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コピーライター→映像製作会社ロボット→広告代理店ビデオプロモーション→再びコピーライター(フリーランス)。 メディアとコンテンツの未来を切り拓くコミュニケーションをデザインします。講演・執筆依頼もお気軽に!

広告はメディアが背負う原罪なのか?(あるいは広告とコンテンツは融合できるか?)

雑誌『宣伝会議』のネットメディア・Advertimesに、谷口マサト氏とぼくの対談記事が2週に渡って掲載された。(「広告とコンテンツ融合の可能性」(前編)(後編)「境治さんに聞きに行く」となっていて、実際にぼくが間借りしているデザイン事務所BeeStaffCompanyに”聞きに来て”くれたのだが、記事を読むと聞いているのはぼくの方だ。谷口氏がぼくを対談相手にオファーしてくれたのは光栄だったけれど、ぼくは谷口氏に聞きたくて仕方ないことがたくさんあったので、対談の主従が逆転したようなことになっている。何しろ、谷口氏は興味深いのだ。
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対談の趣旨はそのタイトルの通り、「広告とコンテンツの融合」だ。このところとくに気になっているテーマであり、谷口氏は実際に融合にトライしつづけている。記事や番組などのコンテンツと広告は分離してここまで進んできたが、そのままでは何かと難しくなっている。だからこうした試みや議論が必要なのだ。

広告とメディアの関係はどうあるべきか。これは古くて新しい、決着のつけにくい議論だ。

一時期、『FREE』という書籍がメディア論の中で話題になった。つい最近の気がしていたが、いま確認したら2009年の出版だった。もう5年も前の本だと思うと感慨深い。雑誌”WIRED”の編集長だったクリス・アンダーソンが書いた大作で、メディアやコンテンツがどう収益を出せばいいかを、過去の多様な事例をとりあげながら考察している。

各章にかかれていることにいちいち驚いたり感心したりした本で、いま読んでも新鮮だ。中でも強く印象に残ったパートがある。第9章の冒頭に書かれている、ラジオ放送黎明期の話だ。

1920年代のアメリカでラジオがブームとなり全国の家庭を席巻した。ところが当初のラジオ番組制作費は、ラジオメーカー自体が負担していた(この時点で驚きだが)ので、ラジオの普及につれてコンテンツへの需要が増えていくことに対処できなくなった。

そこである雑誌が番組制作費の問題の解決策を募集した。リスナーの募金、政府に頼る、番組表を有料にするなど多様なアイデアが出た。中には広告を入れる、という回答もあったが、”評判はさっぱりだった”そうだ。

でも結局、ラジオ局のひとつとして生まれたNBCが、広告を入れるやり方をとってうまくいった。それが他のラジオ局やその数十年後のテレビ局にも受け継がれたのだという。

つまり、みんな広告モデルはいやだったけど、ラジオ放送の本格的な発展にはそうするしかなかった、ということだ。そこにはどうやら、メディアと広告の、不可思議な関係の根本が潜んでいる。いやだけど、メディアを運営してもらうためには仕方ない、そんな存在が広告なのだ。言わば必要悪。そう、広告の原点は”悪”なのだ。

友人にビジネス誌の編集者がいる。彼が言うには、編集と広告営業の間には深い深い溝があるという。編集側は、広告営業の入れてくる要望にただ従ってはいけない。言わば社内に敵がいるのだ。ある記事で企業について批判的なことを書く。営業がやって来て、この企業は広告出稿を定期的にいただくお得意様だ。こんな記事が載ってる雑誌を見せられない。いますぐ書き直してくれ。そんな営業の”横暴”に対し、編集権を守り簡単には譲らないのが編集者の矜持なのだそうだ。

コンテンツに口を出してきて、そのクオリティを侵しかねない厄介者、それが広告。

読者から見ても、広告はうざい。すきを見せると何かを売りつけようとするふしだらな存在だ。ネットメディアの時代になって、広告を忌み嫌う風潮が強まった気がする。実際、広告が目に入らないWEBの見方をみんな自然とやっている。広告は邪魔者であり、メディアの価値を損なうもの。そうでしかないのだろうか。

だが一方で、ネットに限らずメディアは広告費によって成り立っている。地上波テレビやラジオの多くは100%広告頼みで運営している。新聞や雑誌だって購読料とは別に広告費がないとやっていけない。ネットメディアも広告収入がなければ立ち行かなくなる。広告のおかげで読者もメディアを楽しむことができる。なのに、そんなに忌み嫌われるべきなのだろうか。

谷口マサト氏の試みも、そんな問題意識から起こったものだ。読者は広告を嫌うけど、コンテンツは見たい。メディアは広告に接してもらわないとビジネスにならない。だったら、広告がコンテンツとして楽しめるものになればいいのではないか?そんな問いかけを彼の仕事から感じるのだ。

広告とコンテンツは明確に分けられて進化してきた。テレビでは、番組の時間と広告の時間はくっきり分かれている。そういうルールを理解して見る側も視聴している。

だがマスメディアの歴史はそもそもこの100年程度のものだ。この100年の間、広告とコンテンツは分けましょう、というルールでやって来た。でもこれからはそのルールに変更があるかもしれない。いま、その変化の境目にぼくたちはおそらくいるのだ。

先日の記事で業界人間ベムの年頭の記事をとりあげたが、その中で「ネイティブ広告」という新しい概念が出てくる。今後の広告界のひとつの重要なキーワードになるだろう。ネイティブとは個々のメディアに対してネイティブ、ということだ。古い言葉で言えば、記事稿やタイアップ記事もネイティブ広告の一種だと言えるので、日本の業界にとっては新しい概念ではないかもしれない。アメリカでは記事稿の文化がなかったのでネイティブ広告と言う新しい言葉が必要になった。

ネイティブ広告は記事稿以外にもいろいろなスタイルが考えられそうだ。谷口氏の一連の仕事も、その一種なのだと言えるのかもしれない。

ネイティブ広告が注目されるのも、スマートフォンの普及と関係がある。スマホでは、広告スペースが生きそうにない。そもそもそんな枠が大きくはとれない。ネットとの接触がどんどんスマホに集約されていくと、いままでのバナー枠が効かなくなりそうだ。そういう”広告枠”の成立が難しそう。だから、ネイティブ広告がおそらく必要になる。

それはステマとどうちがうのか?バナーのような、またはそれ以上の広告効果が見込めそうなのか?そこで求められるのはPV数?別の指標?

そんな疑問だらけの領域がネイティブ広告。でも、メディア界、コンテンツ界は、このわけのわからない世界に踏み込まないわけにはいかないだろう。ネイティブ広告なりのルールとモラルをこれからつくりあげていくのだ。走りながら考えるのだ。

広告はコンテンツとの融合が図れれば、メディアとの新しい理想的な関係が構築できて、必要”悪”を脱出できるのかもしれない。ネイティブ広告は、21世紀のメディアを導く道筋のひとつとなるだろう。

コミュニケーションディレクター/メディアコンサルタント
境 治
What can I do for you?
sakaiosamu62@gmail.com
@sakaiosamu

ドラマを見逃したらスマホで見ればいい時代、はじまる?

先週は「ヒカキンのCMデビューは、放送と通信の融合の具体化かもしれない」という記事で、YouTuberヒカキン氏がテレビCMにデビューしたことの意義について書き、続いて「2014年のはじまりはメディアの変化を思い知らされた」と題した記事では、ネット動画が今年は盛んになりそうだと書いた。

2つ目の記事の中で触れたように、”もっとTV”で民放ドラマの定額見放題サービスがはじまった。これだけで十分びっくりしたから書いたのだけど、この連休中にさらにびっくりなニュースが飛び込んできた。
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1月11日(土)21時からはじまった『戦力外捜査官』というドラマ。武井咲とEXILEのTAKAHIROが主演のコミカルな刑事ドラマで第一話はなかなか面白かった。鴻上尚史氏が脚本というのも注目だ。だがここではその内容はちょっと置いておこう。

びっくりなニュースとは・・・日本テレビがこのドラマを無料でネット配信しはじめたのだ。 具体的には、翌週の第二話放送前まで、第一話が無料で観れる。第二話も放送後から無料配信する。第三話も・・・といった流れで、つまり放送を見逃しても一週間はいつでもネットで視聴できるということだ。

ドラマ放送後のネット配信は、この数年で各局が体制を整えてきた。いまや、いわゆるキー局はすべてそれぞれ見逃し視聴のサービスを行っている。ただし有料だ。一時間ドラマだと300円程度を支払う必要がある。また視聴するためには各局のオンデマンドサービスに登録したり、あるいはGyaOなどの配信サービスに登録したりする必要があった。 ところが『戦力外捜査官』は無料なのだ!これは画期的、大英断だと思う。しかも登録手続も何も要らない。いきなり再生できてしまう。

ネットでの見逃し視聴を積極的に展開した方がいいのではないか。そんな議論は去年あたりから巻き起こっていた。『半沢直樹』ではtwitterなどで話題が盛り上がったのを見て、第3話とか第4話から見はじめた人も多かった。それまでの見逃した分を、たまたま録画してあればいいが、そうでないとネット配信で見ることになる。正規のサービスで見た人も多いと思うけど、違法にアップされているのをよくわからないまま検索で出てきたからと見た人も相当多いだろう。結局は違法で見られちゃうなら、局として無料で見せた方がいいのではないか?そしてそうすれば、話題になったドラマを途中から見てくれる人が増えるのではないか?そんな議論があちこちで聞かれた。かくいうぼくもそんなことを言っていたのだけど。

でもハードルは高い。無料で見せるならCMもそのまま一緒に見せたくなる。そして番組の提供スポンサーに、ネットでさらにこんなに多くに見られました、と広告収入をお願いすればいい。・・・のだけど実際にはそう簡単に成立する話ではないだろう。

また、せっかく各局ともオンデマンドサービスを整えて黒字になる局も出てきている中、無料にしてしまっていいのかという議論もあるだろう。何年もかけて努力してやっとビジネスになってきたのにと。きっと巻き起こったであろうそんな議論を乗り越えた日テレは、やるなあ、というところだ。

やるなあというのは、視聴する際に何の登録も要らない点にも感じた。他のサービスでもそうだけど、登録の手続きはコンバージョンを下げる大きな要因だ。でも普通に考えると、無料で見せる代わりに日テレオンデマンドへの登録だけはしてもらおうぜ、としたくなるものだろう。そこを割りきって、とにかく見てもらうことを重視したのは、やるなあ、ということだ。

無料配信するのは大サービスだが、例えば第四話を放送後に第三話を無料で見たら、第一話第二話も見たくなるのが人情というものだ。中には、前までのものを有料で見る人も出てくるはずだ。結果的にはオンデマンドサービスにプラスをもたらす、との皮算用もあったのではないだろうか。

<日テレいつでもどこでもキャンペーン>というタイトルが掲げられている。だから、これからずっと無料配信するとは限らない、ということだろう。キャンペーン期間中なのでサービスしてます、と。15日からはじまる水曜10時枠の『明日、ママがいない』もキャンペーンとして同様に無料配信するようだ。

また日テレのオンデマンドサイトだけでなく、GyaOドガッチでも展開されている。自社サービスだけでなく多様なアクセスを可能にしているのも面白い。

この施策が例えば視聴率にどんな影響を与えるのかはわからない。プラスに働くはずだとは思う。「半沢直樹」では、ふだんテレビドラマをあまり見ない若者層も引きつけた。『戦力外捜査官』も、ネットで見て面白かったから放送で見てみよう、という人も出てくるかもしれない。それが視聴率という巨大な人数を動かさないと目に見える変化になってこない世界で、明確な影響を及ぼすに至るかはわからないだろう。ただとにかく、トライアルの精神が大事だと思う。

これを契機に、各局のドラマが無料配信されると面白いなと思う。そしてドラマに限らずすべての番組が気軽に放送後にネットで視聴できるようになったら、テレビ番組に接触する人が増え、やがては放送で見る人も増えるのではないか。あるいは、ネットだけで見ることでも、ビジネス化は可能なのではないか。行き詰まりつつあるテレビ放送の新しい形が見えてくるかもしれない。

それにしても今年は、やはりネット動画が加速しそうだ。その影響はあちこちに及んでいくと確信している。ぼくはネット動画にどう取り組むべきかについてもアドバイスできると思うので、何らか考えたければコンタクトしてください。ローカル局や、映像を扱ってこなかったメディア企業に対して、いろいろ助言できるつもりだ。

コミュニケーションディレクター/メディアコンサルタント
境 治
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2014年のはじまりはメディアの変化を思い知らされた

2014年、仕事始めの週が終わった。この5日間でぼくの目の前に流れてきた情報は、メディアの変化を思い知らされるものばかりだった。

まず業界人間ベムが「2014年 広告業界7つの予測」と題した記事を配信していた。広告業界の人ならご存知、デジタルを中心にしたマーケティングの横山隆治氏のブログ。かなり専門的なので広告業界でない人には読みにくいかもしれないが、まあ斜め読みでもざっと目を通すといいと思う。

勝手な解釈をしてしまうと、”ネット動画広告”が7つのうちの2つの項目に登場する。今年はネット動画が大きなキーワードになるんだなあと受け止めた。もうひとつは、ネイティブ広告が注目されるという話。だろうなだろうな、そうだろうなー。

と思っていたら、日経デジタルマーケティングの気になる記事も流れてきた。「セブン&アイが2014年度のネット広告予算を10倍以上へ、オムニチャネル推進へ戦略転換」という記事。セブン&アイはグループ全体で広告宣伝費を1000億使っているのだが、その中で1%にも満たなかったネット広告費を10%、100億円に引き上げるという。

この記事は会員にならないと読めないのであまり中身を書けないが、重要だと思ったのはこの部分。

 テレビを見た人の購入率は、見ない人の1.8倍。テレビCMとネット広告を見た人の購入率は、見ない人の5倍になった。さらにGDNとYouTubeをうまく使うと、購入率はそれらを見ない人の10倍に達したという。鈴木社長は、テレビCMとネット動画広告を組み合わせることで、効果的な販促を実現できることを改めて実感したというわけだ。

テレビの効果は踏まえつつも、テレビとネット動画を組み合わせた方が効果的だという判断らしい。つまり、ネット動画による広告に大きく予算を配分することになる、ということだ。

一方、こんなニュースも聞こえてきた。

「民放5社が月945円で番組見放題サービス開始 スマホやタブレット向けで」

“もっとTV”というVODサービス、これまでドラマ1話何百円、という売り方だったのに加えて、定額見放題、つまりhuluのような売り方もはじめる、というのだ。定額メニューに入っている番組は限られているが、画期的だと思う。

動画が来るなあ、ネット動画の2014年になるなあ、と受け止めた。

何しろ、去年はスマートフォンの普及が決定的となった。普及率の数字としては3割とか4割とか、世帯だと5割なのだとか、いろんな数字がありつつ、とにかく誰も彼もが使っている。スマートフォンの普及は、人びとのメディア生活を変えてしまう。

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これは人前で話す時に何度か使った図なのだけど、スマホによってデジタルメディアがほんとうの意味で生活に根づくのだ、と言いたい図だ。

メディアと人びとのもっとも大きな接点がリビングルームだ。昔でいうお茶の間だ。自宅のそういうスペースでゴロゴロしながら接触することがメディア消費なのだ。お茶の間ではラジオを聴いたりテレビを見たり新聞を眺めたり雑誌をめくったりしていた。旧来のマス4媒体とはようするに、お茶の間でだらだら過ごす時に接触していたのだ。

PCは実は、そういう時間には向かなかった。結局は仕事のために作られた端末だから、リビングルームで使うには小難しすぎたのだ。だからこれまでのネット動画は、若者が自分の部屋でPCで視聴するような状況がほとんどだったろう。

スマホはゴロゴロしながらいじるのにうってつけだ。だから、ネットコンテンツも多くの人びとに接しやすくなる。それまではリビングルームでネットに接しなかった層も、スマホで接触するようになっていく。動画だって、年配層がネットで視聴する機会も増えるだろう。

困ったことに、そこではPCで見る前提で発達してきたことは通用しなくなる。バナー広告はPCの時代より、効かなくなる。むしろ、ネット動画の方が接触するようになるだろう。

だから2014年は、ネット動画がホットワードになる。メディア企業はネット動画でマネタイズの機会を増やそうとするだろうし、企業は広告でネット動画を積極的に使うようになるだろう。

この現象は、これからのメディアや広告に構造的な変化をもたらすことになる。比率だのやり方だのを大きく変えないわけにはいかなくなるはずだ。

そんな変化をはっきり予感させられた、2014年のはじまりだった。

コミュニケーションディレクター/メディアコンサルタント
境 治
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ヒカキンのCMデビューは、放送と通信の融合の具体化かもしれない

放送と通信の融合、という言葉がよく言われる。刺激的だが、これ、意外に具体がわからなかったりもする抽象的な言葉だと思う。スマートTVがその具体化の最先端のはずだが、家電量販店のテレビ売場ではスマートTVより4Kばかりアピールされている。結局は、AppleTVやTSUTAYA TVのようなVODサービスでしかないのかもしれない。それは”融合”と言えるのか?

angfaところで、スカルプDという頭皮ケアを謳うシャンプーがある。雨上がり決死隊の二人がCMに登場している、と言えば思い当たる人は多いだろう。そのスカルプDのCMに最近、ヒカキンという青年が出演しているのを知っているだろうか。

言葉で説明するより映像を見てもらう方が早いだろう。こんなCMだ。

このヒカキンという青年は、いわゆるYouTuber(ユーチューバー)のひとりだ。説明するまでもないと思うが、YouTuberとは、YouTubeを舞台に活躍するなんというか、映像作家というかタレントというか。自分で映像を企画して自分で撮影して自分で編集して自分でアップしている。そんな若者たちがいま、YouTube上で人気を博しているのだ。

そういう若者はもっと前からいたのはいた。ただ、つい数年前まではその他大勢にすぎなかった。でも最近は、はっきり”人気者”が登場している。ヒカキンはその中でもずば抜けた存在感を発揮している。

ヒカキンTVという自分のチャンネルをYouTube内に持っていて、チャンネル登録者数は今現在で90万以上。ひとつひとつの動画も、数十万回の再生回数が普通だ。

企業がプロに制作させた広告映像や、テレビ局がプロモーション用に持っているチャンネルでも、数十万の再生回数はそうそう行かない。YouTube上ではプロよりずっと上を行く存在なのだ。

彼の作品はもともと、商品を題材にした映像が多い。企業からの依頼で作っているものもあれば、自分でその商品に興味を持って作ったものもあるようだ。とにかく、商品について語るのがヒカキンのひとつの特徴だ。

スカルプDも、そもそもは自分で勝手に商品を使ってみて映像にしたのが始まりだそうだ。それに注目したスカルプD側がヒカキンにCM出演のオファーをしたという。

ヒカキンTVには、そのことを自分で語る映像もアップされている。

面白いのは、CM出演をヒカキンが素直に喜んでいる点だ。前々からCMに出たかったと上の映像の中で何のてらいもなく語っている。商品の紹介も実に丁寧に説明してくれている。スカルプDとヒカキンの互いに認めあってのコラボであることがよく伝わってくる。

ネットで活躍しているから、テレビを”マスゴミ”呼ばわりするのかと思うと、そういうわけではない。彼がYouTubeで活動しているのは、別に旧来型のメディアへのアンチテーゼなどという肩ひじ張った動機ではなく、やってみたかったからやってみた、ということなのだろう。そこがすごく”いま”の現象だと感じた。

「放送と通信の融合」という言い方もずいぶん肩ひじ張ったものだが、その具体化は、スマートTVだなんだより、このCMのようなことかもしれない。ネットで活躍していた青年がテレビに出る。そんな他愛のない、でも極めて現在進行形なことにこそ、”融合”の本質があるのではないだろうか。

ぼくは、今年、こういうことがかなりあちこちで起こるのではないかと予測している。スマートフォンの革命的な普及は、こういう現象を導き出すのだ。放送と通信の融合が、あちこちで、肩ひじの張らないユニークな表れ方で、起こるのだと思う。

コミュニケーションディレクター/メディアコンサルタント
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2014年、明日を変えていくメッセージをつむぎたい。

年が明けて、もう明日からはほとんどの人が仕事始めだ。このブログも、2014年を始動させようと思う。みなさん、明けましておめでとうございます。

”クリエイティブビジネス論”のタイトルで、メディアやコンテンツの最先端や行く末について書いてきた。2008年3月からなのでもうすぐ6年が経とうとしている。よく続いたものだと思う。

去年から、ちょっとした実験をはじめた。ふつう、記事を書く時は何となく思いついたことを、その時々でタイトルを漠然と考えて書きはじめる。タイトルと内容はセットで考えるのだ。書いた後でタイトルを書き直すことも多い。

一方、最近ネットでの物事の伝わり方で”見出し”と”ビジュアル”がセットになっていることが多いなあと思った。なんだそりゃ?と思わず興味を引く見出しの言葉と、記事の中で使われた挿し絵的なビジュアルがセットでFacebookやTwitter上を飛び交う。それが現象として面白いなと思った。ビジュアルの方は書き手の意図とは別にそのページに置かれた写真がたまたまランダムに選ばれたりするので、見出しと関係ないものだったりもする。それはそれでいい加減さがいまのネットっぽくて面白い。

でも、どうせワンビジュアルが流通するなら、もう少し計算できないだろうか。つまり、見出しとなるタイトルと、セットで流通するビジュアルを作ると面白いんじゃないか。どうせなら、見出しコピーはビジュアルの中に入れた方が独り歩きしても効力を発揮するんじゃないか。

ぼくはいま、銀座8丁目のBeeStaffCompanyというデザイン事務所に間借りしている。そこのボスのアートディレクター・上田豪氏とは旧地の仲だ。そして彼は新しいコミュニケーションの形にも強く興味を持っている。そこで上田氏に相談し、あらかじめぼくが作った見出しコピーを4〜5点ずつ渡し、それにビジュアルをつけてもらった。それが以下のビジュアルだ。10月から12月までで8点制作してみた。

それぞれのビジュアルをクリックすると元の記事に飛ぶ。ぼくのブログは外部サイトにも転載されているので、そっちに飛ぶものもある。



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自分たちで意図したほど見出しとビジュアルがうまくセットで流通したかはわからない。そしてよくわかったのは、ビジュアルが思惑通りの形では流通しないことだ。完成させた通りの枠組みでは表示されず、勝手にトリミングされて表示されるケースもあった。そういう難しさもあったが、やはり普通に見出しをテキストで表示するよりずっと訴求力はあったようだ。普通の記事よりもレスポンスが高かったと思う。

とくに最後から2番目の「日本人の普通は、実は昭和の普通に過ぎない。」は転載されたハフィントンポストの方で”いいね!”が5000を超えていた。これにはびっくりした。ちょうどハフポストが5月のスタート以来読者数が伸びてきた頃合いだったのもあると思う。でもこの記事はけっこう思い入れのあるネタを渾身の思いで書いたので、反応が強かったのはうれしかった。

この手法の効力は置いといても、ブログというツールがあり、ソーシャルメディアを通じてそれが見知らぬ人びとの間で流通し、またハフィントンポストのようなブログ集積メディアが登場した、この時代は面白いなあと思う。ぼくは広告の中の言葉を作る仕事をしてきた。自分が書いた文章が多少話題になったこともある。だがそういう”仕事”としてやったことの反応とはまったく違う感覚を、ブログを通じて味わっている。誰かに頼まれたわけではない、自分がほんとうに言いたいことが、世の中に多少なりとも影響を及ぼす。そんなことはこれまで起こりえなかったことだ。

ぼくが「日本人の普通は・・・」の記事で言いたかったことは、例えば日本人の常識は民族性に帰すものではないのだから、変えることができるのだということだった。もしそんなぼくのメッセージが”いいね!”した人の心に少しでも変化を引き起こしたのなら、つまり「へー、そうなんだ、だったら今おかしいと思ってることも変えられるのかな?」てな程度の思いを持ってもらえたのなら、ぼくの言葉は少しだけこの国を動かしたのかもしれない。それこそが、ぼくが言いたかったことだ!世の中は、ぼくたちが少しずつ影響を及ぼしあいながら、確実に変わっていっているのだ。だからぼくたちは、もっとこうした方がいい、と思ったことは口に出して言った方がいい、文章に書いて発信した方がいい、ブログが面倒ならtwitterでつぶやいたっていい。言いたいことは、言った方が、いいのだ。

というわけで、今年もこのブログを通じて、ぼくは自分が言いたいことを言っていこうと思う。どうぞ皆さん、引き続きよろしくお願いします。

コミュニケーションディレクター/メディアコンサルタント
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2013年、もっとも最先端でもっとも地味だったテレビ番組の話

12月21日、ぼくは埼玉県熊谷市の駅に降り立った。熊谷は上越新幹線も停まる、まあそこそこの町だ。駅の周辺には大きなお店も少ない。そこからなぜか15分くらい歩いた中山道沿いに突如大きな百貨店がある。
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八木橋百貨店。どうしてこんな駅から遠いところにこんなに立派な百貨店があるかはわからない。とにかくこの日はここで、テレビ番組「たまたま」の収録が行われるので、土曜日だと言うのにやって来たのだった。

「たまたま」については何度かこのブログでふれてきた。
<5月13日「たまたま」はテレビマンが新しいテレビを生み出す実験だ>
<6月10日ビジネスモデルは見えてきてる、つもり>

何度か書いてきたことも含めて、ここで「たまたま」について箇条書き的に整理しておこう。

・テレビ埼玉のみで不定期に放送。突然告知され、平日の深夜2時とか3時に数夜連続して放送されることが多い。
・北海道テレビ「水曜どうでしょう」の藤村忠寿氏と、読売テレビ「ダウンタウンDX」の西田二郎氏が二人で自ら出演している。他に決まった出演者はいない。
・「予算ゼロ」を標榜し、スタッフやスポンサーを募集している。最初の頃は編集予算もないので撮ったままを放送し、文字をテロップで出す代わりにガラス扉に文字を書いた紙を貼ったりしていた。
・基本的に公開収録で毎回熱心なファンが百数十名集まってくる。
・企画は毎回行き当たりばったりで西田氏が用意しておいたことに藤村氏が乗っていく感じ。
・二人のテレビ制作者の「予算がないからこそできるテレビの実験」への挑戦が番組の大テーマ。

そんな「たまたま」の次の放送のための収録が、熊谷の八木橋百貨店で行われることになった。さっき「スポンサーを募集している」と書いたが、その第1号として手を上げたのが八木橋百貨店。予算がないので公開収録の場所を常に探している「たまたま」に、店内8階にある”カトレアホール”という立派なスペースを貸してくれるということだった。

八木橋百貨店は番組のスポンサーとしてこれまでにもいろいろ提供してくれており、だから最初は使えなかったテロップも出せるようになった。「スポンサー 八木橋百貨店」のクレジットも、堂々と出せているのだ。

八木橋百貨店のスポンサードについては、番組を愛するファンたちも感謝していて、「百貨店と言えば」と問いかけると声を合わせて「八木橋!」と答えてくれる。

「たまたま」の面白さはこの、制作者とファンとスポンサーの心が通じ合った関係にある。顔の見える作り手が、ファンのレスポンスを感じながら番組を作っていく。それをスポンサーがバックアップする。そうした関係の中で制作が進んでいく、テレビの原点を見ているようなところがある。

八木橋百貨店はそんな深夜の番組にスポンサードして何かいいことがあるのだろうか?その謎は、この日の百貨店内を歩くと晴れる。

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例えば食堂では「たまたま定食」をこの日は特別に展開。あるいはパン屋さんで「たまたまパン」を売っているなど、いくつかのタイアップ企画が店内を賑わせているのだ。

もちろん、これは商売に使わせてもらう、という姿勢だけではなく、そもそも八木橋百貨店関係者が番組のファンだから、できることだ。ひとつの番組を、みんなが愛してその場が盛り上がって、売る側も買う側も楽しくなるなら言うことない。それが実現しているのだ。

さていよいよ収録がはじまる。まずは二人の制作者が登場してのトーク。この二人は裏方だったはずなのだけど、並んで喋っているだけで笑いが炸裂する。そのまんま漫才番組にでも出られると言いたくなるほど。

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この日の企画は、「ヒーローショーショー」。”ショー”が2回続いているのは誤植ではない。ヒーローショーのショー、という意味。

ヒーローショーを八木橋百貨店でやりたい、と考えた西田氏。どうせならミュージカルにしてしまおう。演出は藤村氏にやってもらおう。そこで、10数分のシナリオを作りあげ、セリフと唄の部分つまり音声の要素だけを先に録音して完成させておく。当日、役者さんを呼んでその場でシナリオを見て演じてもらう。一方、藤村氏もシナリオを知らないままで会場にやって来て、役者さんたちが音の進行に合わせて口パクで芝居するのを演出していく。

つまり、役者と演出家が、あらかじめできあがってる音に即興で芝居をつけていく、というもの。とにかく音はでき上がっているから、その時その時で役者と演出家次第でミュージカルがいろんな形でできていく、ということになる。

ミュージカルの作り方として、かなり実験的だがネタが何しろヒーローものだし、例によって予算がないので薄っぺらーい衣装しか用意されていない。だからどうしてもコメディになっていく。
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写真のような、見ているだけで笑っちゃう絵の中で藤村氏が少しずつ演出をつけていく。最初は戸惑っていた役者さんたちも呑み込んできて芝居に入り込んでいく。2時間くらいあれやこれやとやってみて、最後に通してやってみたらなんと!見事にまとまった。

ちなみにこの日の役者さんたちは、藤村氏にはサプライズで、彼のドラマによく出ている立派なプロの皆さんだ。だからできて当たり前、のように思えて、いかにプロでもその場で読んだ脚本を、誰かがあらかじめ録音したセリフに合わせて芝居をしていくのは初体験にちがいない。そこをちゃんと消化してそれぞれ自分の芝居にしたのはさすがだった。

考えた当人の西田氏も、最初に役者さんたちが戸惑っている様子を見て、さすがに無茶なことをやろうとしているのかもしれないと不安になったそうだ。「こんなにちゃんとまとまるとは自分でも驚きましたわ」と言っていた。

うまくいくかどうかわからないことをやってみる。そんなことは、地上波の番組ではもうなかなかできない。だからこそ二人は、それぞれ所属の局の看板番組を持ちながら、一方でこの番組に並々ならぬ情熱を注いでいる。テレビでできることはもっとあるはずだ。そんな二人の熱い思いが時々、漫才のようなトークの中でほとばしる。ファンたちも、そういう思いまで共有してくれている様子だ。

そう、この番組でいちばん大事なのがファンたちの存在だ。どこの会場で収録をやってもはるばる集まってくる。どうやらコアとなる面々は決まっているようだ。11月には千葉県でキャンプを行い、60人以上のファンが集まって一泊した。その様子ももちろん番組になっている。

初期には番組の音楽とキャラクターを募集した。驚くほどクオリティの高い作品が集まって、その中からみんなで選んだものが、実際に番組で使われている。「ヒーローショーショー」でのダンス指導も、ファンの一人にその道のプロがいて、振り付けをしてくれたのだ。

西田氏と藤村氏は、そういうファンたちとの交流、気持ちの共有を何よりも大事に番組を進めている。もともと西田氏は関西で「ガリゲル」という番組を制作し、そこでも視聴者との交流を大事にしている。「水曜どうでしょう」が全国に熱いファンがいて、藤村氏がそれを大事にしているのは周知のことだろう。もともとそんな二人が、ここではもっと小さなコミュニティを、小さいからこそ一緒に番組づくりをしようとしている。毎回、爆笑に包まれつつ、そういう一体感が味わえるのも「たまたま」の魅力のひとつだ。

「たまたま」がこの一年地道に取り組んできた各企画の実験、そして「たまたま」という地味な番組そのものが、実はテレビの最先端なのだとぼくは受け止めている。制作者と視聴者、スポンサー、テレビ局、彼らが互いに顔が見える関係の中で信頼しあいながら、”いま”を形にしていく。番組はその結実だが、それだけが成果物ではない。成果物はむしろみんなの頭上にもや〜っと漂う”つながり”のようなもので、メディアとはそもそもコミュニティを結びつける社のような役割のはずだ。そういう、メディアの原点、みんなを楽しませることのそもそもの意義を思い知らせてくれるのが「たまたま」だ。

ところでこの収録にぼくが立ち会ったのは少し”仕事”だったからだ。2月15日〜16日にさいたまアリーナで開催される「埼玉サイクリングショー2014」と「たまたま」がタイアップするお話があり、そのコーディネーター的なことをやることになったのだ。と言っても会場では見てるだけだが。21日の収録では、サイクリングショーの告知もあり、ポタガールという埼玉のサイクリングを盛り上げる女性も少し出演した。これについてはまた、書いていくつもりだが、興味があったら2月16日にさいたまアリーナに足を運んでもらうといいと思う。

それから、「たまたま」は大晦日に”年越しスペシャル”として23時30分から放送される。もちろん年越しの瞬間にはカウントダウンも行われるはず。その収録も、21日にすでに行われた。・・・あれ?年越し番組を収録・・・?(笑)

コミュニケーションディレクター/コピーライター/メディア戦略家
境 治
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何でも選べると、何も選べなくなる。


学生時代に筒井康隆の小説にハマった。文庫で出ていたものをすべて読み尽くし、その後は単行本が出るたびに即買いしたものだ。深みのある長編もいいけど、初期の短編はとにかくどんどん書くのだと若さと勢いで書かれていて、破天荒さに魅惑された。

もう題名も忘れた作品で、時間が加速する話があった。体感時間が加速していき、しまいには朝家を出たらすぐに夜になる、といった感じ。ネタバレしてしまうが、最後は時間が滝のようにざあざあと流れ落ちてしまう。そこから先に時代が進まない。時間が滝になって流れ落ちるという状態がさっぱりつかめなかったが、つかめなかった分、ものすごく興奮した。なんてはちゃめちゃなイメージだ!

筒井康隆の小説は未来を予言するようなところがあって、『おれに関する噂』や『にぎやかな未来』で描かれたことはもうすでに具体化している気がする。

時間が滝のように流れ落ちる、なんてことは具体化しているはずはないが、ここで描かれた様子が別のことで具体化している。ぼくが勝手にイメージを重ねているだけなのだが、いま”コンテンツ”というものが滝のように流れ落ちかけている。そう思えてしまう。

ぼくは映画やドラマが好きだ。そして昔、学生時代(80年代)は映画を観るのは大変だった。ロードショー作品を観るのはいまと変わらない。だが、過去の映画はそれなりの努力をしないと観ることができなかった。何しろ、レンタルショップもVODもないのだ。ただ、名画座は東京中にあって「ぴあ」や「シティロード」などの情報誌で調べて、池袋文芸座でヒチコック特集やってるとか、銀座並木座で『用心棒』と『椿三十郎』の二本立てをやってるとかを知って勇んで見に行った。

そのうち、レンタルショップがあちこちにできて気軽にVHSビデオを借りることができるようになった。だんだんビデオ化作品も増えてショップに行くたびに目をらんらんと輝かせて棚を探し回った。やがてDVDが主流になり作品の数も格段に増えた。黒澤明作品なんてTSUTAYAに行けばどれでも借りられるようになった。

不思議なことに、学生時代にものすごく観たかった作品にDVDで出会って一瞬「おお!これもDVDになってる!」と興奮するのだけど、その次には「ま、そのうち借りようかな」と後回しにしていた。後回しにしているうちに観ないままになっていった。

いつでも観られると思うと、いつまでも観ない。そんな状態になってしまった。

さらにいまは、VODサービスがいつの間にか豊富に揃っている。AppleTVがあり、huluがあり、TSUTAYA TVもアクトビラもぼくのテレビで利用できる。さらにCATVの映画チャンネルでは名作佳作が次々放送される。海外ドラマも最新のものがオンエアされる。こんな状態をぼくは待ち望んでいたはずだ。いつでも観たい時に観たい作品を観ることができる。夢のようだ。映画三昧。ドラマまみれ。

いやしかし、これは映画とドラマの洪水だ。映像コンテンツがぼくのテレビにはいまやあふれ返っている。AppleTVにはウィッシュリストに観ようと思った映画が何十本も溜まっている。huluではマイリストに映画とドラマがやはり何十本もある。レコーダーには次から次に放送された映画を録画している。さらに毎クールの日本のドラマをとりあえず録画していっている。

つまりぼくの環境には「観たいと思った映画やドラマ」が何百本もストックされていて、一本一本がぼくに観られるのを待ち構えている。その中でぼくは今日、どれを観ればいいんだ?もはや、どう選べばいいのかわからない。

それでもなお、映画やドラマは次々に増えている。無尽蔵だ。無限大だ。もう詰め込めない。これは洪水だ。筒井康隆の小説で時間が加速したように、ぼくの環境では映画やドラマが加速している。加速して押し寄せて、ぼくの家の中を埋め尽くそうとしている。こんな状態が続くはずはない。いつかぼくの環境は破裂してしまうんじゃないか。あるいは、筒井の小説のように滝となって流れ落ちてしまうんじゃないか。

せっかく何でも選べるようになったのに、何も選べなくなり、コンテンツの洪水の中でアップアップしているぼくがいる。

20世紀はコンテンツにとって異常な世紀だったんじゃないだろうか。映画なんて19世紀になかった。ラジオもテレビももちろんなかった。新聞や雑誌も、音楽も、こんなに多くなかっただろう。大量に複製されて大勢がコンテンツを楽しむようになったのは、20世紀にはじまったことだ。そのこと自体が異常だったのかもしれない。

作家だの監督だのミュージシャンだの、創造行為を生業とする人が、百年前はこんなにたくさんいなかっただろう。あるいは、ぼくが学生時代だった80年代と比べても、コンテンツ製作を仕事にする人は何倍かに増えているはずだ。こんなにたくさんの人が、こんなにたくさんのコンテンツを生み出してどんどん積み重なっているのは、ひょっとしたらとてつもなく異常な状態なのかもしれない。

コンテンツも、その作り手も、増えすぎたのだ。人類はこれほど多くのコンテンツを必要としていないんじゃないだろうか?そのうち、ほんとうにコンテンツも作り手も滝のように流れ落ちる気がしてしまう。

流れ落ちておしまい、ということもきっとないだろう。その先には、コンテンツがもっと混とんとして断片的になってごちゃまぜになるんじゃないか。それはそれで、その先に何かありそうな気がする。2時間でひとつの完成された物語を映像で構成する。そんな形を超えた何かになるのかもしれない。そういう進化の途上なんじゃないかと、漠然と考えている。

※この記事はデザイン会社ビースタッフカンパニーのボスでありアートディレクターの上田豪氏と、続けている試み。記事を書いて挿し絵的にビジュアルをつくるのではなく、見出しコピーだけを書いたものに上田氏がビジュアルをつけて言葉とともにひとつの表現として完成させたもの。それをもとにあらためて本文を書く、というやり方をしている。ソーシャルの時代、一行の見出しとひとつのビジュアルが拡散していく。だったらコピーとビジュアルをセットで考えたらいいのではないか。そんな実験も、今年はこれで最後。来年もまた続けていくつもりなので、ご期待を。

コミュニケーションディレクター/コピーライター/メディア戦略家
境 治
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日本人の普通は、実は昭和の普通に過ぎない。


高校生の頃から、もやもやとした違和感を持っていた。何に対してかと言うと、自分を覆い包む空気のようなものに。少しでも明確に言えば、日本という国に漂う匂いみたいなものに、なんだかイヤだなあという気持ちを持っていた。

それは、周囲との同化を強いる。自己主張をしすぎるとまずいらしいとか。それからどうやら、新卒での就職が大事でそこで人生は固定されるらしいこと。その固定的な人生は会社という固定的なシステムに規定され、それを受け入れさえすれば平坦だが安泰な人生が送れるらしいこと。高校生でも、そんな世の中になっているらしいことは感覚的に理解していた。そしてそれが心の底からイヤだった。そういう固定的なシステムに覆われずに生きたかった。

それとともに、どうして日本は固定的なのかを知りたかった。いろいろ本を読むのだけど大概答えは、”日本だから、日本人だから”に収束していった。必ずそういう民族性に落ち着くのがまたイヤだった。日本人は村社会で同質性を好み、変化を嫌い、権力に屈する民族なのだと。だったら変えようはない。逃れられないじゃないか。

でもそうなのか?日本人にはそもそもDNAに”自由”が刻印されていないのか?固定的なずーっと変わらない生き方がすり込まれた民族なのか?そこまでつまらない国民性なのかなあ・・・?

95年に、2つの反証に出会った。ひとつは書籍、もうひとつはテレビ番組だったが長らくのぼくの疑問への答えであり、2つとも大きく見れば同じことを言っていた。

書籍の方は、野口悠紀雄氏の「1940年体制-さらば戦時経済」番組はNHK教育テレビ「日本株式会社の昭和史-官僚支配の構造」。番組の方も書籍化されているし、両方ともいまも売られている。

両方合わせた内容を簡単に書くと、今の社会経済制度は1940年代に戦争を乗り切るために整えられたものがそのまま稼働している。戦後GHQ主導で新制度もできたが、実は”戦時体制”は温存された。日本の制度は戦後に一新されたと思われがちだがそうではなく、むしろ日本人の精神性まで影響するような制度は戦時につくられたものだった。

制度を作った内務官僚は、戦前の貧しさを克服するために、当時新鮮だったソ連の制度を参考にした。彼らは満州国建国時にそれをその地で制度化し、40年代には日本に戻ってきて満州で鍛えた制度を日本にも適用した。それは会社組織を通して個人が安心して国家のために働くシステムで、終身雇用や会社別労働組合、銀行を軸にした間接金融制度、などなどなど。源泉徴収制度ができたのもこの流れ。会社に従うことで人生が保証され、個人のエネルギーが国家に集約される。だから国家は会社を守ることを通して国民を守る。護送船団方式の原点がここにある。

戦争を乗り切るために整えられた制度は敗戦後、結果的に日本の高度成長を見事に支え、経済での戦争で勝利をもたらした。

この2つに出会ったぼくは、目から鱗が落ちる思いだった。なるほど!と得心した。ぼくがずーっとひっかかっていた”なんでこんなに固定的なのか?”に対し、貧しさと戦争を乗り切るために明らかな意図の元に整えられた制度だから、というものすごく明解な回答を得た。なんだか息苦しさを感じていたのは、社会主義をモデルにした制度だったからだ。疑問のすべてに説明がついた。そして、それは決して”民族性”という絶望的な理由ではなかった。むしろ、戦前の日本社会は今よりずっと流動的だった。言ってみれば”自由”だった。それを知ったぼくも自由になったような気持ちだった。だったら、この国は変わるはずだ、変えられるんだ。前向きな気持ちになれた。

40年体制は、そこから派生した様々な制度を生み、それがまた日本人のライフスタイルにも影響を与えた。例えば、なぜ日本人は持ち家を持ちたがるのか、という議論の場合。よくあるのが「日本人は農耕民族だから土地への執着が強いからだ」という答え。だが実際には40年体制で借地借家法ができ、借りる側の権利が異様に強化されたことが原因だ。簡単に立ち退きさせられない法律になった。だから、家主が家を貸す際に用心するようになった。家族向けの住居は個人に貸すとでていってもらえないかもしれないので、法人貸しが中心になった。だから家族を持つと賃貸物件が借りにくいもんで持ち家が普及した。明治時代の都市は賃貸が主流で夏目漱石でさえ貸家に住んでいた。日本人が農耕民族だから持ち家にこだわる、というのは勘違いなのだ。

家族の形態もそうだ。女性は主婦になり男性は会社で働きつづける。これも40年体制の派生で、そういう前提で税金の制度を整えたのだ。家事が大変だった頃はひょっとしたらその方が合理的だったのかもしれないが、女性が働きやすい環境が必要ないま、どうなのか。

こうして見ていくと、日本の働き方、生活感覚、儀式や常識のかなりの部分は日本古来のものでも民族性に由来するものでもなく、つい最近、昭和の時代にできたものだと気づく。まだまだ、調べるといくらでも出てくると思う。結婚式は親戚や会社の上司を招いてホテルで披露宴をする、なんてほんとに戦後のものだ。でもなんとなく、日本人はそうするものと思い込んでいないだろうか。演歌は日本人の心だと言われるけれど、明治時代の演歌は政治社会の風刺演説に使われたもので、今”演歌”と言われる形態は昭和になってから発達したものだ。

そういう国なんだから、しょうがないよ。そういう民族なんだから、変わらないんだよ。そんな風にネガティブに考える必要はまったくない。いまおかしいと思っている制度や文化は、変えられるのだ。変えていけばいいのだ。

それから、この”40年体制”に立って物事を見ると、いま何が行き詰まっていて何を変えるべきかがわかってくる。今の制度は戦争遂行のためにつくられたのだ。そして戦争に負けた後、経済戦争には勝った。勝ったもんで制度を変えないでここまで来たが、勝った時の貯金がもう尽きようとしている。会社に成長を託す考え方をもう離れた方がいい。それに、政府が会社を守る方式も、行き詰まっているのだと思う。もっと個人が自律的に勝手にやった方がいい。会社ではなく個人を軸にした制度が、いま求められているのだと思う。

※この記事はアートディレクター・上田豪氏と、続けている試み。記事を書いて挿し絵的にビジュアルをつくるのではなく、見出しコピーだけを書いたものに上田氏がビジュアルをつけて言葉とともにひとつの表現として完成させたもの。それをもとにあらためて本文を書く、というやり方をしている。ただ今回は、長らくまとめて書いてみたかったテーマなので、本文は頭の中でできていたのだけど。このやり方は、さらに続けてみようと思っている。年内はもう一本用意してあるのでお楽しみに。

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境 治
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2013年、ネットメディアを振り返る5つのキーワード

『新・週刊フジテレビ批評』という番組がある。土曜日の早朝5時という、生で観るには絶望的な時間に放送している番組で、テレビ番組で唯一と思える、テレビを軸にしたメディア論の番組だ。2年前に『テレビは生き残れるのか』を出版した時に声をかけてもらって出演して以来、時々コメント出演したりしている。

先週の土曜日、12月14日の放送にもちろりと出演した。今回は「キーワードで振り返る今年のネットメディア」というテーマで、そのキーワードを挙げてコメントする3人の中の一人として呼ばれた。他は週刊アスキー編集長代理・伊藤有氏、ニコ動の運営会社ニワンゴ社長・杉本誠司氏というそうそうたる面々で、なんでぼくなんかがそのお二方と並んで呼ばれたのかわからないが、まあ頑張って喋った。

15分くらいは喋ったのだけど、当然3人のコメントを編集して使うので実際に使われたのは合わせても数十秒程度。でもせっかく頑張って喋ったので、ここであらためてぼくが選んだ5つのキーワードとその解説を書き留めておこうと思う。

1)ネット選挙解禁
最初にあげたのがこれ。今年のネットメディアで起こったことの中で最重要といえば最重要だと思う。ただし、ネット選挙解禁が実際に政治に効力を発揮したかは別。その点はむしろ”空振り”だったと言えるだろう。ネット上での政治論議が活発になったとも言えなかったし、若者の投票率がとくに上がったわけでもなかった。選挙そのものが争点を見いだせず、あまり盛り上がらなかったせいもあるだろう。

ぼくはネット選挙解禁には非常に注目して、6月29日には私的勉強会イベント”境塾”でこれをテーマに据えて開催した。二人の若者がネット選挙に関係する活動をしていたことをとらえ、そのお二人を招いて話してもらったのだ。ネット選挙解禁を促すOneVoice運動の中心人物・江口晋太郎氏と、日本政治.comというサイトを運営する現役東大生・鈴木邦和氏。ネット選挙が空振りだったとしても、ネットを入口にこうした若い人たちの自由な活動がはじまったことは大きいと思う。

次の選挙で、もっと大きな争点が浮上した時、ネットが濃厚な言論の場になる可能性はある。今回はそのための第一歩だったのだととらえたい。

2)ソーシャルゲーム
ソーシャルゲームがプラットフォーム型から個々のゲーム単品型にシフトし、GREEとモバゲーが、あっという間に凋落した。つい最近まで、テレビCMの商品別のオンエアランキングでGREEとモバゲーが1・2フィニッシュしていたものだった。(Garbagenewsのこの記事などを参照)でも今年のソーシャルゲームの主役はご存知の通り、パズドラに取って代わった。栄枯盛衰ということだ。これはスマホの普及の影響だがそれはあとでふれよう。

3)ネットのモラル
いわゆる”バカッター事件”などの話。これがいちばん2013年を象徴するキーワードかもしれない。

説明の必要はないだろう。コンビニの冷蔵庫に入った写真とか、お馬鹿な行為を自分でもしくは仲間で写真に撮ってtwitterにあげて大炎上。中には損害賠償を突きつけられた例もあった。

こういうことがなぜ起こるか。いま、若い人、ティーンエイジャーの中で、最初はLINEを使っていて、twitterも使うようになった人が増えているのだ。もっと上の世代は、ソーシャルといえばまずtwitter、それからFacebook、そして最近はLINEも、という流れだったと思うが、ティーンエイジャーでは順番が逆なのだ。

LINEは友達同士のクローズな、ソーシャルというよりコミュニケーションツールだ。これはそもそも、ガラケー時代にメールでやっていた友達とのやりとりの延長なのだ。ガラケー時代には「いま映画終わった」とか「腹減った」とか、そんなことメールで伝えるか?というようなやりとりを煩雑にしていた。LINEに置き換えてこれがますます便利にできるようになった。LINEはガラケーのメールの代替サービスなのだ。

LINEと並行してtwitterもはじめた若者たちの中には、その違いが身体でわかっていない者が多々いる。LINEは言わば部室や校舎の裏でこっそり集まってダベっているような状態。twitterはそれが学校の外に出てあらゆる人が通る大きな広場にいるようなものなのに、フォローしあっているのが友達だけだと、まだ部室感覚を引きずってしまう。それがバカッターをあちこちで生み出すに至ったのだとぼくは推測している。

バカッター事件とは別に、twitterがすっかり揚げ足取りの場のようになってしまったのも、2013年だったのではないだろうか。2年前くらいからはじまってはいたが、今年はもうすっかり殺伐とした場になってしまった気がする。誰かが失言するのを大勢で待ちかまえている、大袈裟に言うとそんな状態になっている。

4)キュレーション(ニュースアプリ)
キュレーションという言葉は、図書館や美術館の”キュレーター”と源を同じくする言葉で、今の使われ方は、多様な分野で専門知識をもとに情報を咀嚼して仲介する行為のことだ。ITジャーナリスト佐々木俊尚氏が使ってから知られるようになった。

佐々木氏が『キュレーションの時代』という本を出版したのは2011年の春だった。その時は”なんだか小難しい概念だなあ”という受け止められ方をしたと思う。実際、今だってキュレーションという言葉が一般化したとは言えないだろう。

ただ、キュレーションするアプリを使う人は多い。ニュースのキュレーションサービス、SmartNewsとGunosyは今年の大ヒットアプリだ。この二つともぼくは使っている。それぞれの嗜好に合わせてニュースを選んで見出しを見せてくれる便利なアプリだ。

キュレーションは今後ますます必要になってくるとぼくは考えている。ニュース以外にも例えば書籍や音楽、映像などをキュレーションしてくれるサービスがあると便利だと思う。もっとマニアックな分野、鉄道が好きな人のためのキュレーション、スノーボードに関するキュレーション、といった具合に特定のコミュニティ向けもありえるかもしれない。

最近自分でも痛感するのだが、情報が多すぎて何が自分にとって大事な情報なのかもわからなくなっている。ソーシャルはそんな中での一種のフィルタリングの役割も果たしているが、それとは別に、あるいは重なる形で、キュレーションはいろんなレイヤーで求められるようになると思う。

5)スマホの日常化
フジテレビ批評では「日常化」としたが、普及とか一般化とか言った方がよかったのかもしれない。誰しも感じているように、いまやケータイ電話を買うと言えばそれはスマートフォンを購入することとイコールだ。普及率は当然のごとくぐいぐい上昇していく。今年はそれがいわゆるキャズムを超えて現時点で4割程度の普及率になっているそうだ。

先にあげたキーワードも、ネット選挙以外はそもそもこのスマホの普及に起因している。ガラケーからスマホにみんなが移行して、ソーシャルゲームがプラットフォームから単品のゲームに主役交代し、でもまだコミュニケーションのモラルに慣れず、キュレーションが必要になってきた。ぜんぶスマホのせいだ。

PCが売れなくなっているそうだが、そもそもPCとは仕事用のデバイスだ。前のめりでキーボードにタイピングする。これは自宅には向いてなかったのだ。お父さんが仕事を持ち帰るために、家でもPCを使うようになり、それを使ってお母さんが家計簿をつけたり子供が宿題の作文を書いたりしはじめたが、それらは結局それぞれの”仕事”のために使われた。時にはリビングルームにもPCが持ち込まれたが、どうにも馴染まないデバイスだったのだ。

スマホはリビングルームでも頻繁に使われる。そしてできることはPC並、いやそれ以上だ。リビングルームにPCと同等の機能を持ち込んだのがスマホだ。そして前のめりではなく、ゴロゴロしながらリラックスして操作する。コンピュータはついに、仕事の道具という重たい役割から解放され、リビングルームに進出することができたのだ。

キャズム越えを果たした今、そこからもたらされる影響は計り知れない。これから、あらゆる分野で一種の革命が起こるだろう。映像で言えば、ネット動画を見る、ということが格段に増えるだろう。サービスもそれに合わせてさらに便利になったりコンテンツが充実してきたりする。

YouTuberと呼ばれる新しいタレントが活躍しはじめている。マスメディアを介さず、リビングルームにも進出できている。彼らが、彼ら自身の発信力とソーシャルネットワークによって、”日本のお茶の間を賑わす有名人”になる可能性がある。というかそんな動きはもうはじまっている。

11月に「テレビの未来を担う、セカンドスクリーンは定着するか」という記事を書いたら、”ファーストスクリーンはテレビではなくスマホじゃないのか”という意見が出ていた。それはまさしくその通りで、これからはスマホ・ファーストでコミュニケーションを考えた方がいいだろう。テレビ番組も、スマホでいかに観てもらえるか、観やすくできるかが問われるようになる。

その準備は、もうはじめた方がいいと思う。

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「Twitter TV指標」はテレビに何をもたらすか?(プラスをもたらす期待を込めて)

昨日(12月10日)、ビデオリサーチ社が発表したプレスリリースがぼくのウォール上で話題になった。

「ビデオリサーチ 「Twitter TV指標」提供に関し、Twitter社との協業に合意」

このリリースを元にした記事は各ニュースサイトにも載ったので、読んだ人も多いかもしれない。

これを見た時、ぼくはデジャヴ現象のように感じた。昨年の10月にも似た内容のリリースが出たからだ。

「ビデオリサーチ 「Twitter TV指標」提供に関し、Twitter社との協業に合意」

これを見て、ぼくはこんな記事をブログに書いている。

「テレビは第2のステージへ〜ビデオリサーチがTwitterをもとに指標整備に着手〜」

書いたことを簡単に略して言えば、視聴率とは別の指標が出てくるのはいいことだよね、ということで、ビデオリサーチ社の発表を喜んで迎えたのだった。

去年のリリースには”いつから”かは書いていないので、時間はかかったけどリリース通り実現しますよ、ということではある。でも時間かかったなあ。時間かかったのは、まあ、いろいろあったんだろうなと推測してしまう。いろんな人にいろんなこと言われちゃったのかもしれない。だとしたら、それを乗り越えて正式発表にこぎつけたのは、頑張ったね、と言っていいのかも。何しろ、今回の発表は「「Twitter TV 指標」は、2014年6月よりご提供を開始いたします。」とはっきり書いてある。胸を張ってスタート日を書ける状況をつくれたんだろうね。

ビデオリサーチ社は”視聴率”を算出する会社だ。

視聴率はテレビが批判にさらされる時、何かと矢面に立たされてきた。「テレビがつまらなくなってきた。視聴率至上主義だからだ」的な批判がふつうに飛び交ってきた。それはそれで、的を得ているとは思う。視聴率を1%上げようとせこせこ工夫していくと、爆発的な面白い番組にはならないだろう。

でも視聴率が矢面に立たされる時、じゃあカーディーラーの社員にクルマを売るなと言える?とも思っていた。視聴率は直接ではないがテレビ局の売上を左右する数字だ。広告取引の基準になる数値だし、テレビ局は事業モデルが広告収入を軸にしている。気にしないわけにはいかないのだ。

一方で、視聴率ほど”数字が独り歩き”する例もないだろうとも思う。「あのドラマがついに○%を切ったらしい」とか「あのドラマがなんと△%を超えたぞ!」などと数字が飛び交う。言われるとどうしても「そりゃひどい!だってダメな企画だと思ってたしね」とか「ええー?!じゃあ次回は絶対見よう!」などと視聴する側まで振り回されていた。広告取引のために測定される数値だし、批判される時は「そんな600世帯だけで全体がわかるはずないよ」などと言われる一方で、「半沢直樹は40%を超えるか?!」と注目される。

視聴率はその本質をはみ出して絶対的な数字になってしまっていた。

実際には15%をとっているがしょうもない番組もあれば、3%だけどちゃんと見ると素晴らしい番組もあるのだ。3%だって単純計算で3百万人以上見ているわけでそんな数の人びとが支持してるならすごい価値があるはずだ。

視聴率に問題があるとすれば、その番組にどれくらい価値を感じて見ているかはわからない点だろう。見ている人の”気持ち”まではわからないのだ。

そこがテレビの不思議なところで、積極的に見ようと思わなくても”つけっぱなし”にしておく、よく考えたら奇妙な使われ方をしてきたメディアだ。なんとなくつけておく状態が視聴率にカウントされる。ちゃんと見てなくてもいい、むしろその方がいいのかもしれない。

ビデオリサーチが取り組む「Twitter TV指標」は、そこに新たな可能性をもたらす。視聴率は低いけど、Twitter指標ではこれこれでしたよ。そんなことが言えるかもしれないのだ。

去年の発表では「テレビ局のハッシュタグを含むツイートの件数を番組ごとに出す」というシンプルなものだったが、昨日のリリースではもっと多様なデータを出すと言っている。

「Twitter TV指標」は、『ツイートの投稿数』『ツイートしたユーザー数』『インプレッション数』『インプレッションユーザー数』などにより構成されます。

とあるので、ツイートの影響力のようなものが導き出せるのだろう。

さらには・・・

もうひとつは、テレビ番組に対する評判や話題性を、交わされるツイートから明らかにし、「番組コンテンツの価値」を探ることです。ツイートの密度(時間変化・集中度)や構造(投稿とインプレッションの比率)、そしてツイートの内容(テーマ・話題)などを俯瞰的に確認する必要があると考えています。

とある。まさに、視聴率とは別の番組の価値も出していくということだろう。視聴率とは別の”視聴質”が見えてくるかもしれない。

ぼくもブログで何度かデータを見せてきたが、ツイートを分析してそこに視聴者の”感情”を読み取れないかと試してきた。それは例えばこういう記事にまとめている。

2013夏ドラマTwitter分析(1)「半沢直樹」と「Woman」はTwitterでも熱い!

2013夏ドラマTwitter分析(2)半沢直樹のヒットはつぶやきから読み取れた?

このやり方もちょっとしたトライアルに過ぎないが、twitter分析の面白いところは、手法がいろいろある、ということだ。ビデオリサーチ社の言わば”公式データ”とは別に、考え方Aで出したデータ、考え方Bで出した結果なども出てくるだろうし、それらを見比べることでその人なりの価値基準ができてくるかもしれない。

もしそれが広告取引に調味料のように加わってくれば、”視聴率至上主義”から脱却したユニークな番組が出てくるかもしれないのだ。

そう考えると、来年の6月、この調査のスタートを楽しみに待ちたくなってくる。みんなでその結実を見守っていきたいものだ。

コミュニケーションディレクター/コピーライター/メディア戦略家
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テレビはもっと便利になれるか?(ヒントのひとつはソーシャルメディアにある)

まず前もって言っておくと、この記事は身内の催しの宣伝につなげようという意図もあって書いている。その催しについては最後の方に書くからね。

”テレビ論壇”みたいなコミュニティに気がつくと参加していた。2011年に『テレビは生き残れるのか』という本を書いたのだけど、これを読んでくれた人から声をかけられたり業界誌に原稿を依頼されたりするようになった。テレビを中心にメディア論を議論する人びとがいるのだと知った。

志村一隆さんはその中のひとりだ。『明日のテレビ』『ネットテレビの衝撃』などの著作で知られる。研究者ながらどこかクリエイター肌のところもあって何となく気が合い、仲良くさせてもらっている。

志村一隆さんはJBpressによく原稿を書いている。12月5日付けの記事は「最悪のインターフェースも乗り越えるコンテンツの力」と題した原稿だった。ざっと読んでもらえばわかるのだけど、米国のドラマ『ブレイキングバッド』にハマった話を入口に、ドラマの続きを観るためにVODサービスの使い勝手の悪さをいかに乗り越えたかを書きつづっていた。

huluでシーズン3まで観たあと、シーズン4をどこで観れるか探したらU-NEXTというVODサービスを見つけた。PCならすぐ観られるのだけどテレビで観たい。ところがIDの入力がうまくいかず・・・という話だ。

テレビって不便だなと思う。

いや、少し前までは別に不便でも何でもなかった。地上波のチャンネルをリモコンで切り替えてリアルタイムで観る分には何の不便も感じなかった。でもテレビで観たいもの、やりたいことがどんどん増えた。それに対してのテレビはほんとうに不便だ。

今のテレビはたくさんのチャンネルにアクセス可能だ。地上波だけでもけっこうな数だが、BSボタンを押すと民放キー局系列のBS局を含めて十数チャンネルが視聴できる。さらにスカパーもしくはケーブルテレビに加入すればそれに加えて何十チャンネルも観ることができる。多チャンネルサービスの加入世帯は1100万を超えているそうなので2割以上の家庭がこの状態だということだ。

多チャンネル環境を前提にした途端、何の不便もなかったリモコンが、不便のカタマリになってしまう。いまやテレビで番組表を見るのは田舎のおじいちゃんでもやると思うが、この画面が分かりにくいし使いにくい。使いにくいけれども、この表で番組を選ぶことが増えている。新聞のテレビ欄では地上波以外十分な情報が示せないのだ。

この番組表、EPGというのだが、テキストだらけだ。テキストだらけの表を何十チャンネル分も見ていっても何ら”そそられない”。結局、観たい番組を発見するためには番組表は機能していない。あらかじめ観たい番組を決めておいて、あれは確かこの時間のはずだけどどこだっけ・・・とたぐっていって、あった!という使い方になる。

では観たい番組はどこで観ればわかるのだろう。・・・いちばんの情報源はEPG、つまりテレビの番組表だ。・・・この説明は不思議なパラドックスを巻き起こす。テレビ番組を選ぶいちばんの情報源はテレビ画面上の番組表なのだけど、これはあらかじめ観たい番組が決まっている時じゃないと機能できない。・・・これはつまり、番組を快適に選ぶ手段が事実上存在しないということなのだ。

地上波の局の人からするとホッとする話だろうか?ふう、BSやCSに視聴者を奪われなくてすむなあ。

いやいや、もうそういう時代じゃないのだ。地上波だけだって、番組が選びにくいのは変わりない。今どき新聞にろくに目を通さない若者が増えており、”新聞のテレビ欄”が効かなくなっている中で、『半沢直樹』ぐらい話題にならない限り、観たい番組を発見してもらえないということだ。あの番組表の重要性をいま一度再認識すべきタイミングだとぼくは思う。

それから最近は気軽にVODにアクセスできるようになってきた。うちのテレビにもケーブルテレビのVODサービスがつながっているし、AppleTVと、それを通じてhuluも使える。ハードディスクレコーダーにはアクトビラとTSUTAYA TV、そしてT’S TVという3種類のVODサービスが内蔵されている。一見、素晴らしく便利に思えるだろう。・・・だがAppleTVとhulu以外、まったくと言っていいほど使いにくいのだ。使いにくい、はちょっと気を遣った言い方だった。使えない!もう吐き捨てるように言いたいのだけど、なんて使えないサービスだ!と思う。

例えば、映画のタイトルがずらりとパッケージ画像を並べて表示されている画面。ここは言わばビデオ売り場みたいな画面のはずだが、ひとつひとつが小さすぎてどんな映画かちっともイメージできない。次のページに行こうとすると十数秒待たされる。元に戻ろうとする時にどのボタンをどう押せばいいかわかりにくい。いわゆるUIがもう全然ダメ。

志村さんの記事にあったように、IDやメールアドレスを入力する際も、テレビのリモコンでとてつもなく操作しにくい作業をやらされる。日本人は携帯電話で使いやすいテンキーの使い方をみんな学んできたのだからあれを元にすればいいのに、信じがたいほど使いにくい操作を要求される。ぼくは何度もリモコンをテレビ画面にぶつけたくなった。

こうした”テレビの不便さ”を克服するにはもちろん、リモコンを改良するとか、EPGを見直すなどの機器の課題があるし、WEBやスマートフォンを使ったサービスやアプリも考えられるだろう。でも少し違う角度でソーシャルメディアの活用も考慮すべきだと思う。

先ほどの志村さんの記事にも最後に、彼がハマった『ブレイキングバッド』についてはソーシャルメディアでちっとも伝わってこなかった、ということが書かれていた。

番組を送り出す人たちからすると、いやそんなはずはない、ということだろうか?ドラマの情報はtwitterアカウントから担当者が発信しつづけていたのに。

海外ドラマにしても、日本のテレビ番組にしても、ソーシャルメディアを使った情報発信がずいぶん増えたと思う。ソーシャルについてテレビ局がおっかなびっくりで接していた頃からすると隔世の感がある。だが、まだ何か大事なことが足りない気がする。

twitterアカウントを作って番組情報を盛んに発信するのが基本だが、それで終わっている。ソーシャルメディアをプッシュ型の広告と同様にしかとらえられていないのだ。ほんとうに大事なのは、番組側からの情報発信ではなく、それも含んで視聴者のコミュニティを形成することだ。そしてそういう”場”まで用意できている番組はまだほとんどない。外部への情報発信より以上に、その番組についてみんなで語り合う場、語りやすい場が必要なのだと思う。そうすればそこから広がった会話に、自然と接触するようになるはずだ。

さて、ここまで読んでくれた人に、お伝えしたい催しがある。「第2回あやぶろナイト」。あやぶろ、とはあやとりブログのことで、これはまさしくテレビを中心にメディア論を語る場だ。TBSメディア総研が主宰するブログで、ぼくや志村さんを含めて、いろんな人が原稿を寄せている。

そのあやとりブログ主催のトークイベントがあやぶろナイト。第一回にはぼくも出演した。第2回ではTwitterJapanのセミナールームを借りて、テレビとソーシャルメディアについてをテーマに据えるそうだ。

この記事を最後まで読んでくれたあなたなら、参加すると面白いかもしれない。まだ席はあると聞いているので、ぜひどうぞ。→お申し込みはこのリンクから

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ぼくたちはもうコンテンツを所有なんてしなくなるのかもしれない

アマゾンが日本でVODサービス、インスタントビデオを開始したのをきっかけに、二回ほどVODについて書いてきた。

アマゾンはVODを日本で日常化させるか?
アマゾンだけじゃない!VODサービス続々登場。次は、観たくなる工夫がポイントだ

VODは今後もぐんぐん伸びると思うし映像視聴全体へ大きな影響を与えると思う。それはDVDレンタルに取って代わるものだが、放送にとっては生かし方次第で味方にもなりえると思う。そのあたりはまた別途書いていきたい。

今日はその派生的な雑感みたいな内容。

この日曜日、前々からやらなきゃと思っていたHDレコーダーの整理をした。具体的には『あまちゃん』全156話をブルーレイディスクに焼いてハードディスクをその分あけたかったのだ。

ブルーレイは容量が25GB。『あまちゃん』1話分は1GB弱で、一枚のディスクに24話分をダビングしていく。1枚のダビングに20分程度かかり、7枚のディスクへのダビングを2時間くらいかけて完了させた。その間、料理をしたり本を読んだりスマホいじったりして過ごすのだけど、家から離れられず窮屈な思いをした。レコーダーという便利な機器を使うために不便を味わった感じだ。

最初は「よしこれで『あまちゃん』は永遠にぼくのものだ!」と前向きな気持ちで取り組んだのだけど、途中からイライラしてきた。そして大いなる疑問が湧いてきて後ろ向きな気持ちに陥ってしまった。

この作業に意味あるのか?

せっせとディスクにダビングして、もう一度観る機会はやって来るのだろうか?放送終了から2カ月が経ち、「あまロスになっちゃうよお」などと悲しがっていたが、この2カ月間もハードディスクには全156話は存在していた。でも一度も観なかった。「あまロス」は実際にはやってこず、次の朝ドラ『ごちそうさん』にしっかりハマっている。

前にもハードディスクからブルーレイにいくつかの番組をダビングしたがまだ一度もそれらを観たことはない。それどころか、何度も観るぞ!と意気込んで買ったいくつかのブルーレイの映画も、買った日に飛ばしながら観ただけで、そのあとはまったく観ていない。

そうだな、わかってる。自分でわかってるのだけど、ぼくはこのブルーレイにいれた『あまちゃん』をもう一度観ることはないだろう。

ではなんでダビングしたかというと、せっかく全話録画したのを消してしまうのが忍びなかったからだ。そんな感じでいろいろ残していたら、また次々に番組を録画するもんで1テラのハードディスクがあっという間に埋まってしまっているのだ。もうパンパン、いっぱいいっぱいだ。だから『あまちゃん』をどこかに移しておく必要があった。正確には必要があったと自分に言い聞かせた。

ところでブルーレイディスクは10枚で1400円弱だった。そのうち7枚使ったのだから、980円分くらいを『あまちゃん』の保存に使ったことになる。

NHKの知人に冗談半分に言われたのだけど、『あまちゃん』は保存しなくてもNHKオンデマンドを使えばいいんじゃないの?

NHKオンデマンドには<特選見放題パック>というのがあって、月945円なのだ。さっきのブルーレイディスク代980円とほとんど変わらない。

ものすごくせこい計算をすると、『あまちゃん』全話をある月にぜんぶ観たいなと思ったら、一カ月だけオンデマンドでパックを使えばブルーレイディスク代と変わらない金額で観れてしまうのだ。まあそんな計算をすること自体にあまり意味はないけどね。でも保存に費やした労力とイライラを考えると、どっちがトクかわからなくなってくる。

ここで言いたいのは、番組をブルーレイディスクにダビングする、そのことの意義がどんどん薄れているのではないか、ということだ。そんなことしなくても、ちょっとした小金で、観たい分を観たい時だけ観ることが可能なサービスが、すでに出ているし今後もっと便利に使えるようになるはずだ。それでいいのではないか。わざわざ2時間も使ってディスクを買ってきて機械の前に張り付いてダビング作業をする、それによってその番組を”所有したぞ”と言えることには、もうほとんど意味がなくなってるのだ。

ぼくたちはもう、映像コンテンツを所有したいと思わなくなるだろう。

これは映像コンテンツに突出して言えることではある。音楽は気に入ったら何度も何度も聴くので、所有することは重要だ。本はあとで気になるページだけ読み直したり、資料として一部の内容を確認したりすることは多い。映像は何度も何度も観ることは少ないし、一部だけという観方もプロでない限りあまりしないだろう。

だから映像はそもそも、音楽や本と所有の意味が違っていた。

でも拡張して考えると、音楽や本も”所有との距離が遠のいていると言える。だから書籍の電子化が進んでいるのだ。CDを買わなくなっているのだ。

このことは、今後の著作権をとらえ直すための、重要な鍵になるだろう。これまでの著作権のとらえ方は、物理的な複製と所有について規定していたからだ。コンテンツは必ず複製されて”もの”となりそれを所有するために対価を払うものだった。でもこれからは、ものではなく、データとしてクラウド上に存在するコンテンツを”一時的に視聴する”ようになっていく。著作権はそのための制度として作り直す必要があるのだと思う。

だからと言って、すべてのコンテンツがクラウド上のものになるわけでもないと思う。このタイトルはぜひ所有しておきたい。この映画は自分に大きなインパクトを与えたので、ブルーレイで持っておきたい。こっちは別に一度観ればいいからVODで十分だ面白かった。そんな使い分けをしていくのだろう。

コンテンツはその数があまりにも膨大になった。それらを所有するのはもう無理だ。映画視聴とは映像が自分の脳みその中に流れ込んでいくことで、そもそも所有なんてできなかった。脳みその中でカオスのように漂っている映像を、ぼくたちは時々思い返して整理する。クラウド化とは、そんな脳みその状態を再現することなのかもしれない。

コミュニケーションディレクター/コピーライター/メディア戦略家
境 治
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