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カッコいいとはどういうことかを、いつの間にか教わっていた〜宮崎駿引退に感じたこと〜

宮崎駿監督のファンだったかって言うと、そこまでではないのだと思う。ただ、60年代生まれのテレビっ子世代は、意識しなくても宮崎駿の世界に接触してきた。

はっきり記憶しているわけではないが、最初にその名前を認識したのはたぶん、『ルパン三世 カリオストロの城』だったのだろう。この映画はルパン三世映画の二作目だった。一作目のクローンの話は、ものすごく楽しみに観に行ったのにあれ?という感じだった。別にダメな映画だったわけではないけど、ぼくの知ってるルパン三世じゃないぞ、と思えたのだ。

ぼくの知ってるルパン三世とは、最初のシリーズだ。コミカルでアクションも豊富で、エンタテイメント性抜群だった。ぼくはこれを何度も観た。当時は、人気の出た番組が何度も何度も再放送されたのだ。家族揃って観たものだ。楽屋落ちもけっこうあって、銭形が「ちくしょー、ルパンめー!来週こそ見てろよ!」と“来週“とわざわざ言ってトイレに入る、とか、ギャグのセンスがいいのだ。

映画第一作はそんなぼくの知ってるルパンと雰囲気がかなりちがった。峰不二子がルパンをぎゃふんと言わせたりアクションもこなすカッコいい女ではなく、かよわくてルパンに助けを求めてばかりなのが不満だった。こうじゃないんだけどなあ、ルパンは。中学生だったぼくにはフラストレーションが残った。

『カリオストロの城』はそんな第一作の不満をすっかり解消してくれた。好きだった最初のルパンのエッセンスがふんだんに撒かれて、さらに拡大したかのようだった。峰不二子もルパンたちの助っ人として登場しさらりと去っていった。そうそう、これがカッコいい不二子だよ。

『カリオストロ』は、最後だけはいただけなかった。銭形が、歯が浮くようなことを言うのだ。ルパンは何も盗まなかったというクラリスに、あなたの心を盗んだのだと言う。これはちがうだろう。銭形はあくまでルパンが憎いし心の底から逮捕したくて追い続けているはずだ。名シーンとしてとりあげられるこのラストは、ぼくからするとダメ出しすべきエンディングだ。

その『カリオストロ』のスタッフを調べたら、監督として宮崎駿とあった。最初のルパンのシリーズ後半に関わっていたらしい。家族みんなで大笑いして観ていたのは、この人のセンスだったんだな。さらに調べると、幼い頃に観た『長靴をはいた猫』『空飛ぶゆうれい船』『どうぶつ宝島』にも関わっていたと知った。そうだったのかー!高校生になっていたぼくはその名を胸に強く刻み込んだ。

『ナウシカ』『ラピュタ』の頃は大学生になっていた。『カリオストロ』の宮崎駿(ずーっと”しゅん”と読んでいたが)がオリジナル作品を映画にしたというので劇場に勇んで観に行った。『ナウシカ』の物語の底にあるエコ思想的な世界の捉え方は新鮮だった。

『ラピュタ』は当時つきあっていたフェミニズムを学んでいる女の子と観に行った。「アニメに行くの?」絵画好きでもある彼女が少し馬鹿にした感じで言う。あー、宮崎駿を知らないんだなあ。「まあ騙されたと思って観てよ。普通のアニメと違うから」きっと観たらわかるはずだ。

映画館を出て「面白かったろ?」と聞いたら「そお?」とまた鼻で笑う。「やっぱりアニメって絵が薄っぺらいのよねー」なんだと?!「それに女の子のキャラクターがステレオタイプなのよね。守られてるだけじゃない?」どこ観てんだー!・・・そこからは大げんかだった。

『ラピュタ』を観るたびにぼくは、けんかばかりしていたフェミニズムな彼女を思いだす。最後の呪文がバルスという言葉だったことなんかは憶えてないのに。その彼女とはけんかばかりしながら一年間付き合って別れた。その数年後、彼女は交通事故で亡くなってしまった。亡くなった一年後に知ったぼくは一晩中泣いた。そんなことまで『ラピュタ』は思い出させる。

その後、子供ができてからはその成長とともに宮崎アニメがあった。『トトロ』はご多分に漏れず、ビデオで何度も何度も、テープがすり切れるほど観た。幼児は気に入った作品を、何度も何度も観て飽きないのだ。

『紅の豚』は最初はよくわからなかった。どうして豚なのだ?でもこの豚は『カリオストロ』のルパンだと気づいた。この映画のキャッチフレーズは「カッコいいとは、こういうことさ。」だった。豚なのにカッコいい。宮崎アニメの男は豚か人間かは置いといて、同じ美学を持っている。武骨で不器用でプラトニック。でも決然と女性を守る。古典的な男だ。

『もののけ姫』は邦画の興行史を塗り替えるほどの大ヒットとなった。ぼくはこれは、トトロのおかげだと思う。我が家同様、テープがすり切れるほど『トトロ』を観た家族が、映画館におしかけたのだ。じゃなければ、あんな難解な映画が空前のヒットになるはずがない。

『千と千尋の神隠し』『ハウルの動く城』までは家族で劇場に観に行った。だが『崖の上のポニョ』はもう子供たちが観たがらなくなっていた。宮崎アニメを、というより、アニメ映画そのものを卒業してしまったのだ。

『風立ちぬ』はぼくひとりで劇場で観た。宮崎駿映画を劇場で観るのは久しぶりだった。

ああ、そうかあ、と思った。ぼくたちは宮崎駿が描いた、美しいもの、を観ていたのだなあ。そうだよ、全部同じだ。ずっと、そうだった。『紅の豚』が少しわかった気がした。あの映画で豚が人間だったら、カッコよすぎだ。恥ずかしくなる。豚だからバランスがとれる。

それからすると、『風立ちぬ』はそんな”照れ”も吹っ切っているのかもしれない。恥ずかしげもなく、美しいものを次々に描き出し、並べていく。戦前、少年、少女、飛行機、青い空、純愛、はかない命、戦争、家族、敗北、崩壊・・・などなどなど。極めつけは二人の告白の場面。彼女の父親の前で、本人に確かめる前に「彼女を愛しています」と言ってのける。恥ずかしげもなさすぎて呆然とするしかない。

『風立ちぬ』が監督引退作なのは、だから仕方ないのだ。あれ以上恥ずかしいことはもうできないだろう。やりたいことをすべて凝縮してしまったんじゃないのか。

ぼくにとっても、もう宮崎駿はお腹いっぱいだ。だから引退会見を見ても、残念とは思わなかった。ごちそうさま、もう十分いただきました。そして、もうこれほど胸に刻むアニメ映画監督もないと思う。『長靴をはいた猫』を観て以来、ぼくのアニメ体験を導いてきた人なのだから。ぼくは宮崎駿のファンとは言えないと書いたけど、それにしてもずっと観続けても来た。ぼくの人生にはいつも宮崎アニメがあった。ファンじゃないけど、美しいもの、カッコいいとは何かを教えてくれた、親戚の叔父さんみたいなものだ。それは作家とファン以上の関係かもしれない。そしてそういう関係を宮崎駿と結んで生きてきた人はものすごくたくさんいるのだ、この国には。

そうか、そうやって考えていくとすごい人だなあ。宮崎駿さん、ありがとうございました!お疲れさまでしたー!

コミュニケーションディレクター/コピーライター/メディア戦略家
境 治
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ぼくたちは2020年のオリンピックをどんなメディア環境で観戦するんだろう

2020年のオリンピック、東京招致決定おめでとうございます!

もっともぼくはスポーツ観戦にそんなに興味が持てない方なので、どこか他人事のようにこの週末のニュースを見つめていた。だけどふと、メディアの未来を考える者としては、2020年のメディア環境を想像するいい機会だと気づいたよ。

映画『ALWAYS 三丁目の夕日』は、その三作目で東京オリンピックが描かれる。物語のメイン舞台、鈴木オートにカラーテレビがやって来る。オリンピックを観戦するためだ。テレビ画面の中でブルーインパルスが飛んで、外に出て見上げるとリアルの空にテレビから飛びだしたかのような飛行隊が航跡を描く。そんな象徴的なシーンがあった。

よく言われることだけど、テレビの歴史と国民的な出来事は密接な関係がある。いまの天皇陛下の皇太子時代の結婚が最初に白黒テレビを普及させた。そして東京オリンピックがカラーテレビ普及の端緒となった。その後も、ハイビジョンだ衛星テレビだと、新しい技術を持つテレビの普及にオリンピックは一役どころか二役も三役もかったのだ。

すると2020年の東京オリンピック開催は、4Kの普及の強力な後押しになりそうだ。

4Kについて当初ぼくは懐疑的だった。だがいざその映像を観ると舌なめずりをしてしまう。明らかにいい!そしていまや大画面テレビの時代。巨大なモニターを持つテレビが買いやすい価格で売られている。

先日65インチを最近買った知人が言っていた。「もうねえ、DVDだと画像が粗く感じちゃうんですよ」なるほどなあ。すでにぼくの家の37インチでもDVDはちょっとアレだ。65インチにもなるとちょっとどころかものすごくアレなんだろう。DVDはともかく、限りないものそれが欲望。画面が大きくなれば画質もそれに応じた水準で見たくなるというものだろう。

4Kもいいかもしれないけど、まあいまのままでもいいんじゃない?と思えたものが、東京オリンピックがやって来ると途端に変わるだろう。どうしてうち4Kにしないの?しなきゃ間に合わないよ、となるんじゃないだろうか。

いや、でも、さらに大きな変化をオリンピックが加速するかもしれない。テレビとネットの融合だ。もう欧米ではロンドンオリンピックの時に、テレビで放送されない競技をネットで流す、ということはやっていた。実は日本でもNHKはそれをやっていた。あまり浸透してなかっただけだ。

オリンピックまでに、まず放送した番組のネットでの再送信は普通に行われるようになると思う。ネットでの再送信にも広告をつけるようになるとぼくは予測している。その方が合理的だからだ。これまでそれを留めていたのは、ネットで送信したら視聴者がそっちに逃げる、という反論。逆にネット中心でテレビをあまり観ていない層をとりこめるから、やった方が合理的なのだ。

これから7年の間に、ネットで番組流すべきだ、いや時期尚早だ、ならこの番組だけやるべきだ、でもスポンサーに何と言うのか、ともかく一回だけでもネットで流してみるべきだ、なんてことになっていって、7年後にはちょうどいい案配になっている、気がする。気がすると言うか、これはどう見てもそうなるんだと思う。

話は変わるけど、ぼくの母親(80才オーバー)はおかげさまでいまも元気で福岡の実家で暮らしている。たまに帰省すると大きな大きな音声でテレビを観ている。耳が遠いからだ。少しは親孝行しなきゃとそれなりに近況など話す。そうね、家族のために頑張らんといかんよと、あっちもそれなりに対応し、話題も尽きる。すると母親は一度消したテレビをつける。母の生活にテレビは欠かせない。手持ちぶさたになるとテレビをつける癖がしみ込んでいるらしい。

そんな母親がiPadを検討している。スマホは無理だ。文字が読めない。でもiPadならOKだ。操作もカンタンなんだってよ。きっと次に実家に行くと買ってあるに違いない。

オリンピックがネットで配信されれば、母親はうれしくてしかたないだろう。7年後にはiPadなんか使いこなしてぼくに自慢気に語るに違いない。ここをこうやったらカメラのアングルを選べるとよ!などと、どや顔で言うのだろう。それは愚息にとってうれしいことだ。

ひょっとしたら、成人したぼくの子供たちつまり彼女の孫たちと、ソーシャルでつながってネット上で一緒に観戦したりするのかもしれない。間にいるぼくはすっ飛ばされるのだ。わーわー、わいわいと、おばあちゃん日本勝ったねとか、惜しかったねとか。iPad同士でともに観るのだ。

そんなことも、すでに理論上可能だ。いやそれどころか、今の時点で技術的にも全然可能なはずだ。そういうサービスを誰かが整えるはずだ。これまでの慣習や業界の壁などをみんなでがんばって乗り越えればできるはず。やってくださいね、7年後に向けて。みんなにとって素敵なその後が待ってると思うしね。

コミュニケーションディレクター/コピーライター/メディア戦略家
境 治
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お金を「多く使う」より「善く使いたい」。それが21世紀なんだろうね

7月からハフィントンポストにこのブログの記事を転載してもらっている。最初に載った記事は、最初だから張り切って、転載ではなくオリジナルなものだった。

「もう消費者なんていない時代に、広告は広告でいいのだろうか。」と題した記事で、思いの外たくさん読んでもらえたみたいだけど、けっこう誤解も生んだ。消費者がいなくなるわけないだろう、とか、収入が減っただけじゃないか、とか。

えーっと、説明するって難しいなあ、どう言えばいいのかなあ。などと逡巡するうち2か月が経ってしまった。そしたらちょうど先日、あーこういうことだ!と言いたくなる記事が日経ビジネスに出たのでここで紹介したい。

「リアル「日本人消費者」は、15年でこんなに変わった」というタイトルの記事。野村総研が、97年から2012年までの間、3年ごとに行った調査を書籍にまとめたのだそうだ。記事は、調査を担当したコンサルタントへのインタビュー。聞かれる側も聞く側も女性、というのも大事なファクターな気がする。

で、あとはその記事を読んでもらえばいいのだけど、ぼくが「そうかあ、そうだったんだなあ!」と感心したポイントはここだ。

・97年と2012年で支出金額は2%しか減っていない。一方でクルマや家電が売れなくなった。これは、モノは消費しなくなったが、人付き合いや体験にはお金を使っている。また、不要なモノを消費することへの抵抗感・罪悪感がある、という意見があった。

この部分にはいちばん納得した。そうそう!そんなことだよね!ぼくの記事では消費者がいなくなったと書いた。ちょっと乱暴すぎたね。不要なモノを消費する気がなくなった、というのが正確だった。いや、言われてみると、そんなつもりで書いたんだけどね。と今さら言っても遅いか。

ぼくは“消費“という言葉に疑問を投げかけたかったんだ。もう一度書くけど、消費って“消える、費やす”という熟語。言葉の構造がそもそも、ムダにお金を使う、と読み取れる。そして自戒を込めて言うと、ぼくも昔は好きだった。消費が。不要なモノを買うことが。

消費者がいなくなった、と書いたのはだから、自分が不要なモノを買っていたのを反省している、と言いたかったのだろう。

さてこの記事は「なぜ日本人はモノを買わないのか?」という書籍に関するインタビューだったわけだけど、記事を読んでいると書籍の方も読みたくなって買ってしまった。

当然ながら、さっきの記事の話がもっともっと詳しく書かれている。まだ読んでる途中なのだけど、ひとつひとつの項目が、ぼくが感覚的に捉えていたことを明確にしてくれて感慨深い。もやもやしていたことがクリアになってなぜか力強い気持ちになっていく。

中でもうーんとうなってしまったことがある。調査から浮き彫りになったのが、人びとの将来への不安だ。老後に対する不安がどの世代でも高いのだそうだ。収入は減ったし、今後上がることも見込めない。もう経済的にいまよりぐんと良くならないことはみんな重々承知しているのだ。

ところが、現状の生活への満足度は高い。え?高いの?今の生活に満足している人は、2009年より2012年の方が高まったのだそうだ。将来に不安を感じているのに、収入上がらないのに、現状に満足は感じている。この部分の見出しは「平穏な日常生活の再評価」となっているのだが、つまりそういうことなのだ。「将来不安だし給料上がらないけど、それはそれとして、今は悪くないよ」そんな感じなのかな。いいんじゃね?みたいな。

これもなんというか、よくわかるなあ。今より以上は求めないし、物質的な幸福はあまり信じないのだ。自分もそう感じてるから、わかる。立派なモノ、高いモノ、もう別に要らないよね。必要なものだけにしてよ。

読み進むと、さらに重要だなと思えるキーワードが出てくる。

お金を「多く使う」より「善く使いたい」。

ある章の見出しなのだけど、すごく興味を惹かれたのは「善く使う」の「善く」という部分。なかなかこの字は使わないんじゃないだろうか。「よく」もしくは「良く」が普通だろう。でも「善く」を使う理由は明らかだ。「善悪」の「善」なのだ。そういう意味の「善く使う」。多少こじつけだがそうすると、「多く使う」のは「善悪」の「悪」だと言えてしまう。

努力して出世して高い収入を得たら「多く使う」。そのことに大した価値がない、さほど意味がないことをぼくたちは知ってしまった。そんなことをしても、リーマンショックや震災で簡単に物事がひっくり返るし、それよりも何か「善い」事にエネルギーを注いだ方がいい。いままでは道徳の教科書の中の考え方だったのが、普通に受けとめる考え方になった。それがデータに現れているのだ。

そういう時代、そういう気分、そういう自分。だとしたら、広告だの、プロモーションだのも、これまでとは明確にちがうパラダイムを作らなくては。だってこれまでのマーケティングだの広告だのの前提がすべて変わってきたよ、ってことだから。いやー、このことは当面かなり重要なテーマになりそうだよ!

コミュニケーションディレクター/コピーライター/メディア戦略家
境 治
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『パシフィックリム』を観た。クールジャパンってこういうことかもなと思った。

このブログでは前はもっと映画について書いていて、“日本映画産業論”というカテゴリーもつくってある。そこでは主に、日本の映画産業の問題点と海外輸出への可能性を書いていた。テレビのことだけ書いてるわけじゃないのですよ。

で、久々に映画の話題。

『パシフィック・リム』を観た。相当面白かったし、いろいろびっくりした。

モンスターが世界を襲う物語の場合、主人公達の何の変哲もない日常を描いておいてそこに非日常がやってきて大騒ぎになる、という流れが普通だ。『ワールドウォーZ』の導入部なんてその典型。その『Z』でさえも、もうゾンビ出てくるんだ本題に入るの早いなあと思ったものだった。

『パシフィック・リム』はその上をいく。物語の前提は、短いニュース映像の畳み掛けとナレーションで説明される。モンスターが突如世界を脅かしてね、という段取りはもう要らないよ、説明しちゃって本題から入るからね、そんな流れ。

で、いきなりモンスターとロボットの戦いの場面になる。最初から血圧高い。そのあともずーっと高血圧のまま映画は進んでいく。最後までずーっとこめかみ辺りの血管が破れちゃうんじゃないかというくらい。でも不思議と後味すっきり。

IMAXのスクリーンで3D版を観たのだけど、IMAXで観てよかったと思ったのは『アバター』以来かもしれない。それくらい見応えがあった。IMAXが近くにある方は、ぜひ!

さていろいろ楽しめる『パシフィック・リム』だけど、ここで書きたいのはこの映画の”おたくっぷり”についてだ。

人間がロボットの中に入って操縦する。その発想から、ロボットの造形、メカの細かな部分とか操縦する人間のみを包むボディスーツとか、なーんだか見たことある感じなのだ。『マジンガーZ』『ガンダム』から『エヴァンゲリオン』まで、ロボットアニメをぜーんぶミキサーで混ぜて濃縮してとろとろになったものに、東宝特撮映画をふりかけたような。さらには、『エイリアン』『プレデター』などハリウッドのその手の作品も入ってる。エンドクレジットには“レイ・ハリーハウゼンと本多猪四郎に捧ぐ”と出てくるので、まさにこれまでの特撮映画、VFX映画の歴史から生まれたのだろう。だがあまりにも日本色が強いのがこの映画の特徴だ。

極めつけは、この映画では登場するモンスターを”カイジュウ”と呼ぶこと。”KAIJU”と表記していたが、英語のセリフの中に突然カタカナの“カイジュウ”が出てくるのは面白い。

前の『GODZILA』の時にゴジラがただの恐竜の特別なやつだったのにガッカリした。ハリウッドのやつらには“怪獣“がわかんないんだなあと思った。でも、『リム』の監督ギルレモはちがうようだ。わかってるんだ。本物だぜ、ギレルモ!

それで見ていてふと思ったんだけど、この映画ってクールジャパンなんだなあ、と。

先日、ある編集者の知人と話していて、いま80年代サブカルが市民権を得ているねと、だから例えばいまのドラマなんかものすごくレベルの高いところまでいってる。クールジャパンというなら、そういう文化を輸出すべきでは。そうハイになる彼に、ぼくは「ぼくもドラマをはじめ、いまの日本の文化はすごい高い領域にたどり着いたと思う。でも同時に、あまりにハイコンテキストになっていて、海外の人には理解できないんじゃないか」と言った。

『パシフィック・リム』を観てしまうと、考え方が少し変わってしまった。ハイコンテキストでもイケるんじゃない?少なくとも、ギルレモは『最高の離婚』とか『あまちゃん』とかわかってくれるかも!

戦後、ぼくたちはアメリカの映画やドラマを見て、彼らのファッションや飲み物やライフスタイルを仕入れてきた。ぼくたちは、アメリカの警官が簡単に発砲するとか、高校卒業時にプロムとかいって高校生のくせにおめかししてダンスパーティやるとか、アメリカ人はすぐ訴訟するし陪審員制度で市民が人を裁くとか、そんなことを知っている。

アメリカの映画はどの移民が見てもわかるようにできているから海外でも理解しやすい。同時にぼくたちは彼らの文化もよく知っているのだ。つまり、映画をたくさん観ているうちに、ハイコンテキスト性も受け入れやすくなる。

『ドラえもん』や『クレヨンしんちゃん』はこの二十年間に世界中で観られてきた。かなりの人びとが日本の生活を理解している。

だったら、『最高の離婚』をあっさり受けとめてくれるかもしれない。『半沢直樹』なんかすぐに理解できちゃうんじゃないか。

さらに言えば、『パシフィック・リム』みたいな映画をハリウッドが作っちゃう世の中だ。監督のギレルモ・デル・トロはそもそもメキシコ人だしそもそも国籍なんか超えた作品だったのだ。資本もスタッフも交錯してどこの国とも言えない、でも根っこに日本独特の文化を感じちゃうなあ、という映画だって作れちゃうんじゃないか。そしてクールジャパンって、そういうのもありなんじゃないかなあ。

わりとそんなことが可能な時代はすぐ来る気がする。きっと、映像界の若い人たちが実現してくれるんじゃないだろうか。

コミュニケーションディレクター/コピーライター/メディア戦略家
境 治
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『半沢直樹』絶好調!〜ソーシャルメディアが口コミを“倍返し”にする?〜

『半沢直樹』が好調だ。TBS日曜21時のドラマはこのところヒットが多い。『JIN~仁〜』『ATARU』『とんび』など内容的にも視聴率的にも成功作が続いている。でも『半沢直樹』は格別だ。銀行員が主役の男性的なドラマ。ふつう、ドラマは女性に観られないと視聴率に結びつかない。それに初回以降少しずつ下がって、最終回に向けてまた上がるかどうか、が普通だ。なのに第2回で20%を越えたあとも上がり続けている。昨日の第五回(8月11日放送)ではなんと29%になったそうだ。30%まであと一歩!

最近のドラマで視聴率が話題になったと言えば、『家政婦のミタ』がある。最終回で40%をとってびっくりしたのは記憶に新しい。ところが『半沢直樹』は『ミタ』を上回るペースだ。『ミタ』の視聴率が20%を超えたのは第五回だった。『半沢直樹』は第二回で早くも21.8%を獲得している。『ミタ』が水曜22時放送だったのに対し『半沢直樹』は日曜夜。視聴率をとりやすい時間帯だと言えるかもしれない。だったらもっと伸びるかも。

今後、『半沢直樹』が『家政婦のミタ』の40%を越えるかどうかに注目が集まりそうだ。

それにしても、いくら堺雅人が人気とは言え、この視聴率の高さは不思議だ。『家政婦のミタ』の視聴率はあの時のあの時点でああいうドラマが送り出されたタイミングと偶然がもたらした途方もない奇跡で、そうそう起こるわけではない、いや二度と起こらないだろうと誰もが思っていただろう。

東洋経済オンラインに演出の福澤克雄氏のインタビューが載っていて、制作側としては最終回で20%に乗ることが目標だったそうだ。作り手もここまでの大ヒットは想像していなかった。ヒットとはそういうものだろうか。

このヒットを生み出したのはもちろんドラマそのものの力によるが、このところ起こっている“口コミ増幅現象“も大きく関与していると思う。

前に書いた「池上彰とテレビ東京が起こした、ちょっとした革命」という記事で、池上彰の選挙特番がTwitterで盛り上がっていたら視聴率もよかったと書いた。これは誤解も招いた気がする。このケースではたまたま相関性があったが、だからと言って「Twitterでの盛り上がり=視聴率」ではない。相関性が強い場合、そうでもない場合があって「=イコール」ではないのだ。

『半沢直樹』も視聴率上昇とともにTwitterでのつぶやきもぐいぐい上がっているかというとそうでもなかったりする。

ただ、このところどこかで火がついた情報がマスメディアからネットメディアまであらゆるメディアを飛び交って増幅されている気がする。『半沢直樹』も先の記事も含めてネット上でたくさんの記事になり、雑誌でも取りあげられ、あげくは他局含めてテレビでも話題になっている。その“飛び火“を突き動かす潤滑油としてソーシャルメディアが機能しているのではないだろうか。そしてスマートフォンの普及とともにそういうソーシャルメディアの”情報潤滑機能”が高まっているのではないか。

なんとなくイメージ的な説明図を描いてみた。ネットで記事になったらTwitterで盛り上り、その盛り上りが雑誌の記事につながりまたTwitterでも話題になり、それを受けてテレビでもとりあげてさらにTwitterでも盛り上がる、といった具合だ。

ドラマの話題に限らず、政治家の舌禍事件にしろ、芸能人のゴシップにしろ、ばーっと広がってばーっと忘れられる。もともとマスメディア自体が持っていたそういう傾向が、ソーシャルメディアによって強まったのではないかと思うのだ。

それから、もっと大事だなと思うのがこの図での友人知人との雑談だ。テレビ番組について学校や職場で話題にしなくなっていたがソーシャルメディアがその役割を担うようになった、とよく言われるが、間違いではないが少し違うと思う。昔に比べると圧倒的に減ったとは言え、いまだって友人知人とテレビ番組について話題にする。テレビ以外だってそうで、友人知人との雑談は情報伝達においていまだに重要な領域なのだ。それをソーシャルメディアが促進しているのだとぼくは思う。

話が広がってしまったが、とにかくソーシャルメディアだけが情報を伝達しているのではなく、リアル口コミを含めて極めて複雑で複合的な伝達網の中にぼくたちはいる。ソーシャルメディアがそれを複雑にもしたし、促進もした。ソーシャルは口コミを倍返しにするのだ。いや、下手をすると10倍返しどころか累乗的に加速させる。

だとしたら『半沢直樹』は最終回でびっくりするような視聴率を叩き出すのかもしれない。などという話より何より、ドラマそのものの展開の方が気になるのだけど・・・。

コミュニケーションディレクター/コピーライター/メディア戦略家
境 治
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バルスはテレビとネットの壁を壊す呪文かもしれない

2013年8月2日の夜、ネットを何度目かのバルスの波が襲った。

このブログの読者の皆さんなら説明は不要だと思いつつ、簡単にふれておこう。”バルス”とは、宮崎駿監督の映画『天空の城ラピュタ』のクライマックスで主人公二人が唱える呪文だ。そしてこの“バルス”という言葉は放送中に唱えられる瞬間にネット上で視聴者によって一斉に発信され、過去には2チャンネルのサーバーをダウンさせたこともある。

前回、2011年12月の『ラピュタ』放送時にはTwitterでの“秒間ツイート数”つまりバルスの瞬間の1秒間のツイート数が25,088で世界記録となった。今回の放送ではこの記録を塗り替えどこまで伸びるかが注目されていた。

結果は当日深夜、TwitterJapanの公式アカウントで発表された。その数なんと、143,199TPS(Tweets Per Secondsだと思う)に達したそうだ。前回の数字を大幅に越えて途方もない記録が成立した。

その瞬間のTwitterの盛り上りをWizTVで表示

ということはつまり、Twitterのユーザーがこの二年間でそれだけ増えたということだろうし、“バルス“現象の認知度も格段に高まったということでもあるだろう。実際、著名人や企業のTwitterアカウントも参加したらしく、それらをまとめたサイトを見るとプレイステーションやアマゾンのアカウントまで“バルス“とつぶやいていて笑える。

また、Yahoo!Japanのサイトには「バルス」と書かれた謎めいたバナーが置かれていて、押してみるとサイト全体が“崩壊“してしまうという、手の込んだジョークが仕込まれていた。それくらい、今回の『ラピュタ』放送はネット中で開催される“バルス祭”ともなっていたのだ。なんとも素敵で楽しいことか。

前回の『ラピュタ』放送時にはTwitterで盛り上がったわりには視聴率が大きく上がらなかった。だが今回はおそらく視聴率にも影響が出たのではないだろうか。(追記:今回の平均視聴率は18.5%で2011年放送時の15.9%を大きく上回ったそうだ)

それにしてもこれは面白い現象だと思う。なぜ『ラピュタ』でこういう祭が起こるのかについては、2011年の時に書いた「バルス!それはまた起こりえるか?」という記事を読んでもらうといいのだけど、ようするにこの映画はいまのアラサー世代に特別な愛された方をしたのだ。

ぼくは2011年の『ラピュタ』放送当日まで、“バルス“なんて実は知らなかった。しかもぼくは、学生時代にこの映画を劇場で観てかなり興奮した記憶さえある。でも最後の呪文が何だったかなんて憶えてなかった。この呪文をはじめ、「見ろ!人がゴミのようだ!」などのセリフひとつひとつをアラサー世代が子供の頃の遊びに組み込んでいたのだ。彼らが成長しネットユーザーの中心世代となった時、“バルス”が子供の頃の延長線上でネットの遊びになったのだった。

この“バルス“はラピュタを崩壊させる呪文でありムスカ大佐の野望を打ち砕くために放たれたが、ぼくたちのメディア社会にも大変な影響を与えたと思う。

2011年はテレビとネットの関係の中で特別な年だった。それまでテレビ局(詳しく言えばその上層部)はネットを敵視し忌み嫌ってきた。現場がネットを活用しようとすると待ったをかけ、敵に塩を送るとは何事かとおさえつけた。ネットは、テレビから視聴率を奪う敵だと信じられていたのだ。

それが2011年になると各局それぞれ、でも一気にネット活用が進んだ。「ソーシャルメディアなんか何書き込まれるかわかったもんじゃない」という反応だったのが「なぜうちの局はFacebookやってないんだ」と言い出した。YouTubeに各局が専門チャンネルを持ち、番組のTwitterアカウントも次々にスタートした。どうやら、Twitterで番組についてつぶやきが増えると視聴率にプラスに働くというアメリカでのデータが伝わったせいのようだった。

そして極めつけが12月の“バルス“現象だった。番組の視聴率を大きく動かしたとは言えないようだが、テレビ番組へのネットの反響が、大きな影響力を持つらしいことは感じとれた。どういうメリットが得られるかはまだはっきりしないが、テレビ局にとってソーシャルメディアは活用すべき対象だと多くの人びとが認識したようだ。

翌年2012年からはNHKでTwitterの書き込みを画面に表示する「NEWS WEB24」がはじまったり、日本テレビがJoinTVというソーシャル活用のシステムを発表したり、各局次々に取り組みがはじまった。まるで“バルス“の呪文がテレビとネットの間にあった壁を崩壊させたかのようだ。

そして実際に今回の“バルス祭”は前回を大きく上回り、記録も残したのだから、この一年と8カ月の間にテレビとネットの融合はぐいぐい進んだと言っていいだろう。

次回の“バルス祭”がいつかはわからないが、日本テレビはほぼ二年ごとに『ラピュタ』を放送してきている。もしそうなら、これからの二年間でテレビとネットの融合は、また新たな局面を迎えるのかもしれない。今回で視聴率にも影響したなら、かなり具体的なビジネスにつながる動きが出てくる可能性がある。“バルス”がもたらす次の流れに期待したい。

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つまり“数“以外の価値をつけられるか〜『5年後、メディアは稼げるか』を読んで(その2)

ローカル局さんに呼ばれて社内レクチャーをするのにいい資料がないかと思っていたら、ちょうど出版されたのが『5年後、メディアは稼げるか』。かなり勉強になり衝撃も受けたので、何回かに分けてこの本について書く、ってことで“その2“行くよ。読んでないって人は“その1“も読んでくださいね。このリンクを押してみて

さてこの本のいちばん大事なところは第3章の「ウェブメディアでどう稼ぐか」の部分。これはホントにローカル局さんでのお話に使わせてもらいたい箇所が満載。

”その1”にも書いた通り、この本で言う“メディア”は基本的に新聞雑誌、つまり紙メディアのことだ。でも、読めば読むほどテレビメディアにも応用できる内容だ。それは要するに、新聞雑誌もテレビも、ウェブメディアになっていくから、「ウェブメディアでどう稼ぐか」が同じように参考になるということだ。この”みんなウェブメディアになっていくから”ってところはまた別の機会にじっくり書くので、ちょっと待っててね。

その最重要な第3章の見出しだけでもここでネタバレしてしまおう。

どうすか?この大サービスな感じ!そそられるだろう?

この見出しをざっと見るだけでも、なんだか役立ちそう。ものすごく具体的なので、ページをめくるたびに、うんうん!そうですか!と感心したりメモりたくなったりする。

さらにさらに!現状のメディア企業のマネタイズの手法は8通りあるという。1広告、2有料課金、3イベント、4ゲーム、5物販、6データ販売、7教育、8マーケティング支援。これはそれぞれ、世界のどこかのメディアが実際にやっているのだそうだ。

そしてこの中で、現時点で柱となっているのは1広告と2有料課金だということで、そのあとはこの2つの話になっていく。

結論的には広告と有料課金をうまく組合せようぜ、ということになっていく。広告はマネタイズしやすいが、それで利益が実現できるかはかなり難しい。莫大なPV数を獲得できないと十分な広告費も得られないからだ。これが実現できるのは、日本ではYahoo!ぐらいだろう。

そこで有料課金との組合せになる。これも簡単ではない。読者層はどんな層かとか、メディアとしてのブランド力とかをクリアしないといけない。

とは言え基本的にこの本は、メディアは広告+課金のフリーミアムモデルでやっていくのだと言っているようだ。さらに、上記の3〜8の手法も含めて多様なマネタイズを組合せようということ。そのヒントこそが、ネット企業にあるのだと言っている。

ここからはぼくの解釈だけど、つまりすべてのメディアはこれまで培ってきたマネタイズ手法をもう一度見直さねばならないということだろう。メディア企業はこれまで、できるだけたくさんの読者もしくは視聴者を獲得し、購読料と広告費を稼いできた。電波媒体の場合は広告費だけだ。いずれにせよ、できるだけ数を獲得する必要があった。

でももう数は増えない。問題はようするにそこに尽きるのかもしれない。

数が増えなくても、これまでの数百万、数千万人という単位が数万人になってもメディアを運営できる手法を、広告にしても購読料にしても、考え直さねばならないのだ。

ぼくがソーシャルテレビについて懸命に語るのも、ソーシャルの力を得ることで、これまでとちがう広告メニューや、新たな課金の手段が開発できる可能性があると思うからだ。ネットへの取り組み、ソーシャルの研究を、メディア企業の保守的な人びとは、自分たちの権益を脅かすように受けとめる傾向があるのだが、そうではなく、これから生き残るために、ひいては新たな成長を目指すために、ソーシャルを取り込もうということなのだ。

話が本からそれたので、もう一度内容について書くと、この第3章で「ブランドコンテンツという新しいマーケット」という項目がある。ここは、いまもっとも考えるべき分野だと思う。いまギョーカイ一部で話題になっているAdvertimesでの谷口マサト氏の連載はこのブランドコンテンツに近い話だ。彼の仕事に「大阪の虎ガラのオバチャンと227分デートしてみた!」という記事があってとりあえず読み物として面白い。これが映画「ライフ・オブ・パイ」の広告として制作されているのだ。もちろんステマではなく最初から広告だとして書かれている。

またコカコーラ社が自社サイトを大幅にリニューアルしその中に“ストーリー“というコーナーが誕生した。コカコーラについて、プロの編集者や学者が内容の濃い記事を書いているのだ。これもブランドコンテンツの一蹴だろう。

ブランドコンテンツの考え方は、ある意味これまでのメディアビジネスにはない発想でできている。コンテンツはメディアがスポンサーとは独立して制作されて読者(視聴者)はそれを楽しむ。広告はそうしたコンテンツの間に差し込まれ読者(視聴者)はそれを“目にする“ものだった。

ブランドコンテンツは、広告だとわかっていつつも、記事として読まれる。記事としての面白さが問われる広告だ。

ここまで考えた時、ぼくは、おやー?と思った。80年代、ぼくがコピーライターになった頃にあった一部の広告は、ブランドコンテンツ的だった気がする。西武百貨店の企業広告は糸井重里さんがひとつひとつ書いた、社会に問いかける内容だった。「おいしい生活」のような派手なキャンペーンもそうだが、新聞広告シリーズの中で丁寧に書かれたメッセージは、売らんかなのものではなく、独立したコンテンツとして楽しめた。

もっと商品寄りでも、仲畑貴志さんがサントリーの角で書いていたコピーは面白い読み物だった。その上ちゃんと角が飲みたくなるのだ。

なにかこう、ブーメランのように一度遠くに行って戻ってきてるような気がする。もちろんここで言うブランドコンテンツは80年代の広告と同じものというわけにはいかないだろう。でも大いなるヒントがそこにあるのはまちがいないだろう。

メディアの未来は、ウェブに習うとかソーシャルだとか言うと、よくわからない、数値的なものに捉えがちだが、もっと素朴なことなのかもしれない。ぼくたちがたどってきたアナログな時代の道筋にこそヒントがあるかもしれないと思うと、また面白くなってきたじゃないか。

コミュニケーションディレクター/コピーライター/メディア戦略家
境 治
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全メディア人よ、来たるべき“メディア新世界“に備えよ〜『5年後、メディアは稼げるか』を読んで(その1)

8月にあるローカル局さんで社内レクチャーをすることになった。いいですとも!と引き受けたもののどんな内容にすればいいかと悩んでいたら、ちょうど参考になりそうな本が出たので即アマゾンでポチッとした。それがこの本。東洋経済新報社『5年後、メディアは稼げるか』。皆さん知ってる?

著者は佐々木紀彦氏で、東洋経済オンラインの編集長だ。老舗ビジネス誌のオンラインメディアの編集長と言われると、40代後半くらいのベテラン編集者をイメージするが、佐々木氏は1979年生まれだから30代前半だ。意外だなあ。

東洋経済オンラインは最近大幅にリニューアルし、急速にPV数を伸ばしたと、ちょっとした話題になった。その改革の首謀者こそ、佐々木氏なのだ。つまり、老舗ビジネス誌のオンラインメディアをビジネス的に成功に導いた。その佐々木氏がメディアの将来像を語る本らしい。

しかもタイトルが「稼げるか」というのも生々しくて興味が湧く。サブタイトルには「Monetize or Die」とある。稼げるようにならなきゃ死ぬぜ、という脅し文句つきだ。いよいよもってワクワクしてくるね。

興味ワクワクのまま読み進んだらぐいぐい引き込まれてあっという間に読んじゃった。読後も興奮しっぱなしなので、その勢いでブログに書こうと思う。たぶん1回じゃ足りないので2回に渡って書くつもり。どう書くかはまだ決めてないけど。

さてこの本、基本的には紙メディアの話だ。なーんだ、新聞や雑誌の話か。このブログの読者の方はそう聞くとがっかりしちゃうかな。だってぼくは主にテレビについて書いてるからね。でも、この本は確かに紙メディアについてだけど、書いてあることはかなーり、8割9割くらい、テレビメディアにも当てはめることができる。

紙メディア中心とは言え、すべてのメディアに応用が利くし、広告業界にとっても参照可能な話だらけだったりする。だから皆さんぜひ読んでみて。

この本のキーワードがこの「メディア新世界」だ。佐々木氏は今後の5年間で紙メディア、とくに雑誌メディアは激変にさらされると言う。その後にやって来るのが「メディア新世界」というわけ。

序章でまず、メディア新世界で7つの変化が起こると言っている。

書きだしてみると・・・
・紙が主役→デジタルが主役
・文系人材の独壇場→理系人材も参入
・コンテンツが王様→コンテンツとデータが王様
・個人より会社→会社より個人
・平等主義+年功序列→競争主義+待遇はバラバラ
・書き手はジャーナリストのみ→読者も企業もみなが筆者
・編集とビジネスの分離→編集とビジネスの融合

・・・どうすか?これだけですでに面白そうでしょ?

それに、紙特有の言い方を他のメディアの言葉に書き換えれば、すべてのメディアに、あるいは広告業界全体に、そのまま当てはまる。しかも、ベテランほど耳が痛い内容だ。

「番組の作り手はプロのテレビマンのみ→視聴者も企業もみなが作り手」なーんてね。ホントに当てはまる。もっとディテールに絞ってもいいかも。「ビジュアルを扱うのはデザイナーのみ→受け手も企業もみながデザイナー」なんてことは、すでにあちこちで起こりはじめているよね。

そんな序章の後につづく内容は、ひとつひとつ具体的だ。佐々木氏が紙メディアからネットメディアに移ってからの体験や、アメリカでの先行的事例など、実際のことが詳しく書いてあるのでわかりやすいのだ。

読み進むに連れて、どうやらメディアビジネスのひとつの解が、いわゆるフリーミアムにありそうだな、ということが見えてくる。もちろん、多様な可能性を紹介しているのだが、とくにアメリカでの成功事例などを知ると、最初は無料で深いとこは有料、というフリーミアムが大きな選択肢なのだなあと思えてくる。

同時にこの本には全編に渡って強烈なメッセージが込められている。それは、「皆さん、これまでのやり方考え方をばっさり捨てましょう!」ということ。しかもそれは、若い世代からベテラン層への「おっさんら、いつまでしがみついとるんや」という上から目線のものではなく、「ぼくもこれまで信じてきたものをいったん捨てなきゃと思ったんすよ!」と、仲間たちに呼びかけているスタンスだ。

メディアはこれから、どう稼げばいいのか。新聞雑誌のみならず、テレビやラジオも、そしてネット上での新しいメディア、例えばハフィントンポストのようなメディアでさえも、モデルがはっきり見えているわけではないだろう。この本はそんな思いのメディア人たちに、常識を捨てよと痛烈に呼びかけながら、具体的なヒントをわかりやすく整理して提示している。うん、みんな、読んだ方がいいと思うな。ちなみにぼくも、そのローカル局で話すことが少し見えてきたよ。

どう見えたのかって?そんな話も含めて、続きをまた書くから、待っててちょ!

コミュニケーションディレクター/コピーライター/メディア戦略家
境 治
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池上彰とテレビ東京が起こした、ちょっとした革命

この記事を読む前提として、この度の参議院選挙で、いわゆる開票特番を各テレビ局が放送し、池上彰さんをキャスターに据えたテレビ東京の選挙特番の内容が特筆すべきものだった、ということは知っておいてほしい。これについては、ブロガー杉本穂高さんが詳しく書いている。いまひとつわかってないのだが、という人は、このリンクからその記事を読んでおいてくださいね。

ぼくもこの番組を観た。というのは、前回衆議院選挙の時もテレビ東京は池上キャスターで選挙特番をやっていて、抜群に面白かったからだ。池上さんらしいわかりやすい解説もよかったわけだが、候補者へのインタビューが切り込みすぎるくらい切り込んでいた。ズバズバ切っていく感じ。質問される誰もがたじろいでいた。

杉本さんの記事にもあるけど、今回も切り込みまくっていて、中でも公明党の解説がすごかった。観ているこっちがハラハラするほど。つまり、公明党の支持母体は創価学会という宗教団体だと、はっきり言ってのけたのだ。それも、ちゃんと事前に22時前後から宗教団体の話を扱うと宣言していた。そのことへの注目ぶりはツイッターにはっきり表れていた。22時過ぎのツイッターの件数を各局別に見てみると・・・こうだった。

一目瞭然だが、池上彰特番がだんぜんツイートを集めている。

でも正直、ツイート数が上がっても、視聴率が高いわけでもないんだろうなと思っていた。

ところが、翌日驚いた。視聴率でもテレビ東京の池上彰特番がトップだったのだ。あ、いや、正確に言うと、民放の選挙特番の中ではトップだった、ということ。NHKの方が選挙特番としては視聴率がよかった。また、フジテレビはサッカー中継を放送して、高視聴率だった。

ぼくが仕入れた情報では(と言うか、いまはネットで検索すれば誰でも入手できる情報だが)、20時台の視聴率はNHKが15%強、他民放が軒並み一桁台の中、テレビ東京は10.2%。さらに21時を過ぎるとフジテレビのサッカー中継が18%強だったのを除くと、ずーっとテレビ東京が民放トップだった。

これはかなりすごいことなのかな?と思っていたら、某テレビ局の友人が「これはえらいことですわ」と言う。

報道番組でテレビ東京がトップというのはテレビ界としてはありえない、あってはならないことなのだそうだ。一方TBSは最下位。これまたTBSとしてはあってはならない事態だろう。選挙特番という報道の粋を集めたような番組でテレビ東京にお株を奪われるとは。

去年12月の衆議院選挙の特番でできた下地がまずあり、それが今回の特番ではツイッターでみんなが「池上さんまた切り込んでる!」とつぶやいてうまく拡散し、前回観なかった視聴者を引きずり込んでいったのではないか。その友人は分析する。

ぼくがまさにそうだった。池上特番を見ようと決めていたわけではなく、なんとなーくザッピングしながら各局眺めていたら「いつもと同じだなあ」と受けとめた。そんな中、ツイッター上で「池上さん」の名前が飛び交っていたので、今回も池上さんがキャスターか、前回面白かったから、今回も面白いのかな?と思ってテレビ東京にチャンネルを合わせたのだった。

一方、今回は特別だったとも言えるだろう。結果が見えていた選挙で、20時に各局の特番がスタートしたら大勢はほとんど決まっていた。選挙特番は本来は「どの党がどう議席を獲得するか」をドラマチックに追っていくものだが、この選挙では追っていきようがなかった。

ただ、池上彰とテレビ東京が今回突きつけたのは、「いままで通りの選挙特番やってても仕方なくね?」という問いかけだとも言える。視点を変えよう、議席数を追うだけはやめよう、選挙の本質を掘り下げよう、そんな明確なコンセプトが番組に出ていた。その表れが、公明党と創価学会の関係にはっきりふれたことだった。(しかしこれはテレビのタブーを破っただけで、そんなことみんな知ってることだ。選挙のたびにまわりの創価学会の知人が公明党への投票を勧誘してくるのだから。みんなが知ってることにふれないできた点にこそ、テレビの課題があるような気がする)

今回の選挙で、国政は揺るがなかったが、選挙特番という場ではちょっとした革命が起こった。さっきの局の友人は「池上さんが一度作った一種のブランドは、次の選挙特番ではさらに強くなるかもしれませんねー」と言う。でも、また国政選挙があったら、各局テレビ東京に負けじと戦略を練ってほしいものだ。だってそうやって進歩していくものだからね、人間は。

コミュニケーションディレクター/コピーライター/メディア戦略家
境 治
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※ちょっと補足です。「報道番組でテレビ東京がトップというのはテレビ界としてはありえない」とテレビ業界の人がなぜ言うかというと、こういう全国レベルでの報道番組はネットワーク局との連携が必要で、テレビ東京の場合は“全国“のネットワークのキー局ではないから。あまり他意はないことを言っておきます。

2013夏ドラマTwitter分析(1)「半沢直樹」と「Woman」はTwitterでも熱い!

去年の秋から、ドラマのTwitter分析を試みてきた。そこから、視聴率とは別の何かが見えてこないか、というのが企画意図だが、なにしろ自分がドラマ好きだからという個人的好奇心の方が実は強い。

これまでの分析を振り返ると・・・
・2012年秋ドラマの分析をまとめた記事
・2013冬ドラマの分析記事
・2013春ドラマについては4回に渡って記事を書いている。
   (1)Twitterから視聴率を予測できるか
   (2)Twitterは視聴率の先を導く?
   (3)Twitterで抜いたら視聴率も抜くのか?
   (4)『ラストシンデレラ』は萌えているか?『ガリレオ』は燃えるだろうか?

視聴率と別の何かが見えてこないか、と言いつつ、春ドラマの分析ではTwitterの盛り上りと視聴率の関係を追ったりなんかしてしまっている。やはり視聴率はネタとして面白いというのもあるし、この春ではとくに、視聴率とTwitterの相関性が高まったように思えてきた。スマートフォンが普及し、視聴率に影響を与える奥様層にもTwitterが普及してきたからじゃないかなと推測している。

一方で、視聴率とは別の“気持ち“みたいなものもTwitterから見えてこないか、というのもぼくが注目するポイントだ。この夏のクールでは視聴率も見据えつつ、感情分析を中心にしてみたい。

さて夏ドラマはかなり盛り上がっている。「半沢直樹」をはじめ、視聴率の高いドラマが多い。その勢いを9月まで保てるかが見どころになる。

まず注目のドラマが多い中でも注目の「半沢直樹」と「ショムニ」のツイート数を見てみよう。データ収集にはNECのソーシャルメディア分析ツール<感°レポート>を使わせてもらった。使いやすいインターフェイスでぼくのような文系人間でも使いこなせるんだぜ。

比較対象として月9「summer nude」のデータも重ねてみた。一目瞭然だが、「ショムニ」のツイート数が断然多い。最後の放送から10年経っているが、”あのショムニがもう一度!”という反応が強かったということだ。前のクールの「ガリレオ」ほどではないがドラマの中でも抜きんでた水準。今期のドラマは過去のヒット作の続編が多いが、それに対する素直な反応がTwitterに現れている。

ところでさっきのグラフの、放送翌日の箇所に注目してみよう。

「半沢直樹」は放送日のツイート数が4万件程度、「ショムニ」は13万件弱。ずいぶん差があるわけだが、翌日のツイート数は2万件強とあまり変わりがない。つまり、「半沢直樹」の方がツイート数の下がり方が少なかったことになる。録画で翌日観た人も多いだろうし、とにかく放送後も口コミされていた。「半沢直樹」が世間に与えた衝撃度の大きさが、翌日も余波になっていると言えるだろう。

今度は個々のドラマの”感情分析”を見てみよう。これは、先ほどの<感°レポート>で収集したツイートから、放送時間中のものだけを抽出し、テキストマイニングにかける。使ったツールはプラスアルファコンサルティング社の<見える化エンジン>だ。かなり高度な分析が瞬時にできるすぐれもの。

”感情分析”とはぼくが勝手にやってる分析で、放送中のツイートから<好意好感><高揚興奮><否定>にあたるものを抽出する。“好き”とか”いい”などは<好意好感>、“面白い“とか”すごい”とか強い表現のものは<高揚興奮>、そして“いやだ“とか”辛い“のようなものは<否定>とする。それぞれの分類のツイート数が全体の中で占める割合を出していくのだ。

まずは数値を表で見てもらおう。「半沢直樹」「ショムニ」「summer nude」にこのクールのもうひとつの注目「Woman」も加えて4つのドラマの感情分析。

この4つはそれぞれ特徴的な数字になった。全体にソツがないのが「summer nude」好感も興奮も同程度で否定は少ない。もっとも基本的な形だ。「ショムニ」は好感が高い。これは「やっぱりいい!ショムニ」とか「懐かしいなあ」とか、とにかくショムニが好きだった人たちの、とにかく好きだぞ、という反応の現れだ。

特徴的なのは「半沢直樹」。興奮が異様に高い。“面白い!“というツイートが多かったのだが、何気なく見てみたら思いの外面白かったという反応だろう。

さらに特筆すべきなのが「Woman」だ。「否定」が高い。高すぎる。このドラマ、見た人はわかるが、シングルマザーの過酷な現実を生々しく描き出している。見ていると辛くなるのだ。“辛い“とか”しんどい”“見てると苦しくなる“というようなツイートが多い。だからこの「否定」は褒め言葉とも言えるかもしれない。とにかく、見る人の心を強く揺さぶった結果だといえる。

数字をグラフにするともっとわかりやすいだろう。2つずつまとめてレーダーチャートにしてみた。


まずは「ショムニ」と「半沢直樹」。こうして比べると「半沢直樹」の尋常じゃなさがよくわかるだろう。ちなみにこれに似た形はテレビ朝日「ドクターX」などがある。米倉涼子主演でヒットしたドラマで、「半沢直樹」もそれに負けないヒット作になる可能性が十分だと言えるだろう。


そして「Woman」と「summer nude」。「Woman」の異常さがレーダーチャートにするとよくわかると思う。こんな形は他になかった。見てると苦しいのに見続けてしまうという麻薬のようなドラマになるのかもしれない。これと、同時間帯である「ショムニ」への反応が今後どうなっていくのか、視聴率争いとともに見物だろう。

Twitterによるドラマの分析は、テレビに関するツイートは基本的に多いのでデータがとりやすいし、テーマとして面白い。でもこれは、いろんな分野に応用できると思うし、実際に商品について、企業について、使われはじめていることだろう。こうした分析から、新しいコミュニケーション手法も生まれてくるのではと期待している。

コミュニケーションディレクター/コピーライター/メディア戦略家
境 治
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テレビはすでにインタラクティブメディアなのだ〜TBS「生ジンロリアン」&日テレ「音楽のちから」

ぼくがソーシャルテレビ推進会議という勉強会を運営していることはここで何度も書いてきた。思い返せば、みるぞうやTuneTVなどテレビを観ながらTwitterするためのアプリが登場したり、「天空の城ラピュタ」放送時での“バルス事件“などがあり、ソーシャルテレビについていろんな方々と情報共有したくなったのだった。

TuneTV登場がほぼ2年前。そしてその頃ぼくは『テレビは生き残れるのか』を出版した。

その頃からすると、ソーシャルテレビはずいぶん進んだもんだ。ソーシャルテレビと捉えていいかはわからないけど、テレビ番組を観ながらスマートデバイスを操作することで、テレビの幅が大きく広がる、そんな事例がどんどん出てきた。

先週はまた、新鮮な事例が2つもあったぞ。TBSの「生ジンロリアン」と日テレ「音楽のちから」での1つの企画だ。

「生ジンロリアン」はいわゆる人狼ゲームをテレビ番組化したもの。いままで何度かTBSで放送してきたのを今回は“生”で放送し、視聴者に参加してもらおうというところは初の企画だ。人狼が誰かを視聴者の投票で決めさせるのだ。

放送中にスマホやタブレットで公式サイトにアクセスすると、投票用画面に誘導される。今回の9名の参加者の名前が並んでいるので、その中で人狼だと思う人物を押すと“投票中“と表示される。

投票はリアルタイムで集計されて放送中のテレビ画面に表示される。

純粋にひとりの視聴者として楽しく参加したけど、考えたらこれ、すごいなと思う。深夜とは言えものすごいトラフィックだったろう。でも問題なく処理してテレビ画面に表示していた。視聴者からすると、自分が人狼を直接選べる感覚が味わえて参加感100%だ。

見ていて面白かったのが、一度誰かに集中しはじめるとどんどんその人への投票が増えていくこと。いちばん多いのは誰?って思いながら見るので、誰かがいちばんだとついついその人に投票したくなっちゃうんだ。

それと、その時々でいちばん喋ってる人の票が増える傾向もあった。まあ、それがテレビということなんだろうね。

とにかく“参加してる感じ“がちゃんと味わえるのは面白かったよ。

もうひとつの「音楽のちから」。土曜日に午後から始まって夜まで延々続けられた歌番組。その中でインタラクティブな仕掛けがあった。

21時から司会の嵐が唄いはじめた。それとともに、スマートフォン上であらかじめ選んだ楽器で、リズムを刻む。画面に♩マークが上から流れてくるので、下に着地する瞬間にスマホを押すとパン!と音が聞こえる。次から次に上から流れる♩マークに合わせてパン!とやっていく。これは「太鼓の達人」みたいだ。

ぼくはマラカスを選んだらこんなキャラクターが出てきた。

この仕組みはスマホじゃなくても楽しめる。テレビ受像機のリモコンでdボタンを押してデータ放送に入ると、スマホと同じようにリズムを刻める。うちの妻はスマホを持っていないのだけど、リモコンでも十分楽しかったようだった。

この番組は嵐の司会だし、このインタラクティブな仕掛けはゴールデンタイム、21時ごろだった。だからものすごい数の人が参加してるんじゃないか。実際、ものすごい数で、132万人だったそうだ。

そんな数のトラフィックをこなすなんてどうなってるんだ?

とにもかくにも技術の進歩なのか意識の変化なのか、こういう試みはすっかり“有り“になってきた。もはや、テレビ局の一部の物好きな人たちの隠れた実験などではなく、プログラムの一部になってきているのだと思う。

テレビはすでに、インタラクティブなメディアになっているのだ。

などと思っていたら、こんなニュースが飛び込んできた。「ネット見れるパナの新型テレビ、民放がCM拒否」まあざっとこのリンクから記事を読んでくださいな。

最初に読んだ時、相変わらず頭のカタいテレビ局の中枢部の人びと、という感想を持った。でもことはそう単純ではないらしい。この記事から受ける印象ほど、頭ごなしな話でもないみたいなのだ。また、テレビ放送が放送として整えねばならない技術ポイントがあって、そこをクリアできているのか的な要素もあるとかないとか。例えば大元隆志さんはこんなことをASSIOMAに書いている。

このニュースの議論は大事だけど、これはテレビに出す情報に関する話だ。でも今日紹介したような事例を考えると、スマホを使ったダブルスクリーンの方がテレビ受像機のスマート化より話が早いんじゃないかという気がする。

いずれにせよ、テレビのインタラクティブ化はもはやはじまっている。どんどん進んでいる。次は、これをどうビジネスにするかだろうね。今年の後半は、そういう議論が高まるんだろうな。

コミュニケーションディレクター/コピーライター/メディア戦略家
境 治
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広告はパーツになりむにゃむにゃしたコミュニティの入口になる(ハフィントンポストに書いたことの続き)

月曜日にハフィントンポストに初めて寄稿した。ソーシャル関係の身内の皆さんのサイトにはよく転載してもらうけど、こんな一般メディアにオリジナル原稿を書くのはなかなかないことなのでけっこうドキドキした。そしたらたくさんの人に読んでもらえたようでコメントもついてさらにドキドキした。コメントもらうと何をすればいいのかわかんなくなっちゃうね。

ところであの記事はちょっと中途半端でもある。なぜなら、ホントはもっと長いのを半分に切っちゃったのだ。文字数を気にせずだらだら書いてたら長ーくなっちゃってね。

そこで今日はここで、続きを掲載しようと思う。だから読んでない人はこのリンクからハフポストの記事を先に読んでもらった方がいいかも。(もう消費者なんていない時代に、広告は広告でいいのだろうか。)

ソーシャルメディアが、21世紀に入ってからまるでタイミングを見計らうように登場したことは、考えると不思議で仕方ない。だが我々が消費に冷めきってしまい、消費に対応してきた広告が立ちすくんでいる時にソーシャルメディアはやって来た。なんとよくできたストーリーだろうと思う。

ネット上のメディアは、これまでのマスメディアとは敵対してきたように見える。とくに新聞雑誌などの紙メディアはネット上のメディアに明らかに力をそがれてきた。だがソーシャルメディアはかなり意味合いが違う。ソーシャルメディアの登場によって初めて、マスとネットは融合できる可能性が見えてきたのではないだろうか。

そのソーシャルメディアも、これまでは既存の広告とは壁があったようだ。何しろ出自が違う。プレイヤーが違う。何より企業の部署がそれぞれ違う。ついでに広告代理店でも部署が違ったり、そもそも担当できる人材がいなかったりした。

そんな段階もどうやら終わりで、次のステップに向かいそうだ。前回の原稿で、メディア界が新しい姿に向かって再構成しはじめたと書いたのも、そのことを言っていたのだ。これから、既存メディアとソーシャルメディアの融合、連携、同一化がぐいぐい進んでいくと思う。テレビが、ラジオが、新聞雑誌が、そしてWEBサイトでさえ、ソーシャル化していくだろう。ソーシャルに取って代わられるのではない。そうではなく、ソーシャルに包まれるのだ。ソーシャル的な要素がしみ込んでいくのだ。そして何やら全体的にひとつに溶け合ってむにゃむにゃした存在になる。これまでのメディアは輪郭のはっきりした、各ジャンルの壁を越えられないものだったのが、ずるずると境界を越えてメディアの分類を曖昧にし、ゲル状のアメーバみたいなものになる。

なんとなく思いつきで図にしてみたが観念的すぎてかえってわかりにくいかもしれない、ごめんね。

こういう方向に再構成されるとしたら、モノを買うことにめちゃめちゃ慎重になっている人びとに何をどうすればいいのだろう。このむにゃむにゃしたゲル状の中に、人びとを引きずり込んでいくのだ。アメーバのモンスターのように粘液でつかんで離さない、なんてことではなく、いつの間にかむにゃむにゃの中で過ごしてた、的な状況を作り出すのだ。このむにゃむにゃは、コミュニティと言い換えられるのだろう。

これまでの広告は、日々の暮らしの中に突然乱入してきて「これいいっす!すげえいいっす!」と叫び続けるのが基本姿勢だった。でも消費に冷めた人びとには、そんなことだけでは効かない。代わりに、楽しそうなコミュニティをむにゃむにゃと作り上げるのだ。そしてその楽しさをなんとか感じてもらえるような接触を試みる。楽しそうだなあ、ぼくも輪の中に入ってみようかなあ、どうしようかなあ。そんな気持ちになってもらう。

輪の中に入ってもらって、他の人びととも交流してもらって、ついでに商品も買ってもらって。そんなことが広告の役割になっていくだろう。そしてそうなると、それは広告なのか何なのかわからなくなる。少なくとも、これまでで言う広告(=マスメディアの力で認知を広げること)は、重要だが一部の役割になっていく。広告を含んだ、全体的なコミュニケーションとしか言えないようなむにゃむにゃしたものが、今後のマーケティングに必要になるのだ。

広告はそのむにゃむにゃの中で、人びとを振り向かせ、ソーシャルメディアに誘導し、コミュニティに加わってもらう入口の役割を担うのだろう。

こうなるとコミュニティをどうつくるか、どう運営するかが大事だし、その前提でマスメディア上での表現を考えた方がいいのだろう。

というか、こうなると広告は広告と呼ぶべきなのだろうか。マーケティング活動の中でのメディア上での一連の作業を広告と呼んできたが、モノを売るためのコミュニケーションを広告だとするとそれはもう広告ではない。広く伝えることは一部でしかないからだ。

ぼくたちは新しい言葉を持たねばならないのだろう。消費者ではなく、生きるためにモノを買う人びとを何と呼ぶのだろう。広告ではなく、モノを買ってもらうに至るコミュニケーション活動全体を、どう表現すればいいのだろう。みんながすんなり受けとめられる言葉が見つかる時、メディアの世界は新しい地平を見いだす。そんな作業がいまはじまっているのだと思う。

かく言うぼくも、そんな作業の担い手となっていきたい。ご興味ある方は、ご遠慮なくメールしてください。

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