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コピーライター→映像製作会社ロボット→広告代理店ビデオプロモーション→再びコピーライター(フリーランス)。 メディアとコンテンツの未来を切り拓くコミュニケーションをデザインします。講演・執筆依頼もお気軽に!

コンテンツ業界はスマートになれるか?!

えー、裸の大将も楽しみにしてくれている「リアル境塾」については、今日あたりFacebookページの”境塾”で発表されるはず。第一回はゲストをお招きし、デジタルハリウッド荻野教授の協力でUst配信も行う予定。いろんな方々のお力を借りることができ、なかなか面白い催しになりそうだよ。

さて昨日(26日)、日経BP社主催の「SmartPhone2011Spring」というセミナーに行ってきた。丸一日のイベントで大変だなあ寝ちゃうかなあと思いつつ行ったら、思いの外充実した内容で脳みそ覚醒しっぱなしだった。

多種多彩な講義が行われ、スピーカーは皆さん、モバイルビジネスで活躍中の若い方々。モバイル広告や、モバイルアプリの開発などを仕事にしている人たちだ。伸びている業界の人たちはさすがにエネルギッシュだ。ぼくみたいにいつまでも震災の余波にさいなまれてウジウジなんてしていない。はつらつと未来と世界を語っていた。

そうだなあ、スマホ関連の人たちは絶対成長する場所にいる力強さが身体からみなぎっている。そして必ずと言っていいほど”世界”の話が出てくる。若い人たちがこんなに世界を目指す業界もかつてなかったんじゃないだろうか。

例えば、成長性を示す数字。これまでも2015年にはこうなる、という予測値はいろんなところで聞いていた。今回驚いたのは、2020年の予測数字。スマートフォン、スマートパッド、スマートテレビを合わせたスマートデバイス全体が、2020年には世界で500億台に達するというのだ。

500億台?!

これはひとりが6.5台のスマートデバイスを持つということだそうだ。・・・どうもちょっと、これはあり得ない予測値じゃないかな?(^^;

まあ、それはともかく、とにかくスマートデバイスは伸びる。そして情報やコンテンツはすべてクラウド化する。そうすると、クラウド上にあるコンテンツを、スマートフォンか、パッドか、テレビか、3つのスクリーンのどれかを使って、取り出す、そんな構造になるという。

確かに、TwitterやFacebookはクラウド上にあり、iPhoneかiPadで取り出している。iTunesにある映画を、iPadかAppleTVで視聴している。いますでに、起こっていることだ。2020年にすべてがそうなってもおかしくはないね。

そんな生活はもはや、これまでとは何もかもが変わっていくということだろう。

ある講義では、ある方がこう言っていた。これから、ライフスタイル、働き方、業務プロセス、組織構造、産業、教育がそれぞれ、まったく変わっていくのだと。スマートデバイスとは、そういう大きな変化を引き起こすツールなのだと。

ううむ、確かにそうかもしれない。iPhoneを手にした時、自分の中で何か大きな変化が起こった気がした。

さらに講義は続く。これまでの、「自動車<->家電<->マスメディア<->電力」というセットが、「iPhone<->Android<->ソーシャルメディア<->クラウド」のセットに取って代わるのだと。なるほどなー。確かに、前者のセットは20世紀であり、きわめて重厚長大だ。豊かになることは、もっと大きな自動車や家電を買うことであり、それに連れてエネルギーを浪費していくものだった。マスメディアはそれを応援するものだった。

後者には、不要なものは要らないでしょう、というメッセージがある。大きくなくてもいいじゃない、と言っている。すべてをスマートにしちゃいましょうよ。そんな思想がスマートデバイスには内在しているんだね。

ぼくたちが問われているのも、そこなんだろうな。コンテンツはマスメディアに集まる広告費から分け前をもらって生きてきた。その分け前にあずかるには、重厚長大浪費生活にエールを送る必要があった。

もう、そうじゃないんだね。そんなことに頼ってないで、新しい考え方と生活の中で、どこにコンテンツの住み処があるかを見いだすということだね。

少しわかった気がするけど、まだよくわからないので、今週はもうちょい考えてみようかな・・・

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テレビもぼくらも再編だあ・・・

なんだか、書く意欲が湧いてこない。ぼくの中にはまだ津波の映像が渦を巻いていて、ちょっとした被災地のニュースで目頭が熱くなったりする。それでいて、ボランティアに参加さえしてもいない。なんとも情けないよ。

さて前回、「スマートテレビは、ソーシャルテレビ!」のタイトルで記事を書いたら、そのあと、Facebookページ上でえらく議論が盛り上がった。
盛り上がったというか、例によって干場さんがからんできたわけだけど。干場さんがからんで、それにぼくがからみ返すのは別に仲が悪いわけではなく、美しい師弟愛だから心配しないでね。最後の方では @higekuma3 も参加して沸騰していた。ブログで投げた話題がFacebookページで展開していくのはいかにもソーシャルメディアな現象で面白いね。

さてその中で、干場先生が制作会社(テレビ番組もCMプロダクションも両方含めての話だろう)について、3K的な職場になってそれがテレビ局の高額給与の源泉になっているとか、制作現場が体育会的になっているとか指摘しておられた。これらの指摘はほぼ正しい。

ただ、こうした状況をどう改善するかというより、こうした状況も一切合切崩壊しようとしているのがいま、だと思う。だから2011年テレビ消滅は表現には誇張があるけどまちがってはいない、とぼくはとらえている。この大震災でそのスケジュールが早まった。

一切合切崩壊、というのは、もう大手も中小も一流も三流も会社も個人も、すべてがガラガラガラガラ〜ッと崩れていくんだと思う。こういう比喩はあまりに生々し過ぎて悲しくなるんだけど、黒い水がこの業界をどどーっと覆っていくんだと思う。すべてを押し流していくんだと思う。

だったらそのあとのことをぼくたちは考えはじめた方がいいんだろう。

それはいま東北の被災地復興の議論で、単純に元に戻すんじゃなく、この機にまったく新しい方向へ進むべきだという、それと同じように考えるべきなのだと思う。

具体的に言うと、メディアの巨額な売買金額をあてにしない、そこに頼らない、ということだ。テレビ番組もテレビCMも、そしてほとんどすべての制作物の価格が、テレビの巨額のメディア価格をもとに決まってしまっていた。逆に言うと、制作物オリジナルの経済価値は誰も定義できなかった。そこをなんとかしないとまずい、ということだ。

そういう、価値の再構築をこれから数年かけてやらねばならない。取組まねばならない。そして一方で、ぼくたちが長らく住んできたこの村(業界という名の村)を、黒い水が去ったあとで建て直さないといけない。それは、それまでの区画を再整理することであり、再編するということだ。

再編というとどこか他人事だけど、ぼくたち自身も再編しなきゃいけないんだ。自分たち自身の価値から再構築しないといけない。

うーん、大変そうだなあ。しんどそうだ・・・その大変さを思うと、いまひとつモチベーションが湧かないんだよ。

変化を楽しもうとぼくは何度も書いてきたけど、変化って、楽しむなんて、そんな悠長なもんじゃなかったんだね。厳しい時間がしばらく、続いていきそうだ・・・

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スマートテレビは、ソーシャルテレビ!

えーっと、「境塾」のリアルイベントを近々やります。詳細は来週お伝えできると思うので、ちょっと待ってね。けっこう大々的にやりたいと思ってます。

さて山崎秀夫さんの『スマートテレビで何が変わるか』からの話題。

この本は、アメリカのスマートテレビについて、ソフトウェア業界、テレビ業界、家電メーカー、コンテンツホルダー、広告業界それぞれからのアプローチを紹介している。よくできた構成で、スマートテレビの参考書と言ってもいい内容。おさえておきたいね!

その中で、かなりびっくりしたことがある。

ソーシャルテレビが視聴者数をぐいっと増やした、という話。

ソーシャルテレビが何かは、わかるよね?テレビ放送を見ながらソーシャルメディアでみんなとつながること。スポーツの大きな試合なんかでTwitter見ていると、「ゴーーーール!」なんていうつぶやきがタイムラインを埋め尽くし、試合がもっと楽しく観れた、という経験、みんなもしたことあるでしょ?

この本で紹介されているソーシャルテレビは、放送中だけでなく、放送前からの仕掛けを言っている。ゴールデングローブ賞の授賞式の放送の2時間前からUstreamで会場を生中継するんだって。役者たちが次々に会場入りする様子を見せることで視聴者を「まだかまだか」という気持ちにさせる。すると、テレビでの放送が余計に見たくなるという計略。

この計略は大当たりし、ゴールデングローブ賞の視聴者数を14%増加させた、と。視聴率じゃなくて視聴者数だから、気をつけてね。

これに気を良くして、今後は同じことができるアプリを出すとか。

びっくりしたというのは、そんなにあからさまに視聴者数に影響が出るとは!ってとこね。去年、『素直になれなくて』というドラマが毎回放送時にTwitter上で盛り上がったのに視聴率はたいしたことなかったので、ああそんなもんかあ、と思ったんだよね。

日本でもTwitterとFacebookのユーザー数はうなぎのぼりだから、もうソーシャルテレビをやったらいいタイミングなのかもしれない。

でも実際には、日本のテレビ局が放送前にUstream中継やったり、放送中にTwitterを使うよう促したり、普通にするようになるのはもう少し時間がかかるんじゃないかな。でも今年後半からは一気にそういう手法に火がつきそうな気もする。

もう真面目に新しい取り組みをやらないと、お尻に火がついた状態に今年はなっちゃうだろうからね。ほんと、みんな今年は身構えた方がいいと思う。ぼーっとしてると、業界を真っ黒な水が突然覆い尽くすのかもしれないよー・・・・
いやこれは他人事として言ってるんじゃなく、自分も備えなきゃ、っていう気持ちで言ってる。ほんとみんな、覚悟した方がいいと思うよ!

明日に向かって走れ!〜『スマートテレビで何が変わるか』〜

スマートテレビで何が変わるか
山崎 秀夫
翔泳社

今日は書籍の紹介だよ。野村総研の山崎秀夫さんの著書、『スマートテレビで何が変わるか』。

山崎さんは“SocialNetworking.jp”というURLでブログを書いておられる。考えたら”おいしい”ドメイン名を確保したものだ。

SNSがタイトルのようで、内容はほとんどテレビの話題。とくにアメリカの最新テレビ事情について、詳細に情報収集して発信している。すごく参考にしてるんだ、ぼくは。

テレビの最新事情といえば、去年の11月の「AppleTVはこれから起こることのひとつに過ぎない」という記事で紹介した志村一隆さんも頑張っておられる。この時も紹介したけど、志村さんの著書ももう一度ここで紹介するよ。

ネットテレビの衝撃 —20XX年のコンテンツビジネス
クリエーター情報なし
東洋経済新報社

メディアの今後に興味がある人なら、このお二方はテレビ研究の双璧なのでチェックしておこう。

『スマートテレビで何が変わるか』はよくできていて、アメリカの事例をうまく整理して教えてくれる。いやほんとうに、アメリカはテレビが進化している。いろんな楽しみ方があってうらやましいほどだ。

この本についてはまた少しずつ書いていこうと思う。

その前に今日言いたいのは、ぼくたちはほんとうにこういうスマートテレビのようなことを真剣に考えないとまずいよ、ということ。この大震災でいよいよ考えないわけにはいかなくなった。

今年、テレビは大ピンチだと思う。すでにここまでで、CMがACになって、打撃を受けているのだけど、それだけで終わりそうにない。今後も、CMは存分に制作し存分に放送し、というわけにはいかなさそうだ。

そこに7月24日もやって来てしまう。アナログ停波が来てしまう。何度も書いてきたことだけど、アナログ停波はテレビ放送にマイナスに働いてしまう。ということはメディアコンテンツ業界全体に大きな影響が出てくるだろう。

すでに震災のあった3県での地デジ化延期の要望が出ているという。全国一斉が条件だったはずだけど、これは仕方ないだろう。

被災地の地デジ化延期のニュースで知ったのだけど、この地域は震災前の地デジ普及率が90〜93%だったそうだ。昨年末で94.5%になっていたと聞いていたけど、考えてみたら当然ながら地域差があったのだ。ということは、別の県でも90%代前半というところは他にもありそうだ。

とにかく、震災によって地デジ化はさらにややこしいことになった。でも、7月24日にアナログ波を止めないわけにはいかない。あいた電波の次の使い道が決まっているからだ。それにアナログ波を止めないと、デジタルとアナログ両方の電波を発信し続けることになり、放送局にとっては負担なのだ。本音としては、早いところアナログ波を止めさせてくれ〜、と言いたいところだろう。

ようするに、震災×アナログ停波でかなりキビシイことになるということ。

だからスマートテレビ方向への転換を加速しないといけないんだ。もう待ったなしだ。大急ぎで、新しいビジネスモデルを模索、というより具現化しないといけない。トライ&エラー&トライ&エラー・・・って感じでどんどん試していかないと。明日がどうなるかさっぱりわかんないけど、とにかくぼくたちは、明日に向かって走らないといけない。

『スマートテレビで何が変わるか』にはそのヒントが満載。ということで、次回からその内容を取り上げてみたいと思う。

・・・それにしても、余震は止まないし、原発もよくわかんないし・・・どうなっちゃうんだろね?・・・

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この国の中央集権マーケティングをM9が壊した

明治維新のきっかけは、ペリーの黒船だった。この国はいつも外圧がないと変われないんだ、なんてよく言われるよね。でも今回、外圧以外にも日本を変える存在があったとわかった。地下に。日本海溝に。マントルの流れがプレートを動かし、そして日本のシステムを変えようとしている。外圧じゃない、地下圧だ。

今日、ぼーっと見ていたニュース映像の中で、イオンの岡田社長が言ったんだ。沈痛な面持ちで、こう言った。

「全国一律、東京発の時代はおしまいだ」

ぼくはガンッと大きな金槌で殴られたような気分になり、ぼーっとしていた目が覚めた。この国で、東京中心の時代が終わった、とはっきり言った人は初めてなんじゃないだろうか。

つまり、イオンのような流通事業者からすると、この一か月で首都圏と西日本の消費動向の差が歴然として見えたんだろう。何でもかんでも、まず東京で、それから全国(しかも一律)だったのが、そういう国だったのが、たった一か月で大きく変わったんだろう。今後イオンは、被災地と首都圏、そして西日本、という3つのエリアに分けて商売を考えていくそうだ。社長直轄のマーケティングチームができているらしい。

日本最大の小売業であるイオンが「東京発は終わり」と断言したことは、とてつもなく大きなことだと思う。この国は江戸時代の地方分権的連邦制度から明治維新で中央集権になって、それはずっと変わらなかった。何でも東京が中心はどうなの?と何度も言われてきたし、道州制をはじめ地方分権論は数十年前から何度も言われてきた。でも、議論にすぎなかった。

東京中心はひっくり返しようがないと思われてきた。いや実際無理だった。経済の停滞はそれを強化した。関西経済危うしということで、本社機能を東京に移す関西企業も出てきた。

知ってる?クリエイティブビジネスが、どうして東京に集中してきたか。日本のコンテンツ産業はほとんど広告収入がお金の源になっていて、広告収入の源泉たる企業のマーケティング部門がほとんど東京にあったからなんだ。

でもイオンの戦略によれば、この国のマーケティングは分散して考えることになるし、関西圏がかなりのパワーを持つことになりそうだ。ぼくたちは必ずしも東京にいればいい、ってもんでもなくなってくるかもしれない。

何でも東京発じゃない方がいい、とぼくもずっと思っていた。だから、いいことかもしれない。今回の震災がもたらした数少ないプラスなことなのかもしれない。・・・そうだね、それでもちっともうれしくはないね・・・

ソーシャルメディアがそもそも、政治的なんだな

いろんなことが、同時に起こっている。忘れていたけど、今年に入って起こっていることは、関係があるんじゃないかな。

何しろ、ソーシャルメディアについて考えないわけにはいかないことが次々に起こっている。

それは、ソーシャルメディアについて考えろと言われているのではなく、もっと根源的な何か、革命とか、価値観とか、政治とか、ロックとか、そして絆とか、ライフスタイルとか、そういったことのすべてを考え直せよ、というメッセージなのかもしれない。

だいたい、今年になってこのブログでとりあげてきたこともね。映画『ソーシャルネットワーク』を見てロックンロールだなどと言ってみたりね。そのあと、それまではなんだかわかんなかったFacebookにどんどんハマっていったりね。週刊ダイヤモンドが『2011年Facebookの旅』なんて特集組んだりね。みんなが「境塾」のFacebookページつくってくれたりね。干場先生とUst対談やってソーシャルと近代の話をしたりね。佐々木俊尚さんが新著『キュレーションの時代』を発表したりね。・・・そいで、地震が起こっちゃってさ・・・ソーシャルメディアの価値が急に浮上したり、ものすごい終末感に日本中が覆われたり、斉藤和義がゲリラみたいに唄ったり、都知事選の結果が不満だったり・・・

これらはすべて、ぜんぶ、関係してるんじゃないかな。いやこうして並べてみると、関係してるよ。ありありだよ。こういったことが、年明けからこれまでの間に一緒くたに起こっているのは、偶然じゃないんだろう。必然なんだろう。

考え直せよ、って言ってるんだ。誰が?わかんないけど。誰かが。

ソーシャルメディアはメディアの一つだし、システムに過ぎないんだけど、そこには強烈な何かがある。政治的なメッセージが入っている。

いやよく考えると、メディアは本来、政治的なシステムだった。新聞がそうだし、雑誌がそうだし、こうした活字メディアは黎明期の国家にあって、人々の“言論”を育てる場所になってきた。ラジオとテレビは、成長期の国家にとって人々の言論だけでなく“気分”をひとつにする装置だった。そして、人々をどんどん消費したくなる気持ちに導く装置でもあった。

国家の黎明期から成長期にあって、マスメディアは民主的な政治を支える役割をしてきた。

ではソーシャルメディアは?・・・たぶん、国家ではないんだ。いちど”国家”にむすびつけた個人を、もう一回”個”に解体し、その”個”同士を結びつけるツールなんだ。

”国家”でみなさん結びついたところで、もういいっしょ?一回ばらしましょうよ。んで、今度は国家を超えてみましょうか。そんな呼びかけをしている。

さらに、国家の成長のためには、消費でしたね。でもさあ、消費も一回見直してみましょか。ほんとに必要かどうか、考えてみた方がいいっすよ。

そんな風に、次々にぼくたちに根源的な問い直しを突きつけてくる。それがソーシャルメディアだ。

全部ね、意味があるんだね。ひとつのところに、つながっていってるんだね。やっぱりどこかの誰かが、ぼくたちに何か伝えようとしているとしか思えないな。そういうことって、あると思わない?

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新しい政治の季節がはじまろうとしている

この日曜日は東京都民として、東京都知事選挙に行った。で、たぶんこうなっちゃうんだろうなあ、という結果が早速出た。

予想はしていたので驚きはしなかったけど、やっぱりがっかりした。

この結果についてここで分析するほどの知識も見識もないので、ここではやめておくね。でも、なんでだろうなー、と思った。だってぼくのまわり(というか、TwitterやFacebookで接している人たち)は今回の当選者を支持しているとは思えなくて、じゃあ誰が入れたんだろう、と思うじゃないすか。

なんか、こういう結果でよかったんだろうか、もっと何かできることあったんじゃないか、と感じた。

そう言えば、この日曜日は反原発デモが高円寺で行われたそうだ。1万5千人も集まったんだって。

こんな感じだったらしいよ。(というか、ちょっと検索すればいっぱい記事が出てくるけどね)

ぼくも行けばよかったかなあとか、なんだかいい感じのデモだったんだなあとか。

生まれてこの方、デモなんて参加したことなかった。皆さんだって、そうでしょ?ぼくの世代(60年代前半生まれ)はとくに、無関心だといわれた。無関心だけじゃなくて、無気力で無責任でもあって、三無主義だとまで言われた世代なんだぜ。シラけ世代とも言われたなあ。情けないだろう。

学生時代、飲みに行くと団塊の世代のおっさん(とは言え、当時30代前半!)たちに、「おれたちの学生時代は機動隊に石投げてたんだ。お前らはどうしてそうおとなしいんだ?」とバカにされた。バカにされたらぼくは素直に、劣等感を持ってしまった。ぼくは本質的に、そんな三無主義世代の中にあって、政治的なこと考える少年だったんでね。

政治的な少年だったけど、政治的な運動には参加しなかった。80年代になっても政治運動に参加してる連中は、ぶっちゃけダサかった。ズレてた。カッコ悪かった。

キャンパスに行くと立て看板があって、とにかく現政権の批判が書いてあった。ぼくにはその内容より、立て看板の独特の書体がもうキモかった。

そうやって結局はぼくも政治からは縁遠い青年になっていき、バブルがやって来た。80年代後半はもう「政治のこととか小難しいこと言いっこなしにしようぜ!」という感じだった。

90年代になって日本新党が誕生し、細川政権が世の中変えるかも、と一瞬思った。盛り上がりかけたら、細川さんがあっさり辞めちゃった。脱力。もう政治には何も期待しないし、政治に関わろうとも思わないね。細川さんの責任は大きいと思う。

そうやって、ずーっと政治的な行動はしないまま生きてきた。そこへ大震災と原発事故だ。・・・おれったら、なにやってたんだ?いやちがうな、何もしなかったのはどういうことだ?こうなるまでほったらかしてたのは、政治じゃない。政治をほったらかしてたおれの責任なんだよ。

ぼくだけじゃないね、そう感じてるの。みんなだよね。だから、デモが行われた。このデモはもう、学生の頃にキモかった立て看板の文字の色はない。もっとカジュアルで、入りやすい空気だ。普通に暮らしていて、「おかしいよね、まずいよな」と感じたらそのまんま行動に移す感覚。

干場先生は学生時代、普通にデモに参加していたそうだ。60年安保の頃だ。樺美智子が国会前で亡くなったとか、そういう時代の話。60年代は若者は政治にとやかく言うのが普通だった。70年までそうだった。安田講堂の攻防と連合赤軍事件で一気に政治の季節は終わった。

それから40年だ。40年ぶりに、若者の政治の季節がはじまろうとしているのかもしれない。そう言えば2011年はそもそも、ジャスミン革命で政権が倒れたんだった。すっかり忘れてたし、あの頃は「遠い国ではソーシャルメディアが革命に寄与してるんだ、へえー」とまったく他人事だった。いまは、都知事選がこんな結果になるなら、ソーシャルメディアで何かできたんじゃないか、などと考えている。

この震災は多くのものをぼくらから奪い、どん底にたたき落とした。でもぼくたちは、いま、何かを勝ち取ったのかもしれない。何か、大事なことを、思い知ったのかもしれない。目覚めようとしている。いい年こいたぼくも、含めてね・・・

ぼくらなりの「ずっとウソだった」を唄ってみよう

たぶんみんなもう知ってるでしょ?もう見てるでしょ?「ずっとウソだった」

ぼくは昨日(4月7日)の昼間、Facebookのウォールである人から教わった。斉藤和義の「ずっと好きだった」の替え歌で、原発への皮肉を唄っていた。替え歌としては稚拙だなあ〜なんて思いながら、でも面白がって聴いた。

ずっとウソだったんだぜ やっぱバレてしまったな ほんとウソだったんだぜ 原子力は安全です
ずっとウソだったんだぜ ほうれん草食いてえな ほんとウソだったんだぜ 気づいてたろうこの事態
風に舞う放射能 もう止められない 何人が被曝すれば気がついてくれるの この国の政府

そういう歌詞だ。これは傑作だ!誰が唄ってるのか知らないけど、よくできてる!ストレート過ぎるけど、かえっていい!そんな気持ちで聴いた。

ぼくもYouTubeのURLをみんなに教えようと書き込んでおいたのだけど、しばらくすると、もうそこから削除されていた。それに、みんなから伝わってきたのは、あれは本人が唄っているらしい。え?自分で自分のヒット曲を替え歌にしちゃってるの?なんてヤツだ!カッコよ過ぎる!

(ここなら確実に見れるらしい。まだの人はクリックしてみて)

また新たなアップロード版が見つかって、それをみんなが見に行く。しばらくすると削除されてる。また新たに・・・という追いかけっこみたいなことになっていった。誰が動画をあげて、誰が削除しているのだろう?

まあ著作権者側がこれを見てしまったら削除依頼をGoogleに出すだろう。だからレコード会社の人かな?でもあげているのは誰なんだろう?本人が自分で撮影したように見えるから・・・本人?

とにかく、斉藤和義、カッコいいよ!これがロックンロールだよ!思い出したよ。ポップミュージックは本来、カウンターカルチャーだったんだよ。恥ずかしいけどぼくも30年ぐらい昔、ロックンローラーになりたかった。クラプトンに憧れたけど、なりたかったのはキース・リチャーズだったよ!

そして今日(4月8日)の夜、酔っぱらって帰宅する途中の電車の中で、斉藤和義がUstreamでライブをやり、「ずっとウソだった」も唄ったとTwitterで知った。酔っぱらってたからかな、いたく感動した。じわっと涙が出た。

唄いたかったんだね。聴いてほしかったんだね。みんなに伝えたかったんだね。だから何度削除されてもYouTubeにあげたし、ライブで唄った。「ずっとウソだった」がはじまったら2万人の聴取者が一気に3万人に増えたそうだ。そう、みんなも聴きたかったんだ!

表現するって、こういうことなんだなあ。それに、斉藤和義というプロの歌い手が、唄いたい歌を披露する場がなく、でもいまならYouTubeとかUstreamとか聴いてもらう場がある。YouTubeやUstreamを唄いたい歌を聴いてもらうために使えばいい。プロの歌い手が唄いたい歌を唄えないのは不自由だけど、ネット上には自分で場を作れる。いまや、ソーシャル空間は自由の場なんだなと思った。

唄いたい人が、唄える場は作れちゃう。人も集まってきちゃう。そこでは、平等だ。公平だ。誰だってそれ、やってもいいんだ。やってもいいんだから、やりたいことを、やりたいと思ったら、やりたい人は、やればいい。

3月16日、地震の数日後にぼくは「この終末が終わると、ぼくたちは何かがはじめられるのだろうか」と題した記事を書いた。数日経ってようやく、終末感をひしひしと感じ、打ちのめされ、何をしたらいいのかよくわからなくなってしまった。つい昨日あたりまで、わからなかった。

斉藤和義のセルフ替え歌を聴いて、なんだかわかってきた。やりたいと思ったことを、やればいいんだよ!

おれにはいいたいことがある。だから、みんな聞いてくれ!歌で聴いてくれ!ブログで読んでくれ!絵で見てくれ!映像で見てくれ!そういうことでしかないけど、そういうことでいいじゃないか!

ぼくたちは、メディアやコンテンツに関わって仕事をしているぼくたちは、そんな子供だったはずだ。聞いてくれよ!見てくれない?ぼくが感じたこと。思ったこと。言葉にするから。絵にするから。音にするから。小学校のクリスマス会とか、高校の文化祭とかで、人前で、自分のやりたいことをやってみせる。

それはいま、クリエイターといわれる職種についてる人はそうだろうけど、営業マンだよとか、管理部門だよとか、直接的に表現の仕事をしていない人でも、こういう世界に入ってきた人は、そんな子供だったんじゃないか。

ぼくたちは、音楽のプロだとか、映像の職人だとか、その前に、”何かやりたい人”だったはずだ。だから、斉藤和義がどうしても「ずっとウソだった」を唄いたかったように、ぼくらも唄いたい歌を、唄えばいい。書きたいことを、書けばいい。そういうことだ。「この終末が終わると・・・」ぼくたちは、唄いたい歌を唄えばよかったんだ!そういうことだった!

これからのぼくたちは、経済的には縮小していくだろう。メディアコンテンツ業界の人はとくにそうだ。これからマスメディアのホントにホントのパワー減退が巻き起こり、どんな人でもマイナスの影響は受けてしまう。この大災害がそれを加速させた。

でもそんなことは、本質的なことではなくて、大事なのは、唄いたい歌を唄うこと。いい?唄うこと、じゃなくて、唄いたい歌を、唄うこと、だからね。

ぼくたちが唄いたい歌を唄えば、きっと素敵なことが起きる。大きな花は無理かもしれないけど、小さな草花は咲かせることができるんじゃないか。タンポポくらい?でもそれでいいんじゃない?それは素敵じゃない?

あのがれきの山を片づけたあとに、タンポポを咲かせることができれば、まず、そんなことからで、いいんじゃないかな。

うん、支離滅裂ながら、久しぶりに前向きなこと、書けた気がする。斉藤和義のおかげだね!

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ソーシャルメディアがマスメディアになってきた?

地震が起きてからずいぶん経った。この間で、メディア構造もすっかり変わった気がする。何と言っても、TwitterやFacebookが浮上した。今までにも増して、ぼくらにとって重要な”メディア”になっている。ユーザー数もそれぞれ大きく増えたに違いない。

去年の5月に「ソーシャルデバイドとでも呼ぶべき現象」という記事を書いた。ソーシャルメディアを使ってない人と話すと、メディアに関する基本認識に大きなギャップができてしまう、という内容。あの頃は「あなたはTwitterにハマっているからそう言うのだ」となんだか特殊な人間のようなことをいわれたものだ。いまや、(少なくとも業界では)Twitterをやってない人の方が少数派ではないかな。

なんてことを感じていたら、ちょっと目を引く見出しを見て記事を読んだ。「ツイッターがエリートユーザーのためのマスメディアになっていく」というタイトル。Twitterがマスメディアだなんてどういうことだ?

アメリカで発表されたある論文。多くの人からフォローされているエリートユーザーのアカウント2万人について調査した。すると(以下は引用)
そのエリートとした2万人のユーザーからのツイートが、世界中でアクセスされた全ツイートの50%を占めるという。つまり、ツイッター内の全アテンションの約50%が、2万人(ツイッター人口の0.05%以下)のエリートユーザーのツイートに集まっているのである。ツイッターにおける情報の流れは、平等でもフラットでもないということである。

Twitter上でアクセスされたTweetは0.05%の人々に寡占されているのだと。これはびっくりだね。だとすれば、ぼくら下々の者のつぶやきの影響力なんてアリンコみたいなもんだってことだ。

そう言えば、またちがう話だけど近い話がある。

先日、久しぶりに集まった4人で食事した。地震以降初めて集まったので、あの瞬間どこにいたかにはじまり、ひと通りこれまでの出来事を語り合った。いまは、そういう会話がすごくホッとする。

この4人はソーシャルを使いはじめたのはこの一年以内。ぼくが早い方なぐらいの、初心者と言えば初心者だけど、すっかりソーシャル使用が日常化している。

そうすると、出てくる話題がものすごく共有できて驚いた。「あれ読んだ?看護師さんのブログ」「あー!読んだ読んだ!3回泣いたよー!」「YouTubeのあの映像はすごかったね!」「見た見た!すさまじかったよねー!」

何かをとりあげると、4人のうち3人は見ている感じだった。もちろんとりあげるのはブログやYouTube映像など、ネット上のコンテンツ。

あとで思い返して、へー、と感心した。もちろん4人のソーシャルグラフはつながっているので、共有している確率は高いのだけど、それにしても同じものを見てきたもんだなあと。

「看護師さんのブログ」「おなかがいたくなった原発くん」「グレートありがとウサギ」「これより下に家をつくるな」と並べられて、みなさんどれくらい「見た見た!」なのだろう?けっこうみんな見てるんじゃないかな。

みんな見てるとしたらけっこう、かなり、奇妙なのではないかな?ソーシャルってそういうメディアなんだっけ?

みんなが見てるとしたら、それはマスメディアについて「昨日の月9見た?」と同じことになってるような。

・・・だったらだったでいいのかもしれないけどね。でも、なんか、ヘンじゃね?・・・

きずなとメディアと原発と、不安なおれ

メディアと日本人——変わりゆく日常 (岩波新書)
橋元良明
岩波書店

今日は本の紹介から。『メディアと日本人ー変わりゆく日常』(岩波新書:橋元良明)という。ほんとにタイトル通りで、95年から5年ごとに2010年まで行ってきたメディアに関する調査データをもとに、日本人とメディアの関わりを解説している。メディアについてきちんと調査をし、人々との関わりを、主に世代別に語っていて、地味ながらいろいろと参考になる本だ。ぼくはしばらく持ち歩いて、一度読んだ箇所を読み直したりしてみようと思っている。

さてその中に、”デジタルネイティブ”に関する分析と考察の箇所がある。メディアの嗜好と、人とのつきあい方に相関関係があるようなデータの抽出も行っている。若者は、「人と一緒にいるのが好き」であり「いつも知人や友人とつながっているという感覚が好き」なのだそうだ。そしてこの傾向は、PCメインのユーザーより、ケータイメインのユーザーの方が強いのだそうだ。つまり、つながっていたいから、ケータイでmixiにアクセスするのだろう。

「つながっていたい」のは若者じゃなくても、人間はみんなそうだろう。メディアに関する分析の本の中で「きずな」の調査が出てくるのは面白いと思った。メディアとは、情報収集や娯楽摂取の機能以外に、「きずな」を保つ役割もあるのだ。ソーシャルメディアはまさにその両方を持っている。「つながっていたい」のは、人間は孤独では生きていけないからであり、不安な時ほど「きずな」を確認したくなる。

ぼくだってそうだ。いまは、この上になく不安だ。人生でこれほど不安を感じたことはなかっただろう。

地震の後のこのブログを読み返して、少し情けなくなったのだけど、最初の頃はなんとお気楽だったのだろう。マスメディアとソーシャルメディアが助け合い連携しあっている様子を単純に喜んでいる。この大災害のほんとうのしんどさが、ちっともわかってなかったのだ。

原発に対する感覚も、そうだ。正直に書くが、ぼくはもともと「原発は仕方ないんじゃない?問題あるけど、必要なんじゃない?」と肯定的な気持ちでいた。そして福島原発の事故についても最初の頃は、他人事だった。なんか、大変そうだなあ、これで反原発の人たちが活気づくんだろうなあ。そんな感覚でしかなかった。

実際、最初の頃のソーシャル上での”識者”の意見も、「騒ぎ過ぎてはいけないよ」というものが多かったと思う。

でも3週間経っても解決しない。それどころか、事態は悪くなっている。どうやら、制御不能らしいとわかってきた。制御不能?なんだそれは?さらに”もんじゅ”でも少し前に大変な事態が起こっていたらしい。手のつけようがないと言う。どういうことだ?

それでもなお、リスクはクルマの方が大きいし死人だって毎年でてるが、原発はまだ人が死んでいない、という主張の人もいる。だけど、そういう問題じゃないと思う。災厄をまき散らしているじゃないか。そして、止められないじゃないか。水を注入したり、コンクリートで固めたり、いろんな作戦で解決できない。

こんなにどうしようもない状態になっていて、いつどうやったら解決できるかわからない。そんな技術を使っていていいはずはないよ。

そうなんだ。ぼくはまったく無責任だった。原発も必要なんじゃないの?と言いつつ、それが福島だの福井だの、自分から遠い場所に建設されているのは、なんとも思ってなかった。東北で、関東の電力がつくられているのは、なんとなく知っていたのに、そこに何の問題意識も持っていなかった。なんていい加減な人間なんだ、おれは・・・

この夏も、まだ電力不足はつづくようだ。その不足分は、95年当時の電力使用に戻せば大丈夫、ということだと聞いた。偶然だが、『メディアと日本人』の調査とリンクする。それがそのまま電力増につながったかはわからないが、メディアの使い方は95年からの15年ですごい勢いで変化した。何と言っても、ケータイやインターネットが普通に使えるようになったのがこの15年だ。80年ー95年の15年間と、95年ー2010年の15年間とでは、メディアの変化度合いがまったくちがう。それくらいこの15年間は日本のメディア構造が変わった。

さて一方で、GDPはこの15年間でどうだったのか。少なくとも、名目GDPは増えていない。かえって減っている。

ちなみに80年からの15年間で名目GDPはほぼ、倍になっている。

この15年間で、ぼくたちはエアコンをガンガンかけるようになり、ネットとケータイを始終使いまくり、地下鉄の網の目をさらに増やした。コンビニもスーパーも、いやあらゆる電気がさらに明るく夜を照らすようになったのだろう。

15年間、時計を巻き戻してもいいのかもしれない。少なくともそれでもGDPは減らない。ちっとも豊かになってないのに、ばかみたいに電気を使うようになったこの15年間。そのために、制御できない技術を使い倒してきたこの15年間。いったいぼくたちは、何をやって来たんだろう・・・

あ、今日もまた暗い話でごめんね・・・

美しいウソの時代は、もう終わったんだね

今日は広告の話であり、この終末が終わったら何がどうなるんだろう、の続きでもある話を書くよ。

たまたま、少し前に録画した番組を見た。見て気づいたのだけど、地震前、つまり3月11日より前の番組だった。そうしたらね・・・CMがたっくさん流れたんだ。もちろん、ACじゃないやつ。

なつかしかったなー!ああ、こんなに明るかったんだ、世の中って!ほんの数週間前の、この国のコマーシャルなのに、遠い昔の、別の国のもののように思えた。

こういう明るい広告の時代に、ぼくたちは戻れるんだろうか。・・・うん、そうだね、ぼくたちはもう、わかってる。もうあそこには戻れないんだよね・・・

そもそも広告は、ここ数年間変わりはじめていた。大げさに言うと広告はもう広告じゃなくなろうとしていた。それがこの誰も想像しなかった大災害で、決定的になろうとしている。リーマンショックでひしゃげていた感覚が、容赦ないほどふみつぶされてぺしゃんこになっちゃったんだ。

20数年前、ぼくは広告代理店に入ってコピーライターになった。コピーライターという仕事がよくわからないままなってしまったので、勉強しようと、いまはなき広告学校に通った。いまはなき雑誌、広告批評が開催した広告に関する学校だった。

前半はいろんな人がやって来てそれぞれ勝手な話をする講義だった。当時の広告は時代にもてはやされていたし、他の分野からの注目度も高かったので、様々な分野の方が講師で来て、ほんとうに勝手なことをしゃべっていった。

その中で、ぼくにとって強烈な印象を残したのが、評論家の柄谷行人氏の講義だった。

彼はなぜかぼくたちにヒトラーの話をはじめた。ヒトラーは『我が闘争』を書いた。この本はヒトラーが”ミュンヘン一揆”に失敗して入れられた獄中で書かれ、1925年に出版された。出版当初はさほどではなかったが、ナチス党人気とともに売れはじめ、やがてベストセラーとなった。

この本の内容は、ヒトラーの生い立ちや、基本的な主張がメインらしいが、群集心理についての考察やプロパガンダのノウハウも書かれているそうだ。柄谷氏によれば、大勢の人々の前で演説をする際、こういう言い方をすると民衆はこう反応する、などと人の心の惹きつけ方まで事細かに書かれているのだという。

つまり、ドイツの民衆は、ヒトラーの演説には演出があると知っていたのだ。ベストセラーとなった『我が闘争』をかなりの国民が読んで、なるほどヒトラーはこんな要領で演説をするのか、と知った上で、その演説を聞き、惹きつけられ、酔いしれた。その結果、ナチス党は第一党になりヒトラーは総統閣下になることができた。

演説を聞く人は、言わばウソだと知ってそれを聞き、それでいて酔いしれるのだ。言ってることがホントかどうかは問われない。ウソならウソでもいい。でもウソのつき方が上手かどうかは問われる。上手にウソをつかれると、うんいいぞ!そのウソ買った!となるのだ。

柄谷氏が広告学校で『我が闘争』をとりあげた理由は、そこだった。広告はウソだとみんな知っている。知っている上で、ウソのつき方の上手なところにダマされる。

この講義には大いに触発された。なるほど!上手なウソつきになればいいのか。美しいウソがつけるように頑張ろう!美しいウソをつく、という倒錯した感覚にも魅惑され、ぼくはコピーライターの仕事にまい進した。

広告は、美しいウソのしのぎあいだった。20世紀まではそうだった。テレビをはじめとするマスメディアが、巨大な消費意欲喚起装置として発展した時代の、必要な要素が、広告という美しいウソの場だった。

高級大型車に乗ったら幸福になれる、などと信じてるわけじゃないけど、この高級車に乗ると幸せになれますよと言われてクルマを買い替えた。この冷蔵庫を買うと家中が明るくなる、はずはないとわかっているのだけれど、家中明るくなるらしいわと冷蔵庫を新たに買った。

いつの頃からか、(おそらく2000年あたりから)広告はそんなウソはあまり言わなくなった。リーマンショック以降、テレビCMはほとんど”お知らせ”になった。ウソもつかないしエンタテイメントでさえなかった。もっともリーチの稼げる、”告知メディア”になった。(最近、モバゲーやグリーに限らずネットサービス事業者のURL告知CMがどっと増えていたでしょ!)

それでもなお、テレビCMにはウソの名残が、残りかすが、かすかな匂いが、漂っていた。ウソのつき方にこだわってきた職人たちの意地が、時代にあらがっていた。ブラウン管から液晶モニターになった、16:9の画面の隅っこに、こびりついていた。

こびりついていた”美しいウソ”を、大津波が洗い流してしまった。たぶん、そんなことが起こったのだと思う。

どんなに美しくても、ウソはウソだったのかもしれない。そんなウソを平気でついていた時代は、いやウソを平気で共有していた時代は、もう再び来なくていいのかもしれない。

企業コミュニケーションはウソがないと成立しないのか?いや、そんなことはない!これからはむしろ、ホントのことだけを生活者と直接交わしあう、素晴らしい世の中になるんじゃないかな。だとしたら、そっちの方が美しいじゃないか!美しいウソなんかつかなくても、ほんとのことを交わしあうことこそが、美しいじゃないか!

でもさあ、だったらね。そのコミュニケーションはもう、”広告”と呼べないんじゃないかなあ。”広告”って呼ばない方がいいんじゃないかなあ。”広告”という言葉には、ウソが似合うから。美しいウソをつかない広告なんて、広告じゃないんだもん。だいいち、そんな広告、つまんなそうじゃないか・・・

美しいウソの時代のおしまいは、広告のおしまいなのかもしれないね・・・

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「マス→ネット」から「ネット←→マス」へ(+AppleTVのAirPlayについて)

今日はあんまりまとまったことを書けそうにないので、雑感的な内容。

震災でへこたれながらも、AppleTVをつけてみたらアップグレードしなさいよとメッセージ。さっそくやってみた。

iPhoneやiPadを持っている人なら、これはぜひやってみよう!ちょっと面白いことができる。

AirPlayと名付けられた技がある。少し前のジョブズのプレゼンテーションでも紹介された。まあ、ようするにiPadとAppleTVの間で連携してコンテンツ視聴ができるというもの。ジョブズが紹介したのは、iPadでダウンロードした映画をAppleTVとのAirPlayでテレビ画面で見れること。

ジョブズのプレゼンで見た時は、うわあー、すごい!と感心したけど、実際にはiPadで映画をダウンロードするのはものすごく時間がかかるから現実的な行為とは言えなかった。

ところが、AppleTVをアップグレードしてみたら、iPad上のYouTubeの映像をテレビ画面に飛ばすことができるようになった。これはかなり画期的だ!

何を言っているのか、と思うかもしれない。もともとAppleTVのメニューの中にYouTubeは入っているので、YouTubeの映像をテレビ画面で視聴することは可能だった。わざわざiPadから飛ばす必要もないだろう、と感じるだろう。

ところが、実用的なのは、iPadからYouTubeの映像を飛ばす方なのだ!

つまりね、AppleTVでYouTubeが見れるからといって、そのためにAppleTVを起動したりはしない。YouTubeのおもしろ映像に出会うのは自分で探すより、TwitterやFacebookでたまたま誰かに教わることの方が圧倒的に多いのだ。

だから、Twitterで誰かに教わったYouTubeの映像をiPad上で見て、面白かったのでもっとちゃんと見たいと思ったら、AppleTVを起動し、すぐさまリビングの大きなテレビで観ることができる。流れとしてはすごく自然で、実用性が高い。

実際、ぼくはこの数日でTwitter上で話題になったうんち・おならで例える原発解説〜「おなかがいたくなった原発くん」を子供たちにテレビ画面で見せてあげた。あと、総統閣下シリーズで地震や買い占めを題材にしたものも子供たちに見せた。総統閣下シリーズの動画はすぐに削除されてしまうので、その前に家族で共有できてよかったよ。

このAirPlayによるYouTube視聴は、意外に大きな作用をもたらしそうだな、と何回か見ているうちに感じた。

リビングのテレビが何を流すか、というのは、メディア構造にとってすごく大きい。そして我が家がそうだったように、リビングのテレビでYouTubeをはじめネット上の映像が手軽に視聴できるようになると、テレビ放送との境目がいよいよぼやけてくるのだ。ネット上の動画がテレビで観れることは、VOD的な映像視聴とはずいぶんちがう意義がある。「原発くん」が典型だけど、ニュース性のある映像を家族で視聴できるようになるわけだ。「原発くん」のような、個人が作成した映像が、テレビ局が多大な予算と人材で制作したニュース映像と並ぶことになる。

あまり注目されてなかったが浦安の被害が甚大だったことを、テレビ局のクルーが取材してまとめた映像と同時に、ぼくたちは地震直後に一般の人が撮影した浦安の液状化をとらえた映像もテレビ画面で見ることができる。これはやっぱり革命的だ。

AirPlayによる映像視聴のみならず、ぼくたちはこの災害で、今までにも増してネットからの情報を頼りにするようになった。前にこのブログ上で「ソーシャルデバイドとでも呼ぶべき現象」というタイトルで文章を書いたことがある。去年の5月だった。あの頃、理解してくれなかった人もおそらく、「この未曾有の大災害でソーシャルメディアは情報収集に大いに役立ったらしい」ことはわかってきたにちがいない。

実際ぼくはこの10日間でテレビもよく見た。そしてTwitterとFacebookからもかなりの情報を得た。大ざっぱな情報はテレビから獲得し、細かな情報や、とくに原発に関する多様な考え方はネットから得ることができた。いろんな角度の情報が入るので、偏らないし、自分で考えようとするようになる。

これで一気にマスメディアが不要になると言うつもりはない。マスメディアにはマスメディアの役割がある。そしてそれと同じくらい重要な役割をネットが担いはじめているのだ。

だから、「マス→ネット」という順番と順位づけだったのが、「ネット→マス」とまでは言わないけど、「ネット⇄マス」ぐらいにはなろうとしている。それは言えると思う。

えーっと、今日書こうと思ってたのはこれぐらいで、やっぱりまとまりがついてないんだけど、この続きはまたそのうち、ちゃんと書くからね。待っててね。許してね。

さて、明日の東京はどれくらい稼働するのかな・・・・?

ところで、今日からまたコメント欄を書き込み可能に戻しました。まあ、ほとぼりも冷めたんじゃないかな?ってことで。皆さん遠慮なく書き込んでくださいな。

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