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コピーライター→映像製作会社ロボット→広告代理店ビデオプロモーション→再びコピーライター(フリーランス)。 メディアとコンテンツの未来を切り拓くコミュニケーションをデザインします。講演・執筆依頼もお気軽に!

日本映画は生き残れるのか・・・夏休み興行は不振だったらしい・・・

eiga.comで大高宏雄さんの連載がはじまっていた。「大高宏雄の映画カルテ 興行の表と裏」というタイトル。大高さんは映画を”興行”の側面から語ってきた人だ。映画を、そういう商売としての視点で語る言論がほとんどなかった日本で、貴重な存在だ。この連載には期待したいなあ。

さてその第一回は「3D作品の不調際立つ2011年夏興行」というサブタイトルで、この夏休みの興行を総括している。前年比8割だったそうで、なんともしんどい結果になっているようだ。

映画興行は去年はすごいことになっていた。2000億円前後を行ったり来たりしていたのが、2200億円になったのだ。
えっと、このグラフは単位=百万円ですね。去年くいっと上がったのがわかるでしょ?

赤が日本映画、緑が洋画。去年は日本映画は一昨年とほとんど同じで洋画がくいっと増えた。これはほぼ、3D作品のおかげだ。『アバター』に続いて『アリス・イン・ワンダーランド』『トイストーリー3』と次々に公開された。

活況に湧いた去年に比べて8割。今年はここまでで東日本大震災の影響も出ていて8割ペースだった。夏休みは震災の影響からも脱して盛り上がってもおかしくなかった。でもやっぱり8割。このまま、秋冬も8割で終始するのだろうか。そしたら、せっかく2200億円に達したのに、逆に1800億円あたりになってしまうの?きっついなあ。

『テレビは生き残れるのか』にも書いたように、日本映画とテレビは深く関係している。テレビが元気なくなると、映画も元気がなくなってしまう。日本の映画界はそういうことになっている。

そこんとこ、どうしていけばいいのだろう。しばらく、映画の話を書いてみよっかな・・・

Huluで映画とドラマ見放題!VOD市場の破壊というか創造というか・・・

Huluが日本でもサービスを開始するのは知っていた。日本サイトがオープンした時、さっそくメール登録したしね。

そしたら昨日、9月1日に、そのメルアドにメールが来た。「日本でのサービス開始をご案内させていただきます」と。これにはびっくりした。もう少し先かと思っていたもんで。

さっそく登録してみた。月額1480円で映画とドラマが見放題。いまなら、最初の一か月は無料で視聴できるそうだ。名前とクレジットカード情報を入力すればすぐに登録完了。使いはじめることができる。

登録したら「10月1日に1480円引き落とします」と表示される。なんだよ、1か月無料じゃないのかよ。10月分が10月1日に引き落とされるってこと?ま、いいけどさ。

クレジットカードを入れたらなぜか、引落金額の欄に「2円」と表示された。なんだこりゃ?気持ち悪いから登録を躊躇。お問合せメールを出した。返事を待ってるうちに一日終わっちゃうかな?と思ってたら30分ほどで返信!手違いで2円ってでるけど引き落とされないから安心して使ってねと丁寧な文章で言ってきた。自動返信なんかじゃない。どう見ても人間がぼくのメールを読んで書いたもの。ちゃんと担当者の名前まで入っている!

ぼくはこの時、Hulu日本進出の本気度を感じた。サポート体制もちゃんと整えてるじゃん!これはHuluやる気だ!あやつら、本気で日本に攻めてきたぜ!

登録が済むと、HuluのサービスがぼくのMac上に出現した。なんてこった!すげえや、これは!

Huluがはじまったのは2008年だったそうだ。いつだったかは忘れてたけど、アメリカではじまったことはニュースになった。同じ頃Joostという動画サービスもはじまった。Joostは日本でも視聴できたのに対し、Huluは日本では見れなかった。アクセスすると、ごめんねあんたの国では見れないんだわ、というメッセージが出て切なかった。

Joostがだんだんしぼんでいったのに対し、Huluはどんどん力をつけているという噂は聞いていた。でも見れない!うーん、いったいどんなサービスなんだ?

それが今回、ようやく見れるようになったのだ。そして、いかに素晴らしいサービスかがよくわかった。ドラマも映画も見放題!それにメジャーなコンテンツばっかりだぞ!

ポイントとしては、最新の作品はあまりない。2000年代の、でも少し前の作品がほとんどだ。

とは言え、「LOST」だの「デスパレードな妻たち」だのが、第一話からフルで視聴できる。映画だって見てないのがいっぱいだ。こんなのが月1480円なら十分に安い!

「LOST」は、シーズン1はぼく一人でDVDを借りて(何度も何度もTSUTAYAに通ったもんだ!)見ていた。シーズン2からはAXNで放送されるのを家族みんなで見るようになった。なので、シーズン1を娘に見せてあげたら、ぼくのiPadを奪ってどんどん見はじめた。そうだな、彼女がまだ見てない作品をどんどん見せてあげたい!

さてHulu日本上陸は、日本の映像ビジネスにどんな影響を及ぼすだろう。これは意外に大きいなと感じた。

前に書いたように、ぼくはAppleTVを日本での発売日に即買いした。それ以来、DVDが出た映画はほとんどAppleTVで見るようになった。そこにHuluが加わると旧作はこれで十分!となってしまう。

まず、TSUTAYAに行く機会がほとんどなくなりそうだ。AppleTVを買った時点で急激に行く回数が減った。もちろんAppleTVでは見れない映画も多々あるので、例えば『キック・アス』(クロエちゃんが最高に可愛い!)はAppleTVに入っていないのでTSUTAYAに借りに行った。するとついでに旧作も借りたりしたもんだった。HuluはTSUTAYAに行く頻度をさらに大幅に減らすだろう。

それからCSの映画チャンネルも大ピンチだ。Huluは今後作品数をぐいぐい増やすだろう。CSの映画チャンネルの売りは”準新作”もしくは”乙な旧作”といったラインナップだ。わりと地味なラインナップのMOVIE+はもちろん、なかなかの作品を放送しそこそこの加入料であるSTAR CHANNELでさえおびやかす懸念がある。CSは放送なので、オンエアのタイミングをうまくつかまえないと見逃したりするのに対し、Huluはいつでも見たい時に見ることができるのだ。

他のPC上のVODサービスはどうだろう。最大級のGyaOをはじめ、多くのVODサービスにはプラスに働くのではないだろうか。これまでPCで映像視聴をあまりしなかった人々が、HuluによってVODに目覚めると思うのだ。「スパイダーマンって意外に1作目だけ見てなかったんだよね」「24をイッキ見してみたかったんだよね」そんな”ふつうの”映画やドラマの視聴層が「そんな作品が見放題ならPCでも見ていいかも」という気分になると思う。

ただ、PC上のVODも、何らかの強み(作品数が死ぬほど多いとか、あるジャンルのコンテンツは豊富だとか)がないと、厳しいだろう。そういうサービスはこれまでも厳しかっただろうから、ますますしんどくなるんじゃないかな。

ということで、結果的にHuluは日本でのVOD市場を新たに創造すると思う。日本の作品も出てくるそうだし、大きな目で見ればこれは日本の映像製作者にとってプラスに働くだろう。

・・・ところで全然話は変わるのだけど、明日(9月3日)朝の広島のラジオ番組にぼくが出演することになった。本を紹介するコーナーで『テレビは生き残れるのか』をとりあげてくれるのだ。広島のみなさん、ぜひ聞いてください。広島以外のみなさんも、後日Podcastで聴けるそうなので、その時にまた告知するね。出演することになった顛末も面白いので、その時に書くよ。・・・

出演する番組「一文字弥太郎の週末ナチュラリスト」のサイトはこちら。

クリエイティブだって、ビジネスなんだ。当たり前のようで・・・

7月に出版した『テレビは生き残れるのか』については、いろんな反響があった。初期の段階での反応は、一カ月前の「『テレビは生き残れるのか』ここまでの反応とか」という記事に書いた。その後もいろんな方にいろんな反応をいただいた。

ついこないだもTwitterで「読みました」とのReplyをいただいて、アカウントを見たら浜口倫太郎さん(@rinntarounao)という放送作家で小説家でもある方だった。『アゲイン』というポプラ小説大賞で特別賞に輝いた小説を書かれたそうだ。

その浜口さんが、ご自分のブログ「作家りんたろうの教えて!透明先生」で、ぼくの本について書いてくださっていた。タイトルはそのものズバリ「テレビは生き残れるのか」。光栄だなあ。

そこで浜口さんが・・・
この本はテレビ論として書かれているが、
裏テーマとして、
クリエイターは生き残れるのか、
という視点でも描かれている。

と書いていた。ああ、こういう受け止め方はうれしいなあ。

ぶっちゃけ、ぼくがいちばん読んで欲しかったのが、テレビなど映像制作や、広告制作などのクリエイティブを生業とする人たちだった。みんな、危機感持たなきゃまずいぜ!そう呼びかけたかったのだ。

浜口さんもどうやらぼくと同じような気持ち、「みんなこのままじゃまずいぜ!」と呼びかけたい気持ちがあったんじゃないかな。だから、ぼくの意図をかなり正確に受けとめてくれている。

そもそもぼくは93年にフリーランスになって以来、なんかおれたち、ビジネスになってなくね?という疑問を持ち続けてきた。意識が高かったというより、あのタイミングで、つまり80年代のコピーライターブームが去ってからフリーランスになったからだと思う。コピーライターの先輩たちは、もっと広くいえばクリエイティブ業界の先輩たちは、ぼくたちが生きていける環境を開拓してくれた。それはすごくありがたかった。(と、あとで気づいたんだけど)

でも同時に、お金のことはとやかく言わない職人意識も築いていた。80年代はそれでよかったんだろうね。なーにしろ、ぐいぐい業界が伸びていた。輝いていたから。とりあえず打席に立ってバットを振れば何らかヒットにはなって世間がワーキャー言ってくれて、どかんとギャラが入ってきた。

90年代になるとビミョーに状況は変わっていて、「どかんと」ではなくなっていた。だからぼくは疑問に感じた。なんで最初にギャラの話にならないんだ?でもぼくも「職人意識」にうっすら染まっていたので、自分から言い出しにくくはあった。

そしてそれでも90年代は思い返せばいまよりずーっと余裕があったから、「どかんと」でなくても、わりといいギャラが支払われていた。もしぼくが、いま30才くらいでフリーランスになっていたら、あの頃ほど稼げなかったんじゃないかな。

どうしてクリエイティブな世界はビジネスっぽくないんだ?そんな疑問をずーっと抱いて、いろいろ考えたり見聞きしたり、しながら生きてきた。簡単に言うとクリエイティブそのものの経済価値は認められていなくて、媒体価値しか重んじられていない。それがすべての根源だった。そこに尽きる話だった。

その上いま、その媒体価値さえ値崩れみたいな状況になりはじめている。この傾向はゆっくり、でも確実にまだまだ進むのだ。

既存メディアの経済価値が完全に崩壊する前に、クリエイティブそのものの、コンテンツそのものの経済価値をつけなければならない。はっきりさせなければならない。いままであやふやだった、創造活動の価格体系を。

そんな思いの結晶が『テレビは生き残れるのか』だというつもりだ。ただ、あそこにはヒントや方向性は書かれているけど、答えは書いていない。だって、まだよく、わかんないんだもん。

でもとにかく、そういう問題意識が、このソーシャル空間で寄り合わさっていけば、道筋が見えてくるんじゃないかな。そう、思いませんかい?

ジョブズの引退は、ビートルズの解散に次ぐ事件かもしれない

みなさん知っての通り、スティーブ・ジョブズが引退した。1993年以降のフリーランス生活をMacintoshを武器にやってきた身としては、どうしても感傷的にならざるをえない。

Appleというコンピュータ会社のCEOの引退は、ぼくにとってまるでアーティストやミュージシャンの引退に近い。そういう気持ちの人は世界中にいっぱいいるはずだ。世界に与えた影響で考えたら、ビートルズの解散と並びうる事件ではないかな。

コンピュータ会社のCEOの引退がこれほど精神的に大きいなんて、ね。

思い出したのだけど、去年の7月に三回連続で、自分にとってのMacとジョブズについてブログに書いた。まったくもって情緒性のみの、何の論評にもなってないのだけど、よかったらこの機に読んでください。
iPadが受継いでいるMacのメッセージ

スティーブ・ジョブズというロックンローラー

Rockの矛盾、Macの矛盾

ぼくもあらためて読んだら・・・ちょいと、ほろりと来ちゃった。スティーブ、おつかれさん!

30年前のやんちゃ坊主は、いつのまにか守る側に立たされていた

前回の記事「ネットはなぜマスメディアに腹を立てるの?」で書いたように、@Hotakasugi さんがフジテレビ抗議デモの現場へ行った際のTweetをTogetterにまとめた。

「フジテレビ抗議デモに客観姿勢で取材した方のtweetまとめ」と題したそのまとめはもんのすごい勢いでバズった。月曜日一日で10万Viewを超えていた。その後も増え続け、12万Viewも超えてしまったよ。

タイトルに「客観姿勢で」と書いたのは、デモに賛同も反対でもない姿勢で、という意図だったのだけど、「何を持って客観姿勢でと書くのやら、ふん」みたいなことを言われた。ぼくの主観で、客観姿勢だなと感じてタイトルつけたんだからいいじゃん、と思ったけど、ご本人からも要望が出たので「フジテレビ抗議デモに取材に行った方の・・・」と変えた。ご本人から言われたらね、そりゃ要望にお応えしなきゃ。

それにしてもちょっとびっくりしたし、ビビったなー。ネタがネタだもん。ブログ書いてバズる時は、共感して読みに来てくれる場合が多いけど、このTogetterは「なになに?」という”勢い”で読まれたわけで、そして中にはデモに参加した側の人も読んだだろうから、カオスな読まれ方になっていたはず。こういうホットさは怖いよー。

ところで、ぼくは前回の記事の最後で、この騒動は根深いんじゃないかと書いた。そのことをうまく言語化できないでいたら、たまたまこんなTweetを見かけた。

「具体的にはわからないけどさ、既得権益の連中って皆、繋がっているように思うから。政府=電力会社=大手広告代理店=放送局てな具合で。」

ほんとうにたまたま見かけたTweetなので、誰のものかは書かないでおくね。よく知らない人だし。

ただ、その根深さの一端がここに表れているなあと思ったんだ。

つまり、もはやフジテレビは一緒くたにされちゃってるんだわ。いま最高に不信を買って疎まれている電力会社と同じ穴のムジナになっている。もちろん、”既得権益者”って言われれば、許認可事業なんだから仕方ないのかもしれないけど、上のTweetのイコールで結ばれたものは、ほとんど論理性はないけど、感覚的には(これを書いた人にとっては)そうなんだろう。そうなっちゃうんだろう。

フジテレビ=放送局、なんだろうね。いちばん強いテレビ局。だから、韓流押し攻撃されちゃうんだ。韓流押しかどうかよりも、いま、いちばん強いテレビ局を攻撃しなきゃという心性が一部に蔓延してしまっているのだろう。

80年代のテレビ状況を知る者としては、隔世の感がある。ひと時代が通り過ぎたんだなあ、と。

80年代に入るまで、フジテレビはいちばん地味なテレビ局だった。キャッチフレーズは「母と子のフジテレビ」だった。それが、経営陣の刷新(クーデター?)によってがらっと変わった。変わるぞー!という意気込みになった。それがフジテレビの80年代だった。

その頃、ぼくは九州から東京に出てきて、業界に興味を持ったこともあって、テレビ局それぞれの個性を意識するようになった。フジテレビは、ムチャクチャやってる局だった。

ひょうきんプロデューサーと呼ばれた横沢さんが漫才ブームを巻き起こし、「笑ってる場合ですよ」という昼12時のベルト番組をはじめた。「笑ってる場合ですよ」というタイトルからしてムチャクチャだった。当時は大人気だった漫才コンビB&Bの司会で、やりたい放題。学生だったぼくはけっこう毎日見ていたもんだ。今日はどんなムチャクチャやるんだ?とにかく、昼12時からお笑い番組を放送するのは画期的だったんだ。

それに続いて、タモリが司会する「笑っていいとも」に変わった。タモリ!当時のタモリは、ブラックな笑いが魅力で、カウンターカルチャー的な立ち位置のお笑いタレントだった。学生だったぼくたちは、真剣に議論した。タモリが昼の番組の司会をするのはどうなんだ?カウンターカルチャーの精神を失ってしまったのか?いや、あえてメジャーな側にとりこまれているのだ!いま考えるとおまいらアホじゃね?てな議論を真剣に展開したもんだ。

「ひょうきん族」という超くだらない番組もはじまった。ぼくはこの番組を馬鹿にしていた。なにしろ、子供の頃に「ゲバゲバ90分」という、ものすごくレベルの高いコント番組を見て育ったのだ。考え抜かれた知的アイデアの数々。それに比べると、若い芸人がカメラの前で思いつきを繰り広げているだけじゃないか。ふん!と言いながら、毎週見ていた。そして結局笑っていた。面白かったんだもん。

「おまえはただの現在にすぎない」というテレビについて書かれた、テレビを作る人たちの本がある。80年代のフジテレビは、丸きりその理念を体現していた。「ただの現在にすぎない」。シナリオだの構成だのをあらかじめねりあげるのではなく、とにかくカメラの前でできることをどんどんやる。それがテレビだ。80年代のフジテレビは、テレビの限界に挑んで、テレビを切り開いていたのだ。

80年代後半から90年代前半、深夜番組がイノベイティブだった時期がある。そこでも、テレビの限界への挑戦が展開された。「カノッサの屈辱」「カルトQ」「奇妙な出来事」その頃は、毎日夜になるのが楽しみだった。脳みその中のどこかを刺激してもらっていた。そのうち、深夜からもっとメジャーな時間に巣立っていった番組も出てきたが、「世にも奇妙な物語」以外はさほど成功しなかった。

その後フジテレビは、「テレビにできること」を、他のメディアにも拡張していった。それが、映画やイベントの成功につながっているのだろう。テレビという事業をきわめつくしたのが、フジテレビだ。その原点は、80年ごろのあの、くだらなさにあると、ぼくは思う。しょーもねー!バッカじゃね?そう言われようと、いや、そう言われるようなことを追求するやんちゃ坊主。それが80年代のフジテレビだったし、だからこそ成功したのだと思う。テレビは、しょーもなくて、バッカみたいなものなのだ。

フジテレビは、テレビというしょーもなくてバッカみたいな事業を、やんちゃ坊主を貫き通して成功させた。大成功だ。

だけど、やんちゃ坊主が大成功したら、もう成功者なんだ。やんちゃ坊主の時代を知らない世代からすると、圧倒的な成功者だ。お台場に堂々とそびえ立っているんだ。攻めに攻めて成功しても、成功してしまったら、守る側に、本人がそう思ってなくても、守る側に見えてしまう。いや本人も守る側に回ってしまうんだ。

そうすると、例えばいま悪代官にしか見えない存在(=電力会社)と、同じ穴のムジナ扱いになってしまう。21日の抗議デモは、参加者から見ると、反原発デモと相似形なのだろう。

もう、やんちゃ坊主には戻れないのかな?フジテレビに限らず、テレビ局は守りの側に立つしかないの?・・・どうなんだろうね?・・・

ネットはなぜマスメディアに腹を立てるの?

昨日、つまり8月21日にデモが行われ、数千人が集まった。知ってると思うけど、フジテレビの”韓流押し”に抗議してお台場で行われたのだ。

8月7日にまず、前哨戦的なデモが行われた。正直、デモをやると言ってるだけで集まらないのだろうと見くびっていたら、かなりの数が集まった。それにつづく”本番”が21日だったというわけ。

このデモはいったいどういうモチベーションなのだろう。集まる人々はどんな人たちなんだろう。ま、テレビも大好きなネットオタクな若者たちが中心なのだろう。テレビを愛してやまないからこそ、かわいさ余って憎さ百倍ってやつで、デモに走るんじゃないのかな。

などともやもや考えていたら、Twitterでナイスなレポートを見かけた。実際にお台場に出かけて、デモに参加ではなくそれを取材者の視点で見つめ、さらに参加者にインタビューも行っている。まるでジャーナリストだ。でもそういう職業の方じゃないよ。

@Hotakasugi さんという方で、ぼくはお会いしたことはないけど、境塾に興味を持ってもらったようで、前回参加を検討してくれていた様子。結局、都合で欠席されたのだけど、その際にTweetのやりとりはしていた。映像関係のお仕事の方みたい。

その@Hotakasugi さんがTweetしたレポートをまとめたいなと思い、一回しかやったことのないTogetterでまとめてみた。

「フジテレビ抗議デモに客観姿勢で取材した方のtweetまとめ」と題してTogetter上でさっそく投稿してみたよ。

そうしたらねえ、もんのすごくバズった。コデラノブログの小寺信良さん(@Nob_Kodera )がつぶやいてくれたせいもあるのかも。とにかくどんどん拡散していった。

@Hotakasugi さんのレポートは、臨場感がありつつ客観的でもありクオリティが高かったと思う。だから拡散するのはいいことだけど、ネタがネタだけにちょっと冷や冷やもんでもある。彼に変にまとわりつく人とか出てきたらイヤだなー。

そのまとめを読むと、ぼくのさっきの想像は的外れだったとわかった。テレビ大好きではない。テレビ見ないんだって。少なくとも何人かに質問したら、テレビはあまり見ない人が多かった。

テレビはあまり見ない、と堂々と答える人たちが、フジテレビは韓流押しをしていると抗議していることになる。それはそれで面白い。

まあでも、ぼくがここで言いたいのは、デモに参加した人たちについてどうのこうの、ではない。一緒にフジテレビを批判するつもりもないし、だからと言ってフジテレビの肩を持つつもりもない。

ぼくがここで言いたいのは、やっぱりどこまで言っても、ネットとマスメディアはすれちがってしまうのだろうか、ということだ。どうあっても、仲良くなれないのだろうか、というちょっとした嘆きをぼくは持ってしまった。

このデモに来た人たちについてもっと知りたい、と思った。いったい何があなたたちをデモに駆り立てたの? @Hotakasugi さんによれば、老若男女かなり幅広い人たちが来ていたそうだ。ネットにはりつくオタクな若者の集団、などではないのだ。そんな普通の人たちが、どうしてこのデモに参加するのか?

そこを考えることは、意外に大事なことだという気がする。少なからぬ数の、わりと普通の人々が、一般的には”言いがかりだろ”みたいな言説にのっかって貴重な日曜日の時間をつかってお台場に来たのだ。何かある。そこには、何かはあるはずだ。

それが何かは、いまのぼくには皆目見当がつかない。でもそれを解きほぐすことと、今後のメディアの行く末を見通すことは、同じパズルなのではないかという気がする。・・・もうちょっと考えていきたいね、これは・・・

と、書いておしまいにしようとしていたら、Twitterでこんなつぶやきを見つけた。
フジテレビへのデモ、現地を見てないから何とも言えないけど、多分、彼らが本当に批判したかったのは、フジテレビでも韓流でもなく、「テレビ」というメディアそのものだったんじゃないかな。そのきっかけがフジや韓流だっただけで。問題はもっと根深いと思う。

@cynanycさんのつぶやきなんだけど、あ、そうそう、そんなことだ、ぼくが感じてるのも。根深いんだよ、この問題は、きっとね・・・

視聴率という名のパンドラの箱は開けられるか?

13日土曜日早朝の「新・週刊フジテレビ批評」に出演したことは書いたよね。

この時、事前の打合せでは最後にこれを言おうとなっていたことがあり、実際には他のネタをしゃべりすぎてふれられなかった。そりゃまずい。無念。マヌケ。へたくそー。

そこで、このブログの中で取り上げようと思う。

ついでに言うと、ぼくは決めたね。今年のぼくの言論活動はとにかくひたすら、「テレビは生き残れるのか」を追求する。あの本で書いたことを解説するし、書き足りなかったことを補足する。さらにあの本で書いたことの先を追っていく。そんな方針で、このブログや、境塾のイベントも考えていきたい。

話を戻すと、番組で言おうと思って言えなかったのは、視聴率の話。

テレビを語る上で忘れてはならないのが、この視聴率だ。テレビ放送は、視聴率で収益性が決まるんだ。視聴率が高いテレビ局ほど、収益性も高い。(たぶんお給料も高い)だから、テレビは視聴率に走ってけしからんといくら批判しても仕方ない。自動車会社にクルマを売ることばかり考えやがって、なんて批判しても意味がないわけでね。

テレビ放送のビジネスとしての危機は、長期的な視聴率の低下にある。視聴率がじわじわ減ると、広告収入もじわじわ減る。テレビ放送という事業は広告収入だけが売上の源泉なので、それがそのまま収益性に影響が出るのだ。

前にも書いたし番組でも言ったけど、テレビのいまの危機は「信頼されなくなってきたから」では毛頭ない。そこんとこ、気をつけてね。

この視聴率はじわじわ低下してきたのだけど、リーマンショック以降、そして東日本大震災以降、広告収入はじわじわどころかぐんぐん低下している。視聴率の落ち方以上に広告収入の落ち方は激しい。つまり、視聴率と言う商品そのものの価値も下がってきているってことかも。

このままでは、事業として「もう無理!」ってことになりかねない。

さて一方で、テレビ放送の経済価値は視聴率というモノサシでしか測れないのか、という議論もある。「視聴質」のようなモノサシもあるのではないか。

実際、テレビ番組の視聴には「つけてあるだけ」という状態と「熱心に見ている」状態とあるはずだ。前者の方は、CMも見過ごされるかもしれない。後者の方がCMもつい熱心に見ちゃうだろう。だったらスポンサー企業からすると、熱心に見る番組、つまり視聴質の高い番組に提供する方がいいのかもしれない。

でも残念なことに、いま視聴質を測る手法は存在しない。何しろ「熱心に見ている」という状態は数値化しにくい。視聴率は、見ている世帯の数を数えればいい。それに対し視聴質は測りようがないのだ。

ただ、もうそんなこと言ってる場合ではなくなってきた。テレビ放送は、それこそ生き残りをかけて、視聴質を測る手法も確立しないといけない。このまま視聴率がじわじわ下がる一方だと、事業として成立しなくなりかねないからだ。

だけど、それは簡単ではない。視聴質の概念を導入してしまうと、それを境にテレビ局の事業性は急降下してしまう。なーんだ、視聴率20%だけど、熱心に見てる人はそんなに少ないの?だったら値下げしてよ。そんなことになってしまう。まちがいなくなってしまう。

視聴率を疑うのは、パンドラの箱なのだ。開けてしまうと恐ろしいことが起こるのだ。

でもね。

もはや時間の問題だから、手をつけた方がいいと思うよ。そうするしか、もうないよ。

「テレビは生き残れるのか」と言いつつ、テレビ出演で盛り上がる

「新・週刊フジテレビ批評」に出演してきたぞ。いろんな意味で面白い体験だった。

意外に緊張はしなかったけど、ボルテージは上がってたと思う。スタッフのみなさんと打合せしたことがいざ本番では5割ぐらいしか反映できてなかった。しゃべりすぎだろ、おれ、みたいな。

ちょっとだけふれるつもりで出した話題を、いつまでもしゃべるおれ。別のおれが、おいおいもうその話題は切り上げろよ、と言ってるんだけど、しゃべってるおれは止まらない、てな感覚。いったいしゃべってるのはどのおれだ?

まあそんな感じですっかり高揚してしまった。あとで録画を見て恥ずかしくなっちまったよ。白髪多いなあとか。身体動かして落ち着きないなあとか。ホンット、テレビに出るって恥ずかしいね。

Twitterでおなじみの仲間たちや、この度はじめてTweetを交わした人など、ソーシャル上も盛り上がってた。「見てる?」「見てるよー!」てな感じで。

ところで、この高揚感と盛り上がり、よーく考えるとおっかしな状況だ。

だって今回ぼくは「テレビは生き残れるのか」という本を出版し、出演の際のテーマもまさにこの本の書名通りで放送された。

そしてこの本では、テレビを批判しているわけではないのだけど、そのメディアパワーがどんどん薄れているね、と書いている。

おんや?どこかに矛盾がありませんかい、境さん?

メディアパワーが薄れているはずのテレビに出演するってんで、ソーシャル仲間と一緒に高揚して盛り上がってるじゃありませんかい?なーんだい!テレビのメディアパワーの力強さを体現してるってもんじゃないの!いったい薄れてるって言えるわけ?

いや、面目ないっす!まったくおっしゃる通り!やっぱすごいっす、テレビって。

例えば、福岡の実家の母親(80歳)が電話してきた。「あんた、テレビに出たのね!」「どうしてわかったと?」「千葉のおばちゃんが偶然見とったんよ」なるほどなー。「週刊フジテレビ批評」は関東ローカルなので、実家の母親にはDVDを送ってびっくりさせましょうと妻が言ってたのだけど、親戚がたまたま見て先に知ったのだった。

その大騒ぎっぷりがまた、テレビのパワーを物語っているよね。

本の中でもぼくは、テレビは今後も重要な存在になるとも書いている。パワーダウンは否めないが、マスメディアの代表として生き残っていくのだと。だからまちがったこと書いたわけではない。ただ、パワーダウンするにしても、もともとのパワーがいかに大きいものか、今回で思い知った気がする。

だからこそ、テレビはもっと頑張れるし、何かができる場であり続けるのだろう。テレビという巨大な樹があり、そのまわりにソーシャルという小さな芽が、たっくさん育ちはじめている。大樹と、たくさんの小さな芽がどんな生態系をつくりあげていくのか。

あ、それ実際につくるの、ぼくだわ。何しろこの度、メディア・ストラテジストというテキトーにつくった職種を、テレビで公言しちゃったからね。メディアを戦略しないとね。

「新・週刊フジテレビ批評」出演、いよいよ明日!

こないだ書いたように、「新・週刊フジテレビ批評」に出演することになった。毎週土曜日5時からの番組。朝早ーい!

4時半にフジテレビに行かねばならない。意外にいまかなり真剣に悩んでいるのが、ずっと起きているのか、一度寝て早起きするのか。もうアラフィフなので、徹夜なんて何年もしていない。会社を移って出社時間が早まってからは1時にはもう眠くなる。夜更かしができないカラダなの。

だから早起きする方向で考えていくと、4時半に着くなら余裕みて3時半に家出るとして、3時には起きるのなら、6時間は眠りたいってことで・・・9時に寝よう。・・・いや待て待て待て!9時にベッドに入って眠れるのか?うーむ・・・

まあそこは今晩実際に解決しよう。徹夜は無理だから早寝して早起きするのだろうなあ。

ところで、これも前に書いたけど、出演の話の前に、プロデューサーの福原さんから『テレビは生き残れるのか』を読んでTweetをいただいた。その少しあとにDMで出演の依頼を受けたのだった。これ、よーく考えると面白い流れだなあ。んなことない?

福原さんと「新・週刊フジテレビ批評」は前々から知っていた。番組も時々見ていた。でもそのことと、ぼくがこの度、出版した本を福原さんが読んだこととは、これまでだと結びつかなかっただろう。ひょっとしたらメールで出演依頼がきたりしていたかもしれない。でも読んだ感想をTwitterでつぶやいたり、DMで出演依頼が来たりする、そのフットワークの軽さはソーシャルメディアならではだと思う。ソーシャル以前だとぼくと福原さんの間にあったかもしれない”敷居”を、Twitterが取り去ってくれていたのだ。

ソーシャルがもたらした、そういうフットワークの軽さや、様々な敷居を低くしたことは、今後のコンテンツビジネスや広告ビジネスでも重要なファクターではないかという気がする。

メディアや広告は、これまでとても狭い社会で行われてきた。何をどうしたらどんなメディアが使えるのか、よくわからなかった。プロフェッショナルなものだったのだ。すごく限られた情報と人脈の中でしか接することができなかった。

今後、ソーシャルがその”限られた”情報の壁を突き崩すのだろう。あるいは、そもそも”限られた”感覚がいらなくなるのではないか。もっと気楽で自由で伸び伸びとした空気に変わっていくのではないかと思うのだ。

メディアとはもともとは、王権からの自由を獲得して成立したはずで、市民の自由な言論の牙城だった。ところがそれがいつの間にか利権化し、特権化して自由の牙城ではなくなってしまった。いや、自由の牙城のつもりでコンテンツを送り届ける現場と、特権を守ろうとする上層部(なのかな?)との間に大きなギャップができているのではないか。

フジテレビの韓流押し批判運動は、言ってることの中身は暴論でムチャクチャだが、聞く耳は持ってもいいのかもしれない。暴論の中身を聞くのではなく、暴論に先導されてしまうほどテレビ局を批判したい衝動の奥底に耳を貸すのだ。虐げられたような意識がそこにはあるのではないかと思う。

虐げられた感性が訴えようとしている何かには、次の時代へのヒントがある気がする。だから、彼らと話してみること、韓流押しのことではなく、そもそもどうしてテレビに腹を立てるのかについて、本音を探ってみることには価値があると思うのだ。

なんていうことを夜中に脈絡なく書いていたら、ほうら、もう眠たいぞ、おれ。やっぱり起き続けるのは無理だなあ。うん、早寝早起きだ!

というわけで、みなさん、13日土曜日の朝5時、徹夜して、もしくは早寝して、いや録画して、ぜひ観てくださいね!

ソーシャルテレビでテレビを変えろ!〜tuneTVとテレBing〜

ソーシャルテレビとは何ですか、ってことはあらためて説明するまでもないと思う。そう、テレビ観ながらTwitterでつぶやいたり、自分でつぶやかないまでもみんなのTweetを眺める。ながら視聴だね。

ぼくのTweetを追っている人は知っての通り、ぼくはドラマを見ながらよくつぶやく。前のクールでは『鈴木先生』そしてなんと言っても『マルモのおきて』が盛り上がった。みんなでつぶやきあうのは楽しいし、同じドラマを見ながら盛り上がると、新たなお友だちもできたりする。

ソーシャルテレビはもちろん、スマートデバイスがぴったりで、iPhoneやiPadのTwitterアプリを使う。各チャンネルのハッシュタグを検索するわけだ。でも当然、普通のTwitterクライアントはテレビを見ながら使うようにはできていない。だから不便とは言わないけど、ソーシャルテレビ用のアプリがあればいいなとかねがね思っていた。

そしたら、ちゃんと開発されたよ!

ジェネシックスが開発したのがこれ、tuneTV。ネーミングも「いいね!」。

特徴は、まるきりソーシャルテレビ用!って感じで、各チャンネルのハッシュタグ検索したタイムラインだけを眺めるようにできている。

地上波(もちろんデジタル)のチャンネルが映る1,2,4,5,6,7,8の中から選ぶと、例えば8を選ぶとフジテレビのハッシュタグ(#fujitv)を含むTweetがタイムライン上に並ぶ。リアルタイムで、どんどん流れていく。

さらに面白いのが、各チャンネルボタンの上に並ぶカラフルなバー。これは、それぞれのチャンネルのハッシュタグを含むTweetの盛り上がりぶりを示しているのだ。当然ながら、Tweet数が多いとバーも長くなる。あ、いまこのチャンネルが盛り上がってるな!ってことがひと目でわかるわけ。

これは大まかには視聴率に比例するのかもしれない。でもTweet数は必ずしも視聴率と比例するわけでもないだろう。見てる人が少なくてもつぶやく人が多いとやはりバーが伸びる。

視聴者数が多い上にTwitterも盛り上がっている番組が”興奮度”が高いと言えるわけで、一種の「視聴質」なのかもしれない。

そこを考えていくと興味深い。ぼくはかねがね、視聴率しか指標がないことが今後のテレビの足かせになるだろうと考えている。「視聴質」を測ることができたら、テレビの新しい未来が開けるのではと思う。このアプリが示すものが、そのヒントになるのかもしれないぞ!

もうひとつ紹介したいのが、これ。

なんとマイクロソフトが開発したテレBingだ。

これは、テレビ番組表のアプリだ。いままでもテレビ番組を表で見せるアプリはいくつかあった。でもなぜか操作性がよくなかったんだよね。

これは、さすがにマイクロソフトが出しただけあって、さくさく動くし操作性も抜群にいい。

でもそれだけじゃないんだ。これもひとつの、ソーシャルテレビ用アプリになっている。

興味ある番組を選ぶと、ウィンドウが出てきて、番組名とともに「つぶやく」「見る」「シェアする」というボタンが表示される。書いてある通り、Twitterでその番組についてのつぶやきを見たり、自分でつぶやいたりFacebookでシェアできる。もちろん、そのチャンネルのハッシュタグつきでつぶやける。

まあ、このアプリは番組表がメインでつぶやくこともできる、という、ソーシャルテレビ用アプリとはやや言い難いものだ。

でも、tuneTVとうまく役割分担して使うと便利じゃないだろうか。

『テレビは生き残るのか』でも書いたけど、テレビが今後面白くなれるかにとって、ソーシャルの活用は大きな可能性を持つ方向性だと思う。番組側は、こういうアプリがどう使われるかをイメージしながら番組作りに取り組むと面白いんじゃないかな!

ところで、tuneTVについてしゃべっていたら、ジェネシックスの方にお会いする流れとなった。言ってみるもんだね、何でも。ソーシャルテレビアプリがまたソーシャルグラフをつないだよ!

テレビは老楽(おいらく)の道に入っていくのか?

昨日(8月7日)のBLOGOSにこんな記事が載っていた。「日本は「老楽国家」を目指せるのか?」というタイトルのブログで、そんなに話題にもなってないだろうけど、ぼくは妙に気になった。「老楽」と書いて「おいらく」と読むのだそうだ。老人の恋のことを「老いらくの恋」などという、あの「おいらく」ね。

内容については短い記事だし読んでもらえばいいのだけど、ぼくにはとにかくその「老楽=おいらく」という言葉が気になったのだ。ぼくたちのこれから、日本のこれから、そして例えばテレビのこれからを考える際のヒントみたいなものを感じたのかな。

『テレビは生き残れるのか』とかなんとか言う前に、テレビは年老いてしまったことを認識した方がいいのかもしれないと思ったんだ。

前田武彦さんが亡くなったでしょ。これを聞いた時にぼくはどう感じたか。ものすごく失礼だけど、え?えーっと・・・まだご存命だったの?・・・これがぼくの嘘偽らざる最初の感想。すでに亡くなっていたと勘違いしたのでさえなく、ご存命かお亡くなりかも頭にインプットされてなかった。

82歳だったそうだ。テレビを人間になぞらえると、それくらいの年齢だということかもしれない。あれ?ご存命でしたか。そんなこと言われるような年齢なのかもしれない。

それはもちろん、黎明期のテレビを作ってきたひとりであるマエタケさんの年齢と重ねているわけだ。印象論的な話でしかない。でもね、若い人は知らないだろうけど、「ゲバゲバ90分」ってほんとにスゴかった。革命的だった。当時まだ小学生だったぼくに、大げさに言うと思想的な影響を与えた。ナンセンスという思想。そこで芽生えたナンセンス思想の芽が、筒井康隆やマルクス兄弟に磨かれていった。

そんな偉大な業績のマエタケさんだから、テレビの年齢と重ねたくもなるってもんだ。

それでね、仮に82歳だとするでしょ。そうしたらテレビは、20年ぐらい前に現役を引退していた、ってことになる。定年退職しちゃってたことになる。え?それは辻褄が合わない?

でもどうだろう。テレビはこの20年間、何か進んだのだろうか。それまでやって来たことをベースにあとは年金みたいな生活になっていたんじゃないかな?

例えばマエタケさんが亡くなったことに絡めて言うとね、マエタケさんや巨泉さんは一時期までテレビ界の大御所だった。当然ながら世代交代で、その座はたけしやさんまやタモリに譲られた。それを追う形で、ダウンタウンやウンナンやナイナイが続いた。それが20年くらい前だよね?

どお?そのあとの20年間、そしていまだって、たけしとさんまとタモリが大御所だよね?ダウンタウンとウンナンとナイナイがそれに続いてるよね?・・・同じでしょ?

これを考えていくと、めげると言うか、萎えると言うか。なんだぼくたちは、この20年間新しいものを生み出せてないってこと?そんな気分になる。でもそもそも、日本全体がそうだったのかもしれない。ぼくたちはこの20年間、ほとんど同じ場所をうろうろしてきただけなんだろうね。

さっき紹介したブログでは、ある人が「日本はインドや中国みたいな若い国と競い合わないで老楽(おいらく)国家を目指せばいい」と言うのに対し、納得がいかないぜ、と書かれてあった。

じゃあテレビはどお?そんないきり立ってないでさ、ネットみたいな若いメディアと勝負なんかしないでさ、老楽(おいらく)メディアとして生き長らえればいいじゃない。なーんて言われるとしたら、どお?

・・・イヤだね!そんなの!あ、ぼく自身は直接的にはテレビの人じゃないけどね、でも、イヤだわ、”おいらく”だなんて。だいたいその、なんだかのぺーっとしただらーっとした、語感がイヤだ。キライだ。

面白いこと、新しいこと、まだまだあるはず。ネットが若いなら、ネットと組めばまた新しいことできるはず。そう、いまこそ、テレビはネットと組むべきなのだ。そうすることで、”おいらく路線”は蹴散らして、おぎゃー!ともう一度生まれ変われる。人生もっかいできるはずだ。

ネットは軽いとか敵だとか軽蔑している場合じゃない。ネットを呑み込むぐらいの勢いではじめた方がいいと思う。

・・・おいらくの余生を過ごしたい、なんて人はそもそも業界に来ないはず、でしょ?・・・

『テレビは生き残れるのか』をテレビで語る!

初めて書いた本『テレビは生き残れるのか 映像メディアは新しい地平へ向かう』はもう、読んでもらえたかしら?え?!まだ?!それはいかん!世間の話題についていけなく・・・なりはしないけど、ぼくへのよしみで、えーい買っちゃえ!そんな人は、ここをクリック。

さて、少し前の記事で、いろんな人の反応を書いた。その中には、フジテレビで「新・週刊フジテレビ批評」のプロデューサー・福原伸治さんがTweetしてくれた、ってのもあった。

福原さんは『ウゴウゴルーガ』でディレクターとして活躍された、などなど、テレビの可能性を切り開いてきた人でもある。その福原さんが司る「新・週刊フジテレビ批評」は土曜日の朝5時から放送している、フジテレビがフジテレビの批評をする変な番組。

そのプロデューサーである福原さんが、ぼくの本を読んでくれただけでも感激だったのだけど、しばらくしてDMをいただいた。なんと!「新・週刊フジテレビ批評」に出演してくれという内容。ええええー?!なんですと!

なんでぼくなんかに?と戸惑いつつ打合せに行った。福原さんはイメージ通りのクレバーな方で、スタッフのみなさん含めて1時間強、こってりテレビについてお話しした。出演うんぬんより、そこでぼくと福原さんとでやりとりしたテレビ論が面白かった。Ustすればよかった、ってくらい。(^_^ゞ

そんなわけで、みなさん!8月13日朝5時から、フジテレビを見てみましょう!風邪でもひかない限り、ぼくが出演しているよ!

楽しみに、しててねー!

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