それを広めてくれたのは、ソーシャルメディアであり、スマホなんです。今回、どうぶつの森を大人の女性に売ってくれたのは、間違いなくスマホなんですよ」

(中略)

「今回のどうぶつの森はスクリーンショットをどこでも撮れますから、それをソーシャルメディアにあげて、こんなことをやったよ、わーってみんなで盛り上がるみたいなことが起きている。例えばツイッターでフォローしている人がどうぶつの森についてすごく熱く語っていて、それを見て興味を持ち、やってみたら面白かったというような方がたくさんいらっしゃるんです」

「我々、動画サイトを通じて任天堂の魅力をお伝えする『ニンテンドーダイレクト』という動画配信をしているんですけれど、今回のどうぶつの森を紹介した動画は、ユーチューブで160万回も再生されている。しかもその過半数がスマートデバイスからの視聴なんですよ」

「ソーシャルメディアで話題になり、この動画を見ると分かるよとなり、これはすごいってなってご購入いただけた。だいたい3分間のミュージックビデオじゃなくて、開発者がだらだらとゲームについてしゃべっている47分の動画を160万回も見ていただけたっていうのは、ちょっとあり得ないこと、異常なことだと思います」

ゲームそのものがソーシャルな楽しみ方(本来的な意味での共有する楽しさ)が魅力となった上に、先行ユーザーの楽しそうな雰囲気がソーシャルを通して伝わり、47分の映像も大いに役立った、というわけだ。

我が家では「どうぶつの森」を妻と中二の娘、高二の息子が寄ってたかって遊んでいるのでこの辺の盛り上りは身近で体感した。すごく期待していたし、他のユーザーから情報があふれんばかりにやって来たのだ。

そこにテレビCMは少しだけど確実に関与している。「出るよ!出たよ!」というお知らせであり、盛り上りの火付け役だ。運動会かけっこのスタート時になるピストルみたいなもの。昨日の論で言えば、看板の役割。これは重要だ。だが、それだけではない、ということだ。うちの家族をさらに駆り立てたのは、ネットなのだ。ソーシャルメディアなのだ。

もちろんこれは、「どうぶつの森」がすでに認知度の高いタイトルで、期待して待っているファンが大勢いるからこそ可能だ。まったく知られていないゲームがデビューする際にはこうはいかないだろう。

ただ、任天堂は十年前あたりは、ソフトが出る際にテレビCMをどう展開するかに血道を上げていたし、予算も大量に投下していたはずだ。それと比べると、今回の「どうぶつの森」のCMの量はずいぶん少ないだろう。火をつければいいので、そんなにたくさん必要はないのだ。

あれだけCMを展開してきた任天堂が、ソーシャルな商品性とソーシャルメディアの活用でマスマーケティングを成功させたことに、時代の大きな変化を感じてしまう。

もうひとつ、昨日の記事を書いたあとで触発された記事がある。Advertimesの「【2013年予測】商品、広告、CSRの境目が溶解する中で、一貫した“らしさ”を」と題した記事。ブレーンの編集長・刀田聡子氏が書いたそんなに長くはない文章に、ぼくはかなり刺激された。

ブレーンは、宣伝会議が発行している、クリエイティブ情報の業界誌だ。そんな雑誌が、「商品、広告、CSRなどの境目が溶解していく中、一貫した“らしさ”が感じ取れるようになっていなければ、効果的なコミュニケーションは生み出せない。」とメッセージしているのだ。驚くよ。

広告だけがブランディングではない。商品もである。という話は、昨日のぼくの記事の「いまはすでに、商品そのものがブランディングを決定するようになってしまった。」という部分とシンクロする。さらにぼくはホントにホントに驚いたのだけど、クリエイティブ雑誌ブレーンがCSRに触れている点だ。広告同様、CSRもブランディングにつながると、あのブレーンが言っている。商品はまだわかるのだけど、ここでCSRという言葉が出てくるとは。そして、正しいんだよなあ。

ああ、時代が変わっているんだなあ、と感じたよ。

整理するとね、ほんの十年前まではまちがいなく、ブランディングとはメディアを買ってその枠の中で商品についてどんな表現をするか、ということだった。それしかなかった。

いまはそれだけではない。それは大きなマーケティング活動の中のほんの発火点でしかなく、それと同様、いやそれ以上に、商品そのものや、商品が置かれる店舗や、商品を売る人の立ち居振る舞いだったり、ソーシャルメディア上で商品情報と人びとがどう楽しく関わるか、がブランディングを形成し販売につながっていく。そういうことになりはじめている。

その中でのメディアコストの比重はなんだか高い。でも前ほど大量に使わなくていいから、仕方ないけどまあいいや。そんなことなのだ。

こういう前提で、企業のマーケティング活動を、捉えなければならないし、広告業界という、企業コミュニケーションをサポートする業界がどう体制作りすればいいか、考えた方がいい。

少なくともそれは、メディアバイイングを大きな飯のタネにするこれまでの”広告代理店“ではないんじゃないだろうか。

てなところで、今日はおしまい。今週、頑張って続きを書くぞー!

広告は看板とチラシの役割に集約されていくのだろう(もともとそうだった気もする)

去年、「ぼくたちはどうして消費に冷めてしまったのだろう」という記事を書いた。これはちょっとだけ多くの人に読んでもらえたようだ。自分としても何か大事なことへの入口に立てた気はしていた。それでそのあと、続きにあたることも書いてみた。“広告”とは別に”共告”という概念を考えだしたという記事と、消費者って捉え方がそもそも情けなかったんじゃないかなという記事、消費に冷めたぼくたちと広告じゃなく共告だってこととソーシャルテレビについて書いてみるなんていうのも書いたな。

でもどうも”つまりこういうことだ!”とズバッとは言えていない。うーんと、えーっと、という感じだ。頭の中では完成形がもやもやとできあがりつつある気がしてるのだけど、うまく言葉にできていない。ということはやっぱりできあがっていないんだな。

なんとかそこを、完成させて形にしていきたいと思うんだよ。だってね、クリエイティブビジネス論にとって、消費とメディアやコンテンツの関係はすごく重要だからね。

で、年も明けたことだし、春までに少しずつ結論に近づくようにしていきたいという、そんな狙いのシリーズの最初の記事だよ、これは。

この日曜日、1月7日の新聞のページをなんとなーくめくっていて、おや?と気づいた。なんだ今日の新聞!健康食品や旅行の通販ばっかりじゃんか!

ちなみにうちは日本経済新聞をとっている。もう二十年くらい購読しているかな。日経といえば日本随一の経済紙だ。一般紙が広告で苦労しても、日経はちがうよ、ということになっていたんじゃないのか。それがこんなにめくってもめくってもチラシだらけでいいのか?と憤るやら不安になるやら。

でもそれは電車に乗っていても似た感じがある。中吊り広告はほとんどチラシだ。チラシがだらだらぶら下がっている電車にぼくたちは乗っているのだ。

この話の流れで書くと、最近のテレビCMはずいぶん顔ぶれが変わった。知らない会社のCMがぐんと増えたと思う。そしてなんだかチラシみたいなCMが多い気がする。

こんな話は、“昔はよかった“的な話になっちゃうな、結局。何しろもう50才だし。往年の、広告がビカビカ輝いていた80年代に広告制作の世界に入って、その栄華を見てきた世代だから、広告の情けない姿を憂いているわけだ。うん、そうだね、実際。

そしてそんな自分を客観視して言うと、おっさん、あんたらの時代がおかしかったんちゃいまんの?となる。そもそも、広告なんて、看板かチラシやんけ。あんたらの時代に、その間に何か素敵な手法があり表現があるんだと勝手に思い込んだだけちゃいまんの?うーん、そうなのかもしれない。

広告はまず、看板として機能すればいいのだろう。商品写真がばーんとのっかっていて、その上に商品名がどーんと配置されていさえすれば、いいのではないか。そうじゃねえの?そうだろうが!とすごまれたりしたらもう、はいはいそうです、まちがいございません、とシュンとなっちゃう。

次にチラシであればいいはずだろう。商品がずらずらずらーっと並んでいて、それぞれの価格がはっきりくっきり表示されていればいい。その中で売れ筋のものはとくにでーんとでかく扱いたいね。あと、ぐいっと値引きした商品は30%OFF!と強調しておきたいもんだ。そうしてくれよな、そうしてくれるんだよな!と大声で迫られたら、もちろんですとも!とその通りにいたしまするよ。

看板とチラシだ。看板は、メーカー側のスタンスの広告。とにかく、商品を知ってください、憶えてください。チラシは、流通側の立ち位置の広告。これがありますし、これが安いので、買ってください。

看板とチラシこそが広告の本来の役割なのだ。それなのに、ぼくたちは看板とチラシの間に何かがあるつもりで、一所懸命企画していた。クライアント企業には、ブランディングですとかイメージが大切ですとか、今思えばふわふわしたことを言って説得していた。企業の側もそれなりに説得されてくれていた。クリエイターのあなたが言うなら、よっしゃ!そのアイデア買いましょう!と言ってくれていたわけだ。

もちろん、それもまちがっていたわけではない。ひとりの消費者としても、そういうふわふわした部分が商品を選ぶ際にひとつのファクターとなっていた。なんとなくCMが好きだから、という理由で商品を買った経験もはっきりある。

でもそのブランディングというやつ。いまはすでに、商品そのものがブランディングを決定するようになってしまった。受け手のレベルが上がったからなのか?AppleのCMは商品がどどーんとど真ん中にあり、まさに看板みたいな機能だけど、十分ブランディングを果たしている。いくら素敵なタレントを起用しても、スマートフォンとしての商品性がダメならほとんど意味はない。

CMがチラシの機能を大きく果たすこともある。通販企業のCMが増えているのはその表れだ。ネット企業のCMも、即効性が高い。さっきの日経の広告もチラシだらけだ。効果があるから新聞の紙面を使ってチラシみたいなことをするのだ。十分なレスポンスがあるからこそ、電話番号を掲載した広告を打つと電話がかかってくるのだろう。

昔、新聞広告を作る時は、“ボディコピー”を書くのに血道を上げた。大げさだけど、聖なる文章を書くような気持ちでボディコピーを練った。それがブランディングになりますとかなんとか言って。

いま、当時の新聞のボディコピーから伝わったようなことは、ソーシャルメディアを通して伝わるようになりつつある。そういうことになりはじめているのだと思う。

企業や商品の姿勢や理念みたいなものを、クライアント企業からブリーフィングを受けてコピーライターが書いていた。それはいま思えばどうなのだろう?企業のメッセージを代筆していたのだ。もしいま、ソーシャルメディアの運用を企業から委託されたとしたら、やはり代筆することになる。企業の気持ちや心持ちを代筆するのだ。それは実は大事な作業なのではないだろうか。

うーん、何か大事なことに入っていっている気がするけど、眠くなったので今日はここまで。この流れは少しずつ、でも着実に書き進めていくので、気長につきあってね。

お正月からテレビはダブルスクリーン!〜リアル脱出ゲームTVと箱根駅伝〜

7日からという人も多いだろうけど、ぼくは今日4日から仕事始め。まあゆるゆるスタートしましょうか。

さてこの年末年始、テレビ三昧だったわけだけど、なんだかテレビ視聴が年末年始の中で“恒例感“を少し失っている気がしてしまった。正直、これ観たい!という番組が少なかった。そして意外にもいちばん面白かったのが「ピタゴラスイッチ」と「歴史にドキリ」という教育テレビもといETVの番組だったのは新鮮だったなあ。

ただひとつだけ、前々から聞いていて楽しみにしていた番組があった。1月1日の夜にTBSで放送された「リアル脱出ゲームTV」だ。

“リアル脱出ゲーム“についてはここで書くと長くなるので簡単に説明するんであとは自分で調べてみてほしい。いま、ちょっと話題。SCRAPというチームというか会社がやっているイベントというかなんというか。推理小説の謎を解くように実際にある場所から脱出するゲームイベント。

このリアル脱出ゲームをドラマにしたのが「リアル脱出ゲームTV」なのだという。もうそれだけでワクワクしちゃう。しかもスマホを使って実際にドラマの謎解きに参加できる。これは観ないわけにはいかないだろう。

ドラマはバカリズム演じる犯人が都内のどこかに爆弾を仕掛けたという設定。これに警視庁チームが立ち向かう。下っ端刑事の木南晴夏が謎の男・斉木しげるにヒントをもらって謎を解いていくストーリー。

犯人は2つのクイズを出す。両方ともネットで視聴者も見れるようになっている。その上、答えがわかったらサイトから送信できる。

写真はiPhoneの画面だけど、タブレットでアクセスするとちゃんとそれ用の画面が出てくる。

クイズはかなり難易度が高い。それが斉木しげるの出すヒントで少しずつ少しずつわかってくる。

テレビ画面にはリアルタイムで参加者の数や解答した人の数が左肩に出てくる。否が応でもクイズを解かねばと煽られる。

ぼくは1問目が解けなかった。うむむと悔しがってると、犯人から2つめのクイズが。慌ててまたiPhoneを見るとこんな画面が。


うーん、当然ながら1問目が解けないと2問目には参加できないのだと書いてある。こういうところもよくできているなあ。

2問目はさらにレベルが高く、参加権ないながら懸命に考えたがわからなかった。解き明かされた謎は、えー!というくらいハイレベル。それにいかにも「リアル脱出ゲームTV」な解答。

ドラマが終わり最後のクレジット画面に、正解者の名前が並んだ。おおー、リアルタイムでこのテロップこさえたんだなあ。そして正解者の数も発表された。

31万人がクイズに参加し、正解者は5000人だったということだ。

これをどう受けとめるか、多いとか少ないとかいろんな意見が出そうだ。30万人は視聴率でいうと1%にも満たないことになってしまうから。でも、双方向のこんなややこしい難易度の高いクイズに、賞品もないのに何十万人も参加したのは素晴らしい成果だと思う。テレビだからと迎合せず難易度を保ったのも見上げた姿勢だ。

なんにせよ、これまで体験したことのないテレビの楽しみ方をひとつ提示してくれたことは大きい。その向こうには何かがあるんじゃないかなあ。

一方、正月の風物詩「箱根駅伝」でも今年、面白い視聴体験ができたのを知っているだろうか。これも、まさしくダブルスクリーン視聴だ。

箱根駅伝はもともと、WEB上での情報が充実していた。それを本格的にスマートデバイス対応させるアプリを起ち上げていたのだ。箱根駅伝のサイトに行くと、スマートデバイスの人はこれ押してねというボタンがあり、ジャンプするとこんな画面になる。

各大学の走者の位置が現在進行形で表示される。右側のメニューからは現在の走者の名前なども確認できる。
上はタブレットの画面だが、iPhoneだとこんな感じだ。

うちの妻は毎年この駅伝を楽しみに観ていて、ぼくもつられて観る。今年はタブレットを膝にしてこれまでとちがう楽しみ方ができた。二人の間での“共視聴”に大いに役立ったのだ。あの選手はどうなのだとか、いま画面に映ってない順位はこうなっているようだとか、話のネタがいろいろ出てくる。テレビ視聴を豊かにしてくれる仕掛けだったと思う。

また、iPhoneで競技を追えることは、テレビを離れてもレースを気になるものにしてくれる。何しろ駅伝は長丁場なので、途中で出かけたり別の用事をしたりとなる。その間も、あたかもテレビを見続けているような感覚になるのだ。当然、帰宅したらすぐにまたテレビをつける。視聴者の気持ちをがっちりつかんで離さない、という効果もあったと思う。

さて、この2つの事例はツイッターが絡むわけではないので、“ソーシャルテレビ“とは言えないのだろう。でも、ソーシャルテレビの議論がどんどんダブルスクリーン視聴に向かう中で、近い領域の話題をもたらしてくれる。そういう分類はまあ、なんでもいいわね。

今年はこういう事例が次々に出てくる気がする。何しろ、ソーシャルテレビ元年に続く二年目が2013年だからね。もうはじまっちゃってるんだから、どんどんやらかしていかなくちゃ。

というわけで、今年はいよいよこうしたレポートも頑張って書いていくぜい!そこんとこ、よろしく!

2013年は、どんな人と出会い、どんな一年になるかな

2013年になりました。みなさん、あけましておめでとうございます!

今年は年賀状を書かなかったので、このブログをもって新年のご挨拶とさせていただきます。

振り返るとこの数年は、個人的にも激動だった。フリーランスからロボット、そしていまの会社と渡り歩きつつ、ブログを書いてソーシャルメディアでいろんな人と交流し、本を書いてまた多様な人と出会って。

ふと気づくと、最近つきあってる人はほとんど、この一年、二年の間に知りあった人ばかり。なのにすごーくお互いよく知ってる気がしてる。これもソーシャルメディアのおかげかなあ。

毎日が面白くなるかどうかは、誰と出会うかによるのだと思う。誰かと出会うと、明日が面白くなるんだ。そしてそういう出会いを、ソーシャルメディアは促進してくれる。

このブログを書くことは、ぼくにとって大切な作業になっている。そんなにたくさんアクセスがあるわけではない。でもとにかくぼくが考えたことをこうして書いておく。書き進んでいく。書きながら次の行動を構想する、イメージする。時にはその告知をする。

去年の元旦、ここでぼくは「ソーシャルテレビ推進宣言だ!」などと威勢よく書いた。書けば実現するんじゃないかと思った。そして実際、そうなった。

いやもちろん、実現するために動いたのは他ならぬぼく自身だ。書いても書かなくてもやったのかもしれない。でも、書くことでまず自分自身が「おーっと、書いたからには実現せにゃなあ」と動きたくなる。自分の気持ちを高ぶらせるのが第一目的だったのだと言える。

それから、書いておくことで、誰かと出会った時に「実はぼく、こんなこと考えてまして」と言える。だから宣言を書くだけでなく、ソーシャルテレビ周りのことをぐいぐい記事にしておく。ああ、この人はこういうことを考えている人なんだなとわかってもらいやすい。

そのうえ、どこから聞いたのか、見知らぬ人がこのブログを見てくれて、コンタクトしてくれる。ソーシャルメディアにはそういう、似た考え同士の磁場を引き寄せる不思議な効能があるようだ。”テレビとソーシャルの融合です!勉強会やります!”とここで書き、それをソーシャルメディアで告知するといつの間にかそれを見るべき人に届くようなのだ。

だから去年ぼくと知りあった人は、ほとんどソーシャルテレビがらみ。これはちょっとしたソーシャルメディアマーケティングの事例なのかもしれない。エンゲージメントもすごく高いよ!

さて今年2013年はそのソーシャルテレビの活動の二年目。さらにその半径を大きくしてくつもりだ。半径を広げる具体的なことを、秋ごろにやるつもり。それは近いうちにまた発表するよ。

だから今年はまた新たな出会いがいっぱいあるのだと思う。ぼくのこともともと知ってるあなたは、その出会いから起こる渦に巻き込まれちゃうのかもしれないし、たまたまこれを読んでるまだ見知らぬあなたと、今年出会ってしまうのかもしれない。

人生は次々に変化していくからこそ面白く楽しいのだと思う。そして人生に変化をもたらすのは、面白い人びととの出会いだ。今年、またたくさんの出会いがありますように。ぼくにも、あなたにも!

2012年ソーシャルテレビ元年を振り返る(その2)

前回に続いて、今年を振り返る、後編。6月までやったので、7月から行きます。

7月
●境塾、秋葉原デジタルハリウッドで開催
セルフパトロンがありえる時代〜7月15日境塾「デジタル時代の著作権」をプレビューする〜
●佐久間正英さん「新・週刊フジテレビ批評」に登場
ミュージシャンはもう、神様じゃないのかもしれない
●ソーシャルオリンピックはじまる
はじめてのソーシャルオリンピック、はじまる

今年はBar境塾は2回やったけど、もともとの境塾の方は一回だけだった。違法ダウンロード罰則化をネタに著作権について、MiAUの小寺さん、弁護士・四宮さんをゲストで開催。なかなか充実した催しになった。来年はもうちょっとやらなきゃな。
佐久間正英さんが「音楽家が音楽を辞める時」と題したブログを書いてえらく話題になり、テレビ出演。それを受けてぼくもブログを書いたらけっこうたくさんの人に読んでもらえた。その上、佐久間さんご本人もコメントをくださった。四人囃子の佐久間さんが!光栄すぎて溶けてしまいそうだった。
ソーシャルオリンピックは8月に話題になった。

8月
●ソーシャルメディアとオリンピックの関係が議論に
ソーシャルメディアは、ぼくらとオリンピックの関係を変えようとしている(のかもね)

ソーシャルオリンピックについては、また「新・週刊フジテレビ批評」から取材を受けたり、日経からも電話取材を受けたりした。またぼくがここで書いたこととあやとりブログの議論が錯綜したり。それから、In The Looopにも転載されたし、かなり議論があちこちへ飛び火していった感がある。考えていくほどに興味深いテーマなんだな。

9月
●ソーシャルオリンピックに関するインフォグラフィクスを発表
集中解説!ソーシャル五輪を掘り下げる(1)〜インフォグラフィクス作ったんだぜ〜
●最後の「踊る大捜査線」公開
「踊る大捜査線」は最初のソーシャルテレビ現象だったのかもしれない
●遊川和彦氏の仕事への姿勢に驚嘆
何かを生み出すって、血へどを吐き身を削る作業なんだってこと、忘れてた

またもやソーシャルオリンピックの話題。みんなで調べたことをインフォグラフィクスにして発表し、ちょっとだけ話題になった、かな?
踊る大捜査線がついにファイナルってことで感慨に浸った。
そしてたまたまみたNHK「プロフェッショナル・仕事の流儀」に脚本家遊川和彦氏が登場し、ストイックさに感動したわ。

10月
●TBS、大炎上生テレビを放送
『大炎上生テレビ オレにも言わせろ』について、オレにも言わせてもらおうじゃないか!
●JoinTVカンファレンス、開催
日本テレビという名のベンチャー企業
●ビデオリサーチ、Twitter指標、発表へ
テレビは第2のステージへ

10月は賑やかだった。いや正確には9月28日なのだけど、ソーシャルテレビの一大実験番組、「大炎上生テレビ」が放送された。一方、日本テレビがJoinTVを軸にソーシャルテレビについて大々的なカンファレンスを開催した。もともと、今年は他局を3歩ぐらいリードしていたのが、一気に10歩ぐらい引き離した感じ。そこへ来て、ビデオリサーチ社がTweet数を視聴率と併せて発表していきたいと宣言。なんだか業界全体がソーシャルテレビなことになってきた。

11月
●消費の時代のターニングポイント
ぼくたちはどうして消費に冷めてしまったのだろう
●マルチスクリーン型放送研究会、INTER BEEでデモを発表
ダブルスクリーン視聴はもうすぐそこに
●ソーシャルテレビ推進会議、オープンセミナー開催
盛会でした!ソーシャルテレビ推進会議・半期報告オープンセミナー

消費の時代はもう終わってたんだね、とブログに書いたらまたまたたくさんの人が来てくれた。わかったんだけど、こういう「もう○○○はおしまいだね」というタイプの記事はバズるんだわ。ネガティブな言説がみんな好きなの?まあ、わかるけど。
マル研のデモはその前にも見ていたけど、INTER BEEでのデモは力が入っていた。テレビの未来が具体化していて興奮したなあ。
そして11月はオープンな催しを推進会議として開催した。思っていた以上にたくさんの人が来てくれた。盛り上がってきたぞ、ソーシャルテレビ!

12月
●ビデオリサーチが表に出てきた
ビデオリサーチフォーラムは、視聴率だけじゃないですよ宣言だった
●コンテンツと政治の関係を考えた
コンテンツ制作者はもっと政治に近づかないといけない

9,10,11月と熱心に記事を書いた反動か、12月は記事が少ない。
ビデオリサーチ社は黒子役っぽかったのだが、フォーラムを主催し、ある種の生まれ変わり宣言をしていた。素晴らしいことだと思う。
選挙があったので政治についての記事を書いたらそこそこたくさん来てもらえたみたい。

・・・と、ざざざーっと一年を振り返ってみた。今年は元旦の宣言にのっとって、4月にソーシャルテレビの勉強会を起ち上げた。来たるべき時代に準備する、つもりだったのだが、時代がもう来ちゃった、という2012年だった。JoinTVを旗振り役に、各局がぐいぐい、どんどんソーシャルテレビに向かって行った。
このブログも、ソーシャルテレビ一色に染まっていた感がある。いやー、事態は常に、想像を超えて行くね。

そういう振り返りをしたあとは、全体を総括するようなこととか、来年はこうだぜ、みたいなことも書かなきゃいかんかな。それはまた、しばらくあとでね。

2012年ソーシャルテレビ元年を振り返る(その1)

12月も押し詰まってきた、つまり2012年ももうあとわずかだ。年末は恒例の、って去年やっただけなのだけど、一年間を振り返る記事を書こう。これ、読者の皆さんより、自分のためなんだけどね。まあ、でも皆さんにとっても、ああこんなことあったなあ、なんて一緒に振り返ってもらえると面白いんじゃないかなあ。思うところなどあったら、コメントにどんどん書き込んじゃってくださいな。

さて今年はなんと言っても、ソーシャルテレビ元年と称して誰も反論しないだろう年となった。だからここでも、ソーシャルテレビの動きを中心に追っていくことにおのずからなるだろうね。勉強会やってるくらいだしさ。
“⇒”のあとが該当記事のタイトルで、リンクがはってあるので読んでみて。

1月
●NHKがぐいぐい新しい動き
NHKがどんどんソーシャル化している件について
●「ALWAYS 三丁目の夕日’64」公開
高度成長という祭りの社〜「ALWAYS 三丁目の夕日」におけるテレビ
●2011年の映画興行、1800億円へ大幅減
震災の影響、だけではないみたい〜2011年の興行収入、前年比18%ダウン〜

2012年はNHKからはじまった。というと褒めすぎだけど、このところ元気だなあと思っていたNHKが今年はさらに新しいことぐいぐいやってた。元日深夜の「ニッポンのジレンマ」はインパクトあった。“ジレンマ”は時代のキーワードだと思うなあ。そして「おやすみ日本」は大のお気に入り。ついに11月のイベントでプロデューサー河瀬さんをお招きしたしね。「NewsWEB24」もこのあとレギュラー番組化したし。
映画興行大幅ダウンは深刻だし、日本の映画界が新たな時代に突入した証しだろう。これについては三回ぐらい書いているので興味あれば読んでくださいな。

2月
●あやとりブログに参加
テレビについて語る人びと〜あやとりブログについて〜
●情報の洪水化が顕著に
長いものが読めなくなってきた〜コンテンツ消費の夕暮れ〜

去年「テレビは生き残れるのか」を出版したことは徐々にボディブローのように効いてくるものらしく、今年になってから読んでくださった方といろいろ知りあった。TBSメディア総研の氏家代表もそのおひとりで、Facebookでお声がけいただいた。氏家さんが主宰する”あやとりブログ”の執筆陣のひとりに加えていただいたのだ。テレビを中心にしたメディア論の場は意外と珍しく、そこでまた面白い方々と知りあえた。同総研が出す雑誌「調査情報」からも市川編集長にお声がけいただき原稿を何本か書いた。フリーでちんたらやってきたぼくのような輩を加えていただくのはまったく光栄なことだ。

3月
●第3回Bar境塾、開催
第3回Bar境塾「ソーシャルと視聴率」かんたんレポート
●TBSでソーシャルテレビ実験番組
大急ぎで大ざっぱに、ソーシャルテレビ実験番組「MAKE TV」視聴レポート
●日本テレビ、深夜番組iConでJoiNTV実験
データ放送がスマートテレビを実現する!〜日テレiConでJoiNTVにジョインした〜
●慶應大学大学院「スマートテレビ研究会」終了
「日本型スマートテレビの未来像」〜スマートテレビ研究会・公開討論会に参加した〜

3月は盛りだくさんだなあ。
Bar境塾ではソーシャルと視聴率の関係をひもといた。これはなかなか貴重な結果がわかって有意義だったと思う。そしてTBSと日本テレビでそれぞれ、深夜枠でソーシャルテレビの実験番組が放送された。MAKE TVは正直、慌ただしく終わった感じ。JoiNTVもこの時は、深夜のゲリラ的な実験っぽかったのが、このあと驚かされるんだよね。スマートテレビ研究会は去年の10月から参加してきたもので、公開討論会に出させてもらった。この会もいろんな方と出会えたし、自分の勉強会のヒントにもなったんだな。

4月
●ソーシャルテレビ推進会議設立!
ソーシャルテレビ推進会議、設立しました!
●NHKのソーシャルテレビ実験teleda
teledaは、ソーシャルテレビの可能性が詰まっている実験だ!
●第4回Bar境塾「録画サービスはソーシャルへ向かう」
メディア接触とは、生活習慣なんだな〜Bar境塾をやって考えたこと〜

4月はなんと言っても、ソーシャルテレビの勉強会を設立したのがビッグイシュー。これ、元日の記事で宣言したことをちゃんと実現したわけで、いわゆるひとつの有言実行。そういうタイプなのね。この時は10数名だったのがいまや100人にもなるので、みるみる増えたんだなあ。
NHKのteledaはビデオオンデマンドがソーシャルメディアでどう活性化するか、という極めて先験的な実験だったのだけど、あまり注目されてないのが残念。妙に批判する人とかいてさ。でも関わってた方々と出会えたのはうれしかった。
4月の境塾はすごいメンツで開催。中でもアスキー総研の遠藤さんをお招きできたのは光栄至極。皆さんご存知ないだろうけど遠藤さんってね、って書くと長くなるからやめとこ。

5月
●虚構新聞がウソつきと罵られる不思議
この国のルールは空気でできている。〜福岡市職員禁酒令と虚構新聞事件〜
●スマートTVサミット開催
テレビ局が、マジで動きはじめた!〜スマートTVサミットでの日本テレビ・デジタル連携宣言〜


去年あたりから出てきた傾向だけど、今年はさらにソーシャルメディアが時にひどく荒れるようになった。典型が虚構新聞がウソつき呼ばわりされた一件。虚構=ウソ、なので、「ウソつき新聞をウソつきめ!と罵る」奇妙な現象が起こった。ホントに理解不能だ。
スマートTVサミットというシンポジウムで日本テレビがJoiNTVに本気で取り組んでいることを宣言。びっくりしたし、盛り上がったなあ。

6月
●ソーシャルカンファレンス2012に参加
ソーシャルカンファレンス2012・遅ればせながらレポート
●ノマド論が一部でトレンド化
ノマドという職種は存在しない
●Huluが徐々に浸透
Hulu(つまりはSVOD)の功と罪〜あるいは刑事コロンボがやっぱり面白い件について

大元隆志氏が主催するソーシャルカンファレンス2012で、ソーシャルメディアとテレビの融合についてひとコマ担当してくれと依頼があり引き受けた。またまた豪華メンバーにお声がけし、6月9日にやったのだった。なかなか面白かったし、カンファレンス全体も濃い内容だった。
ノマドという言葉がいつの間にか流行語のようになっている。でも本来ノマドは“働き方“つまり状態を示す言葉で肩書きではない。自分で「私はノマドです」と職種のように名のるのは変だと書いたらバズった。いまはへたにバズると怖いのでしばらくおとなしくしてたよ。
去年、日本上陸したHulu。価格も下げたし、大プロモーションもやっていて、今年は水面下でかなり普及したんじゃないだろうか。ケータイキャリア系のサービスも含めて、時代はVODへ、そして定額制へ、まちがいなく動いていると思うよ。

てなことで、まあ掘り返したい記事を、暇つぶしに読んでみてくださいな。思いついたことなど、コメントもどうぞ。

コンテンツ制作者はもっと政治に近づかないといけない

今回の選挙の結果についてとくに言いたいことはない。投票率が低かったことについてだけ言うと、当然だと思う。もちろんぼくは投票に行ったが、こと今回の選挙では投票しなかった人をとやかく言う気になれない。あの党が勝つのはイヤだけど、だからって他のどこに入れればいいのか。今回の選挙は、この国がいま、ただのカオスになってしまっていることを象徴していると思う。村上龍の「愛と幻想のファシズム」みたいな世の中になりつつあると思うと、おそろしい。

それはともかく、選挙はおいといて、”政治“にからんで経験したことと思う所を書こうと思う。

これは前職ロボット時代の話。別に秘密にすることではないと思うので書いちゃうと、ロボットの社員がアカデミー賞をとったことがある。加藤久仁生というアニメーション作家の「つみきのいえ」という作品が、2009年の米国アカデミー賞短編アニメーション部門で受賞したのだ。もちろんロボットはお祭りのような騒ぎとなり、みんな自分のこととして大喜びした。

ぼくは経営企画室長だったので、外部への対応で毎日大変だった。大変だけど、うれしかったので、大喜びしながら対応に追われるというマゾヒスティックな日々となった。まさか自分の会社の人間が、あの世界的な賞をとるとは思わなかったからね。

世界的な賞をとると、いろんなところが注目してくれて、経産省からも電話があった。加藤さんを大臣に会わせてねと言うのだ。で、当時の阿部社長とともに霞が関まで加藤くんを連れて行った。この時は外国語映画賞の「おくりびと」とダブル受賞だったので、滝田洋二郎監督も呼ばれていた。

招き入れられた部屋は中規模の会議室で大きなドーナツ状の円卓が真ん中にあった。ぼくは事務方としてその周りの椅子に社長と一緒に座った。するとそこへ、またいろんな方々がやって来た。映画製作者連盟を代表して東映の岡田社長、レコード協会、動画協会、などなどお歴々が顔を並べる。うーん、これはなんだ?そこに、当時の経産大臣、二階さんがやって来て、滝田監督、加藤監督と挨拶して握手。大臣はすぐ退席して、経産省の局長クラスとそのメンバーの懇談的なミーティングになった。話の内容は、各業界からの直訴的な。

連絡をくれた経産省の方によると、各業界団体と局長との懇談会の場があって二階大臣も顔を出すので、いい機会だと両監督を呼ぶことになったのだとか。ぼくは、業界団体のロビー活動の場に世界的な賞をとった監督を呼ぶのはいかがなものかと軽くクレームを言った。

ただこの時、業界団体の意味がよくわかった。そういうことなんだな。○○協会とは、インナーより対外的、そして政治的な存在意義があるのだなと思い知った。

さらに一二ヶ月後だったか、今度は首相官邸から連絡を受けた。内閣として、ジャパンブランドを海外へ売り込むプロジェクトがあり、その報告会が官邸であるので加藤監督をお招きしたい、とのこと。経産省の経験があるので、またついでに呼ばれるんじゃイヤだと思い、もっと詳しく聞かせてもらった。今度は会合のゲストとして意見をお聞きしたい、社長もぜひにと言うので、経産省の時よりいい立場で呼ばれるのだなとお受けした。

ロボットを紹介する映像も準備したり、社長が話す内容を官邸の方と下打合わせしたり、それなりの準備をした。

ジャパンブランドについての会合はまたもやいろんな業界のお偉方や政界に強い某出版社社長、高名な大学教授などで構成されていた。その日は、彼らが大臣達の前で進捗を報告し、その中でアカデミー賞受賞を本人から伝えてもらうというものだった。官邸の方とお話して、社長からぜひコンテンツビジネスについて大臣達に語らせたいとお願いした。

加藤監督がアカデミー賞受賞を報告し、授賞式でのエピソードなども軽く話した。そのあとで、阿部社長からコンテンツビジネスについてアピールした。皆さんはテレビ局や配給会社が作っているとお思いでしょうが、実際の現場はその奥にいる我々制作会社が作っています。でも零細企業です。その中から運良く世界的賞を受賞できました。どうぞ我々の存在にも目を配ってください。そんな話をした。ぼくが原稿を用意したのだが、阿部社長は原稿から話がそれてハラハラしたが、でも言うべきことはちゃんと言ってくれた。

麻生首相はマンガ好きでぼくらのバックアップしてくれそうだった。でもあっさりその夏の選挙で下野してしまった。

この頃すでに、ハリウッドと日本のコンテンツビジネスの違いについては認識していた。米国にはフィンシンルールという、制作者を有利にする法律がある。あれはどう見ても、ハリウッドがテレビ局の力を抑えるために作らせたものだ。ロビー活動の成果だ。

経産省や官邸に接してみて、日本でもロビー活動をしなきゃいけないなと思った。だって配給会社やテレビ局はやってるんだろう?プロダクションもやらなきゃ。それも、既存の枠組みの業界団体ではダメなんじゃないか。映画だテレビだCMだの枠組みを越えて大きく結びつかなきゃダメなんじゃないか。

これを痛感したのも「つみきのいえ」の受賞時だった。世界的な賞をとったのに、海外に上手に売れなかった。売り方を知らなかったのだ。賞をとったからさっそく世界で売れるかというと、そんなに単純じゃない。世界中から「うちの国で売るなら、おれだから」というメールが来たのだけど、どの事業者がホントに頼もしいのかわからない。日ごろから情報収集や人脈形成していないと、海外セールスなんかできないのだ。

でも、ロボットは制作会社の中でも大きい方だけど、それ専門の部署なんかつくれない。3年間専念していいから海外販路を開拓してくれ、なんてできないんだ。

もっとまとまらないといけないし、政治の助けも借りないわけにはいかない。そう思って、ぼくはそのあとも、内閣官房や経産省、総務省にも行ってどんな人が絡んでいるのか動いて回った。

でも阿部社長が辞めたり、自分も辞めたもんで、中途半端に終わってしまった。

日本のコンテンツ界の大きな欠点がある。それは、制作者主導じゃないことだ。まず、テレビ局、配給会社という、言わば流通企業が業界の顔になり政治に向いている。その先にいる制作者の視点ではない。これは会社単位で見てもそうなのだけど、会社の中でも、例えば総務省の会合に出るのは制作部門の人ではないだろう。そこで語られるのは、電波利権の確保の話であって、いいコンテンツを作る環境の問題やコンテンツを海外セールスする話にはならないのではないか。

外側の話だけを行政として、肝心の内側、アンコというか具の話は政治の話になっていない。ほとんどなっていないと思う。

制作者がもっと表に出て、政治の話やビジネスの話をしないといけない。そうしないと、制作者が生み出したものの価値を高める議論にならないのではないだろうか。

テレビは共同幻想だ、という共同幻想

先週、勘三郎さんが亡くなった。あんなに楽しくまた挑戦し続ける歌舞伎役者もいないよな、などと思いに浸った。妻はあちこちのワイドショーを録画して、勘三郎追悼の部分ばかり選びだして観ていた。

翌日だったかに息子の勘九郎さんの口上がテレビで流れた。ぼくは夜のニュースで2回見て、翌朝のワイドショーでもまた見た。なんとも素晴らしい口上で、観るたびに目頭が熱くなった。

感動しながら、もうひとりのぼくが感動しているぼくを冷静に見ていた。

もうひとりのぼくが指摘する。繰り返すから残るんだよな。一回じゃないんだよ、繰り返すんだよ。はいはい、言いたいことはわかりました。

確かに、その数日間で勘九郎さんの口上はあちこちの局で日に何度と放送されただろう。ぼくでさえ3回見ている。テレビの視聴時間が長いと10回ぐらい目に入ってくるかもしれない。しかも、そのたんびに目頭を熱くするのだ。印象に残らないはずがない。

テレビは共同幻想だ。そんな捉え方がある。だから必要だし強いのだと。先日のビデオリサーチフォーラムでもそんなことを言う人がいた。テレビはみんなが観て、だから感動を共有し、同じことを感じとるのだと。それがこの国にもたらす共感は大きい。大事だ。気持ちをひとつにする。

そこには正直言って、そう自分たちに言い聞かせて安心したがってる匂いがある。ぼくは後退感を受け取ってしまう。一所懸命前向きになろうとして後ろ向き、みたいな。

さっきのもうひとりのぼくの指摘なんだけど。けっこう大事なポイントなんじゃないか。

そこには視聴率の不思議な算出法もある。視聴率30%と言われると、国民の3割が観たのかよ3千万人以上かよすげえなとパッと受けとめてしまう。でも、あくまで世帯視聴率なので、4人家族のひとりしか見てなくても4人全員観ていても同じだ。仮に、視聴者の世帯の平均家族数が2人とする。その片方だけが視聴して世帯視聴率30%とすると、実際には国民の15%が見た計算になる。視聴率は、そのまま人数にならないのだ。

90年代、「101回目のプロポーズ」は視聴率30%を超えた。「ぼくは死にまっしぇーん」と言ってトラックに立ちふさがる武田鉄矢のクライマックスを知らない日本人はいないのではないか。そんなイメージがある。

ぼくもそのシーンをよく記憶している。・・・あれ?でも実際には見たわけではないな。・・・ぼくは「101回目のプロポーズ」を観たことはないのだ。でもウッチャンナンチャンが真似をするのは観た。何度となくやったと思うので、何度となく観たはずだ。そして本物のその場面も、過去の名場面としていろんな番組で何度も何度も出てきた。

繰り返されるから、刷り込まれたのだ。実際には観ていない。

子供の頃、浅間山荘事件があって、その模様はテレビで生中継された。これは覚えている。・・・いや?これも、あとで繰り返されたから覚えているんじゃないか?鉄球が山荘にぶつけられる場面を、何度も観ているのだ。昭和を振り返る番組などで、何度も何度も繰り返された。

同じ頃、”成田空港予定地の強制執行”というのもあった、と思う。これはよく覚えていない。でも確か、何度か行われテレビで放送された。なのに記憶が曖昧だ。・・・なぜなら、その後映像がテレビ上で取り上げられることがなかったからだ。おそらく浅間山荘事件はテロリストの犯罪だけど、成田強制執行は一種の内戦だからだと思う。

おぼろげな記憶の中で、成田強制執行は相当過激な映像だった。火炎瓶が飛び交い、服に火が燃え移った人がじたばたする様子を覚えている。日本人同士で激烈な戦いを繰り広げていた。機動隊が向き合うのは、犯罪者ではなくごく普通の人びとだった。その後テレビで流されなかったのも致し方ないかもしれない。封印されたのではないだろうか。

同じ頃の出来事でも、そしてテレビが大々的に放送したものでも、その後繰り返したかどうかで記憶に残るかどうかが決まる。繰り返すから記憶に残るんだ。

CMもそうなんだ。いまのCMの中ではずば抜けて面白いし流れたら注目する白い犬のお父さん。1回ですべてわかってすべて理解しているわけではない。何度か流すうちに意味も面白さもわかってくるのだ。最初、“今なんて言った?“と思ったり。いきなりはじまってセリフを聞き落としたりするのだ。幸い、犬のお父さんのCMは大量に流れているので、まちがいなく数回視聴する。だから効果がある。

国民すべてが同じ番組を観て気持ちを共有する。それがテレビという装置だ。そんな風に思わない方がいいんじゃないか。そういう装置が日本には必要だ、共同幻想は必要なのだ。いままでずっとそうだったように。という思い込みこそが業界の共同幻想なのではないだろうか。そしてそこから次の時代への何かが生まれるとは思えない。

最近どこかで目にしたフレーズ。“絶望の向こうにほんとうの希望がある“。そっちに真理があると思うんだよなー。

ビデオリサーチフォーラムは、視聴率だけじゃないですよ宣言だった


この12月5日6日と、ビデオリサーチ社のフォーラムが行われた。この会社にはお友達も多いし、最近何かとからむこともあるので、できるだけ見ようと2日間フル参加した。

このブログの読者の皆さんならご存知だろうけど、ビデオリサーチ社は視聴率を日々測定する日本で唯一の調査会社だ。少し前までは米国のニールセン社も日本で視聴率を測定していたのだが、いろいろあって撤退したそうだ。なので、いまは日本で唯一。

そのビデオリサーチ社が50周年を迎えたというので、今回のフォーラムが開催された。つまり、毎年やっているわけではないのだね、このフォーラムは。

2日間、多様なプログラムが組まれ、それをあっちこっち飛び回って聴講した。どれもこれもテレビがテーマなわけで、テレビの未来を考えるぼくとしては大いに勉強になった。それとは別に、2日間みっちり参加することで、今回のフォーラムの特別でスペシャルな意味が見えてきた。つまりこれは、ただの周年イベントではないのだ。もちろん50周年イベントなのだけど、50周年だからなんとなくやったのではなく、50周年だからこそ大きく変えていかなきゃね、次のステップへ踏み出さなきゃね、との宣言だったのだ。

それはつまり、これからは視聴率以外もやっていきますからねー、という宣言。

いや、そうはっきり宣言があったわけではないけど、ひと通り見て行くと、事実上そう宣言しているのだ。そして他ならぬ、日本で唯一視聴率を測定しているビデオリサーチ社がそんな宣言をしたことは、時代がくっきり変わることを意味すると言える。なんだろう、同じ大和朝廷の時代なんだけど、平城京から平安京に遷都したとか、それくらいの“ネクスト“な感じではないかな。

まずタイムシフト視聴。物議を醸すこの話題にも、きっちり切り込む。タイムシフト視聴とは、つまり録画視聴で、この数年レコーダーが便利になって急激に増えているわけだ。誰でも週にひとつやふたつ、録画を予約している番組はあるだろう。でも視聴率測定の範囲外だ。視聴率がCM枠の価値の指標である限り、録画視聴はそのまま加えにくい。でも、視聴率の2次データとして、視聴率は10%でしたが録画視聴は5%の人がしてました、なんてことになったら状況がガラリと変わる。

シンプルに言って、視聴率がいまいちでも録画視聴を加えるとけっこういくじゃん、ってことになれば番組の価値は高まるだろう。CM枠の価値も、上がるはずだ。もちろん、録画視聴ではCMは飛ばされがちだが、それも一定の割合であって、まったく観ないわけではない。ちゃんと調査すると録画でもCMは意外に観られている。そのデータをもっと精度を上げれば、録画視聴も広告価値の一助になるはずだ。

そして、ソーシャル視聴。これについてはすでに10月、ビデオリサーチがTweet件数も測定して出していくとリリースが出て、驚いてぼくもこのブログでとりあげた。この記事は他での転載も含めてけっこう読まれた。当然、ビデオリサーチはこのフォーラムでもTweet件数を発表する前提で物事を語っていた。

あるコマではTwitterJapanの牧野さんや日テレ・メディアデザインセンターの加藤さんのパネルディスカッションが組まれ、日テレの朝番組ZIPの中でモコズキッチンのコーナーになるとTweet件数が跳ね上がることなどが語られた。これはZIPの広告価値を高める効果があると言えるだろう。

2日間のプログラムの中でも、やはり圧巻は初日午後のパネルディスカッションだった。このイベントの総指揮を執るビデオリサーチの尾関さんをモデレーターに、日本テレビの小杉さん、フジテレビの大多さん、そして電通の山本さんにヤフーの川邊さん、ATカーニーの梅澤さんというメンバー。

話はどうしても、テレビマン小杉&大多両氏に対し、ネット側から川邊さん、第三者の立場で梅澤さんがツッコミをいれる、という構図になっていった。

いちばん面白かったのが、タイムシフト視聴の話題。録画視聴をデータで出したら番組がもっと見られているとわかってうれしいのでは?と問われると大多さんが「でもそれで制作者の気持ちが緩んではいけない」とストイックなことを言う。へー、そうなんだ!ちょっと驚いた。

「東京ドームのマウンドで投げてきた経験があるもので」つまり、リアルタイムで30%なんて数字をとって、他のメディアでも騒がれてドラマを作っていた大多さんからすると、そのスポットライトの浴び方こそがテレビマンの真骨頂であり、そこをこそ目指すのがプロのクリエイターだ、ということなのだろう。それはそれでわかるし、プロの矜持としてカッコいいと思う。

一方で、尾関さんが試験的に行った録画視聴の調査データを示し、ドラマはかなり録画されていることがわかった。それを見た大多さんは素直に「おお!そうなんだ!」と驚き喜んでいた。素直だなあ。でも、これも作り手の率直な反応だろう。

そういうテレビマンを、川邊さんや梅澤さんは、やや冷ややかに見ているのも面白かった。へー、どうしてそんなにこだわるのかなあ。そんな感じの態度を二人がとっていた。

最後に電通の山本さんが「テレビはいい方向に向かっている。そう思うことでこそ、いい方向に向かうのだと思う。」とおっしゃって、それも美しい姿勢だなあと思った。思ったけど、なんだろうなあ、結局そこで“守る側”の態度をとるんだなあとも感じた。

“守る側“の態度をとるかどうかは、何か決定的な違いではないかという気がした。同じようにテレビ局にいたり、電通や博報堂などにいる人でも、「テレビはこれから大変だね」と言われて“守る側“で「新しいこともとりこんで、だから大丈夫なんだよ」と結局は悲壮感ただよわせて言う人と、そうじゃない人との間には大きなギャップがある。そうじゃない人、守る側に立たない人がぼくは面白いと思ってしまう。

“守る側“の人たちは、その人自身はあまり変わろうとしていないからだろうな。そうじゃない人は、守る側にいなきゃいけない人のはずなのに攻める側に本能的に立っている。そして、自分自身をまったく変えようとしている。いままで知らなかった自分に出会おうとしている。そういう矛盾しかねない姿がぼくには面白くいてたまらないし、ぼく自身もどんどん自分を変えて生きてきたので、共感してしまうのだろう。

ビデオリサーチはどっちなのか、よくわからない。会社だから“守る側”なのだろうな。でもこのフォーラムからは生まれ変わろうとしているようにも見えた。そこはまあ、これからを見つめていこうかな・・・

テレビのソーシャル化は誰が費用を持つのだろう?

前回の記事「消費に冷めたぼくたちと広告じゃなく共告だってこととソーシャルテレビについて書いてみる」では、このところ書いてきたことの集大成をやろうとして、話が途中で終わってしまっている。まだまだ書くべきことがあるのだけど、うまくまとまりきれてないので、あっちゃこっちゃ話を飛ばし横道にそれながら書き進めてみるよ。

さて、くどいけど11月22日にソーシャルテレビの勉強会の半期報告と称してイベントをやった。何度もここで書いてきたけど、せっかくなのでUst中継の映像をアーカイブで観てくださいな。最後の40分間だけでも見ればとりあえず笑えると思うよ。

そのイベントでは懇親会もやった。その時に、某公共放送の若い人たちと話をした。ソーシャルテレビの勉強会に来るくらいだから、自分たちの番組のTwitterやFacebookにも果敢に取り組んでいる頼もしい若者たちだ。だが彼らは悩みでいっぱい。

テレビ番組のソーシャルメディア活用の中で、実際の作業は誰が担うのだろう。多くの場合、番組のディレクターやプロデューサーといった制作スタッフが担当するようだ。

いまどきどの局にもデジタル部門やコンテンツ部門があって、場合によってはその部門の人たちが担当することもある。けれどもほとんどの場合では、制作スタッフが担っている。

これが、大変なのだそうだ。

まず不思議と、テレビ制作に携わる人たちはアナログ人間が多い。これはほんとうに不思議だ。推察するに、あまりにも日々忙しいために、デジタルガジェットやアプリケーションを試すゆとりがないせいではないかな。とにかく、さほどデジタルツールが得意ではない人が多いのだ。だから、まずTwitterだのFacebookだのをそもそもやってない人が多い。

まあそれでも、なんとかやり方を習得したにしても、さあFacebookページを運営しましょう!と意気込んで実際にやるのは相当大変なのだ。

かく言うぼくも、境塾(SAKAIjyuku)というFacebookページがあるのだけど、ちゃんと運営できていない。このブログを書くので手いっぱい。ブログを書くと勝手にFacebookページで告知するようになっていたのだけど、それがこのところちゃんと働いていなかったようだ。なので、活動してないFacebookページになってしまっている。

Facebookページを運営するなら、チームを編成して誰が何をやるか担当分けをし、何曜日に誰がどんな記事を書き込むか決めないといけない。そしてそれに沿ってコンスタントに投稿していく。できれば写真も添えて投稿したいし、だったら少しでもいい写真を撮りたいし・・・などと言っているとホントに大変だ。

実際には、プロデューサーとディレクターが自分で続けるのはかなりの負担だしかなり無理がある作業となる。ほんとうは、予算か人か、あるいはいっそその両方が必要なのだ。予算つけてもらって、そういう専門のスタッフを組むとか、アルバイトでいいから人をひとりつけてはりつけるとか。指示はプロデューサーが出すにしても、人がいないと厳しいのだ。

でもそんな予算は出てこない。

某公共放送の場合、予算は天変地異でも起こって番組ごとにソーシャル予算が組まれれば別だが、そうでもしない限り大義名分がつかないだろう。

では民放はどうか。これも同じだ。例えばスポンサーに「番組を盛り上げるためにFacebookをやるので、提供料とは別にソーシャル予算をください」と言ったら激怒されるだろう。高い提供料を払わされている上にそんなお金が出せるはずはない。だいたい番組のFacebookページは宣伝活動だろう。番組宣伝は局が自らの責任と予算で行うことで、我々の知ったことではない。まちがいなくそう言われてしまう。そして、確かにそうなのだ。

番組制作の現場は、とくに毎日とか毎週とか放送されるレギュラー番組の現場は常に、“回す“のがそもそも大変なのだ。放送というのは腕によりをかけて作る手の込んだ料理、というわけにはいかない。毎日毎日ルーティン化していく作業の中で素材の選び方や調味料の使い方を定型化して“日々こなせる”状態に持っていかねばならない。そしてそのために手いっぱいの予算や人材しかつかない。つまり、毎日いっぱいいっぱいなのだ。

そんな中でソーシャルメディアをうまく活用するったって、無理。でも予算を誰も余計に払ってはくれない。

ぼくは前回の記事でこの点は能天気に書いている。だが実際に、書いたことを具現化するには、その第一歩で途方に暮れることになるのだ。番組のコミュニティは誰がどうやって運営するの?

ぼくが描いた青写真がうまくいけば、スポンサーがその分を出してくれるかもしれない。でも卵が先か鶏が先かで、まあ先に出してくれることはないだろう。だからと言ってテレビ局として予算をつけようとすれば上司に却下されるに決まっている。

自分で書いたことを自分で机上の空論だと否定しちゃうようなことを書いているね。でもいろんな意味で、ソーシャルテレビには、テレビのソーシャル化には高いハードルが待ちかまえている。

うーん・・・どうやって乗り越えるんだろうね?・・・・・・