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公園の代わりの場所が、公園の代わりになっていない。〜杉並区の保育園問題(1)〜

杉並区の公園転用は、他の保育園反対と一緒にできない
5月末以来、杉並区の公園を保育園に転用する問題を追ってきた。Yahoo!に書いてきた記事を読んでもらうと、これまでの概要がわかるので、この記事の最後にリンクを置いておく。詳しく知りたい人は読んでほしい。

久我山東原公園に関する、5月30日の4時間にも及んだ説明会がニュースで放送され話題になった。保育園が必要なのは十分理解しているが公園を潰さないでほしいというのが住民側の主張だが、杉並区側は突如判明した来春予測される560名の待機児童のためにはどうしても必要だし議会でも通ったことだという説明。7月後半にも説明会が行われたが紛糾した。

私はこれまで、保育園を増やすべきだとの考え方にたち、首都圏の各地で起こる反対運動を取材し忸怩たる想いでいた。だが杉並区のこの件は、公園の転用だ。他の反対運動と一緒くたにできないし、公園はむしろ保育園同様、子育てに欠かせないインフラだと思っている。見逃せない案件だととらえ、ここまで事態を追ってきた。

8月1日に公園は閉鎖され、代替地が整えられた
杉並区は住民から異論が出ようと予定通り進めていき、8月1日には公園が閉鎖され、工事が始まっている。どんな様子か気になっていたが、平日はなかなか行けない。7日の日曜日になってようやく行って写真を撮ってきた。それを見せながら、現状を解説したい。

今回の公園を保育園に転用する問題は、5月に杉並区が緊急対策宣言を出し、区が保有する11カ所の土地に保育園をつくる計画の中に4カ所の公園が入っていたことで起こった。公園を利用する親たちから沸き起こった異議に対し、杉並区は代替地を確保するとしていた。とくに反対の声が多かった下井草の向井公園と、久我山の久我山東原公園に、代替地が確保された。

向井公園の代替地は、あまりにも無雑作な空間だった
まず向井公園に行ってみた。日曜日だったので工事は何もしていなかった。工事が始まったとは言え中はほぼ手付かずで、まだ公園として使える空間の入口が閉ざされ、蝉の声は賑やかだがさびしい場所となっていた。
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奥にはネットが張られた場所があり、安心してボール遊びができるのだが、もう使えない。私が前に来た時には、近所の保育園の子どもたちがボールを楽しげに蹴っていた。あの子たちも、もうこの公園は使えないのだ。
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同じブロックに代替地があるので行ってみた。前に来た時は草ぼーぼーの空き地だったが、整地されている。
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これ、代替地というが、代替できていないと私は感じた。とくにこの猛暑の中、ここで子どもが遊ぶはずがない。熱中症になるに決まっている場所だ。向井公園をやさしく覆っていた木陰はここにはひとつもない。平らで無機的な地面があるだけで、あとは申し訳程度の遮光された場所があるだけ。
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さあここで遊んでください。そんな気持ちは微塵も感じられない。約束通り、代替地を用意したからこれでいいでしょ、遊べるでしょ、日陰も水飲み場もちゃんとあるからいいでしょ。そんな風にしか見えない。代替地を用意すると聞いていたので、あの空き地もそれなりに整備するのだろうと思っていたのだが、これはちょっとびっくりした。向井公園に来ていた保育園の子どもたちは、ここは絶対使わないだろう。保育園を建てるために、別の保育園を困らせるのは矛盾がある気がする。

久我山東原公園の代替地は、代替地になっていない
次に、電車を乗り継いで久我山にも行ってみた。こちらは5月末と7月末に説明会の様子がテレビで報道されて話題になったところだ。駅から歩いて5分ほどの井の頭線沿いにある、代替地に行ってみた。前に来た時はまだ草が生い茂っていて、線路のすぐそばにあるし、住宅にも接している。久我山東原公園は子どもたちがボール遊びをしていたのだが、その代替地という意味ではここでボールを蹴ると、線路に入りかねないし住宅の壁にもぶつかりそうだ。そこをどうするのか気になっていた。

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なかなかわかりにくいと思うが、こんな風にいちおう整備されていた。線路よりずいぶん手前に金網が張られている。住宅も網で囲われている。これならボール遊びもできるでしょ、という考え方なのだろう。だがそもそも、この場所は地面の高低が均されておらず金網があろうがなかろうがボール遊びはできない。下井草同様申し訳程度の日陰しかなく、猛暑の中誰も遊ばないだろう。

「はいはい」と杉並区が言ってるかのようだ、「はいはい、あんたたちが代替地はどうしたというから、用意しましたけど何か?」そう言われているような感覚に陥る。

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「遊び場111番」とある。ちなみに下井草のほうも「遊び場112番」の看板があった。公園ではない、という意味だろう。それに「代替広場を開放するまでの暫定開放」というわかりにくいことが書かれている。

この土地は京王電鉄の所有で、もともと緊急計画第一弾で保育園予定地になっていた場所だ。ところが京王側の事情で保育園にできなくなったらしい。そこで東原公園の代替地に急きょなった。一年間しか契約できていないので、ややこしい表記になっているのだろう。

保育園の予定地が、公園に保育園を建てるための代替地になっている。なんだかわかりにくいし、だったら京王電鉄にお願いし倒してここを保育園にできないのだろうかと考えたくなるだろう。

久我山東原公園にも行ってみた。ここは公園の40%を保育園に使い、60%は残る。40%の部分は平たくて運動しやすい場所だった。ボール遊びもみんなしていた。60%の部分は岩がつまれ小川のように水が流れている憩いの空間だ。運動ができる空間と憩いの空間が接しており、さほど広くはないが完成度の高い公園だ。このあたりには公園がないので22年前に住民たちからの願いで作られたのだ。みんなの要望がうまく形になっている。

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60%の憩いの空間側から40%のほうをみたのが上の写真だ。60%残ると言われるとよさそうだが、40%がなくなると60%の部分もかなり価値が薄れる。それはそうだ。両方あるからいい公園だったのだから。

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囲われた中を見ると、こんな状態。もう何か壊されたようだ。近いうちに、立派に育った木も切ったり枝を切ったりするらしい。

向井公園も、久我山東原公園も、代替地は申し訳程度のものだった。保育園転用の計画をぐりぐり進めるために、とにかく作ったといったところ。形だけ整えたと言っていいのではないだろうか。私はこれは大きな問題だと思う。

「都市公園法」によると、公園は簡単には転用できないはず
というのは、公園はそもそも簡単に転用できるものではないのだ。都市公園法という法律がある。法律があるという時点で、公園というものが重要な存在でありだからこそ法律で規定されているのだと認識すべきだろう。その第十六条「都市公園の保存」という箇所を読むと、今回の杉並区の判断と進め方にいろいろ懸念を感じてしまう。そして議会でどんな議論があって承認されたかも気になるところだ。

この都市公園法について、そして議会での議論について、さらに記事にしていくつもりなので、続きを待ってほしい。

少なくとも言っておきたいのは、「公園より保育園のほうが大事に決まっているだろう」とか「子どもの遊び場ごときより待機児童で悩んでいる親の悩みのほうが深刻だ」とするのは早計ではないか、ということだ。公園と保育園は優劣などつけられない。どちらも子育てをサポートする重要なインフラなのだ。そういった考え方も、追い追い書いていきたいと思う。

私は、この杉並区の公園転用の問題は、平成の日本にとってかなり重要度の高い案件だととらえている。いろんな課題を象徴していると思うのだ。

※参考記事
杉並区の保育園問題。公園転用への反対は住民のエゴではない。
杉並区の保育園問題。転用に直面した公園で出会った3人の人物。
杉並区の保育園問題。もうひとつの現場、井草地区では住民による代替案が提示されている。
杉並区の保育園問題。『TVタックル』で言えなかったこと~公園とは町そのもの~。
杉並区の保育園問題。田中区長の話を聞いて、地方自治と民主主義の難しさを感じた
杉並区の保育園問題で、説明会紛糾。公園も、働く母親に必要なインフラなのに

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コピーライター/メディアコンサルタント
境 治
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8月1日発売『拡張するテレビ 広告と動画とコンテンツビジネスの未来』はこんなに欲張りな中身だ

kakucho
8月1日に、私の新著が世に出る。いや、いままさに最終作業中なので、出るはずだ。少し不安になってAmazonを見てみると、ちゃんと載っていて「予約注文」ボタンもついていたのでほぼ間違いないと思う。

ということで、少しでも興味ある方はぜひ、「予約注文」のボタンを押してください。お願いします。すがりつくようにお願いしたい。というのは、この予約注文が多いかどうかがひとつ、その書籍のその後を担う要素らしいのだ。いまやそういうことになっているのだ。Amazonの予約が私の新著の命運を握っている。つまりあなたが私の命運を握っている。ここはぜひ、ポチッと押しちゃってください。

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さて『拡張するテレビ』はどんな本なのか。目次をざっと紹介しよう。

序章 テレビは拡張している
第1章 SVOD二年目、第二幕
第2章 テレビ番組のネット配信
第3章 テレビ視聴の変化と新しい視聴計測
第4章 二度目の動画広告元年
第5章 新しい映像配信サービスはテレビに取って代わるのか?
第6章 ソーシャルテレビ再び
現場レポート サカイオサムという分散型メディア
第7章 今後のテレビビジネスと映像コンテンツ産業
第8章 広告コミュニケーションの新しい姿

こうして目次を並べてみると、欲張りな本だなあと思う。領域が広すぎてどの業界の人が読めばいいかわからないかもしれない。でも言ってみれば、そういう本なのだ。もはやテレビ放送の話だけとか、ネットの映像サービスの話だけとか、広告業界の話だけとか、そんな風に分けて語っている場合ではない。”映像”を軸にすると、関わる世界は大きく広がり分野を分けたり限定してはもはや語れないのだと思う。

その広がりこそが、「拡張するテレビ」なのだ。ここでいうテレビはつまり、第一義的にはテレビ局やテレビ番組のことだが、広義にはすべての映像文化の話でもある。映像は今やすべてのメディアに偏在し、しかも大きな存在になりつつあるのだ。

だからこの本は、テレビ放送に関わる人やオールドメディア全般に関わる人にとっての話題だけでなく、ネット側で映像に関わったりネットからテレビ界にアプローチしている人の話でもあるし、マーケティング領域から広告手段としての映像を考える人の話でもあるし、なんと言っても映像を日々制作する人たちのためにも書いている。

広告にもテレビにも映画にもネット映像にも、作り手の側として関わってきたので、横断的に見られてるのは私くらいしかいないぞ!という自負もあったりするし。

もう少し本の構成を解説すると、第1章第2章は、この二年間で起こってきた大きく新しい潮流について取材してきたことをまとめている。正直、この部分は知ってる人からするとあらためて読むまでもないよ、と思われてしまうかもしれない。だがそうした動きを断片的に見てきた人には、起こった事柄をこの機に整理してもらえると思う。もちろんはじめてちゃんと知る人には、わかりやすくまとめられているつもりだ。

第3章は前半で、テレビと人びとの関係の大きな変化を書いている。この部分は”考察”に当たる部分だ。テレビはつまらなくなったから若者が離れちゃった、という印象論ではなく、時代の流れの中で”テレビ放送”が難しくなっていることを描き出している。そのうえで、視聴測定も変わろうとしていることをレポートした。この章は、第7章の前振り的な役割もある。

第4章は、実は第8章とセットになっている。動画広告の最前線を取材したものだが、動画広告というより、広告コミュニケーション全体の最新事例をレポートしている。観念的に言われていたことがついに具現化しはじめているという話だ。

第5章は「ソーシャルテレビ」をキーワードに、テレビとネットの接点としてのtwitterやセカンドスクリーンアプリについて紹介している。私が運営する勉強会・ソーシャルテレビ推進会議の運営を通じて、参加者のみなさんから得た情報の数々だ。

現場レポート・サカイオサムという分散型メディア、といういささか文脈不明なパートがある。私自身がこの5年間でどのようにコミュニケーションの形をつくってきたかを振り返っている。計算してやったわけでもないのにコミュニケーションの”仕組み”めいたものができ上がった。そしてそれは企業やメディアのコミュニケーションと相似形なのではないか、という話で、あとの2つの章の前振り的なパートになっている。

第7章、第8章は将来像の提示だ。テレビ局もしくは映像コンテンツ全般は今後どう考えるべきかを示したのが第7章。そして企業はどんなコミュニケーションをとればいいかを私なりに模索したのが第8章だ。どちらも、その最前線にいる人からするとなにを理屈ばっか悠長に語っているんだ、と腹を立てるかもしれない。だが少なくとも大きな流れとしてはこうなるはずだ、というコンセプトをまとめたつもりだ。そして7章と8章は強い関係性もあると思う。ひとつの考え方として、ぜひ読んでもらいたい、この本の最重要パートだ。

この本は、宣伝会議の新しいシリーズ「実践と応用シリーズ」の第二弾として出版される。学習参考書のようなシリーズ名だが、実際宣伝会議としても「これから何年間でも読んで参考にしてもらえるシリーズ」という考え方で出版していくのだそうだ。だから私も、メディアを読み解く「参考書」にしてもらえるように、できるだけ取材で得た情報を盛り込み、そのうえでの考察を書いている。”なんとなく”書かれたメディア論にはしていないつもりだ。事実こうで、今後こうなるはず、という地に足のついた内容になったと思う。

8月1日の発売に向けて、このブログで盛り上げていきたい。あなたが「予約注文」ボタンを押したくなるよう、できるだけ日を置かず更新していくつもりだ。いやもちろん、いますぐ押したいなと思ったら、押してもらってかまいませんとも。ご遠慮なく、ぜひ!

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※筆者が発行する「テレビとネットの横断業界誌Media Border」では、放送と通信の融合の最新の話題をお届けしています。月額660円(税別)。最初の2カ月はお試しとして課金されないので、興味あればご登録を。同テーマの勉強会への参加もしていただけます。→「テレビとネットの横断業界誌 Media Border」はこちら。購読は「読者登録する」ボタンを押す。

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NewsPicksと話した件と、TokyoFMに呼ばれた件と、保育園問題に七転八倒するおっさんの愚痴

NewsPicksに抗議した件、NewsPicksとは決着したんだけど、前々回の記事にコメントをしてくれた方が、なぜあそこまで激怒したのかわかりにくいかも、と書いていたので、そこを少しは説明しておこうと思う。その方は読み込んでわかってくれてるみたいけど、あらためておっさんが少し年下の友人に語るようなつもりで書いてみようかな、と。そういう文体のほうがわかりやすいだろうと思うんだよね。ただこの文章、8000字以上あってものすごく長いので、ヒマで仕方ない時にでも読んでほしいんだけど。

その前に、月曜日にNewsPicksに行って、火曜日に東京FMの番組に出たこともさらっと書いておくわ。

NewsPicksでは、代表の梅田優祐氏と編集長の佐々木紀彦氏が迎えてくれた。うちのサービスで不愉快な思いをさせてしまい申し訳なかった、と言ってくれてね。彼らは自ら記事を作っているので、自分で作った記事を自分のサービス上でユーザーにいろいろ言われることも多いし、運営についても強い意見をたくさんもらうので、気持ちわかります、ということみたいだ。記事を書くぼくらのような人間は大事にしたいし支援になればと思っているので、ライターが不愉快になってしまうのは本意ではないんだって。

いろんなことを話したんだけど、とにかく彼らもこのところコメントによって生じる”空気”について悩んでいたとのこと。そしてね、ここがポイントだなあと思ったのが、当初梅田さんは運営側がコメントについて関与すべきではない、という方針だったんだって。いわゆる市場原理のように、自然にあるべき姿に落ち着くはずだ、と。ところがある時期から、そうも言えなくなってきた。運営が関与しないといいコミュニティになっていかないと考えるようになった。そう、NewsPicksはプラットフォームでありコミュニティでもあるんだよね。ドライなプラットフォームのつもりだったけど、いまや人間味あふれるコミュニティになった。それはいいことだけど、そうなると運営がコミュニティに関与すべきだとわかった。

ぼくが抗議した関連では規約の7条、5と6が修正したところ。5では、経済に関係ないような記事について「当社の判断により」削除することもある、となっている。6では、誹謗中傷などの通報があった場合にコメントを削除することがある、と変更している。

大きな方向転換だよね。コメントを削除するってかなりのことだよ。ぼくはびっくりした。自然に落ち着くはずと考えていた方針から、180度変わった。これはぼくの抗議の前から準備していたものだって。だからぼくの抗議はわかりやすい事例にたまたまなったんだろうね。規約変更後に、すでにいくつか通報があり、コメント削除はさっそく行っているらしい。

ぼくからは、土曜日の梅田さんのアナウンスはよかったし、ユーザーもすごく評価しているねと言った。そこはコミュニティ運営で重要な点で、中心人物が「こう使ってほしい」とみんなに伝えるのはコミュニティを強く導く。学生の頃かじった宗教学の話をしたんだけど、宗教の構成要素は3つあって、教祖と教団と、あとは教典なんだって。これは人間の集団どれにでも応用できる。NewsPicksにとって教典に当たるのが梅田さんのアナウンスだ。前はよくああいうアナウンスをしていたのに最近そう言えばしていなかった、と彼らも言っていた。梅田さんが、個々の要素について、なぜそうしたかをこれからどんどんアナウンスしていくと、ユーザーも、そうかそのためにこのサービスはあるのか、と意外に率直に認めるものだと思う。いいコミュニティになっていくといいよね。

東京FMの「タイムライン」という番組に出た話もしておくとね。この番組は前にも二三回呼んでもらっていて、本業のメディアコンサルタントとして、テレビやネットの世界で起こっている新しい動きを解説する役割だった。それが今回は「渦中の人」としての出演だったので、不思議な気分。

週ごとにキャスターがいて、火曜日は隔週で古谷経衡氏。政治も含めてハードな題材を扱う著述家。お若くてキュートな顔立ちなので扱う題材とのギャップが面白い。

古谷さんはYahoo!でも書いているので探してみるといいと思う。そしてNewsPicksではあんまりなかったけど、あちこちの記事でいろんな思いをしてきたそうだ。

「渦中の人」とは言え、もう抗議は取り下げたあとだったので、展開についてぼくが報告する進行になった。「批判」と「侮辱」はどうちがうのか、などぼくとして大事だと思う点を話せた。

古谷さんが教えてくれたんだけど、彼は実際に原告として法廷で争って和解に至った件があったんだって。詳しく口外しないことが和解の条件なので詳細は言えない。扱う題材がハードなので、案件としてもそうとうハードなんだろうね。

「言論活動をしていると、法律で守るしかないですからね」実感を込めていっていた。そう、本当にみんなね、不用意なことを言っていないかどうかよく考えたほうがいい。実際に法律であらそうことはあるんだから。

放送内容はアーカイブで一週間後まで聞けるから興味あったら。PCじゃないとだめなんだけど。
→東京FM『タイムライン』(右側にアーカイブがある)

さてなんでぼくがあそこまで怒ったのか。説明し尽くせないけど、できるだけ説明したいと思う。

ぼくはたまたま、ふと思ったこととして「赤ちゃんにきびしい国で、赤ちゃんが増えるはずがない」と題したブログを書いた。信じられないアクセスがあり、メールなどもいっぱいもらった。まずその時のことを「一発当てた」と三上という男が言っているわけだけど、ぼくのブログは広告を入れていなくて、ここがアクセス数がどんだけ多くてもお金にはならない。それから、18万いいね!は転載先のハフィントンポストでのことだけど、そこにも何の金銭的やり取りもない。だからあの時のことを「一発当てた」と表現するのは違うわけ。

なぜ広告を入れないかというと、個人ブログで広告で得られる収入なんてたかが知れてるから。もちろん高い収入を得ている人もいるだろうけど、それはもっと前からやってた一握りの人びとだしね。それより、画面がいい感じにならないことのほうがぼくは嫌だ。

余計なことをいうと、著名ブロガーの真似をして、稼ぐためにブログはじめてる人をけっこう見かけるけど、意味がないからやめたほうがいいよ。たぶん労力に見合った収入は得られないから。ブログを書く意味はそんなところにはなくて、純粋に自分の情報発信が大きく広がること。

話を戻して、18万いいね!があってから、孤独な子育てに悩んでいたママさんからものすごくいっぱいメールをもらった。ぼくはこの突然の嵐のような出来事に当惑したんだけど、メールの中に昔仕事した女性がいて、いまこんな子育てを仲間としてますとある。興味を持って行ってみた。そこから、子育ての形を模索する活動がたくさんあることを知って、どんどん取材して書いていった。それをひとつの書籍にまとめたってわけ。

書籍になんでするかわかる?ブログを通じて世の中に発信するのにはどこか限界があるの。まとまった文章を手に取って読んでもらうことにはネットでの発信とは違う価値があり、書店の場でブログ同様にメッセージを発信できるわけ。違う形で世の中に問題提議できる。でもね、いくつか出版社に持っていったんだけど、売れるとは思えない、という反応。売らなきゃいけないからね、いま本は本当に売れないから。ふだんメディアがどうしたとか言ってるおっさんが、育児について語るなんて、その時点でわかりにくいって言われた。

そしたら、出版社を立ち上げたばかりという青年がやってきて、あなたの本を出したい!というわけ。えー?!初めての出版で書店に本を置けるの?と思ったけど、彼にほだされてそこで出すことにした。それが三輪舎。

いちいち本のPRしやがって、と三上という男は思ったらしい。でもね、あの本は本当に売れてないの。それでも著者は刷った分印税はもらう。出版社は売り切らないといかんわけ。だから著者は出版社に対する責任として、本をアピールしないといけないんだよ。

そしてそのあと、たまたま知った保育園反対運動が気になって、またたまたま自宅の近くなので行ってみた。保育園側も行政側も反対運動側も、みんな取材させてくれたから、話を聞いては記事にしていった。この時はまたプレジデントウーマンオンラインで連載やる?って話もあったので、そこで書いたの。

とくに反対側はどんな主張があるのか、フラットな気持ちで取材していった。でも聞けば聞くほど、反対するスジが通ってないなあと思った。それをできるだけフラットな書き方で書いたつもり。でも、そのあとは会ってくれなくなった。そして久々に説明会が開かれるというので見学に行ったら、こないだまで取材に応じてくれた反対側の人たちが「マスコミは呼ばないんじゃないですか?でも記者がいますよね!どういうことでしょう!」と言い出した。記者っておれ?って感じなんだけど、仕方ないらしく、退出させられた。

こういう記事を書いていると、メールをもらうようになる。「保活中の者ですが、私の町に保育園の計画があり期待していたら猛烈な反対運動が起こっています。アドバイスいただけませんでしょうか」そんな相談が来るわけ。相談されたら会うでしょ、おじさんが若い人にアドバイスとか言われたら。

それで説明会に行ってまた追い出されたりとかね、そうしながらもだんだん、いろんなことがわかってきた。反対運動が起こるメカニズムみたいなものがね、少しずつ見えてきたのよ。・・・でもね、どうしたらいいかはわからない。

地元を刺激するのはよくないらしいと学んだので、できるだけ一般論としてブログに書いたりするわけ。でもそれが何になってるんだろう?わからないなと悩みながら書くわけ。そしてまた別の説明会に行ってまた追い出されたりするわけ。何やってんだおれ、と途方に暮れるわけ。

市川市のママさんからもメールもらったの。現地にも行ってみたよ。反対の看板掲げている家が並んでた。その写真も撮った。PV稼ぎたきゃその写真のっければいいよね、でもそれだとこじらせるだけかも。だから少し様子を見ようと思って書かなかった。とにかく、署名運動をしてはどうでしょう、てな、大したアドバイスになってないようなことを言った。

そんな最中に、「保育園落ちた日本死ね」からはじまる”運動”が巻き起こった。すごいすごい!と思ったね。当事者が強烈なメッセージを発信したからだよね。こういうことも起こるんだとびっくりした。それに続いて「保育園落ちたの私だ」とつなげていく人たちも現れて、ぼくはちょうど3月からYahoo!ニュースで書くことになったので、取材して書いたらものすごいPV数になった。そうかあ、こういう風にムーブメント起こせるんだなあと、少しやり方わかった気がした。政治の問題にもなって、社会が保育園の問題に向き合うようになった。

ところが、4月になって市川市のママさんから連絡をもらった。計画が中止になった、と。ガーン!やっと世間が保育園の問題に目を向けるようになったのに、行政も事業者もその風を受けてもう少し粘ればいいのに。

連絡をもらって一週間ぐらいしてから毎日新聞が市川市の件を記事にした。なーんだよ、いまさら、と思ってたら、それで火がついてまた保育園問題に世間の目が向かった。反対運動について賛否両論巻き起こった。へー!そうなるんだ。議論になったことに驚いた。

うーん、だったら、書けばよかったかもしれない。相談された段階で、現地行って撮った写真使って、記事書いてもよかったのかもしれない。いや、でもわからないんだよね。たんに話をややこしくするだけかもしれないし。でもいまは何らか、書くべきだったんじゃないかと思ってる。

とにかく、反対運動にスポットライトが当たってよかったな、と思ってたら、熊本の地震でこの問題から世間の目が離れてしまった。それは仕方ないかもしれないけど、マスメディアも、人びとも、簡単に忘れるんだなあと思った。

そんな中に、iRONNAから寄稿の依頼があったの。これ言うと失礼だけど、実は前にもメディア論のほうで依頼もらったことあって、断っちゃったの。このメディア、自分に合わないなーと思ったから。大きくわけると保守論壇だからね。別にぼくはリベラルだとも思ってないけど。思想的に色がついたら困るなと。

でも依頼の内容は、市川市の件を受けて保育園反対運動について、だったの。あ、そうかと思った。これまで書いても書いても、肝心なところに届いてないなと思ってた。iRONNAは、編集部に聞いてみるとやっぱり年配層が高いんだって。だったら、そういう人たち向けにそもそものところから書くことにはかなり意義があるんじゃないか。反対しそうな人たちに、なぜ反対しないほうがいいか、少しでもわかってもらえるんじゃないか。だから書いたの。

そういう目的だから、いちからくどくどと説明したわけ。自分がおっさんなのになんでこういう問題にかかわっているかも、書く必要があったわけ。おれ、あんたら同様普通のおっさんだけど、こんな経緯で関わってんだよね。そこを書くことで、読む側のおっさんらも、自分のことに引き寄せてくれないか、という文章だったの。

iRONNAに原稿が出て、どんな読まれ方してるかすごい気になった。果たして年配層がどれくらい読んだのか。Twitter検索するけど、つぶやき見てもよくわからないよね。ただとにかく、好意的に受けとめる声が多いのはわかった。「いいね!」も5000もついたしね。そこはよかったな。でも狙いはまた違うんだけど。つぶやき見ていってもわからない。そうしているうちに、思わずNewsPicksに入っちゃった。いかん、まずい、どうせ嫌な思いするだけだとっとと出よう。でもコメント見ていくとなんだここの人たちもネガティブなこと言うだけじゃないんだ。なにしろぼくはすっかりそういうイメージ持ってるんでね。ふむふむ、と。批判的なこと書いてる人もいたけど、一理あったりして。なるほどね、なんて思ってたら、三上のあのコメントが出てきた。

その時の気分ね、松田優作だった。「なんじゃ、こらー!?」いつの間にかよくわからない相手に刺されてるわけ。批判でもない。中身と関係なく、ただただこき下ろすためだけに書かれた言葉。けなすにしても、毒づくにしても、時として言葉は美しかったり知性が光ったりすることもある。でもなんだこれ?何でもないよこれ。なんだかわけわかんない。「いいね18万の一発屋」って全然意味わかんないけど、侮辱する意志だけははっきりとくっきりと伝わってくる。あのコメントをいままた思い出しても血が沸騰しはじめる。卑劣だよ、あの言葉は。

何か言ってやりたい。リアルな場なら、胸ぐらつかんで、お前なんだその言い方は!って怒鳴りつけるだろう。でもNewsPicksは何もできないんだよ。ただPCの前でわなわなするしかない。

どうしようか、何すればいいか。しばらくわからなかった。一晩おいたと思うんだけど、ふと気づいた。Twitter連携してるかも!検索したら出てきた。三上俊輔という男。話しかけた。「誹謗中傷になっている」というこちらに対し「二番煎じだと思いました。お会いしてお話しますか?」という返事。は????なんだこいつ。「二番煎じ」などとさらに追い討ちをかけるようなこと言いつついきなりお会いしますか?ってどういうやつ?「二番煎じだと一発屋と言っていいわけですか?」と追いかけたら「ずいぶん一発屋にご執心ですね」だって。傷口に塩をすり込んで楽しんでるようにしか見えない。「三上さんは会いましょうと言ったのに境はシカトしてる」って声を読んだけど、こんなキテレツな反応する失礼な人間に会おうなんて思うはずないよ。会いましょうかと言いながら、さらに揶揄ばかりしている。ほんとうに会う気があると思えないよ。というか不気味だよ。

だから「正式な抗議に移ります」と最後に書いたら「Twitterのコミュニケーションだけで一方的な解釈は怖いな。だから私は最初にお会いしてお話しましょうか?と言ったのに」だって。だからぼくは正式な抗議に移ったわけ。

このやりとりは、ご丁寧に三上という男が自分のブログに書いてるから読んでもらうといい。
http://mikamika8375.hatenablog.com/entry/2016/05/18/093652

ここで「ご本人ですか、ちょっと言いすぎました。」とでも言われたら会ったかもしれないよ。でも痛いじゃないかと言ったらさらにグサグサ刺しながらお会いしましょう、って全然わからない。

三上という男は、その後もブログとTwitterでグサグサ刺している。「売名行為」「PV稼ぎ」「今回二発目が出たから」などと侮辱を重ねている。侮辱はひと言ぐらいでは検察がとりあわないのだけど、こうしてどんどん重ねるとわからないよ。最初のひと言からして侮辱は侮辱なんだから。

http://mikamika8375.hatenablog.com/entry/2016/05/21/051636

いやちがうか、これは「なぜここまで激怒したのか」を説明するために書いてたんだった。またヒートアップしちゃったけどそういう話じゃなかった。

できるだけ一般論に高めたことを言おうと思う。批判しても当然いいし、なんだったら侮辱だって受けて立つけど、人が書いたものに何か言うのなら、2つの点に気をつけてほしいと思うよ。

1つはね、ちゃんと読んでよ。二番煎じって、どう見ても1ページ目だけ読んで言ってるでしょ。二年前に書いた「赤ちゃんにきびしい国で・・・」とiRONNAに書いたものはタイトルが似てるだけで全然違う内容なんだよ。まったく二番煎じじゃない。上に書いたように、保育園反対運動への取材からわかったことを書いていて、それはこの一年の取材の成果なんだから、二年前に書いたものの二番煎じにはなりようがないの。二番煎じと言うなら、前のものを一度読み返すぐらいすべきだ。

ちゃんと読んでよのもうひとつは、あの記事は1ページ目に「保育園問題を実感しにくい中高年にこそ読んでほしい」と見出しがでーんとついてるの。つまり二年前の記事を読んだ人に向けては書いてないわけ。対象外の人は読むなとは言わないけど、その見出しをちゃんと読んだら、どうして1ページ目でくどくど書いてるかわかるはずでしょ。三上という男の言ってることはさあ、よく読まないで書いたコメントだってのがありありとわかる。それなのにどうしてああ胸を張って二番煎じと言えるの?

2点目はね、思ったことをちゃんと書けよ、ってこと。1ページ目が長くてイライラしたんでしょ?だったら「1ページ目がこんなに長くてかったるい記事、イライラするよ!」とか言えばいいじゃん。それは「批判」だからさ。的外れでも。なのに1ページ目が長すぎるとどうして「一発屋」って言うの、わざわざ。意味わかんないじゃん。「いいね18万の一発屋」とか書くから「なんじゃこらー!」になるわけ。ZARDからして意味わかんなかったんだけど、なんでそんな変な表現するの?

まあなんというか、ぼくとして予想外だったのはね、ものすごく変わった人に当たっちゃったことだね。とっとと謝ってくれたら個人のほうはすぐに文章差し替えて、NewsPicksに絞った抗議にするつもりだったのに、逆になるとは。

NewsPicksへの抗議は取り下げたけど、三上という男への抗議は取り下げない。取り下げられない。謝るどころか、侮辱を重ねてるから。だから彼に対して、内容証明を送るか、メールで済ますかわかんないけど、ここに書いたことをぐっと凝縮して送り届けようと思う。今度こそ心して受けとめてほしい。

保育園反対運動はまだ、首都圏のあちこちで起こってる。前に取材した80代の、でもかくしゃくとしたおばあちゃんの園長先生がメールをくれた。老骨にむち打ってもうひとつ保育園を開設してがんばろうとしていたら、猛烈な反対運動に悩んでいる。そんな話だ。ぼくからするとお袋みたいな園長先生が、相談にのってくれと言っている。ぼくは市川市のようにポシャらないように、今度こそ役に立ちたいと思う。これまでの経験から、少しは何かできるんじゃないか。いや、いまはわかんないけど。でも今度こそ、と思ってる。

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NewsPicksへの抗議は取り下げ、誠意と理念ある対応に深謝する

前回前々回のここでの記事で私はNewsPicks(と三上俊輔)に強い抗議を示した。

NewsPicksに対しては、記事を配信した後で、メールを出した。一部引用する。

これに対し何を要望するわけでもありませんが、
前向きな議論が自然に行われる場にしていただけることが
願いとしてはあります。

いまいろいろと見直しの最中だと思いますが、ピック
される側の意見として、みなさまの議論の題材のひとつに
加えていただければ幸いです。

対応を望んで書いたというより、抗議したからにはその抗議を相手に届けなければとの考えからだ。正直、何かをしてくれることは期待できないと感じていた。

だがさっそく返信が来た。意見をきちんとうかがいたいので、梅田社長と佐々木編集長も同席する時間をつくりたい、とのこと。はなはだ驚いた。こんな乱暴な抗議なのにきちんと対処する意志が伝わって、逆に恐縮してしまった。

一方、こちらは追加のお願いをした。「ピックしないで」と題した記事がピックされていたので、そちらとして削除してもらえないか、と。これをやると、最初にピックした人とそれに続いてコメントしたものがすべて消えて失せるわけなので、そう簡単にはできないだろうとは思っていた。実際、規約上できないとの答え。でもこの件は悪質なので週末までに対応したい、と言う。

正直、本当に週末までに具体的なことができるのかといぶかった。

そしたら、彼らは言葉通り対処してくれた。

規約を変更したという。そしてそれにのっとり、私の記事(なんと2つ目もピックされていた)を両方ともNewsPicks上から削除対応してくれた。
→https://newspicks.com/news/1557123
→https://newspicks.com/news/1564723

さらに梅田社長のアナウンスがNewsPicks上に提示された。
→NewsPicksの課題とこれからに向けて(NewsPicks代表・梅田)

いろんなことが書いてあるのでじっくり読んでもらうといいが、ここでの話の流れ上、ポイントなのは・・・

これまでも利用規約違反に該当するコメントは削除してきましたが、利用規約違反の定義については運営側と当事者では見解が分かれる事がありました。そのため、今回は利用規約違反の判断が難しい事象でも、被害を受けた当事者から通報があった場合は、原則として削除する方針に変更します。
※利用規約違反に明らかに該当しない建設的な批判や意見については、通報があったとしても削除対象とはなりません。

この部分は、私の抗議の前から用意していたのだと思う。先日のユーザーイベントを受けての決定で、おそらくもともと内部で議論していたのだと推察する。私が依頼した「記事そのものの削除」はある意味、その議論の流れにそったものだったのだろう。

これについて、疑問を呈する声もあると思うが、私は現時点の判断として正しいと思う。

NewsPicksは、プラットフォームであると同時にコミュニティであり、メディアにもなろうとしている。これまでのメディアやプラットフォームのあり方からすると大きなメタモルフォーゼだ。その先に成功があるのかどうかは誰にもわからない。だがコミュニティの側面がこのところ問題になっているわけで、それへの対処としては最良の選択だと、私は考えている。

コミュニティは、誰かが強い理念とモラルでもって運営せざるをえない。ある段階を過ぎると自然とそうなる。今回の判断も、例えば削除要請が出て本当に削除したとして、削除された側が100%納得することなんてないだろう。でも運営側が「ここがこうなので削除した」と説明できればいいのだ。

そんなの納得できない、と言うなら、参加をやめればいい。

また逆に「あの削除は仕方ないよね」と多数が賛同できるかどうか、運営側も問われることにもなる。

そして実際に削除するかどうかの前に、コメントを書く側に考えさせる効果が大きいと思う。「中傷や嫌がらせをされた本人からの通報があったら削除される」というルールを受けとめれば「待てよ、これは誹謗中傷になっちゃってないかな?」という制御が働くだろう。それが重要なのだ。

現時点でのNewsPicksにとって、最良の判断だと思う。

これは大袈裟に言うとインターネットの世界に秩序はつくれるか、という話だ。運営者が明解な、特定のコミュニティではそれは可能であり、むしろ必要なのだと思う。

今回の私の抗議への反応はもちろん多様だったが、思いのほか「あそこには辟易している」という声は多かった。私もそうだが、時々見てみるとひどいコメントがついているので、見なくなってしまった人はかなりいるだろう。そうした人びとをアクティブにさせ、もっとユーザーを広げる道筋も見えてくるのではないだろうか。

つまりNewsPicksの新たな成長のためには、理念を明確にした運営が必要であり、そういう時期だったのだと言える。この記事のタイトルにわざわざ「理念」と入れたのは、そういう意図だ。

私は梅田社長がアナウンスした運営理念と新たな規約を評価し、また私の抗議への真摯で素早い対応に深謝し、抗議を取り下げる。同時に、今後のNewsPicksに期待し、自分でも再び積極的に使ってみようと思う。

NewsPicksのみなさん、ありがとうございました。

・・・こうなるともう一者の抗議の対象が残ってしまったが・・・

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NewsPicksと三上俊輔への抗議、その後の顛末〜批判はありだが、侮辱はダメだ〜追記:前者への抗議は取り下げます

追記:公開時はここにNewsPicksのロゴを怒りの表情にした画像を置いていたが、NewsPicksが規約変更で抗議に応えてくれたので、画像を取り下げた。

この記事はNewsPicksへのピックをやめていただくようお願いします。

5月17日、つまり今週の火曜日に書いた記事は大きな反響があった。
→NewsPicksと三上俊輔に抗議する〜私の記事はピックしないでほしい〜

私はあまりこういう石を投じるようなことはやってこなかった。非難轟々だったら嫌だなと思っていたがそんなことはなかった。けっこう多くの人が、NewsPicksのコメント欄に嫌な思いをしてきたのだろう。ライター仲間からかなりのメッセージをもらった。「よく言ってくれた。もうほっとくしかないと思っていたが、自分も言うべきだったと思った」そんな人もいた。プロピッカーの友人も何人かいるが、自身も嫌な思いをした話をしてくれたり、頼まれたからピックはしてるけどコメントは読まないようにしているという、苦肉の状況を教えてくれた。

常見陽平氏がさっそくYahoo!に記事を書いてくれた。
→News PicksはNo Picking運動にどう向き合うのか?誹謗中傷プラットフォームの行方
記事を書く時に、他に抗議してる人はいないか探したら、常見氏の以前の記事が出てきたので心強かった。さっそく書いてくれて率直にうれしかった。

一方、徳力基彦氏が逆の立場でYahoo!に書いている。
→ネットで批判されるのが嫌ならネットで情報発信なんかやめた方が良い?
徳力さんとは仕事面でもおつきあいがあり、これは友情からあえて苦言を、ということだと受けとめた。ただ、ちょっとちがうんだよなと思っていたら、Yahoo!のコメント欄でisobeさんという方が、私の言いたいことを代弁してくれていた。
→【我慢ならんサービスには「ノー」と言っていいんじゃないか、と思うわけです】(Facebookを使ったコメントなのでアカウントがない人は読めない)
徳力さんは昔、はてなブックマークでの厳しいコメントに萎えてたら、批判が嫌ならブログなんて書くなと一喝された、という話を書いている。それ、私が言ってることとちょっとちがうなあと思うのだが、Yahoo!の記事なので、私もこれとは別にYahoo!で書こうと思う。

はてブの話が出てきたが、私の記事へのはてブコメントが楽しい。
→http://b.hatena.ne.jp/entry/sakaiosamu.com/2016/0517111557/

大喜利だね。笑っちゃう。

はてなブックマークとNewsPicksは一見似ているが、まるで違う。私も別の記事ではてブに中傷に近いコメントが並んだ経験はしている。だが一瞬腹は立っても、三上という男に対して持ったような怒りには至らない。その理由は後で書こう。

それから、三上俊輔本人もブログを書いていた。
→インターネット上に言論を公開する意味、境治氏からの抗議に応えて

なんかいろいろ言いたくなるなあと思っていたら、これも彼の記事についたはてブが面白い。私がいいたいことはほとんど”はてな民”のみなさんが代弁してくれたようなものだ。

→http://b.hatena.ne.jp/entry/mikamika8375.hatenablog.com/entry/2016/05/18/093652

わかりやすいので、ちょっと引用させてもらおう。

スクリーンショット 2016-05-20 1.24.08
※三上俊輔のブログ記事についた「はてなブックマーク」より画像をキャプチャー

だよな、おまいらの言う通り。いきなり「会ってお話しましょう」って、あんな侮辱を平気で書く人間と会うなんて、って警戒したのよ。

そして三上という男の記事の最後に「インターネットで記事を公開する意味」というなかなか大上段に構えたタイトルのパートがある。今回いろんな意見を聞いた中で、同じようなことをいう人がけっこういた。

WEBでの情報発信はどこまでもOPENに反応が返ってきますので、最終的には著者は読者からのいかなる反応も受け止めることが求められます。自説への批判は目障りだから止めろという、この批判のハードルを著者が引くことは言論においてはできないと考えます。「三上俊輔のブログ・インターネット上に言論を公開する意味、境治氏からの抗議に応えて」より引用

ここには、大きな食い違いがある。「自説への批判は目障りだから止めろ」とは私は言っていない。そうではなく、三上という男のコメントは侮辱だ、と言っているのだ。

批判は受けとめるべきだというのは当たり前だ。だが侮辱をしてはいけない。私は三上のコメントが侮辱だから抗議をしたのだ。それとも、三上という男は侮辱も受け入れるべきだと言うのだろうか?三上という男がどう考えようとも、侮辱は犯罪なのだ。刑事罰が課せられる可能性がある。あるいは、不法行為だと民事的に訴えられる可能性がある。私は、弁護士の友人に確かめて「刑事になるかは検察官次第で、コメントひとつでは可能性が薄いが、このコメントは確かに侮辱に当たる」とのアドバイスをもらったうえで書いている。「批判」とはこの場合”文章に対して”なされるべきものだが、”私個人に対して”悪意を持っていわれない暴言を吐くと「侮辱」だ。まったくちがうことだ。

それから、わざわざ見出しに「インターネットで言論を公開する意味」としていて、ネットで文章を公開するのは特別だと言いたがっているように見えるが、そこがさっぱりわからない。ネットでもリアルでも、やってはいけないことの本質は、まったく変わらないのだ。

1ページ目が長すぎたからあのコメントを書いたとあるが、だったら「1ページ目が長すぎて本論を読む気にならなかった」と書けばいい。これは「批判」だ。受けとめるよ。でも実際に書いたのは、1ページ目が長い、ということからはるかに離れて、ひたすら悪意しか感じられないコメントだ。

ある人から聞かれた。コメントがはてなブックマークだったら同じように抗議したか?いや、しなかっただろう。はてブとNewsPicksには根本的な違いがある。

見出しとコメントの関係がまったく違う。はてブのコメントは文字数が少ない。だから「チャチャ入れられてる」感覚だ。もちろんたまにグサッときたりムカッときたりするコメントもある。だが瞬時に「ま、いっか、チャチャだから」とこっちも鼻で笑うことにできる。匿名だから、「ふん無名のヤカラが好き勝手言うとるだけよ」で済む。そのうえ、大喜利的に盛り上がることも多いので、うぷぷと笑うことも多い。そういう、”遊び場”感が結果的に出ている。はてブという”文化”ができあがっていったのだろう。(ただし、はてブでも侮辱はしてはならない)

NewsPicksは文字数が長い。1000字も入る。そして記事よりコメントのほうが存在感が大きい。はてブの逆だ。チャチャってなものではない。うやうやしく「コメント様」って感覚だ。これはそもそも、そういうツールをめざしたからだ。経済のストレートニュースやリポート記事をピックし、専門家がコメントする。記事の側は「情報」だから地位が低いはずだったのだ。記事を読むのではなくコメントを読むサービスなのだ。実際、記事を読まないままコメントだけ読んでおなかいっぱいになる、という意見をある人からもらった。

ところがユーザー数が増え、話題も広がった。本来はそこで、フォーマットの見直しが必要だったのだろう。だがそのまま走る。そうすると。コメント様が傍若無人になりかねない。何しろ、何を言ってもいいのだ。あんなにリスクのないコメント欄もないだろう。ただ、ユーザー数が増えたので、コメントを書いてもLIKEがつかないとすぐに下にもぐってしまい、誰もコメントを読んでくれない。LIKEをもらうには気の利いたことを言わないといけない。かくして、LIKE獲得競争がはじまった。

私はウルトラライトユーザーなので以上はそうとうな推測だ。だが、過去に何度かのぞいた時に実際に、「ああ!○○さんにうまい言い方されてしまった!」というコメントを読んだことがある。コメントを書く意義が、コメントそのものを評価してもらう競争になったのではないだろうか。ただしその評価は内向きなので、時々しか開かない人には理解しがたい。

三上という男のコメントを読んだ時に、怒りとともに奇妙だなという印象も持った。わざわざZARDを持ち出す意図が不可解だったし、「18万の一発屋」も、どういう状態を表現しているのかつかみにくい。ただ、何か普通じゃない言い方を不自然に頑張っているように見えた。それはこの「気が利いたこと言う競争」の結果ではないだろうか。その不自然さが余計に不快だったのだが。

さてNewsPicks運営側には、ブログを書いた後でメールし、「こういう抗議の文章を書いたので、読んでもらえれば」と伝えたら、さっそく丁寧な返信をもらって直接会うことになった。私なりに、こうしたほうがいい、という提案をせっかくだからするつもりだ。

それから、来週あるラジオ番組に呼ばれた。ブログを読んだのでこの問題をとりあげたい、ゲストに出てくれとのこと。快諾したがデリケートな問題なのでと伝えたら、もちろんサービスや個人を責める内容にしたくないとのことだった。NewsPicksに関する世間の関心の高さを感じた。私は本業のメディアうんぬんのほうで意外にいろんな番組に呼んでもらうのだが、今回のはメディアとは言え、どうしたら建設的な話になるか、悩ましい。

ということで、もろもろまたレポートしたい。Yahoo!にも「抗議」とは別のことを書くつもりだ。

追記:公開時はここにNewsPicksのロゴを怒りの表情にした画像を置いていたが、NewsPicksが規約変更で抗議に応えてくれたので、画像を取り下げた。

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NewsPicksと三上俊輔に抗議する〜私の記事はピックしないでほしい〜追記:前者への抗議は取り下げます

追記:公開時はここにNewsPicksのロゴを怒りの表情にした画像を置いていたが、NewsPicksが規約変更で抗議に応えてくれたので、画像を取り下げた。

この記事はNewsPicksへのピックをやめていただくようお願いします。

先日、2016年5月5日、iRONNNAというネットメディアに私が書いた記事が掲載された。
→「子育て」にきびしい国は、みんなが貧しくなる国だ

いろんなメディアで訴えてきた保育園の問題を、あえて年配読者が多いiRONNAで書くことで、このテーマに関心が薄い層にアピールできるのではという思いだった。驚くほどシェアされ、5000を超える「いいね!」がついた。

実際にはどれくらい年配層にも届いたのだろうと、記事タイトルで検索していたら、うっかりNewsPicksに入ってしまった。私は日ごろこのサービスで自分の記事へのコメントを読むことをできるだけ避けているのだが、ついついリンクを踏んでしまった。だがパッと目に入ってきたのは共感しているコメントが多い。読み進むと、中には批判的なものもあるが、一理あったりしたので、さらにコメントを追ってしまった。

そうしたら、このコメントに出くわした。

三上俊輔コメント
※NewsPicks内の当該記事がピックされたページよりキャプチャー

このコメントは、記事への批評でも何でもない。いや私個人への批判でさえもなく、ただただ、侮蔑しようとする意志しか伝わってこない。ああ、やはりNewsPicksはこうなんだ、とあらためてコメントを読み進めたことを後悔した。

このコメントを最初に目にしてからもう10日間ほど経つが、何度読んでもそのたびに心拍数が高まり頭に血が上るのがわかる。だがここでは、このコメントについてはあえて書き連ねないでおく。ただ、友人の弁護士に意見を求めたところ、侮辱罪の対象に十分なりえるもので、少なくとも不法行為で民事で争えば十分勝てるだろう、とのことだった。「いいね18万の一発屋」という箇所は具体的な意味がわからない表現だが、侮辱と十分認識できるようだ。

私はこのコメントを書いた三上俊輔という男に対し、実際にどうするかは検討しているところだ。とにかくここであらためて抗議しておく。あなたが書いたコメントは、どう見ても侮辱だ。

だが、三上俊輔への抗議はこの原稿の前振りに過ぎない。

私が問題にしたいのは、NewsPicksというサービスについてだ。

これまでも何度か、私の記事がここでピックされてきた。ここから先を書くのは心苦しくもあって、私の友人知人にもこのサービスのユーザーはたくさんいるし、プロピッカーをやっている方もいる。彼らが私の記事をピックしてくれたこともあり、ありがたいと思ってきた。決して彼らに抗議する意図はない。

だが何度もピックされ、ついついコメントを読んでみると、ほぼ100%嫌な気持ちになってしまう。私の目からみると、NewsPicksは誹謗中傷祭り、皮肉と揶揄の大行進だ。記事を書く身として、こんなに残酷な場もない。

もちろん、ネットではあらゆる場で批判する言葉に出会える。誹謗中傷も珍しいことではない。だがNewsPicksは書き手にとって、”たちの悪い”空間なのだ。書き手の気持ちを逆なでする要素満載。ポイントは、クローズなのにオープンな場であることだ。

ソーシャルメディア上での批判は、記事を検索するなどで主体的に出会う。Facebookで批判を見つけたら、すかさず反論もできる。反論して熱苦しい議論になっても自分の責任で、納得ずくで言い合える。

NewsPicksで何を言われるかは、フタを開かないと見えない。だがヘタにオープンでもあるので、うっかり足を踏み込んでしまうことは多い。そうするとたいがい、すでにコメントがたくさんついていて、往々にしてひどいコメントばかりが上にきている。だから書き手からすると、グサグサくる順番にコメントに接する羽目になる。言ってみれば、知らない間に自分の記事が体育館裏に連れ込まれてリンチを受けているようなものだ。しかも、やめろ!と直接言えないのだ。ひどいコメントに直接言い返せない仕様なのだ。さるぐつわをはめられて、自分が精根込めて書いた記事が殴られるのを見守るしかない。

誹謗中傷に輪をかけて問題だと思うのが、誤った指摘をするコメントだ。私の目からすると、NewsPicksは「頭がいい競争」をしているように見える。勝ち誇ったように全然見当外れなコメントがついたことは何度もある。誤ったコメントが誤ったまま評価され、NewsPicks内の誤った認識ができあがってしまう。それに見出しだけを使い、その下にコメント欄がある。ろくに読まないでコメントすることを誘発する仕様だと思う。

中傷するようなコメントも、誤った指摘も、一部のユーザーに過ぎず大半の人はきちんとしたコメントを書いているのも知っている。だがネガティブなコメントほどLIKEがつきやすく、そうすると上にあがってきてかたまって見えてしまうのだ。実際は違うのにネガティブな空気がすぐに蔓延してしまう。

友人の弁護士に、NewsPicksについて法的にはどうなのか聞いてみると、まったくグレーとのことだ。ちなみに彼は、メディアやコンテンツ界が専門だ。その彼に言わせると、何年も前から他のメディアの記事の見出しや本文の一部を利用するサービスについては争われてきた。解釈は時代とともに変わるとは言え、NewsPicksのような形態が完全にシロになったとは言えないと言う。

実際、NewsPicksの手法は「引用」と言えるのか。引用とするなら、主従の関係が明確でなければならないが、NewsPicksの場合どれが「主」なのだろうか。三上のコメントのようなものが「主」だとでも言うのか?

やまもといちろう氏はジャーナリズムイノベーションアワードの場で「NewsPicksは他人の記事の見出しにただ乗りしている」と主張していたが、まったくその通りだ。私はハフィントンポストやBLOGOSとはブログの転載の約束をちゃんとしている。だがNewsPicksに見出しを使っていいなんてひと言も言っていない。

私は、べつに記事をピックすること自体はいいと思っている。そこで充実した議論が展開されるなら、私の記事を題材にしてくれと思う。だが、誰がいちばん気の利いた皮肉なコメントつけるでしょう競争や、頭の良いコメントつけたのオレだよね競争の、ネタにされるのはまっぴら御免だ。やめてほしい。はっきり言って、私の記事をもう、ピックしないでほしい。コミュニティとして大事にしているユーザーも多いらしいが、あなたたちだけでやってください。私がうんうんうなって老骨にむち打ってどうしても世の中に訴えたいと書いた記事に、三上みたいな侮辱的なコメントを平気でつけられるのはもう、金輪際いやだ。

何やらルールが変わって実名制にしたらしいが、それははっきり言って的外れだと思う。三上を見ればわかるだろう。彼は自分の名前をさらして、あんなコメントを平気で書くのだ。どうせ言われるなら、むしろ匿名のほうがまだいい。名前をさらして胸を張ってとんでもないコメントをされるほうがずっと気分が悪い。

実名か匿名かではなく、運営側がきちんとしたモデレーションをすることが必要なのだ。どういうコメントでどういう議論をするのが理想かを明示し、コミュニティをマネジメントするのだ。運営側が、意思を明確に打ち出すことが必要だ。また、人手もかけねばならない。ツイキャスが10代の子どもたちのコミュニティになっても荒れないのは、そのために人員を割いてしっかりマネジメントしているからだ。

追記:冒頭と同様に、ここに置いていた画像は取り下げた。

この記事はNewsPicksへのピックをやめていただくようお願いします。

もう私の記事のピックはやめてほしい。だからこのマークをアートディレクターの友人に頼んで作ってもらった。これを今後私は使うつもりだ。自分のブログだけでなく、依頼原稿にも編集と相談して使う可能性がある。このマークが入っている記事は、NewsPicksでのピックをやめてください。もちろん、法的には”グレー”なのでお願いするしかない。でも本当に、やめてほしい。

それから、このマークは誰でもコピペして使っていいことにする。もちろん使用する意図はあくまで私同様「この記事はピックしないで」とアピールするためにしないとブレてしまうので、そこは気をつけてほしい。上のような文言を添えたほうがはっきりするだろう。それから、このマークはロゴをいじっているので咎められる可能性はある。私は、これはパロディだと主張するつもりだが、日本ではパロディについてはっきり認められているわけではないことは言っておこう。まあ、グレー対グレー、ってことで。

何らか、私にとって納得のいく状況になったらマークの使用をやめるが、おそらくそうはならないだろうと考えている。

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テレビが本当に変わるのは、中枢からだと思う〜SSKセミナー「民放キー5局はどう進むか?〜編成マンに聞くテレビの新しい姿〜」

SSKセミナー告知↑この画像をクリックすればSSKの詳細ページに飛べます。
5月20日にSSK・新社会システム研究所によるセミナーでモデレーターを担当することになった。
「民放キー5局はどう進むか?〜編成マンに聞くテレビの新しい姿〜」と題して、在京キー局の編成部門のキーマンに集まってディスカッションしてもらう企画だ。

編成の方々をお招きするセミナーはSSKとして2014年にも開催したそうで、今回はその第二弾となる。

編成の方々が集まるからには当然、地上波放送の編成についてがひとつのテーマだ。だがそれだけでなく、もっと大きくテレビ局全体のこれからめざすべき姿にまで話題を広げていきたい。各局で見逃し配信がはじまり、共通のサービスとしてTVerも好調な今、ネットでの番組配信も当然テーマに加えたい。また4月にサイバーエージェントとテレビ朝日が手を組んでネット上の放送局AbemaTVをスタートさせ話題を呼んでいるのでタイムリーに取りあげたい。そしてさらには、これから5年10年でテレビ局はどこへ進むのか、風呂敷を広げて海外の話題にも触れてみたい。

私はこのブログでも「テレビとネットの融合」を主題に掲げ、ソーシャルテレビ推進会議の名称で勉強会もやっている。その立場からすると、各テレビ局でそういう部門で新しいサービスに携わる人たちを応援したいと考えている。実際に交流もあるし勉強会に来てくれる方も多い。

その視点で見ると、テレビ局の中枢である編成局は遠くにあり敷居が高い気がしている。それにどこか、変化に対してブレーキになりがちなセクションだとも聞く。これはある意味当然で、編成局は世帯視聴率獲得が最大のミッションであり、ネットで番組が見られるかどうかは視聴率を背負う重みからすると小さなものだ。会社のセールスと売上に直接結びつくし、視聴率で動く金額は巨額なので神経をすり減らさざるをえない。ネットなんてどんだけ稼いでる?と突っ込みたくもなるだろう。

だが今回はあえてそんな編成の方々に、ネットだの未来だの悠長な話をぶつけてみようと考えた。どうなんだろう?関係ないよ、興味ないよとあしらわれないか?いや、いまこの2016年のタイミングは、視聴率を背負う編成マンもネットや未来を視野に入れているのではないだろうか。

などと期待と不安におののきながら、打合せでお会いする各局編成キーマンの皆さんは、その視野にすでにネットや未来が入っていた。私の想像以上に皆さん考えはじめていたのだ。

時代の変化は常に、周縁から起こる。それは間違いないのだが、その変化が伝搬していく中で、ほんとうに社会全体が変わるのは、中枢からだ、とも思うのだ。周縁には、社会全体を動かす力は残念ながらないのが普通だ。でもそこで起こった変化が中枢に届き、理解され、吸収されれば全体を動かすパワーを持つ。

いまテレビ界では、そういう変化が起こりつつある、ということかもしれない。

このセミナーはぜひとも、そういう変化の兆しをすくい取って、ひとつの形に組み立てる、そんな催しにできたらと思う。

以下、概要を書き記しておこう。

●SSKセミナー
民放キー5局はどう進むか?
〜編成マンに聞くテレビの新しい姿〜
5月20日(金)14時〜17時
TKPガーデンシティ永田町

・パネリスト
日本テレビ 執行役員・編成局長 廣瀬健一氏
テレビ朝日 総合編成局編成戦略部長 赤津一彦氏
TBSテレビ 編成局担当局次長 松島哲男氏
テレビ東京 編成局長 長田隆氏
フジテレビ 編成制作局 編成統括担当局長 小川泰氏
・モデレーター
メディアコンサルタント 境 治

14:00〜15:00 パネリスト1ポイントプレゼン
15:15〜17:00 パネルディスカッション

時間は十分あるので、質疑の時間も設けたい。どうぞこの機会に質問を。

お申し込みはこちらから→SSK申込ページ

興味を持ってもらえたら、ぜひ会場でお会いしたい!

※筆者が発行する「テレビとネットの横断業界誌Media Border」では、放送と通信の融合の最新の話題をお届けしています。月額660円(税別)。最初の2カ月はお試しとして課金されないので、興味あればご登録を。同テーマの勉強会への参加もしていただけます。→「テレビとネットの横断業界誌 Media Border」はこちら。購読は「読者登録する」ボタンを押す。

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テレビ番組の視聴率をニュースで扱うのは不毛だ〜Twitterの声が作り手の糧になる〜

視聴率を視聴者が気にすることには意味がない
最近、視聴率をネタにした記事をよく見る。今クールのドラマがはじまってからも、数多く見受けられた。
→「とと姉ちゃん」平均視聴率24・6%記録 また過去最高更新
→フジ日9「OUR HOUSE」第2話視聴率は5・0%に微増
→松潤主演ドラマ「99.9」の第2話が19・1%と高視聴率 前週より3・6%UP
→ 春の「火曜10時」ドラマ対決、第2RはTBS系「重版出来!」が巻き返し

自分の好きな番組の視聴率が高いとうれしいし、逆に低いと残念な気持ちになる。記事にする側もそんな前提で書いているのだろう。だがいま、テレビ局や番組関係者はともかく、視聴者が視聴率を気にすることにはほとんど意味がなくなっている、と私は感じている。視聴率はもはや”自分と同じような人の感覚”を必ずしも反映していないからだ。

その前に視聴率の”基礎知識”を紹介しておきたい。まず、記事によく取りあげられる視聴率はほとんど関東の数字だ。視聴率は地域ごとに測定されており、関西には関西の、福岡や札幌などの各地域にはそれぞれの視聴率が存在する。このところ地域による数字の差は広がっているようでもある。だから「○○○の視聴率が10%を切った!」という記事を見て、それが日本中に当てはまると思わないほうがいい。

さらに視聴率には”誤差”がある。これは視聴率を測定するビデオリサーチ社がきちんと説明している。番組の視聴率が10%だと2.4%の誤差が生じるそうだ。詳しくはこちらを読んでほしい。
→ビデオリサーチ社WEBページ「標本誤差」

だから10%の視聴率は実は12%かもしれないし8%かもしれないのだ。この誤差についてはテレビ局や関係者は知っているはずだ。知っていても、1%に一喜一憂するのが人間というものだろうが。

そして”基礎知識”で重要なのが「代表性」だ。視聴率なんてネットで調査すれば簡単じゃないか。そう思う人は多いだろう。でもことはそう単純ではない。日本の人口分布をきちんと反映させたサンプルで調査をしないと意味がないのだ。そのことを「代表性」と言い、ビデオリサーチ社はこの「代表性」を担保した調査を行うので業界標準となっている。ネットで安易に調査しても若い層に偏った結果になりがちだ。世帯視聴率はそれぞれのテレビ番組が「関東ではこれくらい視聴された」と言える数字でなければならない。サンプルの抽出がきちんとしていないと結果がブレてしまうのだ。

jinkoupyramid
人口ピラミッドの出典は総務省統計局の「人口推計」

人口分布の偏りを視聴率は反映している
視聴率は日本の人口分布をきちんと反映している。広告取引に使うためには、それが重要だ。でもだからこそ、視聴者が気にしても仕方ないのではないか、と私は言いたいのだ。

視聴率の区分は、性別(M=男性、F=女性)と世代(20-34才=1、35才-49才=2、50才以上=3)でとらえられる。F1なら若い女性、M3は年配の男性、ということだ。この区分を、総務省統計局のWEBサイトにある人口ピラミッドに重ね合わせてみたのが上の図だ。
50才以上が44%もいる。若者(F1、M1)は17%しかいない。50才以上の半分が見たら44%÷2=22%になるが、若者の半分が見ても17%÷2=8.5%にしかならない。

さらに、男性より女性のほうが在宅率が高くテレビをよく見る傾向がある。だから視聴率はF3に大きく左右されてしまう。私はこれを「テレビのおばさん化」とあるところで書いたが、視聴率が大きく動く時はF3が移動した時なのだ。いまや視聴率を支配しているのは”おばさん”たちだ。

ここであらためて言いたいのだが、視聴率はあくまで広告取引に使うために存在している。決して番組そのものの評価ではないのだ。それでも、ひと昔前なら視聴率は人気のバロメーターだといえたかもしれない。人口ピラミッドがいまほどいびつでないころならそう言えただろう。

だがいまや、上のような状態だ。そのことをよく認識したうえで視聴率に関する記事を読んだほうがいいと思う。そうすると読み方も違ってくるだろうし、視聴者まで数字に一喜一憂する必要がないことにも気づいてもらえると思う。一喜一憂するのはテレビ関係者に任せて、自分が気に入ったならそれでいいと思えばいい。

あなたの思いはソーシャルメディアで届ければいい
そうは言っても、せっかく気に入った番組の視聴率が悪いのはいい気分ではないだろう。また、出演者や制作者はつらいのではないか、と心配になるかもしれない。だったら、Twitterでつぶやけばいい。「今回も面白かった!」「○○○さんの演技サイコー!」「毎回脚本が練れてるなあ!」よいと思ったことをつぶやけばいいと思う。

というのは、制作者は思いのほかTwitterを見ているのだ。

フジテレビの番組に『新・週刊フジテレビ批評』という、テレビについて語る番組がある。今年1月の放送で、ヒットを飛ばす人気脚本家三人の鼎談の回があった。非常に驚いたのだが、あれだけヒットを生み出す時代の寵児たちが、いま視聴率が取りにくいことに悩んでいるのだ。そして、Twitterの声を非常に気にしているのだと言う。
→大ヒット脚本家3人「ドラマ放談」

視聴率しか指標がなく、でもそれが取りにくいと、別の評価軸を探す。Twitterは視聴者の生の声が聞けてよいのだろう。クリエイターはどれだけヒットメイカーになってもやっぱり評価を気にするのだ。

だからおそらく、あなたが番組についてつぶやけば作り手たちに届く。その声が糧になり、脚本家たちは頑張るかもしれない。視聴率による評価が難しくなったこの時代に、視聴者の声が直接番組づくりにプラスになるなら、それはむしろ素晴らしいことではないか。
いまTwitterを分析していろいろ役立てようという動きがある。そのうち、視聴率とは別に本当に番組評価のもとになるかもしれない。そんな可能性も視野に、自分の好きな番組について視聴率なんか気にせず、積極的につぶやくといいと思う。

●2016年5月20日SSKセミナー開催
「民放キー5局はどう進むか?~編成マンに聞くテレビの新しい姿~」
さてここで書いたことともかなり関係するセミナーについてご紹介したい。
SSK新社会システム研究所の主催する地上波テレビ各キー局の編成の方々をお招きし、今期の編成のことからこれからのテレビのあり方までたっぷりディスカッションしていただく催しだ。不肖、私がモデレーター役として、各局のみなさんに突撃していきたい。もちろんショーとして楽しんでもらえるものにするつもりなので、よかったらぜひご参加を。
お申し込みはSSKのサイトから。
→SSKセミナー「民放キー5局はどう進むか?~編成マンに聞くテレビの新しい姿~」申込ページ
※少々お高いが、私のお友達には優待価格でご提供も検討できるので、ぜひにという方はご連絡を。

※筆者が発行する「テレビとネットの横断業界誌Media Border」では、放送と通信の融合の最新の話題をお届けしています。月額660円(税別)。最初の2カ月はお試しとして課金されないので、興味あればご登録を。同テーマの勉強会への参加もしていただけます。→「テレビとネットの横断業界誌 Media Border」はこちら。購読は「読者登録する」ボタンを押す。

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「不謹慎狩り」を引き起こしているのは、悪意ない小さなつぶやきかもしれない

「意識高すぎ系」な人びとが支援以外の言動を取り締まっている
井上晴美がブログ更新をやめたり、長澤まさみや菜々緒の写真が叩かれたり、「不謹慎狩り」と呼ばれる現象が話題になっている。これについては、この記事がうまくまとまっている。
→熊本地震後に芸能人の“不謹慎”狩り…長澤まさみは「笑顔」だけで炎上

いま熊本のためになることをしようというのは大変必要で尊い行為だと思う。私も福岡出身なので、日々気になっている。だが現地に行くことは難しく、下手に行っても迷惑になるだけだ。せめてネットを通じてできることをしようと頑張っている人は素晴らしい。

だがその気持ちが行き過ぎて「意識高すぎ系」とでも呼びたくなるような人もいる。実際私もソーシャルメディア上で「いまリア充投稿をするなんて!」と息巻いている人を見かけて引いてしまった。こういう時だからこそいつも通りの日常を過ごすことも大事だと思うのだが。

「意識高すぎ系」な人びとは、他人の言動を取り締まるかのような発言をしているようだ。熊本支援につながらない言動をとがめ立て、中には「不謹慎狩り」に走る人も出てくるのだろう。ただそういう人はわりとふだんから「ちょっと極端なことを言うなあ」という少々特殊な人種だ。そんなに多くはないと思う。

ふとしたつぶやきがバッシングになってしまうのが怖い
だがそうした”本気の”不謹慎狩りとは別に、我々が気をつけなければいけないのは、Twitterなどでの大した意図もないつぶやきが大量に集まると、受け取る側からするとバッシングになってしまうことだ。そちらのほうが、実はおそろしい。悪意のない小さなひと言が積み重なると、大きな悪意が存在することになってしまうのだ。

今回話題になった芸能人へのコメントも、ほとんどがそうなのだと思う。目立つ存在だから、ついつい何か言ってしまうのではないか。それは、おそらく”本気で”言っていることではないのだ。

Twitterの発言は、”つぶやき”と呼ばれたりするので、思ったこと感じたことをそのまま書き込んでしまいがちだ。何を言ってもいいのだと思ってしまう。フォロワー数が少なくて友だちと言葉を交わしあうために使う人はとくに不用意に書き込んでしまう。だがTwitterはLINEとちがって他者が発言を拡散することができる。仲間うちで言ってるだけのつもりが日本中に届いてしまうことは起こりうるのだ。

女優が笑顔を投稿している。少し前に悲惨な震災の映像を見たばかりなのに。思わずネガティブなことを書き込んだ。書いた本人からすると、そんな程度の行為なのではないか。叩く気持ちが一瞬はあったかもしれないが、次の瞬間にはもう忘れている。だがそんな軽い書き込みが、著名な人間のアカウントには大量に押し寄せてしまうかもしれない。それがバッシングの実体なのだと思う。

この推測が正しいとしたら、不謹慎狩りは実は起こっていないのだ。悪意というほどのものではなかったはずが、まるで大きく恐ろしい悪意が膨れ上っているように見えてしまう。ソーシャルメディアの危険な側面だ。

反射的に謝ってしまうと不必要な自粛ムードに繋がる
だからこういう時こそソーシャルメディアを使う際には、想像力を働かせるべきだと思う。一瞬感じたことをそのまま書き込む前に、それがもしかして人を不用意に傷つけてしまわないか。自分の見知らぬ人たちにまで拡散してしまった時、どんな影響を与えてしまうか。読んだ人がどんな気持ちになってしまうか。想像してほしい。想像して、やめたほうがいいかな、と思ったら、ツイートボタンを押さずに消してしまうといいと思う。思ったことをどんどん言うのは素晴らしいことだが、思ったことでも口に出して言わない勇気というのもある。

それから、”叩かれた”側も嫌な気持ちになったり炎上を心配したり気をもんでしまうと思う。発言をひかえるのも選択肢だろうし、スルーするのもありだ。上に書いたようなことが真相ならば、ただ波が過ぎるのを待つのも賢明だ。

ただ、やめたほうがいいのは、反射的に謝ってしまうことだ。不愉快なことを言ってごめんなさい。先ほどの写真と投稿は削除します。もちろん悪いと思ったなら謝るべきだが、非がないなら謝らないほうがいい。謝ってしまうと、”自粛ムード”に拍車をかけてしまうからだ。笑顔の写真が叩かれて有名女優が謝った。そうすると、笑ってはいけないことになってしまう。認めてしまう。

先の推論が正しいとすると、誰も本気で叩いてないのに、笑ってはいけないことになってしまうのだ。これは考えると恐ろしいことではないだろうか。

ソーシャルメディアでの人びとの声が世の中を動かすこともある。そのこと自体は素晴らしいことだ。だが時としてソーシャルメディアは誰も意図しない状況をもたらしてしまう。そんな危険もある。そのことを認識して、不用意な書き込みは避け、必要のない謝罪はしない。そうみんなが考えられればいいと思う。

そしてぜひ、熊本で踏ん張っている井上晴美さんにはもう一度ブログを再開して、現地でいま起こっていることを伝えたり、元気な様子を発信してもらえればと思う。ソーシャルメディアを通じて、みんなきっと応援してくれるはずだ。そういう声のほうがずっと大きいとなんとか伝わればいいのだが。

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子どもは社会みんなで育てるもの。このコンセンサスが、決定的に欠けている

保育園反対運動は、説明のプロセスの問題が大きい
市川市で保育園開設が中止になったと報じられた。私はしまったと思った。実はこの地域に住み待機児童を抱えるママさんから、反対運動について相談を受けていたのだ。現地にも行ったのに何もできないまま、中止になってしまった。何ができたとも言えないが、何かできなかったものかといま、強く後悔している。せめて今後のために、私が知ったことを少しでもここに書いておきたい。

私は 「赤ちゃんにきびしい国で、赤ちゃんが増えるはずがない」と題したブログをたまたま書いて以来、保育と社会の問題を取材するようになった。子育て中の親たちからのメールや相談が大量に届いたからだ。その流れで、保育園反対運動についても取材してきた。ほんの4〜5件だが、首都圏の保育園反対運動の背景や傾向も少し見えてきた。

市川市の件がまさにそうだったようだが、何の相談も前触れもなくいきなり保育園建設を知らされ、感情的になってしまう事例は多い。その気持ちはわからなくもない。隣の土地にいきなり看板が立って「保育園予定地」とあったら怒る人もいるだろう。どうして事前にひとことないのかと。その怒りをうまく解消してもらえないと、態度はどんどん硬化しますます感情的になってしまう。

私立の場合、難しいのは行政が主体性を取りにくい点だ。事業者を募集して事業者が土地を見つけて、という流れだと、住民への説明も事業者主体で、というのが行政の”公式”だ。だが住民からすると「行政の許可を得たと言うなら行政が説明せよ」と自治体に求めるのも当然だろう。結局説明には行政も参加することになるが時すでに遅しだ。この出だしの行き違いがあると事態が複雑化し、反対住民の気持ちがどんどんこじれる。

三大理由「子どもの声・交通が危険・母親が溜まる」は誤解
※以下は、これまで私が取材したいくつかの反対運動の話だ。市川市の件ではないので、その点はよく留意してほしい
こじれるほどに、様々な反対理由が出てくる。様々とは言え、3つはほぼどこでも出てくることだ。子どもの声がうるさいのは困る、予定地の周囲は交通量が多く道が狭く子どもたちに大変危険だ、母親たちが送り迎え時に近くに溜まって迷惑に決まっている。そしてこの3つはほぼ誤解だ。

子どもの声がうるさい。確かに保育園の音についてトラブルがいくつか起こっている。だがそれ以外ではトラブルに至っていない、ということでもある。実際、私はいくつかの保育園を取材したが、意外なほど外に大きな音や声は聞こえてこない。多くの時間、子どもたちは室内で過ごし、いまは防音窓の性能もかなり高いので、窓を閉めていればほぼシャットアウトできる。隣家の側も窓を閉めてテレビでもつけていれば、うるさいとはほとんど感じないはずだ。「保育園ができてみると、そんなにうるさくないもんだねえ」反対していた人がこう言った例もある。もちろん100%ではないし、うるさいかどうかは主観だからまったく問題ないとは言えないが、計画の段階で意見を言えばかなり解決できるだろう。

交通の問題も、ほんとうにどこでも聞く。正直に言うと、どの予定地の周囲の道も、そんなに大騒ぎするほど危険だろうか、という道だ。交通量が多い時間には対策は必要だと思うが、話し合う余地がないこともないだろう。行政と相談して交通の制限を議論したり、交通整理員を朝の時間につけるなどのやり方もある。

母親たちが送り迎え時に溜まるから迷惑だ、との反対理由もよくある。これは完全に誤解だ。保育園は”忙しい”親たちが預けるので、送り迎え時に溜まってる場合ではないのだ。私が見た保育園ではどこも、送り迎えはまるで緊急事態のように親たちがすぐ来て、すぐいなくなった。

反対する人はどうも保育園に強烈なイメージを持っていて、それをなかなか動かそうとしない。いくつか保育園を視察でもすればずいぶん変わってくるのに、残念だ。最初でこじれるともう、反対する理由を次々にあげつらって頑として折れない、という姿勢になる例が多い。

賛成の声も多いのに、反対の声にかき消される
そして多くの現場で、反対側の意見のみが出てきて、賛成の声が届かない現実を見た。私は、ここがいちばん問題だと思う。保育園建設の問題は、予定地の近辺だけの話ではないのだ。その周辺で子どもたちを通わせたい夫婦、そしてそれを支援したい他の住民たちがいる。その声を届ける場はあまりなく、反対側が一方的に意見を言う場だけが設けられがちだ。行政の担当者も事業者も、反対側の攻撃にサンドバッグのように耐えないと開設に至れないのだ。

”年寄りが反対する”と決めつける人もいるが、私は「なんとか開設にこぎ着けるよう支援したい」と言うお年寄りをたくさん見てきた。反対する側に比較的高齢者が多いのも確かだが、お年寄りイコール反対する人、ではまったくない。

むしろ子育てを支援したい、だから例えば交通の問題があるなら、毎朝交通整理を買って出てもいい、と言うお年寄りもいる。先に挙げた”三大反対理由”をはじめ、反対側の懸念点を、賛成側の人びとが解決する案を出すことも可能なのだ。

だが反対側は感情的になっている。うかつに賛成を言うと、攻撃の対象になりかねない。いや実際に怯えてしまう。私は、反対するお年寄りの攻撃的な口調の中、自分たちには保育園が必要なのですわかってくださいと、涙声で訴える若い母親、という場面を見たことがある。そうとう勇気が必要だったのだろう。

私が見てきた反対運動の現場は、そんな風に感情的になって行政や事業者が何を言っても猛反対で聞く耳を持たず、賛成側はひと言も発せない、というものが多かった。これがよくないと思う。説明会は行政が開くことが多いので、”審判”する立場が誰もいない場で反対側の罵声ばかりが響く殺伐とした状況になってしまう。説明会の開催手法を考えたほうがいいと思う。

少なくとも反対する人たちは、自分たちの意見を通すことと同じくらい、保育園を望む人びとの意見も尊重するべきなはずだ。必要があるから保育園を行政はつくろうとしている。そこに目を向けず耳を貸さないのは、公共心に欠けていると言われても仕方ないのではないか。

私が強烈に記憶している反対側の意見がある。70代とおぼしきお年寄りの男性がこう言った。「我々の家の資産価値が下がることについて、行政はどうするのか見解を求める」いったいどういう了見でそんなことを堂々と言えるのか私にはまったくわからないが、説明会の場はこんな驚くべき意見を平気で言えるほど、感覚が麻痺していることが多い。まっとうな感覚の議論の場ではないのを、乗り越えねばならない行政や事業者はほんとうに大変だと思う。

解決のために、大きく強いメッセージを政治が発するべき
ではどうすれば解決するのか。正直、私にはわからない。反対運動を取材するほど、反対側の強烈さに打ちのめされ途方に暮れる。

思うに、個別の現場をどうこうするより、もっと大きな動きが必要なのではないか。

育児と社会について考えるようになって、海外での子育てを経験した人たちの意見をかなり聞いた。彼らが一様に言うのは、他の国ではこんなこと議論にならない、ということだ。例えば電車にベビーカーで乗るべきかどうかなんて議論にさえならない。そうではなくベビーカーを見たら誰も彼も手を貸すのだそうだ。欧米だけでなくアジアでもどこでもそうだと言う。

つまり子どもを育てることは社会の最優先事項であり、みんなで助け合うべきものだと、日本人以外の人類は知っている。大袈裟に言うとそういうことだ。核家族化が進んだ時、私たちは子育てについて誤った認識に向かってしまった。子育ては母親の責任だから、各家庭で自己責任で行うものだ、ひとりでがんばれ。子育てが大変だと言う母親は努力が足りないし甘えている。保育園に預けるなら誰にも迷惑をかけないで預けられる環境でなければダメなのだ。そんな感覚が、一部の人たちには常識になっている。

反対運動があちこちで成立してしまうのも、そういうことだろう。保育園は必要だが、おれには迷惑をかけるな。そう言っているも同然だ。誰にも迷惑がかからないし100%安全な保育園なんてそもそもつくれるはずがないのに。そんないびつな理が通る国で子どもが増えるはずがない。子どもが増えないと社会は衰退するのに、そんなことより、自分に迷惑がかかるかどうかが大事なのだ。この保育園は、前の道路に危険がある。ではどうすれば安全になるだろう。そう考えることのできる器の大きな人は、反対する側にいないのですね。そういわれても仕方ないと思う。

「それではいけません。みんなで考え方を変えましょう。保育園新設に反対する方たち、いま一度何が一番大切かを考えてもらえませんか。」そんなメッセージを、えらい人が発する必要があると思う。こういう時のために、利害を調整するために政治家がいて、利害を超えたメッセージを発すべきではないだろうか。発すべきはもちろん、この国でいちばんえらい人たちだ。国会議員であり、国会議員が選んだ首相だ。首相がはっきり、メッセージするのがいちばん効くと私は思う。それくらいの重みのある事態ではないだろうか。

ところが、それどころか、私が見てきた町の反対運動の中心には、社会的立場の高い人がいるのを私は知っている。そんなえらい人たちが、利害を超えたメッセージを発するどころか、反対側の人たちの代表となって叫んでいるのだ。悲しいし、情けない。

願わくは、そんな彼らが大きな視点を持ってくれればと思う。世の中全体のために主張を変えるのも、大人の勇気と思うのだがどうだろうか。

※このブログを書籍にまとめた『赤ちゃんにきびしい国で、赤ちゃんが増えるはずがない』(三輪舎・刊)発売中です。

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このままでは日本のコンテンツ産業もガラパゴス化してしまう

日本の映像コンテンツは輸出に対応できていない
あるプロジェクトのメンバーに加わり、この半年ほど、日本のコンテンツ産業の今後について考えるためヒアリング作業を行ってきた。とくに海外への進出の可能性を探るのが大きなテーマだった。日本の映像コンテンツの最前線の方々に話を聞いて回って感じたのは、もう手遅れかもしれないという憔悴感だった。

まず、中国だ。かの国の映画産業が急激に、怒濤の勢いというべき成長をしている。世界の映画市場についてざっと説明すると、かなり長い期間、日本は世界第2位の市場だった。1位はもちろんアメリカで、2015年ではカナダも合わせて110億ドル程度、1兆3千億円程度の規模だ。日本は変動はあるものの不思議と2000億円前後で推移してきた。他の国、イギリスやフランスなどはもっとぐっと規模が小さい。

ところが近年、中国の映画市場がぐいぐい伸びて、2012年にはついに日本を抜き世界2位の座を奪った。その後も毎年ものすごい勢いでさらに伸び、2014年には5000億円台半ばだったのが、2015年には8000億円を超えたという。50%の成長率だ。そんな成長ってあるだろうか。しかも広い国土に映画館がない都市がまだまだあるという。2017年にはアメリカをも抜いて世界第1位の座に就くと予測されている。13億人もいるのだからその予測は間違いないのだろう。

映像産業では、市場規模がものを言う。ハリウッドが世界で君臨してきたのも、3億人の映画大好き国民を抱えて国内の規模が最大だったことが大きな要因だった。自国市場が大きいと、まず国内向けに大きな予算をかけて映画を製作できる。そして映画にとって予算はスペクタクルな映像を左右する。自国市場が大きいことはその時点で非常に有利なのだ。その利点を、今度は中国が手にしてしまう。

だったら日本の映画産業も中国市場に進出するといいのだが、あの国は難しい。外国勢が中国で映画を上映するには、”そういう関係”を結ばねばならないのだが、日本は外交関係からしてギクシャクしており、映画界も関係構築ができていない。韓国は共同合作協定を締結していて、一緒に制作をすることで市場に入り込んでいる。出演者は中国人だが製作スタッフは韓国勢、という作品が増えているそうだ。対して日本は、巨大な成長市場ですっかり出遅れているのだ。

さらに中国ではいま、映像配信市場もすごい勢いで伸びている。中国に限らず、世界的に配信はホットだ。過去作品で著作権も処理できていれば、ひところよりいい値段で買ってもらえるという。
だが日本は著作権の解釈が非常に保守的で、配信を販売するための著作権処理には多大な労力が必要だ。放送権の販売はできても配信権は売れないテレビ番組がたくさんある。

ところが、いまや海外の見本市などに出展しても、配信権がないと話にならないという。番組を気に入ってもらえて商談が成立しそうになっても、配信権は別だというと、じゃあいらないとあっさり断られてしまうそうだ。いまや放送権と配信権をセットで売り買いするのが世界市場の常識になっているのに、分けて売っているのは日本くらいだそうだ。売れるものも売れない。そんな状況になりつつあるのだ。

頼みの国内市場も、今後縮小する一方
日本が世界2位の市場だったのはなぜか。もちろんコンテンツ産業のレベルが高かったからだが、その背景には人口の多さがある。日本の人口は世界で10番目に多い。大したことないようだが、これまでの”先進国”の中ではアメリカに次いで二番目だった。世界2位の市場は、先進国での人口が2位だったからだ。

人口が多いことはコンテンツ産業にとって、要といっていいくらい重要だ。映画やドラマを楽しむには、その国の言語が理解でき、文化がわかっていないといけない。役者だって全然知らない人たちばかりだといまひとつ楽しみにくいだろう。阿部寛が『半沢直樹』の原作者・池井戸潤の小説『下町ロケット』のドラマ化作品に出る。だったら見ようか見まいかと判断する。ハリウッド製作の西部劇を見る時、19世紀の開拓時代にはみんな拳銃持って自衛していたと知らないとさっぱりわからないだろう。

言語と文化を共有している”国民”が一億人いた。そこにコンテンツ市場ができ、メディア産業が活発になり、映画やドラマがビジネスになった。マンガも市場ができてアニメも盛んになった。人口が多いと文化は豊かになる。
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このグラフは、これまでの日本の人口増加と、今後の人口減少の推計値を表している。人口が登り坂を駆け上がるのと並行して、産業全体が栄えてコンテンツ市場も拡大していった。手塚治虫や黒澤明や宮崎駿がそれぞれの分野に登場し、彼らに憧れる若者たちが次世代の作り手となり市場拡大を支えてきた。

人口が増えてきたから、それが起こった。

これから、人口が減る中で、何が起こるだろうか。ほっておくと、市場が急激に縮小し、これまでと逆の下り坂に入ってしまう。作っても作ってもコンテンツは前ほど売れず、もともと貧しかったクリエイターの環境は貧しさから抜け出せなくなる。多くが諦めていくだろう。海をひとつ越えた国では、コンテンツ市場が大にぎわいになっているのに。

私は保育園の問題も別の記事で訴えてきたが、ひとつには、専門であるメディアやコンテンツの世界にも影響するからだ。保育園が増えないと、コンテンツ産業が衰えるのだ。

配信権を見直さないとコンテンツ産業は衰える
日本の少子化を食い止めるべきだという論はある一方で、日本のコンテンツ産業は豊かな国内市場をあてにできない状況を認識すべきだろう。もはや待ったなしで、世界に活路を求めないわけにはいかないと思う。

となると、輸出できる環境づくりが必要だが、同時に”権利”についてこの機に国全体で考え直すべきではないか。これまで、映像のネット配信になると権利保持者が急に態度が硬化し、権利処理や配分とは別に「ネットには出したくない」と感覚的につっぱねる例も多く見られた。それができていたのは、国内市場が豊かだったからだ。これから、厳しくなる。国内市場だけでは作り手が食えなくなる。急速に変化する。そのことをぜひ認識してほしい。変えるなら、いましかない。来年、再来年になったら、日本抜きでの国際市場ができ上がって入るスキがなくなるかもしれないのだ。いまだってすでに、日本のコンテンツが受けるのは台湾と香港くらいで、東南アジアでは若者たちが韓国俳優に憧れ、韓国のファッションや、韓国のメイクを真似したがる。日本はアジアの憧れだというのは、もはや幻想だ。

海外に行けないだけならまだしも、今後は日本国内でのコンテンツも中国などアジア製が増えるかもしれない。そんなバカなと思うだろうが、テレビの黎明期には日本のゴールデンタイムのドラマはアメリカ製だらけだった。当時の日本では製作のノウハウも薄かったし、自分たちで作る余裕も少なかった。買ってきて流したほうが早かった。同じことがこれから起こってもまったくおかしくない。今後十年間で人口が5%減り、さらに次の十年間ごとに1000万人ずつ減る。衰えていく国では、物語を映像化する余裕は薄れていくだろう。

だからいま、大きな決断が必要だ。著作権に対する考え方を大転換し、コンテンツ輸出を最優先にする。そういう決意を、政治レベルでも、権利保持者レベルでも、なすべき時だと思う。

日本のコンテンツ産業のレベルはいま、かなり高いと思う。中国などアジアが追いつこうとしても、数年では追いつけない。だが十年経つとわからない。だから、いまだ。コンテンツ力があるうちに、変わらねばならない。

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「#保育園落ちたの私だ」空気に対する革命の、空気とは何だ?

3月からYahoo!個人でも書かせてもらうことになり、「保育園落ちた日本死ね」を発端にした一連の動きについて、3つの記事を立て続けに書いた。

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→「保育園落ちた日本死ね」ネットとテレビで響きあい国会に届いた”絶望”
→「日本死ね→書いたの誰だ?→ #保育園落ちたの私だ → 国会前スタンディング」絶望の不思議な連鎖
→「 #保育園落ちたの私だ」無名の母親たちが起こした、空気に対する革命

いちおう”メディアの専門家”として書くことになっているので、そういう分析をしてもいる。3つの記事のうち、最初の2つはいわゆる「ヤフトピ入り」を果たし、どえらいPV数となった。いきなり2つもヤフトピに入るのもラッキーだが、Yahoo!の人によると、ヤフトピ入りしたにしてもPV数は多かったそうだ。それだけいま興味を引く話題だったということだろう。

Yahoo!に書いて気づいたのだが、やはり「ニュースサイト」なのでニュース記事として書く気持ちになるし、あまり長くも書けない。ライターの本能が”この場ではあまり長い文章はふさわしくないぞ”と警告してきて、文章量を抑えようとする。

とくに、最後の記事の「空気に対する革命」はもっと書きたかったのだが前半ですでに文字数がふくらんだので抑制してしまった。そこで、思い切り書ける自分のブログでたっぷり書こうと思う。やっぱり好きに書ける自分の居場所は書きやすい!

「保育園落ちた日本死ね」に対して、あるいは国会前スタンディングや署名を渡す相手が国会議員であることについて、「保育園が足りないのは自治体の問題なのに日本に文句を言ったり国会に物申したりするのはおかしい」と言う人は多い。だが現場を取材した身としては、その指摘はピント外れと言わざるをえない。

両方の活動とも、保育園が足りないことへの抗議であると同時に、国会で匿名ブログに対して「匿名では議論できない」と首相が答えたり、「誰が書いたんだ」と野次が飛んだ、そのことに対してのアピールなのだ。匿名というが、保育園落ちた人間はここに存在するぞ!と言いたい活動。国会での野次へのアピールだから、国会前での行動であり、国会議員への署名だったのだ。

「誰だ?」と問うなら「私だ」と答えてやる!この直線的な行動に対し、「国ではなく自治体だ」という論理は、あまりにもズレている。保育園の新設には国の補助金が出るし、だからこそ安倍政権は「国として受け皿を何十万人分増やした」と実績を主張する。つまり論理的にも「国じゃなく自治体」という指摘はもろくも崩れ去るのだが、そういうことでなく、そもそも論理を振りかざすこと自体が的外れだと気づいてほしい。いま沸き起こっているのは、「日本死ね」からしてそうなのだが、はっきり言って感情論だ。もっとシンプルに言うといま、働く母親たちが怒りを爆発させているのだ。不満を言い募る女性に対し、解決を示そうとする男性は”わかってない”とよく言われるが、「国じゃなく自治体でしょ」には、そういうデリカシーのなさを感じてしまう。

もっともぼくがそんなことをいま言えるのも、この二年間様々な保育活動を取材したからで、それまでは何もわかってなかった。だからぼくもあまり言えたギリではないし、取材してなかったらデリカシーのないことを言っていたかもしれない。

とくに”保活”つまり保育園に子どもを入れるための活動についてほんの数名の女性に聞いただけだが、本当に驚いた。「空気に対する革命」の「空気」の第一は、保育園を見つけることのあまりの困難さ、保活の不条理さだ。

言われているように、いろんな条件がポイント化されており、うまく条件を整えないと認可保育園には入れない。その不条理の最たる側面は、基本的に現時点で母親が働いていないと認可保育園には入れないのだ。保育園を見つけたいのは働きたいからで、その時点では働いているはずがない。でも、いま働いていないとポイントがつかず、預けられないのだ。矛盾していて頭がおかしくなりそうだ。

保育園がそれくらい足りない、圧倒的に足りてない、ということだ。そこで、働くために認証や無認可の保育園にまず預けて働きはじめて、それから認可保育園に申請することになる。そうすると、本当は会社がくれる育休を二年間フルで使ってから復職したいところを、その前に早々と復職して働いた実績を作ってから預ける。その結果、認可に入れるための認証や無認可も早々と埋まってしまう。どんどん保育園が足りなくなるおかしなスパイラル

そんな笑えない保活の不条理が、「空気に対する革命」の「空気」だ。

だがそれに輪をかけて本当に悲しい空気がこの国には漂っている。

以下は、「赤ちゃんにやさしい国へ」というFacebookページ宛てに自分の現状を書きつづったママさんからのメッセージからの引用だ。

境さんのおっしゃる通り、この国はとても子育てがしにくいです。
4月から復帰の私ですが、かろうじて子どもを保育園に預けることはできそうですが、職場の長からは『申し訳ないけど時短勤務はさせられない』と言われてしまいました。
私たち夫婦の実家は遠距離で、共にまだ現役で働いているため、協力も仰げません。
夫と2人で協力して育児をしていくしかないのですが、夫も職場で『保育園のお迎え等で残業できない日もあるかもしれない』と長に話すと、『キャリアアップのことはどう考えているの?奥さんはもう少し融通のきく仕事に就けなかったの?パートとか…』と、パタハラともとれる苦言をいただいて帰ってきました…。

確かに、子育てをしながら働くのは、子どもの発熱などによって突発的に休むことも増え、周りの方に迷惑をかけてしまいます。
そのことについては本当に申し訳なく、また理解いただけたらとても有り難いと思いながら働くのですが…

“職場に迷惑をかける子育て世代=悪”

のような空気が、この国に漂っている気がしてなりません。
子育てをしながら働くって、とても息がつまるなぁ…と感じずにはいられません。
子育て世代が、歓迎されてないんですよね。
こういう空気が、私たちの子どもの時代には少しでも薄まっているよう願わずにはいられません。

ママだけでなく、育児に協力的なパパの周りにも、しんどい空気が漂っているということをどうしてもお伝えしたく、不躾にもメッセージを送らせていただきました。

これこそが、空気の中身だ。「子育てをしながら働くのが、息がつまる。」パパも窒息しかねない。そんな国で子どもが増えるはずがない。

保育園に入れるの大変。入れたら入れたで冷たい職場。社会全体から「は?お前ら子ども育てるとか何言ってんの?」と言われてるも同然だ。それが「空気」の中身だ。

ただ引用したメッセージでいちるの救いは、このママさんはパパさんと一緒に立ち向かっていることだ。「それは君の問題だろう」などと母親に押し付けるタイプではない。そしていまの若い世代はもう、こうなのだと思う。そういう意味ではこの問題は、母親だけの問題ではすでにないのだろう。

だがそれでもなお、ぼくが「無名の母親たちの革命」と女性を主語にするのは、やはりこの問題の主体は女性であり、もうこの何十年も「働くつもりか、あんた?」と問われ続けた母親たちの、溜まりに溜まったマグマが一気に噴出していると思うからだ。

旧世代のおっさんらから見たら、「日本死ね」も、国会への行動も、政治的に傾いた特異な女性のやることに思えるかもしれない。だがいま、ごくごく普通の、教養も品もある女性たちが怒りを爆発させている。国会へ行かなかったとしても、区長に手紙を出したりして行政に具体的な意見表明をする女性たちがぼくの周りにも続出している。こういう風に”言う”ことはすごく大事だし、積み重なれば効くと思う。

このうねりはまだまだ続くだろうし、ぼくも追って書いていきたい。

ちなみにぼくのモチベーションにはいろいろな要素があるのだが、何より自分の子どもたちに、この空気を今のまま味わわせたくないからだ。大学生と高校生のぼくの子どもたちに、その時が来たら健やかにのびのびと子育てをしてほしい。空気を変える革命。旗を振るのは女性たちだとしても、この国で暮らすみんなの問題なのだ。

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