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コピーライター→映像製作会社ロボット→広告代理店ビデオプロモーション→再びコピーライター(フリーランス)。 メディアとコンテンツの未来を切り拓くコミュニケーションをデザインします。講演・執筆依頼もお気軽に!

テレビ局はコンテンツ屋の意地を捨てる〜クリエイティブ維新その14〜

これから起こるのは、メディアとコンテンツの分離なんだ。

もともと、分離してはじまってもおかしくなかったんだよ。

メディアとコンテンツの分離と言うのはね。

放送事業をやる人と、その中で流す番組を作る人は、別でもよかったかもしれない。これから、そうなるだろう、ということね。

例えばいま、映画はどうだろう。映画館を運営する人と、映画をつくる人は別だよね。東宝系のシネコンもあるけど、ほとんどの映画館は映画会社とイコールではない。

同じように、テレビ放送という事業を運営する人が、自分ですべての番組を作って埋めなきゃいけないってこともないわけ。

いままでは自分たちで作っていた。正確に言うと自分たちで作っていることにしていた。実際に作っているのは制作会社だったりしていたけど。でも制作は外注でも”局P”なんて人はいて、中身に責任は負っていた。制作費も局が持っていた。

放送事業が急激に”儲からない事業”になっているのは、自分たちで制作費を負担して、中身に責任を負って、その上でCM枠を売る、という構造が行き詰まったから。制作費の負担をカバーできるだけの広告セールスができなくなってきたから。

テレビ広告費は8割弱に減るだろうと書いたけど、それでも1兆5千億ぐらいでは売れる。つまり、CM枠は今までより安くなっただけで、相変わらず高い価格で売ることはできるわけだ。

だったら、制作費を負担したり、中身に責任を負ったりしなければいい。

番組は誰か作って埋めてください。そうしたら、CM枠は誰か買ってください。そういうことで、事業としては成立するはずだ。

もちろん、そんな状況はいまのテレビ局の人たちには堪え難い屈辱となるだろう。テレビを作ってきたのはわしらなんじゃ!そんな誇りで何十年も仕事してきた。広告枠を売るだけなんて、わしらはそんなことのためにテレビをやって来たんじゃない!

でも割切って、日々の番組の流し方だけやれば、つまり編成だけやって制作をやらなければ、意地はかろうじて保てるんじゃないかな。割り切れちゃえば、それはそれで、こんなにおいしい商売はないと思うよ。

そして割切っちゃえば、テレビをやっている価値に自分で再び気づくかもしれない。

だって『Rookies』大ヒットだよ。こんなに効率のいいプロモーションマシンはないよ。お茶の間で、大画面で、高画質で、一度に大量の人に映像を送り届けられる。やっぱり最強のプレゼンテーション装置なのには変わりない。

視聴者にとっても、だらっとソファに座って、スイッチを入れてザッピングするだけで次々に映像が出てくる。こんなにいいひまつぶしはない。

そういうことにテレビがなった時、クリエイターは何をすればいいのかな?

放送事業はプロモーションインフラへ〜クリエイティブ維新その13〜

前回、TBSの改編が大失敗らしいと書いた。

さて一方で、『Rookies』である。大ヒットである。これもTBSのひとつの姿だ。いまの実体だ。

TBSはいままでになく、”局をあげて”この映画のプロモーションを展開した。あの番組、この番組で、Rookies特番が組まれ、役者たちが出演した。もちろん予告スポットも大量に流れた。

そうしたら大ヒット。最初の土日だけで12億の興収となった。90億円が射程に入った。

邦画で90億円はジブリ作品を除くと歴代で五本の指に入る驚異的な動員、ということになる。

映画『Rookies』から見ると、TBSはまったく力を弱めてはいない。ドラマ放映からずーっと、映画のプロモーションをになってきた強力なメディアだったわけだ。

いままでの事業モデル、つまり、番組を作ってその放映にからめたCM枠を売る、というやり方が行き詰まっている。でも、成長しない、というだけで、意味のない事業になってしまったわけではない。そして、映画コンテンツのプロモーションとしてはこんなに機能するメディアもない、ということだね。

テレビ広告という大きな商品ととらえると、その価格が前年比80%ぐらいになってきている。たぶん、そこで下げ止まるとぼくは思う。テレビ広告は2兆円という価格だったのだけど、8割弱ぐらいになって1兆5〜6千億円ぐらいになるだろう。めちゃくちゃ大ざっぱだけど、たぶんかなりの確度でそうなる。そのあたりで止まると思う。

さてそうすると、まず大リストラをやる必要が出てくる。在京キー局は各局とも上場しているからそうせざるをえない。でもリストラして8割の売上規模に体質を変えれば、生きてはいける。GMやクライスラーみたいにはならない。そこまでする必要はない。

その上で、言ってみれば”メディア不動産業”に撤すればいいのだ。これまでもそうだったと言えばそうだったのだけど、建築物には関与しない方針を徹底することになるだろう。

そうして、映画をヒットさせたように、プロモーションの場としての事業を明確にすればいいのだ。

つまりは、プロモーションインフラ、とでも呼ぶべき存在になればいい。そうしたら、けっこう安定した事業になるよ。

うわ、ここまででけっこう長くなった。今週は久々に毎日書こうかな。

テレビはいったいどこへ行く?〜クリエイティブ維新その12〜

部下に聞いたのだが、ある日のTBSの視聴率を追っていったら、朝から晩まで視聴率が10%を超えなかったそうだ。

どひゃー!

テレビ局の激変がいちばん見えちゃうのがTBSかもしれない。なにしろ、大決断でニュース情報番組を毎日8時までひっぱる大改編を行った。それがまったくと言っていいほど裏目に出たのだ。

朝から晩まで視聴率が10%を超えない、というのはテレビ東京でしか起こりえなかった事態だ。それがTBSで起こったことに、いまという状況が象徴化されている。

また視点を変えて、テレビCMのスポンサーがけっこう入れ替わった。それはそうだ。いままで広告費を大量に使っていた自動車や家電業界がドカーン!と出向量を減らしたのだ。もはや隠すまでもなく、テレビ媒体料は値下げせざるをえない。それによって、いままでテレビCMを使わなかった企業が”それぐらいの予算なら、やってみっか”となってるわけだ。

それから、食品や日用品のクライアントはあまり出向量を減らしていない。媒体料金が下がった分、そういう企業のCMは増えているようだ。

テレビ局の決算資料にはよく読むと事業分類別の売上利益の欄がある。当然、”放送事業”の数字が断然大きい。そして前期のポイントは”放送事業”の営業利益が急減していることだ。つまり、いまのテレビ局にとって屋台骨である”放送事業”が儲からなくなってしまったのだ。

そこには、いろいろ考えるべき点がある。

もっともわかりやすい突っ込み方は、”もうテレビ局に入っても給料は上がらない”ということかな。

いやね、イヤミで言ってるんじゃなく、そこにはこの業界のもっともコアな真理が含まれているとぼくは思う。

というわけで、しばらく、テレビについて考えよう。

少しずつ、でも着実に起こっている変化〜クリエイティブ維新その11〜

日々過ごしていると、ちょっと感じとりにくいんだけど、ドタバタ動きながらふと振り返ると、あれー?なんか世の中が変わってきているぞ、と気づいた。

”メディア事変”はまちがいなく起こっていて、日に日に変化が加速度を増しているみたいだ。

つまりは、ぼくがここで去年、最初は悠長な展望として、途中からは大変だと大騒ぎしながら、これはきっとこれからこうなる!と書いてきたことが、実際に起こりはじめているんだ。

例えば、ちょうど一年前の6月5日付けの記事で書いたのは、”広告制作受注の流れが拡散していく”というタイトルだった。いままでのようにシンプルに広告代理店からCM制作の受注がある、ということはなくなりはしないけど、いろんな流れで依頼が来るようになる、あるいはいろんな流れに手を突っ込めばいろんな形態で受注が発生するだろう。そんなことを書いていた。

4月以来、実際にそんなことが起こっている。しかも、一年前に書いたのはWEB受注がいろんなところから来るようになる、と書いたのだけど、WEB受注だけじゃなかった。CM制作の話も、いろんなところを経由して舞い込むようになった。

ぼくの予想を超えた状況が生まれつつあるということ。

ということは、その他に書いたことも、多かれ少なかれ起こっていくのだろう。いや、実際に起こっているにちがいない。

それからもう一つ面白いのは、業界内だけでなく、業界の外からもいろんな声が聞こえてくる。ぼくらの世界を、いろんな世界の人たちが熱い視線で見つめている。そういう人たちの意見が、業界内のぼくの読みとほぼ同じなのに驚き、どうして外から見てそんなことまでわかっちゃうんだろうと感心したりしている。あるいは、外の世界の人が、うわなるほど、確かにそうかも!という新しい知見をサジェストしてくれたりしてまた驚く。

あるいは、もともとのパワープレイヤー、つまりは代理店や大手メディアの人たちの中に、そんなこと考えてるんすか!という人もいたりする。そんなこと考えちゃったら、本業が脅かされませんか?いやあ、そんなこと言ってたら沈没するだけですから、てな調子で、大胆に自らの構造改革を構想している。明治維新での勝海舟みたいな人、ってことかな。

というわけで、大変だし、相変わらず具体的にどうなるのかさっぱりわからないのだけど、とにかく日々面白い。

これからしばらく、このブログももう一度更新頻度を上げて、確実に起こっている変化をリポートしていこう。

言ってみれば、去年書いたことの実践編、だね。

再編をたくらもう〜クリエイティブ維新その10〜

誰と、何を、どう組むか、ってところがもはや、重要になってきていると思うんだ。

というのは、今までの世の中は垂直だった。

ここでいう垂直というのは、ずいぶん前に書いたけど、あらためて別の言い方すると、この国のあらゆる業界は”ゼネコン構造”だったのね。

何らかの利権がね、だいたいあるわけ。その利権を確保できてるおっきな企業がまずいくつかあるわけ。その”おっきな企業”の下に、その下請けや孫請けが垂直に連なっている。すごく乱暴だけど、どの業界もそういう構造だった。

それがバブルがはじけてもなんとか持ちこたえてきたんだけど、面白いことに去年の下期からその構造があっという間に、ガラガラガラガラっとすごいイキオイで崩れつつある。それが”いま”という瞬間。今期という時期なんだね。

垂直がダメになりつつある。すると次は、”水平”だね。

どう、誰と、どんな目標で、”水平”につながるか。

おそらく、あらゆる業界でそんな模索がはじまるだろう。

そして、あ、このカタチだね、この水平だね、という”組み方”を見出せたやつらが、勝つ。

そういうことになってくるんだろう。”だろう”と言いつつ、わりとまちがいなく、そうなると思う。

それが”再編”。

おっと、まちがってはいけないよ。いままでの”元締め”みたいにおっきくなることはさほど重要じゃないの。いやもちろん、小さければいいってもんじゃない。むしろ、ある程度の大きさは必要さ。だけど、”トップ”をめざす必要はない。むしろ、大きさがじゃまになったりもする。

そうだなあ。五十人とか、百人とか、三百人とか、それぐらいの”チーム”があって、なんらか特殊技能を持っている。そんなチームが複数で”組む”。すると、大きなパワーになる。そういうチームをうまく再編していくわけ。

うーん、抽象的?

でも、よーく世間を見渡すと、なるほどなー、って思えてくるはずだよーん。

行き当たりばったりの国〜小沢さん辞任〜

”いま”というタイミングで辞任表明するのは、意図が読めない。意図が読めない行為に対し、人びとの反応は冷淡だ。ふーん、としか受けとめられない。

まずどう考えても、このブログでも3月末に書いたように、秘書が起訴されたその瞬間に辞めるというのが第一の選択だっただろう。「私は決してまちがっていません。ただ、部下の不祥事の責任はとります!」と宣言してあの時に辞めてたら、民主党の支持率はうなぎ登りだっただろう。それができなかった。

そして、あの時辞めないんだったら、次のチャンスは”いま”じゃない。自民党が衆議院を解散していざ総選挙だ!というタイミングがいちばんだった。

もちろん、その前に、次の代表も決めておくわけ。小沢さんが辞めたあとの体制をどう作り、選挙をどう闘うか、あらかじめ示し合わせておくわけ。それが整った時点で、辞めます!と高らかに宣言する。後を引継いだ代表が、「小沢の無念を晴らします!」と言えば、自民党としては打つ手ナシだっただろう。

だから、”いま”ではなくて、解散まで頑張り続けるべきだったわけ。

てなことは、ぼくが言わなくても、けっこう誰でも考えることじゃない?

つまり問題なのは、そういう戦略性のなさなのだよ。

そしてこの国のえらい人は、戦略を持たない。考えない。その場その場での、とくにインナーのムードばかりをおもんばかってしまう。外の視点がまったくない。

戦略とは、つまりは、そういう俯瞰で見ることから生まれるのだ。

重ねて言うけど、ぼくは民主党にも自民党にも肩入れしていない。ただひたすら、政局が村の中で決まっていくことを嘆く立場だ。

行き当たりばったりでは、何も生み出せない。とくに政治のような大きなガイダンスを持つべき場で戦略がないのは影響が大きい。

大事なのは、民主党や自民党の政策でさえない、とぼくは思う。実際、両党の政策は方向が同じだ。問題は、戦略だ。戦略抜きで政策を感覚的に場当たり的に打ち出していっても、効果はない。それなりの人が考えれば、それなりの政策は出てきて、さほどまちがえようもないだろう。でも場当たり的に政策を打出しても、それが根付かないんだ。根付かない政策は、何も生み出せないんだ。

問われるのは戦略なのだ。

ああ、でもいったい、戦略的に次の日本を構築しそうな人なんて、自民党にも民主党にも、いないじゃござんせんか。

どうなるのかね、この国は・・・

株価半分の絶望〜希望が見えない不安の時代〜

ある理由から、株を持つことになった。投資するぞ!という前向きなものじゃなく、話の流れで株を持たなきゃならなくなったのですわ。

某大手家電メーカーの株なんだけど、持つからにはってことで、株価を調べたりしてみた。それだけだと、ああそうですか、って感じ。

えーっと、ってことで、ついでにこの一年でどれくらい株価が下がっているかも調べたら、ほとんど半額になっていた。計算したらちょっと驚いたのね。

日経平均がこの一年で半分近くになっているのだから、当たり前なわけだけど、自分のものとして、個別の銘柄を見るとさすがにびっくりした。

ざっくり言うと、X百万が、X百万×二分の一、になっているわけだよ。

単位百万だし、”持たなきゃならなくなった”背景があるから、ちぇっ、で済むけど、一年前に買っていたとしたら、自分の稼いだ金を積極的に投資してやろうという買い方だったら、そして単位千万だったらどうだっただろうと想像すると、寒気がした。

つまり、この国に、そういうことが起こったわけだ。

それから、どうせなら他の株もいろいろ調べたんだけど。とにかく下がっている。増収増益のネット関係の会社の株も下がっている。そして、いったいどこが上がりそうか、皆目見当がつかない。と言うか、どこも上がりそうには思えないんだわ。

で、ふと、中国企業の株って買えるのかな、などと考えた。

あっ、と思った。

そういうことなんだよ。

例えば、どこか別の国の投資家から見ると、日本企業の株なんか、買おうなんて思わないんだろうよ。ちょっと落ち着いたら、どうれ、やっぱ買うなら中国じゃないかな、BRICsだろ、どう見ても。そう思うに決まっているよ。

日本という国に”買い”の要素なんてないじゃないか。

この一年で失われたんだ。”買い”の要素が徹底的に無くなってしまった。この国から。

市場原理主義はまちがってるとか、そんなこと言ってる場合じゃない。だって世界は市場原理で動いているんすよ。そんな中で”買われない国”になっちまってる。ってことはっすねえ・・・

夢も希望もないってことじゃないっすか・・・

ぼくたちがやるべきことは、新たな希望を探すことなのだろうか。それとも、希望がないなりの暮らし方をつくりあげることなのだろうか。

後者なんじゃねえの?って思う?・・・でもさあ、ぼくたちは、ぼくたちの子供たちに、希望を探してあげないと、いけないんじゃないのかなあ・・・

レッツトライ!&エラー〜クリエイティブ維新その9〜

イノベーションは常に、周縁から起こる、というわりとはっきりした法則がある。

考えたら当然だ。

クルマが売れなくなってるね、って時に、だったらいままでよりさらにすごいエンジン積んだすっげえクルマつくったらプラスに働くかと言うとなんにもならない。エンジンそのものの発想を変えてかなきゃね、ってことになっているわけだ。

クリエイティブがどうなっちゃうんだろう、って時によく、とにかくいいクリエイティブをやっていくだけですよ、とか言う人がいる。それは呑気だ。それじゃダメ。とにかくいいクリエイティブをやっていく”だけ”と言ってること自体、ちっともクリエイティブじゃないだろう。

勘違いしないでね。いいクリエイティブは最後にはやっぱり必要で、忘れちゃならないことだ。でもその前に、いっぱいいっぱい考えないといけないことがいま、ある、はずだ。

いままで通り、テレビCMと新聞広告を企画しよう、とか言ってちゃダメなのはもちろんだ。でもだからといって、新しいことに飛びついて”これが最新の!”とか言っても、もう誰もだまされてはくれない。

フツウの生活人として、こうじゃない?いやこうでしょ?と、地道に考えて”えーっと、だったらこうきてああかなあ”ともやもやとした確信のもと、えいやっ!と提案してみる、やってみる。それしかない。

提案された方も、何の確信もないんだ。だから一所懸命に、たぶん、きっと、おそらく、でもきっと必ず!とプレゼンするしかない。できるだけ、情熱を共有してもらって、一緒にトライしてエラーも共有してもらえるような状況をがんばってつくっていくしかないのだ。

それで”おめえなんかダメだ”と言われたら、あいすいません、と撤退して、また別の相手に一所懸命かましていく。それを繰り返していくしかないだろう。

失敗を恐れていてはいけない。それは当然のこと。だからといってなんとなーくやっててもいけない。

一所懸命考えて、仲間と議論して、考えて、悩んで、うーん、こういうことじゃないかなー、と”ささやかな確信”を持てたらやってみる。それでも失敗する。でも次への何かは得られる。何かを持って次へ向かう。

そんな、いったいいつになったら終わるのかなあ、という道を、ほふく前進してとにかくひたすら前へ進んでいく。必ず前には進む。はってでも進む。

そうしたら、どこかにたどりつける。たぶん一年とか二年とか平気でかかっちゃうけど、必ずたどりつける。

必ずたどりつける、ってとこは、信じていい。人類はそうやって生きてきたんだから。絶対にたどりつける。

2009年度は、そういう一年になるんだろう。あなたにとっても、私にとっても、みんなにとっても。

オウケイ?

プロであるだけでは食えない時代へ〜クリエイティブ維新その8〜

前に紹介した『次世代マーケティングプラットフォーム』の著者・湯川さん(このブログにコメント書いてくれて感激した)が紹介していた別の本があってね。さっそく買って読んでるの。『新世紀メディア論 新聞・雑誌が死ぬ前に』(著・小林弘人)って本なんだけど。タイトルが刺激的だね。

活字のマスメディアが死のうとしちゃってる、ってサブタイトルなわけだけど、大きく捉えれば活字メディアに限らずマスメディアに依拠して生きてきたすべてのクリエイターに共通することが書かれている。

で、うーん、とうなってしまった一文があるんだ。

”「ただそこに身を置いていれば食える」という時代はもう終わりでしょう。”

”そこ”っていうのはまさにね、ぼくたちが生きてきた場所。マスメディア上で展開されるクリエイティブをつくってきた人びとがいる、その場所。クリエイティブのプロたちの場所。

そこに身を置いていれば食える。そんな時代じゃないってわけ。

あれー?いや、いままでだってそうじゃない。そんな甘い世界じゃないよ、もともと。

そうだね、もちろんそうだよ。

でもね、甘いと言えば甘くなかった?

”そこ”に入るのは大変だった。でも意外に何かの拍子に入れちゃったりする場所でもあった。何かむずかしい試験があるわけでもない。何らかの運や偶然で、誰かに引っ張られたりして、入れちゃったりする場所でもあった。倍率は高いけどフツウに就職活動して入れることもあった。

入っちゃったら、意外と、退場させられることも、なかったんじゃない?

なんか、一度、クリエイター、とか、コピーライター、とか、ディレクター、とか、そんな肩書が名刺について、ネクタイ締めなくても上司に怒られなくって、出社時間もアバウトでよかったりして、ただミーティングは延々やって、スタジオとかそういう特別な場所に長々とこもったりして、そんな仕事生活に身を置いたら、食えてきた。

そういう時代が、終わろうとしている、ってことなんだと思う。

これね、考えを拡大していくとクリエイターだけの話でもないんだけどね。でもそこふれるとややこしくなるので、それはまた別の機会に。

プロの座を勝ち取って得られる幸福というか、人生というか、システムというか、ポジションが、もはや安泰じゃないのだね。

だっていまから、ガラガラポンがはじまるからさ。ビッグバンが起こってるからさ。

だから、2009年度はまだじぇんじぇん見えないけど、やっぱりたいへんな事態が起ころうとしてるってことだね。

・・・なんか今回は、言ってることが曖昧だったかなー・・・

贈与税減税を金持ち優遇と批判するさもしさ

贈与税減税を政府が検討している、そうだ。ただ、金持ち優遇と批判されちゃわないか心配だとの声も出ていると報じられた。

そこまでは、まあいいよ、フツウに報道としては。ところが、そのニュース番組で、最近メインキャスターになって急に知った顔でしゃべるようになった人が、「多額な資産を持つ人は少ないわけで、その贈与税を減税するのはお金持ちを優遇している。もっと庶民のことを考えるべきだ」てなことを言った。そしたら、某大新聞の記者をやっている人が賛同することを言った。

なんてさもしい人たちだ!

まず、贈与税減税はやった方がいい。必ず経済効果がある。贈与税をとらちゃうもんなあ、ってことで高齢者世代は子供世代に資産を移転しない。そうすると、そのまま死ぬまで預金として持ち続ける。死んだら、相続する。相続税にはある程度の控除がある。これは決して金持ち優遇ではなく、ある程度は控除しないと親が亡くなった途端多額の相続税を払うことになり、突然住んでた家を売り払わねばならなくなるからだ。都市圏に一戸建てを持っていると千万単位の資産になっちゃうんだぜ。

だから相続税は控除される。贈与に比べると相続時の税の方が断然控除額が高い。つまり、ほっておくと死ぬまで資産を移転しないんだ。

贈与税を千万単位で控除すると、だったら子供に使わせちゃおう、となる。すると、何らか高額な買物をする。

これを三年間とか時限立法でやれば、早く子供につかわせないと、ってことで、短期的に個人資産がごごごと動くのだ。

お金が動くことは経済にはプラスに働く。必ず。財政出動して公共事業だ、ってことだと、税金を使うことになる。でも贈与税減税で動くお金は個人のお金だ。しかも、金持ち優遇だと言うなら、お金持ちのお金だ。惜しくないっしょ。

経済効果があれば、お金があまりない人びとも仕事にありついたり給料が増えたりする。結果的には、お金持ちのお金がみんなにまわってくるわけ。お金持ちも自分のためにお金使えて気持ちよかった、ってことなわけ。

ニュース番組のキャスターやコメンテイターに飽きれるのは、まずそういう、経済の理屈わかってないくせに、何千万人もが見ている影響力の大きなテレビというメディアで、感覚的にものを言っちゃうこと。

でも、ぼくがさもしい、とまで言いたくなるのは、感覚的に”お金持ちを優遇するのはけしからん”と平気の平左で言ってしまうところだ。

だってさあ、よく考えてよ。人がトクするのはけしからん、って言ってるわけよ。さもしくね?

さらに言えば、そのキャスターはフリーランスで普通の人から見たら金持ちだ。大新聞の記者のコメンテイターも平均よりまちがいなく高い給料をもらってる。そんな人たちが、”金持ちがトクするのはけしからん”って、じゃああんたらの言う金持ちってどんな人たち?あんたらと、平均的な日本人の収入と比べた時、けしからん、と澄ました顔で言えるのはどういう感性なの?

それにこの人たちは、ある意味、結局は”世の中お金だ”と言っているも同然だ。ほら、さもしいよ。さもしくって泣けてくる。

大人たちがこんな風にさもしくなっているこの時代に、ぼくたちの子供らはどんなキラキラを持てるのだろう。

でも案外、大人がさもしいからこそ、今の子供たちの方が、正しい”キラキラ”を持ちはじめているのかもしれない・・・なんてね!

2009年度へのおさらい〜クリエイティブ維新その7〜

しかもね、昨年度はそのちょうど真ん中でリーマンショックが起こり世界が激変した。激変したけど年度の途中の変更だからみんな慌てて調整を図った。持ってた予算を急激に使い道を変えた。使わないことにした。

そして2009年度は、こりゃ大変だぞ、という予算組みではじまる。だから、いきなり変わるだろう。昨年度までは当然あったこと、やってたことが、はじめからナシになったりする。

ナシになるってのは大袈裟で、大幅な縮小予算ではじまる。だからお金の使い方を変えてくる。いままでA方向に使ってた予算を3割ぐらいに減らす。その分、B方向の予算を増やしたりはする。総額は減らすけど、B方向にはお金を使う。そこ、見きわめなきゃね。

B方向とはどんな方向か。もちろん、それは年度がはじまって少しずつわかってくるだろう。でもその傾向は探れるはずだ。

そこで、昨年度から起こっていることのおさらいをしよう。つまりここで説明してきたことのおさらいだね。

日本の高度成長は製造業が支えた。農村から都市にどどーっと労働力が押しよせて製造業に従事していった。都市に移動した労働者はだんだん豊かになり消費者にもなっていった。

マスメディアは製造業が生み出す”生活を豊かにする商品”を”もっと豊かになるドリーム”とともに日本中にプレゼンテーションした。クリエイティブ業界はそのプレゼンテーションをのせる物語のために発展した。

高度成長が終わっても日本は産業構造を変えなかった。変えないでいたらバブルが来て、世界一の金持ち国家になったと勘違いした。バブルがはじけても勘違いから覚めず、また景気よくなるかなー、とグズグズして産業構造を変えないままでいた。そうしたら90年代後半に大きな銀行が潰れたりした。

2000年代に入って小泉さんが登場して構造改革を呼びかけた。実際には銀行の不良債権をなんとかしたのと郵政民営化ぐらいしかやってなくてあんまり構造改革してないんだけど、そこにアメリカのバブルと円安が到来し、日本経済は復活したかに見えた。内需は増えないけど輸出がどひゃどひゃ増えたので、景気は一見上向いた。

そこへリーマンショックが起こった。

上向いたと思えた景気は急降下し、輸出に頼れないことがわかった。でも産業構造は変わらないままなのでみんな何をどうしたらいいかわからなくなっている。

ものすごく大ざっぱに書くと、だいたいそんなことだ。

そこでぼくたちの業界にとってすごく大事なのは、マスメディアの役割が大きく失われたことだ。もはや、製造業が生み出す製品をプレゼンテーションする必要がなくなっている。やっても売れないからね。もう豊かにはならないからね。去年より大きくて機能も増えた自動車や電化製品を買っても豊かにはならないんだ。

クリエイティブの存在意義だった”マスメディアのプレゼンテーションに物語を吹き込む”ということが、不必要になっちゃったんだ。

つまり、マスメディアに食わせてもらっていたクリエイティブ業界は、次どうするよ。そんな事態がいま起こっているわけ。

クリエイティブ維新の実体とは、そういうことだ。

答えの方向性はそうすると、マスメディアに食わせてもらうんじゃなく、自分で自分の食いぶち稼ごう、ということだ。

これは方向性だけであって、こうすれば食いぶちはある、と誰かが見出せているわけじゃない。でも方向性はそういうことだ。

うーん、途方に暮れるねえ。でもさ、やるしかないんだよ。やるしかない、なんて言うと後ろ向きな感じだけど、やるんだってば!だって、ぼくたちはいまはじめて、自立しようとしてるってことなんだぜ!

肉を切って骨を断つ、ができなかった小沢さん

ぼくは別に民主党を応援しているわけではない。また自民党シンパでもない。

そんないわゆる”無党派”のぼくから見ても、今日の会見は最低だったと思う。あんなこと言うだけなら、会見なんかしなければよかったのに。わざわざ「私は何もしません」と国民の前で宣言しちゃった。

政治家の人たちは”作戦”がヘタだなあ、といつも思う。安倍さんや福田さんの辞め方も実にヘタだった。

でも今日の小沢さんの会見はまた同じくらいヘタだったよ。

政権をほんとうに奪いたいなら、ブコツに”がんばります”とか言わないで、”一回退くとトクするぞ”と姑息に考えればいいのに。

自分の秘書が起訴されたんだよ。部下の大変な不祥事に、辞任する社長はけっこういる。同じように、辞めちゃえばよかった。「私は潔白ですが、部下が起こしたことには責任はありますので、辞めます!」と強く言えば、世論は「よく言った!」と一気に小沢さんに喝采を送っただろう。そして民主党に支持率は急上昇した。まちがいなく。

世論は情動的なのだ。エモーショナルなのだ。

小沢さんの辞任を受けて鳩山さんあたりが「企業献金の全面的禁止をするべきです!」と言うわけ。困るのは自民党の方だ。遅かれ早かれ選挙にはなるのだから、清い政党を錦の御旗に打って出れば大勝利できただろう。

小沢さんは一回議員辞職するのだけれど、「あらためて選挙民の皆様に信を問います」といけしゃあしゃあと立候補すればいい。絶対通るわけでね。すぐだとアレだってことなら、次の選挙を待ってもよかったわけで。

ヘンに”おれはまちがっていない。ここで辞めるとまちがっていたと認めることになってしまう”などと考えたんじゃないかな。それは自分にとってのこだわりではあるけれど、そして小さな視野ではそれも潔いかもしれないけれど、大きな視野で見た時どう映るかを計算していない。みっともないとしか見えないことが読めていない。

イメージ戦略がないのだよね。

あるいは、世論のエモーションを操ってやろうという戦略性がないのだよね。

”操ってやるぜ”ぐらいのしたたかさがないと、政治はうまくいかない。最大のイメージアップの機会を、ピンチをビッグなチャンスに変える機会を、民主党は失ってしまった。

民主党が政権とるかどうか、と言うより、日本の政治に劇的な変化をもたらせるところだったのに。もったいないなあ・・・