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コピーライター→映像製作会社ロボット→広告代理店ビデオプロモーション→再びコピーライター(フリーランス)。 メディアとコンテンツの未来を切り拓くコミュニケーションをデザインします。講演・執筆依頼もお気軽に!

ネット動画はテレビと組んで加速する〜「進撃の巨人×スバル」と「おにくだいすき!ゼウシくん」

bigpitcth_04先週、スマホ専用放送局NOTTVのエンダンという番組に呼んでもらって、メディアの未来についてのディスカッションに参加した。エンダンは元NHKの堀潤氏エレキコミック・やついちろう氏が司会する月〜金23時15分からの、NOTTVの看板番組。

「たまたま」でおなじみの読売テレビ演出家・西田二郎氏と、映画コメンテーター・有村昆氏も出演して、映画だテレビだ広告だとわいわいみんなで話をした。

途中でNEC志村典孝氏が<感°レポート>によるTwitter分析データをひっさげて登場。番組のために調べたデータを見せてくれた。

この<感°レポート>はぼくも使っていて、これまでにも「2013夏ドラマTwitter分析(2)半沢直樹のヒットはつぶやきから読み取れた?」のような記事でドラマのTwitter分析に大いに活用している。志村氏は番組のために、2つの題材を分析したデータを持ってきてくれた。これが面白いので番組収録後にもらったデータをここで皆さんにお見せしよう。

まずは「進撃の巨人×スバルフォレスター」。これは、説明するまでもないだろう。漫画が大ヒットしてアニメ化もされた「進撃の巨人」の実写映画の制作が進んでいる。その実写映像とスバルフォレスターがコラボしたCMが1月24日の日本テレビ「金曜ロードショー」のCM枠で放送されたのだ。

見そこねたという人は、YouTubeにアップされているCM映像を観てくださいな。すごいから!

この時、ネット上でも大きな話題になり、Twitterでも巨人の話題が飛び交った。このCMに関するツイート数はなんと35万件を超えている。

35万件のすごさを知ってもらうために、テレビがTwitterで話題になった他の事例と比べてみよう。
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なんだ、他の事例より少ないじゃないか、とパッと見ると思ってしまうだろう。だがよく考えて欲しい。他の事例は「番組」だ。「サザエさん」の永井一郎さんの最後の出演回30分の番組を見ることで、38万件のツイート数になった。非常に多いが、「進撃の巨人コラボCM」は30秒の映像がたった一回流れただけだ。それで35万件なのだから、短い映像がいかに爆発的な影響力を発揮したかがわかるだろう。

志村氏が「感°レポート」を駆使して収集したツイート例がこれだ。
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ひとつひとつ、面白いツイートだ。いかにみんなが衝撃を受けたがよくわかると思う。それにそれぞれ、その衝撃を楽しんでいる。それがまた衝撃が伝播していくエネルギーとなったのだろう。

もうひとつ、似た事例を紹介しよう。「おにくだいすき!ゼウシくん」こちらもまずは、YouTube上の映像を観てください。

これは第一話。今週の時点で第七話までアップされている。このなんともいえない、あちこちツッコミを入れたくなるアニメ。一度聞くと耳を離れない不思議な唄。計算され尽くされたこのアニメは、わかる人は「はは〜ん」と思っただろう。そう、「鷹の爪団」のアニメ制作会社DLEの作品だ。

「ゼウシくん」は全農の国産肉推進のプロモーション用のキャラクター。特設サイトを見れば、その設定などもわかるが、まあ正直そこはわからなくてもアニメは楽しめる。そしてこのゼウシくんのアニメは独特の配信をしている。

毎週月曜日のフジテレビ20時からの「ジェネレーション天国」のCM枠だけで放送しているのだ。長さは90秒。CMの長さは普通15秒か30秒なので、CMとしては長いものだ。

この1月から放送を開始し、毎週第1話、第2話と1話ずつ流している。基本的に各話1回しか放送しない。ただ、放送後はすぐにYouTubeで配信される。毎回、前半はテーマソングで同じ。後半のお話が毎回展開される。

つまり、「おにくだいすき!ゼウシくん」はCM枠で流す短いアニメ番組、なのだ。番組なのだけど、広告的な役割を担っている。

このゼウシくんは、1月の放送開始以来ネット上で話題になりTwitterでもにぎわっている。そのツイート数の推移がこれだ。
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第一回でロケットスタートを果たし、その後もアニメの面白さとCD発売などの話題づくりでにぎわいを継続している。Twitterで「ゼウシくん」と検索すれば放送日じゃなくてもツイートがずらずらずらーっと流れてくる。もはやネットの話題の定番のひとつになっている。

志村氏が集めてくれたツイート例が、さっきの進撃の巨人コラボに負けず劣らず面白い。
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驚きが感動になりやがて生活の一部になる様子が伝わってくると思う。

さてこの2つの事例は、いろいろ興味深い。共通しているのは、テレビでの放送は一回こっきりで、話題を振りまいてあとはネット動画として見せている、という点だ。

この手法は、いくつかの効用がある。

まず、コストパフォーマンスが高い。テレビCMの効果を普通に出そうとすると、スポットCMをある程度の量で流す必要がある。一回流せばいいというものでは普通はないのだ。一回流すのに数百万円かかるものを、認知させられるだけ流すには何十回も流すことになるので数億円かかってしまう。これが一回だけだと数百万円で済むことになる。これはあくまで理屈上の話で、提供枠を持っているからできることだが。

2つ目の効用は、若い層にリーチできること。テレビをあまり見なくなった若者層が、テレビCMをテレビで見なかったとしても、ネットで話題になってるからと見てくれる。もちろんテレビでの放送がなくても接触はできるわけだが、最初にテレビで流すからこそ、さっき見たような爆発的な話題力になる。

テレビで最初に流すから、ネット動画を見る。この手法は今後、かなり有効になるだろう。

ただし、あくまでネットの話題に敏感でネット動画を見る人たちを相手にしての話だ。そしてその対象は狭いといえば狭い。

ほんとうに日本全国津々浦々の老若男女に認知して欲しいなら、やはり数億円かけてテレビCMを流すしかない。

でもこれからみんながスマホを持ち、30代40代の大人もテレビを見ながらスマホをいじる傾向が高まれば高まるほど、この手法の有効性は高くなることになる。

テレビとネットで動画をどう使うか。ネット動画が効力を高めるほど、テレビをうまく使うことを考えねばならなくなりそうだ。

コミュニケーションディレクター/メディアコンサルタント
境 治
What can I do for you?
sakaiosamu62@gmail.com
@sakaiosamu

東京はまず、暮らしにくさで世界一だ。

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※上の画像にはStippleという仕組みを使っていくつかリンクを埋め込んであります。試しにクリックしてみてください

舛添要一氏が東京都知事に当選して二週間経った。彼のスローガンは「東京世界一」というワードで、これを見た時ぼくは正直、げんなりした。とくに2020年の東京オリンピック開催を絡めたメッセージであることが、「あの素晴らしい高度成長よもう一度」と言ってるようで前時代的に思えた。

ぼくのFacebookのウォールでは彼の当選を知って「信じられない」とショックを受ける人が多かった。彼に関しては昔の発言をあげつらう記事が飛び交い、こんな人に投票するなんてありえない、というムードだった。でもそんな記事が届かなかった人の方が現実には圧倒的に多かったのだろう。SNSのコミュニケーションがいかに局所的なものかを思い知らされた。

ぼくは他に当選して欲しい候補もいなかったので、自民公明が推すならいたしかたないかなと舛添氏の当選を受け止めた。ただ、「東京世界一」にまとわりつくアナクロな空気がイヤだった。

当選後の舛添氏の言動は、当初感じていたアナクロさが少し後退した気がする。「世界一」の意味合いがかなり変わったのではないか。もともと介護の経験もあって、福祉についても意思を示していたが、当選後ははっきり「世界一の先進福祉都市・東京」と打ち出している。成長性で世界一をめざすよりずっといいとぼくは思う。

一カ月前に「赤ちゃんにきびしい国で、赤ちゃんが増えるはずがない」と題した記事を書いた時、いいね!もたくさんついたが反論も数多くあった。中でも「満員電車にベビーカーのお母さんが乗ってきたら5人降りてスペースをあければいい。それで会社に遅刻したっていいじゃないか」と書いた部分に関しては「何言ってんだおめえ」的な反応が多かった。

勢いで書いてしまったが、我ながらこの部分は現実離れしていたかなといまは思う。と言うかそもそも、ほんとうのラッシュアワーでは、ベビーカーを押しているとホームにたどり着くことさえ無理だろう。

「赤ちゃんにきびしい国」への反応を読んでいくと、東京の特異性も大きいようだと感じた。例えば福岡に住む知人は「こちらでは幸せなことに電車でも皆さん手を貸してくれます」と言っていた。「赤ちゃんにきびしい国」と書いたが、「赤ちゃんにきびしい首都」と書くべきだったかもしれない。

そしてそれは、東京の人が赤ちゃんにきびしいのではなく、赤ちゃんにきびしくしてしまうほど東京が暮らしにくい、ということではないだろうか。

また別の人が言っていたのだが、東京では赤ちゃんに対してだけでなく、そもそも他人に話しかけることがない。例えばNYでは街を歩くだけで、見ず知らずの人からよく声をかけられるのだそうだ。

東京は暮らしにくい。タイトルで世界一暮らしにくいと強引に書いてしまったが、少なくとも暮らす人のゆとりのなさでは世界一ではないだろうか。ゆとりがないから、赤ちゃんだけでなく他人と関わる気になれない。

まず人が多い。多すぎる。ラッシュアワーの電車の混み方は異常だ。毎朝死人が出ないのが不思議でさえある。昔の映画を観ると、この混み方は60年代あたりからずっとそうなのだ。改善するどころか悪化している。

50年間悪化してきた問題を、東京は解決しようともしてこなかった。舛添知事が頑張ろうとしている待機児童の問題も、二十年以上前から言われてきた問題だ。

問題が悪化しているのに解決できていない。それは、できなかったのではなく、要するに解決しようとしてこなかったのだと思う。

東京は進化はしている。町の様相はこの十年だけでもずいぶん変わった。鉄道も増えた。食事はうまくなった。新しくきらびやかなビルはどんどん建つし、その中には素敵なお店ができている。

先へ先へ行こうとはするのだけど、足下の暮らしを見直そうとはしない。そこが東京の不思議さだ。鉄道網は複雑にどんどん絡み合っていき、とんでもなく遠い町同士がつながったりするのに、乗り換えが異様に大変になったりもする。混雑を解消させることは計画に入っていないかのようだ。緻密なダイヤは計算しても、乗客の気分は計算しないのだろう。

東京は明らかに、人びとの中のある部分を犠牲にして「進歩」にむかってまっしぐらに突き進んできた。もうそろそろ、その発想を考え直した方がいいのだと思う。無理やり日本の成長性を東京が背負い、その分足下の暮らしをおろそかにして、ぎゅうぎゅう詰めの満員電車に押し込めあって会社に行って”ワークライフバランス”のライフは諦めてワーク一点張りになって、いったい何が得られたのか。

東京は、最先端のコスモポリタンという幻想に浸れる町だったが、そんな幻想にはさしたる価値がないことにみんな気づきはじめている。「東京世界一」の世界一の中身は、もうきらびやかさや最新設備でなくていい、それより世界一落ち着いてゆったり暮らせる町になって欲しい。

舛添知事が待機児童を減らすことを宣言しているのは大変素晴らしいと思う。それに付け加えるならば、制度を整える際に「子育てをしやすい空気をつくる」ことを強く意識することだと思う。

世の中はなかなか変わらないようではっきり方向づけをすれば意外に数年で変わるとぼくは思う。例えば喫煙。5年ほど前までは、タバコはもっとあちこちで吸えた。それがいまは吸う場所が少ないし、公衆の場所では相当気を遣って喫煙しないといけなくなった。そしてそういう風潮に嫌気がさして、喫煙をやめる人もいる。ぼくもそのひとりだ。誰がたくらんだか知らないが、明らかに世の中は「喫煙を減らす」方向に導かれたのだ。

だったら育児しやすい空気もつくれるかもしれないし、ワークライフバランスの問題も解決できる可能性はある。退社時間を過ぎても会社にいることに、罪悪感を持ってしまう。そんな状況だって促し方次第でつくれるかもしれない。その分、ぼくたちは「高い成長」とか「たえなき進歩」とかを諦めることになる。でもそれでもいいのかもしれない。進歩しかめざさなかった東京が陰鬱にしか見えないとしたら、進歩なんかいらない。

指定場所以外での喫煙を禁じる条例ができたように、月水金は残業を禁じる条例を作ったっていいと思う。破ったら大きな罰金を科す。在宅勤務は積極的に推進する。そのための奨励金を出す。育児休暇を男女ともにとらせない会社は社名を公開されて厳重注意を受ける。その代わり、育児休暇中の穴を埋める人材の雇用には補助金を出す。ちょっと強引すぎるような制度をつくる。それくらいしないと変わらない。それくらいすれば変わる。残業してるの?だっさいなあ!そんな空気をつくる。

舛添知事は”福祉”を掲げるが、この言葉にはどこか高齢者が中心にあるように思える。もちろん高齢者の福祉は重要だが、それだけでなくごくごく普通に生きる市民の誰もが暮らしやすい東京、「暮らしやすさ世界一」をぜひ考えて欲しいなあと思う。過去の発言はこの際置いといて、これからに期待したい。

アートディレクター上田豪氏と続けているビジュアルとコピーから入るシリーズ。今回は画像にStippleという新しい仕組みを使っている。普通のJPEGなどのデータではなく、Stippleのサーバーにある画像を読み込む仕組み。その中にリンクなどのデータを埋め込むことができる。画像が画像以上の情報を持つことになるのだ。何ができるか、これから実験してくつもり。

コミュニケーションディレクター/メディアコンサルタント
境 治
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【赤ちゃんにやさしい国へ】みんな自分の子供みたいに思える場所〜自主保育・野毛風の子〜

1月23日の「赤ちゃんにきびしい国で、赤ちゃんが増えるはずがない。」の記事にはたくさんの反響があった。メールも数多く届いた中に、昔一緒に仕事しました、という女性からのものがあった。名前を見て、もう十数年前にCM制作の現場で走り回っていた彼女の姿を思い出した。いまは会社を辞めて子育てをしているという。

<自主保育・野毛風の子>に参加している、とあった。

自主保育?聞いたことなかったなあ。幼稚園や保育所とは違い、お母さんたちで集まって自分たちで運営しているらしい。

先週書いた<赤ちゃん先生プロジェクト>の記事に続いて、乗り掛かった船にもう一度乗って取材してみようと思った。もう、とことん行くしかないかなー。

というわけで2月のある日、多摩川土手に向かった。駅から歩いて15分くらい。たどり着いたら10時頃だっただろうか。

土手の上から見下ろすと、お母さんが二人、子供たちは6〜7人はいたと思う。それが<自主保育・野毛風の子>の保育現場だった。建物も施設も何もない。土手。それだけだ。

お母さん二人はそれぞれ、自分の子供、まだ小さな、1、2才程度の子供をそれぞれ連れている。小さいのでお母さんの側を離れない。他の子はもっと大きくて、4才〜6才くらいだろう。彼らはそれぞれ、ちょっと遠くで好き勝手に遊んでいる。

二人の男の子は水の流れの中にコンクリートの石が並べてあるところで、足を濡らしたりしながら遊んでいる。二人のお母さんは、見守っている。時折、「ちょっと危なくない?」てな局面もあるのだけど、ただ見守っている。

ちょっとハラハラした。普通のお母さんなら「ほらほら、危ないわよ。水辺で遊んじゃダメよ」と言いそうなところだ。いやぼく自身が言いたくなった。でもそんなこと言わない。

そういう方針なのだ。

そのうち、一組、さらに一組と、お母さんと子供たちが集まってきた。最終的にはお母さん7、8人、子供たち十数名になった。集まったからと言って「ピピーッ!」と笛が吹かれたりもしない。相変わらず子供たちは勝手にやっている。お母さんたちも何か決まったことをやるわけではない。

全体に、無雑作だ。ほったらかしだ。決まりなしだ。

ただ、なんだかみんな、楽しそうだ。

決まりめいたものとしては、小さい子は、その子のお母さんが同行して相手をする。幼稚園に入る年になると、「あずけあい」ができる。自分の子を「風の子」にあずけていい。あずかった子は、当番のお母さんが見守る。でもずっとすぐそばにいるわけではない。見守る。

あるお母さんは言う。やはり最初は「見守る」ことに戸惑った。でもガマンした。危ないからやめなさい、と言うのをこらえた。だんだん、わかってきた。

ここんとこ、たき火をやってなかったね、今日はやろうよ、となった。河原の石を集めて急造のかまどができて、倉庫から持ってきた木を使ってたき火がはじまった。

男の子はとくに火を面白がる。これも、火に近寄っちゃダメ!とは言わない。いやぼくはホントに言いそうになったのだけど。でも黙って見ていると子供たちはちゃんと火傷をしないように火に接している。そういうものなのだろう。
kazenokoたき火をしているのも含めて、写真に撮ったのがこれだ。およそ”保育”という言葉とは程遠いかもしれない。ほんとうに無造作だ。

この<自主保育・野毛風の子>は二十年以上前から続いているのだという。二十年?この河原はぼくの自宅からもそう遠くはない場所なのだけど、十数年前にぼくの子供たちが幼児だった頃、まったく知らなかった。

二十年前にはじめた方がこの近くにお住まいだという。その方は指導に来ないの?と聞くと、その時その時のお母さんたちが自分たちなりにやればいい、という方針だという。だから直接関与することはない。過去に参加していたOGたちも、手伝ってくれることはあるが、どうしろとかこうじゃなきゃダメとか、そんなことは言ってこない。先輩お母さんたちも、いまのお母さんたちを見守っている。

自主保育は、そもそも原宿ではじまった活動だそうだ。<自主保育・原宿おひさまの会>がそれで、こちらもいまも続いている。30年以上前にけっこう話題になったそうで、遠くからの参加者も多かった。近い場所でやりましょう、と、<自主保育・駒沢おひさま会>ができ、そこからさらに分かれたのがこの<野毛風の子>なのだそうだ。そういう、”分家”が首都圏のあちこちにあるようだ。

ルールや運営方法は会によってそれぞれで、きちんと会則が文書になっているところもある。でも<野毛風の子>は”細かいこと抜きで”、という方針。

この勝手にやりなさい、の感覚は、前に書いた<赤ちゃん先生プロジェクト>も似ていると思った。あちらは恵さんという創始者がいるにはいるけど、勝手にやって欲しい、とおっしゃっていた。任せるのであなたたちなりのやり方でおやりなさい。恵さんも、風の子の先輩たちも同じような姿勢だ。

それにしても、この自主保育は、幼稚園や保育所と何が違うのだろう。あるいは公園デビューの公園コミュニティとどこが違うのだろう。

信頼関係。なのだそうだ。

あるお母さんは「みんな自分の子供みたいに思えてくる」と言っていた。公園コミュニティでは、それぞれの子供をそれぞれのお母さんが連れてきて、それぞれ遊ばせている。だからよその子とトラブルにならないようにする。「それは○○○ちゃんのオモチャじゃないでしょ、返しなさい」よその子と関わらないように迷惑をかけないように気をつかう。結局、見てるのは自分の子だけ。しかも見守るなんてことじゃない。

公園では、迷惑をかけてはいけない。

風の子は、みんな自分の子供のようにとらえる。あずけあう、というのはそういうことだ。信頼しあっているから、あずけるし、あずかるのだ。

そのためには、言いたいことを言いあうことがとても大事。だから、ミーティングは時間をかけて行うそうだ。毎日、夕方になると一時間程度、その日にあったことを、あずかった側があずけた側に伝える。月に一回、定例ミーティングがあり、意見を言いあう。遠慮せずに思ったことをぶつけ合う。それによって、信頼関係が生まれるのだという。

言いたいことを言いあう。みんなが自分の子供に思える。

それはひょっとしたら、お母さんたちが疑似的な血縁者になる、ということかもしれないと思った。自主保育のお母さん同士は、姉妹のようになるのだ。

思い出したのだが、ぼくが子供の頃は親戚でしょっちゅう集まっていた。集まるのは父方より母方の親戚の方が圧倒的に頻度が高かった。母は三姉妹の長女だった。従兄弟同士はぼくの姉以外、男だらけで年も近く、それこそ勝手に遊び回っていた。母と伯母たちはおしゃべりしていた。悩み相談もあっただろう。きっと心強かったんじゃないだろうか。

姉妹と同じとまで言えるかわからないが、それに近い親密な関係が、できあがっているのだと思う。それが、都市の中で核家族としている孤独を解消してくれる。会社員として立派にキャリアを積んできて、出産によって突然まったく別世界にワープしたような孤独な状態だったのが、新しく生き生きした人間関係に接続できる。子供たちもその人間関係に溶け込んで成長する。そんなシステムがここにはでき上がっているのだ。

この自主保育、赤ちゃん先生プロジェクトと似ていることも含めて、もう少し追っていこうと思う。・・・ていうか、そうやってぼくは何を見極めようとしているのだろう・・・?クリエイティブビジネス論なんですけど、このブログ・・・。

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境 治
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テレビ情報を再構築すると、新ビジネスが見えてくる?

2012年4月から、”ソーシャルテレビ推進会議”という勉強会を運営している。テレビとソーシャルメディアの連携がメインだが、大きくとらえるとテレビとネットの融合の先にある可能性を考えていく集まりだ。テレビ局やIT企業、メーカーやスポンサー企業などから興味を持ってくれた皆さんに参加してもらっている。私的な勉強会なので会社を代表して参加するわけではない。その分、ざっくばらんな話ができるのが、運営する側としても面白い。

毎月定例会をやる中で、参加者にいろいろと発表してもらっている。先日開催された2月の定例会では番組情報を扱う2社の方に発表してもらった。

IPGという会社は業界の人でもあまり知らないかもしれない。正式名称は株式会社インタラクティブ・プログラム・ガイド、なのだけど略称としてIPGと呼ばれることが多い。何の会社かというと、EPGを扱う会社だ。

EPGとは、これ。ようするに番組表のこと。
epg
今日はどんな番組あるのかな?いまどの番組が面白いのかな?と思ったら一昔前まではみんな新聞のテレビ欄を見ていただろう。テレビ好きな人は専門の情報紙を買っていた。この番組情報を電子化したものがEPG(Electronic Program Guide)と呼ばれる。

IPGではこれをGガイドというサービス名で、メーカー受信機やYahoo!、携帯キャリアなどに提供している。。写真のようにテレビやレコーダーなどがわかりやすい例だ。でもそれだけでなく、デジタルデバイス上で出てくるテレビ番組情報はIPGが提供していることも多いようだ。何と言ってもスマートフォン上ではアプリとして提供されている。androidではプリインストールされていることが多いそうだ。だから普及率はかなり高い。

このGガイドはこれからどんどん進化していくそうだ。まず画像付きが標準になっていく。これは大きいと思う。どんな番組なのかは文字情報だけではなかなか伝わらない。画像がつくことで番組内容が直感的にイメージできる。逆に言うと、イメージしやすい画像をテレビ局側がうまく選ぶ必要があることになるが。

さらに、番組個別のハッシュタグやソーシャルアカウントへの入口になっていく。いまは番組についてつぶやく時、なんというハッシュタグにすればいいか明解ではない。視聴者の側で自然に集約されたものになっていくことが多い。今後は番組側で「このハッシュタグでつぶやいてね」と”公式ハッシュタグ”を設定するケースが増えてくるだろう。それをGガイドで明確に伝えるようになるとわかりやすい。

人びとの番組選択の中でEPGが果たす役割は今後、大きくなっていくだろう。すでに10代20代の若い世代では、新聞のテレビ欄よりEPGを見て番組を選ぶ傾向になっている。そこでどんな画像、どんな紹介文を置くかで、視聴に結びつく度合いが高まるはずだ。EPGは今後ますます重視すべき要素になるだろう。

一方、番組情報で注目されているのがエムデータ社だ。一カ月ほど前、2014年の1月にこんなリリースが発表されニュースになった。

TVメタデータのエム・データ、第三者割当増資で民放キー5局と広告会社2社と資本提携

リンクされている記事を読めばわかるが、エムデータ社にテレビ局と大手代理店が出資したというニュース。これはどういうことだろう。

エムデータ社は「TVメタデータ」を扱う会社だ。TVメタデータとは、テレビ番組の内容をテキスト化したもの。同社は水戸にある拠点で常時数十名のスタッフがテレビの前に張り付き、いま放送されている番組の情報を次々にテキストとして打ち込んでいるのだ。番組の出演者、しゃべった内容、とりあげた題材、とにかくあらゆる情報を文字にしている。

そんなことをして何になるのか?おそらくあなたの身近でも使われている。例えば最新のレコーダーには、録画した番組を観る時に”目次”機能があったりする。ニュース番組の各コーナーでとりあげた題材を文字で表示してくれるのだ。それを”拾い視聴”すれば、ニュースの中で自分に興味のあるものだけを観ることができる。
mdata
あるいは、どんな話題がどれだけ各テレビ番組でとりあげられたかもわかる。選挙の際にどの候補が合計何分語られたか、新発売の商品がどの番組で紹介されたか、どのタレントがどれだけ番組に露出しているか、などなどなど。TVメタデータの活用例は多様に考えられる。さらに、twitterなど他のデータも合わせて分析することで、いわゆるビッグデータ分析の重要な要素として扱うことも可能だ。

同社ではすでに、TVメタデータをソーシャルメディア上のデータなどと組み合わせて分析することで、AKB総選挙の結果や、国会議員選挙の結果予測も試みて、かなりの精度で的中させている。政治からマーケティングまで多様な領域でTVメタデータは生かせそうだ。

同社に民放各局と大手代理店が出資したことは、このメタデータを業界が公式に使って何らかのビジネスを検討していくということだろう。

さてここで紹介した2つの会社は両方とも”テレビ番組に関する情報”を扱っている。IPGでは広報的な意味で出された、番組の”事前情報”。”前メタ”とか”先メタ”などと呼ばれる。エムデータが扱っているのは放送された番組の情報。”後メタ”と呼ばれる。

こうした”メタ”をどう使うかは、いま書いたことだけではなくもっともっと広がりを持ちそうだ。そしてそれを探究することこそ、メディア界の新しいビジネスの開拓につながるかもしれない。

それにしても面白いと思うのは、”テキスト”が重要になってきていることだ。そしてエムデータはそれを人力で生成している。コミュニケーションの最小要素は結局コトバであり、それを抽出するのも人間だ。メディア界の最新ビジネスはそんな素朴なところから生まれるのだととらえると、不思議な気がしないだろうか。デジタルはツールであり、扱われる要素は結局はアナログなのだ。コミュニケーションとはそもそも、体温から離れようのない領域なのかもしれない。

さてこのソーシャルテレビ推進会議は、引き続き運営していくつもりだ。テレビとネットの重なる領域に興味のある方は、連絡をくれれば参加してもらえますよ。

コミュニケーションディレクター/メディアコンサルタント
境 治
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【赤ちゃんにやさしい国へ】お母さんはメディアになり、赤ちゃんは先生になる〜赤ちゃん先生プロジェクト〜

このブログはメディアやコンテンツの未来を考えるのが主旨。その一環として社会的なメッセージをビジュアル付きで記事にする試みをやってきた。1月23日にそのひとつとして書いた「赤ちゃんにきびしい国で、赤ちゃんが増えるはずがない」と題した記事がすごい勢いでシェアされて転載先のハフィントンポストでいいね!数が15万を超えて面食らった

いろんな反応はメールでも届いた。自分も子育てで冷たい視線を浴びてつらかった、という賛同共感のメールがほとんどで、辛辣な批判をこってり書き連ねたものもいくつかあった。

そんな中に、子育て関係のNPO活動を紹介するメールもあった。福岡の女性からで、その方も参加しているとのこと。本部は神戸だが、いまや全国に広がっているという。そのNPOの活動は、ぼくが記事で問いかけたこととすごく近いのだそうだ。

正直言って、最初は「えー?NPOって言われてもなあ」と戸惑った。ただでさえたくさんメールが来た中でNPOの活動を知ってもどうしたものか。子育ての専門家でもないし、ふと考えたことのひとつとして赤ちゃん論争を題材にしただけなわけで。これ以上このテーマを追うつもりはなかったし。

ただ、ママさんたちのけっこう深刻なメールや、Twitterでも寄せられる感激メッセージを見ていると、なんだか責任めいた気持ちが湧いてきた。「何十年も前から少子化が問題視されていたのに何をやっていたのか、ぼくたちは。」そんなことまで書いておいて、「何をやるべきか」を考えないわけにはいかない気がしてきたのだ。

福岡の女性からのメールに書かれていたURLを見ると「赤ちゃん先生プロジェクト」とある。見ていくうちに、なんだか面白そうなにおいを感じた。各地で講習などが行われるのだが、東京でも近々あるのがわかった。うん、ちょっと、見学してみようかな。

メールの女性にお願いしたら、理事長の方に話を通してくれた。ご本人とも連絡がとれて、先週、2月7日に「赤ちゃん先生プロジェクト」の活動を取材というかなんというか、見に行ったのだった。

銀座にある企業の会議室を借りて講習が行われているという。ビルに着いて連絡したら、赤ちゃんを抱っこした女性が現れた。理事長の恵夕喜子さんだった。

NPOの理事長の女性、ということで勝手にイメージしていたいかにも”社会活動家”な気負った感じはまったくない。ニコニコ笑うほがらかな理事長、恵さんに講習の場に案内してもらった。トレーナー役の女性と、そのサポート役らしい女性、そして講習を聞くママさんたち。それぞれ赤ちゃんを抱っこしている。ぼくが来る前に例のブログを皆さんで読んでくれていたそうだ。いやー、光栄です。

理事長の恵さん(右)と理事の西村実花さん。西村さんの本業はアナウンサー。写真が下手ですみません(^_^;)
理事長の恵さん(右)と理事の西村実花さん。西村さんの本業はアナウンサー。写真が下手ですみません(^_^;)

講習はそれなりの緊張感がありつつ、途中で赤ちゃんがぐずって泣いたり、なんというかママさんたちが普段着で参加している様子だった。

講習の場からロビーに移り、恵さんのお話をうかがった。

神戸でコンサルタントの仕事をしながら、NPOでの活動を始めた恵さん。赤ちゃんを生んだばかりのママさんたちが社会との接点を得るにはどうしたら、という思いがはじまりだったそうだ。

女性は就職して生き生き働いていても、子供ができると突然社会との接点を失う。そして孤独になる。自信をなくしたりもする。そんなママさんたちはどうすればいいのか。

そんな思いから「赤ちゃん先生プロジェクト」が生まれた。大きく3つのプログラムがある。

1つめは小中学生向け。ママさんたちが赤ちゃんを連れて学校を訪問。子供たちに赤ちゃんとふれあってもらう。赤ちゃんが先生で、ママたちは講師、という位置づけだ。

小学生が赤ちゃんにふれると、いろいろなことを学ぶという。ママのおなかの中にいた時のエコー写真を見せたり、赤ちゃんと自分を比べたりすることで、小さな命のいたいけさ、大切さを感じ取っていく。

2つめは大学生向けのプログラム。学生たちに、赤ちゃんをベビーカーに乗せて外に連れて行ってもらう。階段などでママさんたちがどれだけ大変な思いをしているか、身体で理解する。赤ちゃんを抱っこすることでかわいらしさを体感する。ママさんたちからキャリアと子育ての両立の難しさを聞かされることで、男女ともに学生たちが自分の将来を考える。

3つめは高齢者の施設の訪問だ。お年寄りが赤ちゃんと接することで、生き生きしてくる。心も身体も活性されて、見る見る元気になっていく。また、ママさんたちに人生の先輩としてのアドバイスもしてくれる。

この3つのプログラムは、少し前までは地縁血縁のコミュニティの中で自然に行われていたことだ。そして、コミュニティにとって赤ちゃんがどれだけ潤滑油となっていたか、その証しでもあるだろう。赤ちゃん先生プロジェクトは、都市化、核家族化で失われたつながりを補うものだと言える。

この活動で重要なのは、これらのプログラムが”ビジネス”になっていることだ。ビジネスと言っても全体としても大きな金額ではなく、講師として参加したママさんたちが受け取るのは数千円といったところらしい。でも子供たちやお年寄りに役に立つ活動に参加し、「報酬を受け取る」ことに意義がある。自分が社会の一部であることを実感できるのだ。赤ちゃんができて急にキャリアから離れ、へたをすると孤立しかねないママさんと社会との接点を提供している。そこがこの活動の最大のポイントだ。

ビジネス運営を支えるのが、スポンサー。積極的にスポンサーを募る。営業活動もする。そのセールスの大きな武器になるのが、ママたちのネットワークだ。ベビー用品などママたちがターゲットとなる商品の場合、ママさんがそのよさを理解すれば強力な口コミマシンになる。イベント会場などでママさんがプロモーターとなって同じ赤ちゃんを連れたママさんに話しかける。会話も弾んで口コミがどんどん広がるのだ。

ママたちは一種のメディアだ。いま急速に主婦層でのスマートフォン普及が拡大している。彼女たちの口コミネットワークがいままでにもましてパワフルになっているのだ。このネットワークの利用料を、スポンサーが支払う、ということかもしれない。このSNSは、絶大な力を持つソーシャルメディアマーケティング装置なのだ。

「赤ちゃんにきびしい国で」の記事が15万いいね!になった理由がわかった気がした。ママたちのネットワークは強力な伝搬力を持っているのだ。企業で働く人びとが形成する、仕事を軸にしたネットワークは、業界の壁を簡単には越えないだろう。でもママたちはママ同士のネットワークを日本中の広がりで持っていて、伝わりはじめるとすごいスピードで伝わる。ここには何かのヒントがあるのではないかな。

もうひとつ、この活動がユニークで興味深いのは、その”ゆるさ”だ。恵さんには気負いがない。お話をうかがっていても、自分がリーダーである活動について語っている感じがしない。どこかの誰かがやっててその人たちがうまくやっている活動、といった感じ。変な言い方だが、他人事のように語るのだ。

全国に広がっているのに、人まかせなのだ。「みんなが頑張ってうまくやってくれるんですよ」そんな姿勢。

だがよくよく話を聞くと、その方がうまくいくことを恵さんはよーくわかっていて、またうまくいくための仕組みを張り巡らしている。コンサルタント時代には女性の組織をうまく運営するためのアドバイスを主にやっていたそうで、そのノウハウを駆使しているのだろう。

全国に広げる際、あらかじめママたちのネットワークを持っている人を探し出して託していったそうだ。またそういう人ほどモチベーションを持ってくれるというのもあるらしい。そういう、ハブとなる人たちを核にすることで気持ちが伝わりやすくなる。

プログラムはあらかじめ練り込まれている。それを呑み込んでくれさえすれば、大きなぶれは出てこない。だから理解してくれたなあと思ったら、あとは任せてしまうのだそうだ。

話していくと、恵さんは実に不思議なキャラクターだと感じる。一見ぽわーんとしている。ゆるさを漂わせているのだけど、でもちゃんと計算はしている。戦略は張り巡らしている。いちばん最初にはきっと、緻密に設計図を描いてそれを丁寧に形にするのだけど、動きはじめたらのんびりと見守っている。あとはみんなでうまくやってね、やりたいようにやってね。そんな姿勢の様子だ。

ママさん講師は全国に500名以上いるそうだ。そんな大きな組織を運営するなら普通は創始者がしゃかりきになって各現場を叱咤激励して動かすものだ。でも恵さんは、そういうやり方より、個々人の自発性に託した方がうまくいくと知っているのだ。だから自発性を促すような手法を編み出しているようだ。この手法は、他のことにも応用できるのではないか。

たった2時間弱の取材だったが大いに啓発された。まだ書くべきことはあるのだけど、第一回はこれくらいにしようかな。

最後にひとつ書いておきたいのは、世の中は変えられる、ということだ。例えば今回の都知事選挙にがっかりしている人も多いだろう。でも、世の中を変える手段は政治だけではないのだ。赤ちゃんプロジェクトがそうであるように、問題を解決する手法を見いだせさえすれば、仲間を集めて動けばいい。策を見つけられたら動けばいいのだ。

ところでこの記事、タイトルに【赤ちゃんにやさしい国へ】とつけている。これをサブタイトルに、「赤ちゃんにきびしい国」への答えを模索する記事を書いていこうと思う。こうなったら”乗りかかった船”に乗ってしまおう。また別の取材もやっていくつもりだ。何か面白い情報あったらコメント欄やメール、ください。・・・しかし「クリエイティブビジネス論」というブログタイトルとの整合性はどうしよう・・・。

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コミュニケーションディレクター/メディアコンサルタント
境 治
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メディアは動画に向かい、企業はメディアに向かい、つまりすべてが動画に向かう

なんだかどうやら今年は動くようだ。何しろオウンドメディアがコンテンツマーケティングでメディアではネイティブ広告になってブランディングだ。というようななんだっけそれ?なワードがどんどん出てくる。WEBマーケティングではそんな風な新しめな言葉が次々登場しては消えていった気がするけど、コンテンツマーケティングとかネイティブ広告とかは残る。残るというよりひとつの大きな流れになっていくと思う。そうするとようするにメディアバイイングが広告ビジネスだったのが、その基本概念が変わっていきそうだ。

そんなことをもやもや考えていたら、佐々木紀彦氏だ。こんな記事に登場していた。

「今、メディアビジネスこそ急成長分野だ」というなんとも頼もしい記事でインタビューされていた。

佐々木氏って誰だっけ?という人は、前に書いたこの記事を読んでみよう。

全メディア人よ、来たるべき“メディア新世界“に備えよ〜『5年後、メディアは稼げるか』を読んで(その1)
つまり“数“以外の価値をつけられるか〜『5年後、メディアは稼げるか』を読んで(その2)

東洋経済オンラインのアクセス数を急上昇させた、メディア界のニューヒーローだ。そんな佐々木氏が、先のインタビュー記事でこんなことを言っている。

今年の大きなテーマは「PV至上主義からの脱却」です。世界ではすでにこの流れが起きていて、ウェブサイトの質を図る指標は、いまやPVから滞在時間やユニークユーザー数へと変化しています。(中略)その鍵を握るのが、ネイティブ広告や動画広告です。

オウ、イエー!ザッツ・ライト!

そう、これからようやくネットメディアはPV数という指標から脱却する。つまり「ネット広告も結局はこれまでの部数や視聴率と同じかよ」とやさぐれていたのが、別の指標になっていくのではないかと。なっていくはずだと。なっていかないといかんのだと。そういう話だ。

さてここでもまた出てきたネイティブ広告については、少し前にこってり書いたので、今日は動画広告の話を書きたい。

動画広告はこれから増える。たぶんぐいぐい増えるだろう。その理由は、このところ何度も何度も書いてきたように、スマホのあっという間の普及だ。Advertimesの記事によれば、主婦層への調査で2012年はスマホ普及は23%に過ぎなかったが、2014年には84%になったという。もうキャズム越えなんていうレベルでさえなく、”みんながスマホを普通に持ってる”状況だ。

そしてみんながスマホを持つと、動画広告が連鎖反応的に増える。PC向けに置かれたバナー広告はスマホでは無意味化するからだ。バナーの置き方をムリクリ工夫するより、動画を見せる方向で考えた方がいい。スマホだと、つるっと動画を見てしまう。

これまでの”ネット動画”はYouTubeやニコニコ動画が好きな若者のメディアだった。でもこれからは、ごく普通の奥さんがスマホを何となくいじっているうちに「あら、CMはじまっちゃったわ」とついつい見るものになっていく。

そうなると、ネットメディアは動画メディアをめざすことになる。動画メディアになっていくべきだしなっていかざるをえない。広告を出したいスポンサー企業が、動画広告出したいんだけど、きみんとこ動画置けないの?ダメじゃん。となってしまうから。

新聞や雑誌が、いまはもうネット上でもメディアとして機能しているわけだが、これまでは紙をネットに置き換えればすんでいた。でもこれから彼らも動画を扱わざるを得なくなる。えー?うちで動画っすか?どうやったらいいかさっぱりわかんないっすよー。そんな悲鳴がメディア界のあちこちでいまあがっている。そして悲鳴をあげながら結局は前向きに取り組むのだろう。

企業も動画を積極的に活用するようになる。外部メディアにプロモーション目的の動画を制作して置いたりする。例えばパナソニックのこういう取組みもある。

さらに、外部メディアだけじゃなく、自社サイト、オウンドメディアも動画化しはじめる。自らもテレビ局になるのだ。よくよく探すと各企業が○○○チャンネルという動画サイトを持っている。商品説明や企業紹介を自ら制作した動画で見せている。

面白い状況になっているなあ。

こうした動画の使い方ではやはりアメリカが進んでいる。ハーレーダビッドソンのサイトではこんなムービーを置いている。画像をクリックするとそのサイトが見られる。
harley

ハーレーに乗った感覚を味わえる映像なのだが、時折映像が止まって機能紹介の文字が出てくる。さらに、ボタンを押すとその機能の詳細説明ページに飛ぶ。読み終えたらまた動画に戻れる。

つまり”動くカタログ”を具現化している。動画で情緒的な面も含めた商品のよさを体感しつつ、商品の情報をテキストでも読むことができるわけだ。

ここで言いたいのは、この動画サイトではコストをかけてクオリティの高い動画を制作して置いている、ことだ。

ネット動画ではこれまでのテレビCMよりコストが問われるのは致し方ないだろう。だがすぐに「5万円で」とか「10万円しかない」とか学生アルバイトみたいな数字になる。日々更新する動画ならそうならざるをえないだろうが、何カ月とか一年とか使う動画を安く作るのはどうなのか。

テレビCMの多くは3カ月程度のキャンペーン期間で使用が終わる。でもネット動画はそれよりずっと長い期間使われたりする。また商品にそれなりの興味を持って熱心に視聴するケースも多いはずだ。それなのに”安っぽい”映像でいいだろうか?

「ネットだからお金かけられない」というよく考えると論理性がない発想を見直すこともこれから必要になるだろう。これまでの「マスメディアで使うクリエイティブだからお金もかかる、ネットは媒体費が低いからお金をかけない」そんな考え方はよく考えると変だったのだ。媒体コストと制作費は、別々に考えるべきものなのだ。

動画を利用するならそこんとこもよーく検討するといいと思う。

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右と左で議論していても、上へは進めない。

migihidari

ぼくが大学時代を過ごした80年代は、まだ学生運動の残り火がキャンパスでくすぶっていた。構内のあちこちに“立て看”が立てられていて、独特の”立て看文字”でアジテーションしていた。セクトと呼ばれる左翼の政治集団がいくつかあり、穏健なものから過激なものまで揃っていた。どのセクトも自民党政権を敵視し、アメリカは帝国主義で世界の悪者だった。内閣が替わるたびに“打倒○○政権”と書かれた立て看が立った。

でも実際にセクトに参加するのはごく限られた一部の学生で、何回も留年している古参学生が中心だったらしい。同級生では参加する者はいなかった。意外に共産党系の民青という組織が各大学で勢力を保っており、自治会を事実上牛耳っていたりした。民青は他のセクトに比べるとずいぶん穏健で、考えすぎの生徒会長みたいな真面目なタイプが入っていた。ぼくたちは“民コロ”と呼んで馬鹿にしていた。民青の勢力維持は例外的で、左翼セクトの活動は80年代を通じて下火になっていった。

マスメディアなどで言論的な活動をする知識人・文化人も、“左翼的”な言動の人が多かったと思う。少なくとも70年代までは進歩的知識人は左寄りの考え方をわりとおおっぴらに語っていた。80年代に入ってもいろんな番組や新聞雑誌に居残っていたが、だんだん減っていった。それに代わって政治色の薄い、カウンターカルチャーから出てきた文化人がメジャーになっていった。

いつの間にかマスメディアはそうした政治色を持たない人びとが中心になり、左翼的な言説の人びとは古びた存在になっていった。

では右翼的な人びとはどうだったかというと、その頃から表に出てこなかった。当時の右翼と言えば、街宣カーであちこちに乗りつけてマイクを通して国家を憂える人びとで、そのバックにはどうやら和服を着て日本刀と掛け軸が飾られた床の間の前に座る、政界のフィクサーみたいな人物がいるイメージだった。力を失ったわけではないが、表には出てこない。実は政界をほんとうに動かしている謎に包まれた存在。それが右翼的な人びとなのだと思っていた。

当時のぼくたちにとっては、右翼はすでに、左翼は徐々に、言論のフロントラインから後退していく人びとであり、それはこの国の言論の進歩だと受け止めていた。右だ左だの議論をこの国は卒業できたのだと信じていた。

90年代初頭には“冷戦の崩壊”が起こり、ベルリンの壁が壊され、ソ連はバラバラになった。共産主義は敗退し、世界は右左のイデオロギーを超えた地平に向かうのだと思わせた。当時すでに不定期に放送されていた「朝まで生テレビ」で、懐かしの両陣営の人びとが暑苦しく激しくののしりあうように議論しているのを、時折見かけてその存在を確認したものだ。

それから二十年ほどが経っている。

猪瀬直樹氏が東京都知事の座を追われるように辞任し、さて誰が候補として登場するのだろうと注目された。

年末に最初に名乗りを挙げたのは、宇都宮建児氏という元日弁連会長で共産党のバックアップを受けていた。共産党はどんな選挙にも候補を出してくるのでいつものことのようだが、他の選挙にはない大物感と勢いを感じた。都政に関係ないはずの反原発を口にしていたのも勢いを加速していた。これは左翼の復活か?という危惧が頭をかすめた。

誰か出てこないのか?誰か早く出てきてよ。と思った。

年明けに田母神俊雄氏が立候補を表明した。誰もが知っている元自衛隊幕僚長で、退官間際に論文で騒動を巻き起こした人物だ。きっとピュアな思いを持つ愛国者なんだろう。でも右左で言えば思い切り右側の発言者だ。これほど明確に右寄りの著名な人物が大きな選挙に候補として登場したことはなかっただろう。

あれ?と思った。このままだと、右と左の激突か?おかしいぞ、もう昭和が終わってから二十五年も経ったのに。

都知事選はその後新たな候補者も現れ、右左の話ではなくなった。でも考えようによっては右左の議論以上に混迷の極みになりかけている。この中から東京都民は誰かを選ばねばならないし、どうやら主要四候補の誰かにはなるのだろう。どうしたらいいものか。

政治の議論はこの二十年間、右も左も後退したはずなのに、ここ数年で逆にどちらも元気になっているようだ。派遣だ請負だと、雇用問題になると懐かしき左翼みたいな言説が飛び交いプロレタリア文学『蟹工船』が復活したりしていた。尖閣だ竹島だで領土問題が煙をあげれば、特別なユニフォームを着てない人までが熱血愛国者ぶりを発揮する。

それぞれの局面で展開される議論は別に間違った内容でもないし、ぼくも誰かに賛成したり反対意見を持ったりする。ただ、ふと我に返って引いた目で見るとなんだかタイムマシンに乗ったような気分にもなる。

ぼくたちはそういうところから、次に進んだんじゃなかったっけ?

でも現実には、進んでいなかった。何かを解決して次に行ったのではなかったからだ。何も解決してこなかったのに、まともな議論さえしてこなかった。むしろこのところ、やっとまともな議論をするようになったのかもしれない。

右と左の相克を乗り越えて、上へ向かうための新しい理念を、ぼくたちはまったく創れていないのだ。

だからともすると、右や左にからめとられる。なぜならば右や左には歴史があるので、なるほどと思える体系を構築できているのだ。正解を解説付きで即座に教えてもらえるので、ついふらふらと答えを見せてもらって感心し、吸い込まれてしまう。

でもぼくたちは、そういう吸い付いてくるイデオロギーから身体を引き離さなければならないと思う。現時点で存在するイデオロギーは、20世紀の、あるいは昭和の遺物だと思った方がいい。いまはよくてもやっぱり十年先までは持たないんじゃないか。

そんなこと言ってたら政治的な行動ができない、例えば選挙で投票もできないので、イデオロギーからできるだけ離れて、“制度”だけ見るしかないとぼくは思う。

例えば田母神氏の掲げる政策は、意外によくできている。一本筋が通っていて、ちゃんと考えた跡がある。そして「心のふるさと東京」なんてフレーズについふらふらと引き込まれかねない。でもそこには実は、イデオロギーが漂う。精神的に引きずられそうなところをぐいっと自分を留めて、ただ彼が提示する制度案だけを見る。

宇都宮氏は「希望の政策」を掲げているが、「希望」というフレーズにほだされないようにする。その上で、彼が並べている制度が自分に必要か、あるいは実現性がどうかを見つめるのだ。「希望」という言葉の裏にかいま見えるやっぱり左翼だなあ的な価値観はシャットアウトする。

制度から組み立てたら、ひょっとしたら上へ進めるのかもしれない、と思う。例えばこないだの「赤ちゃんの議論」を突き詰めると、保育施設が不足している問題が出てくるが、それだけでなく女性の職場を包む空気の問題や、男性も含めて満員電車に毎日押し込められる働き方の問題が出てくる。

それらを解決する制度はできないか。そう考えていった方がいい気がする。目の前の問題にいま求められているはずの制度、必要なはずのルールを積み上げていった先に、新しい理念ができるのではないか。

そう考えると、みんなで制度を練り上げる家入氏の試みは面白い。ただ、もっと早く取り掛かっていればよかった。選挙公示日に「みんなでつくった政策はこれです」と発表できたら完璧だっただろう。

前に「日本人の常識は、実は昭和の常識に過ぎない」の記事を書いた時、“昭和の常識”が生まれた背景にふれた。当時の内務官僚が日本の貧困と格差を解決するために構築した制度のカタマリが“昭和”であり、そこでは左翼的な正義感と右翼的な愛国心が交錯していた。右と左は紙一重なのだ。

右左を克服することで、ぼくたちは上へ向かえる。そんな考え方で、今度の都知事選にも臨みたいと思う。

アートディレクター上田豪氏と続けているビジュアルとコピーから入るシリーズ。今回は悩ましかった。実は毎回、3つほどのコピーを渡して一点ずつビジュアルを考えてもらっている。前回の「赤ちゃんにきびしい国」がとてつもなくバズる中、次のコピーがこれだった。露骨に政治を題材にしているので、さすがにビジュアルは抑えるべきか?でも上田氏はむしろ硬派な絵づくりをし、ぼくもアグリーした。ちょっとねえ、ハードかなあ。どう受け止められるだろう。

コミュニケーションディレクター/メディアコンサルタント
境 治
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メガヒットがなくても豊かな作品に出会えればいい〜2013年映画産業統計発表〜

1月28日に、2013年の”映画産業統計”が発表された。毎年ウォッチしてきたのに、今年の発表のタイミングをとらえそこねていた。ここで慌ててチェックしていきたい。

できるだけ簡易に書くので、そもそもこれがどういう統計か、これまでをどうとらえるべきかは、去年の発表時に書いた「日本映画のすそ野が広がった?〜2012年映画産業統計発表〜」を読んでください。

まあ、読まなくてもこのグラフでパッと概観できるかな。
koshu
去年の映画興行は、洋画邦画合わせて1942億円だった。前年比微減。

毎年不思議なのだけど、映画興行収入は2000億円で結局大きく変わらない。2010年に3D映画がメガヒットとなり初めて2200億円になった。このまま上向くかと思ったら2011年は震災の影響もあり1800億円と大きく沈んだ。このまま下降をたどるのかと心配したら2012年2013年は2000億円弱で、また安定するのか?と思わせる。

ただ内訳を見るといろいろ複雑ではある。

2012年に持ち直した際、上のグラフで明らかなように邦画がくいっと上向き、洋画はだらっと下がっていた。邦画優位が確定したかのように見えた。このまま邦画がぐいっといくかと思えば、そうでもない、というのが2013年だったことになる。

映画興行の数字は、結局は大きなヒット作が出るかどうかで変わってくる。洋画と邦画の関係もそれぞれで40億50億級の作品がどれくらいあったかによる。

去年の邦画は宮崎駿の最後の監督作品『風立ちぬ』の120億円がメガヒットと言えるが、他はそうでもなく、とくに実写の作品で40億円以上のものがなかった。一方洋画は『モンスターズ・ユニバーシティ』の89億円がありつつ、『レ・ミゼラブル』の58億円、『テッド』の42億円と、一見地味な作品が大当たりした。そのあたりが上のグラフに出ているのだろう。

もう少し内訳を細かく見よう。映画産業統計では毎年、10億円以上の作品のリストも発表する。邦画の10億越えの作品のうち、東宝配給作品と、アニメ作品の数を数えてみて表にしたのがこれだ。
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まず東宝作品が少しではあるが減少している。この意味はわかりにくいと思うので少し説明しよう。

日本の配給市場では東宝が圧倒的に強い。この十数年でそういうポジションを確立したのだ。だから10億円を超える作品のリストを見ると、ほとんどが東宝作品であることに驚くだろう。2012年は39本も10億円を超えた中、東宝はそのうち26本を占めていた。そこだけとると、トヨタの比じゃないくらいの寡占状況だ。

これはひとえに東宝の戦略と努力による成果なのだろうが、それが去年は”やや”崩れた。東宝作品には華やかな娯楽作品、という傾向がある。文芸作品や年配向けの地味な作品、作家性の強い作品は少ない。

東宝作品の数が減ったのは、ひょっとしたらそうした作品が増えた、ということかもしれない。

もうひとつ、内訳で面白いのがアニメ作品の増加だ。去年は35本中11本。ヒット作に占める”アニメ濃度”が上がったと言える。

上位作品の中でアニメが占める割合はもともと高かった。2001年を見ると15本中7本がアニメだ。いまのように洋画より邦画が好まれるようになったのは2000年代後半以降で、それまで実写の邦画はあまりお客さんを集められなかった。そんな邦画市場を支えてきたのがアニメ映画だ。

そして2000年代前半は毎年7本。これは、定番化した作品が決まっていたからだ。『ポケモン』『ドラえもん』『ワンピース』『コナン』『しんちゃん』あたりにジブリ作品、あとは年によって『NARUTO』『銀魂』などが入れ替わる。

それが去年は、そうした定番作品以外に『まどマギ』『あの花』などの作品が10億越えしている。これは2012年から見えてきた傾向で『おおかみおとこ』や『けいおん』などがランクインしている。

2013年の邦画の”ちょい下げ”は2012年のヒット作品を見ると理由がはっきりする。『海猿』『テルマエロマエ』『踊る大捜査線』これが2012年の邦画の興行上位3作品だ。メガヒットシリーズの最終作品が2つ入っている。そして3つとも”テレビ局映画”だ。

これは洋画も同じだが、メガヒットシリーズがもう出なくなっている。去年の記事でぼくは「すそ野が広がった」と書いたのだが、その傾向が続いているのだと思う。

そして10億円リストに入っていない作品に質の高い作品が出てきている。『鈴木先生』『みなさんさようなら』『舟を編む』『さよなら渓谷』『凶悪』『地獄でなぜ悪い』などなどなど、素晴らしい作品が次々に出てきた。いや日本映画は昔から佳作が多いのだが、いっそうレベルが上がっているんじゃないかと勝手に思っている。もともとの映画界だけでなくいろんな分野からの才能が集まってきている気がするのだが。

まあ、それは映画好きのフィルターが多分に入った感想だ。

だから2013年の映画産業統計は、邦画が少し下がっていても、多様化に向かっているのだと前向きに受け止めていいと思う。

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ネイティブ広告の議論は、広告の本質の議論でもある

週末から昨日まで、木曜日に書いた「赤ちゃんにきびしい国で、赤ちゃんが増えるはずがない」がハフィントンポストに転載され、驚くべき数のいいね!に達したことで、頭がいっぱいになっていた。コメントもたくさんついたし直メールも数件もらった。10万以上のいいね!がつくなんてもう人生で二度とないんじゃないか。

気分はすっかり”にわか育児専門家”になっていたのだけど、本来のこのブログに戻して、メディアの未来を語らねば。

あー、でもなんか、せっかく前回ぼくの記事を読んでくれたママさんがこのタイトルを見たら「え?ネイティブ広告?知らないし、難しそう」と思うよねー。すんません、本来はこういうことを書いてる人なんです。とか言い訳する必要もないのだけど。

さて、昨日(1月28日)の夜、ぼくは東京FMの番組「タイムライン」にゲスト出演した。この番組は平日19時から日替わりのキャスターによりその時々の時事的なテーマを掘り下げる、言わばニュース解説のFM版。火曜日は元通産官僚で慶応大学教授の岸博幸氏がキャスターで、昨日のテーマは「ネイティブ広告」だった。

少し前に書いた「広告はメディアが背負う原罪なのか?」と題したブログ記事を読んでくれたらしい。その中でネイティブ広告についてふれているのだ。

ネイティブ広告はアメリカの業界で使われはじめた新しい概念で、ホントはぼくもちゃんとわかっているわけではない。ADKにいる友人が去年からネイティブ広告を熱心に研究しているので、前もって知識を仕入れて番組に臨んだ。だからしゃべったことはけっこう、その友人からの受け売りだったのだ、実は。

そのにわか知識をここで説明しよう。

ネイティブ広告は、”メディアやサービスに自然になじむデザインや機能で表示される有料広告形式”、と定義される。例えば記事広告、つまり新聞や雑誌の記事の体裁で作られた広告。あるいはTwitterやFacebookのタイムラインに友達の投稿とは別に企業のFBページなどが表示されることがある。よく見ると”広告”と書いてある。これも、それぞれのサービスの形式に添って見せるネイティブ広告の一種だ。
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去年、ワシントンポストがネイティブ広告を導入し、向こうの業界のトレンドワードになった。”Brand Connect”と称して、企業のための記事の枠を設けたのだ。このあたりはTHE PAGEの記事「賛否両論「ネイティブ広告」って何? それは記事か、広告か」を読むとわかりやすい。

これは日本人の感覚としては「記事広だよね」と、何も新しいことでもないのだが、アメリカには記事広告の文化がなかったのだそうだ。ジャーナリズムの意識が強いのか、記事の編集と広告の掲載はまったく分けられていて、融合することはなかった。日本ではジャーナリズム然とした全国紙でも「それはそれ」といった感じで記事広告を受け入れていた。掲載面には<広告>とか<PRページ>などと、はっきり企業のタイアップ企画であることを明示する。読者の側もある程度、ああ、これは企業の宣伝の記事でしょ、と理解していたと思う。

だからアメリカでネイティブ広告がホットになるほどには日本ではなってない気がする。

ただ、日本でもあらためてネイティブ広告は注目されそうだ。というのは、アメリカでホットになったのも背景にこれがあるのだが、”バナーブラインドネス”と呼ばれる現象がある。WEBページを見る時、記事の上や横にあるバナー広告を視野に入れない傾向がある。皆さんも言われてみればそうではないだろうか?さっき見たWEBページのバナー広告をまったく憶えていない。それはそもそも、視界に入れようとしていないのだ。そういう巧みな読み方を、自然にみんなするようになった。だからWEBメディアの広告の価値が問われているのだ。

さらに、スマートフォンの圧倒的な普及。スマホの画面ではPCを想定したバナー広告はほとんど効かない。小さくなってしまうし、タップするだけで記事が拡大され、バナーは画面から外されてしまう。

WEBメディアでの広告枠の表示が不可能になりつつあるのだ。

だったら、広告を”広告枠”ではなく記事の中で表示した方がいいのではないか。ネイティブ広告が浮上しているのは、そんな背景がある。

ゲスト出演したタイムラインでもこうした基本的な説明をしながら、ネイティブ広告の是非や今後についての話になっていった。キャスター役の岸さんはもともとメディア業界に詳しい人なので、ぱぱっと話を展開してくれてぼくもしゃべりやすかった。メディアには広告が欠かせないからコンテンツを楽しんでもらうためにはネイティブ広告も有りですね、とポジティブな反応をしてくれた。

ネイティブ広告ではどんな表現ならよいのかが問われるので、送り出す方としては難しくなりそうですね。と岸さんがおっしゃった。それはそうです。でもそこは前向きにとらえて、広告の本質をもう一度考え直すと面白いと思う、と答えた。

「広告はメディアの原罪なのか」でも谷口マサト氏のコンテンツとしても面白い広告企画について書いた。それが典型的な例だが、広告なのかコンテンツなのか、境界線の曖昧な領域に新しい手法や表現形態が出てくる可能性がある。そこでは、広告とは何だろうとその本質を問いかけながら、試行錯誤が行われていくはずだ。

実は、「赤ちゃんにきびしい国で・・・」などのシリーズで試しているのも、ネイティブ広告のひとつの手法に進化させられないか、という意図があるのだ。

一緒にやっているアートディレクター上田豪氏が制作したビジュアル。マチ針だらけの哺乳瓶。これに見出しコピーが入っている。

ここに例えばベビー用品メーカーのロゴが入っていたらどうだろう。あるいはベビーフードメーカー、もしくは赤ちゃん向けのアパレルブランド。

そうすると、そうしたメーカーのメッセージとしての記事になる。
akachan+
それが今回のように10万いいね!を集めたとしたら。絶大な拡散力を持つ広告になる。通常の広告枠を買うより多くの人に伝わり、その上共感も得られるなら、そのブランドを支持してくれる人が増えるかもしれない。こんないいこと言ってくれるブランドなら、信頼できる、と理念を評価してもらえるブランドになるかもしれない。

もっとも、今回の多大ないいね!はひとりの男が母親の気持ちを汲んで書いた文章だから支持された、という側面が多分にあるようだ。”ひとりの男”が”ベビー用品の○○”になったらそのまま支持してくれるかはわからない。それに、反論やネガティブなレスをくれた人も多い。強い表現だから支持も多かったわけだが、強い表現だからこそ反論も強まる。企業のメッセージだったらもっと強い拒否反応が出たかもしれない。

いろいろ見えないことも多いが、とにかく作ってるぼくらとしては、この手法を広告に応用できないかなと考えながら制作している。もし企業のためにこの形式の記事を作成したら、一種のネイティブ広告と言えるだろう。

ネイティブ広告について考えはじめると、コンテンツと企業の微妙な関係にたどり着く。メディア上のコンテンツの制作費はどこから出ているか、たどっていくとほとんどの場合、企業の広告宣伝費にたどり着く。ではコンテンツは誰のものなのか。企業のものなのか、メディアのものなのか、作り手のものなのか。

広告費がないと成り立たないメディアの本質を、ネイティブ広告はこれから際立たせていくのかもしれない。

コミュニケーションディレクター/メディアコンサルタント
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「赤ちゃんにきびしい国」のつづきとか補足とか〜12万いいね!の理由〜

kibishii

23日に書いた「赤ちゃんにきびしい国で、赤ちゃんが増えるはずがない。」という記事がどえらいことになった。転載されたハフィントンポストでみるみるいいね!がつき、27日午前の時点で12万6000いいね!を超えている。びっくりだ。

12月に書いた「日本人の普通は、実は昭和の普通に過ぎない」の時も5,000いいね!でずいぶん驚いたものだが、それをはるかに上回る。ハフィントンポストは去年の5月にスタートし、ぼくは7月からブログを転載してもらってきた。去年後半からはっきりアクセスが増え、いまや月間読者数が500万とか600万とかになっているそうだ。ハフポがメディアとして急成長する上昇気流にぼくの記事も乗れているのかもしれない。

ただ、12万いいね!はちょっと考えられない。ハフポの成長性だけでは説明がつかない。

Twitterで検索すると誰が反応しているのか、わかってきた。

RTしてくれてるのは女性が中心だ。現役の赤ちゃん子育て真っ最中の方をはじめ、お母さんたちが賛同してくれてるようだ。時折、「よく言ってくれた」とか「励みになった」とか「癒されました」などのコメントがついている。中には「読んでいて涙が出た」というようなコメントもある。こっちまでうるうるしそうだ。あと「男の人が書いている!」というのもあった。

そうかあ、と思った。育児に追われるお母さんたちが、「男のあんたがよう言うてくれた!」といいね!をくれたのだろう。ほんとはみんな、言いたい。訴えたい。訴えたいけど、女性が自分たちで言ったら叩かれるだけかもしれない。でも、ホントにホントに大変なのに。そう感じている女性がいかに多いか、ということなのだと思う。そして、そういう状況を理解している男性も共感してくれている。

一方、反論的なTweetもあった。コメント欄にも反論はけっこう出ている。冷静なのから、辛辣なのまでタッチはいろいろ。多かったのが「満員電車にベビーカーで乗ってくるならそれなりの態度を示すべき、そしたら手助けもするだろう」という類いのもの。うーん、あんまり伝わらなかったんだなあ。そういうお互い様だろ、を超えた姿勢を主張したかったのだけど。

「満員電車にベビーカーで乗り込んできて周りも気にせずスマホいじってる母親がいる」というような指摘もあって、確かにそりゃいかんぜよとは思う。ただ、母親がこうだったらいいけどああだったらダメ、というのは、わかるけど、そこをええい!と乗り越えてあげられないかと思う。

ベビーカーで子供を連れ歩くことを、そんなに申し訳なさそうにしなければいけないの?と思うのだ。いつもいつもお母さんは、赤ちゃんや幼児が迷惑かけてすみません、と、謝りつづけなければ外出できないのだろうか。なぜ赤ちゃんを連れて出かけるのか、と言う人もいたけど、預ける人がいないと連れて行かざるをえないわけで。

満員電車に乗せることがいかに赤ちゃんにとって危険かを理路整然と語る人もいた。飛行機に乗せることが赤ちゃんの身体に良くないのだと知識をご教授してくれる人もいた。ご説ごもっともだし、そういうことを考えない、思慮不足なママもいるかもしれない。でも、好き好んで満員電車や飛行機に乗せたくはない、けれどどうしてもそうしなきゃいけない、困ったなあ、というケースが多いんじゃないだろうか。だって、満員電車だの飛行機だのに乗せて泣き出したらみんなに迷惑になっていたたまれなくなる、と容易に想像できるわけで。それでも、乗せなければならないことが数年間の子育ての間に数回くらい出てくるだろう。

そんな時、気を遣いつづけ、配慮しつづけ、泣き出したらごめんなさいごめんなさい、じゃなきゃダメなの?満員電車に乗せる時、赤ちゃんを抱えながらもう一方の手にはオムツとか入った大きな荷物もありつつ、ベビーカーをきちんと畳まないと乗るな、ということ?

いろんな反応があった中、海外赴任を経験した友人が言っていた。アメリカでは子育てしやすかった。あちこちで声をかけられた。乗り物でベビーカーを見るとすかさず数名が寄ってきて手伝ってくれた。同様の話を、英国で暮らした経験のある人、イタリアで子育てした人からも聞いた。総合すると、欧米ではとにかく手伝ってくれるようだ。その際に母親の態度を問う、なんてことではない。子育てに対する社会の姿勢が違う、ということのようだ。ぼくは欧米がいい!というつもりもなく書いたのだけど、結果的にあちらの姿勢は参考になるみたい。

お母さんたちが賛同してくれていいね!くれつつ、けっこう強く反論する人もいる。このギャップは何だろう。先のアメリカ赴任経験の友人は「向こうは子育てと接する機会が多い」と言う。ベビーシッターを学生がやるのはそのひとつ。日本にはそういう文化がない。それこそ核家族化で失われたままだ。補うシステムも文化もない。

経験の有無は大きい。かく言うぼくも、最初の子の時に強烈な体験をした。

ぼくは結婚と同時にフリーランスになり、最初の6年間は自宅で仕事をしていた。だから上の子が産まれた時は基本的に家にいた。もちろん仕事場で作業するので子育ては基本的に妻がするわけだが、かなり手伝えた。普通のお父さんより接する時間は多かっただろう。「子育てに積極的なパパ」という自負心めいたものがあった。

ある日、妻が買い物に出ると言うのでぼくが面倒を見るからと言った。妻が出てすぐ子供が泣きはじめた。それなりにあやし方もわかっていたつもりだった。だが泣きやまない。ミルクも何度もあげてきたので温めてほ乳瓶をくわえさせてもダメ。ありとあらゆるあやし方を試みるのだけど、何をしてもダメだし泣き声が大きくなるばかり。数十分間あの手この手を尽くしても泣きつづける赤ん坊。なんだか自分を完全に拒まれたような気持ちになっていった。そうなると気持ちがささくれ立ってきて、赤ん坊の泣き声が心に突き刺さるようになる。もう限界だ。もういやだ。もういい。こんな存在はいらない。いなくなってもいい。そういう気持ちになっていき、赤ん坊を壁にぶつけてしまいたくなった。・・・・・・実際にはそうしなかったし、そうこうしているうちに妻が帰宅した。妻が「ああ、よしよし」と抱きかかえたら、一瞬で泣きやんだ。ぼくがあれだけ手を尽くしても泣きやまなかったのに、妻が抱っこしただけで泣きやむなんて。

それにしても、愛してるはずの子供を壁に叩きつけたい衝動に駆られるとは・・・。それでも父親なのか・・・。

この時ぼくは、子育てパパの自負心を木っ端みじんに打ちのめされながら、何か大きなことを知ったのだと思う。赤ん坊は泣きやまない時には泣きやまないのだ。理屈ではない。理論的な話ではない。何かでスイッチが入ると、もう回路をつなぎなおせない。そんなことがよくあるのだ。

いまの話では、妻が抱っこしたら泣きやんだが、それはたまたまで、母親が接していても泣きやまないことはある。ぼくはその時くらいだったが、お母さんたちはきっと、赤ん坊を育てる数年間の中で何度も何度もこんなことがあるはずだ。その度に、壁に赤ん坊をぶつけたくなったりする。もちろんしないし、こらえるのだが、赤ん坊を育てることはそんなことにさいなまれながら、それでも愛しているはずの赤ん坊との愛憎の戦いなのだ。こんなに世話をしてあげているのにどうして泣きやんでくれないのか。私は母親として何か欠けているのか。そんな葛藤に多くのお母さんはたったひとりで苦しみながら、終わりの見えない子育てに向き合っている。

母親だから赤ん坊を泣きやませることができる、ということはない。赤ん坊が泣きやまず、途方に暮れることは母親だってしゅっちゅうある。そういうことだ。

12万いいね!は、それを重々知っているお母さんたちであり、それぞれなりの育児参加でぼくに近い経験をしたお父さんたち。あるいは奥さんから聞かされてよくわかったお父さんたち。そんな皆さんの共感の数だろう。

さっきのギャップは、ここにあるのだと思う。「赤ん坊が泣きやまないことは普通にある」。そのことを知っているか、知らないか。体験したか、してないか。誰かに教わったか、教わってないか。・・・体験してないと「母親なら赤ん坊を泣きやませろよ、それが母親の責任だろう」と考えてしまうのだろう。

このギャップは、埋めようがあるのだろうか。子育てに対する世の中の”空気”をもっと柔らかで温かくしていった方がいい、とぼくは思うのだが。

今年の初めに「明日を変えていくメッセージをつむぎたい」という記事を書いた。ビジュアルからつくるこの少し社会的なメッセージのシリーズを通じて、「明日を変える」ことがほんとうにできないかと考えている。この12万いいね!をもらったテーマは、本気で考えたいと思う。たくさんのいいね!をもらえたのだから、それは可能なんじゃないかな。

具体的に何をどうすればいいのかはまだよくわからない。少しずつ考えて、また書いていきたいと思う。

※このブログを書籍にまとめた『赤ちゃんにきびしい国で、赤ちゃんが増えるはずがない』(三輪舎・刊)発売中です。

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赤ちゃんにきびしい国で、赤ちゃんが増えるはずがない。

akachan

『ゼロ・グラビティ』のアルフォンソ・キュアロン監督は2006年に『トゥモロー・ワールド』という映画を作っている。子供が産まれなくなった近未来を舞台にしたいわゆるディストピア映画だ。全編に絶望感が漂う中、(ネタバレ同然のことを書いてしまうが)最後の方で内戦で荒れ果てた市街地に赤ちゃんの泣き声が鳴り響く美しいシーンがある。

響き渡る泣き声が、人びとの荒んだ心を洗い流し、憎み合っていた者たちが赦しあう。状況によっては気持ちをいらだたせる赤ちゃんの泣き声が、ここでは天使の歌声のように人びとを希望に導く。

この年末年始もそうだったが、ソーシャルメディアを使うようになったこの数年間でも何度か、赤ちゃんの泣き声だのベビーカーだのレストランだの、子育てを巡る激しい議論が巻き起こった。ぼくはその度に『トゥモロー・ワールド』の先のシーンを思い出す。(ちなみにこの映画はhuluにラインナップされているので、契約者は飽きるほど観ることができる)

赤ちゃんの泣き声について議論をすることがそもそも理解できない。いいとか悪いとか、そういう対象ではないと思うからだ。赤ちゃんを飛行機に乗せるなとか、ベビーカーを通勤電車に乗せるなとか、何を言っているのだろうとぼくは思う。

子供が産まれてよくわかったのは、子育ての大変さだ。大変なんてもんじゃない。戦いだ。修羅場だ。赤ちゃんは良妻賢母的なママがだっこすれば泣きやみ、あとはパパがお風呂に入れればいい、などというきれい事ではない。

哺乳動物の中で生まれていきなり立ても歩けもしない何もできない状態なのは人間くらいらしい。本来はもっと成長してから出産すべきはずなのに、脳みそが詰まった頭がこれ以上大きくなると外に出られなくなるから未熟なまま産まれてくる、という説を聞いたことがある。進化の末に知恵を選んだ人類は、その代償として手のかかる赤ちゃんを背負っているのだ。

子供が産まれてもうひとつ感じたのは、核家族は間違ってるんじゃないか、ということだ。少なくとも、子育てには向いてない。

まず赤ちゃんは良妻賢母がいれば育つ、というものではない。子育てに問題が出ると母親が良妻賢母じゃないからだ、的な見方をすぐする人がいるがそうではない。子育ては母親ひとりでは本来できない。

核家族の子育てに、父親の参加ははまず必須だ。時々自分の子供を虐待する母親のニュースがあると、ああ父親がダメだったんだろうな、と思う。実際、そういう家庭は父親がいなかったり不埒だったりそもそも逃げていったあとだったりすることが多い。なのに虐待する母親なんて鬼で悪魔で人間として最低だ、という報道ばかりされる。父親はニュースに登場しないので批判さえされない。

だが日本の高度成長社会は父親を会社漬けにしてきた。家庭をかえりみないのがむしろ男の誇りだと誤解した。また、かえりみたくても会社の空気が父親たちを子育てから引き離した。それでも専業主婦が普通だった時代は良妻賢母を演じることがかろうじてできたのだろう。いやきっとどこの家庭も一触即発なのをなんとか乗り切ってきただけかもしれない。

父親だけでなく、子育ては血のつながったコミュニティ全体で引き受けるものだと思う。うちの子育ても、妻が三人姉妹でみんな東京で結婚していたから互いに助け合えた。たまに集まって食事するだけでも精神衛生にはよかったのだと思う。

つくづく思うのは、核家族にせよ、奥さんの実家が近いのがベストだということだ。いわゆるスープの冷めない距離に、母親の母親が住んでいる。いつでも遠慮なく頼れるのだ。もっといいのは、奥さんの実家に一緒に住むことだ。婿養子にならなくても、磯野家で生活するマスオさんのようなモデルが標準になればいい。フネやカツオやワカメも面倒を見てくれるので子育てはラクになり、楽しくなるはずだ。

さらに”地縁”も大事だ。ずいぶん前のNHKの番組で見たのだけど、どこかの小さな島では島中で子供たちを見守ってくれるので、子育てがしやすく子だくさんの家が多いとレポートしていた。あちこちでおばちゃんやじいちゃんが子供たちに声をかけてくれるので、親としても安心なのだ。近代的な都市部の方が子育てにはつらく、昔ながらの島の暮らしの方が子育てしやすい皮肉な状況がその番組では描かれていた。

子育てを母親だけに押し付けてはいけない。そして少子化の原因のほとんどがそこにあるとぼくは思う。良妻賢母の幻想を女性たちに無理強いしてきたから子供が減った。「ごめんなさい、それ無理です」と女性たちが思っているのだ。そしてその押し付けは間違っているのだ。

母親に押し付けずに、父親も参加するし、親兄弟もサポートするし、社会全体が支えてくれる。子育てはそんな風に、みんなで包み込んであげないと、できないのだ。

赤ちゃんを、飛行機に乗せるのはいかがなものか。周りに配慮して自分のクルマで移動すべきではないか。ベビーカーで満員電車に乗るべきではない。通勤時間に移動する時はタクシーに乗るのが正しいのでは。

そんなこと言ってるから、子供が増えないのだ。

ただでさえ赤ちゃんが泣くと大変だ。どうやってもこうやっても泣きやまなかったりする。気持ちがささくれ立ってくる。心が渇ききってしまう。なのに、飛行機に乗せるなとか、通勤時間は控えろ、とか言われる。もう子供なんかできなきゃよかったのに。絶望する母親たち・・・

そんな中で、赤ちゃんが増えるはずがないじゃないか。

核家族が標準になってしまったこの社会では、社会全体が地縁血縁となって子育てを見守ってあげなければならない。赤ちゃんがいたら、みんなでこぞって祝福する気持ちでもって、笑いかけるのだ。

飛行機の中で赤ちゃんが泣きやまない。じゃあみんなであやしてあげよう。子育ての先輩たちは、うちのはこうして泣きやんだことがある、と知恵を出してあげてもいい。満員電車にベビーカーを押して母親が乗ってきた。じゃあその周りの5人くらいは電車を降りて、みんなで空間を作ってあげればいい。遅刻したら堂々と「ベビーカーに譲ったので」と報告して、上司は「それはよいことをしたね」と褒めればいい。

そんな非効率なことできるか、と言いたい?でも赤ちゃんが増えないことは、人口が減っていくことは、どれだけその社会にとってネガティブな事態をもたらすだろう。

日本の人口は世界で何番目か知ってるだろうか。1位中国、2位インド、3位アメリカ。そのあとは工業化が遅れていた国々が並んで、10位が日本。ドイツが8千万人、イギリスやフランスは6千万人。日本のGDPがずっと2番目だったのは、工業化が進んだ国の中で人口が2番目だったからだ。人口が多いことは重要なのだ。多い方が経済的に有利だし、減ってしまうと経済的に不利になる。

ベビーカーに譲って遅刻することは、だから日本経済のためにはいいのだ。人道的だけでなく、日本の国力を高める行為なので褒められるべきなのだ。

赤ちゃんを祝福しながら子育てをみんなで支える空気をつくること。その上で、子育てを支援する様々な制度も整えるべきだ。乱暴に言うと、子育ては何でもかんでも無料にするとか。保育園が足りないとか、なかなか入れないとか、どういうことかと思う。二十年も前から少子化は問題だと言われてきたのに、いまだに保育園には簡単に入れないのだ。いったい何をやっていたのか、ぼくたちは。

都知事選の候補が出そろったらしい。べつに原発を議論してもこの際いいから、子育てについても考えてほしいものだ。小手先の、ちょろちょろと部分的に学費を無料にするとかじゃなく、そんな制度有りなの?と、子育てについてみんなが目覚めるようなことを考えたり、議論すればいいのにと思う。

最初に取り上げた『トゥモロー・ワールド』の原題は『Children of Men』という。”人類の子供たち”と訳すのかな。子供が産まれなくなった未来にたったひとり産まれた赤ちゃんのことだ。でもひとりひとりの赤ちゃんが、人類の子供たちなのだと言えるかもしれない。

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ビジュアルを先に作って記事を書くシリーズ。週一本のつもりで続けているのだけど、今週は2本目だ。いい感じのビジュアルができたので、来週まで待てなかった。例によって、いま間借りしているデザイン事務所BeeStaffCompanyのボス・アートディレクター上田豪氏が作ったビジュアル。いつもにも増して手が込んでいるのは、彼も父親だからかもしれない

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世代交代がないと、進化できない。

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メディアやコンテンツについて語るのがこのブログの基本趣旨なのだけど、その趣旨とは別の社会性のあるメッセージのシリーズを去年からやってみている。12月に「日本人の普通は、実は昭和の普通に過ぎない」という記事を書いたら、転載されたハフィントンポストで5000以上のいいね!をもらって恐れおののいた。今日はその続きみたいな内容を書こうと思う。

都知事選が公示前からすでに盛り上がっている。ハフィントンポストに主要な候補者の顔が並んだ記事が出ていた。見ているとなんだかげんなりしてきた。

原発が争点としてどうか、などと言う前に、どうしてこんなに年老いた男の顔ばかりが並ぶのだろう。安倍晋三氏が総理大臣としては比較的若々しいのに、首都の知事の候補は”高齢者”に分類される人びとが争うのだ。
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細川さんはとっくの昔に引退した人だ。もっと言うと、日本が変わるんじゃないかと期待させるだけさせといて、疑惑が浮上していじめられたらあっさり引っ込んじゃって日本中をがっかりさせた。その責任は実はものすごく大きいとぼくは思う。

55年体制とやらが、いや「日本人の普通は・・・」の時に書いたことに添えば40年体制が、ようやく終わる兆しがあったのに終わらなかった。なし崩し的に自民党政権に戻ってしまって改革ムードがご破算になった。その張本人だ。今さらどの面下げて都政に出てくるのか、と正直思う。

あのあと二十年間、日本の進化が止まった責任の一翼をまちがいなく担っている人だ。

そんな人も含めて、60代70代が政界でも頑張ってしまっている。ご老体の皆さんに頑張られてしまっている、それがこの国の実情だと思う。

ちょっと話がさかのぼるが、1月6日の仕事始めの夜、ニュース番組が経済界の新春の集まりを取材していた。出てくる人、出てくる企業が、昭和だった。上の写真の都知事候補の皆さんよりさらに年配な人たちが、今年の景気はいいが消費税が心配だ、てなことをおっしゃっていた。どれもこれも、高度成長を担った企業、あるいはそのいくつかが合併して生き残っている企業だ。

この時ふと思い出した写真がある。もうずいぶん前、スティーブ・ジョブズも写っていたからかなり前だが。調べると2011年の2月だった。

オバマ大統領がホワイトハウスにテクノロジー企業のリーダーたちを集めて晩餐会を開いた、という写真だ。ここをクリックしてその写真を見てください。ああ、あれね、思い出したよ、という人も多いだろう。そこそこ話題になった写真だ。

ジョブズ以外もそうそうたる面々で、Yahoo、Cisco、Twitter、Oracle、Netflixといった企業のCEO、もちろんGoogleのエリック・シュミットやFacebookのマーク・ザッカーバーグもいる。

IT界のヒーローたちがオバマとめし食ってる、ということで話題になったわけだけど、この時ぼくはちょっとちがうことを感じた。ここに映っている企業はどれもこれも新しい!

この中ではAppleが古い方になってしまう。OracleとCiscoがそれに続く。他は、登場した時をぼくらが覚えているほど新しい企業だ。

彼らトップは白髪頭でもなく加齢臭はしなさそうだ。日本の財界の年頭の集まりと比べると信じられない。

もちろん、テクノロジー業界のリーダーが集まった食事会だから、というのはあるだろう。でもアメリカの”戦後”を支えた企業はそもそも、もう残ってなかったり業態を変えたりしている。

アメリカの家電企業はもうほとんど残っていない。GEは得体のしれないコングロマリットになってしまった。VISIOというテレビメーカーがあるが、工場は国内に持ってないらしい。

自動車メーカーは健在だが、数年前に各社倒産同然に至ったのは記憶に新しいところだ。

アメリカでは、家電や自動車が衰退しても次の産業が湧いてくる。新陳代謝や世代交代が起こる社会なのだ。あるいは、世代交代を促したのだ。社会全体が進化する、そういう仕組みを持っている。

ずっと残っているのは映画会社だったりする。UniversalもFOXもDisneyも健在だ。だがよく見ると、テレビネットワークや出版社などとくっついてメディア企業のコングロマリットを組んでいる。映画産業はテレビ界と戦ったり仲良くしたりしながら変遷の末にいまの状態になった。やはり新陳代謝を繰り返してきたのだ。huluもそんな変遷の中、彼ら自身が生み出した企業だ。

生物は新陳代謝を繰り返して成長していく。種は世代交代を何度も経るうちに進化していく。

日本という社会が成長せねばならず、進化すべきだとしたら、新陳代謝や世代交代が必要なのだ。なのに。

日本人の普通は、実は昭和の普通に過ぎない、と書いた。この記事は、だから変われるはずだ、というメッセージだったけれども、別の見方をすると、日本人の普通は”いまだに”昭和の普通なのだ。それは、新陳代謝も世代交代もしてこなかったからだ。

90年代、”バブルがはじけた”とか”55年体制の崩壊だ”とか、つまりは過去を反省するべきだというムードが、確かに一時期あった。変わらねばならない、という空気はあった。その上、昭和な大企業や銀行がいくつか潰れもした。あの頃、もう20年ほども前になるが、あの頃には新陳代謝が起きそうになっていた。

でも、それは起きなかった。なし崩し的に昭和に戻り、昭和を引きずったまま21世紀に入ってしまった。

日本が変わりかけたけど変わらなかった。その責任を、さっきこってり批判的なことを書いた老人ひとりのせいにはできないだろう。そうだ。日本社会が変われなかったのは、ぼくたちひとりひとりが変われなかったからだ。昭和にしがみついたのは他ならぬぼくたちなのだろう。

そんな思いを噛みしめながら、例えばぼくたちは今回の都知事選挙にどう対処すればいいのか。答えは見当たらないが、探さないわけにはいかない。

この記事はちょっとした試みをしているシリーズのひとつだ。ネットでは見出しとビジュアルがセットで流通する。だったら見出しコピーとビジュアルの関係をちゃんと考えて記事にした方がいい。そこで、記事の見出しを最初にいくつかコピー的に書いてみて、それにふさわしいビジュアルを選んだり作り出す、というやり方をしている。いま間借りしているデザイン事務所BeeStaffCompanyのボス・アートディレクター上田豪氏と一緒にやってる作業だ。この試みは、気長に続けてみようと思っている。

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