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コピーライター→映像製作会社ロボット→広告代理店ビデオプロモーション→再びコピーライター(フリーランス)。 メディアとコンテンツの未来を切り拓くコミュニケーションをデザインします。講演・執筆依頼もお気軽に!

iPadの広告にSearchはいらない〜iPadから見えるコンテンツの未来・その11〜

今日はブログはお休みしちゃおうかなあと思ってたんだけど、Twitterで接したニュースにびっくりし、その流れで@higekuma3と大笑いしながらTweetのやりとりして、なんか目がさえてきたのでやっぱり書くことにした。

さてここで、ちょっと重要な記事を紹介する。きっと皆さんもちょくちょく読んでるにちがいないTechWaveのこの記事だ。iPadの新聞雑誌アプリの広告価格設定について。簡単に言うと、価値が高いぞ、という内容。

iPadから見えるコンテンツの未来・その3でも書いた通り、iPad雑誌アプリには広告もふんだんに載っていて、インタラクティブな要素もあって面白かった。中にはWEBサイトに飛べるものもあった。

ここで、これも前に書いた「AISASにはかねがね疑問だった」の記事を思い出してほしい。そこでは、さっき登場した@higekuma3のブログから引用しながら、広告による企業サイトへの誘導の中で”検索”ってそんなにされるものだろうかという疑問を書いた。

ちなみに@higekuma3はブログの最新記事でもGoogleは”ダイエー化”してるんじゃないかと辛コメ(辛口コメント)を書いている。

とにかく、例えばテレビCMで「検索!」などと表示して実際に効果が高いといえるほど検索するだろうか、という懸念は持っていた。あるいは、最近はあまり検索してくれないんじゃないかと思う。

iPad雑誌の広告は、そう考えるとかなり画期的だと言える。検索させなくても、企業サイトに誘導できてしまうのだ。

テレビCMでブランディングし、新聞や雑誌で情報要素も伝え、WEBサイトに来てもらう。これをいままでは、それぞれ別のメディア、別の端末でやろうとしていた。

これがiPadは同じ端末の中でできてしまうのだ。

ホントにこれ、考えれば考えるほど、画期的なことだ。いくつものメディアを駆使しないとできなかったことが、できてしまう。映像でイメージを伝えたり興味を惹いたりし、グラフィックでイメージ+情報も伝え、WEBに誘導して具体的なアクションへつなげる。ね、相当に画期的じゃない?

インターネットが登場し、広告はSearchが重要になった。SearchをもとにGoogleは急成長し、Searchされる手法をサービスの軸とする広告会社が成長してきた。Searchはインターネット広告の最重要ファクターだったはずだ。ところが、iPad雑誌の広告は、企業のサイトにたどり着くプロセスの中でSearchを外してしまった。ブランディングから場合によってはECサイトでの購入までを一貫させてしまった。バナーなんてのもない。小さな枠にできるだけ凝縮した要素を詰め込む、なんて必要ない。1ページ丸々使った訴求ができる上に、そこからサイトに飛んでいくこともできるんだ。

雑誌の収益にとって、広告が大事なのは誰でも知っていることだろう。つまりは、iPad雑誌を企画していく際、どんな雑誌にして、どんな広告にするかをよく考えた方がいい。いろんな可能性があるはずだ。そこにクライアント企業は興味を持ってくれるかもしれない。ちゃんとプレゼンテーションすれば、高い広告価値を認めてくれるかもしれないんだ。

さあそうすると、編集と広告が一体となって雑誌を企画することになる。出版において編集と広告が対立しがちなのはよく言われることだけど、ここは壁を取り払って、収益性の高い雑誌にしていくにはどうすればいいか、真剣に議論するといいんじゃないか。タイアップの手法だって、新たに開発できるかもしれないんだ。

新創刊したら、代理店さんがだだーっと広告を売ってくれる、なんて世の中ではもうない。出版社が自分で広告セールスする意気込みが、もっと言えば、編集者が企業に広告価値を語れる意気込みがなければいけないのだと思う。

Searchのいらない雑誌は、強いメディアにできる可能性があるんだと思うよ。

LIFEにはArt Directionが必要なんだ〜iPadから見えるコンテンツの未来・その10〜

昨日書きそびれたポイントがあって、それは一昨日の記事との関係性だったの。

一昨日の記事でぼくは、iPad = LIFE STATIONだと書いた。これは、これまでのPCがWORK STATIONなら、iPadはLIFEなんじゃないかと、そういう論旨だった。

で、昨日は、iPadのコンテンツにはアートディレクションが必要だと書いた。美しくなきゃ、便利じゃないから、ということで。

これを、別の言い方で説明すると、iPadはLIFEのSTATIONだからアートディレクションが必須だね、とも言える。WORKにはね、あんまり要らないんじゃないかと。美しさ、みたいなことは。むしろ、能率とか、効率とか、操作性とか、そういうことが重要だから。

でも、リビングのソファで寝そべって使うiPadは、ゆったり過ごすLIFEの中で使うものだ。そこでは、気持ちいいねとか、ステキだわとか、オシャレだねとか、そういった心地よさがすごく大事だ。能率とか効率とか、そういうギスギスした感じはいいんだよ、やめてよと。それはWORKだから。WORKから自分の時間つまりLIFEに戻ってきたんだからさ。それより美しさだよと。

だからアートディレクションが必要だ、となるわけ。

iPadはPCと比べてどうでしょうとか、ネットブックより使いやすいんでしょうかとか、そういう捉え方はちがうんだよなあ、と思う。だってそれらはWORKのためにあるわけだから。iPadはLIFEなんですよ、と、言いたいわけ。

さてこういうことを書くと、全国のアートディレクターの皆さんがバンザーイと言いそうだ。うん、喜んでくれていいと思うよ。なんだか紙媒体が存在意義を失って、何でもかんでもWEBかよフン、といじけていたかもしれないアートディレクターの、新たな活躍の場が新登場したのはまちがいないと思う。

でもね、アートディレクターの皆さんはここで一回、たくさんのことを捨てないといけない。これまで積み上げてきた経験値とか、こういう時はこうじゃなきゃ、という勘とか、そういったものはバサッと捨て去らないといけない。

アートディレクターの皆さんは、十数年前にも一度捨てている。コンピュータでデザインを作成していくことになっていった時、写植とか、版下とか、一回捨てている。写植が上がってきたらそれで版下を組み、文字間にこだわって字詰めしていって、うーんどうしてもここ3文字必要。境ちゃん、ボディコピー3文字増やせない?という、あの職人芸の世界を捨てた。

そしていま、iPadの世界に入っていく時、また捨てないといけない。それは静止しているものを仕上げる感覚。最終的につくるもののゴールが、なんだか動的でふわふわしている。そんな世界に突入しないといけない。細部へのこだわり、のこだわるベクトルが、ずいぶんちがうなあ、心もとないなあ、そんなことに取組まないといけない。

たぶん、そこでは、アートディレクターはあまり最終アウトプットに関与できないのかもしれない。いままでと比べるとずいぶん大ざっぱなとこで仕事が終わっちゃうなあ、ってことになるんじゃないか。

静止しているビジュアルを完成させる。その醍醐味は失われてしまうんだ、きっと。

そうなっていく時、CMSが大きく関与してくる。ひょっとしたらアートディレクターの仕事は、CMSをもとにデザインフレームを決めたらほとんどおしまい、になるのかもしれない。

ということで、CMSが重要だよ、そりゃどういうことだよ!ってところで、次回につづくんだな。だって眠いしね・・・

とにかく買っちゃったもんね!〜iPadから見えるコンテンツの未来・その1〜

そんなわけで、5月28日、予定通りわが家にiPadが届いたよ。10日の予約開始日に即、オンラインのApple Storeで予約したからね。あ、Wi-Fi版だよ。3Gはぼくには必要ないと判断して。あとで後悔するのかしないのか・・・

でもとにかく、日曜日は一日中さわってた。アプリもたっぷりダウンロードしちゃった。気がつくと1万円分ぐらい買ってた。アホだなあ。まあそういう時もあるよ、人生には。

実際に生活の中で使ってみて、書きたいことが山ほどある。いまの時点で山ほどあるのだから、これから一週間ぐらい使うとどんどん書きたいことが増えて山どころか”書きたいこと大山脈”ができてしまうだろう。

そこで今日は、これから書きたいことを予告しておくよ。

iPadとはどういうものかについては、少し前に“iPadはセカイテレビだ”というタイトルでも書いたし、さらにその翌日には“iPadはセカイテレビだと思う(のつづき)”と題してしつこく書いた。だからこれから書くこともその時書いたことに沿うことになる。買う前からそういう視点でとらえていたというわけで。

つまり、1つ目の視点は「iPad=ソーシャル端末=現在」というとらえ方。そしてもう1つの視点は「iPad=新たなコンテンツ売場」という見方だね。

使ってみた感覚もやはり、その2つの視点からでまちがいないなというものだったけど、やはり実際にさわりまくると、別の点も出てくる。そしてある意味、iPadに限って言うとiPadらしさとはそこなんだなということでもある。

iPadはコンテンツのジャンル、表現の分類を無意味化する。

そしてそれこそ、もっとも21世紀的なポイントなのかもしれない。いちばん重要で革命的なことなのかもしれない。

かみ砕いて言えば、iPadの中では文字も画像もグラフィックデザインも映像もへったくれもない。すべてを呑み込んでしまうし、すべてを駆使した方が強いコンテンツになる。そういうことなんだ。

例えば、いま話題の電子書籍。単純に文字だけで読み応えのある”本”を電子化するならPDFを読めりゃいいね、となるだろう。でも例えば雑誌をiPadで読ませるのなら、PDFなんかをもとにしない方がいい。文字があって写真もふんだんに使ったような表現をするなら、PDFなんかじゃダメ!そんなのiPadじゃない!

けっこうこれ、重大なポイントだと思うから、明日、一回分使ってこってり書くね。一回分の文字数を決めてるわけじゃないけど、一回分使って書かなきゃイカンなと思うんで。ホントはiPadいじりすぎで疲れてもう寝たいからなんだけどね、ふああああ(あくびの擬音)・・・・

60年代生まれは『RAILWAYS』を観るべし!〜公私混同的オススメ文〜

今日、帰宅したらiPadが届いているはず。だから早く帰りたいのだけど、そうはいかない。今晩20時から『RAILWAYS』のUst特番をやることになってしまったのだ。なってしまったというか、自分が言い出したのだから、その場にいないわけにはいかない。映画の最初の38分間を丸々Ustで放送しちゃう。公開前の映画を一部とは言えダダ漏れするなんて、たぶんかつてないことだよ。

前回のこのブログで、そういう”会社のこと”をTwitter上でつぶやきながらふと、それは「会社と関係なく書いてた」はずのブログやTwitter上でのポリシーに反してないか?と自問自答したのだけど、思いのほかTwitterでみなさんから、そんなのどうせそうなっちゃうんだからいいんだよ、てなRTをいっぱいもらった。なんかホッとしたよ、みなさん。

で、だったら公私混同満々に『RAILWAYS』のことを書いちゃおうと思った。ぼくがどうして『RAILWAYS』のプロモーションをUstでやろうと思い立ったかというと、実は会社のためというより、この映画いろんな人に観てほしいと思ったからなのだ。公私混同をさらに逆にひっくり返した気持ちがモチベーションだったわけ。

前にぼくは、40代はTwitterで組織から解き放たれようぜ、と書いた。『RAILWAYS』はまさしくそんな物語なのだ。

ある大企業の、次期取締役が約束されたエリートサラリーマンが、いろいろあって電車の運転士になっちゃう。それは子供の頃の夢だったから。簡単に言うとそんな話。だから鉄道大好きな人たちがまず観に来てくれると思うのだけど、鉄道に興味ない人にも楽しめる物語なのだ。だって40代の、つまり60年代生まれの皆さんなら、あ、これは俺の物語じゃないか、と感じてもらえるはずだから。

年に何十本も映画を見るような人だと、物足りないところもあるかもしれない。あまりクロウト受けしそうなタイプじゃないかも。でもそういう映画批評的に観るより、”俺の人生と重ね合わせたらどうよ”という視点で観てほしい。そしたら重なりまくるだろうから。

ぼくたち60年代生まれは、この先どうなっちゃうのか。例えばJALは他人事じゃないだろう。ああいうことが、これから十年ぐらいの間に、あらゆる組織で起こるのだと、ぼくたちはすでに予想しているわけだ。団塊の世代は全部持って豊かな老後に入ろうとしている。そのあとを追いかけてきたぼくたちは、そこにぺんぺん草しか生えてないことがわかってきた。

もう収入は上がらないし、それどころか下がるらしいし、年金はもう当てにできないし、というか会社っていろいろ我慢してたら定年まで存在し続けると言われて耐えてきたのに、そうとは限らなくなっちゃったらしい。だったらぼくたち、何のために我慢してきたの?

『RAILWAYS』はそんなぼくたちに、こう話しかけてくる。もうさあ、我慢なんかしなくていいんじゃないの?何やってたって何がどうなるのかわかんないんだよ。もう誰も何も保証してくれないんだよ。だったら、やりたいことやるしかないよ。やりたいことやっていいんだよ。子供の頃の夢とかさ、いまさらかなえたい、とか言っていいんだよ。ぜんぜんその方が健全なんだよ。

言ってみれば、『RAILWAYS』は高度成長が否定してきたことを、全肯定している物語なのだ。地方より東京の方がいい。中小企業より大企業の方がいい。出世しないより出世する方が断然いい。それを実現するには、夢とか言ってちゃダメだし、家族と過ごせなくなるのは仕方ない。高度成長はそんなメッセージをずっと投げかけてきた。『RAILWAYS』はそれをすべて逆さまにしたメッセージに包まれている。そんなんじゃ結局、本人も家族も幸せじゃなかった、楽しくなかったんじゃないの?と語りかけてくるんだ。

なるほど!よし、劇場で観よう!そう決めちゃった人は、Ust特番は観ない方がいいかもしれない。やっぱり映画は劇場で見るのがいちばんだからね。うーん、どうなのかなあ、面白そうな気はしてきたけど・・って感じなら、今晩20時にPCで観てみてくださいな。そういうお試し視聴のために、Ustがいいんじゃないかと思ったわけで。

まあ、本編をみなくても、そのあとの対談だけ観てもいいかも。20時40分ぐらいから。どんどん話が脱線していくんだろうなあ・・・その方が面白いのだろうけどね・・・

ソーシャル空間で公私混同してる私

今日はほとんど独り言みたいな話。

今度の金曜日はiPadがわが家に届く日。あーワクワク!だけど、この日は帰宅が遅くなることが決定している。

ぼくが所属する会社ロボットの新作映画『RAILWAYS』のUstream番組を配信する日だからだ。別に配信する日だからって家に早く帰ってよさそうなものだけど、そういうわけにはいかない。この番組の言い出しっぺがぼくだからだ。

『RAILWAYS』は正直に言って大作とは言えない。だからドカドカと大キャンペーンによる告知があるわけではない。でもぼくはぜひたくさんの人に見てほしい。だったらUstどうでしょう、と言い出したわけ。

そこまではいいとして、昨日、そのUst配信が告知されたら、いてもたってもいられなくなって自分でもTwitter上でどんどんつぶやいた。どんどんつぶやいて、ふと気づいたのだけど、ちょっとポリシーちがってきてないか、おれ、と。

Twitter上でも、このブログ上でも、ぼくは自分の本名や所属会社を明示しつつ、「ここで書いてることは会社と関係ないからねー」とわざわざ断り書きを入れてある。このブログのプロフィール欄にもそんなことが書いてあるでしょ。

そう言えば、2月に例の焼け跡ブログと題して書いた一連の記事の中でも、個人と会社は分けるんだーとかほざいてたんだよな。とくにこの記事の真ん中あたりでは「ぼくたちはもはや、会社員である前に、個人なのだ」なーんてカッコいいこと書いている。いやー、まったくいいこと言った、おれ!

会社員である前に個人であるぼくがここでブログ書いたりTwitter上でつぶやいたりしてるはずなのに、会社でやることの告知をつぶやきまくるのって、どうよ。そこんとこどう考えんのよ、おれ。

もうちょっとそのあたり自分にツッコミ入れると、会社員である前に個人であるぼくとしてTwitter上を歩いてるつもりなんだけど、知りあった人と仕事の話をしたりしてるわけ。理念的に共感するよねーぼくたち、と盛り上がっておいて、そいで仕事なんだけどさあ、なんてことになっちゃったりしている。それってどうよ、おれ。

という、なんだか言ってることとやってることの辻褄があわなくなってきちゃった。少なくとも、昨日みたいに会社の宣伝マンになってちゃいけないんじゃないか、とか。でも一方で、映画見てほしいし、Ustもやるからにはできるだけ大勢に見てほしい、とも思うしね。

ここで書いたりTwitterでつぶやいたりすることが、「会社の見解」でないことは、まあまちがいないのだけど、それに会社員である前に個人であるぼくが書いてるのも、確かなことなのだけど、でも自分がやっていることはどうあがいても会社に関わってくるわけで、公私は混同したり入り混じったりごちゃごちゃになったりは、するんだなあ。

それから、もうひとつわかんなくなったことがある。ぼくは長らく広告屋をやってきて、いまの会社だって半分は広告制作業だ。そして広告屋は黒子だった。ところが映画『RAILWAYS』はまぎれもなくロボットが企画し制作した作品で、ぼくらが黒子になる必要もない。とは言え、これまで広告屋として企画したことをやる時、黒子だから自分がその中で何をやるとかは言う立場じゃなかった。匿名で、こっそり動くのが黒子だった。

それが、ソーシャル的にはちがってきてるんじゃないか、と。TwitterだのUstだの、ってことになってきた時、一緒に盛り上げる立場になってきて、黒子でなんかいないで、あんたもつぶやいてよとかUstに出なさいよ、てなことになっていくんじゃないか。というか、なりつつある。仮に今回のUst企画がロボット以外の作品でプロモーションだけ依頼されてたとしても、やっぱりぼくはつぶやきたくなっただろうし、依頼した側もきっと、あなたもつぶやきなさい、となっていたのではないかいな。

あ、いかん、ふたつの問題提議を同時にしてしまって話がこんがらがりそうだ。

今日の記事は、ということで、結論はナシ。と言うか、ここで書いたこと、みなさんどう思うっすか?マジわかんないんすよ。と、今どきの若者口調でなんとなく今日はおしまい。

コンテンツパワーとソーシャルパワー〜広告の新たな地平線・その13〜

さてまた図だ。しかも前に見たことある図だ。何が違うんじゃろうね?

図の説明の前に、ひとつ、びっくらこいた出来事にふれておく。

先週の月曜日のこと、なんとなーくTwitterを眺めていたら、Diorに関する記事にふれているつぶやきを見つけた。なんとなーくその記事をiPhoneで読んで、記事のいちばん最後にある”公式サイトはこちら”のリンクを押した。するとDiorのサイトに飛んでいった。なんとなーく見てたらiPhoneAppをダウンロードしてみんかい、みたいなことが書いてある(これはPCでアクセスしても表示されないみたいだけど)のでひょいっと押したらAppStoreが起ち上がってDiorのAppが表示される。無料らしいので落としたらなんだかステキなアプリが登場。

そこでFilmってのを見たらびっくらこいた。ものすごくクオリティの高い映像が流れ出したのだ。iPhone上でこんなすごい映像を見るのがなんとも新鮮で見入ってしまった。よくわかんないけど世界的な女優が出演し世界的な映画監督の演出で世界的な映像が展開される。ちゃんとDiorのバッグがけっこう画面上にこれでもかと登場するのだけど、なんだか物語はよくわからなかった。よくわからなかったけどすげええ!という印象はくっきり残った。

もちろんWEBでブランデッドエンタテイメントを流すこと自体は別に目新しいことじゃないよね。でも目新しいことが2つあって、ひとつはiPhoneですげえムービーを見たこと。そしてもうひとつは、ふとしたつぶやきが入口になっていたこと。

Twitterが入口になったのは偶然なのかもしれない。本国ではひょっとしたらマスメディアでのキャンペーンもやったのかもしれない。ただとにかく、事実としてぼくは、Twitterを通じてこの広告コンテンツを知ったのだ。

さてここで、今日の”図”の説明に入ろう。というか、すでに8割方説明は済んじゃったのだけど。

上の図は、前々回のこの記事の時に描いた図とほとんど同じだ。ちがうのは、前の図は”ぼく”の話だったのが、Xというブランドに差し替わっている点だ。

一番上の状況は、Xというブランドが単純にブランドサイトを設けていることを示している。この場合は、そのブランドに興味があったりほしいと思ったりする人が自発的に来る。検索したりして来る。そういう状況だ。ぼくのブログをぼくの近しい人たちが読んでくれていたのとよく似た状況。

図の真ん中の状況は、そのブランドサイトにコンテンツが置かれた場合。そしてそのコンテンツを発見した人が面白いと思ったのでソーシャル空間でつぶやいた状況だ。その人がある程度の規模の情報圏域を形成していると、その規模に応じた波及をしていく。つまり、ぼくがある人のつぶやきでDiorのサイトに見に行ったことと同じだね。

ブランドサイトが、ただそのブランドのことを説明しているだけでは、こういうことは起こらないのだ。でも人びとを惹きつけるコンテンツが置かれていると、誰かの情報圏域にひっかかる可能性が出てくる。コンテンツに力があればあるほど、そこから大きく波及していくわけだ。Diorの場合も、ぼくがコーフンしてつぶやいたもんで、反応して見てくれた人もいたみたいだ。

さて図の一番下は、そのXというブランドがソーシャル上でアカウントを持っていた場合だ。Diorの場合ではそうじゃなかった。でもぼくがそうだったように、コンテンツを置いた上でTwitterアカウントを明示しておけば、フォローしてくれる人も出てくる。コンテンツに力があればあるほど、フォロワーもたくさんつくはずだ。

ブランドXがそのあとも、コンスタントにコンテンツを更新していき、アカウントXがそれについてTweetをどんどん発信していけば、波及力が加速していくだろう。ぼくが継続的にブログを更新し、それを”更新したよ”とつぶやいていくことで、少しずつフォローしてくれる方が増えているのと同じだ。そしてコンテンツパワーとXのもともとのブランド力によっては、すごい勢いでフォロワーを獲得できるのかもしれない。

ここでもちろん、アカウントXの振る舞い方は重要だ。せっかくコンテンツで人びとの興味を引いても、Tweetも上手に展開しないと、ヘタをすると嫌われるかもしれない。コンテンツの更新時をちゃんと把握し、その内容に沿ったつぶやきをしないと、マヌケなことになる懸念もある。またいろんな人が話しかけてきた時に、事務的になってもいけないし、馴れ馴れしくてもまずいだろう。適度な礼節を持って接しないといけない。まさにソーシャル=社交なのだから、人間としてきちんとした態度をとらないといけないのだ。

でもそこをうまくやれば素晴らしいことになる。コンテンツパワーとソーシャルパワーが相乗関係になり、人びととの間にそれこそ”きずな”を築くことができるだろう。

これを具体的な企業で考えた時、広報部的なスタンスと、宣伝部的なスタンスが融合というか力を合わせないといけない。これは今後の企業コミュニケーションの重要なポイントになるんじゃないかな。

この話にはまだまだつづきがある。そこで今週また書こうと思う。のだけど、今週はちょっと忙しいことになりそうなんだな。仕事のためにつぶやかないといけない。うーんけっこう大変そうだぞ。でもちょっと面白いことやるんだよね、えっへっへ・・・

ここからどう進むか、だ〜09年度業界決算

これまでも節目節目で業界の決算数値をまとめてきたので、いちおう各社の数値が出揃ったこのタイミングでいちおう表にしてみたよ。

でももはや、あまり解説する気もないかなあ。

いや分析が見たいよ、という方は@Fuwarin氏が運営しているGarbagenewsのここからはじまる一連の記事を読むといいだろう。決算短信の数値から多様なグラフで解説してくれる。

もう少し”通”な人には同じGarbagenewsでもこの記事とか、あとこっちの記事もオススメしたい。

ところでこのGarbagenewsはずいぶん前からチェックしているのだけど、多彩な記事の中でマスコミ関連の分析記事がよく登場する。これまでにもいろんなことを教わってきた。

そしてTwitterで@Fuwarin氏と出会って、ああ、この方がGarbagenewsの書き手なのだと知ってとても光栄に感じたものだ。うれしくて時折Tweetを交換させていただいている。あなたもフォローするといいと思うよ。

少し話がそれたけど、ぼくが一点だけ書き添えたいのは、表の中の代理店3社の売上高合計だ。ADKの下の”三社合計”の数値。ADKだけ12月決算なので並べるのはちとアレなのだけど、大手代理店3社(正確に言うと博報堂DYには大広と読売広告社が含まれているから5社)の売上合計がこの一年で約3700億円減少している。ちなみにその前の一年で約2900億円減少した。

つまりこの2年間で広告業界から6600億円のお金が消え去ったのだと言える。二年前に約3兆6000億円あったお金が約2兆9400億円にまで減ったのだ。約18%の減少。

これまでもさんざん書いてきたけど、この国のクリエイティブ業界は結局、数兆円の広告費のお金の流れの中で生きてきた。広告費という企業がメディアに費やすコストの”おこぼれ”にあずかって生きてきたにすぎない。広告費の減少という事実にクリエイターは打ちのめされている。

打ちのめされてぼやくだけなのか、それでも立ち上がって別の光を見出そうとするのかは、ひとりひとりの考え方次第だ。少なくとも、考え方を変えるべき時だし、変えないと生き残れない。

でも別に、悲愴な気持ちになる必要なんかないよ。だって次の面白そうなことはどんどんはじまっているんだから。

コンテンツとソーシャル空間〜広告の新たな地平線・その12〜

ソーシャルメディアによって広告とコンテンツがどう変わるか。それを自分の体験をもとに考えていくそのつづき。

前回は、こっそり書いてきたブログのアクセス数が佐々木俊尚さんのつぶやきによって百倍になったことを書いた。

で、その次に今度は”セルフブランディング”してみた。匿名を実名にし、ブログ上にTwitterとの接点をつくった。

それで何が起こったかは、この記事や、その前後の記事を読んでもらうとわかってもらえる。上記の作業でブログとTwitterをつなげた途端、一日で100人フォロワー数が増えたのだ。その後も、ブログを書くたびにコンスタントにフォロワー数が増えている。佐々木さんがまたつぶやいてくれた時はまたすごい数の人が来るのだけど、それだけでなく、自分で更新をつぶやいたり、記事を読んだ方がつぶやいてくれたりで、言わば自己増殖力を持ったのだ。

その様相を例によって”図”にしてみた。巨大な”@sasakitoshinao情報圏域”と接点ができた途端、それよりずーっと小さいけど”@sakaiosamu情報圏域”もできて少しずつふくらんでいる。疲れていると数名の方々が癒してくれる、なんとも心優しい圏域だ(笑)。

で、ここで言いたいのは、コンテンツの力(って自分で言うか?)がまずあり、ソーシャル空間と接点を持つことでその力が増幅する、ということ。

そして、@sakaiosamuをセルフブランディングではなく、企業や商品の”ブランド”だととらえると、同じことができるんじゃないかと。コンテンツの力をソーシャル空間が増幅し、ブランディングが力強くできるのではないかと。

これがね、前にうまくまとめて書けなかったことの基礎的な考え方なの。前は相当なコストをかけてマスメディア上にコンテンツを置く必要があった。それがメディアコストをさほどかけなくてもソーシャルがうまく増幅してくれれば、強い伝搬力を持つようになるのではないかと。ただし、コンテンツの力が問われるのだと。

うーん、@ask_ohginさんに宣言したわりには、”図”で力を使い果たしたので、今日はここまで。疲れてるしさあ・・・

ぼくのソーシャルメディア体験〜広告の新たな地平線・その11〜

このところ、広告のことでもVODのことでもないことを続けて書いてきた。実はちょっと迷ってたからなんだ。こないだはVODのこと書いたから、次は広告のことのはずなんだけど、広告の新たな地平線・その9で書いたことはどうも未消化のまま書いちゃってたなあと。で、そのあとどうしようか悩んでいた。ちゃんと書かないと、最近はするどいツッコミ多いしなあ(笑)。

そこに今日、面白いブログ記事が飛び込んできた。心理学から学ぶコンテンツ作成の7つのコツ-Seatle Colorという、どうやらシアトルに留学中の女子学生さんのブログらしい。これがねえ、すんごく頭を整理してくれたのよ。そうそうそうそう!って口に出して言っちゃうほど。

この記事はしばらく使わせてもらえそうだなあと。これと、その未消化のまま書いたこととは奥底でつながりあってるなあと。いや、どこがって感じだろうけど、そうなんすよ。

で、ここでもう一回自分の頭の中の整理をするために、ぼくのソーシャル体験を書いてみようと思った。結局ね、自分の体験からすべて考えはじめたからさ。コンテンツとソーシャルの関係が、ぼくにとっては自分のブログとTwitterアカウントの関係だったのですよ。だからそこ書くと、ぼくもあなたも物事がわかりやすくなるはずだ、と。

さて、なんですけど、話は去年の10月にさかのぼります。ぼくは数年前からこのブログをこまめに書いていて、でもあまりおおっぴらにしてなかった。ヘタをすると誤解されかねないかも、ってんで、匿名にしてたし、書いてることをあまり言いふらしてもなかった。ぼくの関係者が気づいて読んでくれればいいやと。だから、一日のアクセス人数は数十人だった。

ところが、再生のギョーカイ・その2〜バブルの延長線上にあるテレビ広告〜というタイトルで記事を書いて、その翌日のアクセス数を知って仰天した。数十人が、数千人になっていたのですよ。百倍?って感じで。

もうホントにびっくりした。そいで、調べたの。何が起こったのか。匿名で書いてるのだから、ぼくに何かが起こったと言うより、ぼくのブログに何かが起こったはず。いろんな検索をしてみた。

そしたらようやく探しあてた。佐々木俊尚さんがその記事についてTwitterでつぶやいてくれたからだった。ぼくのブログのタイトルとURLをあげた上で、「なぜテレビはバブル後も生き残ることができたのだろうか? 要分析。」とつぶやいていた。

たったそれだけで、数十人が数千人になったわけ。

佐々木俊尚さんって、あの『2011年 新聞テレビ消滅』の人だよね。ぼくも読んでたから、すごい光栄だと思った。その佐々木さんがぼくのブログをつぶやいた上に、宿題も出している。「要分析」と。

これは何か書かないわけにはいかないっしょ!あの佐々木さんを納得させる分析を書かなきゃ。そこで、書いたのがこれ。再生のギョーカイその2+α〜90年代テレビ隆盛の理由〜という記事。

さあどうだ!と意気込んだね。宿題やったよ、先生!そんな気分。

果たして、その記事書いた時もまた千人単位で人が来た。ってことは、佐々木さんまたつぶやいてくれたんだな、と調べたら出てきたのがこのつぶやきだった。「なるほど、すごい納得」だってさ。やったよ!先生を納得させたぞ!

これがぼくのソーシャル体験のはじまり、なのだった。ここから新たなコミュニケーションを考えはじめたの。ソーシャルのパワーを体感したの。コンテンツの潜在的な力を、ソーシャルが増幅するようだなと、その時はそこまで明確でもなかったけど、なんとなーく感じたわけ。

という、”おれ体験”を、書き進めながら、広告の新たな地平線へ向かっていくよ。みんな、ついて来い!

Open Thinkingというか脳みそのダダ漏れ化というか

このブログを読んでいる人ならおそらく説明するまでもないことだろうけど。

孫正義氏と佐々木俊尚氏が『光の道』構想を巡って巌流島で戦った。いや巌流島は汐留のソフトバンク内にあるUstreamスタジオなのだけど。でも武蔵と小次郎の決闘にご本人も例えて真剣に、でも楽しく対談が行われた。

その内容について、ぼくはとくにコメントするつもりはない。ただここで注目すべきだと思うのは、その成立までのプロセスだ。

まず孫正義氏が『光の道』と題して、全国津々浦々まで光ファイバーを敷設すべしとの考え方を発表。これに対し、佐々木俊尚氏が長文のブログで反論。日本に欠けているのはインフラではなくサービスであると唱えた。

さらにそれを受けて孫正義氏がTwitter上で「佐々木さん、日本の将来の為何を成すべきか一度語り合いましょうか。」と投げかけ、佐々木俊尚氏が受けて立つ反応をし、”ダダ漏れ中継”で有名になったそらの女史が中継役を申し出た。

この一連の流れはTogetterにうまくまとめられている。

通信界を変革し続ける巨人と、いまもっとも注目されているITジャーナリストの対談が、Twitterのぼくのタイムライン上で、つまりはかなりの数の人びとの目の前で、本人同士がTweetしあって、さらに中継を申し出る場面まで展開され、実現に至ったのだ。

これがこれまでの新聞雑誌やテレビなどのメディアの常識ではどうだろう?普通に電話やメールで話しあったり依頼したりが行われ、決まったあとでタイミングを見計らって発表、となっていたはずだ。

でも通常ならそのように言わば”こっそり”行われていたやりとりが、丸のまま”ダダ漏れ”されたのだ。びっくりするではないかいな。

ところで、ぼくがよくTwitter上でやりとりする@k_hayashida氏が書きつづっているブログ「ドリームにこそバリューがある」を更新したよと伝えてくれた。商品開発そしてプロダクトデザインを仕事にしている方だ。その新しいエントリーで彼は、これからの商品開発はTwitter上の”仲間”の意見を吸収して反映させていくことになるだろうというようなことを書いている。

驚いたことに、それはぼくが最近考えていることとすごく似ているのだ。ぼくも、これからのコンテンツ企画はTwitter上の”仲間”をいかに巻き込むかを考えるべきかもしれない、とぼんやりながら感じていたのだ。

彼のTweetにそんなことを返したら、どもどもです。同時多発しそうな人を、無意識のうちに各自がTLに集めているのかも。とまた返してくれた。

さらに、なるほど。そういえばワタシも境さんの図に触発されてたんだった!確かに、おもろい!とも言ってくれた。

それにきっと、彼が上のブログを書いたことと、孫=佐々木対談がダダ漏れ状態で成立したことは関係があるのではないだろうか。少なくともぼくは、思考に強く影響を受け、だったら企画もダダ漏れすべきでは、と考えていたのだ。

@k_hayashida氏が触発されたという図はぼくがブログのこのエントリーで示したものだが、これにしても、Twitter 上でのいろんな方とのやりとりから生まれたと言っていい。

Twitterによってぼくたちは、すごいスピードで影響しあっているのではないだろうか。

ソーシャルメディアとはメディアのフィルターなのだと書いたけど、それと同時に、思考を増幅する装置でもあると言えないか。

それはまさに@k_hayashida氏がブログで書いた、商品開発のための思考増幅装置=ソーシャル空間、ということと同じだろう。

お互いの思考を反響させ増幅するにはどうすればいいか?考えたことをどんどんオープンにしちゃうことなのだ。これも@k_hayashida氏のブログから導き出されること。Open Sourceのように、Open Thinkingしちゃえばいいのだ。脳みその中身を変にまとめようなどとせず、ダダ漏れさせちゃえばいいのだ。そうすれば、みんなでお互いにトクをするのだ。

TwitterはAPIを公開することで、活用サービスが数多く登場し、それが急成長につながった。ぼくたちも、自分のAPIをどんどん公開しちゃえばいいんだ。そうすれば自分が急成長するはずだ。

Twitterは他の人のつぶやきを眺めるのに徹する、と決め込んじゃってるみなさん。それは損な使い方なのかもしれないよ。どんどんつぶやいて、脳みそダダ漏れさせちゃう方が、トクなのかもしれない。”同じアホならおどらにゃソンソン!”ってね、あれは真理なのかもねー。

ソーシャルデバイドとでも呼ぶべき現象

VODや広告の話は少し休んで、今日は雑感的な話を書くよ。

“ソーシャルデバイド”とでも呼ぶべき現象が起こっているのではないか、と。ソーシャルデバイドってきっと英語としてはヘンなんだろうなあ。でも言いたいことは伝わるんじゃないかしら。

今日はBSフジで佐々木俊尚さんが出演する『PRIME NEWS』という番組があった。BSなんてほとんど見ないのに、録画してしっかり見たんだ。佐々木さんが出演するんじゃ見ないわけにいかないでしょ。

どうして佐々木さんの出演を知ったか。ご本人のつぶやきで知ったのだ。

その前に、今朝は身支度しながら慌ててオンラインのAppleStoreでiPadを予約した。これもTwitterでどなたかが”もう予約できるよ”とつぶやいていたから。

出勤時に駅の売店で週刊ダイヤモンドを買った。これは、かなり前からダイヤモンド社の中の人が、今度はApple特集だよとつぶやいていたからだ。

昼間は会社でゆとりある時間にいくつかのWEBを見た。いろんな人たちのつぶやきに登場したURLを通じてね。

夜中、佐々木さんのつぶやきでBSフジのWEBサイトで出演番組のダイジェスト映像があるのを知った。これについてつぶやきあってたある方が、今週のビッグコミックの『ゴルゴ13』が面白いよと教えてくれた。明日、買うことに決めた。

こんな感じで、少し前にぼくが書いたような、ソーシャル空間でメディアについていろんな人たちに教えてもらう毎日にぼく自身なっている。

ところで今日、ある方との打合せで、これからのメディアについて議論した。だがぼくとその人とで言っている”メディア”の意味が相当ちがっていることに気づいた。彼は百万人千万人単位で人が来るメディア、つまりマスメディアについて語っている。一方ぼくが言うメディアは、数万人規模のもので、佐々木さんのよく言う”ミドルメディア”。ぼくはもう、マスメディアなんて成立しないと考えているわけだ。

これからもメディアといえばマスメディアだ、という捉え方をし続ける人に、ミドルメディアの概念はわからないのだ。ましてや、ミドルメディアでもビジネスが成立する可能性がある時代になっている、なんてこと、理解できないだろう。メディアとはマスメディアでなければならず、大量の人が来るからこそビジネスになるのだ、としか考えられないだろうから。

だって彼は、Twitterが生活の中に入ってきていない。そういう人は、NHK『激震マスメディア』の時にUstでの裏番組も含めてどれだけ盛り上がったかを知らない。孫正義さんが人びとを集めてOPEN DAYを開催しその様子をUst中継したことも知らない。ケツダンポトフという謎の会社の若い女子社員があちこちの催しを”ダダ漏れ中継”していることも知らない。tabbataさんとかtsudaさんとか新しい人びとの活躍ぶりも影響力も知らない。『電子書籍の衝撃』の発売時の一連の出来事も知らない。勝間和代とひろゆき氏の対談が映像もテキストも含めて話題になったことも知らない。

こうした一連の体験がまったくないと、もはや感覚に相当なズレが出てきてしまう。そしてそのズレは、いちおう説明するにしても、説明しただけではわからないだろう。自分で体感しないとわからない。これを、”ソーシャルデバイド”と言ってみているわけ。

これからしばらく、このギャップを乗り越えながら、いろんな人と話していかねばならない。でもメディアコンテンツ業界では、このギャップは大きいなあ。

きっとあなたも、似た悩みがあるんじゃない?

iPadは「セカイテレビ」だ!(と思う、のつづき)〜VODに未来はあるのか・その9〜

iPadは「セカイテレビ」だ、というタイトルで昨日は「iPad=テレビ=現在」という内容で書いた。で、今日は「セカイ」の方を書こう。タイトルに「セカイ」がくっついてたのはダテじゃないのだよ。

ここんとこ、iPadはショートムービーを浮上させ、5分だの10分だのの映像コンテンツ市場ができるのかもしれない、と書いてきた。それはわりとまちがってないと思う。

でも問題はここからだ。

iPadアプリは”中抜き”市場だ。

例えば映画の場合、興行収入のだいたい半分は小売、つまり劇場が持っていく。そして残りの3割くらい(ということは50%×30%=全体の15%)を卸売り、つまり配給会社が持っていく。そうすると、100%ー50%ー15%=35%。そこから宣伝にかかった費用などを引いた額が作り手に戻ってくる。ここで言う作り手とは出資者で日本の場合はだいたいが製作委員会だ。

製作委員会の中身を考慮しだすと話がややこしくなるので、ここではとにかく、いままでの劇場での映像コンテンツ流通は小売と卸売りがおよそ65%とるシステムだったと捉えておこう。(そして劇場も配給もそれぐらい大変な事業なのだと言っておく。映像コンテンツはとっても特殊な商品なのだ。実際シネコン運営は大変らしいし、配給会社もこのところ深刻なニュースが飛び交っている)

これがiPadアプリの場合、Appleのマージン30%がかかるので、70%が”作り手”に戻ってくる。ここでもし、製作委員会ではなく、制作会社が100%のコスト負担をしていれば、その70%がそのまま戻ってくるのだ。

これが”中抜き”だということ。いままで65%だった流通マージンが30%で済むわけ。

そこだけ聞くと、なんだそれならもうやるしかないだろ、はぁはぁ、とみんな息を荒くして身を乗り出したくなるだろう。

ところがそんなに甘くはないんだな、当然だけど。

あなたが制作会社のプロデューサーだとしよう。クリエイティブビジネス論とかいうブログにそそのかされて、iPadでショートムービーを売るんだ!と息巻いた。なかなかの作品ができたので、Appleに登録してもらい、めでたくAppStoreで売りだすことができた。そしたらなんと!1万本も売れたじゃないか。やった!すごいぞ1万本も!

さてここで計算してみる。ショートムービーをあなたは1本300円で売りだした。1万本だから・・・あ、なんだ300万円か。そしてAppleは30%さっぴくので、あなたが手にするのは、210万円だ。・・・な、なんだ210万円か。

ま、いいや、とにかく210万円を手にしたぞ!・・・あれ?あのショートムービーは仕事仲間たちに頼みまくって友だち価格でやってもらって、なんとか制作費300万円でつくったのだけど、戻ってきたのが210万円なら、90万円赤字じゃないか・・・なんだよ、おい・・・あーしまった!クリエイティブビジネス論とかいうブログにそそのかされたからだ!ちっくしょー!

てなことになる、のかもしれない。

いやこのケースでは1万本売れたことになっている。しかし、映像コンテンツを1万本売るのは大変なことだろう。いまの状況で、DVDを1万本売るのは大変だ。メジャーな歌手もCDを1万本売るのが難しくなっている。書籍だって1万冊売れたらちょっとしたベストセラーだ。

何言ってんの?そこに革命起こすのが電子流通なんでしょ?1万本ぐらい売れないの?Twitterで話題になればいいんじゃないの?

Twitterの普及率は確か3月のデータで8%ぐらいだったろう。いまの勢いなら6月ごろまでには10%ぐらいになってるかもしれない。それでも全人口の10%と言えば1300万人だ。日本中に書店がある中で1万冊の本を売るのも大変な中、1300万人相手に話題になってどうなるものか。

さらに、iPadはアメリカ本国で大ヒットして100万台だという。日本でもセンセーション巻き起こったとしても、人口は3分の1だ。初速で30万台だと試算できる。年内でやっと100万台なら万万歳だろう。そのうちの1%の端末に果たしてあなたの作ったショートムービーを売りつけることが可能だろうか?

ところでさっきのシミュレーション、1万本だとトホホな結果だった。これがまぐれの大ヒットで5万本だとどうなるかな?

300円×5万本=1500万円で、そのうち70%を手にするのなら・・・1050万円だ!制作費300万円を引いても750万円残るじゃないか。そしてさらに10万本だと?3000万円の70%なら2100万円だぞ!1800万円も残るじゃないか!

制作会社、そして広くクリエイターは、依頼を受けて、作って、渡して、なんぼです、という商売をやって来た人が多いだろう。だから、こういう感覚は慣れない。でもリスクをとってディストリビューションも自分でやるということは、こういうことなんだ。

だったら、1万本じゃなく、5万本、10万本売るにはどうすればいいか。これを考えてみようじゃないか。

iPadのもうひとつのポイントは、これがグローバルな製品だということだ。だから映像コンテンツをiPadアプリにして売ることは、グローバル市場が目の前に広がる、ということでもあるんだ。

さっき、日本では年内で100万台がせいぜいだろうと書いた。これが世界だと話がちがってくる。ある試算によれば、年内では世界で700万台のiPadが売れるだろうとあった。2012年までには2000万台のiPadが売れているだろうとも言われている。この試算はiPadアメリカ発売前後だったし、そのあとの予想以上に売れている様子からすると、もっと勢いがつくのではないかな。

まあとにかく、2000万台のiPadに映像コンテンツを売る、と想定すれば、5万本、10万本もあながち夢でもなくなってくる、かもしれない。だって、100万台の1%は1万本だったけど、2000万台の1%は20万本なんだよ。

日本のコンテンツ市場を考える上でも、”ガラパゴス市場”があてはまっていたと言える。1億3千万という人口は微妙なのだ。ずいぶん前にも書いたことだけど、日本の映画興行市場は世界第2位だ。でもアメリカ国内と5倍ぐらいちがう。中途半端に大きかったのだ。ハリウッド映画の強さは、国内だけでも3億人の市場である上に、世界でその倍以上の市場を獲得できている点にある。

だからハリウッドになろう、と言いたいわけではない。でもグローバルに映像コンテンツを売ることをきちんと意識すれば、10万程度の市場が確立できる、その可能性がある、と考えたいのだ。考えられるのだ。考えるべきなのだ。

そうすると次に、”ではグローバルに映像コンテンツを売るにはどうしたらよいか”ということになってくる。もちろんそんな壮大な話の答えをぼくはまだ持っているわけではないよ。でも、だいたいこんなことやっていけばいいんじゃないかなー、という程度の方向性をぼんやり考えはじめている。そこはまた、少しずつ書いていく。すんごく単純なことなんだけどねー。