sakaiosamu のすべての投稿

sakaiosamu について

コピーライター→映像製作会社ロボット→広告代理店ビデオプロモーション→再びコピーライター(フリーランス)。 メディアとコンテンツの未来を切り拓くコミュニケーションをデザインします。講演・執筆依頼もお気軽に!

【メディアコンテンツ業界への警鐘】いますぐパラダイムシフトを図るべし

日経広告研究所の予測値の前に、電通さんのサイトに載っている売上推移のグラフを見てみよう。

ここをクリックしてみて。

ひと目でわかったと思うけど、2010/3期の数字、つまり今期の青いグラフだけがそれまでと明らかに水準が下がっている。大まかに言って月200億ぐらい売上水準が減少している。

200億って数字で書くとなかなかピンと来ないかもしれないけど、年間売上げ200億の立派な会社なんていっぱいある。立派な会社一社分の数字が毎月失せているわけだ。実際、このところ電通の売上げは前年比80%代前半だ。毎月2割近く、去年より売上が少ない。

さて話を日経広告研究所の予測値に戻そう。

マス広告費は今期、前年比15.1%減少するという。内訳は、新聞21.3%減、雑誌23.3%減、テレビ12.3%減、ラジオ13.9%減。

同研究所は今年の初めにも09年度の広告費を予測している。全然話がちがうじゃないか!

最新の予測をもとに、グラフを作ってみたよ。それが上のグラフだ。

上から、テレビ広告費、ラジオ広告費、雑誌広告費、新聞広告費、インターネット広告費、最後のブルーはプロモーション費だ。

2007年と2008年の数字は電通発表の実績値。予測じゃなくて”事実”。電通の発表値が年度じゃなくて暦年なので、予測値も日経広告研究所の年度の予測値を暦年に調整しているつもり。

ぼくはこのブログで、去年の今ごろから”まずいよまずいよ”と言ってきた。そして去年の後半からはほんとにまずいことになってきた。

だがこのグラフを見て、さらに”まずい”ことになっているとわかった。去年の11月24付けの記事でも似たグラフを載せているので比べてもらうといい。危機の水準がまったく変わっている。

例えばテレビ広告費は07年から08年にかけて980億減少。でも今年はさらに2000億以上減少する。雑誌広告なんか、去年の4000億から今年は3000億に、つまり4分の3になっちゃう。新聞広告費も2000億近く減少。そしてインターネット広告費はこれらを補ってと言うほどは増えない。

いいすか?これは普通に考えると”おしまいっすよ”という状況なんだ。努力や根性で乗り越えられるレベルじゃないの。今まで以上にまじめに目一杯がんばってたって、ダメなんだよ。

それから、もしこれが”日本メディアコンテンツ株式会社”というひとつの会社だったとしたら。事業性が弱い部分をたたもう、となる。中途半端な部署ほどリストラ、ってことになる。つまりは、中途半端な事業性でやって来た会社は、たたまなきゃいけないってわけ。

さらに言えば、そのメディアコンテンツ株式会社の重要な商品はコンテンツの作り手、つまりクリエイターの会社のはずだけど、そういう会社ほど、事業性が心もとない。これはおかしなことだけど、そうなんだ。

だったらどうする?パラダイムシフトしなきゃ。すごいスピードでシフトしなきゃ。

そうしないと、みんな、生き残れないよ。ほんとうだよ。

雑誌はBS番組になったら?〜クリエイティブ維新その25〜

動画の活用、というとWEBってことでしょ、ってことになる。それはまず、そうなんだけど。

あとさあ、BSってのもどうすか?BSで番組やるの。ここで言うBSっていうのはもちろん、テレビ放送のBSね。

地デジが例の鹿の活躍などもあって?ぐいぐい進んでいる。地デジが、などと言わなくても、とにかくいまテレビを買い替えると地デジにならざるをえないわけ。するとね、特別なことしなくても、リモコン一発でBS放送が視聴できる。

BSの問題、課題はまたいずれ書くとして、ここで画期的なのはBSがふつうに視聴できる家庭がどんどん増えていることだ。

で、そうは言ってもまだまだBSは手を出しやすいテレビ放送。番組も足りなくて各社悩んでいるにちがいない。

ところで、前回ぼくはMen’s EXというビジネスマン向けファッション誌を時々買う、と書いた。

もしね、BSで毎週Men’s EXが”番組として”放送されたら・・・うん、けっこう見るだろうなあ。紙の雑誌の方の特集に合わせて、”この靴が買いだ”とか”クールビズ応用編”みたいな内容だったら、そしてその番組にはちゃーんとMen’s EXらしさが反映されていたら、うんうん、けっこう見るよ、たぶん。

番組を見ると雑誌本体も買いたくなるかも。今月号は買わないでいいかあ、と思ってたけど、そうかあ靴の特集かあ、などと番組を見てるうちに、やっぱ雑誌の方も買っちゃおう、と思うかも。そいでもって、WEBでも放送に収まり切れなかった映像を視聴できたら、やっぱ見るかも。

BSの欠点として、”番組表”が頭の中に入っていない、というのがある。地上波なら、だいたい、どの局で何曜日の何時にドラマやってるとかニュースやってるとか、知ってるでしょ?BSはぜんぜんわからない。

でも、自分の好きな雑誌の番組が”毎週土曜日午前11時から”とか言われたら、見るよ、たぶん。

さてそうすることで何が雑誌にいいかと言うと、クロスメディアの広告プラットフォームになるわけ。前年比で6割とか7割とか減っているらしい広告収入を、そういう形で補えないか。あわよくば、前よりプラスにできないか。

少なくとも、補えはするんじゃないかなあ。プラスにできるかは、やってみる価値あるんじゃないかなあ。

絶対うまく行くのかあ?!なーんて問い詰めないでね。無責任に言ってるだけだからさあ。

雑誌は映像を味方につけろ〜クリエイティブ維新その24〜

去年から今年、雑誌の休刊があいついでいる。なにしろ、広告費が激減しているからね。聞くところでは、雑誌ビジネスは広告費で制作コストをカバーできるかがベースなんだって。すると、あとは購買収入つまり書店からの売上げがそのまま利益になる構造。

そうだったのが、広告費で制作コストをまかなえなくなってきた。そして購買数もみるみる減少しているのでやっていけなくなってきたってわけ。

さてそれほど苦しい雑誌はどう生き延びればいいか?

やや根拠が薄いんだけど、雑誌は映像を味方につければなんとかならないだろうか。

雑誌が売れなくなっている中で面白いのは、これまで”強かった”雑誌も厳しくなっていること。”強かった”ってことは、パワーみたいなものはあったってことだ。パワーはあったけど、ネットで情報がどんどん取り寄せられるもんで、もともとのパワーでは追いつかないのがいまの状況。

一方、ネットで情報が氾濫している中、どこで何を読めばいいのかわからん、と前にも書いたよね。だったら、ネットで頑張ろうよ。これがまず考えのベース。

ところが、雑誌のサイトはなんつうか読みにくい。

それは雑誌の人たちが紙の呪縛から離れられなくなってるから。

ひところ、ネットマガジンみたいなのが流行って、WEB上で雑誌感覚でぱらぱらページめくる、みたいな。そのために特別なアプリケーションをダウンロードさせる、みたいなことが多かった。やってみると、めんどくさいの。WEB上でまで”紙っぽさ”にこだわるから逆にややこしいっちゅうの。

雑誌の豊富なコンテンツ力を、もっとWEBらしく見せていかないと。

そいでね、WEBらしくつうんなら、いまは映像なんでねえの?

雑誌をぱらぱらめくる態度ってのは、何かを調べる能動性というより、ぼーんやりだらだら時間つぶし感覚で、でも自分の好きな世界をめぐっていく、極めて受動的なものではないか。そこで、”自分の興味に添ってクリックしていこう”という見せ方は、疲れる。あきる。

で、動画を駆使して自堕落な読者にぼーっと見せていく。その方が雑誌っぽいんではない?

これ、けっこうありだと思うよー。例えば私はMen’s EXを時々買って読む。でも毎月ってわけではない。とは言え、ネクタイ締めるようになってまだ三年なのでビジネスマンとしてのファッションは気になるので、毎月”買おうかなー”と悩む。

でもさあ、買って”読む!”ってほど読まないの自分でわかってるから買わないの。すぐにリビングに積まれて妻がさっさと片づけるつまりすぐに”ゴミ”になるから買わない。

これが、WEBで、動画もふんだんに見せてくれたら、読むなあ。ぼーっと。毎週、いや毎日見るなあ。んで、紹介された靴とか買っちゃうかも。伊勢丹に行って。ね、すごく生き生きした広告媒体にもなるよ。

WEB上で、動画を使うといい、と言うのには多少の理論的根拠が実は、あるの。それはまた、次回ね。

新聞のブランディングやり直し〜クリエイティブ維新その23〜

まあでもね、朝日のCNET買収は、これからはネットだと思いました、という、決意は汲み取れる。覚悟は伝わる。そう、もう紙だけじゃダメだと本気で考えはじめたんだ。そこは、えらい!

確かに、何かは起こりえる。どうにか、やりようは出てくる。かもしれない。

例えばね、ぼくは毎日Yahoo!は見ている。毎日というか、日に4回とか5回とかは見るよ。主に何をするかというと、これが我ながら面白い。検索しに来るんじゃないんだ。トピックス見るの。

いま何か起こってる?面白いことでもあった?そんな気持ちでついつい、日に4〜5回。

ところがね、asahi.comは見ない。ほとんど見ない。時々行って見るよ、そりゃあ。でも習慣化しない。

おかしいよね。”いま何か起こってる”ってことなら、ニュースサイトの横綱、asahi.comを見ればよさそうなのに。

ひとつ大きいのは、前に書いた、ニュースが網羅されすぎていて、どれが大事かわかんない、ってこと。Yahoo!には見出しが8個しかないから、あ、これがいま起こってることね、となる。

でもそれだけじゃない。何か別の重要なことが、asahi.comには欠けている。

ニュースサイトは、ニュースサイトってだけじゃダメなんじゃないかと思う。何かもっと方向づけが必要なんじゃないかな。私はこれこれこういうニュースサイトです、とか。いやもっと言うと、ニュースサイトじゃなくて、○○サイトです、そこまで行くべきなのかもしれない。

○○って何よ、って?うーん、ちょっと無責任かなあ。でも、そこを具体的に言えたらぼくは朝日新聞社を救えるわけでね。そう簡単ではなかろう。

とにかく、それくらいの朝日ブランドの再定義というか、再構築というか、見直しというか、しないと、まずいんだと思う。

少し踏み込むと、ヒントはAERAなんじゃないか。

AERAは中吊りのダジャレコピーのおじさんくささとは裏腹に、かなり”働く女子”を意識していた。そこにオリジナリティがあったもんで、働く男子、のぼくも時折買っていた。

だからasahi.comも働く女子を意識せよ、というのは早合点すぎだけど、それくらいの”色”を持たないと存在意義がないんじゃないか。働く女子は絞りすぎかもしれないけど、例えば40代以下のオピニオンジャーナル、ぐらいな色付けだったらマーケティング的に何とかなるんじゃないか。読売ブランドがなんとなーく、団塊世代周辺のおじさんジャーナルな色があるのと差別化できるんじゃないか。あるいは、管理職向けっぽい日経ブランドともちがった場所に立てるんじゃないか。

いまの話は世代ターゲティング色が強すぎかもしれない。でもとにかく言いたいのは、それくらいの議論をして、朝日ブランドの社会的存在価値を自問自答するべきだということ。

つまり、イチからやり直すの。

それくらいのことをやらないと、たぶん、10年持たないと思うよ。まじめな話・・・

新聞少年はいなくなる?〜クリエイティブ維新その22〜

大新聞が売れるのはなぜ?立派な記者さんたちが書く、立派な記事が載っているから?いや、ちがう。契約したらオマケに洗剤がついてくるからだ。

新聞について書きはじめた最初に、大新聞社の傲りみたいなことを書いた。天下の○○新聞の記者さんは、私は日本の良識を支えているという誇りを持ってハイヤーを乗り回していることだろう。だが彼らの高給を支えているのは、洗剤片手に町中の家をピンポンしまくっている販売員たちだ。

販売員の人たちは例え大新聞を売っている人でも、なんだかあやしい。と言われたら、多くの人がそうそう、とうなずくにちがいない。ぼくも○○新聞や××新聞の販売員と玄関口でケンカしたことが何度かある。だってしつこいんだもん。

その、なんだか怪しいイメージの新聞勧誘員こそが、大新聞の経営基盤となっていることは、誰もがうっすら感じているはずだ。そして考えてみたら不思議な商習慣ではないだろうか。

さて一方、インターネットとは何か、という話にいきなり飛ぶ。

インターネットが変えたことのビジネス面での最重要ポイントは、ものの流通を変えたことだ。既存の流通形態を”中抜き”して変革したインフラ、それがインターネットなのだ。

そして既存のメディアコンテンツ業界は、これまで独特の流通形態を事業基盤としてきた。CDショップがあるからレコード会社は経営できた。それをネットによる”音楽配信”が構造改革を促しつつある。

同じように、インターネットが新聞業界の”販売流通”に構造改革を迫りつつあるのだ。

新聞社がいまの状態でこれまでの販売方式をやめたら?情報の一切をネット経由で送り届けることにしたら?輪転機はいらなくなる。販売所を支える必要がなくなる。さてそれで経営が成り立つのか?

答えはおそらくNOだ。それだけでは済まないだろう。実際、新聞社の危機が先行しているアメリカで、似たことがはじまってでも決してうまく行ってはいないらしい。

だが、時間の問題で新聞社は輪転機を捨てざるをえないだろう。販売組織にごめんなさいするしかなくなるだろう。世の中は必ず”そうせざるをえない方向”に進んでいくし、去年のリーマンショック以降、そのスピードは加速度がついてきている。

輪転機を捨て、販売組織を見捨て、ハイヤー取材をやめ、署名で価値ある記事を書けない記者を切り、レコメンシステムを導入し、それで、ようやく”果たして生き残れるのでしょうか”となるのだ。

もはや、メディア企業に所属しているだけで”特別な存在”にはなれないのだ。そういう世の中になってきたのじゃよ、諸君。

情報を網羅しすぎるな!〜クリエイティブ維新その21〜

おっと、これは新聞はこれからどうなるかのつづきだっけ。えっとつまり、この情報過多と新聞紙の危機はつながっているって言いたいわけ。

インターネットによって情報のビッグバンみたいな現象が起きた。そうするとどうなるか。あらゆる分野で集中と拡散が同時に起こるのだよ。

情報がドバッと増えると、いままで小さなニーズしかなくてマスメディアに登場できなかったものどもが、小さなニーズに合わせた形で浮上する。いわゆるロングテールだね。

一方、人が集まるところには累乗的に人が集まる。何を見たらいいかわからなくなるから。

典型的なのが映画。シネコンが増えて選択と集中が同時に起こるようになった。だからヒットする映画はどえらくヒットするようになる。一方、いままでミニシアターに出かけないとみれなかった作品も、そんじょそこらで見れたりする。集中と拡散が同時に起こってる、わけよ。

まあそれはいいとして、今度はひとつのサイト上で考えてみよう。WEBサイトは当初、何でも無限に詰め込めていいね、って思われてた。でも、ここでも、何を見ればいいかわからない現象が起こるんだ。

ぼくは紙の日経の読者だけど、NIKKEI NETもしょっちゅう見る。トップページに行くと、大きめの見出しのニュースがひとつ。その下に5つニュースが並ぶ。それでもって、その下にはズラズラズラズラーっと、ある程度のカテゴリー別にニュースが並ぶ。

するとね、もう、どれが大事なニュースかわからなくなる。どれがぼくの知りたいニュースなの?ぼくが知りたいニュースがどれかを知りたい。そんな気持ちになってしまう。

これからは”レコメン”だと思うんだ。ぼくが知りたいニュースがどれかを知らせてくれる、そういうことじゃないと価値が出ない。

これはよく考えたら不思議だ。インターネットはプル型メディアなのだから、網羅してあげれば、自分で選べるからいいんでないの?いや、そうじゃないんだ。そうじゃないことにネットが変わってきているんだ。みんながプル型メディアを自在に使いこなして必要な情報をうまくとりだすほど、お利口さんじゃないんだよ。

とくに”メディア”たるためには、もっと親切じゃないといけない。みんな実は、もっと自堕落だ。もっとラクに”重要な”情報を知りたい。

新聞社は膨大なニュースを集められる。でも、それだけでは経済価値を発揮できなくなっている。自堕落な読者に、お気楽に、でも的確に、必要な情報を送り届けてあげる。それができてはじめて、ニュース収集システムがマネタイズできるんじゃないかな。

とは言え、レコメンシステムはもっと進化しないといけないだろう。Derek Trucksを注文して以来、ぼくのアマゾンは毎回、彼のアルバムをレコメンしてくるんだよなあ・・・

おれが知りたいニュースを教えてくれ〜クリエイティブ維新その20〜

ちょっと話がそれるんだけど、たまたまDerek Trucksというギタリストに興味を持って、アルバム欲しいなと思った。そこで、この日曜日に蒲田に買いに行った。

もちろんアマゾンで調べたらいくつかアルバムが出てきた。iTunesでもアルバムごと買えることがわかった。

でもここは、パッケージで欲しかったし、アマゾンに注文して待ってるのもイヤだった。蒲田に買物に行く用事があるから、買っちゃおうと思った。

甘かったね。

蒲田の駅ビルにTSUTAYAと新星堂とあったけど、両方ともないの。マニアックすぎた。

と言うより、いまCDショップも大変だ。売れスジのJ-POPと、昔のスタンダード化したアルバムと、両方おかなきゃいけない。マニアックなギタリストのアルバムなんて置く余裕ないんだ。

蒲田でCDショップをもっと探そうかとも思ったんだけど、早く帰って家族のために夕食をつくらないといけない。土日は料理するのが家族サービスの一環になっているもんで。

で、結局帰ってからiTunesでとりあえずアルバム1つをダウンロードし、他をアマゾンで注文した。

土曜日のうちにアマゾンで注文していれば、日曜日の遅くには手に入ったかもしれない。選択をまちがったんだ。

そういう、リアル流通はもはやネットよりずっと不便になっている、という状況がある。ポップミュージックもビートルズ以来数十年経って、リアルでは量の多さに流通が追いつかないんだ。

新聞も、どこか近い状態になっているんじゃないかな。

十年前は毎朝、日経を読んでいた。丹念に見出しに目を通して、興味ある記事は本文も読んで。とくに一面左側の特集読み物はいつも何か教えられてる気がして、ほぼ毎日読んでいた。

いまはどうだろう。

毎朝、見出しに目は通す。でも、よっぽどじゃないと本文まで読まない。かなりは、前の晩までにネットで読んだ記事だったりもする。特集記事も、読まなくなった。もっと深く鋭い書き手がブログで毎日発信しているからだ。

ふと、これ、毎朝”紙”で読む必要あるかな、と最近は思うんだ。

でも、ニュースは読みたい。

新聞が”アマゾン化”できないものか、と思う。

ぼくが興味あるニュースは実はかなり範囲が限定されている。ここで書いているようなメディアやコンテンツ関連の記事がまず第一。他にも、その時々で興味ある企業の記事、ってことになる。

そういうニュースだけ選んでぼくに提示してくれないものか。

アマゾンみたいなエンジンで、できるはずだ。ニュースを選ぶその人の傾向に合わせて見出しを提示してくれる、そんな芸当はもう、ぜんぜんできちゃうはず。

日経の膨大な情報収集力で集めた記事の中から、ぼくが知りたい分野のニュースをピックアップしてくれる。

そんな紙面がネットで提供されるなら、ぼくは月々なんぼの料金を払うだろう。でもこのまま、”紙”中心だと、いつか、やめちゃうだろう。

そういう、経営判断を、新聞社はすることになる。この数年のうちに。まちがいなく、そうなる。

ものすごく”痛みを伴う改革”を強いられるだろうけどね・・・

顔の見えるジャーナリズムへ〜クリエイティブ維新その19〜

海外のジャーナリズムは新聞であっても署名記事がほとんどだそうだ。新聞社の社員であったとしても、記者であるからには自分の名前で責任を持って記事を書く。それがジャーナリズムの基本ではないかと思っていた。

匿名で書かれた記事は記者個人の文章ではなく○○新聞の文章になってしまう。だが、記事は情報であっても情報を越えた存在ではないか。書き手の視点はどうやったって出てくる。それを署名で印刷しないのはすごく奇妙なことだと思う。

同時に、大量に印刷される媒体で何か文章を書くことには大きな責任が伴うはずだ。まちがったことを書いてはいけない。反論を受けてたつ覚悟だって必要だと思う。匿名記事ではそうした”書く責任”がほとんどなくなってしまう。

さらに言えば、”書く責任”はないけど大新聞社の社員である特権性は残る。ほんとうに価値のある書き手かどうかは問われることもないまま、”おれは天下の○○新聞の記者だ”という気概は、ヘタをすると傲慢さにつながる。そんな状態が、いままで許されてきてしまったのだ。

新聞が書き手ひとりひとりの”顔”を見せることがこれから必要なんじゃないか。

少なくとも、”価値のある書き手”でなければ、例え大新聞の記者であっても生き残れない時代にさしかかっている。逆に言えば、ネットの時代とは個々の書き手の価値が問われる。大新聞の記者であっても、無名のジャーナリストであっても、価値のある書き手であれば人びとは記事を読みにやって来るのかもしれない。そうすれば、そこには何らかの経済価値が生まれるだろう。

新聞の危機は、ジャーナリストひとりひとりに”価値のある書き手になれ”と求めているんじゃないだろうか。

あ、なんか遊びのない文章だったね、今回は。ジャーナリズムはけっこう昔からまじめに見つめているんだ、ぼくは・・・

新聞を越えたジャーナリズムへ〜クリエイティブ維新その18〜

まず、新聞に代表される日本のジャーナリズムは、そうとう変だった。よく、マスコミは第三の権力だと言われていたけど、ほんとうに権力だったと思う。

ペンは剣より強し、と美しく言われてきたけど、その言葉通り、剣より強かったんだ。

剣より強い大権力者集団が、反権力っぽくふるまってきた。そのことが、この国の言論を大きくねじ曲げてきたとぼくは思う。

大学時代の同級生で某大新聞の友人と数年前に会った時、彼はハイヤーでやって来た。ぼくはものすごくびっくりした。「ハイヤーかよ!」と突っ込んだら「え?なに?」と不思議そうに答える。40代の男が私用での移動にハイヤーを使う。その奇妙さに自分で気づいていない。とんでもない世界に暮らしているのだ。

映画やドラマで”ブンヤ”として描かれている姿はアウトローっぽくてカッコいい。でも、夜討ち朝駆けと言っても会社の費用でハイヤー乗り回して取材しているんだ。アウトローでも何でもないよ。

これは日本の大マスコミ独特の企業文化だ。アメリカの新聞社は、個々がもっと規模が小さいので、そんな”大企業”っぽさはない。

日本のジャーナリズムの特異性は”記者クラブ”制度にも象徴化されている。政府の各役所にしろ、地方の役所にしろ、そして警察にしても、記者クラブが存在する。そこに詰めて、公の発表をもとに記事を書く。その一方で、記者クラブ通いによって人脈を形成し、独自の情報入手ルートをつくっていく。重要人物と交流して、そこからしかとれない情報を得ていく。記事にしたりしなかったりする。

そういう駆け引きが”取材”の大きな要素となる。だから、とくに政治記者が出世したりするのだ。

それはジャーナリズムなのだろうか?

インターネットは、そういう大マスコミの特権性をひっぺがしつつあるのだ。

じゃあ新聞はどうなるのか。なくなっちゃうのか。

答えは、日本のジャーナリズムが新聞を越えられるかどうかにかかっているだろう。新聞を越えられれば、新聞は生きていける。

じゃあどうすんの?それは次回に書こう。

”世界進出”をたくらもう〜クリエイティブ維新その17〜

花王がKaoになるのは、言うまでもなく、世界のブランドになるためだ。

ところで”ガラパゴス市場”という捉え方を知っているかな?

これはケータイ電話の端末について言われていること。日本のケータイ電話はすごく進んでいる。でも各機種メーカーは世界市場ではシェアが低い。日本というケータイ電話については特殊な市場で進化してきたから、世界市場では通用しないんだって。

ガラパゴス諸島みたいに外界から取り残された状態だと生物は独自の進化を遂げる。同じことが日本のケータイ電話で起こってるね、ガラパゴス市場だね、というわけ。

同じじゃないけど近いことはいろんな商品で起きている。日本は世界第二の経済大国(だった)もんで、国内市場だけで頑張っていたら十分成長できた。でも成長が行き詰まる中、世界に打って出なきゃね。花王がKaoになるのも、そんな決意の表れだ。

さてコンテンツ産業もガラパゴス市場となっていると言える。

映画なんか典型で、日本の映画市場はアメリカに次いで世界第2位だ。と言っても1位とのギャップはものすごく大きい2位なんだけど。

でもそれで、なんだかまわっていた。なんとかなってた、というかごまかせていた。

ところが、なーんかこのままじゃ行き詰まり感ないすか?って感じてきた。それがいま。

日本のコンテンツ産業は、そしてその担い手であるクリエイターは、いま、世界進出をたくらまないといけないのだ。

脱ガラパゴス!広い大洋に漕ぎ出して、遥かな国々で自分たちを売り込まなくては。

うーん、途方もない。でもやるしかないんだぜ・・・

『LOST』をあなたがつくる前にやること〜クリエイティブ維新その16〜

『24』や『LOST』など、ここ数年急にアメリカのテレビドラマが輸入されてるよね。

『LOST』は連続した制作が決まる前にパイロット版が制作されたそうだ。というか、放送された第1話がパイロット版、なのかな?

アメリカではそういうパイロット版が次々に制作されているんだって。それらを何らかふるいにかけてGOが出たものが本格的に制作され、放送される。

『LOST』の第1話は、飛行機が島に落ちたところからはじまる。あの60分をつくるだけでも億単位の費用がかかったんじゃないかな。

すごい数のドラマが企画され、パイロット版が制作され、”いける!”と判断された企画だけが次のステップへ進められる。あとはいわゆる”没”になる。

パイロット版をいくつもつくっても、一つがGOになれば元がとれる、ということなんだろう。

なぜそんな博打みたいなことが可能なのかというと、まずは二次使用三次使用のマーケットができている点がある。アメリカでは70年代からケーブルテレビの普及で多チャンネルかが進み、番組流通市場が成立しているのだ。さらに最近は、放送翌日にはiTunesで買えたりもする。放送とDVD以外の市場ができているから、ビジネスモデルが多層化している。

でも、ポイントはもうひとつある。

海外市場だ。

アメリカでヒットしたドラマは、日本だけでなく、世界中で流通する。ゆえに、莫大なリターンをもたらす。

だから、パイロット版に投資できるわけだ。

ぼくが”やっぱり『LOST』はつくれないかも”と書いたのは、そこにある。

日本の映像コンテンツは海外市場を持たないのだ。

国内で放送して、国内でDVD売って、それでおしまい。それだと、制作費を多額につぎ込めない。もちろん、パイロット版なんてやめた方がいい。

そんな環境では、つくれないよね『LOST』は。

あれ?なんかがっかりした・・・?

『LOST』をあなたがつくるかもしれない〜クリエイティブ維新その15〜

あっちの事情をぼくは断片的にしか知らないのだけどね。

でもアメリカのテレビ局と映像制作者の関係は、こっちとかなりちがうらしい。

70年代のフィンシン法が大きかったらしい。

フィンシン法についてはまた別の機会に書くとして、70年代に”放送と制作の分離”が行われたんだ。

それからさらに、アメリカのテレビネットワークはハリウッドスタジオと結びついた。ABCはディズニーのものだ。NBCはユニバーサルとくっついた。FOXは新しいテレビネットワークをつくった。

『24』や『LOST』はそんな状況が生み出したヒットコンテンツだ。

アメリカのテレビドラマは”テレビ局のもの”じゃないんだ。製作者のものなの。だから、放送後はいろんなメディアで二度三度四度と展開する。それによって収益を産む構造。映画と同じように、製作者が資金調達して、リクープもデルを構築する。

日本のテレビ界も、同じようなことになるだろう、とぼくは考えている。

もしほんとにそうなるとしたら、あなたがテレビ局の人間じゃなくても、テレビドラマをプロデュースできる可能性が出てくるということだね。

ただし、越えなければならないハードルがいくつかある。

まず、ビジネスモデルを構築しないといけない。そのドラマの企画は制作費が一話いくらかかるのか。それをテレビ局がいくらで買うのか。DVDはどこに売ってもらってどれくらい売れる見込か。さらに二次使用、三次使用ではどんな展開にできるか。そういったことを考えていかなければならない。

これはけっこう大変だね。だって、日本のドラマは放送とDVD以外でどうやって売るのか?ブリッとしたウィンドウが他にあまり見当たらないよね。

えーっと、じゃあ、どうしようか・・・