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コピーライター→映像製作会社ロボット→広告代理店ビデオプロモーション→再びコピーライター(フリーランス)。 メディアとコンテンツの未来を切り拓くコミュニケーションをデザインします。講演・執筆依頼もお気軽に!

8月4日の日経朝刊の記事への補足(というか言い訳的に視聴率とソーシャルメディアの関係について)

今朝(8月4日)の日本経済新聞の朝刊に「五輪応援 つぶやき盛況」と見出しを打った記事が出た。その中でぼくのコメントがとりあげられている。3日の夕方、電話で取材を受けたのだ。

なでしこジャパンの試合中継についてソーシャルテレビラボで書いた記事を読んでくれたらしい。(読んだのは、その記事を転載してもらったin the looopのこっちの記事の方かもしれないけどね)

取材では、視聴率とソーシャルメディアの関係をとくに聞かれた。でもこれに関しては何ら論証的なデータはない。プラスに働いているだろうとは思うが、何しろ視聴率に影響を及ぼすには何百万人も動かさないといけない。ソーシャルメディアはそこまでは育っていないのではないか。視聴率に影響するにしてもせいぜい1%いくかいかないか、と肌感覚的に思っているが。だいたいそんなことを答えたつもりだ。

これを受けて、記事では「境治氏は・・・(中略)・・・結果として視聴率が1%前後かさ上げされたとする」と書かれている。

うーん・・・ウソを書いているわけではない。1%という数字を確かにぼくは言ったのだ。ところが前後の文脈はまったくなく、”せいぜい”とか”いくかいかないか”とかはなくなっている。ニュアンスはけっこうちがうんだけどなあ・・・

まあ、でも、とりあげてくれたのはうれしいし、また取材してくれるとも言ってくれているので、怒ったり恨んだりはしてないけどね。今後はもうちょっと慎重にしゃべろうかな。

それにそれこそソーシャルの時代、取材された記事で誤解が生じそうだったら、ブログで補足すればいいじゃん!

で、まずソーシャルメディアが視聴率を上げたとか上げているとか、論証できるデータはない。それにそもそも、あからさまな影響を与えるには動かすべき人数があまりにも大きい。日本の世帯数が5000万程度として、1%動かすには50万世帯のテレビ受像機をなんとかしなければならない。

一方、去年12月に話題になった”バルス事件”だって、ツイッターの秒ごとのツイート数が記録を更新したが2万8千とかそんなレベルだ。ツイート数から見える人数では視聴率は動かせないのではないか。少なくとも、ソーシャルメディアがもっと普及しないと難しいだろう。アメリカだと3億人のうち半分ぐらいがFacebookをやっている。それくらいだと具体的な影響がありそうだ。日本だとツイッターもFacebookも1000万人台で、まだまだだと思う。

それから、そのバルス事件が起きた『天空の城ラピュタ』。その時の視聴率が15.9%だったんだって、すごいじゃん、と言われたものだけど、2009年に放送された時は15.4%だった。0.5%のアップ・・・それってどうなの?

もうひとつ、NHK大河ドラマの『平清盛』。視聴率がさえないねと言われている中、6月17日の放送で”生清盛”という企画を行った。プロデューサーの方が放送中にドラマのシーンに合わせた解説をツイートするというもので、途中に相撲の場面がありみんな一斉に”どすこい!”とつぶやく盛り上りもあった。

さて視聴率はどうだったか。前の週は11.6%だったのが、”生清盛”の時は12.1%だった。翌週は普通に放送して10.1%だったがさらにその翌週は13.2%に上がっていた。・・・全然わかんないでしょ?影響あったかもしれないしなかったかもしれない。翌々週の13.2%はツイッターはまったく関係ないし。でも生清盛は効果あったかもしれない。

一方で、某テレビ局の某ディレクターはユニークな人物で、フォロワー数が12万人いる。彼は番組中にツイッターで活発につぶやいたら視聴率に影響を与えた”肌感覚”があるそうだ。ある人に聞いたのだが、10万人を超えるアカウントはマスマーケティング上の影響を持ちはじめるという。

また、視聴率と世代の関係も見逃せない。誰でも知ってる通り、日本は急速に高齢化が進んでいる。人口ピラミッドと視聴率でのセグメント分類を重ね合わせると面白いというかせちがらい。
深田さん、勝手に使ってすんまそん
F2F3、M2M3つまり35歳以上がいかに大きな層かよくわかる。一方ツイッターは20代30代つまりF1M1が中心だ。ツイッターがいかに盛り上がっても、視聴率を動かす際にはいかに小さな領域に限られてしまうかがよくわかるだろう。

ことほどさように、視聴率とソーシャルメディアの関係は見出しづらい。あからさまには影響は出てこないのかもしれない。

ただ、ぼくがソーシャルとテレビの関連に見つけたいのは、視聴率をかさ上げすること、ではないのだ。それとはちがう価値が、ソーシャルテレビには出てくると思っている。その方がよほど、視聴率より価値があるはずだと思うんだけどな・・・

はじめてのソーシャルオリンピック、はじまる!

ロンドンオリンピックが始まった。今回のオリンピックはメディアとの関係上、歴史に残る転換点となりそうだ。ソーシャルメディアが十分に普及して初めて迎えるオリンピックだからだ。そしてメディアとオリンピックは重要な相関性を持って発展してきた。

思い返してみれば、前回の北京オリンピックの頃、2008年。少なくともぼくはTwitterもFacebookもやってなかった。mixiはあまりハマらずに遠ざかっていたし、YouTubeも話題になった時に観る程度。ブログだけはgooブログ上でこつこつ、こっそり書き続けていたが。

そっか、2008年と言えば9月にリーマンショックが起こったんだな。そしてその前の8月には、業界各社の第一四半期が出て、何か大変なことが起こりそうだとブログにも書いていた頃だ。その後の兆候はあったものの、まだどこかのどかだったなあ。

さて今回のオリンピックは世界中でソーシャルメディアが普及して迎える。これをソーシャリンピックと呼ぶ人もいる。日本人のテキトーな造語ではなく、英語としての造語らしい。どれくらい一般的かは知らないけど。

ソーシャルテレビ推進会議として集まっているみなさんとソーシャルテレビラボというサイトを起ち上げている。ぼくらはこの”ソーシャリンピック”の機会に、ソーシャルテレビに関する調査研究を行っているのだ。その成果を少しずつ、ソーシャルテレビラボ上で発表していく。

まずは開会前、25日深夜のなでしこジャパンの1次リーグ初戦でのツイートの推移をグラフ化してレポートを作成してみた。サッカーの試合独特のツイートの動きが見て取れる。

続いて、28日早朝午前5時からはじまった開会式でのツイートの推移も追ってみている。こちらも、ベッカムやMr.ビーンなど人気者登場時に盛り上がることがよくわかるグラフになった。

こうした各競技のツイート推移を今後、いくつか注目の競技でやってみる。それから、全体をもう少し掘り込んだ分析をしてみる。こちらは全日程終了後、少し時間をかけてやってみるつもりだ。

先日の「新・週刊フジテレビ批評」でも(いつもながらタイムリーに)とりあげていたが、メディアの進化とオリンピックは強く関係してきた。とくにテレビはオリンピックのたびに技術が進歩し、人びとを惹きつける大きな題材にしてきた。

ヒット映画シリーズ『ALWAYS 三丁目の夕日』の最新作『’64』では東京オリンピックが重要なモチーフとして描かれる。三丁目商店街でちょっとだけ進んでる鈴木オートはテレビの導入も早かったが、東京オリンピックにあたってカラーテレビを購入した。これは非常に象徴的なエピソードだと思う。

第一作では東京タワーが完成し、日本が力強く発展する予感が充ち満ちていた。それが三作目の『’64』では東京オリンピックをカラーテレビで観ることで、大きな達成感に包まれるのだ。テレビで青い空に白い軌跡を描くブルーインパルスを見つめている時、外に出てほんものの空を見上げるとさっきまでブラウン管の中を飛んでいた編隊が駆け抜けていく!

テレビは日本というコミュニティの発展を予告してきたのだが、その典型的な瞬間が東京オリンピックの放送だったのだろう。

そして多様な競技が各種行われるオリンピックは、テレビ放送の醍醐味が凝縮されている。あっちこっちのチャンネルを切り替えて、サッカーを観たり陸上競技を観たり、中継のないチャンネルでもメダルを取った選手のインタビューが放送されていたりと、テレビ中がオリンピックだらけになるのだ。家にいながらにしてスポーツエンタテイメントの粋を多彩に楽しめる!

それがこの夏は、ソーシャルも加わる。いやソーシャルだけではない。ネット配信もあるし、アプリもいろいろ出ている。マルチデバイス、ソーシャル化、アプリ化と、いまのメディア状況の最先端をフルに楽しめるのだ。

オリンピックの視聴は、次のメディアを考える格好の場ともなる。ソーシャルテレビラボのレポートと併せて、みなさん一緒に考えていこうじゃありませんか!

偉大なるセルフパトロン、原信太郎!〜原鉄道模型博物館に行ってみた〜

月曜日は夏休みをとった。子供たちはもう、どこかに行こうと誘っても部活だ講習だと忙しいので相手をしてもらえない。そこで、美術館をハシゴするつもりだったのだけど、月曜日はどこも休館日だった。それくらい休みをとる前に調べとけよ、おれ。

困ったなーと逡巡するうち、ニュースで鉄道模型の博物館ができたと言ってたのを思い出し、ちょっと行ってみようかと、そんな軽い気持ちで行ってみることにした。

この7月10日に開館した、原鉄道模型博物館。横浜のみなとみらいの一角にあるという。ニュースで言ってたのは、原さんというおじいちゃんがコツコツ作ってきた鉄道模型を展示しているということ。映像で、ジオラマが出てきて、これはなかなかクオリティが高そうだと感じた。

でもね、そもそも鉄道には興味ないのね。模型には少年時代にちょっとハマって、タミヤの戦車や装甲車を買ってきて、兵隊のフィギュアとともに色も塗ってみたりはした。でも根がそういう、細かなビジュアルへの努力をしない方なので、ハマったわりには大したレベルには至らなかった。だから、模型づくりの大変さは知っている。

行ってみたら驚いた。ものすごくびっくりした。

ひとつひとつ、信じられないクオリティの高さ。いったいひとりで、どうしてこんな精密な模型が作れるのか。しかも、キットを買って作ったのではなく、すべて部品から自分で作り上げているのだ。そんなことが、できるものなのだろうか。

ひとつひとつ目がくらむような精密な模型が、目が回るほど大量にあるのだ。ひとりの人間が、生涯かけたにしても、ここまでの質と量を達成できるものなのか。

原信太郎氏は、大正生まれの93歳。子供の頃から鉄道好きで、模型も小学生の頃から作りはじめたそうだ。それから80数年間、ずーっと鉄道模型を作り続けてきた。

しかも!仕事は鉄道とは直接関係なく、事務用品メーカー、コクヨに勤めていた。ちゃんと仕事上でもいろいろ功績があって専務にまでなったそうだ。その方面でも発明や開発もいっぱいあって特許も数多く取得している。

サラリーマンとしても十二分に働きながら、それとはまったく別に模型を作り続けた。なんか、すごいよこのおじいちゃん!

実際、サラリーマン時代も世界中を毎年旅して、その土地の鉄道を見て回ったそうだ。働きながらもちゃんと休暇をとって、鉄道の情報を仕入れて回り、それを模型で形にする。

模型づくりにはまたこだわりがいっぱいある。こだわりだらけ。本物の鉄道はほぼ鉄が使われる。鉄道模型は真鍮など切ったり曲げたりしやすい素材を使うのが普通なのに、原さんは鉄にこだわる。買ってきた模型でもわざわざ鉄の部品を自分で作って取り換えたりするそうだ。鉄じゃないと、質感とか音がほんものとちがってしまうのだと。

原さんの鉄道模型の電源は、本物同様パンタグラフを伝わって集電する仕組みなのだそうだ。これも原さんオリジナル。ちゃんと架線を通して電気を集電するように自分で作り込む。

展示に書いてあるそういう解説を読んでいくと、しまいには笑ってしまう。うひゃひゃひゃひゃ。そんな馬鹿なこと、やってのけてきたんだ、このおじいちゃん!ひゃっひゃっひゃ!笑うしかない!

昨日書いた「ミュージシャンはもう神様じゃないのかもしれない」という記事と結びつけると考え込んでしまう。原さんにとっては、プロとかアマとか、そんな区分は無意味なのかもしれない。ただひたすら、情熱の対象がある、だからやりたいことをやる。そんなことでしかないのだろう。

原さんにもし「音楽や映像制作が産業として危機なんです、そしたらプロの表現者が食べていけなくなるかもしれないんです」なんてことを訴えたらなんて言うだろう。想像するに「それは大変だねえ、でも音楽や映像が作りたいなら、作るしかないよねえ」そんなことを言うのではないだろうか。鉄道模型づくりが”表現”として扱われず、”鉄道模型クリエイター”なんていう職種が存在しなかっただけで、原さんはやっぱり”何かを表現してきた人”だと言えるし、そこでは職種があるかどうかはほとんど意味を持たないんじゃないか。

境塾でゲストにお招きした小寺信良さんが”セルフパトロン”という言葉を使った話を書いた。原さんはまさしく、セルフパトロンの体現者だ。しかも自分の活動費を稼ぐ仕事でもすごい業績を持つ。スーパーセルフパトロンと言えるかもしれない。

そんな見方も含めて、この博物館は面白い。この夏、ひとりでやることなかったら、行ってみるといいかもよ!

スマートTVとサマーウォーズとJoinTVと中島聡さんの話

今朝書いた記事に続いて本日2回目の記事だよ。あんまりやらないんだけど。

ケーブルテレビコンベンションという催しが大手町サンケイプラザで先週の水木と行われたので見に行った。KDDIが開発したスマートTVボックスが主目的。これはなかなかよくできていた。少なくともスマートTVと言える日本製の製品は初めて見たんじゃないだろうか。最初の画面でいきなり放送が映るのではなく、テレビを選ぶかアプリを選ぶか、というインターフェイスは新鮮だった。

ぼくは展示会場だけしか見なかったが、講演などもあったようだ。で、”Life is beautiful”というブログで有名な中島聡さんも講演していたとあとで知った。知ったのは、そのブログに中島さんが書いてらしたからだ。なんと、「セットトップボックスにAndroidを載せれば何とかなる、なんてとんだ勘違い。そんな甘い考え方でいたらケーブル業界は必ず負ける」と言っちゃったのだそうだ。中島さんの前にKDDIがAndroid搭載のスマートTVボックスの説明をしたのだそうで、直後にKDDIの最新兵器を否定した格好だったと。

そのブログを読んだ土曜日、ある会社の研修で講演してくれと言われて行った。講演者は二人で、もうひとりがその中島さんだった。2年ぐらい前に一度お会いしているのだが、あらためて名刺を交換。さっそくブログでケーブルテレビコンベンションのこと書いてらっしゃいましたねと、今朝読んだばかりのことを話した。

他にもいろいろ話した。中島さんは基本的にアメリカ在住で、日本には用事がある時、年に3〜4回来るそうだ。だから日本のメディアの最新事情はあまりご存知ない。

テレビとソーシャルの話になったので、日本でもこのところそういう動きが活発なんですよと、JoinTVの話をした。金曜日の夜の金曜ロードショー『サマーウォーズ』でもJoinTVとの連携があったんですと、iPhoneで撮った写真をお見せした。

こんな風に、データ放送画面にFacebookのお友達が出てくるんです。そう言うと中島さんは「えー!こんなことできるんですか。これって初めてですよね」と感心してらした。中島さんはブロガーとして有名だがその前に実績あるITエンジニアだ。その中島さんが感心したんだから、なかなか大したことなんじゃないかな?・・・って別にぼくが開発したわけじゃないけど、ソーシャルテレビ推進会議なんてことやってて、JoinTVの仕掛け人、日テレの安藤さんもよく知っているので、中島さんに自分も褒められたような気分だった。

で、金曜日に行われたその『サマーウォーズ』でのJoinTVの連携の試み。ぼくも参加したわけだけど、実はJoinするまでにけっこう時間がかかってしまった。JoinTVとFacebookのやりとりの制御の問題があったようだ。ログインできないよおー、とFacebook上で叫んでいたら安藤さんが「いじったんだけど、どお?」と聞いてきてくれた。で、ジョインできたというわけ。別にぼくのために、ということでもなく、ログインできない人がけっこういたから調節してくれたということね。

ジョインしたら、Facebook上のお友達と映画についてやりとりしたり、途中で出てくるクイズを話しながら考えたりして、かなり楽しめた。クライマックスで主人公が「よろしくお願いしまぁぁぁす!」と叫ぶのだけど、その時もJoinTVで「皆さんご一緒に」的な促しもあった。もちろんぼくも一緒に叫んだよ。

というわけで、前半でジョインできなかったことも含めてぼくは楽しかったのだけど、川田さんという方のブログで、けっこう批判的な記事が書かれていた。AR三兄弟のひとりでもある川田さんのブログということで、けっこうバズっていたようだ。JoinTVの応援者としてはちょっと残念。記事の中でJoinTVのユーザー数が出てくるけど、これはまちがいではないかな?というか、ユーザー数はとくに発表してないはずなんだけど。

まあでも、記事の中の批判点はおっしゃる通りでもあったりする。LANケーブルさしてないとダメだしとか、ジョインするまでの段取りとか、ややこしいと言えばややこしいかも。ただ、後半で書かれている、作品との結びつきは少なくともぼくは気にしなかった。というのは、ぼくはこの作品を劇場で見て、テレビ放映でも見ている、つまり2回見ているから。JoinTVもそういう人の前提でいたんじゃないかな。まあ、そう標榜していたわけじゃないけどさ。

という、このところ起こったことを書いただけの、ほんとに日記みたいな記事だけど、それぞれが少しずつ関係していて面白いので書いちゃった。

ところで、中島さんが今朝のぼくの記事を読んで、呼応した内容の記事を書いてくださった。なんだか光栄!ぜひ併せて読んでみてくださいな!

ミュージシャンはもう、神様じゃないのかもしれない

自分が出て以来、毎週観ている『新・週刊フジテレビ批評』。メディアとコンテンツの未来を考えているぼくにとって、いつもタイムリーな話題を取り上げタイムリーなゲストを招いてくれる貴重なテレビ番組だ。で、先週土曜日、7月21日の放送ではゲストに佐久間正英氏が登場して、おっタイムリー!と思った。

佐久間氏といえば先月、「音楽家が音楽を諦める時」というブログがものすごく話題になった、あの佐久間氏だ。この記事は共感も呼んだけど誤解を含めての批判も出てきていわゆる賛否両論状態になった。それを受けてBLOGOSでインタビュー記事が出たり、しばらく話題が続いた。その佐久間氏がゲストで、さらにコメンテイターが津田大介氏だったので、”違法ダウンロード罰則化”問題も含めてホットな出演となった。

もともとの記事は、アルバム制作には1200〜1500万円はかかるのに、CDが売れなくなってきたからそんな制作費をかけられなくなってしまった、もう音楽家は音楽制作を諦めるかなあ、というもの。日付にA.M.4:00とあり、ほんとに深夜に書いた独り言だったのだろう。

テレビで語る佐久間氏は、そういう状況をただ嘆いているわけでもなく、ネットによってレコード会社などに頼らなくても音楽を送り届けられるようになったのはいいことだとも言っていた。お金をかけないと制作できない音楽もあるけど、お金をかけなくてもつくれる音楽だってあるんだ。

ところで、佐久間正英氏はJUDY&MARYなどのプロデューサーだと紹介されるが、その前に佐久間氏と言えば四人囃子だ。

四人囃子。そういう名前のロックバンドが70年代にあったのだ。佐久間氏はそのメンバーでベース担当だった。

70年代後半のロック少年だったぼくは、高校時代、何をしていたかと言えばひたすらロックだった。ギターこそがぼくだった。

同級生たちと組んだバンドで練習したのはディープパープル。グランドファンク。フリー。バッドカンパニー。キッス。難しいけどクイーン。そして日本のロックバンド、クリエイションに四人囃子。

クリエイションがストレートなブルースロックだったのに対し、四人囃子はプログレだった。コード進行も難しいし、曲の展開も複雑だ。先輩たちが「おまつり」を得意なレパートリーにしていて憧れたものだ。ぼくらにはちょっと無理だなあ、みたいな。

その頃はギターを弾ける人間自体が少なかった。楽譜も十分にはなくて、カセットテープで何度も何度も巻き戻して耳でコピーしていた。この音はどうやって出してるんだろう。雑誌で読んだりFMラジオでミュージシャンがゲストで出ると聴き入ったりした。

ミュージシャンは神様だった。佐久間正英も森園勝敏も竹田和夫もCharもクラプトンもキース・リチャーズも、みんな神様だと思っていた。

それは30年以上前の話だ。

最近、よく思うのだけど、ぼくがロック少年だった30年前と、いまと、ギターが弾ける人の数はどれくらい増えたんだろう。仮に高校一年生になったらそのうちの十万人がギターを弾くようになるとしよう。ギター高校生の歴史はぼくの10年前、つまり40年前からはじまったと仮定する。

すると、30年前は100万人。それが、いまや300万人増えて400万人になっていることになる。4倍だ。

いま大学の文化祭なんかで若い人のバンドを見ると、自分たちの頃よりずっと上手いので驚く。なーんでそんなに上手いんだか。30年前より格段に情報が得やすくなっているとか、いろいろあるんだろうけど、すそ野が広がって全体のレベルが上がっているのだと思う。

そしてそれは音楽だけではないのだ。あらゆる分野の創造力、表現力が上がっている。日本人は史上稀なコンテンツ文化の民主化を引き起こしたのだ。誰だってクリエイターなのだ、今や。

佐久間氏のブログが論争になった時、それを批判する若い人のブログ記事がこれまた話題になった。ぼくからすると、神様にモンク言うなんて恐れ多い!でも彼からすると、ただのおっさんにしか見えないのだろう。神様と崇めているぼくは馬鹿にされてしまうかもしれない。

マスメディアが育んできたコンテンツ文化は、いまやそういう状況なのだ。これは想定外なのだと思う。メディア上で活躍する表現者は特別な人で、神様と崇めるべき存在で、だからその創造物は大事にしなきゃいけないから著作権を厳しくしなきゃ。これまでのコンテンツ文化が想定していたのはそういう構図だ。でも、もはやちがうのだ。ぼくにとって四人囃子の佐久間氏はいまでも神様だが、思い切り俯瞰からみるともはや、ミュージシャンは神様ではなくなってしまったのだ。だってそこいら中に無名のミュージシャンがいて、びっくりするほどレベルが高いのだ。そうした神様は神様ぶらずに平気でニコニコ動画で自分の作った楽曲をオープンにしてしまうのだから。

それくらい、成熟してしまったのだ。こんなに成熟した状態は誰もイメージできてなかった。例えばクラプトンやキース・リチャーズはもうそろそろ70歳だ。・・・70歳?!ロックンロールはそんな老人が演奏することを前提にしていただろうか?想定外じゃないか?!

表現者は、もう神様なんかじゃない。そういう前提ですべてを組み直す必要があるのだと思う。そしてそれはちょっと夜中に独り言で愚痴りたくなることではあるけど、決して悪いことでもないんじゃないかな・・・

セルフパトロンがありえる時代〜7月15日境塾「デジタル時代の著作権」をプレビューする〜

この連休の中日、7月15日に久々にデジタルハリウッドの教室をお借りしての境塾を開催した。何度も書いてきた通り、コラムニストの小寺信良さんと、弁護士の四宮隆史さんをパネラーに、「デジタル時代の著作権」をテーマにしたパネルディスカッション。Ust配信もしたのだけど、まだアーカイブになってないので、ここでカンタンにプレビューしておこうと思う。

今回、こういう催しにしようと思ったきっかけが、MIAUによる「違法ダウンロード罰則化についての議員向け反対声明」の発表だった。小寺さんは、あの津田大介氏とともにインターネットユーザー協会、略称MIAUを設立した人だ。そのMIAUが特別な声明を発表したのだから、注目せざるをえない。小寺さんと去年お会いした時から、著作権をテーマに勉強会にお招きしたいと考えていたので、格好のきっかけとなったのだった。

四宮さんとも去年知りあっていた。まったく別経由での知人ともつながっていた縁もあり、やはり勉強会にお招きしたいと考えていたのだ。いわゆるエンタテイメントロイヤー、映画やテレビ、音楽などの分野に強い弁護士だ。ぼくが重要だと思っているのが、もともとはNHKで番組制作をしていた経歴。作り手の現場を肌で知っている、数少ない弁護士ということだ。

お二人をお招きして、違法ダウンロード罰則化の話から、今後の著作権のあるべき姿を議論してみたい、というのが今回の趣旨。

まず最初はMIAUがなぜ違法ダウンロード罰則化に反対声明を出したのか。もっとも重要なのは、議論もせずに拙速に決めようとしていたことだ。

例えば、今回の改正のポイントがあらかじめ文科省のサイトで示されていたのだが、そこには「違法ダウンロード罰則化」は入っていなかった。つまりかなり土壇場になって改正案に加わったのだ。自民党と公明党、つまり野党側から出てきた改正案で、ドタバタと法案に加わったのはどうも消費税増税案とバーター的に取り扱われたのではないか、とあくまで推測だが考えたくもなる。著作権の改正とは、国政の中でそれくらい小さく扱われているということかもしれない。

罰則化の内容もかなり大ざっぱで、懲役2年以内もしくは罰金200万円以内、というもの。一曲あたりせいぜい数百円の音楽ダウンロード価格からすると重すぎないだろうか。ダウンロードしちゃうのは未成年が多いので、法律の運用によっては子供たちが手痛い罰を受けかねない。

また小寺さんによれば、罰則化を先行させたいくつかの国ではかなり混乱したそうだ。ほんとに未成年がどんどん訴えられたり、あるいは大量の訴えが出てきて結局は運用できない状態になったり。

MIAUの主張はあくまで「もっと議論が必要」というもので、罰則化にやみくもに反対しているわけではない。

というような話から、次に、そもそも著作権とはどういう法律なのかという議論に進んでいった。著作権法には、財産権の側面と、著作者の人格を守る側面とがある。財産権は譲渡も可能で、複製権などビジネス的な権利だ。人格権は著作者が作品を守ることを主張できる権利で譲渡できない。四宮さんによれば、財産権は英米法の影響、人格権は大陸法の影響を受けてのもので、日本の法律はだいたい両方の影響で作られている。著作権はその典型のようだ。

もうひとつ、著作者隣接権というのもある。著作者本人ではなく、著作物を頒布する立場の者が主張できる権利。音楽におけるレコード会社や放送におけるテレビ局のような存在だ。

著作権法をどうするかの議論では、もっぱら財産権もしくは隣接権を持つ事業者が出てきて、著作者本人の声があまり聞こえてこない。それでどうしても、そういった事業者の”既得権益”を守る方向に議論が進みがちなのだ。

著作権の話がわかりにくく、また議論が込み入ってしまいがちなのは、著作権にはこうしたいくつかの側面があり、またとにかくひたすら”守るとトクする、守らないと損する”という思い込みが先行する傾向が強いからではないだろうか。

最後に、これからの著作権の姿についての議論に進んだ。これは一口には言いがたいわけだが、要するにいまの著作権法はこれまでのビジネスの枠組みをベースにできている。そこを今後どうするかであり、それはつまり今後のコンテンツビジネスがどうなっていくのか、ということだろう。

お二人とも大きな方向としては非常に近いことをおっしゃっていたと思う。ひたすら守るという姿勢では何も生まれない、ダメになってしまうだけだということだ。パッケージされたメディアに、あるいは放送のようなマスメディアに、コンテンツを複製して大量に売る、そういうやり方自体がいま大きな転換点を迎えようとしているのに、いまの著作権法はそういった旧来型ビジネスを守る構造にしかなっていない。新しい方向へ促すような考え方が著作権法には必要なのだろう。

最後の最後に小寺さんがおっしゃったことがすごく重要だと思った。例えばニコニコ動画にはアマチュアの若者たちが音楽や映像をみんなで共有する前提であげている。いわゆるCGMだ。そのクオリティはビックリするほど高い。お金を出してプロのコンテンツをパッケージで購入しなくても、音楽や映像を楽しみたい人はニコ動に行けば十分楽しめるのだ。これはぼくの子供たちを見ていると、ホントにそうなのでぼくは実感している。娘がピアノですごく難しい曲を練習しているのでそれは誰の曲か聴いたら、ニコ動で流行っている曲で作者は知らない、と平然と言うのだ。その曲はホントに素晴らしい曲なのだ。

小寺さんが主張するのは、これからプロの表現者は、そうしたアマチュアの表現者との勝負を迫られるし、ユーザーもそういう楽しみ方を好むようになっている。かなり厳しい戦いになるだろうから、そこを乗り越えねばならないだろう、というのだ。

考えてみると、ぼくたちはかなり特殊な時代を過ごしてきたのかもしれないのだ。ほんの二百年ほど前までは、”プロの表現者”なんてすごく数は少なかっただろう。王様や殿様に気に入られてパトロンになってもらうとか、そういう”めしの食い方”しかなかった。ほんとにごく少数の、相当な才能と運がある人だけだったはずだ。

それが、もはや誰でも表現者だし、とくに日本のレベルはとてつもなく高くなった。こんな国はどうやら日本だけなのだ。

そしたら別にプロにならなくてもいいのかもしれない。自分の食いぶちは何か別の仕事で稼いでなんとかし、その代わり表現は自分の好きなことを自分の好きなように行う。それをネットで発表して何千人かが評価してくれれば、そんな素敵なことはないだろう。食うために不本意な表現をして悩み苦しむよりずっと健全だとも言える。

小寺さんは、そういう状態を”セルフパトロン”と称した。昔は王様がパトロンになって芸術を支えた。いまは自分が自分のパトロンになれる。それはありだし、素晴らしいことではないか。

概念としてこの”セルフパトロン”は面白い。そして佐々木俊尚さんが「電子書籍の衝撃」など一連の書籍に書いていたことともかなり近いと思う。

表現とはちと呼べないが、ぼくがブログでこうして書きたいことを書いたり、境塾と称してパネルディスカッションを催すのも、少し近いのかもしれない。別にお金になるわけでもないが、仕事として文章を書くよりずっと気持ちいい。

日本が特殊な”表現者の国”になったことと、”セルフパトロン”的な活動形態については、今後も考えていこうと思う。表現活動をする人とは、お金になるならないとは別にどうしても何か表現をしないとやってられないというか、生きていけないというか、そういう人だと思う。昔は例えばミュージシャンになるにはすべてを投げ捨てたり故郷の親父を説得したりしたものだろうが、いまはそんな必要ないのかもしれない。表現したいのなら、表現すればいいのだ。思いがこもっていれば、必ず反応してくれる人が出てくる。それが、ソーシャルの時代の真実かもしれないね。

50才になったら、30年前にサヨナラしたバカタレのことを久しぶりに思い出した

50才になっちまった。

30才になった時は、ようやく一人前だと思ったし、40才になった時は、いよいよ責任感持たなきゃと意気込んだもんだった。でも50才はなあ、もう、どうあがいてもおっさんだし、新しいことに挑戦だとか言ってる場合かそんな年じゃもうないだろと自分で自分に言いたくなる。

50才はもう、老後まであと一歩で、第二の人生どうしようとか考えてないといけないんじゃないか。まあ、でもぼくの周りにはぼくより元気で革新的で新しいこと好きな先輩たちがいっぱいいるから、うだうだ考えることもないかな。

節目の年を迎えると、いろいろ振り返ってしまう。小学生の頃、中高の頃、大学の頃、と少しずつたどっていって、長らく思い返すことのなかった学生時代の友人のことを思い出した。

ぼくは大学に6年間いた。つまり留年したのだ。東京大学には駒場で過ごす教養課程と本郷に通う専門課程とある。その教養課程を4年かけてしまったのだ。試験をさぼったの。

九州の、超のつく進学校を出て東大に入った自分がなんだかカッコ悪い気がしていたのだ。いわゆるレールに乗ってる?そのまま大学出て就職して、ってことでいいわけ?おれの人生、そんなにわかりやすいことでいいの?

要するにものすごく自意識過剰で屈折した若者だった。大学に通うより、下北沢の怪しい居酒屋で知りあった変なやつらとつるんでる方が楽しかった。怪しい場所で怪しい人たちと交流している自分っていい感じじゃんと思っていた。

夜な夜な集まるうちに、似たような仲間ができていった。似たような仲間というのは、ぼくと同じように少しずつ屈折した自意識過剰の、ご立派な大学の若者たちだ。ぼくと同じように素直に社会に出ることに納得がいかず、何かをしようともごもごしていた。それぞれ、ちょっとだけ何かをやってたりした。つまり、音楽をやってるとか、芝居をやってるとか、そういう類いのことだ。ぼくはぼくで、8mm映画で短編を2本つくっていた。映画監督になるんだと恥ずかしげもなく言っていた。

そんな仲間の中心に、ジンがいた。

ジンは一橋大学の一年上だった。優しい顔立ちで、男らしいというより童顔の少年だった。誰かの紹介で知り合って、すぐに打ち解けた。でも意気投合したというより、性格的にも指向的にもちがっていて、そのちがいをお互いにけなしあっていた。

当時のぼくからすると、ジンはうだうだしていた。ぼくは、何かに興味を持つと、よしやってみよう!とすぐに身体が動くのだが、ジンは屁理屈を言う。直接関わろうとせずにわかったようなことを言う。そこにぼくはいつもイライラして、なんで動こうとしないんだよと攻めた。

境はさあ、わかってないんだよなあ。ジンはいつもそうやって余裕ある上から目線の態度をとりたがった。でも根が優しいので、完全に上から目線には結局立てず、ボロが出た。あんたはさあ、女々しいよね、いつもね。ぼくはそうやってけなした。けなしながらも嫌いではなかった。むしろ好きだった。自分にはないものを持ってるやつだった。女々しいけど、深みや知性は持っていた。それはぼくにもわかった。

人間はさあ、堕落に向かって落ちていく存在なんだよ。そういう自虐的なことを好んで言っていた。長くつきあっている女の子がいて、おれは彼女といるとどんどんダメになるんだ、あいつは魔性の女なんだ、でもあいつから逃れられないんだ〜〜。よくわからないけど、いつもそんなことを言っていた。

恋人がいるくせに女性にはだらしなくて、きれいなコと出会うとすぐにもたれかかろうとした。ちゃんと口説くんじゃなく、言葉通りもたれかかるのだ。今日はずっと一緒にいてくれよお〜。すぐにそんなことを言うのだ。

こうして書いていくとどうしようもない男だ。バカタレだ。そうだった。ほんとにバカタレだった。

バカタレがある日、境、雑誌を作るぞ〜と言い出した。バカタレがはじめて本気で何かに取り組むと言い出した。いいじゃん!おれも手伝うよ!ぼくはそう言った。おう、手伝ってくれ〜!

カウンターカルチャーという言葉を使って、いま20代ぐらいの人はどれくらいピンとくるのだろう。その頃、80年代前半、そんな概念があった。マスメディアがとりあげるのとはちがう、世の中の潮流に抗う文化の流れがあった。当時はあったのだ。サブカルとも言ったが、ぼくらはカウンターカルチャーという言い方の方が好きだった。

カウンターカルチャーの側の自主出版的な雑誌、という動きは当時すでにあった。ロッキンオンはとっくに立派な雑誌だった。ぴあやシティロードなんていうカルチャー紹介雑誌が元気だった。

東京おとなクラブという雑誌もあった。ジンはそれを見せてくれた。マスメディアが扱わないような、そしてぼくらにとってそそる題材を扱っていた。エンドウさんという人が作っているのだという。いまのアスキー総研・遠藤所長だ。ぼくが遠藤さんに対し無条件に敬意を払うのは、東京おとなクラブへのリスペクトがあるからだ。

ジンは、自分たちと同世代の表現者の活動を扱う雑誌をやりたいと言うのだった。東京おとなクラブを意識しながらも、ジンなりに考えたコンセプトだった。

何回か打合せをしたんじゃなかったかなあ。ジンがいろんな人を紹介してくれた。盛り上がる一方で、ちっとも具体化してないようにも思えた。で、どうするんだよ?いやまあ、もう少し考えを広げたいんだよ。そんな会話をジンとした。

ある夜だった。またもや下北沢の居酒屋で飲んで軽く酔っぱらって帰宅した。そう言えば今日はジンがいなかったなあ。四畳半一間の狭くて小汚いアパートで、もう寝ようとしていたら、電話が鳴った。「もしもし」「あ・・・境・・・さんですか?」中年の男の声が探るように聞いてきた。「はい、どなたですか?」「・・・ジンさんの、お友達・・・」「そうですけど、どなた?」「あの・・・いま・・・ジンさんの部屋におるんですが・・・もしよかったら、来てもらえないですか?」「・・・は?・・・」

さっぱり状況がつかめなかった。ジンの部屋に、ジンじゃない人に会いに行く・・・ジンはどうしてるんだ?・・・

到着すると、ジンの部屋に二人の中年の男がいた。ジンについて質問してくるのでちょっと不愉快になった。そういう顔をしたと思う。中年が言った。

「実はジンさんは、団地の上から飛び降りて亡くなったんです」

どういうことか、すぐにはわからなかった。

彼らは刑事で、見つかった遺体から身元を割り出し、ジンの実家に連絡する一方、本人の部屋で遺留品を見繕っていたところ、電話帳が出てきてぼくに電話したのだそうだ。

ようするに、ジンは自殺したのだった。

呆然とした状態で帰宅し、とにかく寝た。何をどう考えればいいのかもわからなかったのだ。

翌朝、何人かの友人に電話してジンのことを伝えた。遺体はS警察署にあると刑事達から聞いたので、みんなで行くことになった。

7月か8月か忘れたけど、とにかく夏だった。よく晴れた日で暑かった。ようやく警察署にたどり着いたら、少し前にご実家の親御さんが遺体を引き取っていったばかりだと言う。

ぼくたちは死んだ状態のジンとは会えないままになってしまった。

仕方がないのでみんなで”現場”に向かった。希望ケ丘団地という集合住宅。その端にある階段の4階から飛び降りたという。団地は6階建てだ。

6階建ての希望ケ丘団地の建物の4階から飛び降りた。「賭けたんじゃないかしら」誰かが言った。あえて4階から飛び降りて、生きるか死ぬかに賭けた、と言っているのだ。

そうなのだろう。ぼくもそう思った。その場にいる友人たちはみんなジンのことをよく知っており、だからみんなそう思った。うじうじした賭け。ジンならやりそうだ。わざわざ希望ケ丘団地という名前の建物まで行ったのもホントに情けない。死んでもバカタレだ。

その後、ジンを中心にした仲間たちとはあまり会わなくなった。ぼくはその後一カ月くらい、毎日ぼーっとしながら過ごした。ジンの一件をどう受けとめればいいのかわからなかった。そもそもジンが死んだということが事実なのかもわからないという気さえした。ただ、自分の胸の中にぽっかりと穴があいたようでもあった。毎日のように会っていた人間が突然いなくなると、胸の中に穴があくのだ。

やがて前期試験の日程がやって来た。もう教養課程4年目で、ここで専門課程に行かないとまずい、というタイミングだった。ぼくは、とにかく試験を受けようと思った。試験を受けて専門課程に行って、とにかく大学を出て世の中に出ようと、そうしなきゃダメだと思ったのだ。レールがどうのとか、四の五の言わないで、何しろ世の中に出なければ、何も始まらない、始められない。そんな当たり前のことにようやく気づいた。

ジンと一緒にぼくの中の何かも死んだのかもしれない。自分の中のバカタレが死んだのかもしれない。うじうじ屁理屈こねて、レールに乗るのがとか、納得がいかないとか、いろいろ言葉にしてるけど、要するにこのまま世の中に出るのが怖かったのだ。自信がなくて、どうしたら世の中と向き合えるのかわからなかった。そのくせ自意識過剰なので、ガラスのようなプライドをこわごわ、おそるおそる割れないように保つので手いっぱいだったのだ。

一方で、こうも思う。あの頃のぼくたちにインターネットとソーシャルメディアがあったら形にできてたんじゃないか。雑誌?いいねえ!とりあえずオンラインではじめようよ!WordPressでフォーマット作ってみるから。そんなことで、情報発信はできる。

おっと、すっかり長くなっちゃったね。何しろ50才になったもんでね、ちょっとノスタルジックな気分なんだ。でもおそらく、また日常に追われるうちに忘れてしまう。

次に思い出すのは・・・赤いチャンチャンコを着る時かな?

「シェアの時代の著作権」をぼくたちは見いだせるのか?〜7月15日の境塾を前に〜

前々から告知してきた7月15日の境塾が迫ってきた。今回は著作権をテーマに、MIAU代表理事・小寺信良さんと弁護士・四宮隆史さんをお招きしてのパネルディスカッション。80名の定員はけっこう余裕見てのつもりだったのだけど、かなり埋まりかけている。ATNDでの申込なので、迷ってた方はどうぞここをクリックしてとりあえず参加しちゃえ!

さて先日、お二人と下打合わせ、と称する食事会を行った。もはやその席での会話が面白かったので、これはよい催しになるなと予感したです。

で、当日参加する人は少し予習しておきましょう!

例えばここを見ておくといいと思う。文部科学省が改正案を事前に公開しているのね。そしてよく読むと、今回話題となった違法ダウンロード罰則化が入ってないことに気づく。国会に提出された時点では入ってなくて、採決直前にぶちこまれた要素なんだって。なんだなんだそれは。

そして上のサイトからわかるのは、違法ダウンロード罰則化以外にも知っておいた方がいい改正点もあるということ。15日にはそのあたりにも少しはふれたいと思う。

ところで著作権の話をしているとナーバスな反応をしてくる人もいる。「違法ダウンロード罰則化には気になる点がある」と言った時点で「では著作権をどうやって守ればいいというのだ?!」と問い詰めるように言ってくる。待て待て待て、ちょっと待ってね。

違法ダウンロードを”罰則化”することについて言ってるんであって、違法ダウンロード万歳!と言ってるわけではない。罰則化が逆効果になるんじゃないかとか、中高生に”はい、罰金200万円ね!”とか言ってもしょうがないよ、ということ。逆効果かも、という点はホントによく考えた方がいい。”止められない”流れなんだよ。

いまの著作権の考え方はこれまでのメディア産業のあり方を背景にしている。パッケージメディアやマスメディアなど、非常に限定的な流通経路の中でコンテンツが視聴されてきた時代。音楽の複製をつくるには大きな投資が必要だったし、映像を人びとに送り届けるにはアンテナを国中に立てて特殊な機材を使って特別な場所から電波を送り出す必要があった。

この時代つまり20世紀、メディア産業が大きく花を咲かせ発展した。そして、そこで生活する人がどんどん増えていった。音楽や映像の”プロフェッショナル”が誕生し、その技術が次の世代、また次の世代へ継承され進化していった。

この10年ほどでそうした体系が一気に変わった。変わったんじゃないか、上に書いた体系とはちがうやり方で音楽や映像を制作し、複製し、不特定多数に送り出せるようになった。

もうあらゆる表現はオープンになっちゃったのだ。

このところぼくの娘がピアノで練習しているのは、ニコニコ動画上で人気を集めた、誰が作ったのかよくわからない曲で、誰だかよくわからない人が映像を勝手につけて、それをみんなでコメントしあいながら楽しんでいる。楽譜も誰かわからない人が作ってくれている。

少なくとも、そういうコンテンツの楽しみ方をしている人びとに、旧来的な著作権を語っても、そもそも意味がわからないかもしれない。きっと彼らはこう言うのだ。「音楽や映像を作ったら、できるだけ多くの人に楽しんでもらった方がうれしいんですけど。どうしてそんな著作権とか言わないといけないんですか?」

だからと言って、何でもかんでもダダ漏れでフリーでゆるく楽しもう、と言いたいわけではない。ただ、とにかく時代が変わりつつあるのだ。”シェアの時代”がはじまろうとしている。

レコードとフィルムの時代ではもはやないのだ。

さて15日の話に戻すと、このイベントではもちろん後半で参加者の質問も受け付けたい。当日手を上げて聞いてもらえばいいのだけど、事前に質問をしてもらってもかまわない。

このブログのコメント欄でもいいし、Facebookページ”境塾”で質問してもらってもいい。あるいはTwitterのぼくのアカウント(@sakaiosamu)に話しかけてもらってもいいし。必ずとりあげられるかわからないけど、とにかく質問出してみてくださいな。

では参加するみなさんとは、当日、お会いしましょうね!

テレビ番組にも”エンゲージメント率”ってもんがある(はず)

仕事上の必要があって、テレビ番組のFacebookページのエンゲージメント率を調べてみた。

エンゲージメント率って知ってる?Facebookページについて、投稿に対する反応(いいね!の数とコメントの数の合計)がファン数全体に対してどれくらいあるかを見るのだそうだ。ひとつの投稿だけを調べてもアレなので、直近の10なり20なりの投稿への反応を見て平均をとる。

(投稿へのいいね!数+コメント数の平均)/(そのページにいいね!を押してる人数=ファン数)=00%

こんな考え方ですわ。

これを計算するには、直近の20投稿へのいいね!数とコメント数を足しあげて20で割る(つまり平均の反応の数を割り出す)。その値を、そのページへのいいね!数で割る。0.043とか出てきたら、4.3%ととらえる。・・・この説明、いいね!という言葉が何度も出てくるからややこしいね。

よくできたもので、この計算を自動でやってくれるページがある。

“Facebook Engagement Check Tool”というそのものズバリの名前がついている。使う際、Facebookアカウントでのログインを求められる。何も悪さしないのでそのままログインして、調べたいFacebookページのURLを入れれば即、計算してくれる。

試しにいろいろ入れてみると面白い。0.64%とか、0.38%とか、結果が出てくる。あくまでその時点での数字なので、翌日みるとまた変わったりしている。大まかな参考値と捉えた方がいいね。それから、1%切ってるからってがっかりすることもない。このページの解説によると、平均0.55%だそうだ。それから、ファン数が増えると平均値も下がる。それは当然かもしれない。10万人を超えるページだと平均は0.22%だというから、巨大に育ったコミュニティほど、みんなに参加してもらうのが難しいというわけだろう。

さて、試しに目に留まったテレビ番組の”エンゲージメント率”を書き出してみたよ。それが、この表。

それぞれのファン数と”話題にしている人”の数も添えた。話題にしている人の数は計算と直接関係ないのだけど、この数字とエンゲージメント率には大ざっぱには相関性があるだろうから参考に添えてみた。エンゲージメント率の方は、単純に比べにくい。上に書いたように、ファン数が10万人を超えているところと、数千人のところはそのまま比較は出来ないからだ。だからこの表はあくまで”参考出品”だと思ってほしい。

いちばん上は、まずテレビ局全体としてのFacebookページを持っている3局を並べている。いいね!数(ファン数)が増えるとエンゲージメント率も下がっていってる。

その下は、主に情報番組のFacebookページの数字を並べている。そもそもFacebookページを開設している番組はまだまだ少なく、情報番組が多いのだ。

ニュース番組として、そしてそもそもテレビ番組のFacebookページの先駆けとなった『ワールドビジネスサテライト』が10万人超えているのに0.48%というのは立派なものだ。番組最後にFBからの質問を取り上げるなど、ソーシャル化が進んでいる結果だろう。

『情熱大陸』や『アナザースカイ』、『FOOT×BRAIN』など質の高い番組がエンゲージメント率も高いのは興味深い。さらにファン数は少ないが『THE 世界遺産』の4%代後半はなかなかのものだろう。『がっちりマンデー』がそれを上回っているのも背景を調べたいところだ。

面白いのがその下だ。『リーガルハイ』は6月末で終了した弁護士を主役にしたコミカルなドラマだ。ぼくも毎週観てハマった。相当面白かったのだが、それを反映しているのか、7%という異様なエンゲージメント率の高さとなった。

そもそもドラマのFacebookは少ない。キャストの写真を使う際の関係者の説得が大変なのだろう。おそらく”番組宣伝”が目的です、という説得で、ドラマ放送中だけの限定的なページなのだと想像できる。つまり『リーガルハイ』は短期決戦のFacebookページで、それはFacebook本来の使い方ではないはずだ。

ところがこのエンゲージメント率の高さ。これはドラマを送り出す側と視聴者の側に幸福な関係が築けた、まさしくエンゲージメントの言葉通りの状況が生み出せたのだと言える。本当は、このままDVD発売まで引っ張った方がまちがいなく効果を拡大できるのだが、そこは難しいんだろうなあ。もったいない!

『勇者ヨシヒコと魔王の城』はその点、放送後も続いているページだ。テレビ東京の深夜枠で昨秋放送されたもので、視聴率はともかく、熱烈なファンに支持された。DVDも売れてるらしいし続編が今年の秋に放送されるらしい。こういうタイトルは、Facebookページを続けていくとまさしくコミュニティになって良い効果をもたらしそうだ。

その下、大木優紀はテレビ朝日のアナウンサー。これがまた異様なエンゲージメント率の高さとなっている。アナウンサーの公式ページは今後のテレビ局にとって重要になるんじゃないだろうか。

最後の2つはBS番組のFacebookページ。BSは濃い視聴者がついていそうだから、Facebookは合うと思うがまだ少ないようだ。

ここでとりあげたのは、決してテレビ番組Facebookページのすべてではない。目に付いたもの、知ってるものをあげていっただけで、ひょっとしたら重要なものを見落としているのかもしれない。あくまで軽い気分で調べた参考データと思ってほしい。また、この番組のFacebookページも面白いよ!というのがあったら、教えてほしい。このブログのコメント欄や、境塾のFacebookページに書き込んだりしてくれればありがたいのだけど。そう言えば、境塾のページも、エンゲージメント率低いんだよなあ。

テレビに入れるのはスマートではない?〜日本マーケティング協会セミナー「TVのちから」より〜

日本マーケティング協会、略称JMAという団体がある。業界関係の人なら知ってるだろう。広告に関係するスポンサー企業、広告代理店、そしてマスメディア企業が参加している。その名の通り、マーケティングについての研究発表などをする団体で、セミナーもよく主催している。

「TVのちから2012」というシリーズタイトルでのセミナーがそのJMA主催で行われるという。このところ、メディア関係のセミナーでよく登壇されている電通総研の奥さん(”奥”という名字の方で、誰かの妻君のことではない)と、境塾でこのところつるんでいるビデオリサーチインタラクティブの深田さんがコーディネイトしている。

その深田さんから頼まれて、最後のパネルディスカッションにぼくもパネラーとして出ることになった。”サプライズゲストとして”なんて言うのだけど、そんなこと言ったらすげえ有名人を期待されて、がっかりしちゃうよ。ま、いいけど。

そのパネルディスカッションも十分面白かった。でもその前のプログラムのジャーナリスト・西田宗千佳さんの講演がぼくにはすごく面白かった。これを聞いただけで、セミナー10回分ぐらいの価値があったんじゃないかな。

西田さんとは、3月に慶應大学のスマートテレビ研究会の公開討論会でお会いしている。また、その研究会の報告書でもインタビューされている。

そしてアスキー新書から「スマートテレビ スマートフォン、タブレットの次の戦場」という本をこの4月に出版している。このブログを熱心に読んでる方なら、この本はお薦めするよ。スマートテレビの現状と課題が網羅されている。それにわかりやすい。

西田さんのこのセミナーでの講演は、その新書に書かれた内容をベースにしながら、さらに新たな要素もふんだんで、スマートテレビに関するすべての事柄が凝縮されていた。とっても濃い内容!

これは本の中でもかなり出てくるんだけど、西田さんは”操作性”をかなり問題にしている。スマートテレビは多様な機能を持つだろう。すると、どれだけ操作しやすいかが普及の鍵を握るのではないか。

いろいろ考えていくとひとつ、出てくる答えを西田さんは提示する。

「テレビに入れるのはスマートではない?」

つまり、操作の部分は結局、スマートフォンやタブレットを活用した方が使いやすいだろう。その上に、テレビのライフサイクルは5年から10年と長い。一方IT機器(スマートフォンやタブレット)のサイクルは12カ月ぐらいからだ!

テレビそのものを中途半端な進化で製品化するより、テレビはモニターと受け止め、進化は外部機器に託した方が、スマートだ、ということ。スマートテレビは、テレビとスマートデバイスで実現した方が、スマートなわけ。

例えばとして話に登場するのが任天堂のWiiU。手元のコントローラーにモニター画面がある、つまりはテレビ+タブレットみたいなゲーム機だ。テレビの今後の姿を先取りしているのかもしれない。

西田さんの講演は操作性の話から、SNS連携つまりソーシャルテレビの話題に展開する。SNS+スマートTVは、言うまでもなく”実況”。リアルタイム視聴+Twitterだ。だけどとくに日本の場合は、録画番組とSNSの連携もきっと具現化する。

何しろ、全録文化はきっとやってくる。SNSと連携することで、番組価値の最大化が図れるかもしれない。最後に、”図”が出てくる。こんな感じ。

(西田さんの配布資料から書き写したもの。もちろん、ご本人の許可を得ているからね)

この図を見た時、ぼくは「そっかー!」と心の中で叫んだ。いや、「そっかー!そっかそっかそっかそっか、そっかー!」ぐらいは叫んだかもしれない。心の中でだけど。

ソーシャルテレビとは何だろう、という問いへの答え方がずっともやもやしていた。テレビをリアルタイムで観ながら、みんなでTwitterでつぶやくことさ、というのが最初の答えなんだけど、VODサービスにある番組について感想を語りあうのもソーシャルテレビだよね、と付け加えていた。この二つを同時に説明するのはけっこうややこしかった。

それが上の図だと視覚的にパッとわかるだろう。同じコンテンツが、放送時と録画後もしくは配信上に並んだ時に視聴のされ方が変わってくる。でもね、同じコンテンツなのね。文章の説明だと、なんだかずいぶんちがう2つの現象をソーシャルテレビと呼んでいる感じなのが、上の図だと、あー確かにどっちもソーシャルテレビよね、と瞬時に理解できる。

さらに西田さんはこの図の右側の部分にマーケティングチャンスがあるのでは、と言う。そうかもしれない。課金なのか、広告の受け皿なのか、わからないけど。でもこの図の中にはこれまでとは少しちがうマネタイズの可能性が隠れていそうだ。

西田さんは、最後のパネルディスカッションにも出演した。ぼくもいたわけなので、なんか光栄だなあ。

さらに終了後、会場に来ていたアスキー総研所長・遠藤諭さんとも話した。西田さん、遠藤さんと話していると、スマートテレビの最前線情報とそれをもとにした最前線アイデアが飛び交って、会話について行くのが大変だ!でもお二人のディスカッションから新たな知見が生まれそうだ。わくわく!

さて、このセミナー「TVのちから」はシリーズになっていて、第二回、第三回と続くそうだ。これはみなさん、見逃せないね。早め早めに申し込まなくちゃ!

Hulu(つまりはSVOD)の功と罪〜あるいは刑事コロンボがやっぱり面白い件について

週末はすっかり刑事コロンボになってしまった。

あ、いや、もちろんぼくが刑事になるって話ではなく、週末になると刑事コロンボを次々に観てしまう生活になっちゃった、ということ。

「うちのカミさんがね・・・」という独特の泥臭いセリフ回しで小池朝雄が吹き替えたドラマが定期的にNHKで放送されてたのは70年代前半。ぼくは小学生だった。よく知らない、って人にはとにかく一度観てみることをオススメする。

物語の冒頭で殺人事件が起こるので観客は犯人を知っている。犯人が誰かを探すのではなく、この犯人にどう証拠をつきつけるのかが焦点。一見サエない刑事が実は敏腕で、犯人のところを何度も訪れ推理の過程をあえてさらしながら犯人を追いつめていく。最後になんと!という形で証拠が提示される。それ「古畑任三郎」にそっくりだね、とか言わないでね。古畑のモデルがコロンボなんだから。

さてコロンボをどうして突然ハマるほど観はじめたのかというと、Huluのメニューに入ってきたから。

Huluって何なの?なんて言うんじゃないだろうね。去年の9月に日本に上陸したアメリカ生まれのVODサービス。月額定額でドラマや映画が見放題。最初は1480円だったのがいまや980年。すんごくおトク!基本はPCとスマホ向けサービスなんだけど、PlayStation3でも視聴可能だ。ぼくはウイニングイレブンから足を洗って以来とんとつけたことのなかったPS3のスイッチを、ここんとこ毎週末オンしているってわけ。

SVODという言い方、知ってるかしら?Subscription Video on Demandの略で、つまりは定額制のVODサービスのこと。AppleTVなどのVODサービスは一本400円とか500円といった単品サービスが基本だが、HuluのようなSVODがアメリカでは伸びているそうだ。

日本でもHuluに刺激されて続々VODサービスが登場している。携帯キャリアがスマホ向けにSVODサービスを出しているし、CATVやひかりTVでも出てきている。

Huluに刑事コロンボが入ったもんで、心置きなく次々に観れちゃうというわけ。シーズン1も2もひと通り観たのでシーズン3に突入なう。40年ぶりぐらいに観ているわけだけど、まったく鮮度が落ちていない。いま観ても抜群に面白いよ!

VODと、映像コンテンツのアンビエント化については何度かこのブログで書いてきた。

映像コンテンツのアンビエント化が進んだら
映像コンテンツのアンビエント化の実際〜AppleTVその後〜

SVODはこの傾向を加速するだろう。なにしろ、このぼくが格好のサンプルだ。

学生時代は名画座をハシゴして”文芸座地下・鈴木清順特集”なんて一所懸命に観たもんだ。ついこないだまではレンタルビデオ店に毎週末通い、映画館で見逃した作品や、「LOST」「HEROES」といった海外ドラマを借りまくった。

でもいまやぼくにはAppleTVがある。DVDでの発売と同時につい半年前にロードショーしていた映画が観たい時に観れる。ハードディスクレコーダーには映画チャンネルで放送された旧作と、地上波で放送された最近作が溜まっている。さあ、どれを観ようか。あれにしようか。こっちも観なきゃね。えーっと、うーんと、どうしようか・・・よし!・・・刑事コロンボにしよう・・・

そんなことになっちゃったのだ。そしてそれで十分満足したりしている。いやー!映画ってホントに素晴らしいですねえ!とヒゲの解説者が出てきそうだ。

いつでも観れると、いつまでも観ない。

どれでも観れると、どれも観ない。

そうやって、ほぼ100%面白いとわかっているコンテンツを選んでしまう。

もうひとつ、コロンボのよさは時間だ。1時間15分。2時間は必要ないのだ。休日に料理をしながら、観るにはちょうどいい。夜中、12時から観はじめて、1時半には眠れるのだ。

SVODにハマっていくと、一体ぼくたち人類にはこれ以上映像コンテンツが必要なの?なんてことを考えてしまう。Huluに入っているコンテンツを、残りの人生かけても見尽くせないんじゃないだろうか。その上に、新しい作品なんてお腹いっぱいで入らないよ。

映画が誕生して100年はとうに経った。学生時代に映画を観ることが習慣になって、名作と言われるものは全部観たいと思ったものだが、それから30年の間に見るべき名作がまた追加されている。もう追いつかないよ。

思うに、こんなにたくさんの映像作品を、人類は必要としていないんじゃないか。もう十分なのかもしれない。新しい推理ドラマをわざわざ作らなくても、刑事コロンボを観ればいいって気がしてくる。

なんて言いながら、この日曜日はTBSのドラマ「ATARU」の最終回をじっくり観て、笑って、涙した。必要ないなんて言ってゴメン!ぼくたちにはやっぱり新しいドラマが必要だね!

・・・と、能天気に終わっちゃえばいいんだけど、やっぱりそうもいかない。SVODがぼくたちの生活に何か新しいものをもたらそうとしている気がする。それが何かは・・・まだわかんないなあ・・・

著作権は20世紀エンタテイメント産業の副産物〜違法ダウンロード罰則化が成立しちゃった〜

前回20日に違法ダウンロード罰則化について記事を書いた。15日に衆議院を通過し、参議院の議論に向けて19日に参考人質疑が行われたが、記事を書いた日にはとっとと参議院を通ってしまった。想像はしていたけど、参考人質疑は儀式に過ぎなかったんだろう。あの質疑を見たら罰則化はいかがなものか、となったはずなのに。

ぼくの記事について「でも著作権は守るべきでしょう」と言ってくる人がいた。あれ〜?罰則化への反対は違法ダウンロードを認めることではないのだけど。著作権は当然守るべきものだし、音楽業界の縮小は心配だ。だけど今回の罰則化はその解決にはならないよ、むしろ逆効果でさえあるかもしれない。そんなことを書いたつもりなんだけど、議論って難しい。

難しい議論をさらにややこしくするようなことを書いちゃう。前回の記事の最後の方でごにょごにょっと書いたことの続きというか拡張だ。

著作権とは近代になっての概念で、印刷技術の発展と関係するらしい。英語で”copyright”というのはつまり複製の権利だ。日本語では著作権と表記し、でも英語では複製権と言っている。著作物には著作した人の権利があるよね、というのが著作権。一方、著作物を複製する際のルールが必要でしょ、というのが複製権だろう。著作権にはこういう二面性があるのではないだろうか。

そして、印刷物はちょっと置いといて、音楽と映像(今回の著作権改正で問題となったのはこの2つの分野だ)を大量に複製する手段が確立し、それが大きな産業になったのは20世紀の話だ。大きな産業だし、大きな投資が必要だ。大きく流通させる営業力や販売網も必要だ。

音楽や映像を複製して大きな産業の上で流通する前までは、音楽を演奏したり物語を人前で演じたりするのは、劇場やホールで行うしかなかった。だから、そんなに多くの人に見せられなかっただろうし、そんなにたくさんの人が従事する業態でもなかっただろう。演奏したり演じたりする人の中で才能ある人はきっと人気者になり豊かにもなったろうが、限界もあっただろう。

20世紀は、そこを大きく変えた。リバプールのスタジオで演奏した楽曲がものすごい数の複製を生みレコードとなって世界中で売られる、なんて現象が起こった。アメリカの西海岸の撮影所で撮られた映像がフィルムに収められて世界中の映画館で人びとを魅了する、という現象も起こった。ギターを弾く若者が革命家のような存在となったり、西部のガンマンを演じる青年が大富豪並みに大邸宅を構えたり。あり得なかったことが起こった。

エンタテイメント。そう呼ばれる世界が生まれ、国によっては巨大な産業となり、大量の雇用も生んでその人びとの生活を支えるものになった。一体となって育ったマスメディア産業と支え合い、絡み合いながら成長していった。そんな100年があった。

著作権とは、そんな世界を支える概念なのだ。法律的な、そしてどこか精神的な面も支えるバックボーンなのだ。

だから著作権を守らなきゃ、という人びとは、せっかくここまで育ったエンタテイメントの世界を、そして産業を、インターネットが台無しにしようとしているんだぞ!と怒っているのだ。どうするんだよ。みんな生活できなくなるじゃないか!

ここでぼくが思うのは、そこで言う著作権とは、複製権の方を言っているんじゃないかということだ。

複製権こそが、富の背景であり、源泉だ。たくさんの人を支えてきたのは、著作者の権利を大事にすることではなく、著作物の複製に関するルールなのだ。著作物の複製には特殊な技術と装置が必要で、それらを調えるには莫大な費用がかかってるんだぞ。なんだその、デジタルってのは。マウスひとつで複製だと?なんてことしてくれるんだ。

いやもちろん、複製権は守らなきゃいけない。ただ、それは著作物だからであり、著作物の複製によって生きてきた人びとの生活を支えるかどうかは少しちがう話だ。

複製コストが革命的に安くなった。大した装置も必要なくなった。装置を動かす技術者も要らなくなる。これについては、著作権を守ろうが守るまいが、止めようがない流れだ。印刷業界で写植という設備と技術が要らなくなったようなものだ。

著作権の問題は、語りはじめると語り尽くせないし、結論もカンタンには出てこない。でも、すごく重要なテーマだ。

重要なテーマなので、7月15日の境塾@デジハリでとりあげるよ。コラムニストでMIAU代表として著作権問題に向き合っている小寺信良さんと、NHK出身で現場も知っている珍しい弁護士である四宮隆史さんをお招きするパネルディスカッション。これは行くしかないんじゃない?申込はここをクリックしてATNDから、どうぞ。

いや、別にイベントの宣伝でこの記事を書いたわけでもないんだけどね。