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コピーライター→映像製作会社ロボット→広告代理店ビデオプロモーション→再びコピーライター(フリーランス)。 メディアとコンテンツの未来を切り拓くコミュニケーションをデザインします。講演・執筆依頼もお気軽に!

バルス!〜テレビとソーシャルの幸福な瞬間〜

金曜日から土曜日にかけて、テレビとソーシャルの関係をめぐる面白いことがあった。

先に今日の話なんだけど、朝5時からの「新・週刊フジテレビ批評」の”1ウィークトピック”のコーナーで、テレビとアプリの関係についてのレポートがあった。

前回書いたようにぼくも取材を受けたのだけど、ジェネシックスのtuneTVもこってり紹介された。開発に携わった富田さんも取材されて出演していたし、テレBingやみるぞう、などなどここでぼくが紹介したりBAR境塾で話したりしたアプリが次々に登場した。

テレビとソーシャルの関係についてとりあげてくれるなんて、この番組ぐらいしかないかもしれないけど、今後のメディアの進化にとって双方を結ぶソーシャルアプリは重要な要素になるだろう。そしてそれをたくさんの人が実際に体験する出来事が金曜夜にあった。

日本テレビで「天空の城ラピュタ」が放送されたのだ。この25年前のアニメーション映画(ぼくは学生時代に映画館で見た時のことをいまも憶えている!)がテレビ放送されると、ソーシャルメディアが盛り上がる!というので、昼間からTwitterやFacebookで話題になっていた。

ポイントは”バルス”の瞬間。

クライマックスで主人公の少年と少女が声を合わせて唱えるラピュタ崩壊の呪文”バルス”。映画に合わせて一斉にネット上でみんなが唱えることで(つまり書き込むことで)、これまでに2チャンネルやニコニコ動画のサーバーが落ちたりしてきたそうだ。

今回はこれまでの放送時より多くの人が参加することになるだろう。何しろ、Twitterユーザーの数が大きく増えている。そしてまさにソーシャルテレビを楽しむアプリも充実してきたのだから。

正直、これまでの放送でネット上で”バルス”の瞬間が大騒ぎになっていたなんてぼくは知らなかった。そもそも、ぼくはこの映画を公開時に劇場で見ているけれど、クライマックスの呪文なんて憶えてなかった。

金曜日の昼間、FacebookだったかTwitterだったかで「今晩はバルス祭!」のような書込みを見ても、最初は何のことかわからなかった。それがだんだんわかっていくのも、ソーシャルの面白さ不思議さだろうね。

ラピュタの放送開始に合わせて、それこそ「新・週刊フジテレビ批評」で紹介されたようなアプリをそれぞれ起ち上げてみた。

tuneTVはさっそく、わかりやすく4チャンネルつまり日本テレビだけ盛り上がっている。#ntvのつぶやきはもう、ラピュタへの期待で埋め尽くされている。

物語が進むにつれてタイムラインはヒートアップ。でもずーっと盛り上がり続けるわけではなく、シーンによって熱くなったり多少落ち着いたり。

やはり愛着深いキャラクターの登場などで盛り上がる。前半では列車の大アクションシーンで盛り上がり、そのあとポムじいさんの登場でまたTweetが増える感じだった。


そのあたりを視覚的にわかりやすく見せてくれたのが、ニフティ”みるぞう”の特設サイト。ラピュタ放送のために、Tweetの盛り上がりをグラフにして見ることができるページをわざわざ起ち上げてくれていた。

このグラフの棒をクリックすると、その時間につぶやかれたTweetを読むこともできる。


もちろん”みるぞう”本体は通常通り稼働している。tuneTVが棒グラフのように盛り上がりを表現しているのに対し、みるぞうは色で表現する。盛り上がってるチャンネルほど、赤く表示するのだ。

当然ながら、ラピュタ放送中は日本テレビが終始真っ赤っかだった。

ちなみに”みるぞう”はアンドロイドアプリとして提供されているけど、WEB上でもほぼ同じ機能を提供しているので、ブラウザでiPhoneからも見ることができる。

”ニフティ みるぞう”で検索したらこのURLがすぐに出てくるので、皆さんも試してみてはどうかしら?

アプリとは別に、ソーシャルテレビでは”実績”があるニコニコ動画でも、当然今回も実況していた。

「ニコニコ映画実況 ~天空の城ラピュタ~ みんなで一緒にジブリ作品を見よう」と題して、ジブリ芸人いずみ包が進行して実況していた。裏話満載でなかなか楽しめたよ。

ニコ生の実況は、放送している画面は映らない。それなのに不思議な一体感をPCとテレビモニターを同時に見ながら味わうことができる。面白い世の中になったもんだね。

もうひとつ紹介しておきたいのが、このサイト。

誰が作ったのか知らないが、”その瞬間”つまり例の呪文バルスが唱えられるまでの時間をカウンターで表示しているのだ。まあ、よくやるよねー。でも実際、このカウンターには盛り上がったよ!

ちなみにこのサイトもTwitter上で知ったのだけどね。

かくして、ぼくはものすごくあたふたしながら映画を見ていた。TwitterをiPadで見ながらtuneTVをiPhoneで見ながら、PCでみるぞうやニコ生やカウンターを見ていた。そんなことでテレビ画面は見れるのかよ。いやー、正直あまり見てなかったかなー。(苦笑)でも25年前から何回も見ているからね。

そんなことあたふたしているうちに”その瞬間”がやってきた。もうバルス!バルス!いわゆる祭り状態!

・・・でも正直、Twitterの画面上では”バルス”の雪崩のような状態にはあまりならなかったんだよね。たぶん、つぶやきが同時に多すぎて表示できなかったんじゃないか。

ただとにかく、すごかった。ニコ生の来場者数は64万人にも達したし、今朝知ったところでは、瞬間つぶやき数の記録を塗り替えたらしい。へー!

まあ、かなり特別な現象だったのだと思う。同じことを誰かが意図してできるかと言えば難しいだろうね。

とにかく、テレビとソーシャルの幸福な融合の瞬間だったと言えるんじゃないかな。お互いで力を合わせて楽しもうね、と。

とは言え、思うところも多々あるので、それはまた次回に書いてみよう・・・

テレビの進化はアプリが握る〜新・週刊フジテレビ批評から取材を受けたよ〜

フジテレビで土曜日の朝5時から放送している「新・週刊フジテレビ批評」に8月に出演したのは知ってるよね?ま、知らなくてもいいんだけど、あれから4か月近く経ったんだね。もっと遠い昔のような気がするぐらい、今年はいろんなことがあったっけ。

今週はこないだも書いたようにTBSメディア総研の雑誌「調査情報」の原稿締切であたふたしていたのだけど、月曜日に「新・週刊フジテレビ批評」の方から電話をもらって、取材を受けることになった。このところ仕事もドタバタなので、慌ただしいじゃないか。

前にこの番組に出た時は、スタジオに(朝の4時に!)呼ばれて20分間くらいこってりしゃべった。それは番組後半の”クリティックトーク”というコーナーだった。今回は、真ん中あたりの”1ウィークトピック”というやや短いコーナー。あらかじめ撮影されたインタビューで構成されることが多い。8月に出演した時にはお会いできなかった、そのコーナーの担当の方からの連絡だった。

会社に来てもらって30分くらいかな、テレビの今後についてこってり語った。ちょうど「調査情報」用に書いた原稿の内容が頭に入っていたのでそれをもとに聞かれたことに答えていった感じ。

質問のメインは、テレビとアプリ、ひいてはスマートデバイスとの関係だった。このブログも読んでくれていて、中山さんが書いたBAR境塾のリポートも読んでいたみたい。意外にああいう催しをやってUstしたりブログに書いたりすると見てくれる人は見てくれるもんなのね。

何を話したか自分でも覚えてないので、今度の土曜日(12月10日朝5時)の放送を見てもらうといいのだけど。

でも面白いなあと思うのは、いろんなことが同時に起こるんだよね。いやちがうんだな、スマートテレビだアプリだなんだについて考えてこうして発信していると、同じようなことを考えている人たちと自然と出会うことになるんだね。

そう、いま焦点はこないだのBAR境塾の内容と合致する。テレビの進化はどうやらアプリだぞ、と。そしてとても面白いことに、アプリは大企業もベンチャー企業も、わりとみんな取り組めるんだよね。そしてアイデア次第、発想次第。

テレビを見る時、こんなアプリがあるといいんじゃないか。こんなアプリを使いながらテレビを見るといままでにない体験ができるんじゃないか。アプリ側から見ると、テレビはいじりがいのある、楽しい題材なのだろうね。

なんかけっこう、いま大事なことをやっているんじゃないだろうか、ぼくは。ちがうか、大事なことをやっている人たちと、情報発信を通じて出会うことができていて、大事なことやってる人同士をどう組合せたら何かとんでもないことが生み出せるのかもしれない。そんなとてつもない可能性の渦中にぼくはいるのかもしれない。

てなことを考えつつ、とにかく土曜日にまたテレビに出るので、見てね、って話でした。リアルタイムはきついけどね。せめて今度の金曜日はお酒を控えるかな。・・・どうかな?

第2回BAR境塾は自分にとっても勉強になったなあ

2回目のBAR境塾をやるよとブログに書いてから、たくさんの方に申し込みいただいた。30名の定員があっという間に埋まったので、定員を増やしたりした。前回来てくれた方が多かったけど、今回初の方もけっこういて、なんだかいい感じだったなあ。

今回は、ソーシャルテレビアプリtuneTVを開発したジェネシックスの中山さんがメインスピーカー。開発の際に調べたという、海外のテレビアプリについて発表してもらった。

さらに、NHKメディアテクノロジーの中澤さん、フジテレビの橋本さんにコメンテイターとして参加していただいた。お二人とも、それぞれのテレビ局でネット関係のお仕事をしているので、テレビアプリには詳しいのだ。

ということで、「TVアプス最前線」と題して開催したのだけど、これがイメージしていた以上に充実した、まさしく勉強会らしい催しになった。参加者にとってためになった度、かなり高いと思うな。

その模様はUstream配信され、アーカイブ化されている。ここでその第一部、そしてその続きの第二部が視聴できる。今回はカメラにドーリーも敷いてあるのでなんだか本格的だよ。

それから、中山さんが自分のブログで、まとめ記事的なことを書いてくれている。これもわかりやすいよ。テレビアプリに興味ある人にはほんとに貴重な記事になっていまっせ。

今回は、前回来てくれたあと、ソーシャル番組表あぷり「みるぞう」をリリースしたニフティの方や、つい最近やはりソーシャルテレビアプリを出した頓智ドットの方も参加してくれた。

テレビ各局の方も来てくれたし、実に多様な方々が来てくれた。考えたら、そうそうたるメンバーだったね。

そこでちょっと考えているのだけど、TVアプスに関するコンソーシアム的なことができないかなと。必要だなと思いはじめたんだよね。とくに、海外ではTVアプスを開発する際、テレビ局側が積極的にAPIの公開などをしているという話を聞いて。日本でも、そんなことが今後必要になるのではないか。その中で、著作権なども解決していくべきかもしれない。

ちょっと大それたことだけど、みなさんがこんなに集まってくれるなら、できなくもないかな、と。・・・うん、けっこう本気で考えてみるよ・・・

テレビの危機を噛み砕いてみる

前回、雑誌「調査情報」から原稿を依頼されたのでテレビの危機をもう一度考えるよ、と書いた。それに続いて今週はどんどん書いてその原稿に書くべきことを整理しようと思っていたのだけど、仕事が忙しかったり自堕落だったりしてなかなか手がつかない。すぐビール飲んじゃうしね。

で、とにかく今日は少しでも考えを整理するぞと。

テレビの危機とは、「テレビ局の危機」「テレビ番組の危機」「テレビ受像機の危機」の3つがあるよね、「受像機の危機」がいま急浮上だね、というのが前回のあらすじ。

で、いよいよ「テレビ局とテレビ番組の危機」の話に入ろう。

テレビ放送というビジネスは、とくに日本の場合特異な発達を遂げてきた。前提がすごいんだよ。いや、この前提を当たり前のように、空気中に酸素があるのは当然でしょ、ってぐらいに当たり前としてきたのが、いま考えるとすごいと思う。

前提1:テレビ受像機の世帯普及率はほぼ100%である
前提2:人は在宅中、ほとんどの時間、テレビをつけっぱなしにしている
前提3:全国津々浦々でキー局の放送を視聴できる

こういう前提が、高度成長とともに確立された。1970年代には、ざっっっくり言ってこの3つの前提が整った。厳密には前提3は青森県とか宮崎県とかでは最近まで(いまも?)不完全だが。

テレビ放送の恐るべき特徴は、ほとんどの日本人が、ほとんど同じ映像を見ることになる、という点にある。そんなメディアは他にはなかったし、今後もそんな状況は現出しないだろう。1億3千万人が一夜にして同じ情報を共有する。んなアホな、みたいなことが、可能だったのがこの30年間だよ。

だからお金が集まったのだ。広告費が我も我もと集まってきた。だってそんな送り手にとって都合のいいメディア状況はないんだもん。5億円ぐらい払ったら、ほぼ日本中の人が「ああ、そんな商品出たみたいね」と言ってくれるのだ。すぐ忘れるとか、いろいろあるけど、とにかく一週間ぐらいは「なんかそれ知ってるかも」と憶えてくれる。その間にスーパーに陳列してもらえば、ある程度の数、商品が売れるだろう。

なんて便利なんだ!

そして、その特異なメディア状況、ありえない”強さ”がほころびはじめている。しかもそのほころび傾向は止まりそうにないのだ。

まず問題なのが、前提2だ。明らかに崩れつつある。とくに若い人はもう誰が見ても明白なほど、テレビの視聴時間が減っている。ゴールデンタイムにお茶の間に家族全員集合、なんてもう天然記念物みたいなもんだろう。

ひとつにはもちろん、WEBやケータイだ。つけっぱなしメディアの政権交代が起こったのだ。中高生のぼくの子供たちは、食事が終わると自分の部屋に行って、建前上は勉強するのだけど、実態はケータイを見ている。不真面目だとか不健全だとか親子の会話がないぞとか、そんなこと言っても仕方ない。もう、そういうことになっているのだ。

勉強しに部屋に行くなら、勉強しなきゃダメだろう。それはそうだ。でも、ぼくたち親だって、「家に仕事持ち帰ったぞ、パパは大変なんだよ」とか言って自宅でPC開いて、結局WEB眺めてたりする。おんなじなんだよ。

これを加速したのが、ソーシャルだ。TwitterやFacebookは最高の暇つぶしツールだ。何が面白いって、人間がいちばん面白いんだ。ぼくと趣味指向が近いフォロー関係の人たちやFB上のお友だちが面白くってたまらない。

子供たちはまだソーシャルをやってはないが、モバゲーグリーにはまりこんでいる。これもソーシャルって言えばソーシャルだ。

つけっぱなしメディアは、テレビからWEBケータイに交替した。そこで見るコンテンツは番組からソーシャルに交替した。主役の交替だ。

「でもあれなんでしょ?ながら視聴をするんでしょ?だから主役の交替じゃないんじゃないの?主役はやっぱりテレビで、WEBやケータイをながら見するんでしょ?」

ノン、ノン、ノン!ちがうちがう。テレビを観ながらWEBケータイ、じゃなくて、WEBケータイ見ながらテレビ、なんだってば。少なくとも子供たちはそうだ。

こうして前提2が崩れつつある。それは現在進行形で進んでいる。どうもホントに加速しているようだ。スマートフォンとソーシャルメディアの急激な普及が加速のエンジンだ。ネットなんて昔からあるんだから、という見方は少し的外れだ。ネットだけが脅威なんじゃない。ネットが常にパーソナルに持ち運べるようになり、さらにソーシャルメディアの登場が決定的だったのだ。

えーっと・・・なーんにも結論は出てないけど、今日はここまで!明日は・・・書けるかなあ・・・???

テレビの危機をもう一度考えてみる

「調査情報」という雑誌から原稿依頼をいただいた。この雑誌、知ってる?えー?知らないの?失礼きわまりないことに、ぼくも知らなかった。

TBSメディア総合研究所が出版している雑誌で、当然ながらテレビを中心としたメディアに関する批評を展開している。ぼくはまったく不勉強なことにTBSに総研があったことも、そこがこんな雑誌を出していることも、知らなかった。メディアコンテンツに関するブログをここで書き、テレビの将来についての本を出しているくせに、いかんいかん。これから、購読することにしよう。

さてその「調査情報」からいただいた依頼は、来年の1月に出る号で、テレビの過去と未来についてをテーマにするので、その中の未来に当たる部分を書いてくれないかというもの。過去にあたる部分の執筆者を見ると、マスメディア界の大御所の方々の名前がずらりと並んでいた。これはちょっとキンチョーしちゃう。ちゃんと書かないと恥ずかしいぞ。

『テレビは生き残れるのか』に書いたことをうまく要約して書いてくれていいとのことだったのだけど、あの本を書いた時点から事態は刻々と進んでいる。もちろん本の内容をベースにしながらもまた新たな気持ちで書いてみようと思う。そこで、今週のブログは、その原稿の前哨戦的な内容にするから、そこんとこよろしく。

さてテレビの将来とか、テレビの危機とか言う時、”テレビ”には多層な意味があることに留意しないといけない。
テレビの危機とは・・・
1)テレビ放送を事業とするテレビ局の危機
2)テレビで視聴する番組の危機
3)テレビ受像機の製造や販売の危機

このうち、1と2はセットで成立するものなので並列的に語りやすいが、3は1や2と少し離れた話だ。

ぼくは3についてはあまり考える対象としてこなかった。家電製品としてのテレビをどうのこうのいう知識はないし、そもそもそこは変化ないんじゃないんすか?などとのんびりした気持ちでいた。

無意識に「テレビは家電の王様」という認識が強くぼくを支配していたのだろう。ぼくが考えるべきはテレビ放送やテレビ番組の危機であって、テレビ受像機は安泰だと思い込んでいた。

それが今年のCEATECに行った時、おや?と感じた。これについては、このブログでもCEATECの感想を書いた時に少し触れている。テレビの展示が少なくなったのでは?と。

そしたら今度は、週刊ダイヤモンドが11月12日号で「家電淘汰!パナソニック、ソニー・テレビ事業の終焉」という特集を組んだ。そこでようやくぼくは強く認識した。テレビという家電製品が厳しいことになっていると。その深刻さは、放送や番組の方よりよほど深いのではないだろうか。少なくとも、産業としての規模は比べ物にならないほど大きい。

2000年代に”薄型・大画面”の潮流がテレビ受像機に起こり、各社が力を入れてそこに投資してきた。ところが、価格がどんどん崩れていった。ぼくが5年前に20万円くらいで買った液晶テレビは、同じサイズだと5万円くらいで買えてしまう。

さらに、今年の地デジ化までは買い替え需要が絶好調だったのが、7月以降ぴたりとテレビが売れなくなった。当たり前だよな、考えてみたら。

象徴的なのがこの記事で、有楽町のビッグカメラで「10月まで1階にあった薄型テレビやBDレコーダーのコーナーが2階に移動」したことを伝えている。何しろ、日本の5000万世帯にあったテレビがこの2年間ぐらいの間にイッキに買い替えられたのだ。その大反動が来るのは当然だろう。

テレビが売れなくなると、家電という日本の屋台骨にあたる産業が事業全体を見直さねばならなくなるだろうし、家電量販店も再編が起こるかもしれない。

ではテレビ放送や番組の今後にはどう関わるだろう。

スマートテレビ化が遅れてしまうかもしれない、ということだと思う。あるいは、スマートテレビ化とはテレビ受像機の進化とちがう現象になる、ということかも。

地デジ化以降、家電量販店では急にネット接続の訴求を始めた。遅いよ。もっと前からやってよ。まあつまり、日本ではいまようやくネットテレビが普通に販売されようとしているということ。ネットテレビ、ようするにVODサービスを楽しめるテレビだ。それはスマートテレビとは言いがたい。スマートテレビ第一ステップ、ぐらいだろう。

スマートテレビ(=アプリで楽しむテレビ)は、さらに次の段階で、日本ではまだまだだね、ということになってしまう。

むしろ、スマートテレビはテレビそのものではなく、スマートフォンやタブレット、そしてレコーダーやゲーム機などによってもたらされるのだと思う。山崎秀夫さんのいう、”2画面方式”だ。

そもそも、スマートテレビとはどういうものなのか、共通の定義は存在していない。ある人がアメリカで聞いてきた話では、向こうの連中も結局、「スマートテレビはまだまだこれからなんだよ」と言っているそうだ。

そうやって考えていくと・・・あれ?テレビの未来なんてわかんないじゃん・・・うーん、これは困った、ぼくは「調査情報」の原稿をどう書けばいいのだろう?・・・テレビの未来は、よくわかりません・・・なんてんじゃ、そうそうたる執筆陣の先輩方から叱られるかもしれない。やばい・・・夏休みの宿題をやってない中学生の気分になってきたぞ・・・

「マネーボール」と組織の変え方

『マネーボール』という映画がいま公開されている。みなさん、だいたい内容知ってると思うんだけど、簡単に書いておくと・・・

ブラッド・ピットが演じるのは、アメリカの貧乏球団アスレチックスのGM(ジェネラルマネージャー)ビリー・ビーン。運営費が少ないので優秀な選手が揃わず金持ち球団にどうしても勝てない。悩んでいる時に出会ったイェール大学卒の分析屋ピーターを雇い、彼の理論をもとにしたチーム編成をしていく。それはこれまでの常識を逸脱したもので、打率やホームラン数ではなく出塁率で選手を選んだりする。その理論に添うとスカウトや監督の経験や勘を否定することになり反発を食らう。だがビリーとピーターは信念を貫き通し、やがてチームは連勝記録を打ち立てる・・・

へえと思うのは、こういう数値的な物事の見方を、映画はどちらかというと否定してきた。ピーターのような分析屋とそれをもとに意見を言う上層部は悪役になるものと相場が決まっていた。映画はもっと、ヒューマンな価値観を訴えてきた。なのに、この映画は逆なのだ。そこが2011年の映画だなあと思ったよ。

この映画を見るとブラピがGMという役職を演じているもんで、どうしてもこないだ書いた巨人の清武さんの反乱の一件と対比してしまう。そして、あちらとこちらのちがいの大きさになんだかなあ、とうなだれてしまう。

ブラピ演じるビリーGMは、オーナーと何度か話しあう。その関係はドライではっきりしている。オーナーはビリーの姿勢に精神的に何か言ったりしない。ただたんに、予算を与えてそれ以上は出そうとしない。そしてその予算の範囲内ならとやかく口は出さない。清武さんが見たらうらやましくて仕方なくなるだろう。ナベツネはメジャーリーグではルール違反のオーナーになってしまうだろう。

だがこの映画、そういう風にあっちとこっちの野球界の比較だけにとどめるのはもったいない。もっとマクロ的に見た方が面白いだろう。組織を変えようとした際の、”そもそもの仕組みのちがい”を考える題材にした方がいい。

すごく驚いたのが、スカウトとの対立。さっきも書いたように、当然対立する。十人ぐらいのしかもベテランスカウトたちの経験を全否定するのだ。打率とかホームラン数とか、それだけでなく”顔がいいかどうか”とか”恋人がどんな女性か”などもスカウト達は調べ上げて、とるべき選手かどうかの題材にする。定量調査と定性調査といったところか。彼らの数十年の経験の成果だ。それを全否定する。

スカウトの中心的おっさんと大げんかしてしまう。ケンカの果てにクビを宣告する。言われた側もしかと受けとめる。

日本人にはなかなかできないよね。

でも、組織を改革する時には、反対する者にやめてもらうことは必要だったりする。トップはそれをきっぱりできないといけない。

日本だと現実には、そういう保守派が団結する。相手がトップだとしても、従わなかったりするし、説得しようとする。おかしくない?トップに対してNOを言い続けるの。日本の組織では、そういう重鎮的な人がNOを言い続けると、そっちが通っちゃうんだわ。あるいは、一致団結して猛烈なエネルギーでトップを説得するんだわ。そしてトップも、意に背いた重鎮を辞めさせたりしない。できない。

だから、トップの意志があっても、なかなか改革できないんだわ。

映画の中で印象的だったのが、そんな風にスカウト達が猛反発している中でも、一人がぽつりと言う。「でも彼にはそうする権限があるし、おれたちは従わないわけにはいかないもんな」そう、GMにはそんなことを言う権限がある。それは圧倒的に肯定するわけ。そういうシステムなんだ。そんな風にルールとして解釈して組織が、いや社会が動いている。

日本の組織にはルールはない。どんなに規程だの職務権限だのを作っていても、何かあるとそんなもん忘れてみんなとにかく自分の意見を言い出す。そこには、この件は誰に決定権があるかなんていう論理は存在しない。

だから、誰も何も決められないまま簡単に何年も経ってしまう。日本の組織が改革できないのは、そういうことだ。

もうひとつ、面白かったシーン。ビリーがピーターに、ある選手にドラフトを言い渡す。ある種のクビ宣告だ。ピーターはデブのオタクなんだけど、まだ若いのでビビる。ビリーは、淡々と言えばいいだけだ、相手もプロだから、と諭す。ピーターは言われた通りドライに伝えると、選手は「わかった」とあっさり言う。

野球界はプロフェッショナルの世界だから、特殊かもしれない。実際、『マイレージ・マイライフ』という、ジョージ・クルーニーがクビ宣告人を演じる映画では、宣告された企業社員はみっともないほど泣き叫んでいた。

でも日本の野球界でも、これほどドライでもないだろう。

ここまであっさりじゃなくても、人材が移動しやすい社会は、変化に強いと思う。人材の移動がないと、組織は変われない。変われない組織だらけの社会は、変われない。そうすると、社会全体が古びてしまう。世の中の変化を呆然と見送るだけの社会になってしまう。そんな社会は全体が沈滞し、貧しくなるに決まっている。日本の沈滞の原因ははっきりしているのだ。ぼくやあなたが、同じ椅子に座り続けているからだ。

新陳代謝はすごく重要。お肌だって新陳代謝がないと、ぴちぴちが失われるわけで。

最後にもうひとつ、この映画から重要なことを思い知らされる。そうやって反対を押し切って新しいやり方を貫いた結果、最初は散々な戦績だったのが、途中からがぜん連勝し出すのだ。それで、風向きががらりと変わる。反対の声が薄れていくのだ。

つまり、改革は結果を出さないと進められない、ということだ。これは痛い。ビリーとピーターは半年で結果を出せたが、そんなに簡単に結果が出ない方が普通だから。

メディア業界では十年前から、映像に絞っても5年前から、「これからはネットですよ!」と言われてきた。でも、ここまでで結果が出ているのか。むしろ、「ネットってあんまり儲からないね、やっぱりマスメディアが儲かるね」という結果ばかり出てきた。これはつらいね。しんどいね。

あと3年かなあ。メディア界で新しい動きが認められるだけの”結果”が見えてくるのは。それまではしんどいよ。初老のスカウトたちにののしられるブラッド・ピットをあと3年続ける覚悟が必要だね。・・・うーん、しんどいなあ・・・

The Japan Timesからニコニコ動画についてインタビューされたって話

本を出したあと、いろんな方からコンタクトもらったのだけど、先週はThe Japan Timesの方から連絡をいただいて取材を受けた。そうしたら、11月20日日曜日の紙面にその記事が掲載された。

英字新聞の取材を受けたというと、じゃあ英語で答えたの?と思うかもしれない。掲載記事を読んでいると、自分でさえ「あれ?おれ、英語で答えたんだっけ?」などと思っちゃったりした。○○○○○○, says Osamu Sakai…なんて書いてあるんだもんね。

もちろん記者の方は日本人で、インタビューも日本語で行われたのでした。

さてその記事は、ニコニコ動画がワーナーと提携し、ハリーポッターなどの映画をVOD配信することになったね、というニュースを題材にしている。

このところ、ニコニコ動画の動きがすごい。少し前にも、映画「ステキな金縛り」のプロモーションとして、三谷幸喜監督がニコ生に出演したことを書いた。フジテレビがニコ動の力を借りたわけだ。それに続いて、角川書店と提携して電子書籍サービス、ニコニコ静画をはじめたり、Eテレ(もとのNHK教育テレビ)ともコラボ放送をしたり、とにかくできることはなんでもやり、組める相手とはどこでも組むぞ、と言わんばかり。実際、いまのニコ動にはあらゆる方向からのラブコールがあるのだろう。

インタビューでも話したのだけど、ニコニコ動画がいろんな人と組むのは、とくにテレビ放送やVODサービスと組むのは、大きな意義がある。映像のソーシャル視聴が加速しそうだからだ。テレビも映画も、今後もっと人々の生活に溶け込むにはソーシャル視聴が欠かせないものになるだろうから。個々の作品のプロモーション上でも、ソーシャル視聴は重要だ。いま放送中の番組はどれが面白いのか、どの映画をVODで観ようか、という時、「あの人が面白がってるな」「たくさんの人がすごく反応しているぞ」といったことで左右されることになるだろう。

ニコニコ動画は生まれた時からソーシャル視聴のプラットフォームだった。たんにギークが好む映像を視聴する場であるだけではない。書き込みしながら、あるいはそれを読みながら映像を観るという、よく考えるととんでもないシステムを作ってしまった。もはや普通になっているので忘れちゃうけど、これ、とんでもない大発明だと思う。それに、日本人じゃなきゃ考えないことだったんじゃないかな。

ニコニコ動画は、ソーシャル視聴に限らず、新しい映像の見方を見いだすための実験場だ。これからの映像視聴は、そしてもっといえば映像製作は、ここから変わっていくのかもしれない。

ただし、ニコニコ動画は今後悩みも増えるだろう。他ならぬ、そのネーミングで。もっといえば、ネーミングに集約されたブランディングで。

ニコニコ動画。

これはどう見ても、メインストリームのサービス名ではない。「こういうの、あってもいいよね」という立ち位置だ。それはつまり、ギーク向けのサービス名称なのだ。ネーミングがそうなので、ロゴや、インターフェイスのアートディレクションまでそんな一貫性を持って作り込まれている。

そこを今後どうするのか。わりと近いうちにその悩みに突き当たると思う。

でも、ぼくはニコニコ動画はニコニコ動画だからいいのだと思う。その奇妙な立ち位置は変えない方がいいんじゃないかな。

それより、ニコ動とは別の映像視聴のプラットフォームが必要なんだと思う。もっとオーソドックスな空気を持つ。メインストリームらしい匂いを持つような。

いま、マルチデバイス用のVODサービスを立ち上げるといいんじゃないかな。わりとあいてる土地なんじゃないか。すでにやっているVODは逆にいままでのシステムに縛られちゃうんじゃないかなあ。

だれか、パパパッと、VODを立ち上げてみませんか?成功すると思うけどなあ・・・(無責任)

今年の映画興行は大幅ダウンが見えてきてるんだってさ

このところ、このブログの更新頻度が週一ペースになっている。いかんね。今週からもう少し、週三回くらいは書いていくつもりなので応援してね。

さて、今日はまた映画の話。

日本の映画界にはマーケティングの概念が薄い。そんな中、マーケティング情報を供給して頑張っている会社が2つほどある。そのうちのひとつが、GEM Partners(ジェムパートナーズ)という会社だ。中心人物はブンちゃんといって、大学が同じだというのでぼくは先輩面してるけど、ずいぶん下だし、すごく立派なキャリアを持っている。警察官僚になったのになぜか世界的に有名な外資系コンサル会社に転職し、なのにどうしても映画に関わりたいとGEMを立ち上げたんだそうだ。儲からない業界なのになあ。

そのブンちゃんが東京国際映画祭でシンポジウムに出たそうで、(ぼくの前の上司も出席したそうだ。ちょうどこないだその話を聞かされたとこだった)その時に2011年の興行市場を展望する発表を行った。その発表を元に「2011年興収の減少要因を試算し今後の展望を考える」というブログにまとめている。その内容が衝撃的だったので、今日はそれを取り上げようと思う。

まずその元記事をぜひ読んで欲しい。もう一度リンクを出すと、これね。このリンクを押すとブンちゃんの元記事に飛ぶから。

読んだ?・・・え?読むの大変だって?・・・しょうがないなあ、じゃあここでサマリーを書いておくとね・・・

まず前提として、これまでも何度か書いたし『テレビは生き残れるのか』にも書いたことだけど、日本の映画興行市場はこの10年くらい2000億円前後で大きく変わっていない。ただしその中で洋画より日本映画のシェアが高まったことと、2010年は2200億円と10%もどかんと増えた。『アバター』『アリス・イン・ワンダーランド』などの3D作品が大ヒットしたことも大きいのだろう。

その上で、ブンちゃんは2011年の映画興行は1800億を割り込むと予測している。この10年2000億円だったのが、そして去年は2200億円にまでいったのが、そこまでどんと落ち込むというのだ。これはショックを受けないわけにはいかない!

ああ、そうか。それは仕方ないよね、だって震災があったからね。東京の映画館の中でもしばらく上映をやめたとこもあるしね。

ところが!震災の影響だけではない。むしろ、7月からシルバーウィークまでの3カ月間、つまり震災の影響がほとんどなくなった、映画興行の書き入れ時も、去年もしくは例年と比べて大幅ダウンなのだそうだ。

さらに、この下降傾向は、どうやら一時的な要因によるものではなく、構造的な問題点があるのではないかとブンちゃんは言う。うーん、怖れていたことが、顕在化しつつあるのだなあ。

構造的な問題としてブンちゃんがあげているのが以下のポイント。
1)作品の認知率が減っている
2)テレビ局出資作品が減っている
3)男女の比率に変化が起きている
4)デート観賞が減って一人観賞が増えている

あと、ショッピングモールの来客数の減少も関係するかもとも言っている。シネコンはそういう商業施設の中にある場合が多いからね。

ブンちゃんのポイントの1と2は要するに、テレビ局が元気を失い映画に体力を注ぎにくくなったことが大きいだろう。これは『テレビは生き残れるのか』でも触れた点だ。テレビ局が出資し、他の番組も巻き込んでのプロモーションがこの数年の日本映画を支えてきた。そのエネルギーが失われつつあるのだ。

うーん、まずいなあ、やばいなあ。

ここには二重の”まずいなあ”が込められている。日本の映画興行全体が盛り下がるのは”まずいなあ”。そして、日本映画の勢いがしぼんでいくのは”まずいなあ”。

さてところで、これも何度か書いてきたけど、日本の映画市場は世界第2位だ。最近一部で話題になっているらしいけど、日本の映画興行市場、つまり映画館で稼いでいる金額の合計は紅ショウガ市場とほぼ同じらしい。(ただし、DVDなどの二次使用の市場が入っていないことには注意されたし)

それくらい”大したことない”市場規模。それがさらにやせ細っていくのはしんどい。

そしてその中で日本映画の占める割合が減るのかもしれない。せっかく(国内では)洋画を上回る状況になったのに、元の木阿弥になりかねないのだ。

実は日本の状況はかなり特異だった。世界中で、自国の作品が興行ランキングの上位を占める国なんて日本だけなんだ。中国や韓国は規制をしているので例外として、ヨーロッパでも他のアジアでも南米でも、興行ランキングの大半はハリウッド作品だ。フランスは映画発祥の国だし自国の文化に誇りを持っている。映画庁という役所と映画税という税金もあって、国内の映像文化を守ろうとしている。それでも、ボックスランキングはハリウッドに占領されているのだ。

日本も90年代半ばにそうなりかけた。それをテレビ局がひっくり返した。日本だけ独自の映像文化がこの十数年で育ってきたのだ。いやもっと長い目で見れば、50年くらいの間、日本の映像文化は独自に歩んできたし、レベルも世界的に見て高いところに達していた。言葉や文化の壁を越えられれば、もっと国際競争力はあったはずだ。実際、アニメーションではある程度の国際影響力を持ってきた。

それが揺らいでいるのだ。それが危機を迎えようとしているのだ。テレビは生き残れるのかどころではない。映像文化全体が生き残れるのか、という事態になろうとしている。

”韓流ばかり放送しやがって”と、テレビ局を攻撃する人がいる。でもテレビのビジネス原理からして、安い価格で仕入れて収益性が上がるなら、そういう流れに向かわざるをえなくなる。

映画も似た傾向が出てくるかもしれない。あと5年から10年もしたら、中国のソフトパワーは大きく育ち、馬鹿にできない存在になる。その可能性は十分にある。なにしろ、国策のひとつとして、映像製作に多大なる投資をしているのだ。13億人、つまり日本の10倍の人々の中から、才能のある人間が映像に従事するようになったら。どえらいことになるだろう。

日本の映画館が、10年後、ハリウッド作品と並んで、中国と韓国の作品で占められる可能性は高い。ぼくは、ものすごく高いと思う。

そうならないために、いや、その傾向に少しでもあらがうために、ぼくたちが何をすべきか。そこを考えはじめないといけない。それはようするに、横断的な仕組みと組織をつくることだと思う。・・・でもそれは実際どうすればいいかわからない。たぶん、資本があればいいのだと思うんだけどね・・・

ネトウヨとナベツネの間に横たわる課題

この週末、11月12日の「新・週刊フジテレビ批評」は「ネトウヨとテレビ」というテーマで批評家の濱野智史氏が登場した。な、なに?!ネトウヨ?!なんとまあ、よくそんなテーマ取り上げるもんだ、ってんで注目していた。

濱野智史氏はどっかで見たなあと思っていたら、この夏に「デジタルコンテンツ白書」発売セミナーでパネラーとして喋っていた方だった。若いのだけど、なかなか深いことを言う。早口で、ネットの若者たちを代弁するようなことを発言するのが面白かった。どこか、宇野常寛氏と近いキャラ。

まあそれにしても、テレビで「ネトウヨとテレビ」をテーマにするなんて、思い切ったもんだ。でも濱野氏の議論はそのテーマのラジカルさとはちがい、扇情的なムードは一切なく落ち着いて進んでいった。

話の流れは・・・
1)若者たちの社会批判精神をこれまでは左翼的な思想が受けとめていたが、冷戦終了後、左翼思想が力を失い、代わりに右翼的な考え方が受皿になっていった。
2)マスメディアが第四の権力的な存在になり、政府などと結託しているのではとの目で見られるようになって、ネット側の言説の批判の対象になってきた。
3)権力の監視機能がマスメディアの使命だが、さらにそれを監視する機能をネットが持ちはじめている。
4)テレビ側はネトウヨ的言説にレッテル貼りをせず、真摯に耳を傾けるべき。またネット側もマスメディアに安易にレッテル貼りをすべきではない。

だいたいそんなことだった。

ぼくとしても大賛成な内容だった。ネトウヨ的な若者と、ネトウヨ的な議論を直接的にするのは不毛なのであまりやりたくはない。ただ、その奥底にあるものとは、つながれるのではないかと思うのだ。何か納得がいかない。世の中おかしいことがある。そんな思いは感覚としては正しいし、ぼくの人生もそんな思いの延長線にあるのだしね。

全然話が変わるのだけど、巨人軍の清武さんというGMが突然、金曜日に会見を開いた。ぼくは会社でニコニコ動画で視聴できた。こういう会見をタイムリーに放送するニコ生はほんとにえらいと思うなあ。

会見の内容は、ナベツネへの愚痴だった。”ナベツネ”という用語を知らない人もいるだろうか。読売新聞社の渡辺恒雄会長のことを、いつの頃からかみんな”ナベツネ”と呼んでいる。

読売グループの中でナベツネに楯突く人がいるなんてと、ぼくは大層ビックリした。あれほどの独裁者、権力者もいないだろうというナベツネを相手にケンカを売るなんて、誰も想像できないことだろう。清武さんのその勇気には感心した。でも批判の内容が、人事をひっくり返してひどいよ、ってことだったので、会見を開くほどのことかなとも思った。それくらいのことは、読売グループでなくても、どこの会社でもあるんじゃないの?

さほど「ナベツネ=悪」というほどでもない事柄なので、”告発”とは言えないんじゃないかなあ。

清武さんの会見はこの際おいといて、ここではナベツネの存在について、話を進めたい。

ぼくたちは、「巨人と読売を牛耳ってるのはナベツネさんだよね、独裁状態だよね」ということは長らく知っていた。さほど疑問にも思ってこなかった。ナベツネが何か吠えたぞ、とか、何やら暗躍してるらしいぞ、とか、聞いても面白がりはしても「それはおかしい!」とは思わなかった。

だって、読売と巨人は、そういう企業なんでしょ?そんな風に受けとめてきた。

でもさっきの、ネトウヨから見るとマスメディアは第四の権力で、だから打倒すべきだと思われがちだ、という話と合わせて考えると、ナベツネはまさしく第四の権力として振る舞ってきた人物ではないだろうか。

ナベツネが諸悪の根源と言いたいわけじゃない。そうではなくて、ぼくたちが「ナベツネさんってああいう人だよね、仕方ないよね」とそのいささか強引なふるまいを認めてきたことは、つまりぼくたちが「マスメディアは第四の権力」という状態を肯定していた証しなのではないだろうか。

ぼくたちは、ナベツネに象徴させながら、マスコミの権力性を肯定していたのだ。

あるいはそういう状態を、なんとも思わなくなっていたのだ。

いま、まったく素に返って考えてみると、読売新聞という巨大なマスメディア企業が、独裁的な状態であるのは、変じゃないだろうか。まちがっていないだろうか。しかもナベツネはことあるごとに傲慢なふるまいや発言を繰り返してきた。それを「また言ってるよ」と苦笑いして見ていていいのだろうか。

ナベツネの権力の源泉が、政治部出身で自民党の政治家、とくに中曽根元首相とのつながりにあることは、誰だって知っている。秘密でさえない。権力の監視機関であるはずの新聞社の中でももっとも発行部数が多い読売新聞の会長とか主筆とか言われてる人物が、その権力とつながっているのだ。フィクサー的な言動は時に、臆面もなく公の場でなされることもある。

そんなことは、世の中きれい事じゃないんだからあったりはするのかもしれない。けどナベツネの場合は、そういうことをみんなが知っているのだ。なのに、大きな問題にされずにここまできた。

ネトウヨがナベツネをとくに批判しているということではないけれど、マスメディアの不可思議さが、ナベツネという人物に象徴されている気がする。

ネトウヨについて、そしてナベツネについて、ぼくたちは考えなければならないのかもしれない。・・・うーん、どうも収拾がついてないけど、今日はここまで!

またやります!BAR境塾「TVアプス最前線」12月2日開催!

10月に開催してみたBAR境塾。会場としてお借りしたVOYAGE GROUPのAJITOの素敵さもあり、なかなかよい催しとなった。一緒にやったジェネシックスの中山さんと、またやりたいねと盛り上がり、調子にのって12月にもう一回やることになったのだ。

会場となるAJITOの外観。VOYAGE GROUPのオフィス入口にこんな素敵な施設が!

前回はジェネシックスのtuneTVとマイクロソフトのテレBingという、2つのソーシャルテレビ用アプリについて開発者から語ってもらった。ソーシャルテレビ用のアプリについてもっと掘り下げようというのが次回の狙い。

ということで、概要です!

BAR境塾「TVアプス最前線!」
日時:2011年12月2日(金)19時開場・20時開始
(20時までに気楽に集まっていただき、お互いの交流もしてください。ビールなど飲み放題です)

司会:境 治(メディアストラテジスト・ビデオプロモーション)
スピーカー:中山理香氏(tuneTV開発・ジェネシックス)
コメンテイター:中澤義孝氏(NHKメディアテクノロジー)
        橋本英明氏(フジテレビジョン)

人数:30名
開場の都合上、人数を絞らせていただきます。

会費:500円(雑費などに充てさせていただきます)

参加希望者はこちらをクリックしてATNDのページからお申し込みください。

内容としては、中山さんからtuneTVの開発時に調べ上げた海外のソーシャルテレビアプリについて発表してもらうのが主軸。これに対し、そうした海外アプリについて個人的な趣味で色々試しておられるという中澤さんと、フジテレビのデジタル部門でウェブサービスなどを担当されている橋本さんから、いろいろツッコんでもらったり、ご自身の知っておられるところも披露していただく。

AJITO内部。ほんとにBARみたいな空間だ。
前回同様、19時に開場してビールでも飲んでいただき、皆さんほろ酔いになったところで20時から催しをスタートする。アルコールで心も身体もほぐしてもらうことで、心地よくイベントが進められる、これは前回も好評だった。

前回は無料としたけど、今回は会費500円とさせていただく。Ustの機材運搬などちょっとした費用もかかりそうなので、ごめんなすって。

ということで、次回も楽しみにしてください。前回参加の方はもちろん、初めての方ももちろん大歓迎!みんなでソーシャルテレビについて楽しく語り合いましょう!

メディアを取り巻く状況は、いつの間にか、でもはっきりと変化していた

フジテレビの「Mr.サンデー」をぼーっと観ていたら、尖閣映像流出事件から一年経ったというレポートがはじまって、ぼーっとしてられなくなった。

尖閣映像流出事件って何だっけ?ほら、尖閣列島で中国漁船が海上保安庁の監視船に意図的にぶつかってきた様子の映像が、YouTubeで公開された一件のことだよ。2010年の11月4日だったんだって。一年前と言われて、どう感じる?ぼくは、ずーっと前だったような気がしていた。そしてこの一年でずいぶんいろんな変化が起こったなと思った。

あの日のことを思い出した。ぼくは夜遅く、なんとなーくTwitterを眺めていたら、何やら騒がしくなってきた。たくさんの人々が、「このYouTube映像は大変だぞ!」とつぶやいている。どうやら尖閣列島で中国漁船が海上保安庁の船にぶつかるシーンらしい。ぼくもYouTubeに見に行った。実は、その時、肝心のシーンがどこかいまひとつわからなかった。かなり長い映像が、いくつかに分けてアップロードされていたのだ。

翌朝、テレビをつけたら驚いた。各局の朝のワイドショーがこぞってこの映像をとりあげている。

ここで自分の反応が自分で面白かった。テレビのワイドショーがこぞってとりあげるのを見てから、ぼくは昨日の夜中の映像の重みを感じとったのだ。うわ!あれは大変な映像だったのか!逆に言うと、テレビが取り上げなかったら、ぼくは忘れていただろう。ニュースバリューのある映像を夜中に見たのに、そのニュースバリューはテレビのニュースを見ないとわからなかったのだ。

一方で、YouTubeの映像を、各局がこぞって取り上げるのは珍妙な現象だとも思った。あれー?YouTubeのこと忌み嫌ってなかったっけ?蔑んでなかった?あるいは恐れてなかった?手のひらを返したかのように、YouTubeの映像を大スクープとして使いまくっているテレビは、ほんとにどん欲なんだなあと思った。

そんな風に、あの事件は、テレビと、ネットと、ひとりの視聴者である自分との、三極の関係の上下左右が大きく変えたのだと思う。それは単純に、ネットがテレビに対して優位になった、というわけではない。むしろ、ネットとテレビが呼応しあい響きあう、新しいメディア環境が誕生したのだと思う。もっと言えば、前からあちこちで小規模に起こっていたことが、大きく顕在化したのだ。

それからの一年間。ぼくとネットとテレビの関係はどんどん変化してきた。さらに、3月に東日本大震災が起こり、7月にはアナログ停波に至った。ぼくは会社を移り、子供たちは高校と中学に進学した。その間、どんどんメディア環境は変化している。

いま気づいたのだけど、思い返すと、子供たちがすっかりテレビを観なくなった。一年前あたりは、もっと観ていた。それぞれのお気に入りの番組がそれなりにあったし、つけっぱなしのテレビを、ぼくと一緒にだらだら見ていた。それが、子供たちにとってテレビを観ない状態が基本、になってしまった。

そうそう、この一年の中で起きたもうひとつ大きな変化は、Facebookだ。毎日ふつうに使っている。Macを起こすととりあえずFacebookだし、出かけると駅でついついiPhoneのFacebookアプリを開く。何か重大なことを知るためではなく、なんとなーく生活にしみ込んだ習慣だ。でもこの習慣がはじまったのは、今年の1月。映画『ソーシャルネットワーク』を観てからだ。

不思議なことに、ずいぶん前にFacebookのアカウントは取得していたのに、まったく使ってなかった。映画を観たあと、ちょっと使ってみるか、とやっていくうちに、Twitterで知りあった人々がいつの間にかFacebookもはじめていて、お友だちが増え、ウォールが賑やかになっていった。コンスタントに使うかどうかは、そこに尽きるだろう。お友だちの活動が活発になって、ウォールがにぎやかになる。それがなければ、面白くないに決まってる。

この一年間、ぼくたちにとってメディア状況は歴史的なターニングポイントだったのだろう。あとから見ると、あそこが節目だったよね、と総括するのだろう。だとしたらこれはまだ、何かがはじまったばかりだったり、はじまろうとしている矢先だったり、はじまる前の兆しが起こりつつある段階なんだろう。

いま、節目だよ。いま言えるのはそれだけなのだ。プロローグとか、第一章ぐらいなのだ。

これから、何章も先がある。何ラウンドも試合は続く。起承転結の”起”がいまなら、これから”承”があったり”転”もやって来たりするはずだ。

だからぼくたちは、まだ何も決め込んではいけない。来たるべき変化に備えて、柔らかな自分でいないといけない。

でも、まあ、そんなに身構える必要もないんじゃないかな。変化を面白がって、だったらこんなことしたら面白いね、と、面白い軸を重視して動いていけばいいんだと思う。

そう、とにかく、動いていかなきゃね!

テレビはネットをどんどん利用しよう!〜YouTube、ニコ動との連携進む〜

もうみんな知ってると思うけど、今週、日本テレビがYouTubeに公式チャンネルを持った。番組の予告編などを流しはじめている。これで民放キー局がすべてYouTubeにチャンネルを持ったということがニュースになっていた。

ついこないだまで、テレビ局はYouTubeを敵視していた。自分たちの権利を侵し、広告収入を下げてしまう邪悪な存在だと、とくに上層部は考えていたらしい。でも、そうでもない、そうとも言えないと気づきはじめたのだろう。また、テレビ離れがこのところ気にせざるをえないほど進んでいて、ネットの助けにもすがらないわけにはいかなくなったのもあるだろう。

そう書くと後ろ向きみたいだけれど、テレビがネットを活用することは前向きに捉えると楽しいことがいっぱいある。

例えばフジテレビ映画「ステキな金縛り」では、プロモーションにニコニコ動画を活用している。公開日の10月29日の夜に、ニコニコ動画生放送で八木亜紀子さんを進行役に、三谷幸喜監督が出演。視聴者とコミュニケーションしながら映画の紹介をしていた。

11月5日の夜には地上波で映画にまつわる特別番組「ステキなステキな金縛り」が放送されるが、その前にもまたニコ生をやるのだという。

こうしたテレビとネットを交錯する遊びは、テレビ側にとってプロモーションとして大いに役立つし、新たな視聴者の獲得にもつながるだろう。でもそれだけでなく、ネットメディアの側にも効用をもたらす。やはり新たなユーザーを引き込む効果があるのだ。

実際にぼくがそうだ。子供たちがニコ動をよく見ているのは知っていたが、自分はあまり見なかった。自分が見るべき番組がわからなかったのだ。そんな大人はいっぱいいるだろうし、この映画のプロモーションをきっかけにいままでとはちがうユーザーがニコ動にふれることになる。

「ステキな金縛り」のニコ生でも、三谷幸喜がニコ生ユーザーの声に反応しながら例によってすねたり怒ったりしていて面白かった。こういう三谷幸喜はテレビでは見れないわけで。

魅力的なコンテンツほど、ネットの活用で楽しみが深まる、と言えるのではないかな。この場合で言うと、映画として面白いからこそ、派生的な番組も放送できる。それをさらにニコ動で作家本人の姿を見ることでもっと楽しめる。

ぼくはそのうち、コンテンツの本拠地がどこだかわからなくなるのだと思う。この作品はテレビなのか、映画なのか、ネットなのか。いや、すべてなんです。そうなるのだと思うのだ。

そうなることで、視聴者としての楽しみは広がるだろう。そしてまた、マネタイズの機会も広がるはずだ。いろんなやり方、考え方が見えてくるだろう。

テレビが主でネットが従。いまはどうしてもそうなってしまうだろうけど、かなり近いうちにその主従関係が崩れ、どっちが主でも従でもどうでもよくなる。

ちぇっ、テレビが主じゃなくなるのか、王様じゃいられないのか。そんな風にうけとめないで、ほほーだったらこんなことができるしあんなことがやりたい。という感じで前向きに捉えた方が創造的だと思うし第一楽しいじゃないすか。

テレビはネットを活用しよう。ネットはテレビを利用しよう。お互いにうまい組み方を模索することが、これから大切だと思うよ!