何でも選べると、何も選べなくなる。


学生時代に筒井康隆の小説にハマった。文庫で出ていたものをすべて読み尽くし、その後は単行本が出るたびに即買いしたものだ。深みのある長編もいいけど、初期の短編はとにかくどんどん書くのだと若さと勢いで書かれていて、破天荒さに魅惑された。

もう題名も忘れた作品で、時間が加速する話があった。体感時間が加速していき、しまいには朝家を出たらすぐに夜になる、といった感じ。ネタバレしてしまうが、最後は時間が滝のようにざあざあと流れ落ちてしまう。そこから先に時代が進まない。時間が滝になって流れ落ちるという状態がさっぱりつかめなかったが、つかめなかった分、ものすごく興奮した。なんてはちゃめちゃなイメージだ!

筒井康隆の小説は未来を予言するようなところがあって、『おれに関する噂』や『にぎやかな未来』で描かれたことはもうすでに具体化している気がする。

時間が滝のように流れ落ちる、なんてことは具体化しているはずはないが、ここで描かれた様子が別のことで具体化している。ぼくが勝手にイメージを重ねているだけなのだが、いま”コンテンツ”というものが滝のように流れ落ちかけている。そう思えてしまう。

ぼくは映画やドラマが好きだ。そして昔、学生時代(80年代)は映画を観るのは大変だった。ロードショー作品を観るのはいまと変わらない。だが、過去の映画はそれなりの努力をしないと観ることができなかった。何しろ、レンタルショップもVODもないのだ。ただ、名画座は東京中にあって「ぴあ」や「シティロード」などの情報誌で調べて、池袋文芸座でヒチコック特集やってるとか、銀座並木座で『用心棒』と『椿三十郎』の二本立てをやってるとかを知って勇んで見に行った。

そのうち、レンタルショップがあちこちにできて気軽にVHSビデオを借りることができるようになった。だんだんビデオ化作品も増えてショップに行くたびに目をらんらんと輝かせて棚を探し回った。やがてDVDが主流になり作品の数も格段に増えた。黒澤明作品なんてTSUTAYAに行けばどれでも借りられるようになった。

不思議なことに、学生時代にものすごく観たかった作品にDVDで出会って一瞬「おお!これもDVDになってる!」と興奮するのだけど、その次には「ま、そのうち借りようかな」と後回しにしていた。後回しにしているうちに観ないままになっていった。

いつでも観られると思うと、いつまでも観ない。そんな状態になってしまった。

さらにいまは、VODサービスがいつの間にか豊富に揃っている。AppleTVがあり、huluがあり、TSUTAYA TVもアクトビラもぼくのテレビで利用できる。さらにCATVの映画チャンネルでは名作佳作が次々放送される。海外ドラマも最新のものがオンエアされる。こんな状態をぼくは待ち望んでいたはずだ。いつでも観たい時に観たい作品を観ることができる。夢のようだ。映画三昧。ドラマまみれ。

いやしかし、これは映画とドラマの洪水だ。映像コンテンツがぼくのテレビにはいまやあふれ返っている。AppleTVにはウィッシュリストに観ようと思った映画が何十本も溜まっている。huluではマイリストに映画とドラマがやはり何十本もある。レコーダーには次から次に放送された映画を録画している。さらに毎クールの日本のドラマをとりあえず録画していっている。

つまりぼくの環境には「観たいと思った映画やドラマ」が何百本もストックされていて、一本一本がぼくに観られるのを待ち構えている。その中でぼくは今日、どれを観ればいいんだ?もはや、どう選べばいいのかわからない。

それでもなお、映画やドラマは次々に増えている。無尽蔵だ。無限大だ。もう詰め込めない。これは洪水だ。筒井康隆の小説で時間が加速したように、ぼくの環境では映画やドラマが加速している。加速して押し寄せて、ぼくの家の中を埋め尽くそうとしている。こんな状態が続くはずはない。いつかぼくの環境は破裂してしまうんじゃないか。あるいは、筒井の小説のように滝となって流れ落ちてしまうんじゃないか。

せっかく何でも選べるようになったのに、何も選べなくなり、コンテンツの洪水の中でアップアップしているぼくがいる。

20世紀はコンテンツにとって異常な世紀だったんじゃないだろうか。映画なんて19世紀になかった。ラジオもテレビももちろんなかった。新聞や雑誌も、音楽も、こんなに多くなかっただろう。大量に複製されて大勢がコンテンツを楽しむようになったのは、20世紀にはじまったことだ。そのこと自体が異常だったのかもしれない。

作家だの監督だのミュージシャンだの、創造行為を生業とする人が、百年前はこんなにたくさんいなかっただろう。あるいは、ぼくが学生時代だった80年代と比べても、コンテンツ製作を仕事にする人は何倍かに増えているはずだ。こんなにたくさんの人が、こんなにたくさんのコンテンツを生み出してどんどん積み重なっているのは、ひょっとしたらとてつもなく異常な状態なのかもしれない。

コンテンツも、その作り手も、増えすぎたのだ。人類はこれほど多くのコンテンツを必要としていないんじゃないだろうか?そのうち、ほんとうにコンテンツも作り手も滝のように流れ落ちる気がしてしまう。

流れ落ちておしまい、ということもきっとないだろう。その先には、コンテンツがもっと混とんとして断片的になってごちゃまぜになるんじゃないか。それはそれで、その先に何かありそうな気がする。2時間でひとつの完成された物語を映像で構成する。そんな形を超えた何かになるのかもしれない。そういう進化の途上なんじゃないかと、漠然と考えている。

※この記事はデザイン会社ビースタッフカンパニーのボスでありアートディレクターの上田豪氏と、続けている試み。記事を書いて挿し絵的にビジュアルをつくるのではなく、見出しコピーだけを書いたものに上田氏がビジュアルをつけて言葉とともにひとつの表現として完成させたもの。それをもとにあらためて本文を書く、というやり方をしている。ソーシャルの時代、一行の見出しとひとつのビジュアルが拡散していく。だったらコピーとビジュアルをセットで考えたらいいのではないか。そんな実験も、今年はこれで最後。来年もまた続けていくつもりなので、ご期待を。

コミュニケーションディレクター/コピーライター/メディア戦略家
境 治
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