ソーシャルメディアは、ぼくらとオリンピックの関係を変えようとしている(のかもね)

この18日の土曜日の朝5時から、フジテレビの「新・週刊フジテレビ批評」にちょろっと出演した。

ほぼ一年前、2011年の8月にスタジオ出演していて、この時は『テレビは生き残れるのか』を出した人です、ってんでクリティックトークのコーナーで20分ぐらいしゃべった。メディアストラテジスト(って何だ?)として初出演。その後も何度か、1ウィークトピック(前半の10分程度の特集コーナー)で取材に来ていただいてしゃべったことがあった。そういう場合は30秒〜1分ぐらいVTRで登場するわけ。

18日の放送に向けても、1ウィークトピックでソーシャルオリンピックをとりあげるのでということで、また取材の依頼があったのだ。ソーシャルテレビ推進会議のみなさんと地道に運営しているソーシャルテレビラボの記事も読んでくれていたそうだ。競技でのツイート推移グラフなんか面白がっているそうで。

推進会議の活動の宣伝にもなるしねと、夏休みだったけどフジテレビまで出かけていってVTR取材を受けた。何言ったかわかんないくらいくっちゃべったけど、いろいろ質問されつつ思ったのは、今回のこのソーシャルオリンピックってなんだったのかなーと。意外にそこ、わかってないなあ、おれ。

さて放送を観たのだけど、「ソーシャルオリンピックその成果と課題」と題しての1ウィークトピック、これがなかなかよくまとまっていて、ぼくにとっても良い振り返りの機会となった。ぼくにインタビューした時には、どうまとめたものか頭抱えてます、とスタッフの方は言ってたけど、さすがだなあ、ホントによくまとまってましたよ!

10分ほどのコーナーの内容をかいつまんで書いてみよう。

今回のオリンピックはIOCが選手のソーシャルメディア活用を推奨していたこともあり、たくさんの選手、そして企業がTwitterやFacebookを使った。だからこそ、世界的にも”ソーシャルオリンピック”と呼ばれた初めての大会となった。何しろ、北京オリンピックの頃にTwitterやFacebookをやってる人なんて、ITに詳しいごく少数の人びとだったのが、いまや世界で何億人もユーザーがいるのだからね。

日本選手293人の中でも26%にあたる77人がTwitterを使っており、Facebookで発信している人も6人いたそうだ。大会期間中、各選手のフォロワー数はぐいぐい増加し、競泳の北島康介選手はもともと8万人のフォロワー数が15万人と倍に増えたという。

アジャイルメディアネットワークを率いる徳力さんがやはりインタビュー映像で登場し、いちばん重要なのは選手によるTwitter活用だと思う、と述べていた。確かに、ソーシャルテレビがどうのと言う前に、ここは注目すべきポイントだ。マスメディアを通してしか接することのできなかった選手の生の声が届く。北島康介選手なんか、あのキャラそのままに気さくなコメントをTwitterで発信するから好感が持てるし、個人でメダルが取れなかったあと、メドレーで頑張るんだとつぶやいているのを観れば、応援にもさらに力が入るというものだろう。

Twitterがある意味、選手とぼくたちの関係を変えようとしているのだ。

一方、テレビ視聴との関係はどうだろう。視聴率は意外にも、ここ数回のオリンピックの中でもいちばん低かったそうだ。時差がほとんどなかった北京オリンピックより視聴率が下がったのは当然としても、アテネ大会と比べても1〜2%下がっている。これについてはいろんなことが言えるが、ただとにかく、ソーシャルオリンピックによって視聴率がめきめき上がるわけではないということかもしれない。少なくとも”まだ”ね。

ただ、BIGLOBEの調査では、オリンピック期間中の日本からの深夜のツイート数が25%程度上がったそうだ。どう見ても、オリンピックをテレビで観ながらつぶやいているわけで、今回のオリンピックでソーシャルテレビを楽しんだ人はかなり多かったとは言える。

ただまあ、全体にもやもやとしたことしか言えないのも事実。「2012年、ロンドンオリンピックによってソーシャルテレビはこうなった!」と明確なデータをもとに何かを言えるわけではないね。

だけど、自然と起こったことから、今後こうなるんだろうなという予兆的なことはある。それは、テレビと選手とぼくらと、そしてひょっとしたら”国家”というものの関係が変わっていくんじゃないか、ということ。

話は変わるけど、『ALWAYS 三丁目の夕日』の三作目『’64』は東京オリンピックが重要なモチーフとして登場する。そして鈴木オートのお茶の間にカラーテレビがやってくる。届いたばかりのカラーテレビでオリンピックの開会式を観ていると、ブルーインパルスが空に美しい五輪を描く。気づくと、飛行機の爆音が外から聞こえる。慌ててほんものの空を見上げると、ブルーインパルスが上空を駆け抜けていく。

ぼくはこのシーン、テレビとぼくたちの関係を物語る象徴的な場面だと思う。鈴木家は東京にいるのだからオリンピックはすぐそこでやっている。でも、テレビの箱の中で行われている出来事なのだ。テレビで観たあとで、これが現実に行われていることに気づく。

戦後の日本はテレビという不思議の箱の中にある不思議の国だったのではないだろうか。

ソーシャルメディアが変えようとしているのはそこなのかもしれない。オリンピックへの直接的な接続経路をソーシャルメディアが促してくれる。オリンピックという存在がテレビとソーシャルと2つの経路でつながることによって、テレビの箱の中から外へ飛びだすのだ。映像が3D化されるように、”立体的”になる。テレビ放送で、アナウンサーがマイクを向けて「いま、どんなお気持ちですか?」「この勝利も応援してくれている皆さんのおかげです」というステロタイプにしか見えてこなかった個々の選手たちの気持ちに”ライブで”ふれることができる。

テレビ放送がダメになる、存在意味がなくなる、ということでは決してない。むしろ、オフィシャルな映像と、オフィシャルなコメントを提供してくれる最重要なメディアだ。ただ、ぼくたちにはこれまで、カメラの裏がのぞけなかった。そういう選択肢はなかった。ソーシャルメディアがその選択肢をくれようとしている。若々しい選手たちは、オフィシャルなコメントのあとで、友達に語るように気持ちを吐露してくれるだろう。その本音を踏まえると、放送でのインタビューもステロタイプから進化できるかもしれない。昨日Twitterでこんなことおっしゃってましたね!えー!こっそり書いたつもりなのに・・あれはですねえ・・・テレビの上でもそんな化学反応が起こるかもしれない。ソーシャルメディアによって、テレビ自体も、自身が持つコードから解放されるのかもしれないのだ。

そして、オリンピックとは国家の祭典だ。一方、テレビは国家と何らかの関わりを持たざるをえない存在だ。(少なくとも電波の割当は政府が決めるものだ)オリンピックという国家を代表するスポーツ選手たちの競技を、テレビという国家が許認可を出すメディア事業が、その国家に属する人びと(=国民)に伝える、盛り上げる。そういう構造だった。

そこにソーシャルメディアが加わることで、選手・テレビ・国民それぞれに対し国家が(意図せずとも)めぐらせていた鎖のようなものがだらだらと、ずるずると、ほどけていってしまう。そうならざるをえない。”そうならざるをえない変化”をもたらすのがソーシャルメディアなのだが、オリンピックではまさにそうなんじゃないかと思う。

結局、言ってることがもやもやしているなー。このあたりは別の機会にもう少し骨組みを強くして書いてみたい。けど今日はもう眠いからここまでね・・・

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