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コピーライター→映像製作会社ロボット→広告代理店ビデオプロモーション→再びコピーライター(フリーランス)。 メディアとコンテンツの未来を切り拓くコミュニケーションをデザインします。講演・執筆依頼もお気軽に!

【メディアコンテンツ業界への警鐘】”ともだち”に呑み込まれるな!

“友愛”と”ともだち”が似ているから、民主党に入れるなとか、自民党に入れようとか言いたいわけではないよ。

言いたいのは、”友愛”と”ともだち”は結局、ほとんど同じだってことだ。そして、”友愛”なんていう甘っちょろいスローガンに呑み込まれてる場合じゃないぞ、ってこと。

“友愛=ともだち”には、”助け合おう”というメッセージが込められているようで、実際には”甘えあおうよ”とぬるーいこと言ってるに過ぎない。高速道路無料化とか、子供手当とか、パッと聞くといいようで、実は問題を先延ばしにしている、それが”友愛”の実体なんだ。

ぼくたちメディアコンテンツ業界の在籍者は、そしてそこでクリエイターとして生きてきた者どもは、”友愛”に流されてはいけない。”ともだち”はいいねとか言っているうちに、みんなで共倒れになっちゃう。

だからって、隣のヤツを友だちと思うな、競争社会だから他人を蹴落としていけ、と言っているわけでもない。”ともだち”を唱える連中のまずいのは、”ともだち”の反対は”バトルロワイヤル”だとすぐ言いだすことだ。

同じことは、政治家やメディアが”新自由主義はまちがっていた”とか”行き過ぎた市場原理主義を止めねばならない”とか言うことの馬鹿馬鹿しさにも言える。株式会社を制度化した資本主義社会で暮しているのに、市場を無視しても意味がないし、生きていけなくなるだけだ。

つまりメディアコンテンツ業界は、市場にさらされていくことになった、そのことにぼくたちは自覚的でなければならないということだ。クリエイターはみずからの市場価値と向きあわねばならないということだ。”ともだち”というニュアンスにはそういう”さらされる”ことから逃げたがっている感じがある。そこが危険だ。呑み込まれるなということだ。

メディアコンテンツ業界は、国と政治に守られた護送船団方式でやってきた。それが去年から崩壊した。護送船団でやっていると、市場原理は働かない。それが崩れたのだから、メディアコンテンツ業界に住まう者たちは、市場原理にさらされていくということだ。

“さらされる”と書くと、世知辛いだけみたいだろう。でも、ほんとうの自由は”さらされて”生きていくということなんだぜ。

国家とか、業界とか、会社とか、発注先とか、上司とかに、守ってもらおうなんて、みんな思っちゃダメだ。もう、どいつもこいつもあてにならない時代になったんだ。いままで守ってくれていた(と思ってた)やつらは、もうおしまいなんだ、ダメなんだ、チカラがないんだ。

自分で自分のクリエイティビティに市場価値をつけていく。そのことに、真剣に向き合わないといけない。そうしないと、クリエイティブもへったくれもなくなっちまうんだ。

わかるかしら?・・・・

【メディアコンテンツ業界への警鐘】リスクヘッジを日常感覚に

パラダイムシフトをおこそうという時、リスクヘッジ感覚が必要になる。

旧パラダイムでビジネスをしている時、まあ何がどうなったら何がどうなるかはだいたいわかっているものだ。だから、リスクは読みやすい。というか、リスクってほどのリスクはない。

パラダイムシフトの過渡期では、何がどうなるかはこれまでの常識では計れない。だから、いままでよりリスクに敏感にならなければならないのだ。

もうひとつ。

これまでのいろんな業界は、リスクを受けとめる仕組みがあった。だいたい、どの業界も元締めがいた。元締めはだいたい、大きな事業体だ。だから、リスクを呑み込みやすい。元締めから受注する下請け企業は、だからリスクヘッジを元締めに託すことができた。

メディアコンテンツ業界で言えば、大手メディア企業や大手代理店が”元締め”にあたる。下請け企業は、困ったことは(とくに金銭的なリスクは)メディア企業や代理店におんぶできた。だからリスクヘッジ感覚をあまり持つ必要がなかった。

これからは、ちがうんだぜ。大手メディアや代理店がリスクを呑み込んでなんかくれない。あるいは、彼らが関与しないビジネスが増えてくる。いままでの下請け企業が自ら自律的にビジネスを執り行う傾向が強まる。

それは雄々しく、勇気が奮い立つ現象だけれども、自律的にビジネスしていくってことは、自らリスクも負いましょう、ということでもある。そりゃヘッジしなきゃね。

え?なんだか怖いって?うーん、でもね。ほんとうは、生きるということは、リスクと常に向き合う、ってことなんだよ。業界構造がしっかり固まっていたから、リスクに目を向けなくても生きてこれた。そんな悠長な時代が長く続いてきちゃったってことだ。雄々しく生きるということは、何かが起こったら自分で引受けなければならないということだ。

山を歩けば蛇に噛まれることもある。海を行けばサメに襲われる可能性もある。それが生きるということ。あっち行ったら蛇が出ちゃうかな?こっちを進むとサメがいるかもしれないぞ。そうなったら、どうしようか。こうすればいいんだ。そんなことを常日ごろ考えながら、それでも未開の地を進まねばならない。それは当たり前のことなんだ。

びくびくしながら、それでもぐいぐい前へ進んでいく。そうやって新しいパラダイムが定着していくのだろう・・・

【メディアコンテンツ業界への警鐘】もう一度起業する(みたいな感じで)

何度か書いてきたけど、日本の高度成長とメディアコンテンツ業界の成長はリンクしている。

そしてこの度の”百年に一度”の不況は景気循環の不況ではなく、高度成長時代から引っ張ってきた”自動車や電機などの製造業”による経済成長戦略がもうどん詰まりになったから。『官僚たちの夏』の時代からの戦略がもう終わっちゃったからだ。

そして”自動車や電機などの製造業”による成長戦略と足並みを揃えて引っ張ってきた”テレビと新聞を軸としたマスメディア重点戦略”が、当然のことながら足並みを揃えて終わっちゃおうとしている。

メディアに乗っかるコンテンツを生み出してきたクリエイター界も、いままでの戦略は終わる。次の戦略を考えないといけない。

大袈裟に言うと、日本という大きな会社が一度終わって、もう一回起業するようなことにならないといけない。

同じように、大手マスメディアや代理店から、小規模な制作会社、ひいては個人の力量でやって来たクリエイターの事務所まで、みんながみんなもう一度起業し直す、ようなことをやらないといけない。

もう一度起業する、とはどういうことか。起業をするということは、何を商品とし、どういうマーケットにどう営業していくかを考えて結論を出し、それに合わせた組織をつくっていく、ということ。ということは、同じことをもう一回検討し、営業戦略を練り、それに合わせて組織を再編していくことがいま必要なんだ。

そこでは、いかに”過去を捨て去れるか”が問われる。自分たちが大事にしてきた手法や信条、こだわりを一度捨てるのだ。一度捨てて、新しい戦略にはやっぱり必要なことと、もはや要らないことと、整理していく。その際には、精神的につらいことも出てくるだろう。えー?おれ、こういうことが自分にとって大事だと自分に言い聞かせて15年間やってきたのに、それはもう捨てろってこと?そんなことも出てくるだろう。

でもね、ここは、新しい服を着ることを楽しまないと。へー、こんな服もおれ似合うんだ。似合わないって思ってたけど、思い込みだったんだね。うん、なかなか悪くないじゃん。

あなたがほんとうの意味でクリエイターであるのなら、自分が変わることこそクリエイティブな作業だと気づくはずだ。創造的であるということは、古い自分をどんどんどんどん脱ぎ捨てていくということじゃないかな?それでもなお、自分の中に残ってしまうものこそが”作家性”であるはずだ。

もう一度、起業しよう。もう一回、一年生からやってみよう。そしてそのことを、楽しもう。面白がろう。

【メディアコンテンツ業界への警鐘】護送船団方式が崩壊する

産業振興法は、来たるべき貿易自由化に対し日本国内産業が持ちこたえられるように守っていこうというもの。ドラマの中で、風越に「戦時中の産業統制の再来じゃないかね」と皮肉を言われるシーンがあった。

その通りじゃない?

もうひとつ、ドラマの中で通産大臣が次官人事に介入する場面があった。前任者が風越を内々に指名するのだが、大臣が「省内人事を内々に決めるのはおかしい、人事権は大臣にあってしかるべき」と言う。

これも、その通りじゃない?

官僚が、国内産業を守っていこうというのは美しいようだけど、そんなことやっていても競争力はつかない。指針を示すのはいいと思うし、そういう戦略級こそは国が指し示すべきとは思うけど、守ってやるからああせえこうせえというのは大きなお世話だろう。

実際の経済史でも風越のモデルとなった通産官僚・佐橋が起案した特定産業振興臨時措置法は廃案となったが、それでも日本経済は高度成長を果たした。

さて、ここで我がメディアコンテンツ業界に話を転がそう。日本経済を国家が守る法案は廃案になったが、一方で日本の産業界はそこここで国家に守られてきた。いわゆる”護送船団方式”というやつね。銀行がその典型としてよく例に出されるけど、似たようなことはあちこちの業界にあった。

そしてメディアコンテンツ業界は護送船団方式の最たるものだった。

まずテレビだ。テレビ放送は認可事業だ。だから認可されないと参入できない。東京民放キー局は日テレ、TBS、テレ朝、フジ、テレ東の5局しかない。その5つだけが関東圏で民間テレビ放送を許されているのだ。

地方に行っても同様で、キー局と系列化された地方局が全国津々浦々に存在する。これも、国家に統制されているのだ。

新聞は少しちがうけど、やはり政治による整理があった。さらに、テレビ局は新聞資本と結びついている。これも政治による整理なのだ。

ちっとも自由競争してないんだ。

クリエイターはちがう?それはミクロではそうだ。でもマクロでは同じだ。もともとのもとが統制経済なんだから。

いま、テレビ局と新聞社の業績が急速に悪化し、その広告費でやってきた大手代理店も業績が最悪になっている。これはようするに、メディアコンテンツ業界の”護送船団方式”が崩壊しつつあるということだ。

護送船団の周りにくっついて小さな船を一所懸命漕いできたクリエイター界も、護送船団と一緒に風前の灯。

でも、だからこそ、ここが勝負だ。護送船団と一緒に沈没するか、船団抜きで大海原に出られるか。

あるいはいっそ、別の船団を自分たちで組む、という奥の手もあるのかもしれない。

勝負だ。持ちこたえつつ、自ら舵を取り、自ら推進力をつけるしかないんだ。護送船団の推進力がまだまだ大きいからってあてにしてたら、沈没する。なんとか、手で水をかいてでも、進んでいくしかないんだぞ。はぁはぁ、ぜぇぜぇ・・・

【メディアコンテンツ業界への警鐘】横断型ボトムアップで戦略を

ある経済学者がよく言っていることがある。日本の会社は現場は優秀である。だが経営陣がダメだ。戦略を示せない。そこが問題だと。でも、現場が優秀なら捨てたもんじゃないよ、と。

だから、まあ、各現場で戦略戦術を固めてがんばるのが基本ではある。

ところがやはり、現場レベルでの戦略には限界もあり、会社全体としての指針は出して欲しいと感じることは多いだろう。

これには対策があるにはある。ちと面倒だけど、各現場の戦略を持ち寄り、現場同士で組織全体の戦略を決めてしまうのだ。

時間はかかる。手間もかかる。ただ、どの道、経営陣には戦略立案能力も、それを上から下へ降ろしていくノウハウもない。むしろ、現場同士で話し合ったらこうすべきとなりました、と言ってあげた方が結果的には早い。”そうなのか、現場でそんな声がまとまったか、いいんじゃないかな”と、わりと簡単に認めてくれるだろう。あの人たちは、現場出身で、現場を大事にする(だから経営が苦手)から、現場でこうしたいと言っている、というのは効くのだ。

この場合、現場同士の声に食い違いが出てくることもある。本来なら、それを調整してAかBかを選択する決断を上がすべきなのだが、なにしろこの国の組織の上層部はそんな合理的なことができない。

政党のマニフェストがいろんな方向の政策をごった煮になってしまっていることに顕著に表れている、でしょ?そんな高級なことは政治でも会社でもできないのだ。そこは諦めるしかない。

諦めてしまえば、なんてことはない。諦めて、自分たちで結論を出そうという気持ちで議論すれば、決断はできるのだ。

これはほんとに、実体験に基づく”知恵”なのよ。考えようによっては、ものすごく大事な決断をミドル同士の集まりで決められるのだから、組織を動かす醍醐味もあるってもんだ。

もちろん、それを”公式決定”にするには、ミドルの中でも上層部への発言力があるお兄ちゃんがうまく上にあげてくれる必要があるけどね。そういう、現場をまとめられるお兄ちゃんなら、上層部へもうまく言えるはずだ。

そうやって、えっちらおっちら、会社を少しずつ変えていくの。そして上層部が”あれ?最近この会社、変わった?”とある日気づくようになる。それがこの国のパラダイムシフトの実際なんだ。

まちがっても、上層部に”不平不満”をぶつけてはいけないよ。あのおじさんたちは、わからないからさ・・・

【メディアコンテンツ業界への警鐘】たくさん働くのはやめよう

電通の1Qの営業利益は、1,361百万と、かろうじて黒字だった。よかったよかった。

ただ、前年は4,671百万だったから相当減ったのは減った。ちなみにその前の年の1Qは7,537百万、さらにその前は11,129百万だったから3年間で利益が1/10になっちゃった。

やはりメディアコンテンツ業界はターニングポイント、パラダイムシフトだぜ。

さてパラダイムシフトのポイントに、ぼくは”働き方”をあげるべきだと思っている。

簡単に言うと、”労働集約型”から”知的生産型”にシフトすべきなのだ。・・・あれ?あんまり簡単じゃない?

電通の営業利益に典型的に表れているように、この業界は成長の盛りを過ぎてしまっている。成長が見えている時代は、労働集約型でよかった。その方が正しかった。

労働集約型ってのはわかりにくいし、ちとちがうかな?”猛烈に働く”ことが成長時代にはプラスに働いた、って言った方がいいのかも。

その産業が成長している時、めいっぱい働くことはプラスになる。とにかくみんなでがんばる!徹夜してでもがんばる!成長していると、それに対する”見返り”があるから、しゃにむにがんばった方がいいのだ。がんばったら取引先からダイレクトに評価もしてもらえる。

成長が止まった時、考え方を変えないといけない。無闇にがんばっても、見返りがなくなるからだ。どっちかと言うと、盲滅法ながんばりは報われない。お門違い。お馬鹿さん。損するだけだ。

成長が止まった産業で生き残るには、一直線にいままで通りがんばるのではなく、立ち止まらないといけない。待てよ、去年までと同じことやってて、仕事が獲得できるのか?利益が残せるのか?と悩んだ方がいい。

悩んでばかりじゃダメなわけだけど、”よりよいやり方”を模索するべきなんだ。賢い手法を見出すべきなの。

たぶん、それは、見つかる。あ、こういうやり方、いままでやってなかったけど、”有り”かも。けっこう見つかるんだぜ。

それ、やってみたら、いままでより効率的になったり、合理的になったり、時間もかからなかったり、する。

“知的生産”というと天才的な頭脳がないとできないようだけど、実は、ちょっと今までのやり方を疑ってみたり、新しいやり方を探ってみたり、そういうことに過ぎない。それが見えたら、新しい知恵になっていくんだ。

いままで通り、とにかくがんばるぞ!って徹夜するんじゃなく、1時間ぐらいじーっくり悩んで徹夜せずに3時間でやれる手法を見つけていく。そうすると、アラ不思議!働く時間が短縮できてきたじゃないの!

そういうね、クリエイティブはこだわりだ!とか言って、実はムダに働いていた、そのスタイルを、見直してみようじゃないの、みなさん!

【メディアコンテンツ業界への警鐘】博報堂DYグループ、1Q赤字ショック

博報堂DYは去年の第1四半期も赤字だった。だからびっくりすることもないんじゃない?

いやいや、確かに去年そうだったけど、意味がじぇんじぇんちがうんだ。去年はね、引越費用が販管費を押し上げたという、立派な理由があったんだ。今期はそういう”とくべつな”理由はない。純粋に、事業としての結果が赤字だったの。

まず売上高が214,239百万と、40,585百万減、15.9%減だった。

そして営業利益が2,046百万の赤字。去年の同時期は250百万の赤字だったから、さらに1,795百万も利益が減ったことになる。

営業利益ってわかる?売上高から、売上原価と販管費を引いたもの。そこが赤字だってことは、事業として問題ありだってことになる。

売上高15.9%減ってのは、7月20日に書いた日経広告研究所の09年度のマス広告費の予測(前年比15.1%)とほぼ一致するから怖い。こんな調子で今年度は進んでいくということだ。

ぼくは正直、大手広告代理店は赤字にまではならないんじゃないかと思っていた。テレビ局がやばいんでね?と思ってたんだけど、結果は逆で、テレビ局は少なくともこの1Qでは赤字にはなっていない。

これはつまり、テレビ広告費減に加えて新聞雑誌広告費の減少も広告業界に大きく影響しているということだね。

博報堂が赤字だってことは、博報堂から受注していたすべての広告業界の事業に影響を及ぼす。CM会社もデザイン事務所もイベント会社もマーケティング会社も調査会社も音楽プロデューサーも撮影スタジオもポストプロダクションも、何もかも、どれもこれも、やばい、ってことだ。

今期は嵐が吹きまくっている。危機感を持とう。そして、それでも前へ進んでいこう。ほふく前進してでも・・・

【メディアコンテンツ業界への警鐘】○○原理主義からの脱却を

まあ、業界の四半期決算、どこも悲惨なのは目に見えているね。さあ、だから、パラダイムシフトだよ、ってことで、みんないろんなこと考えはじめていることだろう。

さてここで今日のポイントです。パラダイムシフトを考える時、○○原理主義に陥らないようにしよう、という大事なことを指摘したい。

○○原理主義?なにその宗教みたいな言い方。関係ないんじゃない?

いやいや、宗教問題の言葉にからめて言っているこの”原理主義”って言い方、いろいろあてはまるかもよー。

クリエイターの世界で言えば、CM原理主義とかグラフィック原理主義とか、WEB原理主義とかね。コピーライター原理主義ってのもありそうだし、プランナー原理主義とかプロデューサー原理主義ってのもあるんじゃないか。

代理店原理主義とか、プロダクション原理主義ってのもあるね、たぶん。

テレビ原理主義や新聞原理主義、雑誌原理主義もはびこってるのかもしれない。

なんとなくわかってきた?

つまりね、メディアコンテンツ業界にも様々な”分野”が存在する。みんなそれぞれの分野、それぞれの職種で何十年もがんばってきているわけだ。その分野や職種に”こだわって”いると、次の時代をつくれないぞ、おいてけぼりになっちゃうぞ、ってこと。

あー、何を言うんだ、プロフェッショナルが”こだわり”忘れてどうすんだ。あ、そう思っちゃったあなた。あなたは○○原理主義から脱却できてないのかもよ。

いやもちろん、アートディレクターはアートディレクションにこだわらなきゃまずいよね。雑誌編集者が雑誌にこだわらないと存在意義ないですよ、当然。

でもね、そういう”おれの道”へのこだわりを持ちながらも、一方で”んなことにこだわってるおれってバッカじゃね?”という、冷めた視点というか悟りの境地というかも、持たないとまずいって言いたいわけ。あるいは、そういう冷めた視点を併せ持つことで、次の時代が見えてくるのかもしれないよ、って言いたい。

とくにいまは、個々のメディアのポジションや存在意義が根本から崩れ去ろうとしている。その時に、”こだわり”が邪魔になることもあるってこと。すごく極端に言えば、雑誌編集者が雑誌にこだわっているうちに、雑誌そのものがこの世から消えうせるかもしれない。げっ!ひどいこと言うなあ、って、でも雑誌が次々に廃刊になっているのを見ると、あながちないとは言えないでしょ?

それでもなお、雑誌編集者にはきっと、存在意義がある。そのノウハウを別の形で生かせるはず。その場が”雑誌”と呼ばれなくなったとしても、きっと生きる道はある。”ある分野に絞って最新情報を集めて編集し受け手に送り届ける”能力は、どこかに生かせるはずだ。それは、そういう”映像メディア”なのかもしれないし、WEB上でCGMを展開することなのかもしれないし、その両方を一度にやることなのかもしれない。

雑誌編集者のノウハウが、映像制作者やWEBテクノロジーと結びついたら”次の時代”が見えてくるかもしれない、ってことね。自分の培ってきた能力に誇りとこだわりを持ちつづけながらも、一方で”こんなもんどうってもんでもないね”と思えたら、道が拓ける、きっと。

○○原理主義から脱却する、って、そういうこと。パラダイムシフトって、そんな感じ。

アンダースタン?

【メディアコンテンツ業界への警鐘】もう成長しない日本

高度成長期前夜の昭和30年代の話なんだけどね。あ、その『官僚たちの夏』の舞台が。”風越”の行動原理は、繊維産業だの自動車産業だの、コンピュータ産業だのを外圧から守ろう、というもの。当時はまだ、それぞれの産業が黎明期だったから、欧米の企業が日本市場に進出してきたら日本のそれぞれの産業が発展できなくなってしまう、というのが彼の信念なのだ。

それはそれで当時として正しかったのかもしれない。その辺は正直、よくわからないけど、”風越”のモデルとなった佐橋氏が、当時二輪車メーカーだったホンダの四輪進出に待ったをかけたのは有名な話だ。佐橋氏の姿勢はヘタをすると、「日本の産業界は国が守ってやってるのだからわしらの言う通りやればいいのだ」とも受け取れる。ホンダのようなメーカーの自由な発展を阻害した存在だったとも言える。

佐橋氏(=風越)が正しいかどうかはまあ、置いておこう。だがそうやって、時にはぶつかり合いながらも産業界と行政が培ってきたものがいま、崩壊しようとしているのだ。それが我がメディアコンテンツ業界にも押しよせている、それがこの2009年というものなんだろうと思う。

結局、そうやって”高度成長”は達成したけど、そのあとの青写真を誰も描けないでバブル後10年以上すぎて、いまに至っているわけ。ということは、”日本はもう成長しない”という前提ですべてを考えはじめないといけないということ。

“もう成長しない”というのが暗すぎなら、”もういままでのような成長はありえない”と言い換えよう。

つまり、自動車や電化製品を大量に生産したら大量に売れる、という成長はもうないんだ。

だから、大量に生産したら大量に広告を打って大量に売る、というモデルは我々の世界には二度とやって来ない。ぼくたちは、そういう前提に立って物事を考えはじめないといけないんだ。

加えて言えば、ぼくたちは”団塊の世代の成功事例”を追いかけてはいけない。”大量に生産して大量に広告を打つ”時代のメディア業界を開拓してきたのが彼らだ。だから”彼らのやり方”はもう通用しないということ。

彼らが開拓してきたすべてのメソッドやノウハウ、職能、仕事観、といったことを、ぼくたちは引いた目で見ないといけない。

ところがこれがなかなか大変だ。団塊の世代以降のすべての世代は、団塊の世代がつくった職業観を追いかけてきたのだから。広告クリエイティブの世界で言えば、立派な実績を積み重ねて賞をいっぱいとって、クリエイティブディレクターになる、というキャリア感覚はもう死んだと思っていい。

もっと別なキャリアプランを考えようぜ。あるってば。見えるってば。難しいけど、ね。

【メディアコンテンツ業界への警鐘】マーケティング発想にシフトせよ

何が”すごい”かは、まあとにかく読んでみれ。新書だから買いやすい、読みやすい。

ひとつ、わかりやすいところを書くと、”額縁広告”という言い方をしている。

80年代に”額縁広告”が隆盛を極めた、と。”額縁広告”ってのは、つまり”額縁”に入れて観賞するタイプというか、そういう意志で作られた広告のこと。”作品”って捉え方ね。

なんかわかるー。この”額縁広告”感覚が、クリエイターの世界をややこしくしてきたんじゃないだろうか。

でも”額縁広告”の感覚こそが、広告制作に才能を呼び寄せても来たんだけど。

そして、”額縁広告”感覚こそ、クリエイターがパラダイムシフトすべきポイントになってくるとぼくは思う。

“額縁広告”はともすると、クライアントへの貢献を忘れてしまう。賞はとったけど商品は売れなかったね、という話はこれまでもいっぱいあったでしょ。

いままでは、それもまたあり、という空気があった。でもこれからは、そんなことじゃあイカン、ということだ。イカンというより、売れなかったけどあのCM、賞はとりましたよ、なんてこと言ってたらクライアントから信頼なんかされないよ、クビになるよ、ということ。

”いいもんできましたー!”ってことに全精力を傾けつづけていても、ぼくたちはもう生きていけなくなるんだ。

だからって作品と呼べるほどのいい広告をつくることがまったく無意味ってわけでもない。そういうクリエイティブが必要な時もあれば、もっと別のことからクリエイティブを考えるべきケースもあるってこと。クリエイターがひたすら”いいクリエイティブ”にすることだけを考えてもしょうがないよ、ってこと。

クリエイティブのことを考える前に、”マーケティング”を考えないといけない。

クライアントが商品を売りたいのかどうか。売りたいのなら、その商品はどんなメカニズムで売れるのか。とくにコミュニケーションはその商品にとってどんな役割なのか。テレビは効くのか。雑誌や新聞はどうなのか。ネットはどうか。ネットに求められるのは、ブランド体験なのか、口コミなのか。なんなのか、かんなのか・・・

ああ難しそうだね。いやいや、でもね、マーケティングを難しく考えることなんてない。”生活感覚”と、”それぞれのターゲットについての想像力”があれば、それで十分。

とにかく!マーケティングなの。マーケティングへの意志がないクリエイターは、お金をとれなくなるんだぞー。

【メディアコンテンツ業界への警鐘】パラダイムシフトは周縁から

時代の変革期、”真ん中”からはほんとうの次世代に向かって行く矢印は生まれない。

パラダイムシフトは常に、周縁から起こるからだ。

パラダイムシフトについて考える時、産業の世界で見ると、”イノベーション”と置き換えることができる。そして、イノベーションは周縁から起こることになっている。

IBMがわかりやすい例としてよく語られる。

IBMはコンピュータ業界の王様で、真ん中だった。コンピュータを産業にしてきたのはIBMだった。ただしそれは、メインフレーム全盛時代のこと。ようするにコンピュータが巨大だった頃の話だ。

70年代から80年代にかけて、パーソナルコンピュータが登場した。数十万円で個人がコンピュータを持てる。でも、巨大なコンピュータを中心として栄えてきた業界にとって、それは鼻くそみたいなものだった。

それはそうだ。一台数千万円のマシンを企業相手にドカンドカンと売ってきた。大砲で戦争していたら、これからは自動小銃の時代だよと言われても、あ、そう、それが何か?てなもんだろう。

ところが、高を括っているうちに、パーソナルコンピュータはどんどん進化して、大砲に優るとも劣らない性能に気がつくとたどりつく。

それがわかったとしても、大砲で勝ってきたIBMにはどうしようもないのだ。事業の構造として、大砲を造るためにすべてを整えてきたので、自動小銃を生産する会社に生まれ変わるにはすべてを一度捨てねばならない。そんなこと、できない。

結局IBMは、行き詰まるところまで行き詰まったところで、大リストラをして、メインフレームもへったくれもなく、システムソリューション企業として生まれ変わった。

IBMは別の会社になったんだ。

別の会社になる決断をできた分、IBMはえらいのかもしれない。

普通はできない。そして、存在価値を失う。

その代わりに巨大な存在になったのがマイクロソフトだ。メインフレームだパーソナルだ、ではなく、アプリケーションを売る会社として驚くような成長を遂げた。

そして次にはYahoo!が登場し、さらにGoogleが生まれた。

それぞれが、その前の世代の企業の”周縁”を本業とし成長した。

パーソナルコンピュータ界のパイオニアだったAppleに新たな成長をもたらしたのは、コンピュータそのものではなく、音楽を聴くためのシステムとハードウェア、iTunesとiPodだった。これも周縁。

周縁、がキーワードだ。メディアコンテンツ業界で言えば、これまでの”真ん中”がマスメディアで、”周縁”だったネットがいま、真ん中になろうとしている。

さて問題です。だとすれば、コンテンツの作り手たるクリエイターにとって、何が真ん中で、どこが周縁なのでしょう?

・・・えっと・・・あれ?ぼくにもわからないや・・・

【メディアコンテンツ業界への警鐘】で、そのパラダイムシフトって?

「パラダイム」を、手元の辞書で引くと、こんな説明になっている。

� アメリカの科学史家クーンが科学理論の歴史的発展を分析するために導入した方法概念。科学研究を一定期間導く,規範となる業績を意味する。のちに一般化され,ある一時代の人々のものの見方・考え方を根本的に規定している概念的枠組みをさすようになった。
� 語形変化の型を代表的語例で示した一覧表。日本語の用言の活用表,印欧語の格変化表などがその例。

パラダイムシフトのパラダイムは、もちろん、�の方だよ。

ぼくも大学の教養時代に、科学史の言葉として教わった。教養時代に習ったことなんて、ほとんど忘れちゃってるけど、パラダイムだけはよーく憶えてる。すごくわかりやすく教えてくれたし、インパクトがあったんだ。

ガリレオが地動説を唱えた。それはパラダイムシフトだったんだ。

ガリレオ前は、天動説だった。大地は動かないで、太陽をはじめすべての天体が大地の周りを昇っては消える。いま聞くと、小学生だって馬鹿にするような考え方だ。

でも、ガリレオ前は、それが”科学”だった。天動説のもとに、あらゆる天体の動きが解析された。信じられないことに、それはそれで、いろいろ説明できていたんだって。

ガリレオが地動説で世の中に登場した時、地球が動いてる方が理にかなってるという確信はあったものの、まだ説明できないことがいっぱいあった。その時点では、天動説の方がいろんなことを説明できてたんだってさ。

だから、天動説をもとにした天文学の権威たちがガリレオを問い詰めた。「じゃあ、あの星の動きは地動説でどう説明するのかね?」「君の地動説とやらだと、あの星がこう動くことが説明できないじゃないかね、何言っとるんじゃ」そんな感じだった。

そうやって問い詰められて、追い込まれて、切羽詰まって、あの有名なひとことを言った。「それでも地球は動いている!」

この言葉は、強く信念を持つ人の重たい言葉だととらえられているけど、こういう状況からすると、苦し紛れのひとことだったわけだ。「いつか全部説明するから、いまはまだ説明できないことだらけだけど、でもね、けどね、絶対にね、それでも地球は動いてるんだよ!」もう、そう言うしかなかった。

ここから読み取れるのはね、パラダイムシフトって、簡単に言っても実際には難しい。理屈では、世の中変わるってわかったつもりでも、何しろいままで天動説で何十年も生きてきたり仕事してきたりすると、身体や脳みその奥深くに天動説がしみ込んでいるものだ。「そうだよね、これからは地動説だよね」と口で言ってたとしても「だったら地動説をもとにこうしましょう」と言われると「いや、それはちょっと待てよ。だって太陽がこう動くだろ・・・」と、あれ?矛盾したこと言ったりする。

あるいは、「地動説?いやいやいやいや、おれはね、天動説でやって来たからね、天が動く、地球は動かない、ってことで、一向にかまわないね」と開き直ったりする。

人間生活の中での実際のパラダイムシフトは、すーっと、スムーズになんかいかない。いろんな摩擦や感情の逆なでを引き起こすんだ。そして、実はそこがいちばん難しいんだと思う。

それでも、ぼくたちは、未来のために、パラダイムシフトを引き起こしていかなければならないんだ。大変だぞー。