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コピーライター→映像製作会社ロボット→広告代理店ビデオプロモーション→再びコピーライター(フリーランス)。 メディアとコンテンツの未来を切り拓くコミュニケーションをデザインします。講演・執筆依頼もお気軽に!

つくるが先でメディアはあとで〜広告の新たな地平線・その3〜

はい、今日も”図”があります。これ見れば今日の話はだいたいわかっちゃう。

いわゆるクロスメディア広告と言うのはかれこれ5〜6年前から言われてきた。これからはクロスメディアだよね、みんなわかってるよね、と、うなずきあいながら仕事してきた。でもちーともクロスメディアにならない。

で、現状のクロスメディアとは左側のような作業になる。

コミュニケーションは受皿となるメディアと、そこにのっけるコンテンツとで初めて成立する。すばらしい映像を制作してもそれを流す場所がないと何の意味もないわけで。

で、クロスメディアの企画をしようとなると、メディアを決めていく。テレビ媒体は○○○GRPかけようとか、ネットはスペシャルサイトを作ろうとか、あのポータルを使おうとか、それからブログも使おうよとか、最近だとYou Tubeもアリだねとか。ケータイを忘れちゃイカンよとか。

そうやってメディアを決めたあと、そこからの作業は分業で進む。テレビCM班はこういう作業ね、WEBメディアはこっちの班がこう進めるねとか。メディアごとに”班”ができて、それぞれがそのメディアごとにのっけるコンテンツを制作していく。

そうすると、それぞれの”班”がその作業に夢中になる。その作業で最高のもんにしよう!とかがんばる。

これは効率が悪いんだ。

まず作業効率や予算効率が悪い。それから全体感を誰も把握できなくなり、総合的にはなにやってるんだっけ?ということが見えなくなる。

だから右側のやり方にしていった方がいい。せえので考えて、一回の制作作業で、アウトプットをメディアごとにしっかり整える。例えば制作作業でもいちばんコストがかかる”撮影”が一回で済むとかね。で、テレビ用、WEB用、グラフィック用、ケータイ用のアウトプットを仕上げればいいわけだ。

・・・そんなの当り前じゃん!って思うよね?その当り前なやり方が、実はなかなかできていないのよ。

なぜならば、そもそもシステムとして、あるいは組織として、広告制作をとりまく状況がそれに適した状態になっていないから。

なんでそんな効率の悪いことになっとるか。それはまた明日。今日は短いね。だって眠たいのよおれ・・・

コンテンツとメディアの関係を変えろ〜広告の新たな地平線・その2〜

はい、久々に”図”です。今日はこれを見ながら書くので、そこんとこよろしく。

いま、クリエイターは危機に瀕している。マスメディアが急激に弱くなっているからだ。もう少しあけすけに言うと、マスメディアに回ってくるお金が急激に減っているからだ。

なるほどね、だったらコンテンツの作り手であるクリエイターが危機に瀕するのも道理だね、仕方ないよね。

いや、ちょっと待った!ぼくが今日、問題にしたいのはその点だ。メディアとコンテンツの関係が変わっていけば、必ずしもマスメディアの危機=クリエイターの危機とも限らないんじゃないか。

“図”の左側を見てください。いま起こっていることをわかりやすくしてみた。すごく大ざっぱに言うと、マスメディアでは、広告全体の費用とその中のコンテンツの費用は、100:10という感じだった。例えばテレビCMを展開する場合、全体の費用が3億円だと、CM制作費は3000万円、という感覚。あくまで大ざっぱに言えば、だけど。

つまり残りの2億7千万円が媒体費。つまりは、テレビCMの”枠”を買うためのお金になっていた。しつこいけど、大ざっぱに言ってるからね。

いま、以前は3億円ぐらい平気で使われていた費用が、2億円とか1億5千万円とか、3割5割当り前感覚で減少している。そうすると、制作費も2000万円とか1500万円とかに下がっちゃうわけ。それでも、要求されることはあまり変わらなかったりする。だもんで、クリエイターに支払われる金額も減っちゃっている。

一方、インターネットでの広告費用はケタが違う。ケタが違う、ってのは普通、”もっと大きいぞ”って時に使うけど、この場合は逆。マスメディア広告費に比べると極端に低い。そんな中から制作費も割り当てられる。

総額が小さいからさすがに1割とはならない。3割とか4割とか。リアルに言えば、総額1000万円で、制作費は300万。そんな感覚。

何度も言うけど、大ざっぱな感覚として、テレビCMの制作費と、インターネット広告のコンテンツ制作費とで、1500万円と300万、ぐらいの予算感の違いがある。(大ざっぱと言いつつ、けっこう生々しい数字かもしれない)

1500万円のテレビCM制作と、300万円のWEB広告制作。もちろん実費も大きく違うとは言え、制作スタッフのやるべきこと、考えるべきこと、具体的な作業は、大きく変わらない。いやネットの方が細かな点まで詰めないといけなかったりもする。その分よけいに大変だったりもしてしまう。なのに総額が何倍も違うんだ。

これが”危機”の具体的な中身だ。

これを解決するのが右側だ。なにも制作側の解決のためだけに言っているのではない。絶対に右側の方がいい。広告を出す企業の側にとっても、右側の考え方はいろんな問題を解決してくれる。

右側の場合、制作費に回せるお金が上がってくる。いままでより作業内容が複雑になったり納品物がやたら増えたり、いろいろ大変ではあるけど、とにかく”3”を”10”ぐらいにはできる。

あ、いかんな、制作側の理屈ばかり言ってる感じになってきた。

ほんとうに言いたいのは、右側のとらえ方にこれから移行していくはずだということ。なぜならば”その方がいい”からだ。

その方がどうしていいのかは、また明日ね。いっぺんに書くとわかんなくなるだろ?いや、あなたがじゃなくて、書いてるぼくが。なははー

インターネットにも”金魚〜え〜”は必要なのだ〜広告の新たな地平線・その1〜

Twitter市民革命の話のつづきはちょっとお休み。なんかまだうまくまとまらないからさ。だから逃げるってわけじゃなく、今日からはまた本題と言うか、クリエイティブビジネス論らしいテーマで書くよ。しかも広告。ある意味本業の真ん中。少し何かが見えてきてわかってきた気がするのよ。

それでね。いきなりだけど、最近読んだ@tabbata氏のブログ<TABLOG>で”ものすごく重要なこと”が書かれていた。まずはこのエントリーを読みなさい。(@tabbata氏って誰?とかいう人も、とにかくこのブログを読めばわかるから読め)

重要なことはいっぱい書かれているのだけれど、ぼくがとくに重要だなあと思ったのは最後の方。勝手に引用しちゃうとね・・・

自分の欲しいものを分かっていて、検索エンジンを使って調べられる人からの、顕在化している欲望を拾うという意味でグーグルは最適です。ただユーザー自身も気付いていない、潜在的な欲望をどう喚起するかという点で、グーグル的な世界観では絶対に行き着けない所があると考えています。

これを読んだ時、あああああ!そうそうそうそう、そうなんですよぉ!と”そう”が五回ぐらい立て続けに頭の中を駆け巡った。

マス広告はプッシュ型でネット広告はプル型だ、などと言われてきた。マスメディアは受け手が受動的で、だから番組の合間に広告を”挿入する”けれど、ネットは自分で情報を探したい人が使うから受け手は常に能動的なのだ。そんな風に言われてきた。

これに対しぼくは、大枠はそうだけど、全部がそうだとも言えないんじゃない?と疑念を持っていた。ネットに接する時、人はそんなに終始能動的で自覚的なの?自分が何を欲してるか100%明確になっているの?明確になっていたとしてもそこには”余計なコミュニケーション”が入り込むスキがまったくないの?そうなの?そんな風に感じていた。

もっとカンタンに言うと、人間はもう少し自堕落なんじゃない?ってこと。

いままでの広告は、テレビを見ている時や電車に乗っている時に、受け手の”スキ”に入り込んでいこうとしていた。インターネットだってさ、いろんなWEBをなんとなーく、だらりんと眺めていることだってあるんじゃない?あるよ。ぼくはあるよ少なくとも。

マスには受動的に接する。ネットには能動的に接する。そんなに単純じゃないぞ、人間は。だったらそこに広告の入るスキがあり、スキを見せた受け手をこちょこちょこちょとくすぐるやり方がもっとあるはずだ。そこにこれからのクリエイティブの役割があるはずだ。それはけっこう、いままでの広告クリエイティブが培ってきた”みなさんを楽しい気持ちにさせたいなあ”の根本発想が役立つはずだ。

それが@tabbata氏の言う「潜在的な欲望を喚起する」ということなのだと思うんだ。

マス広告が死に体になり、クリエイターの役割がすごい勢いで減少している。減少するのはまちがいない。だけどクリエイティブな要素がネットにないわけじゃない。むしろある!いっぱいある!いままでよりややこしく複雑なこと考えないといけないけど、導線づくりだのコンバージョンレートだの、いままで考えたことのない要素は増えたけど、ROIだのKPIだのCTRだのなぜかどれもこれもアルファベット3文字のクリエイターが苦手な数値がやたらと介在するけど、それでもクリエイティブは必要なのだ。なぜならば、受け手が”人間”だからだ。

Twitterはその格好の例かもしれない。だって自分がフォローしてる人たちのタイムラインを眺めている時って、そんなに能動的?○○○に関する情報を誰がつぶやくだろう、って思いながらつぶやきの流れを見ているわけじゃない。むしろ、思いもよらなかった一言が面白すぎたりするから面白いんじゃないか。

受け手が人間である限り、人間を面白がるし、人間の面白さの発露であるクリエイティブはやっぱり大事だ。それをROIだのKPIだのCTRだの、数値化しないと上司に稟議通せないのなら、オッケー!数値化してやろう。あんたの上司にハンコつかせたろうやんけ。

と、いうね、大きく変化する業界にあって、大きく変化しながらも、クリエイターの本質的な価値はこれからも変わらないんだぜ、という方向の話をしていくぜ。いいっすか?・・・・

Twitter市民革命と『FREE』とは関係している(もやもやしつつ・・・)

今日はうまくまとまったことが書けるか自信ないんだけどね。とにかくなんとか、昨日のつづきとして”Twitter市民革命”について書いてみるよ。

その前にまず今日はびっくらこいた。今日発売の週刊ダイヤモンドが『FREEの正体』という特集記事を組んでいた。そのことはTwitter上であらかじめ知ってはいたけど、やっぱり三大ビジネス誌の一角を担うダイヤモンドが『FREE』特集というのはインパクトある。1月にもツイッター特集をかましている。最近やるなあ、ダイヤモンドさん!

びっくりしたのはただ『FREE』特集を組んだからだけではない。なんと、ダイヤモンド誌のWEB版であるダイヤモンドオンライン上で「FREE特集のフリー素材集」を掲載していた。フリー素材とは記事の取材の過程で生まれる素材。インタビュー記事のフルバージョンとか、取材した際のメモとか、言葉通り記事の”素材”を公開しちゃってるのだ。

こういう”なんでもオープンにしちゃおうぜ精神”は旧来型のジャーナリズムには全くなかった行為だ。手品師がタネをばらしちゃうようなもんじゃないかな。それを”さらす”行為は確かにFREEについての特集にはふさわしい。Twitter市民にも受けが良かったみたいだ。

ダイヤモンドのような歴史も由緒もあるビジネス誌がこういう”暴挙”に出るのは迫力を感じる。次の時代に挑戦する強い覚悟を感じる。一方で、”やってみたよーん”という軽さも感じられて、It’s COOL!と称賛したい。

『FREE』はぼくも読んでいたのだけど、この特集でもう一度整理してもらえた感がありよかった。整理してもらえた中に、「あまりに違う二つのモデル」という表があった。本誌の38ページね。『FREE』単行本の263ページにあるものらしい。らしいと言うのは、読んでおきながらこんな表あったっけと思ったから。あの本は資料や事例がいっぱい出てくるからさ。

あまりに違う二つのモデルとは、従来型の事業とFREE事業の二つということ。従来型は”希少”、FREE型は”潤沢”。希少なリソースを出し惜しみして価値を高めるのが従来型で、潤沢なリソースを大盤振る舞いで無料にしちゃうのがFREE型だと。

それから、ルールという項目では”許されているもの以外はすべて禁止される”のが従来型で、”禁止されているもの以外はなんでも許される”のがFREE型。以下、社会モデルでは”父権主義”と”平等主義”、意思決定プロセスは”トップダウン”と”ボトムアップ”、マネジメント方法は”指揮統制”と”制御しない”なのだそうだ。

ぼくはこの表を見ていて、おや?と思った。この分類は何かと同じでは?それがTwitter市民革命だった。従来型の政治(経済も含む)スタイルと、Twitter市民革命の場で起ころうとしているスタイル。そっくり相似形じゃなかろうか。

しかも、利益プランの項目では”ビジネスモデル”と”これから考える”で、これも相似だと受けとめた。

佐々木俊尚さんの『マスコミは、もはや政治を語れない』の中でもブロガーたちが構想する新しい政治スタイルが出てくる。そこで唱えられている基本理念みたいなことと、『FREE』型事業はすっごく似ているんじゃないか?そしてそこには未来の切れ端みたいなものがチラチラ見えているんじゃないか?

ほーらね、やっぱりもやもやしてるな、おれ。

でもね、なんとなーくまだ感覚的に、なんだけど、Twitter市民革命には”真ん中”がないんじゃないか、真ん中が必要ない市民革命にしないと行けないんじゃないか、そう感じていたのよ。だから”父権主義”と”平等主義”の対比はなんだか近いな!ってビビッと来たわけよ。

大まかな理念とルールをしっかり共有していれば、あとはそれぞれがそれぞれの意志で勝手に動いても成立する、みたいなね。そういうのが”これから”なんじゃないか。そしてTwitterはそれを可能にするんじゃないか。

もう少し踏み込んで言うと、これからの会社組織も、そんな感じでやっていけないものか。

それぐらいすべてに渡って応用が利き、ベースにしていける気がするのですたい。

という思いつくままのコトバに身をまかせてとりとめもない内容になってしもうたわい。まあよかろう。っちゅうか、もう眠たい。むにゃむにゃ・・・あ、寝る前に予告です。もうすぐこのブログは引越すけんね。gooブログはTwitterと同時進行でやるには物足らんもんやけん。目下のところ、Livedoorに移住する予定。ブログ書きには、いい街らしいんだよね・・・

Twitter市民革命は、何を革命するか(まだよくわからんけど)

前回のTwitter市民革命と地方主権の話を書いたあと、いろんなことを考えたり、Twitterで反応Tweetをもらったりした。

そこでハタと気づいて、佐々木俊尚さんの新著『マスコミは、もはや政治を語れない』をだだーっと急ぎ足で読みはじめた。この本は実は発売当日に書店で買ったのに”積ん読”状態になりかけていた。でも、あ、おれがいま考えてることと近いみたいな気がするー!と感じとって慌てて読みはじめたのだ。まだ途中だけど、やっぱり関係していた。タイムリー。

正直言って最初は”なんで次は政治なのかなあ”とピンと来てなかったのね。

『2011年 新聞テレビ崩壊』でマスメディアはもうビジネス的に本格危機だよ、と警鐘を鳴らし、『ネットがあれば履歴書はいらない』でセルフブランディングを啓蒙した。一見関係がないこの2冊は(『仕事するのにオフィスはいらない』も含めれば3冊)実はすごくつながっていて、何しろぼくがこのブログで書きつづってきたように、マスメディアがいままでほどじゃなくなったらネットで自己発信をしていくべき時だ、という具合につながった話だった。

そこで次に”政治”がテーマとして掲げられた。マスメディアの危機を書いた人なのだから「マスコミと政治」に行くのは当然のようで、ぼくの中では当然ではなかった。マスメディアの危機はあくまでビジネス構造の危機であって、そこで行われる言論とはつながってなかったのだね、ぼくとしては。むしろ「政治って言われても政治はまたレイヤーが相当ちがうんじゃないすか?」と思ってた。でも他ならぬ佐々木俊尚さんの新著だから「ま、おさえとくか」と買ってあったというわけ。

そんな”え?政治っすか”と鈍かったはずのぼくが”Twitter市民革命だあ”などと底が浅いながらちょっと政治のコトバを発していたのだ。あれ?政治につながっていったじゃない、おれ。そう気づいたわけ。

佐々木さんはいま、「2010年代の預言者」と言えるんじゃないか。

ぼくはいま”預言者”と書いた。”予言者”じゃないことに注意しよう。つまり”予言”は占いとかあるいは科学的な根拠を元に未来のことを類推するのに対し、”預言”とは神の言葉を”預かって”伝えることを言うのね。深いのね。重いのね。深淵なのね。しつこいね、おれ。

少なくともぼくは自分の考えの道筋を見透かされたと言うか、あらかじめ導かれたと言うか、まさしくそんな感じになっている。だからぼくにとっては預言者と言ってしまって過言ではない。

さて『マスコミは、もはや政治を語れない』を途中までだけど読んでつくづく知ったのは、ぼくが言った”Twitter市民革命”はとっくに起こっているということだ。遅すぎだぞ、おれ。ぼくが@m_kaneko氏に導かれてTwitterでアカウント持ったのは去年の10月だったのだけど、醍醐味が分かるようになったのはこの1ヶ月ぐらい。でももっとずっと前から、Twitter市民革命は起こっていた。去年の衆議院選挙あたりからすでに沸騰していたんだね。

そのもっと前、2005年あたりからブログ上で”市民”たちが重厚な発言をはじめた。それがTwitterによって”つながり”はじめたのが去年だということみたいだ。ぼくが今ごろ味わっている”ブログとTwitterでの交錯”を、みんなとっくに堪能し、彫り込んできていたのだね。

そして、『2011年 新聞テレビ崩壊』とつながってくるのが、こうした”市民”の言論の盛り上がりに対し、マスメディアにおけるジャーナリズムがいかに”ついていけていない”かだ。マスメディアは事業として危機にあるわけだけど、その上で行われてきた言論も危機にある。それぞれの原因はまったく関係ないところにあるはずなのに、同時に起こってしまっている。そういうものなのかもしれないね。

それぞれの原因は関係ないように見えて、実はそれぞれの元の元をたどると同じところに行き着くからだ。それはぼくが少年の頃に感じた”会社に生かされるのはイヤだ”という感覚とほとんど同じ源泉なのだ。つまりはなんかそっけなくてつまらない言い方だけど、”この国の近代が終わろうとしている”からだ。

明治維新以来のこの国の近代化は少しイビツだった。明治大正期はまだ健全だったのが、昭和に入って屈折がはじまった。1940年代に整ったすべてのシステムが第二次大戦後も継続され、その上に乗っかって経済成長を高度に達成した。それはいわゆる”1940年体制”であり、お国のためにすべてを大企業に集約しちゃおうというものだった。それが功を奏して製造業の大企業がにょきにょき東京を中心に立ち並び、農村から人がどっと押しよせて工場労働者とビジネスマンになっていった。みんなが豊かになっていく中で広告が必要になりマスメディアが確固たる地位を築いていった。豊かになった人びとは次々にテレビと新聞におどる自動車や家電製品の消費者になっていった。そこに流れ込む巨大な広告費のおかげでクリエイターが誕生し、ジャーナリストが力をつけていった。すべてには東京とか、大企業とか、キー局や大新聞とか、そういう中心が存在し、中心が肥大することで周縁もうるおっていった。やがて80年代にはそれぞれ”中心的存在”は開拓者から”権威”になっていった。80年代にそこんとこちょっと省みるべきはずが、バブルが起こってみんな大誤解した。大誤解を修正できないまま20年が経ってしまってほとんど無為に過ごした。そこにインターネットが登場し、ブログでまとまった発言が”非権威”の人びとでもできるようになり火がくすぶりはじめたところへTwitterがその小さな火を大きな炎にしようとしている。それがいま、この現在なのだった。

ぜぇぜぇ。一気に書いたら息切れが・・・

息切れしたのでつづきはまた明日。・・・ん?しかしこの話のつづきはどうなるのだろう?ぼくはこのつづきとして何を書きたいのだろう。何か書きたがっているのだけど、何を書くのか自分でもよくわからない・・・ま、書きはじめたらなんか出てくるんじゃない?・・・

40代の走るべき道が、Twitterで見えてくる(のびのびとね)

こないだ食事した30代女子がこう言った。「Twitterにハマるのってなぜか40代の男性の方々に多いと思うんですよ」ふーん、そうなのかなあ。確かに周りの20代、30代の部下たちに聞くと「Twitterすか?いちおうやってますけど、あんまり面白さがわかんないすねー」とクールに言う。

どうしてかなー、と考えてたんだけど、なんとなく思い当たることがある。

40代は元気ないんだ。いや、元気ないヤツが多い。これはもうリアルに、ぼくたち40代には行き詰まり感が漂っていたかもしれないんだ。

40代は辛いのかもしれない。何しろ、どんな業態でもこの先はいままでと同じように続いていかないのがはっきりしてきた。一方、40代は団塊の世代の背中を追いかけてきた。追いかけても追いかけても追いつかなかった。そして団塊の世代は道を走りきってゴールにたどり着いたところだ。でも40代にはまだまだゴールは遠い。なのに、ゴールにたどり着く前に道路そのものがなくなるんだ。まちがいなくなくなる。

そして40代は中間管理職だ。例え社長だったとしても40代の社長だと、雇われ社長が多いだろう。雇われ社長こそ中間管理職の最たるものだ。社長でも、部長でも、とにかく中間管理職に権限はあまりない。でも責任だけはやたらと重い。

ぼくの周りの40代で、倒れちゃったヤツが出てきた。倒れそうなヤツも多い。何かに押しつぶされているのだろう。

16日の記事の中で「ぼくたちはもはや会社員である前に個人なのだ」と書いた。ぼくがそう実感したのは、Twitterを通してだった。みんなでつぶやきあうことで、いろんな人たちとつながることで、”じぶん”がくっきり浮かび上がってきた。その解放感こそ、40代に必要だったのかもしれないね。

決してリアルからTwitterに逃げ込むのではなく、リアルで組織から解き放たれて新しいことに立ち向かう勇気や希望をみんなからもらっているのだ。

そうしてぼくたちはようやく、団塊の世代に追いつかなきゃという呪縛を解いて、新しい道に走り出すことができる。いま走っている道路は、舗装されてはいるけど、ガチガチの交通ルールだらけで走るのがしんどかった。でもこの道路、もういいの。守らなくても。だってもうすぐ壊れちゃうんだし。団塊の世代も、無理して守らなくてもいいよと言ってくれている。だっておれたち、もうゴールに着いちゃったからさ。そう言っている。あれほど大事に守ってきた道路を、あっさり降りてしまっている。だからぼくたちはもう、団塊の世代の視線を気にしなくってもいいんだぜ。

ただ、40代が気をつけないといけないことがある。

無理するのはやめとこうね。のびのびと走ろうね。「そうか!じゃあ新しい道を探すぞつくるぞ!」と張り切りすぎちゃダメ。なーんか走るのが楽しーくなってきちゃった。そんないい加減なかんじで、ちょうどいいと思う。

のーんびりね。楽しみながらね。でも時々キリッとすればね。それでいいんじゃない?

日経新聞電子版が闘う相手は、家計簿だ!〜「ネット時代のメディアとジャーナリズム」

ところでこのブログのタイトルの変化に気づいた?「クリエイティブビジネス論〜焼け跡に光を灯そう〜」そうそう、サブタイトルをつけたのでした。

Twitter上でね、「焼け跡ブログ読んだよ」と言われてね。ああ焼け跡ブログって、いいなあと。「クリエイティブビジネス論」と「焼け跡」というワードがどう結びつくか全然わかりにくいけど、でもなんとなく”感じる”んじゃないかと。いちおう、「焼け跡になりつつあるこの国のクリエイティブ業界で」というリード文で説明がついていないでもない。

このブログでは「これから大変なことになる」という警鐘ばかりカンカンカンと鳴らしてきたのだけど、いま焼け跡を実感している中ではむしろ、だったらこれからどうしよう、の方を明るく書くべきじゃないかなと、いうことで。

まあその話はまた別の機会に。

今日の夕方、打合せもすんで帰ろうかなーと思いつつTwitterのタイムラインを眺めていたら、ん?なんか実況してる人がいるぞ、と気づいた。こっちをクリック、ここを開いて、とやってたら、どうやら日経新聞電子版の記者発表をやっているらしいぞ。Twitterで実況をしている人がいる上に、Ustream生中継やるらしい。ってことで、生で見ちゃった。帰りが遅くなったよ、すんまそん、妻。

Ust中継で当然、Twitter生タイムラインとセットで視聴。記者発表と言うより、「ネット時代のメディアとジャーナリズム」と題したパネルディスカッションということで、錚々たるみなさんが議論していた。まあこの記事読んだり検索したりしてみなはれ。

そのディスカッションの内容はこの手の催しとしてはなかなかのハイブローで生々しいものだった。参加者は決して日経の御用評論家ではなく、あからさまなマスメディア批判、大新聞批判も展開されたりして、それがこの電子版デビューに対する日経の意気込みや自信を感じさせてくれた。

オンライン版経済紙のデビューの催しを、Ust & Twitterで生で視聴できたのはかなり貴重だしエポックメイキングなものを感じることができたよ。しかもそれを知ったのもTwitterだったわけでさ。”そういう時代”なんだね。

さてぼくは1月25日の記事でこの日経電子版の概要を伝え、けっこういいんじゃないかと書いた。そしてそのあと2月1日の記事では値段が厳しくないかい?てなことを書いた。

果たしてどうなるだろう。

ぼくはこの電子版の登場が、かえって厳しい状況を引き起こす予感がしている。電子版にとってというより、日経新聞全体にとってだ。

つまり、この機会に各家庭が新聞そのもののコストを問い直してしまうんじゃないだろうかと思うんだ。そして問い直されたら、電子版をとるかどうかの前に、紙の新聞をやめちゃう世帯が続出しないかと。

実はいまのぼくがまさしくそんな気分なんだもん。

パネルディスカッションでも誰かが言ってたけど、新聞は習慣に過ぎない。例えば引越した時、電気やガス、電話なんかを申込み、あと新聞も連絡しなきゃと。”そういうもの”だったでしょ?日経新聞は4300円とちょっと高いんだけど、高いからとらない、という感覚はなかった。

ところが、電子版登場のニュースに接すると、紙を購読してるとプラス1000円なのか、電子版のみだと4000円か、とか検討する。必ずする。するとそこで、紙だけだといまも4300円毎月払っている事実に気づく。紙の4300円に1000円プラスすると5300円か、やっぱ高いな。電子版のみ4000円にするか、すると紙をやめることになるのか。そして紙だけだと4300円か・・・あれ?いままで毎月4300円払ってきたのって、なんでだっけ・・・そんな気分に襲われる。

そこで例えば「新聞テレビ断末魔」なんていう週刊東洋経済の表紙が頭に浮かんだりする。あちこちのメディアから、マスメディアはもうおしまいだぜ、というムードがいま伝搬しつつある。

えーっと、いっそ紙も電子版もなしにすっか、だって断末魔なんだろ?そんな結論に至ってしまう可能性がけっこう高いんじゃないか。何度も言うけど、ぼくがいまそうだから。何しろiPhoneで月々5000円ぐらい出て行くのだから。どっちとるかと聞かれたら、迷わずiPhoneに決まってる!

電子版のみで2000円くらいにはせめて設定しないとまずかったのではないか。でもおそらく、”紙は守る”という前提で料金プランを考えたんじゃないだろうか。だとしたらそこはまちがいで、”紙はいずれなくなる”という前提で考えなければならなかったのではないか。

あ、なんか今日はちょっと硬派な感覚になってしまった。せっかく”焼け跡”というサブタイトルもつけたのに、”焼け跡だぜゴーゴー”みたいな勢いがなかったね。そっち方面な記事は、また明日ね・・・

世の中はおもしろい人であふれてる!

そういうわけで、Twitterでフォローしてくれる人の数がその後も増え続け。へえー、と思ったのは、もともと知ってる人があとから増えた。きっとTwitter空間でぼくの名前が泳ぎ回っているのを、あれ?sakaiosamuって境くんじゃない?って気づいてくれたんだろうね。

さてそうやってフォローしてくれる人が目の前に来て「こんちはー」みたいな空気が出てくると、「あの、あなたは?」とその人を知りたくなる。知りたくなるんだけど、一度にたくさん増えたもんでひとりひとりを追いきれてはいない。

ただ、少しだけ何者かを追っていくと、へえー、と思った人がけっこういる。つまりセルフブランディングしてるつもりが、逆セルフブランディングみたいなことになってきた。

たぶん、これまでにTwitterに参加していた人、あるいは最近参加した人は、感度が高いというか、ちょっと創造性のある人たちなんじゃないか。けっこう、その活動を知って驚いたりした。うわ、こんなことやってるんだ、と思った人が多い。

焼け跡の例えで言うと、1945年の段階では本田宗一郎は大した人だと思われてなかっただろう。ソニーを興した盛田さんはひとりの技術者に過ぎなかった。でも何かをしようとしていたのだろう。胸の中でもやもやと、未来への火種を抱えていたのだろう。彼らはその火種を、ごおごおと大きく燃える炎に育てていったわけだ。

だったらさあ。ぼくが、へえー、と思ったことが、ひょっとしたら、うっひゃあーと世界が驚くようなことになるのかもしれないじゃないか。

Twitterを通じてぼくが発見したのは、世の中はおもしろい人であふれてる!ってことだったんだ。

ということで、メディアコンテンツ業界がどうしたこうしたというこのブログの合間合間で、そういう発見にも少しずつふれていくからね。・・・というわけで、今日はもう寝ちゃう。ZZZZZ….

Twitter× blogによるセルフブランディング実践報告〜焼け跡で、はじめまして〜

昨日書いた通り、土日にセルフブランディングの環境整備をした。と、言っても、結局明確にやったのは、このブログとTwitterの接点をつくったこと。ようするに、ほら、左のカラムのトップにあるでしょ?Twitterのぼくのアカウントを明示した。しかもgooブログはTwitterウィジェットに対応してないので、自分で簡単なモジュールを作って置いた。ホント、しつこく書くけど、gooブログは遅れてるぞ!

そいで今日は、健康診断で市ケ谷にのんびり行けばいいので、身支度をして9時半頃かな、出かける前にとMacを開いた。

そしたらね・・・

メールチェックをすると、にょきにょきにょきーっと「○○○○があなたをフォローし始めました」という件名が並んだ。10通以上あったかな、その段階で。

な、な、な、なにー?何が起こっているのら?

何が何だかわからない。ぼくはこれまでTwitterについてホントに何をどうしたらいいか分からず、少しずつフォローしてきた。それに連れて少しずつフォロワーも増えてきたけど、先週金曜日の段階で13人ぐらいだった。それがこの土日でつぶやくようになったら、30人ぐらいになっていた。

それがいきなり、10人ぐらい一挙に増えていた。しかも9時40分頃からの10分間くらいの間で。

よくわからないまま、電車に乗ってiPhoneでまた見ると、とにかく続々フォロワーが増えていく。これはもしやと、Twitterを見てみると、やはり!佐々木俊尚さんがまたつぶやいてくれたのだった。

なるほど!土日の間の作業がさっそく形になったわけだ。その段階ではそういう、あ、なるほどねー、という気分だったのだけど、そのあともメールチェックするたびに増えているの、フォローし始めました、が。結局、一日中続いた。

一日でフォロワー数が110を超えていた。

ふえええ!これがセルフブランディングの端的な効果らしいぞ!

ぼくは仕事では時折、クライアント企業に「御社の企業サイトと今回のスペシャルサイトの間でトラフィックをうんぬん」などと言っている。だから驚くことでもないはずだけど、”じぶん”のトラフィックがごごごーっと増えたことを実感でき、驚いちゃった。”おれコンバージョン”が上がった。そんな経験ってなかなかないかも!

なかなかないかも、と思うのは、いろんな状況が重なった、と言えるから。Twitterをようやく自覚的に使いはじめたこと。iPhoneを買ったこと。そして日本中でおそらくぼくみたいな人が同じツールに手を伸ばしはじめたこと。そして佐々木俊尚さんが時代の預言者として注目されていること。その佐々木さんが前からこのブログに目を留めてくれていたこと。

少なくとも、Twitter × blogは、セルフブランディングの最もベーシックで有効なツールなんだろうね。

さてみなさん、ぼくはいま、iPhoneを手に、焼け跡に立っています。あらためて、はじめまして。ぼくたちがこうして出会ったことにはどんな意義があるのかな?えーっとね・・・

そう、それは、これからってことだね。出会って、昔の女子高生のポケベルみたいにどうでもいいことつぶやきあってるんじゃアレだからさ。何かを生み出すために、何かをシンクロさせていこうよ。そういう試みを、ぼくはやっていくから、ね。アー・ユー・レディ?・・・

ちょっとちがった日本の広告費2009

1月27日の記事で、電通がもうすぐ発表する2009年の日本の広告費がわかったのでと、グラフ化して見せた。

それはこの人のブログのこの記事から得た情報を元にしていた。

テレビ広告費が1兆6000億円、新聞広告費が6500億円、というものだった。

ところが今日、電通が公式に発表した2009年日本の広告費のデータではけっこうちがった。

テレビ広告費が1 兆 7,139 億円、前年比 89.8%。新聞広告費は6,739億円、前年比81.4%。。新聞広告費はともかく、テレビ広告費が1000億円もちがっていた。

人のブログで得た情報を、信憑性もよく確かめずに書いちゃって、すんまそん。

このブログでは”セミナーに出たら聞いた”とあるので、それなりの情報源だったのかもしれない。電通の集計途中の数字だった可能性が高い。

ということで、お詫びして訂正します。

焼け跡からみんながぞろぞろ這い出して、裸で挨拶しあっている!

セルフブランディング、ってみんな知ってる?わかってる?わかってるようでわかってないかもよ。えーっと、と一瞬考えちゃった人は『ネットがあれば履歴書はいらない』(著:佐々木俊尚・宝島社新書)を読もう。すぐ読もう。さあアマゾンで注文しよう。

簡単に言うと、ネット上での”じぶん”を戦略的に構築する、ということ。

詳しくはまあ本を読んでよ。で、これまでブログを書いてきた人は、それとTwitterをどうリンクさせていくかを具体化していけばいい。それだけでかなり自分をブランディングできるだろう。少なくとも、”自分”という存在への”導線”が整備できる。導線を整備しないと、けっこうもったいないことになる。

例えばね、Bit.lyというTwitterに便利なURL短縮サービスがあるのだけど、そこでは付帯的にいろんなことができる。ひとつの機能として、あるサイトのURLがTwitterでどれくらい”つぶやかれた”かもわかる。それで試しにね、前々回のちょっと扇動的な記事で調べてみたわけ。そしたらさあ、すごい数の人がつぶやいてくれてたわけよ。

なんでそんなに多くの人がつぶやいたかと言うと、佐々木俊尚さんが最初につぶいてくれたからなんだけどね。でも、ブログ上だけだと、珍しくコメントを何人かからもらってたなあ、ってぐらいだったのが、こんなにつぶやかれてたなんてちいとも知らなかったと驚いたわけ。

ところがこれまで、ぼくはこのブログとTwitterをまったくつないでなかった。そこがたぶん、もったいなかったんだね。ブログ読んで”共感するぞ!”などとつぶやいてくれた人は、Twitter上でのぼくの居場所はわかんなかった。

そこでこのブログの左肩に、Twitterのぼくはここですよ、というモジュールをつけた。ちなみにgooブログはTwitterウィジェットに対応していないので、このモジュールは自分で簡易につくったのよ。どうなのよgooブログ。Twitterぐらい対応しろよ。引越しちゃうぞ!

それから、すごく重要なこともやった。

ぼくは2005年6月からブログを書きはじめた。その頃はフリーランスだったので実名でやっていた。その後、2006年にいまの会社に入ってからもいけしゃあしゃあとそのまま続けていた。でも2008年3月にこのgooブログに移ってからは、実名も会社名も出さないことにした。メディアやコンテンツの行く末について書いているとどうしてもマスメディア企業や大手代理店の悪口と受け取られかねないことも書くので、どこの誰かがすぐにはわからないようにしていた。メールの署名欄にさり気なくURLを入れておき、ぼくに個人的な興味がある人なら読むのかもなー、という曖昧なスタンスで書いてきたのよ。

そういうの、もうやめた。実名で書くことにした。会社名も明記しちゃうぞ。どこの誰が書いているのか、はっきりさらすことにしたのだ。ただし、ここでぼくが書いていることは、ロボットの見解ではないからねー、と。

おれ執行役員だしなあ、なんて気にしてたんだけど、もう関係ないと思う。関係ない状況になったと思う。だいたい、執行役員なんて実は契約社員だからね。(日本の会社法には執行役はあっても執行役員はない。法的には存在しない肩書なのだ)関係ない状況になった、というのが、こないだから興奮気味に言っている”いまは高度成長の焼け跡”だから。

話を戻すと、そんな決然とした気持ちで、この土日はセルフブランディングの整備に費やした。費やしたけど、Twitter以外にもFacebookだのTumblrだの、ソーシャルメディアっていっぱいあんのね。しかも互いに連携していたりする。またTwitterのクライアントツールや周辺ツールもいろんなのがあってさ。どれで何がどうできるのか、まだじぇんじぇん把握できない。これは毎日少しずつ学んでいくしかないやね。

そうやってツールの整備もしつつ、さっきの”知らない間につぶやいてくれた人たち”をTwitterでフォローしていった。それから、少しは自分からつぶやくようにもなった。そうすっとね、自然とフォローしてくれる人も増えていったの。と言ってもまだ30人くらいだけど。でも金曜日まで13人とかだったから、土日で一気に増えた。動いていれば、自然と増えるんだね。

フォローした人、してくれた人、それぞれ見ていくと、みんなまだまだフォローもフォロワーも少ない人がほとんどだ。ツイッターね、おれもやってみっぺ、と最近はじめたんじゃないかな。

それはつまりね、あー焼け野原になっちゃったなー、でも動かなきゃなー、おれも何かやんなきゃ、と思った人たちがつぶやきはじめたってことじゃないかな。焼け出されて、それで意気消沈してるんじゃなく、むしろ”さあ動くぞ、明日をつくるぞ。とにかく生きなきゃ!”という覚悟と前向きさを持っている状況なんだ、きっと。

焼け出された人たちだから、みんな裸も同然。いままでの実績だのなんだの、もう焼けちゃったから。そんな人たちと、ぼくも裸で、どうもどうもと挨拶している。いままでの居場所も、年齢も、全然ちがうんだけど、どうもどうも、一緒に何かできますかねえ、私は、こんなことならできそうな気がします。そういう状態。

焼け野原はつらい状況だけど、Twitter上で見るみんなの顔は、むしろ明るいみたいだ。だって守るより、つくる方が面白いもんね。

ハロー、みなさん。いま、何してる?明日、一緒に、何しましょうか・・・

ギョーカイ焼け野原を確認する〜第3四半期決算まとめ〜

えーっと、この表、数字も視認できるかな?あ、逆に大きすぎた?ま、よく見えていいでしょ。とにかく業界各社の2010年3月期の第3四半期決算をまとめてみた。それと、各社の通期予想値も一緒に並べてあるよ。

まず総論的に捉えると、とにかく業界の”焼け野原ぶり”がよくわかる。どこもかしこも大変なことになっておるよ。

テレビ局は前期、売上はさほど減らず、営業利益がガタ落ちだった。今回は売上からしてすごいことになった。前期は下期から急にスポット収入が落ちたのに対し、今期はスポットだけじゃなくタイム収入も二桁ダウンが続いた。その影響が売上高にもろに出たわけ。

ただ、よくよく見ると、営業利益には差が出てきた。とくに日テレは売上高が大きく減ったのにも関わらず、営業利益は大幅に上がった。もちろん、番組経費や販管費をものすごく抑えたのだ。社員にとっての”痛み”もきっとあっただろう。あえて痛みを共有してこの難局を乗り越えようという覚悟が見てとれる。

テレビ東京も営業利益を増やしたが、日テレと意味合いがちがう。前期の営業利益からすると、もう崖っぷちだからなんとか踏みとどまるしかない、という状況。こういう時、限られたプレイヤーでの競争では、規模が小さいところがいちばん危うくなるのは仕方ないだろう。

代理店チームでは、この第3四半期決算で、博報堂が(表にはないけど)最終純益で赤字となった。また、唯一12月が決算のADKは営業利益で赤字。大手代理店が赤字になるなんてことは考えられないことだった。まさに焼け野原状態。

広告代理店3グループの今期の予想数字(ADKは決算期がズレた状態の実績値)を足して前期と競べると、売上高で4100億円減っている。たった1年で4100億円も入ってくるお金が減っちゃったんだぜ!

しかも、前々期と前期とでは3グループの売上高は2900億円ほど減った。つまり、電通・博報堂DY・ADKでこの2年間の売上が7000億円も減ったんだ!3兆6000億円が2兆9000億円になったってわけ。これは東京大空襲も同然じゃないか。

東北新社と葵プロは映像制作の大手。というかほとんどCMプロダクションがメイン。テレビ広告費の大幅ダウンはここにももろに影響が出て、売上高が15%程度落ちている。短信の中身を読むと、純粋な制作事業では両社ともほぼ20%ダウンだそうだ。前にも書いたように、テレビ広告費全体は17%ダウンだったらしいから、わかりやすく制作にも跳ね返っている。

昨日、ぼくはお気楽に面白くする側に参加しようと書いた。でもはっきりしているのは、こうした既存のクリエイティブ事業が焼け野原になったからと、新しい領域に進出しても、あと2〜3年はお金にならない。そういう領域だけではとてもじゃないけど食えないんだ。

既存の制作事業、例えば映像製作で言うと、テレビに流すコンテンツを制作すると手にするおカネが100とすると、新領域での映像製作は、作業内容はほぼ同じなのに手にするお金は10とか5とか3とかになる。それぐらい水準がちがう。

ようするに、新領域(まあWEB上で流すムービー作ってよとかそういうこと)に回ってくるお金の全体が少ないんだ。額が小さいのよ。

どうしてそうなってしまうのか?そりゃまた次に書くことでんがな・・・