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コピーライター→映像製作会社ロボット→広告代理店ビデオプロモーション→再びコピーライター(フリーランス)。 メディアとコンテンツの未来を切り拓くコミュニケーションをデザインします。講演・執筆依頼もお気軽に!

させていただきます、を必要以上に使いすぎてると、言わせていただきます。

こないだラジオを聞いていたらロックミュージシャンがインタビューに答えていた。ニューアルバムを久々にリリースするにあたって、という趣旨だった。

「今回のアルバムは前作にもましてロック色が強まってますねえ」
「3年ぶりにアルバムを出させていただくことになったので、もう一度自分の原点に立ち戻らせていただき、ロックを全面に出させていただこうと思いました」
(中略)
「ではリスナーにひと言」
「このアルバムを出させていただくことになり、もう一度皆さんと音楽を共有させていただきたいと思っています。全国ツアーもやらせていただきますので、ぜひ皆さん、お聞きください。精いっぱい唄わせていただきます!」

かなり誇張しているけど、これくらい「させていただきます」が大行進してた。ロックミュージシャンがあんまり低姿勢なので笑ってしまった。ロックンロールとは、”唄わせていただく“ものだっけ?“唄います!“と言いきっちゃダメなの?別に誰かの許可を得て唄うわけでもあるまいに。

ロックミュージシャンだから笑っちゃったけど、この「○○させていただく」という言い方、なんだか蔓延してないだろうか。そういう自分も、乱用している気がする。

なぜだろう。例えばメール書いてると、どんどん使ってしまう自分がいる。「次回また打合せをさせていただくにあたり、新たな企画もご提案させていただければと、スタッフとともに頑張らせていただく覚悟です」とかなんとか、なんでもかんでも「やらせていただく」姿勢で書いている。

別に「次回の打合せにあたり新たな企画も提案しますので、スタッフともども頑張ります」なんて感じでいいはずだ。いいのだ。たぶんこう書いても失礼でもないし不愉快にも思われないだろう。だろうけど、なんだろうね、自分で勝手に予防線張ってるのかもしれない。相手の許可が必要でもないことでさえ許可してもらって書いてるような言い方ですべて許される、みたいな。きっと皆さんも似たようなこと、あるんじゃないかな。何か突っ込まれないように。とやかく言われるスキを与えないように。

なにか、スキがあると突っ込まれる、叩かれる、というもやもやした怖れが、いま世の中に漂ってる気がする。少なくともぼくは感じている。十年くらい前だと、こんなに「させていただ」いてはなかったと思う。2000年以降、年を追うごとに、空気中の”叩かれたらどうしよう”という成分が濃くなっているのだと思う。

だって実際、スキがあると叩かれる。叩かれはじめたら徹底的に叩かれる。犯罪や不祥事はまずそうだけど、そこまでじゃないことでも、叩かれる。叩きあう。

”コンプライアンス”という言葉がいまやバラエティ番組でもネタにされる。上場企業にとって、あってはならないこと、やってはいけないことが何十箇条もできてしまい、上場企業じゃなくても守らなきゃいけない空気が漂うようになった。生きとし生けるものは全員、聖人君子のごとく振る舞わねばならず、ちょっとでもつけいるところがあると、それー!と誰かが叩きに来る。偉い人が叱りに来るだけならまだいいけど、そうでもない人が「あれ?そんなことしていいんですか?」と学級委員ばりに鋭く指摘する。あげつらう。

自分のやることに、自分で責任を背負って、自分で判断した、と言いたい。けど言いにくい。言えない。皆さんの許諾を得て、いいですか?いいですよね?怒らないですよね?突っ込まないですよね?ええ、私は皆さんに気を遣いながら行動してます。そういう前提をつくらないと、「私はこうします」と言えない。だから「私、こうさせていただきます」という言い方になる。

ブログを書かせていただいてます。そんな言い方はホントはまちがいだ。誰かに断って書いてるんじゃない。自分の意思で書いている。ブログを書いています。こう言っても誰にも叱られないだろう。でも、ひょっとして万が一、誰かが突っ込んできたらイヤだなあ。だから、結局「書かせていただいてます」と言ってしまう。そんな卑屈なヤツだっけ、おれ?

そんな歪みを、矯正しないといけないなと思う。みんなでちょっとだけ「させていただきます」という言い方に注意を払い、ほんとうに必要な時以外はやめていった方がいいんじゃないか。お互いに腰を低くしすぎて、みんなの腰がだんだん低くなっていくと世の中がちぢこまっていきそうだ。それより、多少ぶしつけでも、みんながぐいーっと背筋を伸ばして、上を向いて歩いていける方が、いいに決まってる。

ということでこのブログも、これからも胸を張って、書かせていただきます。じゃなくて、書いていきます!

※この記事は、ビジュアルとセットでキャッチコピー的な見出しで書いていく試みの三回目。挿し絵としてのビジュアルではなく、いくつかの言葉をぼくが書き、それにアートディレクター上田豪氏がビジュアルを考えて、という、やり方をしている。ビジュアルそのものがまず企画であり、それを決めてから本文を書いていくスタイル。ネットでの物事の伝わり方を意識した表現の試みだ。テーマも、いつものメディア論を離れて多少社会性のある題材にしている。このやり方が、新しい広告表現のスタイルに昇華できないか、との思いもある。しばらく、週一くらいのペースで続けてみようと思う。

コミュニケーションディレクター/コピーライター/メディア戦略家
境 治
What can I do for you?
sakaiosamu62@gmail.com

リーガルハイが半沢直樹を超える可能性をTwitterから考えてみる(そして安堂ロイドはどうなのかも)

このブログでは、クールごとにドラマの分析をTwitterを通して試みている。そんな中、『半沢直樹』のブームはまるで台風のようだった。ドラマ界に新しい風を吹き込んだかのような特別な現象だったと思う。この秋のクールではその影響が何か出るのかどうか。そして何より、同じ堺雅人が主演する『リーガルハイ』の視聴率は伸びるかどうかも気になるところだ。

『半沢直樹』が最終回で42.2%という大きな記録を残した後、『リーガルハイ』第一話は21.2%という高視聴率だった。『半沢直樹』の第一話は19.4%で、それを上回る数字。そうすると、『リーガルハイ』は最終回で42.2%を超えるのだろうか?ちなみに『半沢直樹』最終回を見た人がかなり『リーガルハイ』を見たそうだ。去年の『リーガルハイ』は10%代前半だったので、元々のファンに『半沢直樹』視聴者が上乗せされたのだろう。テレビ局が違う2つのドラマの間で、極めてユニークな現象が起こったことになる。

さてここで、Tweet数を見てみよう。『半沢直樹』はTweet数でも記録的な多さだった。その勢いは『リーガルハイ』に引き継がれただろうか?

(※両ドラマともタイトル名を含むTweetの日ごとの件数)

これがなんと!Tweet数では『半沢直樹』最終回を『リーガルハイ』が超えてしまっているのだ。ちょっと驚きだ。ここでは、勢いが引き継がれたことが、視聴率よりはっきり出ている。

では『リーガルハイ』を見た人は、Twitterでどんな反応を示したのか。

何度か書いてきたが、このブログではTweetをテキストマイニングにかけてドラマの”感情分析”を試みている。放送中のTweetを、好意好感(好き、いい、かわいいなどフラットな褒め言葉)を示すもの、高揚興奮(すごい、面白い、素晴らしいなど強い感情を表す言葉)を示すもの、否定(つまらない、イヤだ、嫌いなど否定的な言葉)を示すものの3種類に分類し、それらが全体の中で何%かを見るのだ。

例えば、『ショムニ2013』と『半沢直樹』の第一話を比べて見たものがこれ。

『ショムニ』のように、好意好感も高揚興奮もそれなりの数値になるのが一般的なドラマ。一方、『半沢直樹』は「高揚興奮」の数値が突出している。これほどの偏りは珍しい。「面白い!」というつぶやきの多さの表れだ。『ラストシンデレラ』でも似た形になったので、興奮度が極端に高いと視聴率は上向く、のかもしれない。

では『リーガルハイ』はどうだろう。

こんな感じだ。比較しやすいようにさっきのと目盛を合わせてある。

『リーガルハイ』も『半沢直樹』と同じように“興奮型”だということがわかる。ただし、『半沢直樹』ほどの極端さはない。

『リーガルハイ』のどのシーンで“興奮”が高まるか、放送時間中の時系列で見てみたグラフがこれだ。

(※グラフをクリックすれば大きな画像で見れる)

盛り上っているのは「き・み・じゃ・な・い」「磯野家ネタ」「暴れん坊将軍」「八つ当たりだ!」などネタの登場時だ。このドラマはネタ満載だが、tweet上にはっきり反応が現れたのが上記の4つのタイミングだということだ。中でも『半沢直樹』の決めゼリフをもじった「八つ当たりだ!」は放送後もバズっていたようだ。

ではこの秋の他のドラマはどうなのか。感情分析を試みたらどれも意外に興奮度が高かった。

まずは『ダンダリン』『東京バンドワゴン』の2つ。

『ダンダリン』は興奮度が23%と、『リーガルハイ』と同レベルだ。実際、見るとかなり面白い。ブラック企業を労働基準局の型破りな女性が追求するという、時代性の高い企画。だが『リーガルハイ』の裏なので隠れてしまっているのがもったいない。『東京バンドワゴン』はどこか懐かしいにおいのホームドラマでじんと来る内容。グラフでも好感度が高く出ている。

意外なのが『クロコーチ』。

興奮度が高い。高すぎると言いたいくらい高い。30%を超えたのは初めてかもしれない。確かに奇妙なドラマで主人公・黒河内のキャラクターがつかめないのが興味をそそる。だったら視聴率は伸びるのか?

そして『安堂ロイド』。『半沢直樹』の後番組で、鳴り物入りのキャストと、キテレツな企画で話題になっていた。

興奮度24%で、『リーガルハイ』と同レベルだ。Twitterをウォッチしていると、賛否両論巻き起こっていた。徹底的にネガティブな反応を示す人が多い一方で、評価する人は強い評価を示している。まあ、言ってみればネット民の支持を集めているのだろう。SFであり、アニメっぽくもあり、ネットとの親和性が高いのかもしれない。

ということで、まだ出そろったわけではないが、秋ドラマは興奮度の高い、今後が楽しみなものが多い。とくに『リーガルハイ』と『安堂ロイド』はそれぞれ『半沢直樹』の余波で注目を浴び、視聴率的にも話題をつくりそうだ。ただし、上でもみたように“興奮度”が高いとは言え『半沢直樹』ほどではない。あそこまでの“大ヒット“にはならないかもしれない。

さてこのクールは、今週はじまるものでもうひとつ、注目すべきドラマがある。木曜21時の『ドクターX』だ。これはテレビ朝日で去年放送され、あまり話題にならなかったが視聴率が非常に高かったのだ。最終回では24%に達した。

このドラマでも去年の第一話で感情分析を試みていた。それがこれだ。

興奮度が27%と、異様に高かったのだ。この興奮をこのクールでさらにヒートアップできれば、視聴率的にも期待できるはずだ。ひょっとしたら『リーガルハイ』や『安堂ロイド』より高くなるのかもしれない。

というのは、視聴率にとって年配層の支持が欠かせないからだ。あれだけ話題になった『あまちゃん』が視聴率では『梅ちゃん先生』にかなわなかったのだが、それも年配層の数字がとれたかどうかが大きいようだ。『半沢直樹』を気に入った年配層が『リーガルハイ』を見たら主人公のキャラが180°ちがってがっかりしたかもしれない。日曜21時のTBS枠を楽しみにしてきた年配層は『安堂ロイド』のあまりの斬新さに引いたかもしれない。

それに比べると、『ドクターX』は年配層も安心して見れる医療もの。去年もよかったし今年は最初からもっと見ようと待ちかまえているだろう。そこに若い層が上乗せされたら大きく伸びる可能性はあるだろう。

などなど、いろいろ考えたり予測したりしつつ、何よりそれぞれのドラマを視聴者として楽しみたい。このクールは毎回見たいものがたくさんある!もちろん、この分析も追ってまた書いていきたい。

【お知らせ】
ソーシャルとテレビの最前線がわかるイベント、ソーシャルTVカンファレンス、11月1日開催。詳しくはこちらで。→SocialTV Conference

コミュニケーションディレクター/コピーライター/メディア戦略家
境 治
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sakaiosamu62@gmail.com

反対は、上手になった。正解は、わからなくなった。

『ニッポンのジレンマ』という番組がある。NHKで不定期に放送している討論番組で、70年以降生まれの論客が集い、この国の課題を議論する。これまでの討論番組よりずっと建設的で60年代生まれのぼくも大いに共感してしまう。

記念すべき第一回は去年、2012年の元旦深夜だった。その中で印象に残った言葉がある。確か荻上チキ氏が言ってたんだと思う。

「ネガ出し、ポジ出し」

ネガ出しとは、こういう討論番組でも会議の場でも、誰かが意見を言うとまずネガティブな意見が出てくる。そのことをネガティブな意見を出す、つまりネガ出しと言っている。

荻上氏が言うには、いまネガ出しばかりしたがるし、ネガ出しが上手になってる。でもネガ出ししてると何も生まれない。だからむしろポジティブな意見を出していく、ポジ出しが必要なんじゃないかと。

いやー、その通りだなあ、共感するなあ、と思ったものだ。

実際、仕事上の会議ではだいたいネガ出し大会だ。ほんとうに、みんな反対することが上手だと思う。しかも頭ごなしではないのだ。「いや、その意見、わかるんだけどさあ。一理あるとは思うよ。たださあ・・・」と気を遣った感じではじまるんだけど要するに反対しはじめるのだ。

反対意見をうまく発言してなんだか満足げだ。な?おれの言う通りだろ?おれ頭いいだろ?とでも言いたげに、えっへん、てなもんだ。

こういうやり方があるんじゃないか。こういうことに取り組めばいいんじゃないか。そんな提案をしてもとにかく潰されるのだ。徹底的にやり込められるわけでもなく、わかるけどねーなどと言われながら。だから傷つかずにすむといえばすむけど、提案をする気はなくす。意欲をそがれる。

いや、これはまだいいかもしれない。ネット上で情報収集するようになって、社会的な課題についての見方が、もっとよくわからなくなっている。

あちこちのメディアにいろんな人が意見を書いている。ブログでは誰だかよく知らない人の意見も読める。それぞれ読んでいると、何がなんだかわからなくなる。

あるテーマについて、Aさんが自分のブログで意見を書く。ぼくがよく知らない分野なのに、Aさんは驚くほど知識があり、読むとなるほどなー、そういうことなんだなー、と思う。

するとBさんが別のメディアで記事を書く。ネット上でこれこれこういう意見が出ていたが、とAさんのブログをあげつらう。あそこがまちがいで、ここがちがう。そうじゃなくてこうなのだと反対意見を書く。それを読むと、えー?そうだったの、だったらAさんまちがいじゃん、Bさんの意見、わかりました。勉強になりました。

そこにCさんが登場する。Aさんがこう言ってたのに対しBさんはこう言ってるが、それぞれこれこれで、まちがい。実際にはかくかくしかじかで、だからこうなの。なんと!そうだったのか!だったらCさんの意見が正しいのかなあ。

そんなことが繰り返されるうち、何がなんだかわからなくなる。Cさんに続いて登場したDさんやEさんの意見も説得力があり、その前にそもそも、その段階になると何の話だったかがわからなくなっている。あちこちの意見に目を通した末、ぼくの答えは、ハイ先生!わかりません!

最初の意見への反対意見に納得し、それに対する反対意見に感心し、さらにそれへの反対意見に説得され、しまいには何が正解かがよくわからなくなる。そうなってしまったテーマがいくつもある。TPPに参加すべきかしないべきか。消費税は上げていいのか。途中でわかったつもりだったのに、自分として判断できなくなった!

みんなよく知ってるなーと思う。ブログを読むようになって、世の中にはこんなに物事に精通した人がいるのか!と驚き、感心した。マスメディアに登場してしたり顔でしゃべる人よりずっと、信頼できる、納得できる。そういう人をひとり、ふたり発見した頃はよかったが、いまはもうそういうすごい人が何千人もいる。ある課題についてそれぞれ、正しいことを言っている。うん、実際、それぞれ正しいんだ。だから自分では何が正しいかがさっぱりわからなくなる。

こういう現象に対して、どうすればいいか。どうすれば自分にとっての正解が見いだせるか。・・・とりあえずそれは考えないことにしておこう。だってここで試しに考えて書いても、いやその正解の見いだし方はちがう!正解の出し方の正解はこうだ!って誰かに言われて、さらにそれにまた、その正解の出し方の正解はここがまちがっていて、ほんとうの正解はこうだ!って続いていきそうだから。

いや、こんな受動的な姿勢はまずいな、ってことだけは正解かもな。

※この記事は、先週はじめた実験。ブログを書いてから挿し絵的にビジュアルを探すのではなく、キャッチコピー的な一行を先に書き、それをビジュアルとともに一枚のメッセージとして完成させてから文章の中身を書いている。写真とビジュアルは、いまぼくが居候しているデザイン事務所、BeeStaffCompanyのアートディレクター、上田豪氏の手による。ネット上では一枚の写真が拡散する。見出しのひと言が流通していく。だったら最初から言葉とビジュアルを組合せておいたらいいじゃないか、という実験。そしてこの作業は、一昔前に新聞広告でコピーライターとアートディレクターが頭を寄せ合ってうんうんうなりながらやっていた作業と似ている。ネット上で、これまでの広告制作のノウハウが生かせないかという実験でもある。ぼくか上田氏がネを上げない限り、毎週続けていこうと思っている。

コミュニケーションディレクター/コピーライター/メディア戦略家
境 治
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テレビとネットの融合は何より広告の新しい形をもたらすのだと思う

先週、ある代理店の立場ある方と食事した。立場あるとは言え、お互い若い頃から知っているお友達みたいな関係でもあるのだけど。名前を言っちゃうのもアレなのでエヌ氏としておこう。星新一の小説のように。

エヌ氏は10日間ほどNYに行っていたそうだ。そこで開催された全米広告業界が集まるカンファレンスに参加するためだという。いいなあ、代理店!

そして今年のそのイベントのビッグイシューは、ひとつはやはりビッグデータだったそうなのだが、もうひとつはなんと!ソーシャルテレビだったそうだ。

ぼくはここで何度も書いてきた通り、ソーシャルテレビ推進会議という勉強会を運営している。去年の4月に十数名ではじめたのがいまや、名前を連ねてくれている人で200名を超えている。だからぼくの周囲ではソーシャルテレビが盛り上がっているのだけど、ぼくの周囲だけみたいなのだ。一歩、“ぼくの周囲”を出ると、はい?ソーシャルテレビ?なんでしたっけ、それ?という感じ。ピントズレてるのかなあ、おれ?

などと不安になる必要はないとわかってぼくは小躍りしそうにうれしかった。ちょっと早過ぎただけなんだな。

しかもエヌ氏がさらに言うのを聞いてホントに踊り出しそうになった。「ソーシャルテレビはzeeboxで決まりだね、って感じでしたよ」・・・ワオ!

このところ散々告知しているがもう一度書いておくと、11月1日にソーシャルテレビ推進会議の主催で“ソーシャルTVカンファレンス2013″と題した催しを開催する。そのキーノートスピーチをお願いしているのが、他ならぬzeeboxのCTO、AnthonyRose氏なのだ。前にも出したけどもう一度、アンソニーの写真を出すよ!

(これまでと違う写真を使ってみた。こうして見るとなかなかいい男だなあ!)

zeeboxは、テレビを見ながら使うサービスだ。PCの人はここをクリックして実際に見てもらうのがいちばん!→zeebox site (スマートフォンで見るとアプリをダウンロードしろと言われ、でも対象国じゃないからダウンロードできない、という流れになってしまうので、ご注意を。)

番組を見ながら起ち上げると、音声認識でいま観ている番組を判別してくれる。多チャンネルが普通である欧米ではこれがミソ。いま観てるのなんだっけ?という視聴者に瞬時に答えてくれるのだ。もっとも日本では地上波が強いので自分が観ている番組がわからない、ということはあまりないだろうけど。

さらにzeeboxは、出演者や番組に登場するキーワードを”zeetag”として表示する。zeetagを押すとその詳細がわかる。そのうえ、番組に関するツイートも表示してくれる。テレビを観ながらスマートフォン上であちこちのアプリやWEBを使ってやっていたことを、ひとつのインターフェイス上でできてしまうのだ。

エヌ氏の言う通り、欧米ではzeeboxがソーシャルテレビのデファクトスタンダードになっているのなら、そこで様々なビジネスも動いているのだろう。

もちろん、そこで重要なのが広告ビジネスだ。

日本でサイトだけ見ていても、zeeboxでどんな広告ビジネスが展開できるのか、いまひとつわからない。そこは来日した時にじっくり聞いてみたいところだ。

zeeboxに限らず、あるいはソーシャルテレビに限らず、テレビとネットの融合は広告の融合でもあるはずだ。実際に融合した時、あらゆる局面での変化が起こるだろう。それは広告主にとってもコンテンツ制作にとっても、プラスに働くとぼくは考えている。

例えばテレビCM。認知獲得のためにはいまも最も有効だが、一方で認知以上のことができない。ソーシャルテレビ的にテレビとネットが結びついたら、テレビCMを見て興味を持ったらすかさずその商品のサイトに誘導する、なんてことが可能になるはずだ。セカンドスクリーンにはその可能性を具体化する道筋が見え隠れする。

効果測定もテレビからネットへの流れをシームレスに追うことができるようになるだろう。そうすると、CMをどれくらいの人が見て、そこから商品のサイトにどれくらい来て、最終的に何人が試供品を申し込んだ、とか、来店クーポンを使った、といった流れが分析できるのだ。広告がものすごく具体的になるだろう。

また、そうなってくると、広告はこれまでと同じ形でいいのか、という議論も出てくる。番組の隙間や間に、視聴者に申し訳ない感じで広告枠が出てくる、ということでいいのか。しかもテレビが録画されると広告はびゅんびゅん飛ばされるのだ。それでは意味がない。

広告とコンテンツの境目をなくそう、コンテンツとして十分面白く、結果として企業の伝えたいことも伝わるような作り方、ブランドコンテンツの試みがあちこちではじまっている。テレビとネットの融合がそれをさらに求め、加速すると思う。

ソーシャルテレビという言葉は、そんな大きな動きの象徴のようなつもりだ。テレビを見ながらツイッター、ということ以上の、メディアとコンテンツと広告の行く先を見つめるためのキーワードとして、ソーシャルテレビはある。そんなことに興味を持ってもらえて、あなたも11月1日のイベントにぜひ来てもらえたらうれしいなあ。

お申込は、こちらから→SocialTV Conference 2013

コミュニケーションディレクター/コピーライター/メディア戦略家
境 治
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CEATEC2013ちょいレポ〜テレビをコミュニティにするテレビ

今週、幕張でCEATECが開催中だ。この日本最大の家電ショーに初めて行ったのは2010年だった。華やかでびっくりしたもんだ。そうかあ、日本の家電ってすげえんだな。SHARPがGALAPAGOSという電子書籍端末を発売して、勢いがあった。ブースで名刺交換した相手に大阪まで会いに行って当時在籍していたロボットのコンテンツをのっけられないかと交渉したりした。

その後、SHARPがピンチに陥るだなんて想像だにしなかった。GALAPAGOSはその名の通り、ガラパゴス端末として世界はおろか日本でも定着せず消えていった。

などとネガティブな感慨に浸ってる場合ではない。ネガティブな局面から、新たな地平へ向かおうと意外に活気があった、それが2013年のCEATECだった。

明日金曜日も行くので、他のことはまたこってり書くとして、今日はREGZAのことを書く。

REGZAと言えば、片岡秀夫さんだ。

2011年のスマートテレビ研究会でお会いし、同年のCEATECでもお会いした。その後いろいろご一緒する機会がありなんだか仲良くしてもらっている。

ブースに行く時はメッセージをと言われていたのでそうしたら、ちょうどブースにいらしてお会いできた。

そもそも、東芝は録画機能に独自の進化をさせてきた。それが、今年はまた新たな局面に入っていた。REGZAは、ソーシャル化した録画テレビになっていくのだ。

もともとREGZAは録画している番組の見どころに“タグ”をつけてユーザーで共有できるという、ユニークな進化をしてきた。その時点でソーシャル化を果たしていたわけだが。さらにぐいっと進んだのが今年だ。

まず、ツイッター。REGZAは放送を観ながらツイッターのタイムラインを表示できるのだ。もちろん、放送中の番組別でタイムラインを選べる。画面の下の方に縦のバーが見えている。各局ごとのツイート数を棒グラフ的に表示しているのだ。あれ?見たことあるなあこういうの。そう、tuneTVだ。スマホ用のソーシャルテレビアプリのようなことが、テレビ画面で直接できる。

また、Facebookもテレビの上で表示できる。これぞ、ソーシャルテレビだ。

でもそれだけではない。独自のソーシャル機能を開発している。

番組録画をみんなでコミュニティとして共有できるのだ。・・・何言ってるかわからんよね。

写真を見てもらおう。

真ん中に“おまかせ録画コミュニティ“という欄がある。東芝側でオフィシャルに用意したもので、この中から選ぶと、その分類の録画を勝手にやってくれる。“恋愛ドラマ“を選ぶと、各局の恋愛ドラマがおまかせで録画されていく。その中から自分が観たいものを選んで観ればいいのだ。

そしてこの“番組録画コミュニティ”は自分でも作れる。特定のタレントが出ている番組とか、好みのスポーツだけを録画するとか。さらに、自分のお友達を、自分が作ったコミュニティに誘うこともできる。同じ番組を観るコミュニティが形成されるのだ。

そしてそして!ツイッターやFacebookと、この録画コミュニティを近い将来連携させる計画だそうだ。すると、同じ番組をみんなで録画し、感想をソーシャルメディアで語り合うこともできるということ。おお!面白い!アニメやスポーツなど、熱いファンがいる分野ではとくに盛り上がるだろう。

コミュニティなんだな。

コンテンツはコミュニティになっていく。そんなことを何度かこのブログで書いてきた。そのための環境が整いつつあるのだ。

“ソーシャルテレビ”というと、放送中の番組についてツイッターでつぶやきあう、リアルタイム性の話になる。それが第一歩なのはまちがいない。

でもその奥には、番組がコミュニティになった状態、という意味でのソーシャルテレビもあると思っている。そっちの意味のソーシャルテレビは、これからもっとスポットが当たり、そこに新たなビジネスモデルが構築されていくのだとぼくは考えているのだ。

さて!このREGZAの開発の中心人物たる片岡秀夫さんも、11月1日のソーシャルTVカンファレンスにご登壇いただくことになっている。最後のバトルトークのコーナーで、ディスカッションに参加してもらうのだ。もちろん、REGZAのソーシャル機能についてもカンタンに説明してもらえる。

片岡さんも個性的な方だが、バトルトークの出演者はユニークな方ぞろいなので、相当面白いと思うよ!

あ、まだ申し込んでないなら、ほらさっそく!ここから申し込もう!→SocialTV Conference

コミュニケーションディレクター/コピーライター/メディア戦略家
境 治
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誰かをヘイトしていると、あなたがヘイトされる。

ヘイトスピーチという言葉を最初に聞いた時はびっくりした。ヘイトって、hate?嫌いだってことを大勢の前で喋ること?なんだそりゃ?

言葉とはよくできたものだと思う。「ヘイト」という語感にはどこか、つばを吐きかけながら口にするようなイメージがある。まあ意味を知っているからだろうけど。映画の中で「I hate you!」とそれこそつばを吐きかねない勢いで言うシーンをなんとなく憶えているからというのもあるのかもしれない。

とにかく「ヘイトスピーチ」という言葉の周りには口にするだけで、とても汚らしい、イヤ〜なイメージがぼわんと出現する。もう直感的、本能的に近づきたくないような、子供に見せたくないような、そんな感じがある。

そんな行為がコリアンタウン・新大久保で何度も行われているという。言葉に驚いた以上に、驚いた。そんなことをする日本人がいるのか。

偏狭なナショナリズムは次元の低い考え方だし、日本人はそういう次元はとうの昔に乗り越えたのだと勝手に思っていた。考えてみたらまったく根拠はなかったわけだけど、争いを好まない、おもてなしの国民は、攻撃的な差別なんかしないに決まっているものと思い込んでいた。だから日本人が新大久保に集まっては在日韓国人に対するヘイトスピーチを行うと知った時はもう信じられなかった。

日本人はどの民族とも仲良くする、などときれい事を言うつもりもない。ちがう文化を持つ違う民族が一緒にいたら摩擦も起こる。小学生のある時期を暮らした町には“朝鮮学校”があった。地元の高校生が、彼らにゆすられたとか、その仕返しに行ったとか、小競り合いがあった。日本人同士だって出身地が原因で喧嘩することもあるのだから、民族が違えばもっと対立はある。

一方で、友人に在日韓国人がいる。生まれた時から日本で暮らしているし、名前も言葉も丸きり同じだ。自分でも、日本人とまったく違いはなく生きてきたという。違いは全くないという。だったら日本国籍を取らないのかと聞いたら、理屈では言えないがそれは絶対にしないのだときっぱり言った。とても失礼なことを言ってしまったのかもしれないと反省した。

民族がちがうと、いろんなことがある。物語が生じる。美しい話ばかりではない。喧嘩だってありだと思う。

ただ、それは一緒に生活するから生まれる。

ヘイトスピーチに参加する人たちは、在日韓国人の人たちとほんとうに接したことがあるのだろうかと思う。ないんじゃないだろうか。接したことがあったら、同じ町に暮らしていたら、友だちがいたら、少なくとも”ヘイトスピーチ”はしないと思う。

もう一度言うけど、喧嘩はあるだろう。議論口論、罵り合いもするかもしれない。でもそれはそれでちゃんとした“対決”だ。相手の顔が見えている状態で、気にくわないことがあれば口に出して相手にぶつける。それはありだと思う。

ヘイトスピーチは、在日韓国人が多く居る新大久保にわざわざ行ってデモ行進するわけだが、顔の見える相手と対決はしてないんじゃないか。“多く住む町“というもやもやしたイメージみたいなものを対象に、抽象的な排斥を言葉にするのだ。だから時として「死」を含んだきつい言葉を言えてしまう。でも相手の顔がはっきりしていたら、ほんとうに言えるだろうか。言えるとしたら心底ひどい人間だと思う。相手の顔を見てないからこそ、酷いことが言えるのだ。

ヘイトスピーチをする人たちにも、それなりの主張があるらしい。なるほどと思える部分もある。日本の言論はあまりにサヨク的に傾きすぎていた。時によるとそれは極端に卑屈な姿勢になっていたと、ぼくも思う。

でもその主張を世の中に訴える手法として、新大久保で町を相手にもやもやとヘイトスピーチをしたところで、主張は誰にも届かない。訴える人たちのイメージが悪くなるだけだ。主張があるなら、顔が見える相手と、相対して議論すればいいのだ。そういう場をつくってはっきりした相手にものを言うなら、その議論は何かを生むはずだ。暴力を使わずに喧嘩すればいい。ヘイトスピーチは喧嘩にさえなってないから何も生まない。

ぼくは友だちがいるから、在日韓国人に酷いことは言えない。言う気にならない。友だちだから、自分が言われる側になったことを想像するのだ。想像してみると、それがどんなにイヤな気持ちかが分かる。同じ国で一緒に暮らしているはずの人びとに言われたら、さぞかし悲しいだろう。

ヘイトスピーチを行なう人たちはだから、友だちとは言わないまでも、顔と名前がわかってる相手に対し、ヘイトスピーチという形ではなく堂々と主張を言えばいいと思う。うっ屈をぶつけるのではなく、何かを生み出すために議論できれば、きっと何かにつながるはずだ。それができないなら、自分のヘイトスピーチが自分に返ってくるだけだろう。

※この記事は、新しい形式を目指した。ビジュアルがついているが、ただの挿し絵ではなく、書こうとする原稿に沿ったコピーとビジュアルで構成したものだ。いま居候しているデザイン事務所BeeStaffCompanyのボス兼アートディレクター・上田豪氏にコピーからイメージするビジュアルを考えてもらった上で完成させてもらった。思い返せば、昔は新聞広告をそういう風に作っていた。
つまり広告制作で培ってきたノウハウをデジタルとソーシャルの世界で生かすための実験だ。これから週に一本程度、この形式の記事を書いていく。そこにはコピーとデザインの可能性と、ひょっとしたら新しい表現形態の広告が見いだせるのかもしれない。七転八倒の試行錯誤になると思うけど、まあ見守ってくださいな。

コミュニケーションディレクター/コピーライター/メディア戦略家
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テレビはテレビじゃなくてもいい、と思った時にテレビの未来が開けるかもしれない〜あやぶろナイト、本日夜!〜

今日10月1日の夜、“あやぶろナイト“というイベントがあってぼくも出ることになっている。

あやぶろナイトが何かは、あやとりブログのことから説明しないといけない。

まあ、ここをクリックして読んでもらうのがいちばんなのだけど、テレビを中心にしたメディア論のブログだ。テレビ界には珍しいことに、TBSの関連会社でTBSメディア総研という会社があって、あやとりブログを運営している。

編集長の氏家夏彦さんはメディア総研の社長でもあるのだけど、あやとりブログでも積極的に記事を書いている。2月には「テレビがつまらなくなった理由」と題して、インナーからテレビ界に警鐘を鳴らした記事を発表。けっこうバズったので読んだ人もいるかもしれない。(なんと、2000以上の「いいね!」がついた!)

そしてつい最近、“テレビの未来“というシリーズタイトルで、その1にあたる「テレビは不便で時代遅れのサービスだ」をはじめ7回に渡って記事を書いていた。その基本的な考え方は、テレビ視聴者をユーザーと捉えることにあり、だからこそテレビは“サービスとして“どうなのかを問う姿勢で書いている。

ネットで事業をしている人なら、「テレビだってサービスに決まってるじゃないか」と思うかもしれない。でもテレビ界の人、そしてもっと広げればマスメディアに携わってきた人は「サービス?」と受けとめるだろう。人によっては「サービスだなんて、そんなへりくだったことをやってきたつもりはないね」とムッとするかもしれない。それくらい、これまでのマスメディア界の文化にはなかった概念なのだ。

そんなあやとりブログが初のトークイベントを開催する。それが”あやぶろナイト”なのだ。興味ある方はここをクリックして申し込もう。もう当日だけどね。

その”あやぶろナイト”でも『半沢直樹』は格好の題材として話題に登りそうだ。すでに事前打合せでもネタになっていて、議論の入口にはうってつけだねとみんなで話した。

その打合せでも、昨日のこのブログで書いたことを話したのだけど、ふだんテレビを観ない人が『半沢直樹』はなぜか観たんだよね、という話に至った時、ある方が「そういう人たちにとって、この番組はテレビじゃないんでしょうね」と言った。この見方は、衝撃だけど、その通りなのだと思った。

『半沢直樹』のヒットを、テレビ界の人は「ほらね、テレビってやっぱりすごいよね!」と言ったりする。そこには、これでまたテレビに人が戻ってくるといいなあ、という思いもあるだろう。でも、ぼくははっきり思う。『半沢直樹』が知らしめたのは、ドラマの面白さであってテレビの面白さではない。とくに”ふだんテレビを観ない人びと”はこれを決して「なんだ、テレビも面白いじゃないか」とは捉えていない。「面白いコンテンツは面白いなあ」そんな捉え方じゃないかと思う。

テレビとは何だろう。テレビとは放送という、映像を伝える形態のことだ。でも同時に伝えられる映像コンテンツもテレビと呼ばれる。番組を作る行為と、それを送り届ける行為を、同じ会社がやっているのが日本のテレビだ。でもよくよく見るとその二つは別の作業だ。海外ではそこが分れていることも多い。「24」や「LOST」などのアメリカのドラマは制作の主体はプロダクション側にあり、放送局はそれを流す、流通の立場だ。

だからアメリカの構造からすると、さっきの「面白いコンテンツは面白いなあ」という捉え方の方が自然だ。実際、ドラマはネットワークテレビで放送され、ケーブルテレビで再放送され、huluやNetFlix、AppleTVなどでも見ることができる。最初に放送したテレビ局がどこかはあまり関係ない。だってドラマ=テレビ、ではないからだ。

日本はドラマ=テレビ、でこれまでやってきた。ドラマに限らず、何でもかんでも番組=テレビだった。そういう、制作と流通が一体となっていたからこそ、これまで発展してきた。それでよかった。うまくいった。

でもこれからは、そうでもないと思う。制作流通一体型が、いろんな意味でかえって面倒を生むと思う。それが足かせになってきている気がする。

制作と流通と、どちらを伸ばすべきなのだろうか。答えははっきりしていて、成長する可能性があるのは制作の方だ。流通の方は、広告費が伸びないと伸びようがない。そして今後、国内のマス広告費は伸びない。そのことはもはや誰もが気づいている。放送においては、流通は国の枠組みに縛られる。海外には出にくい。(やりようはあると思うが)

制作は、国外にも持っていける。成果物を輸出できる。アメリカがそうだし、韓国も上手にやっている。テレビ(=映像流通)には成長性が見えないが、コンテンツ(=制作)には少なくともポテンシャルはあるのだ。

あやぶろナイトの議論はあっちこっちに進みそうだが、大きなテーマは「テレビの未来」だ。制作と放送の問題、そしてそのポテンシャルにも話題は及ぶんじゃないかな。

さてこのあやぶろナイトは本日、10月1日開催だけど、その一カ月後、11月1日にはソーシャルテレビ推進会議が主宰するイベントがある。“ソーシャルTVカンファレンス2013″と題して、こちらもテレビの現在と未来をテーマにしている。そしてイギリスからzeeboxというサービスのCTO、Anthony Rose氏をお招きしてキーノートをお願いする。

興味ある?だったら、ここをクリック→“SocialTV Conference2013”
ぜひ、ご参加を!

コミュニケーションディレクター/コピーライター/メディア戦略家
境 治
What can I do for you?
sakaiosamu62@gmail.com

半沢直樹の高視聴率にはネットの増幅力がすんげえ寄与したみたいだ

あらためて、『半沢直樹』について整理してみた
この週末は、『半沢直樹』に続いて『あまちゃん』も最終回を迎えてしまい、今週から”半沢ロス”と”あまロス“で途方に暮れる人びとが続出しそうだ。かくいうぼく自身がそうなりそうなのだけど。

さて先週『半沢直樹』のヒットについて書いた記事がハフィントンポストでけっこう読んでもらえたようだった。それを受けて、『新・週刊フジテレビ批評』が取材に来てくれた。

土曜日早朝5時からという徹夜明けじゃない限りリアルタイムでは観ないだろうこの番組はけっこうメディア論を題材にしていて、2年前に『テレビは生き残れるのか』を出版した時に出演して以来、時折取材を受けている。今回はもちろん、『半沢直樹』ヒットの要因をぼくなりに語ってほしいということだ。

そりゃきちんと喋れるようにしなきゃと慌てて、新たに資料を整えたり、頭の中を整理したりしたので、またあらためて記事にまとめておこうと思う。

ツイッターが話題の循環を促す血流となった
まず、”半沢直樹”という言葉が入ったツイート(ハッシュタグやローマ字なども含む)が一日に何件つぶやかれたか、そして“倍返し“が入ったツイートはどうだったかを視聴率と一緒にグラフにしたものを見てもらおう。これはあちこちで見せてきたが、これが最終回分まで入ったラストバージョンだ。
(クリックすれば拡大して見られる)

当然と言えば当然だが、最終回でツイート数の水準がまた一段と上がっている。視聴率も一段と上がったのだから視聴者数が増えた分、つぶやく人も増えたのだ。だがそれにしても、一日20万件を超えたのは、ドラマのツイートを追ってきて初めてじゃないだろうか。

赤い線が“倍返し”なのだが、これがまた面白い。22日には“半沢“ツイートに迫る勢いで増えている。もはや流行語大賞候補NO.1だろう。あれだけ流行った「今でしょ!」がもはや古びて思える。

それから面白いのが、23日に一度下がるのだが、24日にはわずかに上がっていることだ。これは連休が終わって仕事モードになった時にあらためて「最終回見ました?」と挨拶代わりにツイートを交わしているのだろう。最終回で主人公が左遷されたことに納得できない人が多いせいもある。終わってからも話題を振りまき続けるこのドラマのすごさだ。

このグラフを持ってして「視聴率をツイッターが押し上げた」などと言うつもりはない。ツイッターのユーザー数やつぶやきの数と視聴率で動く人の数と、水準が違いすぎるからだ。そのことはこのブログで何度も書いてきた。

ただ、視聴率とツイート数にはっきりと相関性が見える。これはいままであまりなかった。春ドラマ『ラストシンデレラ』で「あれ?けっこう相関性あるかも?」と初めて感じとれたのだが、これに続いて『半沢直樹』ではますます相関性が見てとれた。

スマートフォンがいよいよレイトマジョリティにも普及し、視聴率に影響力がある30代以上の一般的な女性がツイッターを使いはじめたせいだと思う。つまり“奥さん“たちがソーシャルメディア界にやって来たのだ!

こうなると、今後もツイート数と視聴率の間には相関性がある状態になっていきそうだ。

ツイッターが視聴率を押し上げたとは言えないが、視聴率を押し上げるためのコミュニケーションを促進した、のはまちがいないと思う。

最近こういう図をあちこちで見せている。

テレビの話題はいろんなメディアで語られる。『半沢直樹』についても、週刊誌の見出しで何度も見たし、ネット上でニュースになったりブログ記事になったり、そしてなんと言ってもリアルな口コミで毎日のように話題にした。

ツイッターはそれ自体が話題を語る場でもありつつ、メディアからメディアへと話題をつなぐ血流のような役割を果たしている。ネットニュースの記事のURL入りで誰かがつぶやき、そのRTが流れると「この話題、ツイッターでバズってますよ」と週刊誌が記事にする。ツイッターがないと、そんな風に話題が繋がっていかないだろう。

ツイッターだけが視聴率を押し上げるのではないが、そのための重要なロールを担うようになってきたのだ。

ネット配信が“途中から追いつける“環境を整えた (違法含む)
もうひとつ、いまテレビ番組を取り巻く大きな環境変化が起こっていて、それが『半沢直樹』には強くプラスに働いた。

このドラマを観た人はフジテレビ批評の街頭インタビューでは44人中22人が途中から観た人だった。実際ツイッターを観察しているととくに第5話の放送後に「半沢があんまり面白いと言うのでまとめて観てみたら、ホントにすごい面白い!」という類いのつぶやきが明らかに多かった。

「まとめて観る」のはどうやるのか。まずはなんとなく気になって録画しておいたものを観る場合だ。いま録画機の容量はテラバイト単位になってきて、そうするとちょっと気になるものをどんどん録画できてしまう。録画したけど観ないままのものも多いだろう。そこへ「面白いよ!の声を聞くと、じゃあ観てみようか、となるのだ。

それから、テレビ局の“見逃し視聴サービス“もかなり整い、普及も進んでいる。面白いなら、ちょっとした金額を払えばまとめて観ることができる。

でもそれよりもっと大きいのが、ぶっちゃけて書くと違法動画だ。YouTubeにもたくさん上がっているが、もっと高画質で過去動画が探しやすいサイトがたくさんある。

年上のある知人がやはり半沢ファンで、でも途中から観たという。面白いと聞いてスマホで検索してみたらなぜか出てきたのでそのまま観てしまった。違法なのかなあとは思ったが、とにかくあまりにカンタンに出てきて、サクサク観やすかったのだそうだ。そういう人は、おそらくものすごい数いるだろう。

ぼくは”あやとりブログ”にも何度か書いてきたのだが、こうなるとテレビ局側が無料で視聴させる環境を用意してCMをスキップできない状態で放送後に公開した方がいいのだと思う。この話はまたの機会にするけど。

それから、これは最終回後に知ったのだけど、ニコニコ動画には『半沢直樹』の二次創作動画が、ものすごい数ある。しかも、ひとつひとつ凝っていて面白い。人気があるものは何万回も再生されている。これにはびっくりした。

もちろん違法行為にはなってしまうだろう。でもドラマをよく観ていないと面白い二次創作はできないので、愛してくれているとも言える。

『半沢直樹』はツッコミたくなるドラマだった。何しろ、強者ぞろいの役者たちが互いに負けじとキャラクターの際立った演技を繰り広げる。とくに大和田常務の強烈な表情はネットユーザーの創作欲を刺激したようだ。彼を使った二次創作は相当な数があった。

こうした二次創作は、ドラマを見てない人びとの心を強く揺さぶったはずだ。最高の予告編として機能したのだと思う。

テレビを観ない層を巻き込むことに成功していた
さてこうして見ていくと、今回の『半沢直樹』の高視聴率にはネットが少なからぬ影響を及ぼしていたようだ。そこで、取材を受けるにあたり調べてもらったことがある。ふだんテレビを観ていない人が『半沢直樹』をどれくらい観たのか。

そこからわかったこと。最終回を見た世帯(=42.3%)の中の2割程度は、7月7日にはそもそもテレビを観ていなかった、らしい。これはすごいことだと思う。そのまんま解釈してしまえば、全体の8%程度が「テレビ観ない→半沢直樹」だったということだ。(但し、7月7日にテレビを観なかった世帯がそのまま“普段テレビを観ない“のかどうかはわからないので、少々拡大解釈ではある)

数値は置いといても、大まかにはこの図のようなことが言えるのだと思う。

テレビを観ない層を巻き込むためのメディア環境は誰が意図したわけでもなく整っている。これを踏まえて番組を企画することで、視聴率獲得の戦略も変わってくるのではないか。単純にF2が動くのでどうのこうのでは限界があるが、この図をベースに考えるとまったく考え方を変えた方がいいということだと思う。『半沢直樹』は、テレビを新しい領域へ誘っているのかもしれない。

さてここで、お知らせです。11月1日にソーシャルTVカンファレンスというイベントを開催します。海外からのゲストによるキーノートをはじめ、今後のテレビを見通すためのセミナー。皆さんこぞってご参加を。詳しく&お申込はこちらをクリック→“SocialTV Conference2013”

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半沢直樹のヒットは、テレビ番組にはマーケティングが要らない、ではなく、その考え方を変えなきゃ、ということじゃないかな

『半沢直樹』がついに終了した。視聴率はどうやら“ミタの最終回“を超えたらしい。期待通り、歴史的ヒット作となった。

これまであらゆるメディアを賑わせてきたわけだが、最終回がまた物議を醸した。微妙な終わり方だ。これまでファンタジーと言われるほど現実にはありえないカタルシスをもたらしてきたのが打って変わって、現実的な苦い結末。苦渋の決断か、周到な計算かはわからないが、賛成反対含めてこの一日間だけでもたくさんの言論が飛び交ったのは、よい展開だと思う。続編ドラマなのか映画化なのかわからないが、このままでは終わらせないぞという、作り手視聴者双方の気持ちがまだしばらく世の中を漂いそうだ。

このドラマの空前のヒットをもって「テレビはダメになってなんかない」と喜ぶ人も多い。また一方で、テレビにネガティブなことを言いたい人たちは「面白い番組を作れば視聴率がとれる。テレビ局は面白い番組を作る意志をなくしていたのだ」と揶揄する。「テレビはこう作ればいい、というマーケティングに頼ってばかりだからダメだったのだ」それは正しいとは思うが、そのまんま受けとめていいのかなとも思う。

30,000回以上RTされて話題になった@ide_jp さんの投稿画像

『半沢直樹』は結局、ずーっと視聴率が上がり続けた珍しいドラマだった。これは4月クールでのフジテレビ『ラスト♡シンデレラ』と似ている。こちらは、一度だけ下がったがそれを除くとずーっと視聴率が上がり続けた。ただし水準が全然ちがう。13.3%が17.8%に上がっていった。『半沢直樹』は19.4%が42.2%にまでなったので、10%以上ちがうのだ。

先日、十数名の大学生を相手に一日講師をやった。その時にテレビ番組について聞いてみると、まずあまりテレビを観ていない。週にいくつか観る番組がある。それ以外は観ない。これがぼくたちテレビっ子世代との圧倒的なちがいだと思う。テレビっ子は朝起きてから夜寝るまで、家にいる間はテレビをつけっぱなしにする。いまの若者はそうではない。

『半沢直樹』について聞いてみると、10人中7名が観ていた。面白いのが、えらく熱いのだ。ここがすごい、こないだの回はここがよかった!なんてことを熱く語ってくれる。彼は日曜9時になるとテレビの前に座り、終わるとさっさと自分の部屋に戻るのだそうだ。

『半沢直樹』はどうやら、ふだんテレビをあまり観ない層を巻き込むことに成功したらしい。聞いたところでは、世代別視聴率でM1(男性・20〜34才)もけっこう観ているそうだ。

ドラマの視聴率は、いやもっと言えばテレビの視聴率は、基本的に高年齢層、そして女性に支えられている。その対局にいるのが若い男性で、視聴率が高い番組でも中身をひもとくと彼らはあまりいない。深夜のバラエティくらいで、ドラマなんかほとんど観ていないのだ。

そんな彼らが『半沢直樹』だけは観ている。これはどういうことだ。このドラマはふだんテレビをあまり観ない層を惹きつけているのだ。単純に「ほら、ほんとうに面白いものを作ればみんな観るんだよ」と受けとめればいいのだろうか。

ふと思い出したのが最近読んだ記事。ハフィントンポストに載っていた遠藤さんのインタビュー記事だ。

遠藤さんは、角川アスキー総研の主席研究員。でもぼくにとっては80年代に「東京おとなクラブ」を編集していた大尊敬している“元祖おたく“だ。まあ、ぼくにとっての遠藤さんのことはまた別の機会に置いといて、遠藤さんのアスキー総研はここ数年1万人を調査して「メディア&コンテンツサーベイ」をまとめている。

その調査から最近の激変ぶりを感じとっていることがインタビュー記事に書かれている。20代前半女性が一日3時間以上スマートフォンを利用している。いくらなんでも長すぎないかと議論になったが、間違いではない。それを受けて「たった5年か、あるいは3年くらいでできあがったライフスタイルの中で、いまの日本人は暮らしているわけですが、いままでの常識とは違うことが起きている。」と感じたそうだ。

また、あるコンテンツのファン層を見ていくと、世代や性別で切っても意味がなくなってきている。どの世代にもファンがいるからだ。だからF1だM1だという世代性別でなく、”『宇宙兄弟』のファン“などとコンテンツで切った方がよほどいいのだと。これも常識と違う変化だ。

メディアと人びとの関係において、いままでの常識と違うことが起きている、のだ。

だからさっきのテーゼ、『半沢直樹』のヒットから言えること。「ほんとうに面白いものを作ればみんな観るんだ」は少し解釈を変えた方がいいのかもしれないのだ。

「ほんとうに面白いものを作ればみんな観る、ようになってきたのだ」と。

『半沢直樹』という、面白いドラマが放送されればいいのだ、ということではなく、それが他ならぬ2013年だったから、なのだと思う。2010年でも2015年でもなく、2013年の『半沢直樹』だからヒットしたのだろう。

また、ここでいう「ほんとうにおもしろい」とは、「型破りの銀行員が不正に立ち向かう」ことではないだろう。みんなわかっていることだが、二匹目のドジョウを狙って「型破りの商社マンが国際社会で悪と対峙する」話をドラマにすればいいってことじゃない。

ひとつここでの「ほんとうにおもしろい」のファクターをとり出すとしたら、「暑苦しいほどの熱さ」なのかもしれない。『半沢直樹』そのものがそういう物語なのだが、これを暑苦しいほど熱く演じ、暑苦しいほど熱く演出した。(そう、珍しく、演出にスポットライトが当たった)このドラマの最大の魅力はそうした、作り手の熱い熱い思いだったのではないだろうか。そしてそうした“思い”が、これまでの電波だけでは伝わりきれなかった。中身としても伝わらなかったし、限られた対象にしか伝わらなかった。それが遠藤さんの言う「常識と違うことが起きている」中で、伝わるようになってきたのではないだろうか。

このドラマの話題は、雑誌の中吊りやネットニュースの見出しでも錯綜し、それをソーシャルメディアがつなぎ、拡散していた。「熱さ」がばああーっと広まって伝わるようになってきたのだ。それこそが「常識と違う」変化の正体なのではないかと考えている。

何かまたもやもやしたことを書いてしまったけど、見えてきつつあると思うんだよなあ。

コミュニケーションディレクター/コピーライター/メディア戦略家
境 治
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広告の次の広告への試みは、静かにはじまっている

このブログはハフィントンポストに転載してもらえるようになった。最初に載せてもらった記事は、第一回だからとオリジナルな文章を書いた。「もう消費者なんていない時代に、広告は広告でいいのだろうか。」と題したその記事は、ツッコミどころ満載だったもんでかえってたくさんの人に読んでもらった。

その後も、その記事の続き的な内容の記事をいくつか書いた。
「広告はパーツになりむにゃむにゃしたコミュニティの入口になる」
「お金を「多く使う」より「善く使いたい」。それが21世紀なんだろうね」

こうした記事でぼくがもやもやと考えているのは、これまでの広告とはちがう広告だ。広告とはちがうのだから広告とは呼ばないのかもしれないが。

そもそも、広告とは、どういう構造だろうか。

メディアの中に記事などの純粋なコンテンツとは別のスペース(ページや時間など)を設け、その“広告スペース”を販売する。広告を出したい企業の側は、そのスペースを購入し、その枠の中で自分たちがメッセージしたいことをメッセージし、見せたいビジュアルを見せる。その中身には基本的にメディア側は関与しない。代わりに広告制作スタッフが企業の意向を受けて中身を制作する。コピーライターやアートディレクター、CMプランナーなどがその作業を行なう。

広告枠の中で企業が自分たちの伝えたいことを伝える。観る側はその前提で広告を見る。メディア側はよほどのことがない限り中身に口を挟まない。

それが広告の構造だ。

メディア側が作成したコンテンツと、明確にスペースが分けられている。

この図は、このところ人前で話す際に使っているスライドの中の一枚だ。ここでは“放送“としているが、メディア全般に言えることではある。

まずは放送で考えてもらうといい。テレビ局はテレビ番組を一所懸命制作する。でも、直接的には番組と番組の間の時間が販売されている。番組そのものをスポンサーに売っているのではないのだ。まあ多少強引に言ってのけているわけだが。

新聞や雑誌は“購読料”を払うからかなりちがう。記事にお金を払っているといえる。だがネットでは基本無料となり、やはり広告枠がお金になる。

そして売り物となる広告枠はメディア側は制作しない。これはよく考えると驚くべきことではないかな?

この構造が広告で、今後は広告が広告とは別のものになるのなら、いま書いた“構造“の反対になるのかもしれない。つまり、記事と広告の区別がなくなる。広告の中身もメディア側が制作する。

そんな新しい構造の広告とはちがう広告を、“ブランドコンテンツ“と言ったりする。最近、ネット上では議論になるし、事例も出てきている。

話題になったのは、ライブドアの谷口Pによる映画の宣伝だ。中でも「大阪の虎ガラのオバチャンと227分デートしてみた!」と題したものは、何千もの「いいね!」が押され拡散した。ざっと読んでもらうとわかるが、「ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日」のDVDの宣伝なのだ。トラと若者が一緒に過ごす、という映画の設定をひねって移し替えている。あほらしくて大好きだ。

まったくちがう方向性で、東洋経済オンラインもチャレンジしている。「こんな働き方があってもいいじゃないか」と題した、これも記事だけど宣伝、というもの。こちらはグッと変わってマジメ路線だ。

こういうところにメディアと広告の未来があるかもね、と、ハフィントンポストの松浦編集長に言ったら、ぼくらも取り組みたいんですよね、と、なぜか微笑みながら言うのだ。謎の微笑みだなあ、と思っていたら、先日こんなリリースが出ていた。

「cci、「ザ・ハフィントン・ポスト」日本版で「Category Sponsored」広告を提供開始」

ん?カテゴリー・スポンサード広告?これはひょっとして!と思ったらやっぱりだった。

「VISION2020 ヒトとクルマの安全な社会の実現に向けて」というページができている。しかもだ、VISION2020の書体はVOLVOの書体だ。VOLVOのブランドコンテンツなのだ。

「サイクリスト検知機能を搭載」と題した記事を読むと、自転車に乗るヒトを検知して事故を回避する機能を開発し装備したというもの。それは素晴らしいなあ。

VISION2020のページには上記メイン記事以外にも交通や安全に関する様々な記事の見出しが並んでいる。でもそれらは、VOLVOとは関係なく、それぞれ独自に書かれたものだ。VOLVOとは関係ないけど、さっきの記事には関係するわけだ。全体として交通と安全に関する記事をハフィントンポストが編集しているし、それがpresented by VOLVOのイメージなっている。

これはぼくが前に書いた”もやもやしたコミュニティ”に極めて近い事例なのかもしれない。テーマに沿ったコンテンツを読んでいくと自然に押しつけがましくなく企業側のメッセージも受けとめる。しかもハフィントンポストが作成した記事なのだ。

記事と広告の枠が無くなり、メディア側が作成した。さっきの広告の構造を一度解体しているのだ。

この試みがすべてではないし完璧なものだと言うつもりもないが、少なくとも、これからの広告、広告の次の広告のひとつの形を示しているのだと言える。この事例は、さっきの「大阪の虎柄のおばちゃん」の例みたいにわかりやすく派手ではない。けれども、こんな風に静かにあちこちで、広告は進化していくのかもしれないね。

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2013夏ドラマTwitter分析(2)半沢直樹のヒットはつぶやきから読み取れた?

テレビドラマに関するTwitterの分析を去年から続けている。この夏ドラマについては7月に”その1”として書いたのだが、それっきりになっていた。TBSメディア総研が運営するメディア論壇“あやとりブログ”の方では「半沢直樹」に関する記事をいくつか書いてたので、気になる人はこのリンクから読んでくださいな。

そうだ、ここでお知らせです。“あやとりブログ”初のトークイベント・あやぶろナイト「テレビの未来〜その限界と可能性〜」が10月1日、開催されます。あやとりブログの主宰、氏家夏彦さんをモデレーターに、編集者の河尻亨一さん、メディア評論の志村一隆さん、そしてぼくの計4人でタイトル通りテレビの今と未来を語り合う。ご興味ある方は、ここをクリック!

おっと、話がそれた。あやとりブログで寄り道しつつ、夏ドラマ分析の続きを書いていこう。ただもう、『半沢直樹』一色なので、この作品に絞ってしまう。

まずグラフをお見せしよう。

細かく見たい人は画像をクリックすれば大きく見える。

まず青い線は、“半沢直樹“という言葉が入ったツイートの数を日ごとに計算したもの。第1話から第8話までをグラフにしている。初回放送日ですでに6万オーバー。さらに第5話から水準が上がっている。あまり減ることはなく、増加基調できている。

緑の点は、視聴率。すでに話題になっている通り、一度も下がることなく第8話まで来ている。最終回で40%に達した『家政婦のミタ』も、その前までは20%台で推移したので、それを上回るペースだと言える。

それから、「倍返し」が入っているつぶやきを抽出したのが赤い線。これが面白い動きを示した。最初は半沢ツイートと比べると小さな山だったのだが、9月8日の第8話では、半沢ツイートの半分を超えている。つまりこれは、番組視聴を離れて使われはじめているということだろう。“流行語“のひとつになったことの証しだ。

このグラフからは、とにかくこのドラマがどんどん盛り上がっていっているのがわかる。勢いが落ちたりなどはせず、押して押して押しまくっている感じ。ドラマの内容そのままだ。

それからよく見ると面白いのが、第5話で大きく盛り上り、一週おいて第6話でさらに大きく盛り上がっている。第5話で大阪編の片が付き、世界陸上で一回休止して第6話は東京編になって新たな展開でさらに盛り上がった。

世界陸上で一回休止したことを揶揄する声もあったが、結果的には計算された編成のように、視聴者が盛り上がるような流れが出来た。もちろん計算ではないだろうが。この、前半と後半で物語がくっきり分れる構成は、今後参考になるのではないか。

さて、もうひとつグラフを見てもらおう。

青い線は上のグラフと同じ、半沢ツイートだ。赤い点は少々長い説明が必要。半沢ツイートはその日一日中のツイートの合計だが、その中から放送時間中のものだけを抽出。さらにそのうちから“高揚興奮“を示すつぶやきを選んでカウントした数が赤い点だ。

“高揚興奮”とは、強く気持ちを動かされた時につぶやく言葉で、すごい、面白い、泣ける、笑う、怖い、などなどなどだ。半沢直樹の場合、「面白い」というつぶやきが中心になる。

つまり赤い点はドラマを観て強く気持ちを揺さぶられた数だと言えるだろう。当然、青い線の数値よりずっと少ないので右側の目盛で見てほしい。800程度から2000越え程度の水準だ。

注目したいのは第1話だ。赤い点、興奮ツイートがここだけ突出して高い。このドラマを見ている人なら、初めて観ると「面白い!」と感じるのを知っているだろう。第1話では、何気なく観はじめたらこれまでのドラマにない面白さで“興奮“したということだ。

また、第1話は2時間スペシャルだった。その分、興奮ツイートも多かったのだと言える。ただ、青い線の、ツイート数全体はそんなに多くはない。つまりそれだけ、ツイートの中で興奮したものが多かったということだ。

これも今後の参考になるデータだと思う。面白いドラマが初回2時間だと、それだけネット上での興奮度が高まり「半沢面白いぞ!」という情報が拡散していくのだ。キャストではなく企画に強さがある時に、初回2時間は大きな効力を発揮するのだと言える。

ここまで「半沢直樹」の話をしてきたが、別のドラマにも触れておこう。「ショムニ2013」だ。これもツイート数の推移をグラフにしてみたので見てもらう。

これはこれで驚きの結果だ。初回放送日には14万件に迫るほどのツイート数だったのが、第2回以降極端にしぼんで二度と浮上しないままだ。視聴率もいまや一桁台に落ち込んでいるのでこのグラフの通り。それにしても、ここまでガクンと下がると目も当てられない。

ツイート数は視聴率を先取りするのかもしれない。半沢直樹でも、ツイート数がぐっと増えるとそのあとで視聴率も上がる。ショムニでは、ツイート数が下がった後で視聴率も下がっていった。この2つはかなり極端な例だろうからそのまますべてに当てはまりはしないだろうが。

ツイートが視聴率の予兆であるのは別のことからも言える。前回の記事「2013夏ドラマTwitter分析(1)」でこんな表をお見せした。

これは「ショムニ」「Woman」「半沢直樹」「summer nude」の4つのドラマの第1話に対するツイートを”感情分析”したものだ。放送時間中のツイートを抽出して、“好意好感“、”高揚興奮”、“否定“の3種類の気持ちを表すツイートを選び出してカウントしたものだ。

見てわかるように、「半沢直樹」は“興奮“ツイートが多い。一方「Woman」は“否定”が多い。シングルマザーの辛い生活を描いたドラマで、「見るのが辛い」「見るのがいやだ」などとつぶやきが多いということだ。見るのが辛い、と言いながら見続けているわけで、それだけ深く見入っているのだろう。

「ショムニ」「summer nude」は強いて言えば“好意好感”が多いが、あまり特徴がない。それから合計値で10%程度差がある。

この時から2か月経って、感情が強く動かされる「半沢直樹」と「Woman」は視聴率的に成功。「ショムニ」ほどではないが「summer nude」も視聴率は伸びていない。

つまり、感情を強く動かされるドラマの方が、その後視聴率が上がっていく、と言える、のかもしれない。

「かもしれない」と、奥歯に物が挟まったような言い方をするのは、断言できるほどサンプルがまだないからだ。もっと言うと、ツイッターから何かが言えるようになってきたのはここ最近の話だ。普及が一定レベルを超えたからだろう。

テレビとツイッターには強い相関性があるのはまちがいない。ただ、だから何が言えるのかは、まだまだなんとも言えない。引き続きいろいろ試していこうと考えている。

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テレビの視聴スタイルを未来にする男。AnthonyRoseがやって来る!〜11月1日SocialTV Conference開催!〜

ソーシャルテレビ推進会議という勉強会をやっていることは何度も書いてきた。

2012年4月「ソーシャルテレビ推進会議、設立しました!」
6月「ソーシャルテレビラボ〜推進会議のWEBサイトができたのだ!〜」
9月「集中解説!ソーシャル五輪を掘り下げる(1)〜インフォグラフィクス作ったんだぜ〜」
11月「盛会でした!ソーシャルテレビ推進会議・半期報告オープンセミナー」
2013年6月「ビジネスモデルは見えてきてる、つもり〜一周年オープンセミナー盛り上がった!〜」

活動は毎月クローズドなメンバーで定例会合を行なっている他、上にあるようにオープンな形のセミナーイベントもだいたい半年ごとに開催してきた。

そして今年の11月もまたイベントを開催する。ただ、今回はこれまでの三回と少し違う。なんと!海外からゲストをお招きし、キーノートスピーチをしてもらうのだ。

Anthony Rose氏。Zeeboxという会社の共同創設者で、技術担当役員いわゆるCTOでもある。

Zeeboxは英国ではじまったサービスで、いまやアメリカとオーストラリアでも使える。もちろんAnthonyもロンドン在住だ。

英国にはiPlayerというサービスがある。テレビ地上波の放送局BBCが、ネット上でも番組を視聴できるように開発したものだ。BBCはもはや、あらゆる端末で視聴できるテレビを超えたテレビ局になった。この画期的なサービスの起ち上げにAnthonyは関わっていた。

彼がその後、開発したのがZeeboxだ。いったいどんなサービスだろう。

最近はテレビを見ながらスマートフォンやタブレット、PCを同時に観る、ダブルスクリーン視聴と呼ばれるスタイルが急増している。あなたもふと気づくとやっているのではないだろうか。テレビを見ていてTwitterで番組に関するつぶやきを眺めたり、気になる言葉を検索したり。

だが、つぶやきを眺める時はTwitterアプリを開いたり、出演者の経歴をブラウザで検索したり、なんてことをいちいちアプリを切り替えてやってたら忙しくて仕方ない。ひとつのインターフェイスでパパッとこうした作業が出来てしまえば、こんなに便利なことはない。

Zeeboxはそれを実現したサービスなのだ。

日本でもPC上ならアクセスできるので、見てもらうのがいちばんだ。zeeboxを検索すれば、すぐにサイトが出てくる。スマホだと、アプリを落とせと言われて国別の制限にひっかかってしまうのでPCで見るしかない。

番組のページに入ると、その番組に関してつぶやいているTwitterのタイムラインが出てくる。自分もそこに投稿して参加もできる。

画面の横にはタグが並んでいる。zeetagと呼ばれるもので、番組に登場して気になりそうなキーワードを抽出してある。zeetagをクリックすると、その言葉に関する情報を集めて見せてくれる。なるほど便利だ!

日本にいてもなんとなーく使い方はわかるが、番組と一緒には見れないのでいまひとつ使い方がつかめない。

Anthonyにじっくり説明してもらい、できるだけ皆さんがZeeboxを理解できるようにしたい。

もちろんイベントはZeeboxの話だけではない。キーノートの後に、さらに多彩な登壇者をお迎えして3つのセッションを計画している。登壇者の名は追い追いオープンにしていくが、それぞれなかなかユニークなセッションになりそうだ。

詳しくは、イベントの告知サイトで読んでほしい。ここをクリックすれば飛べる。

参加費7,000円。海外からゲストを呼ぶイベントとしてはリーズナブルだと思う。広い会場ではないので、定員120名。早めに申し込まないと、わりと早い段階で埋まってしまう可能性はある。

Anthonyは気さくな方で、日本に来るのを楽しみにしてくれている。ぜひ皆さん、その姿を間近に、見に来てくださいな!

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