消費者って捉え方がそもそも情けなかったんじゃないかな

先週の月曜日に「ぼくたちはどうして消費に冷めてしまったのだろう」と題した記事を書いた。これは、何回かに渡ってこれからのメディアの話とマーケティングの話とを書いていってその先に”ソーシャルテレビ”の意義が浮き出てくるような作戦のつもりだった。だからすぐ次に「広告とは別に共告という概念を考えだした」という記事も書いた。ところが月曜日の方がなんかちょっとだけバズったみたいで怖くなったので続きを書きあぐねていたら一週間経っちゃった。知らない人たちが大勢来るのって怖いんだよね。

でもやっぱり「消費に冷めた」とかネガティブな言い方するとウケるんだなあと思って、月曜日の方を意識して続きを書こうと思う。

”消費”という言葉、そして”消費者”という言葉。考えてみると実になんだか情けない言葉だった。そう思いませんかい?

”消費”は、買って使って捨てちゃう、無為に使っちゃう、そんなイメージがある気がする。どこか”大衆”という言葉にも関係した、十羽ひとからげ的な、無個性的な感じが漂う。ましてや”消費者”ってなんだか受け身だ。なんも考えてなさそうだ。モノを”消す”そして”費やす”人たちなんだから。もうこの言葉自体が、流行とかCMとかに踊らされそうな雰囲気を醸しだしている。

では何と言えばいいのか。うーん、難しいなあ。ただ、概念としてはなんとなくイメージが湧いてくる。

ぼくにとって考えやすいのは、Appleと自分との関係だ。Appleについてはここでは何度も書いてきていて、去年ジョブズが亡くなった時には「製品にメッセージを感じることなんて、もう二度とないんだろうね・・・」と題した記事を書いた。もっと前には「スティーブ・ジョブズというロックンローラー」なんてのも書いている。まあとにかく、Mac大好きでジョブズ崇拝者だ。

十数年も仕事でMacを使い続け、1〜2年に一度ぐらいは何らかの製品を買ってきている。そうすると”ゆるやかなコミュニティにゆるやかに参加している”状態になる。

Mac愛好家は独特のサイトを運営していたりするので、そういうサイトを巡回したりしてきた。ソーシャルメディア登場以前から、ソーシャルなつながりの中を情報収集していたのだ。だからと言ってオフ会に出るとかそこまではやらない。でも、仕事仲間の中でMac情報は常に流通している。なんとなくあいつとあいつからはMac関連の情報が仕入れられる、というのもわかっている。あるいは、自分も情報提供したりする。

そういう”ゆるやかなコミュニティ”の構成員は、多かれ少なかれ、新しい製品は買うのだ。今回の製品を買う。今回は見送るが次のバージョンアップでこんな機能がつくはずだからそれを買う。とにかく、いつかまた買うことは決まっているのだ。

そういう”ゆるやかなコミュニティ”の内側にいる人にはテレビCMは効かない。というか意味がない。

でもそういうコミュニティの外側にいる人にはテレビCMは大きな意味がある。iPadとかいう新しい製品が出たらしい。Macのメーカーらしい。そう言えば境さんがなんか騒いでたよな。今度会ったらどこがいいのか聞いてみよう。

テレビCMは増幅器なのだ。ブースターなのだ。(テレビ=ブースターという話も去年の10月に書いているけどね)だから、無くなりはしない。一定規模を超えた訴求には必要なのだ。ただし、コミュニティ形成があった上でだ。

ブースターによって触発された人びとが、Apple製品を買うと、”ゆるやかなコミュニティ”のはじっこに住民権を得る。少し住んでみて、もともとの住民から声をかけてもらったり、使い方を教えてもらったりする。徐々に溶け込んでいき、その町の歩き方もわかってくる。

そうやって考えていくと、Appleにとって存在するのは”消費者”ではない。消費ではおさまらない。モノを買ったかどうか、そんな捉え方ではなくなってくるだろう。

言わば、”村民”なのだ。Apple村の住民。そこで生きているのだ。仲間も見つけているのだ。日々それを使って暮らしているのだ。

広告じゃなくて共告だと書いた。一方的に商品情報を忍び込ませて送り届けて買ってくれたらはいおしまい。それが広告と消費者の関係だった。共告は消費のためではない。そのブランドと”つきあう”ための活動だ。共告はブランドと”村民”の関係を取り結ぶものであるはずだ。

ああ、Facebookね。つながりでしょ?絆でしょ?エンゲージメントでしょ?

そうなんだけど、そんな簡単じゃないし、Facebookだけではない。ソーシャルメディアの枠組みで済ませてはいけない。それこそテレビのようなマスメディアも含めて、コミュニケーション全体をどうデザインするのか、ということなのだ。

あ、知ってる。仕掛けでしょ?仕組みでしょ?そうなんだけど、それだけでもないよ。仕組みとか仕掛けとかは、結局はキャンペーンになってしまい、短期的に終わりがちだ。でも”村民”はワンクールのキャンペーンの仕組みでは生まれない。

狩猟から農耕へ。これは『テレビは生き残れるのか』の中でぼくが書いたことだ。これまでのコンテンツ制作は狩猟のようだったけど、これからは農耕のようにじっくり取り組みファンを形成するのだ、というようなことを書いた。”村民”も同じだ。農業だ。狩猟ではない。ましてや工業でもない。手近の土地を毎日きちんと耕すことだ。

んー、もうちょっと奥まで踏み込むつもりだったのだけど、ここまでで長くなったし、なんと言っても眠くなったので今日はここまで。また近いうちにね!

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