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コピーライター→映像製作会社ロボット→広告代理店ビデオプロモーション→再びコピーライター(フリーランス)。 メディアとコンテンツの未来を切り拓くコミュニケーションをデザインします。講演・執筆依頼もお気軽に!

70%運行でぼくたちはやっていけるのか

前回「この終末が終わると・・・」と題して書いた、その続きを今日は書きますよ。

鈍感なぼくは、地震から4、5日経ってやっと”ああ、これって終末だなあ”と強く感じたのだけど、皆さんはきっと、もっと早くからそんな感覚を持っていたんだろうねえ。ホント鈍くってすんません。

こうした終末感の行く先はどうなっちゃうんだろうか。これについても、皆さんすでに薄々感じていることだろう。

ぼくたちの日常は、このまま70%運行になっていくんだね。

だって何よりまず、物理的にこの状況はまだまだ続くわけでね。自衛隊や機動隊が1号機だの3号機だのに放水作戦を成功させたとしても、温度上昇が止まるというだけで、電力不足はずーっと続くわけでしょ。そうすると電車のこのはっきりしない間引き運転だってずーっと続くことになるよね。

たぶんあと1〜2週間のうちに政府も電力会社も鉄道会社も、そしてぼくたちも慣れてきて、だいたいこんな感じでうまくいくね、という要領みたいなものがつかめるんだろう。日本人は順応性高いから。

その”要領”の中には、例えば社員は自宅勤務もありね(その代わりちゃんとPCの前にいるかSkypeでチェックすっからさ)、というのもあったり、火曜日は銀座が夜休みで、水曜日は六本木が休みだったっけ?おいおい木曜日は新宿ネオン消さないとダメだって決めたでしょう、みたいなこともあるのかもしれない。

子供たちは使わない電気パチパチ消してくだろうし、食べ物も残さずきれいにたいらげるんだろう。夏休みは宮城にボランティアに行きたい!なんて泣けること言い出すかもしれない。

こういう想像したのは、Facebookのお友達が書いてたことから考えたの。彼は書く仕事をしてるんだけど、地震の前から書きかけてた原稿があって、そこには「いまは飽食の時代なので」と書いていた。でももうそれ書き直さなきゃと。だってもう、飽食の時代は終わっちゃったからね。

これはびっくりした。バブルがはじけても、阪神大震災でも、そしてリーマンショックでも終わらなかった”飽食の時代”がこの2011年3月11日、終わっちゃったんだよ。

飽食の時代?何いってるんすか?何ですかそれ?そんな食べることに飽きるとか言ってる場合じゃないですよ。もし余るようなら、困ってる人に送った方がいいに決まってるじゃないですか。

だってぼくたちは、こんにちは、さようなら、なんていう魔法の言葉を知ってるし、思いは見えないけど思いやりは見えるわけだし、本を読んだら知層が増えるし、乳がんや脳梗塞には気をつける国民なんですよ。

いや実際、この状況でAC広告の連続は、象徴的だし、ぼくたちはかなり洗脳もされたんじゃないだろうか。少なくとも、ぼくたちは心を入れ替えなきゃ、というムードは形成してくれたと思うよ。

確かにぼくたちは、懲りてなかったのかもしれない。失われた十年が二十年になっちゃったとかほざいてたけど、飽食の時代を本気で反省してこなかった。そこがそもそもおかしかったんじゃないかな。リーマンショックで呆然としたけど、飽食を心からやめましょうとは思ってなかった。その上、のど元過ぎたら忘れかけてた。今度ばかりは、心底、みんな感じたはずだ。もう不要なことやめとこ、と。

ぼくたちは何でもかんでも、めいっぱい、がいいと思ってきた。鉄道なんか東京中張り巡らせてスキマなしにして、それでもそこにまだスキマある!と気づいたらまた新線を走らせていた。そうしてそれぞれをめいっぱいにするダイヤをつくった。

働くのもめいっぱいだ。残業代つかなくなっても、朝から晩までめいっぱい働いた。そうしないと誰かに叱られるんじゃないか、あるいは家族を幸せにできないんじゃないか、そんな強迫観念で実は自分自身が自分を働かせてきた。会社のせいにしながら自分をこき使ってきたのだ。

めいっぱい!せいいっぱい!これでもか!まだあるぞ!そんなことを続けてきた。失われた十年が二十年になりまだ続きそうなのは、実はそれが原因だったんじゃないか。経済を目一杯にしよう、フル回転して取り戻そう。それがかえって経済効率を悪くしてたんじゃないか。

だから70%運行で、いいのかもしれない。腹八分の毎日を、そのかわり前よりもずっとゆるゆるで過ごしていけば、いいんだよ、きっと。

ただね、でもね、覚悟もしないといけないんだよ。70%運行だと、会社の売り上げとか、利益とかも、70%になるんだろう。ぼくら個人の収入も70%になっちゃうんだろう。それを覚悟できるかしら?あなたも、ぼくも・・・?

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この終末が終わると、ぼくたちは何かをはじめられるのだろうか

地震の週末が明けてから、世の中はゴタゴタ。会社からは、自宅勤務も認めるよ、との指示。打合せも次々延期になったので、15日火曜日は家で作業をした。それなりにやるべきことはあったし、自宅は作業に徹するにはいい環境。意外なほど作業が進んでかえってよかったかな、なんて思っていた。

夕方、用事があって息子と自由が丘に出かけた。ほんとは日中はデスクに向きあってないといけないんだろうけど、ま、そこは、ね。

自由が丘はいつも休日に行く。大勢の人々、家族連れや若いカップル、初老の夫婦など老若男女あらゆる人々でごった返す街だ。明るくて伸びやかでおしゃれな、ぽかぽかとした空気の元気な街。でもこの日は、閑散としている。そうか、平日の自由が丘ってこんなもんなのか。いつも賑わっている街だと勝手なイメージを持ってしまっていたのだな。

休日だと満車で停められない東急ストアの駐車場に行ってみると、あっさりあいていた。妻から米を買ってきてほしいと頼まれていたのだ。店内に入ると、びっくりした。ちょうど改装工事中で1階の食料品売場しか営業していない。改装のために大きく建物が覆われているのがまずいつもとちがうムードを醸し出している。

それだけではない。店内が暗いのだ。節電のため、陳列棚の蛍光灯がついていない。そしてその陳列棚はかなり空きスペースが目立つ。商品が少ないのだ。自由が丘東急ストアのこんな状態は初めて見た。暗い。照明が消えているから暗いだけではなく、空気が暗いのだ。自由が丘に”暗い”なんて似合わない、想像しがたい言葉なのに。

買い物は帰りにすることにして、息子とDoCoMoショップに向かう。ケータイを風呂に落としてしまったので、交換できるか聞きに行くのだ。

息子が「パパ、あれ!」と指を差す。自由が丘は、東横線と大井町線が交差している駅だ。高架の上に東横線のホームがあるのだが、電車がその高架上に停車している。そして電気が消えている。その上、どうも動き出す気配がない。

「動かないの?」と聞くので、「うーん、東横線は動いているはずだけどなあ」と答えにならないことを答えた。

在京の人ならご存知と思うが、各私鉄が動いていたり、動かなかったり、時間指定で動いてたりする中、東急線は比較的どの路線も多少本数を減らす程度の運行だった。東横線は普通に動いているはずだ。

でもなぜか、駅のホームから動かない。

明るい賑やかなはずの自由が丘が、なんだかどよーんと暗い街に変貌している中、駅のホームで動かない電車。この日はやや寒く、雲も重たい天気もあって、風景がグレーの絵の具で描かれた絵のようにぼくには見えた。

なぜだかわからないが、HGウェルズの『宇宙戦争』を思い出した。

子供の頃、”世界文学全集”という全24巻ぐらいの全集があって、ぼくはかなり読み倒した。その中に『宇宙戦争』もあった。ぼくはこの小説に大いに触発された。タコみたいな火星人が、タコみたいなロボット兵器に乗って地球人を殺戮する衝撃的な小説だった。

数年前のトム・クルーズ主演スピルバーグ監督の映画版は、相当脚色もしてあるけれど、実は原作の持つムードに忠実な内容だ。終盤で地球の微生物にやられたロボット兵器がどよーんと動き回って倒れるシーンがあるが、原作にもほぼ同じシーンがある。自らが焼き尽くした地球の街を、うら〜、などと呻きながらタコ型ロボットが歩くのだ。そのくだりにぼくは、子供ながら”終末感”めいた気分を感じとったものだ。

その『宇宙戦争』のラスト近くの場面を、自由が丘の動かない電車と重ねていたのだ。あの電車は、うら〜、と呻いて動き回るタコ型ロボットなのだ。なぜかぼくにはそう思えた。

ケータイは知らない間にそういうサービスに入っていたようで、別の機種に安価で交換できることになった。その手続きで1時間半ほどかかってしまった。帰りに東急ストアで買い物をした。

さっきは”空きが目立つ”と表現した商品棚が、1時間半後には”商品がほとんどない”状態に変貌していた。この短時間の間に大勢がたくさん買い物をしたのだ。妻に頼まれた米も牛乳も納豆もない。でも駐車場割引の目標3000円のために、頼まれてもいないバナナだの鯖だのチョコレートだの冷凍ピラフだのを買いながら、この買い物は何だっけ?ああそうだ、タコ型ロボットが町を焼き尽くそうとしているから、家で待つ妻と娘のために、息子とともに買い出しに来たんだっけ。なぜかぼくの頭の中ではそんなことになってしまった。

今回のこの地震は、日本にとって大いなる”終末”なのだなあ。

まずあの津波は、ありえない、信じられない出来事だった。モンスターか、宇宙人が持ってきたロボット兵器で破壊されたのだ、と説明された方がまだ理解できるのではないか。あの破壊を、”海の波”が引き起こすなんて、そんなこと、誰が想像できただろうか?道路の上に大きな漁船がどーんと鎮座していたり、病院の屋根の上にクルマがのっかっている。そんな光景はサルバトール・ダリだって思い描けなかったろう。

その地震から数日、数百キロ離れた首都圏では電車が動かずパニックだ。よーく考えたらとても奇妙なことじゃないだろうか?停電したから電車が動かないのではない。停電しそうだから計画的に停電させると発表され、だったら電車の本数減らしますとなった。そのおかげで何十万何百万人が通勤で苦労し、駅に長い列ができる。電車に乗るまで1時間かかったりする。これってやっぱり、おかしな話ではないだろうか?必然的なようで、合理的ではない。

もっと合理的なやり方はあったはずだが、ぼくがここで書き留めておきたいのはそういうことでもないのだ。

これはおそらく、終末なのだ。何か大きな節目なのではないか?この一件のまえとあとでは、ぼくたちは何か大きく変わっている気がする。

この”終末状態”はいつか終わるのだとは思う。でも、この期間を過ごしたぼくらは、前とはちがう生活感覚に変貌しているのだと思う。前はやらなかったことが当たり前になるとか、当然のようにやってたことをやらなくなるとか、そんな変化がぼくらに起こる気がするんだ。

それはどんなことなのか、まだわからない。でもぼくたちはまちがいなく、この数日で少しずつメタモルフォーゼしている。知らない間に脱皮している。

脱皮したあと、華やかに舞う蝶になるのか、小地味な蛾にでもなるのか、よくわからない。それはぼくたちの意志次第、なのかな?・・・

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メディアはやっぱり、にんげん、なんだな

今回の大地震で、ぼくは強く感心した。マスメディアとソーシャルメディアが連携している!

いやもちろん、誰かが誰かと相談してはっきり連携していたわけではない。でもぼくから見て、連携しているように見えたのだ。連携しているも同然だった。

もちろん、かなり偏った視点だ。ぼくがソーシャル上で交流がある人の中には、マスメディア企業の方が多い。そしてそんな人々が、会社に詰めていたり、せっかく一度帰宅したのにまた出社したりしているのだ。

テレビに次々に新しい情報が映し出されるのを見ながら、その向こうにはあの人やその人のバックアップがあるんだな、と感じることができた。

実際、この地震に対するマスメディアはほんとうによくやっていたと思う。”社会の公器”として誠実に機能していた。各テレビ局が、その都度的確に情報をまとめ、ぼくたちは少しずつ状況を把握することができた。

一方、ソーシャルメディア上では、ある意味マスメディアにはできない機動力を働かせて、そして見知らぬ者同士で協力しながら、マスメディアとはちがう生の情報を次々に発信していた。

そして感動的だったのは、いくつかのテレビ局がUstreamでサイマル放送を自ら行ったことだ。放送法だかなんだかに反するのかもしれない。お偉方に叱られるかもしれない。でもそんなことは置いといて、どの局で誰がやったのかはよくわからないけど、堂々とやってのけていた。もちろんこの場合、公益には大いにプラスに働くはずだ。

そんな風に、マスメディアとソーシャルメディアがタッグを組んで、この一大事を乗り切ろうとしている。タッグを組むと、最強のコミュニケーションシステムになることが証明されたのではないだろうか。

結局メディアは、にんげん、なのだなあと思った。それを使う人間の心と能力によって、その潜在力が発揮されるのだ。

金曜日の地震発生以来、マスメディアとソーシャルメディアがこの国の心をひとつにまとめあげ、助け合う気持ちにみんなを導いていたと思う。

・・・ただ、この日曜日の夜中になって、不安が頭をもたげている。

明日から、計画停電がはじまる。これが、この助け合いムードに何かをもたらしそうな気がするのだ。

まず、計画停電の地域がここまでできちんと発表できていない。夜にテレビ各局が報じた内容に、その後訂正がなされたのだが、これを東京電力が伝えきれていない。この状態で明日の早朝から停電するのだろうか?

さらに、その計画停電を受けて、各鉄道会社が運行範囲を絞ったり、運行本数を減らすと、これも夜遅くになって発表した。これも伝わりきれていないままだ。

朝になって、停電が起こるわ、駅はごった返すわで、一気にみんなのムードがギスギスしかねないと思う。

ここまでは、防ぎようのない天災に対して、助け合って乗り切るしかなかった。でも、計画停電や電車運行の変更は、天災とは言い難い。しかもちゃんと伝えないとまずい。

この三日間とはちがう展開になりそうだ。新たな困難を、マスメディアとソーシャルメディアがまた力を合わせて乗り切れるのか・・・

不安な一週間がはじまる・・・

VODをソーシャル化すれば売上が上がる(はず!)

昨日書いた「VODサービスの決定打はFacebookかもよ!」は、少々先走り過ぎた記事となってしまっていたようだ。

あのあと、TwitterやFacebook上で、このニュースの追加記事が続々出てきた。

まずはTechCrunchのこの記事。「ワーナーがFacebook上で映画レンタルを開始–しかしNetflixキラーという報道は誤報」というタイトルだ。

ようするに、Facebookが積極的に映画配信を行ったわけではない、ということだ。ワーナーがいろんなVODサービスを試してきたように、Facebookでも試してみただけだと。つまりぼくの昨日の記事の書き方ではFacebookが主語でVODをはじめたようなことにしちゃってたけど、それはまちがいだということ。すんませんね、先走っちゃって。

それから、NetFlixがこれで危うくなるなんてこともないようだ。確かに、すでにアメリカではNetFlixはPCだけでなく多様なプラットフォームに乗っかっているので、PCメインのFacebookでVODがはじまっても大きな脅威にはならないだろう。

さらにさらに、NewYorkTimesがかなり詳しい記事を掲載した。これを、明石蛸三郎氏がブログ”DON”で詳細に翻訳してくれている。
(ちなみに、蛸三郎氏は、蛸三郎というペンネームで通しておられたのだが、Facebook上でついに実名で活動を始めている。そりゃそうか、実名主義だからね)

これを読むと、事態はさらに複雑で、ワーナーにはただの実験以上の意味はやはりあるようだ。NetFlixのような特定の仲介業者が強大になるくらいなら、視聴者と直接つながれるFacebookの方がいいじゃないか、という目論見があるのではと言うのだ。さらに、Facebookはやっぱりレンタルビジネスに関わりたいのかもしれないという記述もある。

とにかく、思惑はそれぞれ、ないはずはないだろう、ということだろうね。

さてそれにしても、Facebookじゃないならないでもいいのだけど、今後のコンテンツ流通にとって、ソーシャル機能は重要なファクターにあるはずだ。決して大げさでなく、売上を左右するような要素になる。

これは、使っていると痛切に感じるのだ。

例えば、日本での発売日に狂喜して即買い記をこのブログに書いた(そしてTechWaveにも載った)AppleTV。皆さんも使っているだろうか。

AppleTVには必ずしも新作が続々入るわけではないけど、とにかく1000本以上のメジャー作品から映画を選ぶのは大変だ。何しろ、見たことない映画を選ぶわけだから、見るべきかどうか判断する材料がない。

新作なら、まだ劇場やテレビで流れた予告編の印象が残っていたりするけど、二年以上前の映画だともう、印象が残っていない。作品によっては見た人のコメントがあったりもするけど、あれでは情報として少ない。もっといろんな人の感想が聞きたいし、できれば知ってる人、好みが近い人の話を聞いてみたい。

AppleTVには”ウィッシュリスト”という、気になった作品に印をつける機能があるのだけど、ぼくのウィッシュリストには1ダースほどの作品が並んでいる上、毎週少しずつ増えていく。でも視聴するのは土曜日の夜に1本だけなので、見切れないのだ。

ソーシャル機能がついていれば、どんどん見たくなるだろう。ほんとうは、どれを見てもそれなりに楽しめるのだろうけど、誰かに”一押し”して欲しいのだ。

電子書籍なんかもっとそうだ。ぼくのiPadにはもう、数えきれないほどの書店アプリが入っている。いまや出版社ごとに書店アプリを出している状態になってしまった。

それは良いことなのだけど、自分が興味を持つ本がどの書店アプリでどう探したら出てくるのか、さっぱりわからないのだ。どの書店アプリも、ランキングや新作、おすすめといった形で書籍を提示してくるけど、それでも全部合わせてせいぜい20点ぐらいが目の前に出てくるにすぎない。その中にそうそう、興味を惹くものはないのだ。

書店アプリを横断する形のソーシャル機能があれば、ぼくなんかどんどん買ってしまうかもしれない。

電子書籍も、VODサービスも、ようやく第一段階、とにかくはじめてみたよ、というステップなのだろう。次の段階としては、ソーシャル機能、ぜひ取組みましょう!絶対活性化するから。

・・・そうやって考えていくと、FacebookがVODや電子書籍販売をやるのがいちばん早いのかも。うーん、世界はもはや26歳の小僧の手の中にあるのかな?

VODサービスの決定打はFacebookかもよ!

このブログの熱心な読者の皆さんなら、ぼくがVODにこだわってきたことは知ってるよね?そして、来る〜きっと来る〜今年は来る〜と期待してきた。

そうだっけ?などと失敬なことを言う人は、「VODに未来はあるのか」というカテゴリーの一連の記事を、ひとつふたつでいいから読んでほしいもんだ。VODについてこんなに考えたり期待してる人間もなかなかいないよ、きっと。

さてそのVOD、このところ盛り上がってきた。去年から、2011年はきっと盛り上がると予言してきたぼくとしては期待通りだ。とくにテレビ局が番組の見逃しサービスを盛んにスタートさせている。それなりに成果も出ているようだ。

2005年だったかな、AppleがVideo iPodを発売し、アメリカのiTunesStoreでドラマや映画を販売しはじめた時狂喜した。日本ではいつはじまるのだろうと期待したけど、日本でもAppleTVで映画を販売するまで5年かかっちゃった。そこはかかりすぎでしょう。でも時間かかった分、加速はぐいぐいだと思うなあ。

日本のVODは長らくアニメとエロ、だった。そうすると、サービス自体がなんだか地味なもの、マイナーな存在に思えてしまう。サービスとして普及するにはやはり、メジャーな作品が必要だった。テレビドラマやヒットした映画が並んでいると、”私が使ってもいいサービス”に思えてくる。

ネット上のコンテンツにお金を払わない傾向。これを突き崩すのも、メジャー作品だ。これだったら400円払ってもいいかな、と一度払うと、だんだんお金を使う抵抗感が減ってくるものだ。

さてあちこちに増えてきたVODサービス。しかし、大きな問題がある。どのサービスも何千だか何万だかの作品を置いているのだけど・・・”選べない”のだ。たくさんの選択肢から何かを選ばせるって、すごく難しい。その上、VODサービス上つまりテレビやPCのモニター上で作品を選ばせるのはものすごく大変だ。

リアル店舗はそれに比べて選びやすい。目に付いたパッケージをパッと手に取り、そこにあるいろんな情報をさささっと見ることができる。モニター上ではクリック操作などが必要で、それが意外にわずらわしいのだ。日本のサービスはなぜか、どれもこれもインターフェイスがよろしくない、というのもある。映画が好きな人が選びやすいかどうか、という視点がない。

これを解決するのはソーシャルな仕組みだろうとぼくは考えていた。ソーシャルな仕組みとVODサービスをセットにすればいいはずだと。いろんな人の感想やつけた点数などを見れたら、選びやすいことまちがいない。ぼくはそういう仕組みを、どこかのVODサービスの人たちにプレゼンしに行こうかとさえ考えていたところだ。

ところが、事態は急展開だ。昨日、Twitter上でこんなニュースが飛び込んできた。

Facebookが映画のネットレンタルを実験的に開始。

なに?なんだと?

元ネタは「Media Memo」というPeter Kafka氏(カフカ氏?)の記事。タイトルは「YouTube, Netflix, Hulu: Meet Facebook」

いやー、さすがザッカーバーグ。Netflixの成長ぶりを見て、「ん?うちもあれ、やるといいんでね?」と気づいたのだろう。アメリカでは国民の半分が使っている”インフラ”だから、数千万人ユーザーを集めた程度のNetflixなんか蹴散らしちゃうのかもしれない。

そして・・・このニュースを読んだ時、最初は気づかなかったんだけど、革命的な点にあとで気づいた。

FacebookがはじめるVODサービスってことは、もれなくソーシャル機能付き、なわけだ。ドッカーン!!!

そうかそうかそうか!この映画どうなのかな?と思ったら、「いいね!」の数を見ればいい。ぼくの友だちのあの人が書いたコメント読めばいい。うん、彼が褒めてるなら、見る価値あるんじゃない?そんな風に、”選びやすい”VODサービスのいっちょあがりだ!

元の記事を読み返すと、カフカ氏もちゃんとそこにふれていた。
Just as important: While other video sites are trying to figure out how to add social “hooks” into their experience, Facebook doesn’t have that problem. It is the social hook.

Facebookこそが、”ソーシャルフック”なんだ、と書いている。

これはまだ、実験の段階らしい。アメリカでも実際に何万もの作品が乗っかるのはずいぶん先だろう。そしてそれが日本に来るにはまた5年・・・いや、今回はそこまでかからないだろうね。アメリカと多少タイムラグが出るだろうけど、日本のFacebook側の準備が整ったら、即だと思う。いまや、日本の映像事業者はVODに熱心な人たちなのだ。

それにしても、Facebook恐るべし!さすが”インフラ”だ。もはや何でも乗っけられるのかもしれない。どんなサービスも呑み込むドラえもんのポケットみたいなものなのか?どこまで行くんだ、ザッカーバーグ!突き進んで欲しいけど、勝手に突然仕様を変えて、ぼくらを置いてかないでねー!

Facebookが世界インフラになる日が来るのか?

前回の記事「ぼくたちはFacebookで世界市民になれるか?」を書いた後、んーと、こんなことを前にも書いた気がするんでね?と思って読み返したら、あったあった。去年の10月に書いた「おいらとあんたの世界戦略・その8〜メディアは国家を逃れられるか〜」とダブってて重複していておんなじだった。似たようなことを何度も書いててはしょうがないだろ、おれ。

ただ、ちがうのは、あの時はまだFacebookを使ってなかった。いや、アカウントは持ってたけど、何だかよくわからん状態だった。それがいまは、毎日何度も何度もチェックしてる。メッセージもやり取りしたり、すっかりFacebook住民となっている。

10月の記事では、こんなことを書いている。

つまり、マスメディアは、そしてそれにのっかるコンテンツは、近代化の中で新しくできた”国家”の文化に中心を授ける役割を果たしてきたんじゃないだろうか。

つまりマスメディアは「近代国家」を文化的に統一させるのに役立ってきたのだ。テレビ世代のぼくらなんか、”日本語”とはテレビがしゃべる言語として学んでいったのだ。中高を過ごした鹿児島は方言がきついのだけど、学校では”標準語”を強いてしゃべらせたようだ。ここで言う”標準語”とは、NHKのアナウンサーがしゃべる言語のことだ。語彙もそうだし、イントネーションもテレビが統一したのだ。

「正しい日本語」なんていうのは、だから幻想に過ぎないのだ。東京の山の手で(下町でなく)使われていた言語をベースに、「こういう言葉遣いを正しいってことにすっか」と、もやもやとした合意で決められていった。決めたのはひとつの機関の一通りでもない。朝日新聞は朝日新聞なりの、NHKはNHKなりの、文部省は文部省なりの”日本語(標準語)”がそれぞれあって、その合わせ技がぼくらの頭の中で”日本語”として結実したのだ。だから「正しい日本語」は、1億2千7百万バージョン存在する。

言語でさえそうだったし、いろんな文化の”流行”もマスメディアが生み出し、日本という”国家”をひとつにしていった。第二次大戦の終了も、昭和天皇のラジオ放送で日本中が同時に知らされたし、その昭和天皇が崩御されたあとで決まった新しい元号が”平成”だと小渕さんが発表したのも、今度はテレビで1億人が同時に知った。

マスメディアのおかげで、”日本”が成立したのだ。本当は国家というのは幻想かもしれないし、壮大なフィクションかもしれないところを、現実だよ、とくっきり示してくれる装置がマスメディアなのだ。日本国とは、テレビの中に存在するのかもしれない。

マスメディアは、巨大な輪転機と全国の販売店網で支えたり、県単位で張り巡らされたネットワークで電波を一挙に配信する仕組みで持っていたり、とにかく大変な設備投資で成立する。だから国家も見守ってくれる。許認可とか与えたりする。メディアの側も、国家の側も、持ちつ持たれつだよねー、という関係。

そこへ、Facebookはふらりと登場した。これは国家に見守られる必要はない。ザッカーバーグが、よし頑張って日本語もサポートしたよ、って言ってくれさえすれば、日本中で使うことができる。月々の料金がその利便性に見合うかどうか、なんて気にする必要もない。なにしろ、月々無料だから。

国家と関係なく成立しちゃう。コミュニケーションできちゃう。誰でも情報発信できちゃう。ホント、かなりいろんなことができちゃう。いろいろでき過ぎて悩むほどだ。

マスメディアがどうしても、どうあがいても、国家という存在と無縁ではいられなかった、結びつかざるをえなかったのに比べると、Facebookは国家と無縁だ。国家から自由だ。国家なんて無視できちゃう。もっともたまに、国民を接続できなくしちゃう国家も出てきてるけど。いやそんなことしちゃう国家が出てくるところがもう、やばい。

だから、つい想像しちゃう。Imagineしちゃう。Facebookは国家とは結びつかず、”世界”と結びつくんじゃないかと。ザッカーバーグの向こうに、ジョン・レノンがいたりなんかして、とか。

まあでも結局は、ソーシャルメディアを使ってぼくたちが何をするか、なんだけどね。ソーシャルメディア自体は、何にもしないから。ただのツールだから。インフラに過ぎないからね。

えっと、じゃあ、何をしようか・・・?

ぼくたちはFacebookで世界市民になれるのかな?〜Ust対談のおまけ〜

前回お知らせした通り、3月1日の夜に”そめけん”の催しとしてUst番組に出演した。例によって干場先生との対談企画だ。

もちろん見てくれたよね。・・・え?見なかった?しょうがないなあ、この”そめけん”Ustチャンネルにアーカイブが残ってるからちゃんと見るんだよ。ページの下の方にある「第42回配信」ってとこね。

干場先生はこのブログでも何度もご登場いただいている。ブログも書いておられ、”hhoshibaの日記:「宇宙の中心は勇気だ」part2”という威勢のいいタイトルだ。ぼくより20年程度長く生きておられるギョーカイの大先輩。ぼくのことを”熱伝導率が高い”とおっしゃるのだけれど、干場先生だって熱い方ですとも。いつもいつも、たくさんお持ちの引き出しから続々、ナレッジを開陳してお話される。引き出しは数が多いだけでなく、ひとつひとつ、とてつもなく奥が深いようだ。干場さんの脳みそそのものが「宇宙」なのかもしれない。

さてUst対談は「ソーシャルネットワークと近代」というちょっと気負いすぎなテーマにしてしまった。これはこの一か月くらいこのブログで書いてきたことをもとにしている。

ただ、いきなり干場先生に突っ込まれた通り、「近代」という言葉の定義が曖昧で、話を分かりにくくしてしまった気がする。

そこでちょっと「近代」という言葉は忘れてもらおうと思う。ぼくはソーシャルネットワークが○○○を覆そうとしている、と言いたいわけなのだけど、それは「国家」だと言った方がわかりやすいかもしれない。「国家というフレーム」をソーシャルが突き崩す可能性があるのではないか、と。いや、でも「国家」も広すぎるので、「近代国家」かな?

「近代国家」とは、封建制や絶対君主制ののちに成立した国家、ととらえてほしい。主権者は国民で、憲法と議会があって、民主的な手続きで選ばれた元首がいて、明確な領土がある。ということは、いま存在する国はほぼすべてが「近代国家」だと言える。

国に明確な領土がある、というのは当たり前のように思うけれども、地球上のすべての土地に線が引かれたのは20世紀になってからだ。中東やアフリカなんか、”領土”の曖昧な部分がいっぱいあった。そこに強引に線を引いたから中東はややこしいしリビアのいまの混乱もそこに起因するのだろう。

「近代国家」は、「民主主義」とともに、それまでのいろんな問題を解決していったのだと思う。国とは王様個人のものではなく国民のものなのだと。権利、というのは本来的には、王様が独占していたことを国民に解放しろよ、という意図で生まれてきた概念だ。「知る権利」はあくまで権力に対して主張するものであって、芸能人のプライバシーに対して使う言葉ではないのだ。”ペンは剣より強し”とは、王様に対抗するジャーナリストのためのスローガンだ。

そうやって、王様の権利を奪い取って成立してきた「近代国家」はだから理念上は美しいと思う。でも、限界もあるのだ。

まず、「近代国家」はその国の内部ではカッコいい。美しい。でも、他の国に対しては、エゴイズムとして働く。国益の名のもとに、関税をかけるのだとか、領土は少しでも増やすのだとか、主張できることはすべて手に入れようとする。主観的には、国を守るための交渉だが、客観的にはエゴだ。

もうひとつ、「近代国家」はどうしても”代議制”になる。人数が増えるとどうしてもそうなってしまう。それから、官僚が運営上必要になる。そうすると、職業的な議員が生まれ、連動して働く官僚も固定し、やがては”利権”を生んでしまう。また、立法も行政も”上から”になってしまう。

ソーシャルメディアには上に挙げた「近代国家」の限界である2点を、突き崩す可能性がある、と思うのだ。「国境」を超えたインフラになりつつあるわけだし、「草の根」民主主義を構成できるかもしれないし。

Ust対談でも最後の方で「Facebookにはあらかじめ主義主張、イデオロギーを感じる」という話が出た。不思議と、TwitterよりFacebookにこそそれを感じるのだけど、明らかに”思想”がある。ちょっと言い過ぎだけど、「さあ、みんなで世界市民になろう」というメッセージが込められている気がしてしまう。だからこそぼくたちは、惹きつけられているのかもしれない。

もっとも、誰にとってもあまりにも便利なインフラなので、権力側が監視に使えたりもしてしまう。

厄介だな、ザッカーバーグ。あんた、天才過ぎるよ。

深いテーマに触れてしまったので、もう少しこのことを書いていこうかな・・・

【告知】3月1日20時から、またもや「そめけん」Ust番組に出演します

ほぼ一ヶ月前に、【告知】2月1日21時から、そめけんUst番組に出演しますという記事でお知らせしたように、干場さんとUst対談をやった。

その経緯や概要については上のリンクで前の記事を読んでもらえばわかる。デジタルハリウッド大学院の荻野健一教授が運営している研究チーム”ソーシャルメディア研究会(略称:そめけん)”が毎週Ust番組を放送していて、その放送にお招きいただくわけだ。前回は40分ほどだったが、今回は荻野教授が1時間半も時間をくださるという。

前回の放送が好評を博したので、という触れ込みだが、ほんの数十人しか視聴してなかったので、盛り上がったのはごく一部かもしれない。でも自分としてもすごく楽しかったし、何と言っても干場先生の知性と人間的な魅力をもう一度観たいという声はぼくの周りでも多かった。

さて今回の対談のテーマは、「ソーシャルメディアと近代」という小難しいことにしてしまった。これはこのところぼくがブログに書いてきたことに干場先生がからんできて、さらにここ数回書いていた、日本とアメリカのこの20年間についても話を広げるつもりだ。干場先生としてはそこにさらに「文明と文化」というモチーフも織り込もうとたくらんでおられる。これについてはご自身のブログで「文明と文化」のタイトルで書いておられるので、干場さんファンの皆さんはこの機に読み返しておくことをオススメしたい。

もちろん、ぼくと干場さんの意見のやり取りは、このブログのFacebookページ「境塾」でも展開されてきたので、ここも読んでもらうと面白いだろう。もちろん、気に入ってもらえたら「いいね!」ボタンを押すのをお忘れなく(^^;。

このUstも、”そめけん”の場をお借りして、「境塾」の催し、のつもりでもある。というか、4月から境塾はリアルイベントも展開していきたいねと準備中。そのプレイベントみたいな気持ちです。

というわけで、3月1日20時から、”そめけん”Ustみなさんご覧ください。

Ustreamチャンネルはこちら!

また”そめけん”ことソーシャルメディア研究会の公式サイトはここです。

この国に、独裁者がいないのは不幸かもしれない

前回、前々回と、この国の変わらなさにぶつくさ言う文章を書いてきた。そもそもぼくは、日本が”固定的”であることが嫌だと思いながら生きてきた。固定されちゃうことから逃げて逃げて生きてきたのだ。

さてその日本は結局、この20年(いや結局は30年?)変わらないままだった。アメリカはダイナミックに変化してきて、マーク・ザッカーバーグの天才的思いつきを世界的なビジネスに成長させた。出る杭を打たないばかりか、ハゲタカのようによってたかって儲けさせてそのおこぼれをもらおうとする、そんなことがシステム化されている。「ウォール街」の悪らつ投資家ゲッコーを肯定したからだ。

弱虫なこの国は、身を寄せあいながら、時として舞い降りてくるゲッコーみたいな連中に対し、泣きながら「あっち行け!」と遠くから石を投げてきた。あるいは、若者がゲッコーのような振る舞いをしはじめると、「けしからん!」とダークスーツの検察団を送り込んでクビを締め上げた。

出る杭や、外からの杭をとにかくみんなでよってたかって打って打って、そのことばかりに血道を上げて自分たちのちっちゃなちっちゃな権益を守り抜いてはひと息つく。そんなことばかりをこの20年間やって来たのだ。

カタチや体制はちがうけれど、彼方の砂漠の国々でも同じようにこの2〜30年間、世の中は変わらなかった。砂漠の国々がぼくらとまったくちがうのは、独裁政権が続いたことだ。想像してみると恐ろしいことだが、同じ人物が、中年から老人になる間ずーっと、為政者であり続けたのだ。そればかりか、その男の家族親戚が利権を手中に収めてきた。いまどき、そんな不条理が、不思議と砂漠の国々では続いてきた。世界最強の国がそれを支援してきたからだ。

どうあっても、天変地異が起こっても、その独裁体制は変わらないと思われていたのに、ピラミッドの国ではたった18日間のデモ闘争で政権が倒れた。我が物顔の独裁者はあっさり、国外逃亡した。たったの18日間で。(もちろん、それも世界最強の国が今度はデモの側を支持したからだ。)

興味深いことに、この政変でははっきりとしたリーダーはいなかった。グーグルの社員の若者がクローズアップされはしたし、彼がみんなを少しばかり煽ったのは事実だろう。でも彼は決して、「さあ、この国の明日を私とつくろう」とは言わない。政権を倒したリーダーが次の政権を担うのが革命というものだろう。でも2011年の革命はそうではないのだ。

その革命にFacebookやTwitterが大いに役立った、ソーシャルネットワークが革命を起こしたのだ、というレポートがあり、また一方で、それは言い過ぎ、買いかぶりすぎで、ソーシャルはみんなの行動をまとめるスピードを上げたに過ぎない、という声もある。ぼくにはよく事情はわからない。

ただ、リーダーのいない革命を実現できたのは、ソーシャルメディアのおかげではないだろうか。いや、これはソーシャルを讃えているのではなく、リーダーがいなくてもなんとなーく連帯できてしまうのがソーシャルなのではないか、ということで、考えようによっては恐ろしいツールでもある、ということだ。

でもまあ、良い方に受けとめれば、ソーシャルの力で人々の力を革命にまで結集できる時代になったよ、とも言える。

だったら!

このぼくらの日本。変わらなくて、固定的で、いやんなっちゃうこの国も、ソーシャルの力でどどーんと変わるのかもしれない。ぼくたちにはいまやソーシャルという武器があるのだから、この国を変えられるかもしれない。

そりゃいい!・・・そりゃいい?・・・うーん、ホントに変えられる?・・・

いやそもそもさあ、変えるって具体的にはどこをどう変えればいいの?・・・

砂漠の国々にはそもそも、倒すべき対象があった。独裁者だ。独裁状態はよくない。圧倒的に良くない。それが30年も続くのはもう、とてつもなく悪いことだ。だから、その独裁者を倒すことは、必ず良いことだ。100%混じりっけナシにやるべきことだ。さあ倒そう!Facebookで呼びかけよう。

わかりやすい。わかりやすいなあ。

でもこの国はどうなの?日本では誰を倒せばいいの?政権党?それとも野党?誰が悪者?誰が正義?最終ボスキャラはお城の奥にいるんだっけ?

敵が見えない、敵がそもそもいない、それがこの国だ。倒すべき相手は、下手をすると1億3千万人いて、そこには自分も含まれるのかもしれない。だから、変えようにも、変えられない国なのかもしれない。

独裁者がいない国って、ひょっとしたら最低なのかもしれない。ものすごく不幸なのかもしれないね・・・

「ウォール街」と「ウォール・ストリート」の間の20年

「ウォール・ストリート」を観ようと思い、その前に「ウォール街」も観ておいた。87年の映画で、ぼくは公開時に劇場で観たはずなんだけど、ほとんど忘れていて新鮮だった。翌日にちゃんと「ウォール・ストリート」を観たので、20年以上間がある2つの作品を観ることができて、あ、これは前回の「20年間変わっていないこの国、とおれ」と関係あるなあと思ったわけ。

「ウォール街」を20年ぶりに観て、たいそう驚いた。ゲッコーという悪らつな投資家が、航空会社を買収する。航空会社は組合が強いので、彼らとうまくやらないといけない。そこで、パイロット、スチュワーデス(いまのCAね)、整備士など職種別に分かれている組合の代表を集めて買収に理解を求めるシーンがある。なーんか、どこかの国の航空会社と近いんじゃない?

あるいは、別の会社を買収しようと株主総会に乗り込み、いまの経営陣に任せたままより自分に託してもらった方がいいのだと演説をぶつ。「強欲は正しいんだ」というようなことを言うのだ。んー?なんかこれ、少し前にハゲタカなどと呼ばれた外資ファンドの人たちの、日本の株主総会のシーンと似てるんじゃない?

「ウォール街」の時代はまだ、ゲッコーみたいな人物は”新しい”存在だったのだろう。この頃のアメリカ人の心性は、いまの日本人と近かったのかもしれない。監督のオリバー・ストーンも、あくまでゲッコーをピカレスクとして描き、こういうやつらが世の中を悪くするのだと言いたかったのだろう。監督のメッセージは、マーチン・シーン演じる航空会社の整備士の組合のリーダーが代弁していたのだ。彼は、ゲッコーを信用せず、あからさまに否定する。

だがしかし、ゲッコーに憧れて金融界に入る若者が続出し、オリバー・ストーンはがっかりした。強欲を恥じないゲッコーは魅力的だったのだ。そしてアメリカはM&Aが日常的に行われる、企業が新陳代謝する国になっていく。

アメリカは最初からいまのような国だったわけではない。70年代まではけっこう終身雇用だったし、企業買収がガンガン起こる環境だったわけではない。そういう状況から、新陳代謝する国に生まれ変わったのだ。まあ、もともとそういう素質がある国だったのだろうけど。

実際、主人公のチャーリー・シーン演じる証券マンは、父親(さっき書いたマーチン・シーン演じる組合長。親子共演で親子を演じている)と会社について「親父が24年間も働いてきた会社をうんぬん」と言ったりする。何十年も同じ会社で働くことに価値を置いたセリフだ。まるで日本じゃないか。

アメリカはこの20年で、強欲を肯定する国に変化したのだ。だから、前回書いたような状況を作れた。ゲッコーのおかげでマーク・ザッカーバーグは6億人を集められたのだ。

そして「ウォール・ストリート」では、強欲な力学を使って、次世代クリーンエネルギーを開発しようとする若者が登場する。金融の力を使って、世の中のためになることをしようとするのだ。カムバックしたゲッコーも、最後にはそれに加担する。チャーリー・シーンが短いシーンで登場し、相変わらず80年代の強欲さだけの男に成り下がっている。チャーリー・シーン演じる男はもはや過去なのだ。2010年代は、金融を使って”いいこと”をする。そう言えばアメリカ発のソーシャルメディアにも、その底に似た気分を感じる。

アメリカは20年でどんどん進化していった。強欲さで社会の新陳代謝を促進し、ダメになりかけた経済を活性化させた。そしていま、その強欲ささえ次のステップに進めようとしている。

ぼくたちのこの国はどうなんだろう?強欲にさえ、なれない。そのずっと手前で、うじうじしているだけだ。昔はよかったよなあ、とぼやいて、次へ進もうとしないまま20年間過ぎてしまった。

だから、さて、どうすればいい?・・・

20年間変わっていないこの国、とおれ

まあいちおうFacebookが関係ないでもない話なのだけど。

スティーブ・ジョブズが入院したとか、余命いくばくかだとかいう噂が流れて気になっていた。金曜日(18日)の午後、明石蛸三郎氏のブログ”DON”で「速報! ジョブズ氏はオバマ大統領とのディナーに出席したそうです」という記事が掲載された。たぶん、日本でいちばん早くこのニュースを報じたのはDONだと思う。

Appleファンとしては、ジョブズがディナーに出席できる状態ではあることにホッとした。

だが、この記事を読んで、またベクトルのちがう感想も持った。上の記事を読んでもらえればわかるけど、このオバマとのディナーの出席者がすごいメンツだ。記事から引用させてもらうと・・・

キャロル・バーツ(ヤフー会長兼CEO)
ジョン・チェンバース(シスコシステムズ会長兼CEO)
ディック・コストロ(TwitterのCEO)
ラリー・エリソン(オラクルCEO)
リード・へースティングス(ネットフィックスCEO)
ジョン・ヘネシー(スタンフォード大学学長)
アート・レビンソン(ジェネンテック会長兼前CEO)
エリック・シュミット(グーグル会長)
スティーブ・ウェストリー(ザ・ウェストリーグループ創設者兼マネージング・パートナー)
マーク・ザッカーバーグ(フェースブック会長兼CEO)

アメリカの、いや世界IT業界のトップがずらりと並んでいる。

このディナーについてはホワイトハウスが公式に写真も公開したそうで、TechCrunchJapanには「オバマ大統領はZuck, Jobsらシリコンバレーのスターたちと何を乾杯したか?」と題した日本語記事が掲載されている。この同じ写真はあちこち配られたらしく、Mashableのこの記事は英語版だが、丁寧にどれが誰かまでちゃんと写真にコメントを書き込んで説明してくれている。

オバマ大統領がどうして彼らを集めたのかは、この件を報じたロイターによればこういうことらしい・・・
 同会合は、経済活性化や雇用創出促進のための技術革新を推進するオバマ大統領の取り組みの一環。オバマ大統領は、昨年の中間選挙での民主党不振を受けて産業界との関係改善を図っており、今週発表した3兆7000億ドルの予算案についても産業界の支持を取り付けたい意向。

「産業界との関係改善」なのだそうだ。アメリカの産業界とはほぼイコールIT業界ということかな?

と、聞いて、おや?と思った。「アメリカの産業界」ってのはこういうメンツなの?もっと昔からある大企業は出てこないの?・・・ん?・・・アメリカで昔からある大企業ってなんだ?・・・GM、フォード、クライスラーは再生中だし、GEはもう投資会社みたいなもんだし、あとは鉄鋼とか?化学とか?そういう重厚長大はもうないのか・・・んーと、IBM?・・・

そうか、アメリカの産業界は今や、GoogleやApple、そしてFacebookとかなんだな。並べてみると、Yahoo!さえ古く見える。ネットフリックスなんかもうすでに名を連ねているんだなあ。

もしいま、日本で首相が”産業界との関係”を保つために誰か呼ぶとしたら?・・・想像がつくね。ぼくよりさらに一回りも二回りも年配の、おじさまたちがずらずらずらっと顔を並べることになる。会社の名前も、三十年も四十年も五十年も前からあるところだらけ。せいぜい、ソフトバンクの孫さんや楽天の三木谷さんが呼ばれればいい方。mixiやDeNAやGREEの社長なんか絶対に呼ばれないんだろうしもし呼ばれても隅っこでおとなしくするしかないだろう。

そんなことをもやもやと考えていたら、テレビに鹿野さんという農水大臣が出てきてしゃべっていた。簡単に略歴が紹介され、農水大臣を務めたのは2回目だという。1回目は自民党在籍時代の1989年だという。・・・え?・・・1989年?・・・なんだこの国は、20年以上前に大臣を務めた人にまた同じ役職を任命したのか?・・・なんてこった!・・・

この国は、この二十年ばかり、ちっともどっこも変わっていないってことだ!

20年前、ぼくは何をしていただろう。1991年、ぼくは中堅広告代理店にいて、必死にコピーを書いていた。一年後、あるキャッチフレーズでTCC新人賞という、若いコピーライターの目標である賞を受賞し、さらに翌年、独立してフリーになった。あの時には、はっきりとした達成感を手にできていた。

そしてその後・・・その後は、直接的には現場は離れたけれども、同じ道を歩いてきただけかもしれない。やってることは、あの20代の頃から進歩していないのかもしれない。

ぼくはあの時から何か、進化したのだろうか?いやぼくだけじゃない、ぼくらの業界は進化してきたのか?本来もっと前になすべきだった進化を、改革を、考え方のパラダイムシフトを、なおざりにし、先延ばしにし、ごまかそうとしてきたのではないだろうか?

アメリカにはやっぱり参ったな、と思ってしまう。彼の国は、それをやってきたのだろう。社会が取り組むべき新陳代謝を遂げた、その結果がいま明快に目の前にある。黒人大統領が、26歳のベンチャー経営者をディナーに呼ぶ。きっと20年前には誰も信じられなかっただろう光景を、現実にしている。そんなアメリカは、強い。平気で変化できちゃうんだ!

ぼくたちはザッカーバーグのような人物の輝かしい成功譚ばかりを見つめてしまうけれども、その奥にはきっと、いやまちがいなく、何かが踏みにじられたり、多くの人が傷ついたり、せっかく築き上げたものを打ち壊されたり、いろんなドラマがあったはずだ。社会としてそんなきつさ、しんどさを乗り越えたからこそ、いくつかの成功が生まれ、それが社会を大きく引っ張ったり動かしたりしているのだ。

2011年、この国と、ぼくと、あなたは、20年間なおざりにしごまかしてきたものを、いい加減なんとかしなさいよと、突きつけられるのだと思う。そんな2011年に、ソーシャルメディアという、ひょっとしたら武器にできるかもしれないツールがあって、よかったんじゃないかな。というか、ぼくたちが20年間なおざりにしてきた答えも、ソーシャルにはあるみたいだしね。ぼくらの業界のパラダイムシフトを、ソーシャルこそが巻き起こそうとしているわけだから・・・

週刊東洋経済「テレビ新世紀」=池田信夫+志村一隆+池田信夫+α

九州出身のぼくからすると、今日は大雪。5cmは積もってるだろう。子供のころなら雪合戦だ、というところだが、中年のいまは外に出たくない気分。

そんなこの冬のクライマックスに、週刊東洋経済がテレビに関する特集を組んだ。「テレビ新世紀 進化しないTV局は滅びる!」となんとも過激なタイトルだ。

中身はタイトルよりさらに過激だった。

地デジ化は準備不足だ→地デジ後はテレビ局はこんなに危機だ→スマートTVがやってくるぞ!・・・とだいたいこんな構成になっている。

かなり驚いたのが、最初の地デジ化の状況に関する部分。昨年9月時点で地デジ対応受信機の世帯普及率は90%に達したと言われているけど、受信機を持っていることと地デジ放送を視聴できるかどうかは別で、視聴できるのは78.4%なのだという。その理由の多くは、アンテナが対応できていないから・・・

こんな話が、メジャーなメディアに載ったのは初めてではないだろうか。池田信夫ブログを毎日読んでるぼくは、どうして何度かに渡って地デジ化の問題点が克明に書かれているのを見て、どうしてこの一大事が大きなメディアで語られないのだろうと思ってきたのだけど、ついにそうなった。誰もが読むような雑誌でついにとりあげられた。

それにしても池田信夫ブログに書かれていることとクリソツだなあと思いながら読み進めると最後の最後に、その池田信夫氏の署名記事が4ページに渡って掲載されていた。それはそれで毎度書いてる電波利権の話だった。

あー、そうかそうか。この特集、池田信夫さん監修なんだな、きっと。

実際に”監修”までしたかはわからないけど、相当アドバイスを受けているにちがいない。なーんだ。

また、スマートTVの記事では、志村一隆氏が2ページ書いてる。・・・え?それは誰かって?何を言ってるんだね君は?・・・このブログでも11月に「AppleTVはこれから起こることのひとつにすぎない」と題した記事で志村さんの『ネットテレビの衝撃』について書いたじゃないですか。忘れちゃいかんよ〜。

というわけで、この記事のタイトルでは池田信夫さんと志村一隆さんの記事ばっか、みたいな嫌みなことにしちゃってるけど、実際にはかなり充実した内容になっているよ。テレビの将来について考えに考えてきたぼくも、まだまだ知らないことや発見がいっぱいあった。

日テレ氏家会長のインタビュー記事も、読みごたえ十分だよ。

それから、ちょっと象徴的だったのが、最後のスマートテレビのコーナーに入って最初が、「ニコ動の存在感」についてだった。いや実際、今後の映像コンテンツ流通、そして放送事業の将来を考える上で、ニコ動は見逃せない存在になりつつある。日本には、You Tubeとは別のネット上の映像メディアとしてニコニコ動画が存在する、その意義は大きいと思う。

あ、えっと・・・どう大きいのかは聞かないでね。・・・だって、まだよくわかんないんだもーん!。でも、絶対に大きな存在になるのはどうやらまちがいないみたいだ・・・よん!