Twitter市民革命は、何を革命するか(まだよくわからんけど)

前回のTwitter市民革命と地方主権の話を書いたあと、いろんなことを考えたり、Twitterで反応Tweetをもらったりした。

そこでハタと気づいて、佐々木俊尚さんの新著『マスコミは、もはや政治を語れない』をだだーっと急ぎ足で読みはじめた。この本は実は発売当日に書店で買ったのに”積ん読”状態になりかけていた。でも、あ、おれがいま考えてることと近いみたいな気がするー!と感じとって慌てて読みはじめたのだ。まだ途中だけど、やっぱり関係していた。タイムリー。

正直言って最初は”なんで次は政治なのかなあ”とピンと来てなかったのね。

『2011年 新聞テレビ崩壊』でマスメディアはもうビジネス的に本格危機だよ、と警鐘を鳴らし、『ネットがあれば履歴書はいらない』でセルフブランディングを啓蒙した。一見関係がないこの2冊は(『仕事するのにオフィスはいらない』も含めれば3冊)実はすごくつながっていて、何しろぼくがこのブログで書きつづってきたように、マスメディアがいままでほどじゃなくなったらネットで自己発信をしていくべき時だ、という具合につながった話だった。

そこで次に”政治”がテーマとして掲げられた。マスメディアの危機を書いた人なのだから「マスコミと政治」に行くのは当然のようで、ぼくの中では当然ではなかった。マスメディアの危機はあくまでビジネス構造の危機であって、そこで行われる言論とはつながってなかったのだね、ぼくとしては。むしろ「政治って言われても政治はまたレイヤーが相当ちがうんじゃないすか?」と思ってた。でも他ならぬ佐々木俊尚さんの新著だから「ま、おさえとくか」と買ってあったというわけ。

そんな”え?政治っすか”と鈍かったはずのぼくが”Twitter市民革命だあ”などと底が浅いながらちょっと政治のコトバを発していたのだ。あれ?政治につながっていったじゃない、おれ。そう気づいたわけ。

佐々木さんはいま、「2010年代の預言者」と言えるんじゃないか。

ぼくはいま”預言者”と書いた。”予言者”じゃないことに注意しよう。つまり”予言”は占いとかあるいは科学的な根拠を元に未来のことを類推するのに対し、”預言”とは神の言葉を”預かって”伝えることを言うのね。深いのね。重いのね。深淵なのね。しつこいね、おれ。

少なくともぼくは自分の考えの道筋を見透かされたと言うか、あらかじめ導かれたと言うか、まさしくそんな感じになっている。だからぼくにとっては預言者と言ってしまって過言ではない。

さて『マスコミは、もはや政治を語れない』を途中までだけど読んでつくづく知ったのは、ぼくが言った”Twitter市民革命”はとっくに起こっているということだ。遅すぎだぞ、おれ。ぼくが@m_kaneko氏に導かれてTwitterでアカウント持ったのは去年の10月だったのだけど、醍醐味が分かるようになったのはこの1ヶ月ぐらい。でももっとずっと前から、Twitter市民革命は起こっていた。去年の衆議院選挙あたりからすでに沸騰していたんだね。

そのもっと前、2005年あたりからブログ上で”市民”たちが重厚な発言をはじめた。それがTwitterによって”つながり”はじめたのが去年だということみたいだ。ぼくが今ごろ味わっている”ブログとTwitterでの交錯”を、みんなとっくに堪能し、彫り込んできていたのだね。

そして、『2011年 新聞テレビ崩壊』とつながってくるのが、こうした”市民”の言論の盛り上がりに対し、マスメディアにおけるジャーナリズムがいかに”ついていけていない”かだ。マスメディアは事業として危機にあるわけだけど、その上で行われてきた言論も危機にある。それぞれの原因はまったく関係ないところにあるはずなのに、同時に起こってしまっている。そういうものなのかもしれないね。

それぞれの原因は関係ないように見えて、実はそれぞれの元の元をたどると同じところに行き着くからだ。それはぼくが少年の頃に感じた”会社に生かされるのはイヤだ”という感覚とほとんど同じ源泉なのだ。つまりはなんかそっけなくてつまらない言い方だけど、”この国の近代が終わろうとしている”からだ。

明治維新以来のこの国の近代化は少しイビツだった。明治大正期はまだ健全だったのが、昭和に入って屈折がはじまった。1940年代に整ったすべてのシステムが第二次大戦後も継続され、その上に乗っかって経済成長を高度に達成した。それはいわゆる”1940年体制”であり、お国のためにすべてを大企業に集約しちゃおうというものだった。それが功を奏して製造業の大企業がにょきにょき東京を中心に立ち並び、農村から人がどっと押しよせて工場労働者とビジネスマンになっていった。みんなが豊かになっていく中で広告が必要になりマスメディアが確固たる地位を築いていった。豊かになった人びとは次々にテレビと新聞におどる自動車や家電製品の消費者になっていった。そこに流れ込む巨大な広告費のおかげでクリエイターが誕生し、ジャーナリストが力をつけていった。すべてには東京とか、大企業とか、キー局や大新聞とか、そういう中心が存在し、中心が肥大することで周縁もうるおっていった。やがて80年代にはそれぞれ”中心的存在”は開拓者から”権威”になっていった。80年代にそこんとこちょっと省みるべきはずが、バブルが起こってみんな大誤解した。大誤解を修正できないまま20年が経ってしまってほとんど無為に過ごした。そこにインターネットが登場し、ブログでまとまった発言が”非権威”の人びとでもできるようになり火がくすぶりはじめたところへTwitterがその小さな火を大きな炎にしようとしている。それがいま、この現在なのだった。

ぜぇぜぇ。一気に書いたら息切れが・・・

息切れしたのでつづきはまた明日。・・・ん?しかしこの話のつづきはどうなるのだろう?ぼくはこのつづきとして何を書きたいのだろう。何か書きたがっているのだけど、何を書くのか自分でもよくわからない・・・ま、書きはじめたらなんか出てくるんじゃない?・・・

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