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コピーライター→映像製作会社ロボット→広告代理店ビデオプロモーション→再びコピーライター(フリーランス)。 メディアとコンテンツの未来を切り拓くコミュニケーションをデザインします。講演・執筆依頼もお気軽に!

NewsPicksと三上俊輔への抗議、その後の顛末〜批判はありだが、侮辱はダメだ〜追記:前者への抗議は取り下げます

追記:公開時はここにNewsPicksのロゴを怒りの表情にした画像を置いていたが、NewsPicksが規約変更で抗議に応えてくれたので、画像を取り下げた。

この記事はNewsPicksへのピックをやめていただくようお願いします。

5月17日、つまり今週の火曜日に書いた記事は大きな反響があった。
→NewsPicksと三上俊輔に抗議する〜私の記事はピックしないでほしい〜

私はあまりこういう石を投じるようなことはやってこなかった。非難轟々だったら嫌だなと思っていたがそんなことはなかった。けっこう多くの人が、NewsPicksのコメント欄に嫌な思いをしてきたのだろう。ライター仲間からかなりのメッセージをもらった。「よく言ってくれた。もうほっとくしかないと思っていたが、自分も言うべきだったと思った」そんな人もいた。プロピッカーの友人も何人かいるが、自身も嫌な思いをした話をしてくれたり、頼まれたからピックはしてるけどコメントは読まないようにしているという、苦肉の状況を教えてくれた。

常見陽平氏がさっそくYahoo!に記事を書いてくれた。
→News PicksはNo Picking運動にどう向き合うのか?誹謗中傷プラットフォームの行方
記事を書く時に、他に抗議してる人はいないか探したら、常見氏の以前の記事が出てきたので心強かった。さっそく書いてくれて率直にうれしかった。

一方、徳力基彦氏が逆の立場でYahoo!に書いている。
→ネットで批判されるのが嫌ならネットで情報発信なんかやめた方が良い?
徳力さんとは仕事面でもおつきあいがあり、これは友情からあえて苦言を、ということだと受けとめた。ただ、ちょっとちがうんだよなと思っていたら、Yahoo!のコメント欄でisobeさんという方が、私の言いたいことを代弁してくれていた。
→【我慢ならんサービスには「ノー」と言っていいんじゃないか、と思うわけです】(Facebookを使ったコメントなのでアカウントがない人は読めない)
徳力さんは昔、はてなブックマークでの厳しいコメントに萎えてたら、批判が嫌ならブログなんて書くなと一喝された、という話を書いている。それ、私が言ってることとちょっとちがうなあと思うのだが、Yahoo!の記事なので、私もこれとは別にYahoo!で書こうと思う。

はてブの話が出てきたが、私の記事へのはてブコメントが楽しい。
→http://b.hatena.ne.jp/entry/sakaiosamu.com/2016/0517111557/

大喜利だね。笑っちゃう。

はてなブックマークとNewsPicksは一見似ているが、まるで違う。私も別の記事ではてブに中傷に近いコメントが並んだ経験はしている。だが一瞬腹は立っても、三上という男に対して持ったような怒りには至らない。その理由は後で書こう。

それから、三上俊輔本人もブログを書いていた。
→インターネット上に言論を公開する意味、境治氏からの抗議に応えて

なんかいろいろ言いたくなるなあと思っていたら、これも彼の記事についたはてブが面白い。私がいいたいことはほとんど”はてな民”のみなさんが代弁してくれたようなものだ。

→http://b.hatena.ne.jp/entry/mikamika8375.hatenablog.com/entry/2016/05/18/093652

わかりやすいので、ちょっと引用させてもらおう。

スクリーンショット 2016-05-20 1.24.08
※三上俊輔のブログ記事についた「はてなブックマーク」より画像をキャプチャー

だよな、おまいらの言う通り。いきなり「会ってお話しましょう」って、あんな侮辱を平気で書く人間と会うなんて、って警戒したのよ。

そして三上という男の記事の最後に「インターネットで記事を公開する意味」というなかなか大上段に構えたタイトルのパートがある。今回いろんな意見を聞いた中で、同じようなことをいう人がけっこういた。

WEBでの情報発信はどこまでもOPENに反応が返ってきますので、最終的には著者は読者からのいかなる反応も受け止めることが求められます。自説への批判は目障りだから止めろという、この批判のハードルを著者が引くことは言論においてはできないと考えます。「三上俊輔のブログ・インターネット上に言論を公開する意味、境治氏からの抗議に応えて」より引用

ここには、大きな食い違いがある。「自説への批判は目障りだから止めろ」とは私は言っていない。そうではなく、三上という男のコメントは侮辱だ、と言っているのだ。

批判は受けとめるべきだというのは当たり前だ。だが侮辱をしてはいけない。私は三上のコメントが侮辱だから抗議をしたのだ。それとも、三上という男は侮辱も受け入れるべきだと言うのだろうか?三上という男がどう考えようとも、侮辱は犯罪なのだ。刑事罰が課せられる可能性がある。あるいは、不法行為だと民事的に訴えられる可能性がある。私は、弁護士の友人に確かめて「刑事になるかは検察官次第で、コメントひとつでは可能性が薄いが、このコメントは確かに侮辱に当たる」とのアドバイスをもらったうえで書いている。「批判」とはこの場合”文章に対して”なされるべきものだが、”私個人に対して”悪意を持っていわれない暴言を吐くと「侮辱」だ。まったくちがうことだ。

それから、わざわざ見出しに「インターネットで言論を公開する意味」としていて、ネットで文章を公開するのは特別だと言いたがっているように見えるが、そこがさっぱりわからない。ネットでもリアルでも、やってはいけないことの本質は、まったく変わらないのだ。

1ページ目が長すぎたからあのコメントを書いたとあるが、だったら「1ページ目が長すぎて本論を読む気にならなかった」と書けばいい。これは「批判」だ。受けとめるよ。でも実際に書いたのは、1ページ目が長い、ということからはるかに離れて、ひたすら悪意しか感じられないコメントだ。

ある人から聞かれた。コメントがはてなブックマークだったら同じように抗議したか?いや、しなかっただろう。はてブとNewsPicksには根本的な違いがある。

見出しとコメントの関係がまったく違う。はてブのコメントは文字数が少ない。だから「チャチャ入れられてる」感覚だ。もちろんたまにグサッときたりムカッときたりするコメントもある。だが瞬時に「ま、いっか、チャチャだから」とこっちも鼻で笑うことにできる。匿名だから、「ふん無名のヤカラが好き勝手言うとるだけよ」で済む。そのうえ、大喜利的に盛り上がることも多いので、うぷぷと笑うことも多い。そういう、”遊び場”感が結果的に出ている。はてブという”文化”ができあがっていったのだろう。(ただし、はてブでも侮辱はしてはならない)

NewsPicksは文字数が長い。1000字も入る。そして記事よりコメントのほうが存在感が大きい。はてブの逆だ。チャチャってなものではない。うやうやしく「コメント様」って感覚だ。これはそもそも、そういうツールをめざしたからだ。経済のストレートニュースやリポート記事をピックし、専門家がコメントする。記事の側は「情報」だから地位が低いはずだったのだ。記事を読むのではなくコメントを読むサービスなのだ。実際、記事を読まないままコメントだけ読んでおなかいっぱいになる、という意見をある人からもらった。

ところがユーザー数が増え、話題も広がった。本来はそこで、フォーマットの見直しが必要だったのだろう。だがそのまま走る。そうすると。コメント様が傍若無人になりかねない。何しろ、何を言ってもいいのだ。あんなにリスクのないコメント欄もないだろう。ただ、ユーザー数が増えたので、コメントを書いてもLIKEがつかないとすぐに下にもぐってしまい、誰もコメントを読んでくれない。LIKEをもらうには気の利いたことを言わないといけない。かくして、LIKE獲得競争がはじまった。

私はウルトラライトユーザーなので以上はそうとうな推測だ。だが、過去に何度かのぞいた時に実際に、「ああ!○○さんにうまい言い方されてしまった!」というコメントを読んだことがある。コメントを書く意義が、コメントそのものを評価してもらう競争になったのではないだろうか。ただしその評価は内向きなので、時々しか開かない人には理解しがたい。

三上という男のコメントを読んだ時に、怒りとともに奇妙だなという印象も持った。わざわざZARDを持ち出す意図が不可解だったし、「18万の一発屋」も、どういう状態を表現しているのかつかみにくい。ただ、何か普通じゃない言い方を不自然に頑張っているように見えた。それはこの「気が利いたこと言う競争」の結果ではないだろうか。その不自然さが余計に不快だったのだが。

さてNewsPicks運営側には、ブログを書いた後でメールし、「こういう抗議の文章を書いたので、読んでもらえれば」と伝えたら、さっそく丁寧な返信をもらって直接会うことになった。私なりに、こうしたほうがいい、という提案をせっかくだからするつもりだ。

それから、来週あるラジオ番組に呼ばれた。ブログを読んだのでこの問題をとりあげたい、ゲストに出てくれとのこと。快諾したがデリケートな問題なのでと伝えたら、もちろんサービスや個人を責める内容にしたくないとのことだった。NewsPicksに関する世間の関心の高さを感じた。私は本業のメディアうんぬんのほうで意外にいろんな番組に呼んでもらうのだが、今回のはメディアとは言え、どうしたら建設的な話になるか、悩ましい。

ということで、もろもろまたレポートしたい。Yahoo!にも「抗議」とは別のことを書くつもりだ。

追記:公開時はここにNewsPicksのロゴを怒りの表情にした画像を置いていたが、NewsPicksが規約変更で抗議に応えてくれたので、画像を取り下げた。

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NewsPicksと三上俊輔に抗議する〜私の記事はピックしないでほしい〜追記:前者への抗議は取り下げます

追記:公開時はここにNewsPicksのロゴを怒りの表情にした画像を置いていたが、NewsPicksが規約変更で抗議に応えてくれたので、画像を取り下げた。

この記事はNewsPicksへのピックをやめていただくようお願いします。

先日、2016年5月5日、iRONNNAというネットメディアに私が書いた記事が掲載された。
→「子育て」にきびしい国は、みんなが貧しくなる国だ

いろんなメディアで訴えてきた保育園の問題を、あえて年配読者が多いiRONNAで書くことで、このテーマに関心が薄い層にアピールできるのではという思いだった。驚くほどシェアされ、5000を超える「いいね!」がついた。

実際にはどれくらい年配層にも届いたのだろうと、記事タイトルで検索していたら、うっかりNewsPicksに入ってしまった。私は日ごろこのサービスで自分の記事へのコメントを読むことをできるだけ避けているのだが、ついついリンクを踏んでしまった。だがパッと目に入ってきたのは共感しているコメントが多い。読み進むと、中には批判的なものもあるが、一理あったりしたので、さらにコメントを追ってしまった。

そうしたら、このコメントに出くわした。

三上俊輔コメント
※NewsPicks内の当該記事がピックされたページよりキャプチャー

このコメントは、記事への批評でも何でもない。いや私個人への批判でさえもなく、ただただ、侮蔑しようとする意志しか伝わってこない。ああ、やはりNewsPicksはこうなんだ、とあらためてコメントを読み進めたことを後悔した。

このコメントを最初に目にしてからもう10日間ほど経つが、何度読んでもそのたびに心拍数が高まり頭に血が上るのがわかる。だがここでは、このコメントについてはあえて書き連ねないでおく。ただ、友人の弁護士に意見を求めたところ、侮辱罪の対象に十分なりえるもので、少なくとも不法行為で民事で争えば十分勝てるだろう、とのことだった。「いいね18万の一発屋」という箇所は具体的な意味がわからない表現だが、侮辱と十分認識できるようだ。

私はこのコメントを書いた三上俊輔という男に対し、実際にどうするかは検討しているところだ。とにかくここであらためて抗議しておく。あなたが書いたコメントは、どう見ても侮辱だ。

だが、三上俊輔への抗議はこの原稿の前振りに過ぎない。

私が問題にしたいのは、NewsPicksというサービスについてだ。

これまでも何度か、私の記事がここでピックされてきた。ここから先を書くのは心苦しくもあって、私の友人知人にもこのサービスのユーザーはたくさんいるし、プロピッカーをやっている方もいる。彼らが私の記事をピックしてくれたこともあり、ありがたいと思ってきた。決して彼らに抗議する意図はない。

だが何度もピックされ、ついついコメントを読んでみると、ほぼ100%嫌な気持ちになってしまう。私の目からみると、NewsPicksは誹謗中傷祭り、皮肉と揶揄の大行進だ。記事を書く身として、こんなに残酷な場もない。

もちろん、ネットではあらゆる場で批判する言葉に出会える。誹謗中傷も珍しいことではない。だがNewsPicksは書き手にとって、”たちの悪い”空間なのだ。書き手の気持ちを逆なでする要素満載。ポイントは、クローズなのにオープンな場であることだ。

ソーシャルメディア上での批判は、記事を検索するなどで主体的に出会う。Facebookで批判を見つけたら、すかさず反論もできる。反論して熱苦しい議論になっても自分の責任で、納得ずくで言い合える。

NewsPicksで何を言われるかは、フタを開かないと見えない。だがヘタにオープンでもあるので、うっかり足を踏み込んでしまうことは多い。そうするとたいがい、すでにコメントがたくさんついていて、往々にしてひどいコメントばかりが上にきている。だから書き手からすると、グサグサくる順番にコメントに接する羽目になる。言ってみれば、知らない間に自分の記事が体育館裏に連れ込まれてリンチを受けているようなものだ。しかも、やめろ!と直接言えないのだ。ひどいコメントに直接言い返せない仕様なのだ。さるぐつわをはめられて、自分が精根込めて書いた記事が殴られるのを見守るしかない。

誹謗中傷に輪をかけて問題だと思うのが、誤った指摘をするコメントだ。私の目からすると、NewsPicksは「頭がいい競争」をしているように見える。勝ち誇ったように全然見当外れなコメントがついたことは何度もある。誤ったコメントが誤ったまま評価され、NewsPicks内の誤った認識ができあがってしまう。それに見出しだけを使い、その下にコメント欄がある。ろくに読まないでコメントすることを誘発する仕様だと思う。

中傷するようなコメントも、誤った指摘も、一部のユーザーに過ぎず大半の人はきちんとしたコメントを書いているのも知っている。だがネガティブなコメントほどLIKEがつきやすく、そうすると上にあがってきてかたまって見えてしまうのだ。実際は違うのにネガティブな空気がすぐに蔓延してしまう。

友人の弁護士に、NewsPicksについて法的にはどうなのか聞いてみると、まったくグレーとのことだ。ちなみに彼は、メディアやコンテンツ界が専門だ。その彼に言わせると、何年も前から他のメディアの記事の見出しや本文の一部を利用するサービスについては争われてきた。解釈は時代とともに変わるとは言え、NewsPicksのような形態が完全にシロになったとは言えないと言う。

実際、NewsPicksの手法は「引用」と言えるのか。引用とするなら、主従の関係が明確でなければならないが、NewsPicksの場合どれが「主」なのだろうか。三上のコメントのようなものが「主」だとでも言うのか?

やまもといちろう氏はジャーナリズムイノベーションアワードの場で「NewsPicksは他人の記事の見出しにただ乗りしている」と主張していたが、まったくその通りだ。私はハフィントンポストやBLOGOSとはブログの転載の約束をちゃんとしている。だがNewsPicksに見出しを使っていいなんてひと言も言っていない。

私は、べつに記事をピックすること自体はいいと思っている。そこで充実した議論が展開されるなら、私の記事を題材にしてくれと思う。だが、誰がいちばん気の利いた皮肉なコメントつけるでしょう競争や、頭の良いコメントつけたのオレだよね競争の、ネタにされるのはまっぴら御免だ。やめてほしい。はっきり言って、私の記事をもう、ピックしないでほしい。コミュニティとして大事にしているユーザーも多いらしいが、あなたたちだけでやってください。私がうんうんうなって老骨にむち打ってどうしても世の中に訴えたいと書いた記事に、三上みたいな侮辱的なコメントを平気でつけられるのはもう、金輪際いやだ。

何やらルールが変わって実名制にしたらしいが、それははっきり言って的外れだと思う。三上を見ればわかるだろう。彼は自分の名前をさらして、あんなコメントを平気で書くのだ。どうせ言われるなら、むしろ匿名のほうがまだいい。名前をさらして胸を張ってとんでもないコメントをされるほうがずっと気分が悪い。

実名か匿名かではなく、運営側がきちんとしたモデレーションをすることが必要なのだ。どういうコメントでどういう議論をするのが理想かを明示し、コミュニティをマネジメントするのだ。運営側が、意思を明確に打ち出すことが必要だ。また、人手もかけねばならない。ツイキャスが10代の子どもたちのコミュニティになっても荒れないのは、そのために人員を割いてしっかりマネジメントしているからだ。

追記:冒頭と同様に、ここに置いていた画像は取り下げた。

この記事はNewsPicksへのピックをやめていただくようお願いします。

もう私の記事のピックはやめてほしい。だからこのマークをアートディレクターの友人に頼んで作ってもらった。これを今後私は使うつもりだ。自分のブログだけでなく、依頼原稿にも編集と相談して使う可能性がある。このマークが入っている記事は、NewsPicksでのピックをやめてください。もちろん、法的には”グレー”なのでお願いするしかない。でも本当に、やめてほしい。

それから、このマークは誰でもコピペして使っていいことにする。もちろん使用する意図はあくまで私同様「この記事はピックしないで」とアピールするためにしないとブレてしまうので、そこは気をつけてほしい。上のような文言を添えたほうがはっきりするだろう。それから、このマークはロゴをいじっているので咎められる可能性はある。私は、これはパロディだと主張するつもりだが、日本ではパロディについてはっきり認められているわけではないことは言っておこう。まあ、グレー対グレー、ってことで。

何らか、私にとって納得のいく状況になったらマークの使用をやめるが、おそらくそうはならないだろうと考えている。

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テレビが本当に変わるのは、中枢からだと思う〜SSKセミナー「民放キー5局はどう進むか?〜編成マンに聞くテレビの新しい姿〜」

SSKセミナー告知↑この画像をクリックすればSSKの詳細ページに飛べます。
5月20日にSSK・新社会システム研究所によるセミナーでモデレーターを担当することになった。
「民放キー5局はどう進むか?〜編成マンに聞くテレビの新しい姿〜」と題して、在京キー局の編成部門のキーマンに集まってディスカッションしてもらう企画だ。

編成の方々をお招きするセミナーはSSKとして2014年にも開催したそうで、今回はその第二弾となる。

編成の方々が集まるからには当然、地上波放送の編成についてがひとつのテーマだ。だがそれだけでなく、もっと大きくテレビ局全体のこれからめざすべき姿にまで話題を広げていきたい。各局で見逃し配信がはじまり、共通のサービスとしてTVerも好調な今、ネットでの番組配信も当然テーマに加えたい。また4月にサイバーエージェントとテレビ朝日が手を組んでネット上の放送局AbemaTVをスタートさせ話題を呼んでいるのでタイムリーに取りあげたい。そしてさらには、これから5年10年でテレビ局はどこへ進むのか、風呂敷を広げて海外の話題にも触れてみたい。

私はこのブログでも「テレビとネットの融合」を主題に掲げ、ソーシャルテレビ推進会議の名称で勉強会もやっている。その立場からすると、各テレビ局でそういう部門で新しいサービスに携わる人たちを応援したいと考えている。実際に交流もあるし勉強会に来てくれる方も多い。

その視点で見ると、テレビ局の中枢である編成局は遠くにあり敷居が高い気がしている。それにどこか、変化に対してブレーキになりがちなセクションだとも聞く。これはある意味当然で、編成局は世帯視聴率獲得が最大のミッションであり、ネットで番組が見られるかどうかは視聴率を背負う重みからすると小さなものだ。会社のセールスと売上に直接結びつくし、視聴率で動く金額は巨額なので神経をすり減らさざるをえない。ネットなんてどんだけ稼いでる?と突っ込みたくもなるだろう。

だが今回はあえてそんな編成の方々に、ネットだの未来だの悠長な話をぶつけてみようと考えた。どうなんだろう?関係ないよ、興味ないよとあしらわれないか?いや、いまこの2016年のタイミングは、視聴率を背負う編成マンもネットや未来を視野に入れているのではないだろうか。

などと期待と不安におののきながら、打合せでお会いする各局編成キーマンの皆さんは、その視野にすでにネットや未来が入っていた。私の想像以上に皆さん考えはじめていたのだ。

時代の変化は常に、周縁から起こる。それは間違いないのだが、その変化が伝搬していく中で、ほんとうに社会全体が変わるのは、中枢からだ、とも思うのだ。周縁には、社会全体を動かす力は残念ながらないのが普通だ。でもそこで起こった変化が中枢に届き、理解され、吸収されれば全体を動かすパワーを持つ。

いまテレビ界では、そういう変化が起こりつつある、ということかもしれない。

このセミナーはぜひとも、そういう変化の兆しをすくい取って、ひとつの形に組み立てる、そんな催しにできたらと思う。

以下、概要を書き記しておこう。

●SSKセミナー
民放キー5局はどう進むか?
〜編成マンに聞くテレビの新しい姿〜
5月20日(金)14時〜17時
TKPガーデンシティ永田町

・パネリスト
日本テレビ 執行役員・編成局長 廣瀬健一氏
テレビ朝日 総合編成局編成戦略部長 赤津一彦氏
TBSテレビ 編成局担当局次長 松島哲男氏
テレビ東京 編成局長 長田隆氏
フジテレビ 編成制作局 編成統括担当局長 小川泰氏
・モデレーター
メディアコンサルタント 境 治

14:00〜15:00 パネリスト1ポイントプレゼン
15:15〜17:00 パネルディスカッション

時間は十分あるので、質疑の時間も設けたい。どうぞこの機会に質問を。

お申し込みはこちらから→SSK申込ページ

興味を持ってもらえたら、ぜひ会場でお会いしたい!

※筆者が発行する「テレビとネットの横断業界誌Media Border」では、放送と通信の融合の最新の話題をお届けしています。月額660円(税別)。最初の2カ月はお試しとして課金されないので、興味あればご登録を。同テーマの勉強会への参加もしていただけます。→「テレビとネットの横断業界誌 Media Border」はこちら。購読は「読者登録する」ボタンを押す。

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テレビ番組の視聴率をニュースで扱うのは不毛だ〜Twitterの声が作り手の糧になる〜

視聴率を視聴者が気にすることには意味がない
最近、視聴率をネタにした記事をよく見る。今クールのドラマがはじまってからも、数多く見受けられた。
→「とと姉ちゃん」平均視聴率24・6%記録 また過去最高更新
→フジ日9「OUR HOUSE」第2話視聴率は5・0%に微増
→松潤主演ドラマ「99.9」の第2話が19・1%と高視聴率 前週より3・6%UP
→ 春の「火曜10時」ドラマ対決、第2RはTBS系「重版出来!」が巻き返し

自分の好きな番組の視聴率が高いとうれしいし、逆に低いと残念な気持ちになる。記事にする側もそんな前提で書いているのだろう。だがいま、テレビ局や番組関係者はともかく、視聴者が視聴率を気にすることにはほとんど意味がなくなっている、と私は感じている。視聴率はもはや”自分と同じような人の感覚”を必ずしも反映していないからだ。

その前に視聴率の”基礎知識”を紹介しておきたい。まず、記事によく取りあげられる視聴率はほとんど関東の数字だ。視聴率は地域ごとに測定されており、関西には関西の、福岡や札幌などの各地域にはそれぞれの視聴率が存在する。このところ地域による数字の差は広がっているようでもある。だから「○○○の視聴率が10%を切った!」という記事を見て、それが日本中に当てはまると思わないほうがいい。

さらに視聴率には”誤差”がある。これは視聴率を測定するビデオリサーチ社がきちんと説明している。番組の視聴率が10%だと2.4%の誤差が生じるそうだ。詳しくはこちらを読んでほしい。
→ビデオリサーチ社WEBページ「標本誤差」

だから10%の視聴率は実は12%かもしれないし8%かもしれないのだ。この誤差についてはテレビ局や関係者は知っているはずだ。知っていても、1%に一喜一憂するのが人間というものだろうが。

そして”基礎知識”で重要なのが「代表性」だ。視聴率なんてネットで調査すれば簡単じゃないか。そう思う人は多いだろう。でもことはそう単純ではない。日本の人口分布をきちんと反映させたサンプルで調査をしないと意味がないのだ。そのことを「代表性」と言い、ビデオリサーチ社はこの「代表性」を担保した調査を行うので業界標準となっている。ネットで安易に調査しても若い層に偏った結果になりがちだ。世帯視聴率はそれぞれのテレビ番組が「関東ではこれくらい視聴された」と言える数字でなければならない。サンプルの抽出がきちんとしていないと結果がブレてしまうのだ。

jinkoupyramid

人口ピラミッドの出典は総務省統計局の「人口推計」

人口分布の偏りを視聴率は反映している
視聴率は日本の人口分布をきちんと反映している。広告取引に使うためには、それが重要だ。でもだからこそ、視聴者が気にしても仕方ないのではないか、と私は言いたいのだ。

視聴率の区分は、性別(M=男性、F=女性)と世代(20-34才=1、35才-49才=2、50才以上=3)でとらえられる。F1なら若い女性、M3は年配の男性、ということだ。この区分を、総務省統計局のWEBサイトにある人口ピラミッドに重ね合わせてみたのが上の図だ。
50才以上が44%もいる。若者(F1、M1)は17%しかいない。50才以上の半分が見たら44%÷2=22%になるが、若者の半分が見ても17%÷2=8.5%にしかならない。

さらに、男性より女性のほうが在宅率が高くテレビをよく見る傾向がある。だから視聴率はF3に大きく左右されてしまう。私はこれを「テレビのおばさん化」とあるところで書いたが、視聴率が大きく動く時はF3が移動した時なのだ。いまや視聴率を支配しているのは”おばさん”たちだ。

ここであらためて言いたいのだが、視聴率はあくまで広告取引に使うために存在している。決して番組そのものの評価ではないのだ。それでも、ひと昔前なら視聴率は人気のバロメーターだといえたかもしれない。人口ピラミッドがいまほどいびつでないころならそう言えただろう。

だがいまや、上のような状態だ。そのことをよく認識したうえで視聴率に関する記事を読んだほうがいいと思う。そうすると読み方も違ってくるだろうし、視聴者まで数字に一喜一憂する必要がないことにも気づいてもらえると思う。一喜一憂するのはテレビ関係者に任せて、自分が気に入ったならそれでいいと思えばいい。

あなたの思いはソーシャルメディアで届ければいい
そうは言っても、せっかく気に入った番組の視聴率が悪いのはいい気分ではないだろう。また、出演者や制作者はつらいのではないか、と心配になるかもしれない。だったら、Twitterでつぶやけばいい。「今回も面白かった!」「○○○さんの演技サイコー!」「毎回脚本が練れてるなあ!」よいと思ったことをつぶやけばいいと思う。

というのは、制作者は思いのほかTwitterを見ているのだ。

フジテレビの番組に『新・週刊フジテレビ批評』という、テレビについて語る番組がある。今年1月の放送で、ヒットを飛ばす人気脚本家三人の鼎談の回があった。非常に驚いたのだが、あれだけヒットを生み出す時代の寵児たちが、いま視聴率が取りにくいことに悩んでいるのだ。そして、Twitterの声を非常に気にしているのだと言う。
→大ヒット脚本家3人「ドラマ放談」

視聴率しか指標がなく、でもそれが取りにくいと、別の評価軸を探す。Twitterは視聴者の生の声が聞けてよいのだろう。クリエイターはどれだけヒットメイカーになってもやっぱり評価を気にするのだ。

だからおそらく、あなたが番組についてつぶやけば作り手たちに届く。その声が糧になり、脚本家たちは頑張るかもしれない。視聴率による評価が難しくなったこの時代に、視聴者の声が直接番組づくりにプラスになるなら、それはむしろ素晴らしいことではないか。
いまTwitterを分析していろいろ役立てようという動きがある。そのうち、視聴率とは別に本当に番組評価のもとになるかもしれない。そんな可能性も視野に、自分の好きな番組について視聴率なんか気にせず、積極的につぶやくといいと思う。

●2016年5月20日SSKセミナー開催
「民放キー5局はどう進むか?~編成マンに聞くテレビの新しい姿~」
さてここで書いたことともかなり関係するセミナーについてご紹介したい。
SSK新社会システム研究所の主催する地上波テレビ各キー局の編成の方々をお招きし、今期の編成のことからこれからのテレビのあり方までたっぷりディスカッションしていただく催しだ。不肖、私がモデレーター役として、各局のみなさんに突撃していきたい。もちろんショーとして楽しんでもらえるものにするつもりなので、よかったらぜひご参加を。
お申し込みはSSKのサイトから。
→SSKセミナー「民放キー5局はどう進むか?~編成マンに聞くテレビの新しい姿~」申込ページ
※少々お高いが、私のお友達には優待価格でご提供も検討できるので、ぜひにという方はご連絡を。

※筆者が発行する「テレビとネットの横断業界誌Media Border」では、放送と通信の融合の最新の話題をお届けしています。月額660円(税別)。最初の2カ月はお試しとして課金されないので、興味あればご登録を。同テーマの勉強会への参加もしていただけます。→「テレビとネットの横断業界誌 Media Border」はこちら。購読は「読者登録する」ボタンを押す。

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「不謹慎狩り」を引き起こしているのは、悪意ない小さなつぶやきかもしれない

「意識高すぎ系」な人びとが支援以外の言動を取り締まっている
井上晴美がブログ更新をやめたり、長澤まさみや菜々緒の写真が叩かれたり、「不謹慎狩り」と呼ばれる現象が話題になっている。これについては、この記事がうまくまとまっている。
→熊本地震後に芸能人の“不謹慎”狩り…長澤まさみは「笑顔」だけで炎上

いま熊本のためになることをしようというのは大変必要で尊い行為だと思う。私も福岡出身なので、日々気になっている。だが現地に行くことは難しく、下手に行っても迷惑になるだけだ。せめてネットを通じてできることをしようと頑張っている人は素晴らしい。

だがその気持ちが行き過ぎて「意識高すぎ系」とでも呼びたくなるような人もいる。実際私もソーシャルメディア上で「いまリア充投稿をするなんて!」と息巻いている人を見かけて引いてしまった。こういう時だからこそいつも通りの日常を過ごすことも大事だと思うのだが。

「意識高すぎ系」な人びとは、他人の言動を取り締まるかのような発言をしているようだ。熊本支援につながらない言動をとがめ立て、中には「不謹慎狩り」に走る人も出てくるのだろう。ただそういう人はわりとふだんから「ちょっと極端なことを言うなあ」という少々特殊な人種だ。そんなに多くはないと思う。

ふとしたつぶやきがバッシングになってしまうのが怖い
だがそうした”本気の”不謹慎狩りとは別に、我々が気をつけなければいけないのは、Twitterなどでの大した意図もないつぶやきが大量に集まると、受け取る側からするとバッシングになってしまうことだ。そちらのほうが、実はおそろしい。悪意のない小さなひと言が積み重なると、大きな悪意が存在することになってしまうのだ。

今回話題になった芸能人へのコメントも、ほとんどがそうなのだと思う。目立つ存在だから、ついつい何か言ってしまうのではないか。それは、おそらく”本気で”言っていることではないのだ。

Twitterの発言は、”つぶやき”と呼ばれたりするので、思ったこと感じたことをそのまま書き込んでしまいがちだ。何を言ってもいいのだと思ってしまう。フォロワー数が少なくて友だちと言葉を交わしあうために使う人はとくに不用意に書き込んでしまう。だがTwitterはLINEとちがって他者が発言を拡散することができる。仲間うちで言ってるだけのつもりが日本中に届いてしまうことは起こりうるのだ。

女優が笑顔を投稿している。少し前に悲惨な震災の映像を見たばかりなのに。思わずネガティブなことを書き込んだ。書いた本人からすると、そんな程度の行為なのではないか。叩く気持ちが一瞬はあったかもしれないが、次の瞬間にはもう忘れている。だがそんな軽い書き込みが、著名な人間のアカウントには大量に押し寄せてしまうかもしれない。それがバッシングの実体なのだと思う。

この推測が正しいとしたら、不謹慎狩りは実は起こっていないのだ。悪意というほどのものではなかったはずが、まるで大きく恐ろしい悪意が膨れ上っているように見えてしまう。ソーシャルメディアの危険な側面だ。

反射的に謝ってしまうと不必要な自粛ムードに繋がる
だからこういう時こそソーシャルメディアを使う際には、想像力を働かせるべきだと思う。一瞬感じたことをそのまま書き込む前に、それがもしかして人を不用意に傷つけてしまわないか。自分の見知らぬ人たちにまで拡散してしまった時、どんな影響を与えてしまうか。読んだ人がどんな気持ちになってしまうか。想像してほしい。想像して、やめたほうがいいかな、と思ったら、ツイートボタンを押さずに消してしまうといいと思う。思ったことをどんどん言うのは素晴らしいことだが、思ったことでも口に出して言わない勇気というのもある。

それから、”叩かれた”側も嫌な気持ちになったり炎上を心配したり気をもんでしまうと思う。発言をひかえるのも選択肢だろうし、スルーするのもありだ。上に書いたようなことが真相ならば、ただ波が過ぎるのを待つのも賢明だ。

ただ、やめたほうがいいのは、反射的に謝ってしまうことだ。不愉快なことを言ってごめんなさい。先ほどの写真と投稿は削除します。もちろん悪いと思ったなら謝るべきだが、非がないなら謝らないほうがいい。謝ってしまうと、”自粛ムード”に拍車をかけてしまうからだ。笑顔の写真が叩かれて有名女優が謝った。そうすると、笑ってはいけないことになってしまう。認めてしまう。

先の推論が正しいとすると、誰も本気で叩いてないのに、笑ってはいけないことになってしまうのだ。これは考えると恐ろしいことではないだろうか。

ソーシャルメディアでの人びとの声が世の中を動かすこともある。そのこと自体は素晴らしいことだ。だが時としてソーシャルメディアは誰も意図しない状況をもたらしてしまう。そんな危険もある。そのことを認識して、不用意な書き込みは避け、必要のない謝罪はしない。そうみんなが考えられればいいと思う。

そしてぜひ、熊本で踏ん張っている井上晴美さんにはもう一度ブログを再開して、現地でいま起こっていることを伝えたり、元気な様子を発信してもらえればと思う。ソーシャルメディアを通じて、みんなきっと応援してくれるはずだ。そういう声のほうがずっと大きいとなんとか伝わればいいのだが。

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子どもは社会みんなで育てるもの。このコンセンサスが、決定的に欠けている

保育園反対運動は、説明のプロセスの問題が大きい
市川市で保育園開設が中止になったと報じられた。私はしまったと思った。実はこの地域に住み待機児童を抱えるママさんから、反対運動について相談を受けていたのだ。現地にも行ったのに何もできないまま、中止になってしまった。何ができたとも言えないが、何かできなかったものかといま、強く後悔している。せめて今後のために、私が知ったことを少しでもここに書いておきたい。

私は 「赤ちゃんにきびしい国で、赤ちゃんが増えるはずがない」と題したブログをたまたま書いて以来、保育と社会の問題を取材するようになった。子育て中の親たちからのメールや相談が大量に届いたからだ。その流れで、保育園反対運動についても取材してきた。ほんの4〜5件だが、首都圏の保育園反対運動の背景や傾向も少し見えてきた。

市川市の件がまさにそうだったようだが、何の相談も前触れもなくいきなり保育園建設を知らされ、感情的になってしまう事例は多い。その気持ちはわからなくもない。隣の土地にいきなり看板が立って「保育園予定地」とあったら怒る人もいるだろう。どうして事前にひとことないのかと。その怒りをうまく解消してもらえないと、態度はどんどん硬化しますます感情的になってしまう。

私立の場合、難しいのは行政が主体性を取りにくい点だ。事業者を募集して事業者が土地を見つけて、という流れだと、住民への説明も事業者主体で、というのが行政の”公式”だ。だが住民からすると「行政の許可を得たと言うなら行政が説明せよ」と自治体に求めるのも当然だろう。結局説明には行政も参加することになるが時すでに遅しだ。この出だしの行き違いがあると事態が複雑化し、反対住民の気持ちがどんどんこじれる。

三大理由「子どもの声・交通が危険・母親が溜まる」は誤解
※以下は、これまで私が取材したいくつかの反対運動の話だ。市川市の件ではないので、その点はよく留意してほしい
こじれるほどに、様々な反対理由が出てくる。様々とは言え、3つはほぼどこでも出てくることだ。子どもの声がうるさいのは困る、予定地の周囲は交通量が多く道が狭く子どもたちに大変危険だ、母親たちが送り迎え時に近くに溜まって迷惑に決まっている。そしてこの3つはほぼ誤解だ。

子どもの声がうるさい。確かに保育園の音についてトラブルがいくつか起こっている。だがそれ以外ではトラブルに至っていない、ということでもある。実際、私はいくつかの保育園を取材したが、意外なほど外に大きな音や声は聞こえてこない。多くの時間、子どもたちは室内で過ごし、いまは防音窓の性能もかなり高いので、窓を閉めていればほぼシャットアウトできる。隣家の側も窓を閉めてテレビでもつけていれば、うるさいとはほとんど感じないはずだ。「保育園ができてみると、そんなにうるさくないもんだねえ」反対していた人がこう言った例もある。もちろん100%ではないし、うるさいかどうかは主観だからまったく問題ないとは言えないが、計画の段階で意見を言えばかなり解決できるだろう。

交通の問題も、ほんとうにどこでも聞く。正直に言うと、どの予定地の周囲の道も、そんなに大騒ぎするほど危険だろうか、という道だ。交通量が多い時間には対策は必要だと思うが、話し合う余地がないこともないだろう。行政と相談して交通の制限を議論したり、交通整理員を朝の時間につけるなどのやり方もある。

母親たちが送り迎え時に溜まるから迷惑だ、との反対理由もよくある。これは完全に誤解だ。保育園は”忙しい”親たちが預けるので、送り迎え時に溜まってる場合ではないのだ。私が見た保育園ではどこも、送り迎えはまるで緊急事態のように親たちがすぐ来て、すぐいなくなった。

反対する人はどうも保育園に強烈なイメージを持っていて、それをなかなか動かそうとしない。いくつか保育園を視察でもすればずいぶん変わってくるのに、残念だ。最初でこじれるともう、反対する理由を次々にあげつらって頑として折れない、という姿勢になる例が多い。

賛成の声も多いのに、反対の声にかき消される
そして多くの現場で、反対側の意見のみが出てきて、賛成の声が届かない現実を見た。私は、ここがいちばん問題だと思う。保育園建設の問題は、予定地の近辺だけの話ではないのだ。その周辺で子どもたちを通わせたい夫婦、そしてそれを支援したい他の住民たちがいる。その声を届ける場はあまりなく、反対側が一方的に意見を言う場だけが設けられがちだ。行政の担当者も事業者も、反対側の攻撃にサンドバッグのように耐えないと開設に至れないのだ。

”年寄りが反対する”と決めつける人もいるが、私は「なんとか開設にこぎ着けるよう支援したい」と言うお年寄りをたくさん見てきた。反対する側に比較的高齢者が多いのも確かだが、お年寄りイコール反対する人、ではまったくない。

むしろ子育てを支援したい、だから例えば交通の問題があるなら、毎朝交通整理を買って出てもいい、と言うお年寄りもいる。先に挙げた”三大反対理由”をはじめ、反対側の懸念点を、賛成側の人びとが解決する案を出すことも可能なのだ。

だが反対側は感情的になっている。うかつに賛成を言うと、攻撃の対象になりかねない。いや実際に怯えてしまう。私は、反対するお年寄りの攻撃的な口調の中、自分たちには保育園が必要なのですわかってくださいと、涙声で訴える若い母親、という場面を見たことがある。そうとう勇気が必要だったのだろう。

私が見てきた反対運動の現場は、そんな風に感情的になって行政や事業者が何を言っても猛反対で聞く耳を持たず、賛成側はひと言も発せない、というものが多かった。これがよくないと思う。説明会は行政が開くことが多いので、”審判”する立場が誰もいない場で反対側の罵声ばかりが響く殺伐とした状況になってしまう。説明会の開催手法を考えたほうがいいと思う。

少なくとも反対する人たちは、自分たちの意見を通すことと同じくらい、保育園を望む人びとの意見も尊重するべきなはずだ。必要があるから保育園を行政はつくろうとしている。そこに目を向けず耳を貸さないのは、公共心に欠けていると言われても仕方ないのではないか。

私が強烈に記憶している反対側の意見がある。70代とおぼしきお年寄りの男性がこう言った。「我々の家の資産価値が下がることについて、行政はどうするのか見解を求める」いったいどういう了見でそんなことを堂々と言えるのか私にはまったくわからないが、説明会の場はこんな驚くべき意見を平気で言えるほど、感覚が麻痺していることが多い。まっとうな感覚の議論の場ではないのを、乗り越えねばならない行政や事業者はほんとうに大変だと思う。

解決のために、大きく強いメッセージを政治が発するべき
ではどうすれば解決するのか。正直、私にはわからない。反対運動を取材するほど、反対側の強烈さに打ちのめされ途方に暮れる。

思うに、個別の現場をどうこうするより、もっと大きな動きが必要なのではないか。

育児と社会について考えるようになって、海外での子育てを経験した人たちの意見をかなり聞いた。彼らが一様に言うのは、他の国ではこんなこと議論にならない、ということだ。例えば電車にベビーカーで乗るべきかどうかなんて議論にさえならない。そうではなくベビーカーを見たら誰も彼も手を貸すのだそうだ。欧米だけでなくアジアでもどこでもそうだと言う。

つまり子どもを育てることは社会の最優先事項であり、みんなで助け合うべきものだと、日本人以外の人類は知っている。大袈裟に言うとそういうことだ。核家族化が進んだ時、私たちは子育てについて誤った認識に向かってしまった。子育ては母親の責任だから、各家庭で自己責任で行うものだ、ひとりでがんばれ。子育てが大変だと言う母親は努力が足りないし甘えている。保育園に預けるなら誰にも迷惑をかけないで預けられる環境でなければダメなのだ。そんな感覚が、一部の人たちには常識になっている。

反対運動があちこちで成立してしまうのも、そういうことだろう。保育園は必要だが、おれには迷惑をかけるな。そう言っているも同然だ。誰にも迷惑がかからないし100%安全な保育園なんてそもそもつくれるはずがないのに。そんないびつな理が通る国で子どもが増えるはずがない。子どもが増えないと社会は衰退するのに、そんなことより、自分に迷惑がかかるかどうかが大事なのだ。この保育園は、前の道路に危険がある。ではどうすれば安全になるだろう。そう考えることのできる器の大きな人は、反対する側にいないのですね。そういわれても仕方ないと思う。

「それではいけません。みんなで考え方を変えましょう。保育園新設に反対する方たち、いま一度何が一番大切かを考えてもらえませんか。」そんなメッセージを、えらい人が発する必要があると思う。こういう時のために、利害を調整するために政治家がいて、利害を超えたメッセージを発すべきではないだろうか。発すべきはもちろん、この国でいちばんえらい人たちだ。国会議員であり、国会議員が選んだ首相だ。首相がはっきり、メッセージするのがいちばん効くと私は思う。それくらいの重みのある事態ではないだろうか。

ところが、それどころか、私が見てきた町の反対運動の中心には、社会的立場の高い人がいるのを私は知っている。そんなえらい人たちが、利害を超えたメッセージを発するどころか、反対側の人たちの代表となって叫んでいるのだ。悲しいし、情けない。

願わくは、そんな彼らが大きな視点を持ってくれればと思う。世の中全体のために主張を変えるのも、大人の勇気と思うのだがどうだろうか。

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このままでは日本のコンテンツ産業もガラパゴス化してしまう

日本の映像コンテンツは輸出に対応できていない
あるプロジェクトのメンバーに加わり、この半年ほど、日本のコンテンツ産業の今後について考えるためヒアリング作業を行ってきた。とくに海外への進出の可能性を探るのが大きなテーマだった。日本の映像コンテンツの最前線の方々に話を聞いて回って感じたのは、もう手遅れかもしれないという憔悴感だった。

まず、中国だ。かの国の映画産業が急激に、怒濤の勢いというべき成長をしている。世界の映画市場についてざっと説明すると、かなり長い期間、日本は世界第2位の市場だった。1位はもちろんアメリカで、2015年ではカナダも合わせて110億ドル程度、1兆3千億円程度の規模だ。日本は変動はあるものの不思議と2000億円前後で推移してきた。他の国、イギリスやフランスなどはもっとぐっと規模が小さい。

ところが近年、中国の映画市場がぐいぐい伸びて、2012年にはついに日本を抜き世界2位の座を奪った。その後も毎年ものすごい勢いでさらに伸び、2014年には5000億円台半ばだったのが、2015年には8000億円を超えたという。50%の成長率だ。そんな成長ってあるだろうか。しかも広い国土に映画館がない都市がまだまだあるという。2017年にはアメリカをも抜いて世界第1位の座に就くと予測されている。13億人もいるのだからその予測は間違いないのだろう。

映像産業では、市場規模がものを言う。ハリウッドが世界で君臨してきたのも、3億人の映画大好き国民を抱えて国内の規模が最大だったことが大きな要因だった。自国市場が大きいと、まず国内向けに大きな予算をかけて映画を製作できる。そして映画にとって予算はスペクタクルな映像を左右する。自国市場が大きいことはその時点で非常に有利なのだ。その利点を、今度は中国が手にしてしまう。

だったら日本の映画産業も中国市場に進出するといいのだが、あの国は難しい。外国勢が中国で映画を上映するには、”そういう関係”を結ばねばならないのだが、日本は外交関係からしてギクシャクしており、映画界も関係構築ができていない。韓国は共同合作協定を締結していて、一緒に制作をすることで市場に入り込んでいる。出演者は中国人だが製作スタッフは韓国勢、という作品が増えているそうだ。対して日本は、巨大な成長市場ですっかり出遅れているのだ。

さらに中国ではいま、映像配信市場もすごい勢いで伸びている。中国に限らず、世界的に配信はホットだ。過去作品で著作権も処理できていれば、ひところよりいい値段で買ってもらえるという。
だが日本は著作権の解釈が非常に保守的で、配信を販売するための著作権処理には多大な労力が必要だ。放送権の販売はできても配信権は売れないテレビ番組がたくさんある。

ところが、いまや海外の見本市などに出展しても、配信権がないと話にならないという。番組を気に入ってもらえて商談が成立しそうになっても、配信権は別だというと、じゃあいらないとあっさり断られてしまうそうだ。いまや放送権と配信権をセットで売り買いするのが世界市場の常識になっているのに、分けて売っているのは日本くらいだそうだ。売れるものも売れない。そんな状況になりつつあるのだ。

頼みの国内市場も、今後縮小する一方
日本が世界2位の市場だったのはなぜか。もちろんコンテンツ産業のレベルが高かったからだが、その背景には人口の多さがある。日本の人口は世界で10番目に多い。大したことないようだが、これまでの”先進国”の中ではアメリカに次いで二番目だった。世界2位の市場は、先進国での人口が2位だったからだ。

人口が多いことはコンテンツ産業にとって、要といっていいくらい重要だ。映画やドラマを楽しむには、その国の言語が理解でき、文化がわかっていないといけない。役者だって全然知らない人たちばかりだといまひとつ楽しみにくいだろう。阿部寛が『半沢直樹』の原作者・池井戸潤の小説『下町ロケット』のドラマ化作品に出る。だったら見ようか見まいかと判断する。ハリウッド製作の西部劇を見る時、19世紀の開拓時代にはみんな拳銃持って自衛していたと知らないとさっぱりわからないだろう。

言語と文化を共有している”国民”が一億人いた。そこにコンテンツ市場ができ、メディア産業が活発になり、映画やドラマがビジネスになった。マンガも市場ができてアニメも盛んになった。人口が多いと文化は豊かになる。
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このグラフは、これまでの日本の人口増加と、今後の人口減少の推計値を表している。人口が登り坂を駆け上がるのと並行して、産業全体が栄えてコンテンツ市場も拡大していった。手塚治虫や黒澤明や宮崎駿がそれぞれの分野に登場し、彼らに憧れる若者たちが次世代の作り手となり市場拡大を支えてきた。

人口が増えてきたから、それが起こった。

これから、人口が減る中で、何が起こるだろうか。ほっておくと、市場が急激に縮小し、これまでと逆の下り坂に入ってしまう。作っても作ってもコンテンツは前ほど売れず、もともと貧しかったクリエイターの環境は貧しさから抜け出せなくなる。多くが諦めていくだろう。海をひとつ越えた国では、コンテンツ市場が大にぎわいになっているのに。

私は保育園の問題も別の記事で訴えてきたが、ひとつには、専門であるメディアやコンテンツの世界にも影響するからだ。保育園が増えないと、コンテンツ産業が衰えるのだ。

配信権を見直さないとコンテンツ産業は衰える
日本の少子化を食い止めるべきだという論はある一方で、日本のコンテンツ産業は豊かな国内市場をあてにできない状況を認識すべきだろう。もはや待ったなしで、世界に活路を求めないわけにはいかないと思う。

となると、輸出できる環境づくりが必要だが、同時に”権利”についてこの機に国全体で考え直すべきではないか。これまで、映像のネット配信になると権利保持者が急に態度が硬化し、権利処理や配分とは別に「ネットには出したくない」と感覚的につっぱねる例も多く見られた。それができていたのは、国内市場が豊かだったからだ。これから、厳しくなる。国内市場だけでは作り手が食えなくなる。急速に変化する。そのことをぜひ認識してほしい。変えるなら、いましかない。来年、再来年になったら、日本抜きでの国際市場ができ上がって入るスキがなくなるかもしれないのだ。いまだってすでに、日本のコンテンツが受けるのは台湾と香港くらいで、東南アジアでは若者たちが韓国俳優に憧れ、韓国のファッションや、韓国のメイクを真似したがる。日本はアジアの憧れだというのは、もはや幻想だ。

海外に行けないだけならまだしも、今後は日本国内でのコンテンツも中国などアジア製が増えるかもしれない。そんなバカなと思うだろうが、テレビの黎明期には日本のゴールデンタイムのドラマはアメリカ製だらけだった。当時の日本では製作のノウハウも薄かったし、自分たちで作る余裕も少なかった。買ってきて流したほうが早かった。同じことがこれから起こってもまったくおかしくない。今後十年間で人口が5%減り、さらに次の十年間ごとに1000万人ずつ減る。衰えていく国では、物語を映像化する余裕は薄れていくだろう。

だからいま、大きな決断が必要だ。著作権に対する考え方を大転換し、コンテンツ輸出を最優先にする。そういう決意を、政治レベルでも、権利保持者レベルでも、なすべき時だと思う。

日本のコンテンツ産業のレベルはいま、かなり高いと思う。中国などアジアが追いつこうとしても、数年では追いつけない。だが十年経つとわからない。だから、いまだ。コンテンツ力があるうちに、変わらねばならない。

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「#保育園落ちたの私だ」空気に対する革命の、空気とは何だ?

3月からYahoo!個人でも書かせてもらうことになり、「保育園落ちた日本死ね」を発端にした一連の動きについて、3つの記事を立て続けに書いた。

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→「保育園落ちた日本死ね」ネットとテレビで響きあい国会に届いた”絶望”
→「日本死ね→書いたの誰だ?→ #保育園落ちたの私だ → 国会前スタンディング」絶望の不思議な連鎖
→「 #保育園落ちたの私だ」無名の母親たちが起こした、空気に対する革命

いちおう”メディアの専門家”として書くことになっているので、そういう分析をしてもいる。3つの記事のうち、最初の2つはいわゆる「ヤフトピ入り」を果たし、どえらいPV数となった。いきなり2つもヤフトピに入るのもラッキーだが、Yahoo!の人によると、ヤフトピ入りしたにしてもPV数は多かったそうだ。それだけいま興味を引く話題だったということだろう。

Yahoo!に書いて気づいたのだが、やはり「ニュースサイト」なのでニュース記事として書く気持ちになるし、あまり長くも書けない。ライターの本能が”この場ではあまり長い文章はふさわしくないぞ”と警告してきて、文章量を抑えようとする。

とくに、最後の記事の「空気に対する革命」はもっと書きたかったのだが前半ですでに文字数がふくらんだので抑制してしまった。そこで、思い切り書ける自分のブログでたっぷり書こうと思う。やっぱり好きに書ける自分の居場所は書きやすい!

「保育園落ちた日本死ね」に対して、あるいは国会前スタンディングや署名を渡す相手が国会議員であることについて、「保育園が足りないのは自治体の問題なのに日本に文句を言ったり国会に物申したりするのはおかしい」と言う人は多い。だが現場を取材した身としては、その指摘はピント外れと言わざるをえない。

両方の活動とも、保育園が足りないことへの抗議であると同時に、国会で匿名ブログに対して「匿名では議論できない」と首相が答えたり、「誰が書いたんだ」と野次が飛んだ、そのことに対してのアピールなのだ。匿名というが、保育園落ちた人間はここに存在するぞ!と言いたい活動。国会での野次へのアピールだから、国会前での行動であり、国会議員への署名だったのだ。

「誰だ?」と問うなら「私だ」と答えてやる!この直線的な行動に対し、「国ではなく自治体だ」という論理は、あまりにもズレている。保育園の新設には国の補助金が出るし、だからこそ安倍政権は「国として受け皿を何十万人分増やした」と実績を主張する。つまり論理的にも「国じゃなく自治体」という指摘はもろくも崩れ去るのだが、そういうことでなく、そもそも論理を振りかざすこと自体が的外れだと気づいてほしい。いま沸き起こっているのは、「日本死ね」からしてそうなのだが、はっきり言って感情論だ。もっとシンプルに言うといま、働く母親たちが怒りを爆発させているのだ。不満を言い募る女性に対し、解決を示そうとする男性は”わかってない”とよく言われるが、「国じゃなく自治体でしょ」には、そういうデリカシーのなさを感じてしまう。

もっともぼくがそんなことをいま言えるのも、この二年間様々な保育活動を取材したからで、それまでは何もわかってなかった。だからぼくもあまり言えたギリではないし、取材してなかったらデリカシーのないことを言っていたかもしれない。

とくに”保活”つまり保育園に子どもを入れるための活動についてほんの数名の女性に聞いただけだが、本当に驚いた。「空気に対する革命」の「空気」の第一は、保育園を見つけることのあまりの困難さ、保活の不条理さだ。

言われているように、いろんな条件がポイント化されており、うまく条件を整えないと認可保育園には入れない。その不条理の最たる側面は、基本的に現時点で母親が働いていないと認可保育園には入れないのだ。保育園を見つけたいのは働きたいからで、その時点では働いているはずがない。でも、いま働いていないとポイントがつかず、預けられないのだ。矛盾していて頭がおかしくなりそうだ。

保育園がそれくらい足りない、圧倒的に足りてない、ということだ。そこで、働くために認証や無認可の保育園にまず預けて働きはじめて、それから認可保育園に申請することになる。そうすると、本当は会社がくれる育休を二年間フルで使ってから復職したいところを、その前に早々と復職して働いた実績を作ってから預ける。その結果、認可に入れるための認証や無認可も早々と埋まってしまう。どんどん保育園が足りなくなるおかしなスパイラル

そんな笑えない保活の不条理が、「空気に対する革命」の「空気」だ。

だがそれに輪をかけて本当に悲しい空気がこの国には漂っている。

以下は、「赤ちゃんにやさしい国へ」というFacebookページ宛てに自分の現状を書きつづったママさんからのメッセージからの引用だ。

境さんのおっしゃる通り、この国はとても子育てがしにくいです。
4月から復帰の私ですが、かろうじて子どもを保育園に預けることはできそうですが、職場の長からは『申し訳ないけど時短勤務はさせられない』と言われてしまいました。
私たち夫婦の実家は遠距離で、共にまだ現役で働いているため、協力も仰げません。
夫と2人で協力して育児をしていくしかないのですが、夫も職場で『保育園のお迎え等で残業できない日もあるかもしれない』と長に話すと、『キャリアアップのことはどう考えているの?奥さんはもう少し融通のきく仕事に就けなかったの?パートとか…』と、パタハラともとれる苦言をいただいて帰ってきました…。

確かに、子育てをしながら働くのは、子どもの発熱などによって突発的に休むことも増え、周りの方に迷惑をかけてしまいます。
そのことについては本当に申し訳なく、また理解いただけたらとても有り難いと思いながら働くのですが…

“職場に迷惑をかける子育て世代=悪”

のような空気が、この国に漂っている気がしてなりません。
子育てをしながら働くって、とても息がつまるなぁ…と感じずにはいられません。
子育て世代が、歓迎されてないんですよね。
こういう空気が、私たちの子どもの時代には少しでも薄まっているよう願わずにはいられません。

ママだけでなく、育児に協力的なパパの周りにも、しんどい空気が漂っているということをどうしてもお伝えしたく、不躾にもメッセージを送らせていただきました。

これこそが、空気の中身だ。「子育てをしながら働くのが、息がつまる。」パパも窒息しかねない。そんな国で子どもが増えるはずがない。

保育園に入れるの大変。入れたら入れたで冷たい職場。社会全体から「は?お前ら子ども育てるとか何言ってんの?」と言われてるも同然だ。それが「空気」の中身だ。

ただ引用したメッセージでいちるの救いは、このママさんはパパさんと一緒に立ち向かっていることだ。「それは君の問題だろう」などと母親に押し付けるタイプではない。そしていまの若い世代はもう、こうなのだと思う。そういう意味ではこの問題は、母親だけの問題ではすでにないのだろう。

だがそれでもなお、ぼくが「無名の母親たちの革命」と女性を主語にするのは、やはりこの問題の主体は女性であり、もうこの何十年も「働くつもりか、あんた?」と問われ続けた母親たちの、溜まりに溜まったマグマが一気に噴出していると思うからだ。

旧世代のおっさんらから見たら、「日本死ね」も、国会への行動も、政治的に傾いた特異な女性のやることに思えるかもしれない。だがいま、ごくごく普通の、教養も品もある女性たちが怒りを爆発させている。国会へ行かなかったとしても、区長に手紙を出したりして行政に具体的な意見表明をする女性たちがぼくの周りにも続出している。こういう風に”言う”ことはすごく大事だし、積み重なれば効くと思う。

このうねりはまだまだ続くだろうし、ぼくも追って書いていきたい。

ちなみにぼくのモチベーションにはいろいろな要素があるのだが、何より自分の子どもたちに、この空気を今のまま味わわせたくないからだ。大学生と高校生のぼくの子どもたちに、その時が来たら健やかにのびのびと子育てをしてほしい。空気を変える革命。旗を振るのは女性たちだとしても、この国で暮らすみんなの問題なのだ。

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ネットに拡張しはじめたテレビを、どうとらえるか?!(3月にセミナー2つ開催します!)

テレビはオワコンだと言われる。テレビはレガシーメディアに分類されている。若者はテレビを見ない。それはまったくその通りだ。

だが一方で、こんな話がある。

ある若者と話していた。彼はテレビを持っていないという。
彼が所属する会社は、テレビの情報をもとに新しい事業を創出しようというベンチャーだった。テレビを見てないのはまずいんじゃない?と、からかう気持ちでこう言った。

「じゃあ、テレビ見てないんだね」ところが、彼は逆にこう言った。
「いや、でもテレビ好きです!『アメトーーク!』毎回見てます!」
「え?だってテレビ持ってないんでしょ?」
「持ってないですけど、テレビ見てます!」と言いながら彼が差し出したのはスマートフォンだった。

P1020118※写真は再現です

私はいささかのカルチャーショックを受けた。スマートフォンを差し出して「テレビ見てます!」と勢いよく言ってのけるのだ。だが彼からすると自然なことなのだろう。彼にとってはテレビ受像機ではなく、スマートフォンでYouTube上の『アメトーーク!』を見ることが、”テレビを見る”ことなのだ。

テレビは見られてない。だがテレビは見られている。そんな不思議な現象がいま起こっている。テレビとはそもそも、テレビ局が製作したテレビ番組をテレビ放送によってテレビ受像機で受信してリアルタイムで視聴するものだった。そのためにすべてが整えられているはずだった。だがいまや、タイムシフトで視聴したり、テレビ放送ではなくネット経由だったり、誰かが違法にアップロードした動画共有サービスだったりで視聴されている。

テレビ離れとよく言われるが、テレビ番組から離れたというより、”放送”という形態から離れたのだ。面白い番組は、録画やネットでかなりの量が見られているようだ。面白い番組は、見られる。だって面白いのだから。

だが難しいのが、テレビ局のビジネスモデルは、テレビ放送によってテレビ受像機でリアルタイム視聴されないとお金にならないようにできている。そこをお金にする仕組みを60年間かけてこってり重厚に築き上げてきた。だからタイムシフトやネット視聴に簡単に対応できない。だが躊躇していると若者にまったくアクセスできない存在になりかねない。だからマネタイズが明確になってなくても少なくともネットには出なければ。この二年間くらいでようやく、そこだけはテレビ放送界で共通認識になったように見える。

そんな背景を反映させたセミナーを、3月の上旬と下旬にそれぞれ私の企画で開催することになった。

まず、SSKセミナー。新社会システム研究所という、多様な領域でセミナーを開催しているところで、私がコーディネーター役となり、パネルディスカッションを3月3日に開催する。題して「テレビは見られているのか?いないのか?」。テレビ受像機でのリアルタイム視聴からはみ出し、ネットなどに拡張しはじめたテレビの有り様を、できるだけ生々しく解明してみたいと考えている。

電通総研、博報堂メディア環境研究所、ビデオリサーチ、インテージ。それぞれ、メディアと人びとの関係についてデータを出したり研究したりしている。それぞれのフレッシュな面々に登壇をお願いした。他のこの手のセミナーではなかなか見ない組合せで、ユニークなセッションが展開できそうだ。

詳しくはこちらで。SSKセミナー「テレビは見られているのか?いないのか?」

もうひとつは、JAM日本マーケティング協会。マーケティング業界を軸に多様なセミナーを開催するJMAと、私が運営するMediaBorderとのコラボレーションで、「MediaBorderプロジェクトセミナー2016」を今年展開することになった。
その第一弾として「拡張するテレビ、動画化するネット〜見えてきたテレビとネット・融合の実際」という企画が実現した。3月25日の開催だ。

詳しくはこちら。Media Borderプロジェクトセミナー2016 拡張するテレビ、動画化するネット「見えてきたテレビとネット・融合の実際」

今年はこうしたセミナーを随時、次々に企画していくつもりだ。みなさん、ぜひ、おいでください!

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ドラマがあふれ返って、かえって前よりドラマを観なくなっている現実について(そんでNetflix大丈夫なの?)

2015年は動画配信元年だったらしい。だったらしいと他人事みたいに書いてしまったが、動画配信元年だSVOD時代の幕開けだと言いふらしていたのは他ならぬ私自身なので、らしいもなにもないのだが。そんな私が「らしい」と書いてしまったのは、その後どうなっちゃったんだ?と騒いだ本人も感じているからだ。

どうもSVODの話題が一時期に比べると静かになった気がする。

そんなところへ、久しぶりにちょいホットな話題が出てきた。すでに1月にリリースは出ていたが、Netflixローンチ時に『テラスハウス』『アンダーウェア』を制作したフジテレビが、再びNetflixと組むという。『グッドモーニングコール』というドラマをフジテレビが制作し、Netflixで配信される。今日(2月12日)にはあらためて記念イベントが行われたそうだ。

goodmorningcall
人気の少女マンガの実写化で、フレッシュなキャストが主演する。この企画は、アジアでの配信を強く意識しているらしい。なるほど、1月にラスベガスで開催された大型イベントCESではNetflixのCEOリード・ヘイスティングス氏がキーノートスピーチを行い、世界130カ国で新たにサービスを開始すると発表した。

アジアでは中国と北朝鮮以外ほとんどすべての国で展開されることになる。それを受けて、フジテレビ制作のドラマでアジアぐいっと切り込もうということだろう。Netflixにとってもフジテレビにとっても威勢のいい話だ。

動画配信二年目らしい、スケールの大きな話だ、と言えばいいのだろうが、一方私自身は少々SVODにもNetflixにも、前ほどワクワクしなくなっている。

私のテレビにはAppleTVもdTVターミナルもつながっている。AmazonのFireTVも横にありすぐにつながる体制が整っている。そして日々、NetflixとhuluとdTVと、時にはAmazonプライム・ビデオを見て回り、何を観ようか見て回る。何を観ようか見て回った末、何も観ないで終わってしまう。

もうなんというか、洪水なのだ。ドラマの洪水を土手に立って眺めた揚げ句、あまりの水量に腰が引けて入らないまま終わってしまう。

SVODにとってはドラマが重要だ。定額制ということは、いくら観ても料金同じっていいなあ!と思わせたいので、連続ドラマに力を入れることになる。日米のドラマをがんばって取りそろえ、それでも足らないとオリジナルドラマもまたずらりと並べる。どれも面白そうだ。

だがそうやって、それなりに面白そうなドラマが数々並ぶと、どれを見たらいいのかわからないのだ、さっぱり。

その結果、奇妙なことになっている。昨年、『HOMELAND』にハマった。夏だったか、ある人が面白い面白いと言うので、huluで見たらものすごく面白くって一気にシーズン1、2と観終えてしまった。大いに満足したが、調べると続きはすでに次々制作されている。一話数百円払えばシーズン3もdTVで視聴できることがわかったが、躊躇していた。

すると年末だったか、シーズン3がNetflixに入っていた。huluにもdTVにも同時に入っていたのだが、とにかくシーズン3をイッキ観した。驚愕の展開でさらに大々満足した。続きを見たいと思っていたら、年明けにDlifeでシーズン4がはじまったのだ。

かくて、私が今一番楽しみにしているハリウッドドラマは、NetflixでもhuluでもdTVでもなく、SVODではなく放送チャンネルであるDlifeで視聴している。・・・なんだそりゃ?・・・

考えてみると、『ウォーキングデッド』もそうだった。これは一昨年だったか娘がhuluで見るようになり、そこで視聴できる過去シーズンを全部見終わったら最新作をFOXチャンネルが放送しはじめた。かくて、毎年新シーズンの”放送”を父娘で楽しみにしている状態だ。

この観点から捉えると、SVODは面白い海外ドラマの入口に過ぎなくなってしまう。SVODで発見したら、最新作は放送で追いかけるのだ。SVODは補助かよ!元年ってそういうことだったの?

そんな状況で、私の中で割を食った形なのが日本の民放ドラマだ。前よりずっと見なくなってしまった。以前は、気になる新作ドラマはひと通り録画しておき、初回を観て気に入ったものは継続して視聴していた。とくに面白いと思ったものはできるだけリアルタイムで観たものだ。そうでなくても、4つや5つのドラマは続けて録画で視聴していた。

いまは、1クールにせいぜい2つだろうか。いや、録画は続けるのだけど、観ない。観なくなってしまったのだ。だってNetflixやAmazonプライム・ビデオに、なんか気になるオリジナルドラマがあるんだもの。

じゃあそれらを観るかというと、観ない。そのうち観るつもりで、観ないのだ。観るきっかけをつかめないまま、”マイリスト”とかに入れたっきりのドラマが数え切れないくらいある。リストに数え切れないくらい入れていると、その中でどれを観るべきかがもうさっぱりわからなくなる。

で、結局SVODで観るのは”一度観た少し前の映画”だったりする。面白かったのはわかっているし、でも細かいところは覚えてないので、ついつい観てしまう。どこか保守的な選択として”一度観て間違いなく面白かった映画”を選んでしまう。・・・いや、こんなことしたくてSVODに加入したんじゃないはずなんだけどなあ・・・

そうやってちょっとSVODに冷めはじめている。そうなるといちばん危ういのがNetflixだ。だっていちばん売りのNetflixオリジナルドラマを、結局いちばん見なくなってる。

そもそも、ハリウッドドラマは日本人にとって縁遠い存在だ。映画なら役者もよく知ってるけど、ドラマに出る役者はほとんど知らない。そして企画もぱっと呑み込めない。ドラマには国民性や国の文化が反映されている。映画よりもそれが濃いかもしれない。ちがう国のドラマは”わかりにくい”のだ。バンパイアものなんて見る気がしない。ゾンビものにはやっと慣れてきた。それ以外になると・・・醍醐味や見どころ、判断基準などがわからないのだ。

縁遠くてわかりにくい中でも、Netflixオリジナルはとくにわからない。距離がある。ローンチ当初はわりとはっきり”ウリはこれ!”というのがいくつかあり、ウォシャウスキー姉弟が取り組んだ『センス8』とか、マーベルものとしてはヘビーな味わいの『デアデビル』とか観たものだったが、そのあとが続かない。

もっと情報を発信しないと、ダメだよ、Netflixは。ごく一部の海外ドラママニアに受けてるだけで、それ以上にふくらまないよ。そこにはあまりたくさん人数はいないし、ほんとに好きな人はCSチャンネルで最新シリーズを追っている。結果論だけど、つかめている市場が中途半端な大きさしかないだろう。

それでもオリジナルドラマで勝負するのなら、”海外ドラマ好き”というカテゴリー以外の人たちにも魅力を伝えていかないと、広がらないだろう。いまおそらく、huluローンチ時よりはずっと多くのユーザーを獲得できているだろうけど、それを拡大するには、情報発信しないと。

意外にネット上でNetflixの予告映像が出てきたりはするのだけど、海外ドラマ好き以外にはなんだかよくわからないし、届かない。わからない予告編の最後に”Netflix”と出てきても、何も伝わらないまま終わってしまうだけだ。

予告映像より、必要なのは”これおもしろいよ!”という人の声だ。どんな話か、内容を説明されるより、”これねえ、とにかくびっくりするから!ドキドキするから!見たことないから!”と感覚的なことを言われるほうがずっと効く。だから実は、情報ではなく、感情が必要なのだ。インフォメーションより、エモーションこそが、見てみようと思うきっかけになる

そういうとこ、頑張ってよ、Netflix。元年とか騒いだだけのことあったなあ、って思わせてほしいもんだ。

ところで、そんなことも含めてテレビ視聴の最前線についてディスカッションするセミナーを開催します。「テレビは見られているのか?いないのか?」のタイトルで、電通総研・森下真理子さん、博報堂DYMP・加藤薫さん、ビデオリサーチSynapse編集・青山隆一さん、インテージ研究員・田中宏昌さんをお迎えして、テレビ視聴の最前線を探る催し。
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『シドニアの騎士』はNetflixを武器に世界と戦う!〜ポリゴン・ピクチュアズCEO・塩田周三氏インタビュー〜

このブログでは、Netflixについて取材を重ね、何度も記事にしてきた。これまでにこんな記事を配信している。

→Netflixとフジテレビの共同制作の先には、テレビの”もうひとつのベクトル”が見えてくる

→Netflixについてわかってきたのは、まだ何もわからないということだ。

→動画配信には世界をひとつにする可能性がある〜Netflix CEOリード・ヘイスティングス氏にインタビューして思ったこと〜

→Netflixでドラマを作ってみたら、地上波にはない自由を感じた〜プロデューサー関口大輔氏インタビュー〜

Netflixを取材していると必ず出てくるキーワードがある。『シドニアの騎士』という、日本のアニメーション作品だ。Netflixの日本でのサービス開始のずっと前から、配信されていた唯一の日本のコンテンツだ。

20160205_sakaiosamu_01(c)弐瓶勉・講談社/東亜重工動画制作局

制作はポリゴン・ピクチュアズ。映像業界にいた人ならその名を聞いたことがあるだろう。80年代にいちはやくCGによる映像制作をはじめて、独自の存在となった。90年代には資生堂のテレビCM用に開発したイワトビペンギンのキャラクターが大人気となったことでいわゆる”ブレイク”した。創業者・河原敏文氏は時の人となったが、ポリゴンはその後事業を広げすぎて一気に凋落してしまう。その言わば敗戦処理を引き受け、焼け跡から会社を建て直してまったく新しい路線を開拓したのが現CEOの塩田周三氏だ。

Netflixと初めて仕事をした日本企業として、塩田氏のお話をうかがってみた。さぞかし戦略的に動いた結果だろうと想像していたのだが、実際にはCG制作会社として七転八倒した末にたどり着いた新たな出発点だったことがわかる。だがその先には、日本の映像制作業界全体のモデルとなる道筋が見えてきそうだ。誰にも見えなかった未来の入口はどう切り開かれたのか、じっくり読んでほしい。

20160205_sakaiosamu_02
まず聞いてみたのは、「ポリゴン・ピクチュアズがめざすものは何か」という質問だ。何か確固たる理念がないと、世界市場を相手にするようなことはできないのではと感じていたからだ。

「ポリゴン・ピクチュアズが32年間存在してきた中で、河原敏文という男が言っていた”誰もやっていないことを圧倒的なクオリティで世界に向けて発信していく”という言葉を、ぼくが社長になってステートメントとして決めました。何をめざすかと聞かれれば、それなのだと思います。誰もやっていないこととは何か。圧倒的なクオリティとは何か。それらは時代によって変わってくるので、その時々でポリゴンはどういう立ち位置であるべきかを検証しながらやってきて、その結果いまがあるということでしょうね」

ポリゴン・ピクチュアズは、2000年代にはアメリカからCGアニメーションの制作案件を受注してきた。

「確かにアメリカの案件をやってきましたが、そこも”流れ”なんです。ポリゴンは90年代半ばにイワトビペンギンで当たってイケイケになって、ソニー、ナムコとの合弁でDPS(ドリーム・ピクチュアズ・スタジオ)を作りました。ところがCG業界でさーっと潮が引いてしまい”CGなんて見たくもない”なんて言う人もいた。でも制作ラインはつくってしまったのでなんとかしなくてはいけない。2000年代になると今度はアメリカでCGの需要が出てきて、テレビでもCG作品を作るようになった。そこで向こうに営業に行って”生き残るために”制作案件をとってきたらうまくいきはじめたということなんです。」

当時の業界では、ポリゴンは次々に海外の案件が来てすごいと噂されていたのだが、”あくまで成り行きだった”という話は、面白い。

「大型のテレビシリーズ案件も取れて評判が評判を呼び、2009年以降は一気に仕事が増えました。『スター・ウォーズ:クローン・ウォーズ』『トランスフォーマー プライム』『トロン:ライジング』と、ボーイズアクションが盛り上がりを見せた時期で高額予算がつきました。ところが、アメリカのアニメはあくまで子ども向けで、『トロン:ライジング』なんかは小さい子にはお話が難しすぎたんですね。視聴数もさほど伸びず、おもちゃも思ったほど売れない。そのうち、コメディにアメリカのテレビが振れていってCGでわざわざつくる必要ないよねとなって、ぼくらの仕事がなくなってきました。ただぼくらは『トロン:ライジング』でCGだけどアニメ調で作る手法を開発し、その斬新さが評判を呼びました。」

「その頃ちょうどGONZOから守屋秀樹という男がうちに来て、彼は日本のアニメ制作の仕組みや人脈をよくわかっている。アニメ調のCGなら日本のアニメの表現もできるんじゃないかという彼の発案ですね。動いてみたところ講談社が検討してくれ、いくつか出てきた題材のひとつが『シドニアの騎士』でした。アメリカでの依頼がしぼみつつあったタイミングで守屋が来てくれて新しい流れができたので、ちょうどよかったわけです。」

『シドニアの騎士』は見てもらうとわかるが、一見日本のセルアニメの画風なのだが、動きは明らかに3Dで新鮮な印象を受ける。アメリカ向けに開発した手法があったからこそ、日本に新たな活路が見いだせたのだ。ではその『シドニアの騎士』がNetflixで配信されることになったのはどういう経緯だろう。

20160205_sakaiosamu_03
「『トロン:ライジング』はさっきも言った通り業界内では評判を得たのですが、Netflixでも配信されたんです。この時に初めて出会って縁ができました。そこから、『シドニアの騎士』の配信につながったわけです。『シドニアの騎士』のクレジットに出てくる”東亜重工動画制作局”は架空の企業名で、ポリゴン・ピクチュアズ、講談社、キングレコードなどによる製作委員会のことです。ポリゴンとしては出資によって北米のライツを確保しました。これまで歩いて北米のマーケットは知っていましたから。で、向こうの放送局はアニメーションを子どもが見るものだ考えているので、テレビには枠がなさそう。可能性は配信ではないかと考え、hulu、Amazon、Netflixにあたりはじめたんです。そしたらNetflixの調達担当がすでに配信している『トロン:ライジング』について、あれはよかったと言ってくれた。意気投合して、『シドニアの騎士』をプレゼンしたらちょうどいいと言ってくれました。その頃は日本進出も視野にあったでしょうから、アニメに対してリーチを広げたいと考えたのかもしれませんね。2014年7月から、50カ国で配信がはじまりました。」

Netflixで配信をやってみて、どうだったのだろう。

「配信権を買って対価をくれるやり方なので、レベニューシェアはありません。でも『シドニアの騎士』のリクープにおいてNetflixからの金額は大きな要素になっています。ぼくらの投資分は配信でリクープできてますし。制作会社としてNetflixとつきあうメリットは、大きかったと言えます。あくまで配信権で、著作権を渡すのではないのでビデオとかマーチャンダイズとかはこちらにあり、活動の幅は保てますね。」

Netflixにとってもよい結果が出ているのだろうか。

「彼らはデータを我々には開示してくれないので視聴数などはわかりませんが、非常に満足していると言ってくれています。だから次の『亜人』にもつながっているのでしょう。」

20160205_sakaiosamu_04(c)桜井画門・講談社/亜人管理委員会

『亜人』は『シドニアの騎士』に続き、Netflixでの配信が決まった作品だ。2016年1月から、テレビで放送され、そのすぐあとにNetflixで配信されている。

Netflixとつきあうことは、これまでのテレビ局などのパートナーと何が違うのだろうか。

「あれだけの組織なのにフラットなんですよね。執行役員クラスの人たちも含めて直接話ができて、権限委譲もかなりされているので、話がめちゃくちゃ早い。顔が見えているので誰とどんな話をすればいいかわかるんです。アメリカのテレビ局はかなりの大企業なので、ヒエラルキーがきっちりしていてひとりひとりの裁量が実はそんなにない。完全にマーケティングオリエンテッドで、この枠に必要なものはどういう年齢層向けの、どんなテーマのどういうジャンルのものなのか、毎年取り決めがあってそれに応じたものを探すのです。」

「Netflixは無限に枠があり、当然彼らは分析をベースに判断するんでしょうけど、いままでつきあってたテレビ局ほどわかりやすいジャンル分けはされていなくて、どっちかというと個人の裁量で決まります。この会社はおもろいと思われたら継続的に案件が続くわけです。アメリカのほうがテレビ局はガチガチです。『シドニアの騎士』のようなものは既存のメディアでは流れなかったでしょうし、流れたとしても放送基準が非常に厳しいので編集しまくらないと電波に乗らない 。配信メディアの場合、視聴者が選択して自ら見に行くし、見る人が何才かなどもわかって制御できるので、見せるものの選択肢がすごく広がった。日本のアニメを生の形で流しやすい場が初めて配信によってできたのかもしれません。」

塩田社長の話からは、Netflixとは互いにとっていいパートナーシップが築けていることがわかる。言ってみればいま、ポリゴンは日本と世界を繋いでいるのだ。

「まあ、Netflixはぼくらが扱いやすいんだと思いますよ。それに海外から見ると、日本のアニメ業界は”けったい”ですから。製作委員会方式だって独特で、海外から見るとよくわからないようです。アメリカで仕事してきたぼくたちはわかりやすいのだと思います。反対に言うとぼくらはどっぷり日本のやり方もできない。我々にとって都合のいいふるまいでやれてます。納期を意識する、過重労働にならないことを大事にしているのもその一環です。アニメ制作は趣味ではなく、予算がありスケジュールがあるわけですから。 常に効率化改善をやって、納期も守れる体制を組んでいます。」

20160205_sakaiosamu_05ポリゴン・ピクチュアズのオフィスはワンフロアに業務ごとにきれいに分かれてデスクが機能的に配置されている。夜10時には強制消灯されるという。

ポリゴン・ピクチュアズは3K職場が当たり前の映像業界の中で、時間効率を高めて働きすぎにならない体制が整っていると聞く。そこからして世界を相手にする姿勢ができているのかもしれない。塩田氏はNetflixとつきあった中で、日本のコンテンツが世界に出られそうな感触をつかめているのだろうか。

「日本のコンテンツは世界に行けると思ってますよ。日本は独特のモノづくりの土壌が確実にあると思う。歴史や文化の裏付けもあるし、幸いにして支配的な宗教も、抑圧的な政治もない。四季もあって自然も豊かで、自由なモノづくりの風土がある。いままで海賊版が見られてきたので、日本のコンテンツの受容性が高まったんじゃないかと思います。これまでは引っ込み思案だったから外へ出ていかなかったのでしょう。いま起こっている変革とは、流通面で国境がなくなったことです。国際下手な日本人が無理しなくてもNetflixが来てくれて、すぐに海外で配信できるようになりました。その代わり、いままでの振る舞いではダメで、海外相手に仕事するならばそれに見合った振る舞いを身につけねばならない。でも海外に合わせるのは不自由でもなく、日本のやり方のほうがよほど不自由じゃないかと思いますよ。」

この取材でいちばん聞きたかったのは、こういう話だ。Netflixとつきあってみた実感として、”世界へ行ける”と感じた、ということ。でももちろん、変わらねばならない部分もある。そういう、勇気と希望を塩田氏から日本の業界に届けてほしかったのだ。期待以上の力強い言葉がもらえたと思う。

映像業界はいま、大きなターニングポイントを迎えている。テレビが放送を開始した時以来の変わり目だ。その時にどちら側に視点を置くかで、個々人や企業の10年後が大きく分かれるのではないか。「誰もやっていないことを 圧倒的なクオリティで 世界に向けて発信していく」この精神に共感する人なら、どっち側に歩んでいくのかわかっているはずだ。ポリゴン・ピクチュアズが切り開いた扉の向こうに、何があるかはそれぞれが探しに行けばいいのだと思う。

※筆者が発行する「テレビとネットの横断業界誌Media Border」では、放送と通信の融合の最新の話題をお届けしています。月額660円(税別)。最初の2カ月はお試しとして課金されないので、興味あればご登録を。同テーマの勉強会への参加もしていただけます。→「テレビとネットの横断業界誌 Media Border」はこちら。購読は「読者登録する」ボタンを押す。

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赤ちゃんはみんなで育てるもの。わかってないのは、日本人だけかもしれない。〜NHKスペシャル「ママたちが非常事態!?」を見た

akachan

1月31日の夜9時から、NHKスペシャル「ママたちが非常事態!?〜最新科学で迫るニッポンの子育て〜」を見た。10日ほど前に放送を知って、期待していた番組だ。子育てで悩むママたちの状況を科学的に分析し解明する企画。その意図は、あなたが悩むのは、あなたのせいじゃないのだからひとりで抱え込まないで、というママたちへの励ましだったにちがいない。

ぼくもリアルタイムでじっくり見て、いろいろ学びもあったし面白かった。なるほどなーと、うちの子どもたちが赤ん坊だった十数年前を思い出して納得したりした。

3部構成になっていて、「ママたちはなぜ孤独で不安になるのか」「赤ちゃんはなぜ夜泣きするのか」「ママたちはどうして夫にイライラするのか」をそれぞれ解明する内容だった。

ぼくにとってとくに印象的だったのは、ママたちの孤独と不安についてのパートだった。これはこのブログで長らく書いてきたことと大いに関係がある。

そもそも、ちょうど二年ほど前になるが、乗り物に赤ちゃんを連れて乗る母親を責める議論があったことについて、それはちょっとおかしいんじゃないかと、何の気なしに書いた記事が発端だった。

→「赤ちゃんにきびしい国で、赤ちゃんが増えるはずがない」

哺乳瓶にマチ針が刺さったビジュアルも刺激的だったのだろう。
akachan

これがハフィントンポストに転載されたらものすごくバズって17万いいね!になってしまった。→ハフィントンポスト上の記事

いろんな方から連絡をもらって、あちこちに取材にも行った。自分が書いた記事の反響に、自分が巻き込まれたようなものだ。

→「みんな自分の子供みたいに思える場所〜自主保育・野毛風の子〜」

→「保育の理想は”サービス”とは離れたところにあるはずだ〜たつのこ共同保育所〜」

→「保育士さんたちがきっと世界を変えていく〜イベント型保育活動・asobi基地〜」

→「子供たちがのびのび過ごす時間が、ユートピアなのかもしれない〜ごたごた荘とまごめ共同保育所(映像付き)」

→「クレイジーなひとりの女性が、日本の育児を変えていく。〜子育てシェア・アズママ取材〜」

→「そこでは私たちの未来が作られていた〜赤ちゃん先生プロジェクト見学記〜」

さて番組では、ママたちがなぜ孤独と不安を抱えてしまうかを、こう説明していた。

カメルーン奥地のバカ族(この名前にツッコミ入れたくなるがスルーしてほしい)はかなり人類の原初的な生活をしている。ものすごく子だくさんで生涯に11人子どもを産んだ女性もいる。人類にもっとも近いチンパンジーの母親は5年に一人しか産んで育てられないが、バカ族は毎年くらいの勢いで出産する。人類はこれを可能にしたので類人猿より繁栄したという。

チンパンジーの母親は、自分が産んだ子どもを単独で育てる。だからたくさん産めない。一方バカ族では、たくさんの子どもたちの育児を母親がひとりで抱え込んだりしない。気軽に部族の他の女性に託す。人の子どもも自分の子どものように育てるのが当たり前な状況だ。「共同養育」と番組では呼んでいた。みんなで面倒を見るから、たくさん産んでも育てられるのだ。

さて女性は妊娠するとエストロゲンというホルモンを分泌して安らかな気持ちになれるが、出産するとこれが急減する。だから不安になりがちになるのだが、共同養育をしていれば不安はなくなる。エストロゲンの減少は、共同養育に母親をうながす仕組みではないか、と番組では推測していた。

一方ニッポンの子育ては核家族で、夫も働きづめで共同養育どころではない。母親一人で子育てを背負い込むので孤独になってしまう。人類はそもそも、共同養育で子育てをするように進化論上できているのに、核家族はその摂理に合っていない。そんな内容だった。

番組のこのメッセージを、ぼくが取材してきた上記のママさんたちの活動と照らし合わせると、なるほどなるほど!と何度もうなずいて納得してしまった。

ぼくが取材した自主保育も、共同保育も、asobi基地も、赤ちゃんプロジェクトも、アズママも、どれもが言わばそれぞれなりの「共同養育」だったのだ。ひとりで抱え込むと大変だし精神衛生もよくないから、みんなで一緒にやりましょうよ。ひとつひとつ形は違うが、要するにそういう活動だった。

それぞれの参加者のママさんたちの顔を思い浮かべると、みんなみんな、輝いて楽しそうな表情をしていた。エストロゲンの減少なんのその。みんなで一緒に子どもたちを育てればこんなに毎日が楽しい。そんな空気に包まれていた。

そこには、育児の不安も孤独もない。悩んだら仲間に話せばいいし、行き詰まったら仲間に少しの時間でも子どもを面倒見てもらえばいい。

番組を見て、それがいかに生物たる人間として自然なことかがわかった。

いまの日本の状況は、核家族が基本になっているので、そこを見直したほうがいいのかもしれない。あるいは、そこを補う仕組みをもっと社会で用意するべきかもしれないのだ。

加えて言うなら、なぜ日本の子育てだけが孤独なのだろう。以下は番組を離れて、ぼくが考えたことだ。

まず男性が子育てに関われていない状況は大きい。これは男性も子育てすべきという社会教育がまったくないのが主因だろう。それを日本の伝統とするのは思い込みだ。江戸時代は侍も含めて男性も子育てに大いに関わったらしい。伝統のせいにするのは大きな誤解だ。

だがそれも含めて大きいのは、そもそも社会が子育てをないがしろにしているせいだと思う。子育ての価値をきちんと認識せず、それより企業社会の経済活動を優先し、それが当然という顔をして、子どもなんて女房どもにまかせておけばいいのだと、社会全体が考えているからだ。そしてどうやら、そんな国は日本だけらしいのだ。

欧米が日本同様少子化に陥りかけたあと、それを克服しつつあるのはなぜだろう。少子化が顕在化した時、これはいかんと社会の仕組みを大きく変えたからだ。これはいかんとパッと思えたのは、子どもが社会にとっていちばん大事なのだという共通認識があったからだろう。

日本では満員電車にベビーカーで乗るべきではないとかいう議論が巻き起こる。それはつまり、人類みんながわかっている「子どもはみんなで育てるもの」ということが日本だけ常識になってないからだ。人類を繁栄させてきたのは、たくさん子どもを産んでそれをみんなで育てる、というチンパンジーにはない種の文化を持てたからなのに、日本人だけその文化を無くしてしまったのだ。公共の場に赤ちゃんを連れてくるのはいかがなものか。そんなことが大まじめに議論されるのは、日本人が人類としての長所を失ったからなのだ。人口が減るのも当然かもしれない。

子育てを社会の真ん中にすえなければならない。古今東西人類のあらゆる社会は、子育てを中心にすえて物事を考えていたのに日本人だけそうじゃない。そのことをぼくたちは、自覚する時だと思う。

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コピーライター/メディアコンサルタント
境 治
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