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コピーライター→映像製作会社ロボット→広告代理店ビデオプロモーション→再びコピーライター(フリーランス)。 メディアとコンテンツの未来を切り拓くコミュニケーションをデザインします。講演・執筆依頼もお気軽に!

テレビとネットの融合の鍵はテキスト化にあった〜エム・データ社データセンター訪問記〜

”メタデータ”という言葉があるのを知っているだろうか。

“メタ”とは”上位の”とか”高次の”あるいは”〜間の”、”〜の後の”という意味を持つ接頭辞だ。例えば”メタフィクション”とは「上位のフィクション」とか「フィクションの間の」という意味になる。物語の中に物語が出てきたり、それが元の物語と錯綜したりするとき、「この小説はメタフィクションの構造になっている」と言ったりする。

ということは”メタデータ”は「上位のデータ」もしくは「データの間の」という意味になる。データを超えたデータ。なんとも抽象的で具体がわかりにくい。

この4月からエム・データ社の顧問研究員になったことを前に書いた。このエム・データ社こそが”テレビのメタデータ”を取り扱う会社だ。「テレビの上位データ」とは何だろう?テレビ番組の情報をテキスト化したもののこと。

例えば○月○○日のある局のワイドショーで、8時10分から韓国旅客船事故の話題を25分間放送した。その内容はかくかくしかじかで、どの出演者がこんなことを発言した。そんなことをすべてテキストにするのだ。

エムデータ社はテキスト化作業を行うデータセンターを水戸に持っている。顧問研究員になったので、一度見ておかなきゃ、ということで先日水戸まで行ってみた。

水戸データセンターはすでに多くの方が訪れていて、TBSメディア総研の氏家代表も去年の3月に訪問記を”あやとりブログ”に書いている。けっこう重複してしまうが、何しろ初めて行ってみていろいろと驚いたので、ぼくなりにしっかり書いておきたいと思う。”顧問研究員”のくせに、まだ知らないことがたくさんあるのだ。

水戸は意外に近い。上野からJR常磐線で特急に乗れば1時間と少しで到着する。ちなみにこの特急の座席にはコンセントがついていて無線LANも飛んでいる。新幹線並みのうれしい充実ぶりだ。iPadをいじっているうちに、すぐに水戸に着いてしまった。

水戸の駅からタクシーで5分ほど、京成百貨店の近くにエム・データ社の建物はあった。

building

左上端にPROJECTとあるのは、エム・データ社を設立した親会社の名前だ。

建物の中に入ると、ゆったりスペースを使っていることがわかる。1階はマネージメントスタッフの執務室、そしてレストスペースになっている。データセンターの言葉に似つかわしくない、ゆったりした時間が流れている。
1F
これが二階に上がると雰囲気が変わる。iPhoneのパノラマ写真で見てもらえばイメージが掴めるかな。
panorama

まさしくデータセンター。大きなモニターが置かれたデスクがずらりと並び、画面を見つめながらキーボードでカチャカチャ絶え間なく入力作業をする人びとが張り付いている。

作業チームは大きく4つに分かれている。①番組情報入力チーム②内容チェックチーム③CM情報入力チーム④商品情報入力チームだ。

all1

まずは番組情報入力チーム。テレビメタデータの核となる作業だ。その姿を見てもらおう。
bangumi2
入力用の作業スペースとは別に、映像が映っている。もちろん番組の映像だ。この画面を見ながらきちんとテキストを入力していく。

画面を大きくして見てみよう。
bangumi_desktop2
入力フォーマットはいくつかの欄に分かれている。番組名から、内容のタイトル、そしてその時間と細かな内容が書き込まれる。入力するのはそれぞれの内容のサマリーだ。

番組情報をテキスト化する、と聞くとひたすら機械的に打ち込む単純作業のように思うかもしれない。だがこの画面の前で実際に自分が作業する様を想像してもらえば、そう簡単ではないとイメージできるはずだ。番組を素早く要約する必要がある。正確にそれをタイプする必要もある。また、芸能や政治など多様な情報をテキストにするには、けっこう専門的な知識も必須だ。

入力作業を担当できるようになるには、3カ月から6カ月の研修期間を費やすのだそうだ。そして政治・芸能など専門分野を担当する。かなりの修練と知識が必要で、”単純作業”とは決して言えないテクニカルな業務なのだ。

さて2つ目のチームは、入力した番組情報をチェックする作業を受け持つ。最初のチームが入力したテキストを特殊なプログラムを使って確認する。
checkman2
上の画面のピンク色の箇所が、プログラムによって”あやしい”と抽出された部分だ。”あやしい”とプログラムが判断した箇所なので、実際に誤っているのか、正しい表記はどうなのかは結局、人力になる。

さっきの番組情報入力チームの作業でも感じたのだが、ひたすらデータをテキスト化したものが成果物とは言え、プログラムでは決して完璧なものはできない。表記の間違いも、あやしいものは結局人間が調べて人間が判断するしかない。メタデータという言葉のデジタルなイメージとは裏腹に、人間がゆらぎ的な部分を解決してはじめて利用可能なものになる。

チェックチームはもうひとつ、特別なプロジェクト作業を受け持つ役割もある。現状、定期的に行っているのは、ワイドショーでの”ランキング”を生成する作業だ。これは少し前までTBSのニュースショーに「お父さんのためのワイドショー講座」というワイドショー内で取り上げられたニュースのランキングを出すコーナーがあったが、あの元になるデータはここから生み出されていた。
lanking2
この作業もプログラムが組まれていて、ワイドショーの内容別に時間を集計してランキングが瞬時に出てくる。出てくるけれどやはりここでも、この内容とあっちの内容は同じだ、などと調整は人間の判断で行う。

この日は北海道で連続爆破事件の容疑者が捕まり、その話題が1位。2位は韓国の旅客船事故のニュース。週間ランキングだとこの話題がトップになる。週別、月別のランキングもプログラムでパッと出せる。

3つめの作業チームは、CM情報だ。番組情報の入力では”ここでCMタイム”まではやるのだが、CMの中身はこのチームが入力する。その画面はこんな感じ。
cm2
各CMの企業名・商品名、そして大まかな内容が書き込まれる。

CMは同じ素材がいろんな時間でオンエアされるので、同じ素材について出てくるたびに入力する必要はない。その”同じ素材”が出てきたら音声認識で判別する。ACR(Automatic Content Recognition)については前にも書いたが、映像が持つ音声を個別に判別する技術だ。

だったら楽なようで、CM素材は毎月何千本も新しいものが出てくるので、決してACRで簡単になるものでもない。

最後は商品情報を書き込むチーム。これはエムデータの大きな特長だ。そして大きな可能性を秘めた作業だ。

テレビ番組には様々な商品やお店などの情報が頻繁に出てくる。言うまでもなく、テレビへの登場は商品やお店にとって大きな影響をもたらす。テレビで取り上げられたのをきっかけに在庫が切れるほどものが売れたり、突然お店に行列ができたりする。テレビのメタデータがビジネスにつなげるひとつのポイントがそこにはある。
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エムデータでは、番組に商品が出てくると、放送された情報を入力するだけではなく、独自にその商品について調べてわかることも書き込んでいく。具体的には、その商品のWEBページから情報を入手する。それからネットで販売されているものは、ECサイトのURLも必ず付与する。とにかくその商品やお店について調べてわかることはすべて入力するのだ。

つまり、テレビで取り上げられてからそれが少なくともネット上で販売されるプロセスまでをも入力するのだ。その情報は、ネットで商品を販売する事業者にとって大きな価値がある。テレビで取り上げられた商品をうまくプッシュしたりすることで、具体的な販売にむすびつく可能性がある。

CMとともに、実際のマーケティング活動には大いなる意義を持つ情報だ。テレビのメタデータの価値はこういう”モノが売れる”過程に隠れている。

ここからメタデータの意義、そしてテレビとネットの融合の実際的なところを考えていくことができる。

テレビはネットと、そのままでは一体化できない。映像とネットの情報は混ぜようがない。水と油以上にかけ離れた存在だからだ。

これが映像をテキスト化することで話が変わってくる。ネットの要素と混ぜようが出てくるのだ。いわゆるビッグデータ的な分析の中に取り込むことができる。

典型的なのがツイッターなどのソーシャルメディアだ。ツイッターのつぶやきもビッグデータのひとつだと言えるわけだが、これもテキストだ。テレビに出てきた情報のテキストと、ツイッターで人びとが多くつぶやいた言葉を照らし合わせると、それぞれでどう情報が流通したかが可視化できる。

人びとがいまどんな言葉を重視しているのか、それがテレビでまず取り上げられたのがいつだったか。テレビに出てきたことでさらに話題がどう盛り上がっていったのか。解析していけば、”流行”を読み取り計測することも可能だ。そのパターンを応用すれば、”流行”の波に商品を乗せるノウハウやコツも見えてくるかもしれない。

ビッグデータには様々な領域のものがある。その中にテレビは入れられなかったのが、メタデータを生成することでテレビ情報をビッグテータの素材のひとつに昇華できるのだ。そこには大きな大きな可能性がありそうだ。

テレビとネットの融合を推し進める鍵のひとつが、メタデータにはある。もっと大きく言えば、”現在”という時代を解析することもできなくないはずだ。この国で行われるコミュニケーションの細密な地図が浮き出てくるかもしれない。

もしエムデータのノウハウを、あなたが持つ別のデータと組み合わせることでぼくたちもまだ知らない可能性が見いだせると言うなら、ぜひ教えて欲しい。ぼくのメールアドレス、もしくはエムデータにコンタクトしてください。なにしろはじまったばかりなので、まだ見えてない可能性はほんとうに多方面にあると思うのだ。具体的なビジネスになってなくてもいい。ただ、面白そうなお話なら、ぜひお話したい。

コミュニケーションディレクター/メディアコンサルタント
境 治
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sakaiosamu62@gmail.com
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株式会社エム・データ
WEBサイト(http://mdata.tv/)
資料請求ページ(http://mdata.tv/inquiry.php)

子供に向き合うことは、未来に向き合うこと。〜7daysチャレンジTV 4/29-5/06〜

メディアの未来をこのブログで論じてきた一方で、子育てについても発言したりしていると自分が何者かわからなくなったりするのだけど、ぼくのもともとの本業はコピーライターだ。ただ広告制作の仕事は黒子的なものだと思ってきたのでブログでは仕事について書かないできた。でも、世の中の流れ的にはオープンにしてもいいのかな?と思いはじめていた。仕事によってはブログで書いちゃうのもありだな、と考えていたら、いまやっている仕事はそれにふさわしいと思えたので、今日はそれを書く。

日本テレビは視聴率で他局とせめぎ合う一方で、社会との関わりにも取り組んでいる。民放でいちばん最初にできたテレビ局だからだろう、世の中にとってのテレビ局とは、社会と日本テレビとの関係は、という問いかけをある意味DNAとして持っている。『24時間テレビ』のような取組みが、何十年も続いているのはそういう真摯な姿勢を企業文化として持っているからだと思う。

その日本テレビが去年から『7daysチャレンジTV』という活動をはじめている。「一緒に、未来貢献」をテーマに一週間の間、いろんな番組が参加して子供たちとその未来を考える企画だ。今年はゴールデンウィーク期間に展開され、5月6日の特番で完結する。その広告で使われるコピーワークを担当することになった。できあがったのが、これだ。

7days_15d
<画像をクリックすると大きくなるのでそれぞれの写真が誰なのか、見てください。楽しいよ!>

ボディコピーは画像を拡大すれば読めるが、ここに文章として掲載しよう。

子供に向き合うことは、
未来に向き合うこと。

子供を見つめる。愛くるしさに思わず微笑む。
親として、大人として、この上なく幸せな瞬間です。
でも、子供をただ見ているだけでなく、きちんと向き合い、
彼らが成長した未来を想像することも大切です。
日本が、世界がこれからどうなるか。
そこには、期待や希望だけでなく、不安や困難もひそんでいます。
だからこそ私たちには、未来へのヒントを見つけ出し、
伝えていく責任があるのです。
7daysチャレンジTVの一週間、子供たちにしっかり向き合ってみませんか。
そして未来のために何ができるのか。みんなで一緒に、考えましょう。

コピーを書く作業は”仕事”なのだから、あまり思い入れ強く書くものでもないのだけど、この文章はとくに思い入れをたっぷり込めて書いた。ちゃんと届く文章にしなければと思ったのは、最近子育てのことを考えるからだろうか。ちょっと恥ずかしいけど、書きながら目頭が熱くなっていた。とくに「不安や困難もひそんでいます」という箇所は、子供たちの未来を想って目が潤んだ。

自分が関わった広告についてこんなに語るのは普通しないことだけど、この番組については欄外でもどんどん語るべきではないかと思う。そこで、番組のプロデューサーの大澤さんに”取材”させてもらうことにした。さらにこの仕事をぼくに依頼した宣伝部デザイン室の布村さんにもご登場願った。番組というコミュニケーション、それを伝える宣伝というコミュニケーションに携わる方々に、そのコミュニケーションの一端を担ったぼくが取材する。不思議な記事だね、これは。

プロデューサーの大澤弘子さんとデザイン室の布村順一さん
<情報カルチャー局プロデューサーの大澤弘子さんと宣伝部デザイン室の布村順一さん>

日本テレビではecoウィークのタイトルで環境問題に取り組むキャンペーンを10年続けてきた。去年からそれを進化させ「一緒に未来貢献」をテーマに掲げて『7daysチャレンジTV』に衣替えした。子供たちとその未来をより良いものにしようという趣旨で、立体的なコミュニケーションを組み立てた。

去年は募金ならぬ募本という活動を行った。要らなくなった絵本を持ち寄ってもらい、絵本を読みたい子供たちに配ろうというもの。COWCOWの二人に全国を回ってもらい、”あたりまえ体操”を披露したあと募本を呼びかける。子供たちは楽しみながら参加してくれてステキな活動になった。こうしたキャラバン活動は番組には一部しか使われない。でも、だからこそ番組では伝えにくい熱が伝わり、コミュニケーションに厚みが出る。局内にはすぐさま理解してもらいにくいのだが、大澤さんはこうした”面”の活動に強く手応えを感じたそうだ。

osawa大澤さんはバラエティ畑を歩んできた。そして30代後半で二人の子供を産んだワーキングママだ。テレビのしかも制作の仕事だと子育てとの両立は大変だと想像するのだが。「それが意外と逆なんです。制作の仕事は働き方が自由な側面があるんですね。時間配分を自分で決められるので、打合せと撮影の間に家庭のことを入れる、なんてやりくりができるんです。かえって楽と言えるかもしれませんね」と快活に笑う。人知れずの苦労もないわけでもないだろうが、大澤さんはすべてを楽しもうという大らかさにあふれている。

そして驚いたのはご主人の育休の話だった。「最初の子の時、8カ月産休を取りました。それとバトンタッチする形で夫が育休をとってくれました。それが9カ月。私の休んだ期間より長いんですよ」ご主人は金融機関にお勤めなのだが、”男子社員も育休とらせよ”と上層部が号令をかけたタイミングだったので長く休めたようなのだ。「麦茶を持って行ったらお母さんたちが”よく準備してましたねえ”と感心されたんだけど、それくらいできるよ」などと不満めいたことも言いつつ、子育てを楽しんでいる様子だったという。

子供ができてから、自分の生活から発想するようになったかもしれない、と大澤さんは言う。産休中に企画を立てた『心ゆさぶれ!先輩ROCK YOU』も、人生の先輩たちからの”学び”を番組にしたいと思ったからだった。『PON!』の中のコーナーとして続けている『ママモコモ』も、子供たちに楽しんでもらいながら何かを吸収して欲しいとの思いからはじまったという。

「最近は他のテレビ局のワーキングママと横のつながりもできていて、業界もいい感じに変わってきた気がします。ただ、20代でADをやっていると子育ては難しいですよね。この業界もまだまだです」テレビ業界は家庭とか子育てとは隔絶された世界だったのだが、大澤さんのような先輩がいいモデルとなることで、いま変化しはじめているのかもしれない。

日本テレビは宣伝部の中にデザイン室というセクションがあり、局としての広告制作は社内で制作している。ぼくの知る限り、テレビ局で宣伝物を内製しているのは日本テレビだけだ。そのデザイン室を率いるのが、アートディレクターの布村順一さんだ。

ぼくは20年ほど前の一時期、日本テレビの広告制作の仕事をけっこうやっていた。その頃は入りたてだった布村さんといくつかの仕事を一緒にやった。その布村さんが久しぶりに声をかけてくれて、この『7daysチャレンジTV』に関わることになった。

nunomura「できるだけ幅広い人たちに”自分ごと”にしてもらいたいと思うんですよ」と、布村さんは言う。子供たちとその家族に向けた企画なのだが、それだけにしたくない。子供がいない人たちにとっても、若者たち、ティーンエイジャーにとっても、子供を鍵に未来貢献について考えてもらいたい。そういうコミュニケーションができないだろうか。そんな想いから企画づくりが始まった。

そこでビジュアルは、子供たちの顔、しかも、いまの大人の子供時代の写真を集めて並べることになった。テレビ局ならではの、タレントや著名人の顔も並べて興味を引く。子供のことって関係ないようで、ぼくもあなたも子供だったよね、子供の心って誰でも持っていたよね。そんなことをビジュアルから感じてもらいたい。

大澤さんは、そうやってできた広告表現をとても気に入ってくれた。「これがあったので、みんなに説明しやすかったんですよ」と言う。『7daysチャレンジTV』は複数の番組が力を合わせる取組みなので、自分たちがめざすべき意思統一にこの表現が役に立ったそうだ。広告には外に伝える役割とは別に、インナーの気持ちを合わせる役割もある。

布村さんは、大澤さんにぜひこの企画に関わりつづけて欲しいと言っている。「中心になる人間が必要じゃないですか」それに対し大澤さんはこう言う。「私としても関わりつづけたいんだけど、一方で引き継いでいくことも重要だと思うの。より若いパパやママたちがこの企画を引き継いでいくことで、何十年後にもっと価値が高まればいいな」時代を超えて引き継がれることで、『24時間テレビ』のような普遍的な価値を持つことが、最初のランナーである大澤さんの想いなのだろう。

『7daysチャレンジTV』は『ZIP!』から『NEWS ZERO』までの帯番組で一週間展開され、最終日の5月6日夜の特番『世界を変えるテレビ』で大団円となる。池上彰氏も取材に加わり、世界を変える活動をする子供たちを紹介する番組だ。あなたにも世界を変えるヒントをもたらすかもしれない。

子供と向き合うことは、未来と向き合うこと。子供たちの未来を、あるいはあなたの未来を、立ち止まって考えるために、この一週間に注目してください。

日本テレビ『7daysチャレンジTV』公式サイト
公式Facebookページ

今回の記事では、広告を作る黒子の立場を逸脱し、自分が関わった広告について自分で記事にした。さらには、番組のプロデューサーや広告制作の部署の方もふだんは表に出ないものだが、取材させてもらった。ソーシャルの時代には、黒子も名前を名乗り顔を見せ、自分の言葉で語っていいのではないか、という発想だ。余計な説明はしないものだったのを、逆に過剰に語って人間性を露見させる。その方が何らかの”つながり”に至れるんじゃないかと思う。『7daysチャレンジTV』という社会性が強く番組そのものも”ソーシャル”なものだからこそ、許されると考えている。今後も、”自分の仕事のソーシャル化”は試みていきたい。

コミュニケーションディレクター/メディアコンサルタント
境 治
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働くことを時間”だけ”で捉えるのはもうやめていいと思う〜残業代ゼロ制度の議論について〜

「残業代ゼロ」にする制度が産業競争力会議から案として出てきたことが報道された。ぼくはこの記事の「残業代ゼロ」という見出しの立て方を見て、ああまたかとげんなりした。2000年代半ばにも「ホワイトカラーエグゼンプション」の呼び名で議論にのぼり、「これは残業代ゼロ法案だ!」と感情的な反対論が出てきて消えていったのだ。

もちろん手放しで大賛成と言うつもりはない。慎重に議論して、人件費減らしの手段に乱用されないような周到な縛りは必要だろう。だが、残業代を無くそうとしている!とそこだけクローズアップしても議論にさえならない。せっかく働き方を見直す機会にできるかもしれないのに、議論にさえならないのは残念でならないのだ。

この制度の本質は、「時間で捉えられない職種ってあるんじゃない?何時から何時までと決める必要がない働き方もあっていいんじゃない?そういう場合は”残業”という概念がなくなるかもね」という考え方なのだ。残業代ゼロは制度の結果であって目標ではない。なのに「残業代ゼロ制度だ!」と言ってしまうのは本質を見ようとしていない、一種の思考停止だ。

そう思ってたら、コンサルタントの大西宏さんがぼくがもやもや感じていたことを力強く明解に書いてくれていた。
「残業代ゼロ」を強調する朝日新聞に欠けているもの

大いに啓発されるものがあり、強く共感したので、ぼくなりにも少し書いておこうと思う。

とにかくぼくたちは、時間に縛られる働き方から脱却することを強く意識すべきなのだ。そしてそれは、このところ書いている、赤ちゃんにやさしい国にしていくこととも大いに関わる。自分で時間をコントロールする働き方をする人が増えれば、ワーキングママは子育てとの両立がしやすくなるし、イクメンは育児に時間を費やせる。大西さんも、これにちかいことを書いている。

そもそもぼくたちは、どうして決まった時間に一度に出社しなければならないのだろう。首都圏だととくにあの信じられない殺人的な通勤電車に乗って、8時だか8時半だか9時だかになぜ会社に到着せねばならないのか。5分でも遅れたら、なぜ鉄道遅延証明書とともに遅刻届を出さねばならないのか。会社によっては、よくよく考えると、そんな必要はないのかもしれない。かもしれないのに、たんに「そう決まっているから」とか「ずっとそうだったから」とか「会社とはそういうものだから」とか、そんな理由で続けてきたのではないか?

これは前に「日本の普通は、実は昭和の普通にすぎない」で書いたことと非常に重なることなのだ。定時に出社し、その度に満員電車に揉まれるのは、昭和の普通にすぎない。

なぜならば、昭和は製造業の時代だったからだ。

労働を時間で捉えるのは、製造業の考え方なのだ。もっと言うと、工場の考え方なのだ。製造業ではだから、今後も働き方を時間で捉えざるをえないかもしれない。でも製造業の同じ会社でもデスクワークなら、時間で捉える必要はないのだ。だからホワイトカラーエグゼンプションと呼ぶわけだ。

さらには、非製造業ならばますます、時間じゃないかもしれない。例えばお店でサービスを提供する業種だと、お店で働く人は時間で捉えるべきだろう。工場じゃなくても、単純作業を業務にしているなら、時間で捉えることになるだろう。でもそうじゃない職種や部署はたくさんある。そういう働き方の人は、時間から解放されていいのではないだろうか。

ぼくはフリーランスでふらふら生きている人間だが、一時期ある会社で経営企画をやっていた。会社の業績を部門別に見るために、ひとつひとつの業務に対して原価を割り振っていき、収益性を見える化する体系を作った。

映像制作会社だったので、ひとつひとつの制作案件の売上に対して経費をひもづけるやり方を、経理の人間と整えた。その時、ひとつの売上案件に対してかかる経費を、「製造原価」とExcel上で表記していた。「なんで製造なの?映像制作は製造じゃないだろ?」「うーん、でも会計用語としては製造じゃなくても製造原価と呼ぶことになってるんですよ」ぼくは大変びっくりした。「だって製造って工場でやる作業のことじゃないの?」「まあ、そうですねえ・・・」

さらに、売上案件に対してかかった人件費もひもづけていく。これを「労務費」と呼ぶというのだ。「労務って・・・なんかいやいややらされてる肉体労働みたいじゃないか」「うーん、でもこれも、会計用語としては労務費と決まってるんですよ」

製造原価。労務費。なんて哀しいコトバだろう。そんな女工哀史みたいなコトバでは楽しく仕事できない気がした。

この時、ぼくは痛感したのだ。日本の会計の体系は、製造業がベースになっている!

そして働き方も、その捉え方も、製造業ベースだ。”工数”と言うでしょ?どれくらいの手間がかかるかも”工数”と呼ぶ。なんだそりゃ?IT企業がプログラミングを完成させるのも、工数。そして労務費。工具なんか使ってないじゃないか。

働いている世界がほんとうにつまらない、グレーなものに見えてくる。映像制作って夢をつくる仕事のはずなのに。

なぜだか、会社という場では”時間”がルールやモラルのひとつの軸になっている。朝は定時に出社する。日本中の会社が定時で出社を求めるから、ラッシュアワーが発生する。

もっと哀しいのが残業だ。残業は褒められる。よく働くなあ、ご苦労さま、とねぎらわれる。残業代ゼロにされるのをどうのこうの言う前に、毎日就業時間に帰る者より、毎日終電まで働く者がなーんだか評価される、働き者だなあとか言われる、その空気の方がよほどおかしい。

さらに情けないのは、時間で縛るわりに、時間の使い方はルーズだ。会議が多い。会議のために定時で出社することになるのだが、会議の内容自体は空虚だったりする。メールで済むようなことだったり。いまはワークウェアが多様に整っているので、もっと合理的なやり方はいくらでもあるはずなのに。

残業の時間も、残業と言いつつ、ムダに会社に残っているだけのことも多い。上司がまだいるからとか、同僚がまだ作業が残っているからとか、そんな時には「一緒に付き合って残るのが部下だろう仲間だろう」という空気が醸し出される。

働いてなくても、成果を出せてなくても、会社にいれば働いている気になる。働いている気になれないと「今月も頑張りました!」と胸を張って言いにくいから、なんとなく会社にいる。そしてほんとうに驚くべきなのは、なんとなく会社にいると上司が「頑張ってるな!」と褒めてくれるのだ。

日本人が勤勉だ、というのはその通りだと思うが、でもその勤勉さの半分くらいはムダな時間に費やされている気がする。勤勉だから真面目だから、と言うよりむしろ、勤勉だと周囲に感じてもらうために無理して会社にいる。ちゃんとやってるのか?と言われないために、不安だから、会社にいる。そんな働き方になってないだろうか。そんな不安のために家族との時間が失われてしまうのなら、それは哀しいことだと思う。

ぼくたちはいま、働き方と時間の関係を、見つめ直すタイミングなのだ。それは製造業重視の産業構造を見直すことでもあり、ワークライフバランスという概念を頭の中に導入することでもある。その一環としてなら、ホワイトカラーエグゼンプションの議論は前向きに受け止めるべきなのだ。「残業代ゼロに反対!」と叫んでも、前へは進めないのだとぼくは思う。

コミュニケーションディレクター/メディアコンサルタント
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【赤ちゃんにやさしい国へ】保育の理想は”サービス”とは離れたところにあるはずだ〜たつのこ共同保育所〜

赤ちゃんにきびしい国で、赤ちゃんが増えるはずがない。の記事を書いた直後はたくさんの方にメールをいただいたが、その後も時折メールが届く。メールをもらった方に取材して記事を書いたらまた別の方からメールをもらう、という流れができてしまった。3月にも新たにもらったメールがある。「たつのこ共同保育所」で子育てをしているというお母さんからだ。一部を引用すると・・・

(たつのこ共同保育所での子育てをはじめて以来)こんな子育ての仕方があるんだ!と目からうろこの2年間でした。
ただ、たつのこのあまりに特殊な存りかたを、周りにうまく説明できていないと感じています。
境治さまの文章を読ませて頂いて、たつのこのことを理解し、文章にできるのはこの方しかいないのではないかと感じました。
たつのこは、大きな家族なんです。
核家族の私でも、育児を楽しんでいるのは、この大きな家族があるからです。
子育てを楽しむことができるための社会の在り方への一つの具体例として、一度見に来ていただけると嬉しいです。

こんな熱いメールをもらって、そして「この方しかいない」とまで言われて、行かないわけにはいかない。幸い、自宅から比較的近い。これはもう、行くでしょ、ってことで、二回に分けて行ってみた。いろいろと面白く、またいろいろと考えたので、その取材録を書いておこう。

たつのこの説明の前に、自主保育について知ってもらった方がいい。なにそれ?と言う方は、以下の2つの記事をざっとでいいから読んでください。

【赤ちゃんにやさしい国へ】みんな自分の子供みたいに思える場所〜自主保育・野毛風の子〜
【赤ちゃんにやさしい国へ】これは大きな家族であり、ひとつのムラかもしれない〜自主保育・野毛風の子(その2)〜

自主保育は、その名の通り母親たちが自分たちで保育を行うし、園舎はなく青空の下で育てるのが基本姿勢。たつのこもそもそも、自主保育としてはじまったのだそうだ。

たつのこ共同保育所のWEBサイトによれば、1977年にはじまったとある。「たつのこの生い立ち」というページに設立趣旨が書かれている。読むと、固い。固いけど、高い理想の下にはじまったのだとよくわかる。自主保育も、そもそもは70年代にはじまったらしいので、この頃にこういう大きな潮流があったのだろう。

さて教わった住所に着いたのだけど、しばし迷った。どこにも保育所らしい建物がないのだ。よくよく探すと、あった。

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え?これ?これが保育所?マジすか?と、思わず独白していた。

メールをくれた有園愛さんから話を聞いた。

たつのこ共同保育所は、”共同保育”つまり、保育者と保護者で共同で保育を行う場所。川崎市認定の保育所だ。

保育者と保護者、というか母親が共同で。そこに理念が凝縮されている。

実は自主保育でも保育者がつく例もあった。野毛風の子はたまたまいなかったが、保育者がいた時期もあるそうだ。記事にしてないが他に取材した自主保育では保育者がいた。

共同保育の場合、保育はあくまで保育者が仕事として受け持つのだが、保育所の運営は保護者と一緒に行うのだ。

もちろん、フルタイムで働く母親は運営にも関わりにくい。そういう参加も全然ありだ。普通に、働く間に子供を預かってもらうためにたつのこを利用するのもあり。働いていてもパートなどフルタイムじゃなかったり時間のやりくりがつく人は、運営に関わる。運営と言っても、事務をしたり雑用をしたりといった、保育以外のあらゆる必要な作業を受け持つ。できる範囲で、できることを行う。保育まで背負うと大変なので、そこは保育者に託す。

フルタイムで働いて預けるだけの保護者も含めて、月に一回の運営会議には全員出席する。そこが共同保育の最重要な要素だ。保育所の運営を話し合う。あるいは、その時々で気になったことなどを述べる。一方的に預けるのではなく、”関与する”のがポイントだ。保育所を、一方的にサービスを受ける場だととらえずに、一緒にどうしたらいいかを考える。

驚くのは、園長はいない。いや、いるのだけど、便宜上保育士の資格を持つ保育者が順番に引き受ける。ある意味、建前上の園長。基本的に上下関係がなく、まったくフラットな関係なのだ。そこは自主保育と似ている。

保育の姿勢は、”伸び伸び育てる”ということ。だから、やたらと子供たちに介入しない。基本的にほっておく。もちろん保育者は面倒を見ているのだけど、あれやっちゃダメこれやっちゃダメということではない。これも自主保育と同じだ。

だからほんとうに子供たちは伸び伸びしている。有園さんの娘さん、ななちゃんにぼくはえらくなつかれて、二回目に行った時にはもう「あ、境さんだ!」と言われた。憶えてくれたんだな。彼女もホントに自由だ。
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ななちゃんが部屋の中央で”びゅーん”と飛ぶ真似をしている。可愛らしい。

ちなみにこんな感じの、はっきりいっておんぼろな家を園舎に使っている。狭いし、古い。でも子供たちは楽しそうだ。

小さな小さな庭で、泥んこ遊びをしている。きちゃなくなる。でも子供たちは気にしない。保育者も保護者も、ニコニコとその姿を見つめている。

有園さんは、力説する。ここはホントに素晴らしい!彼女はご主人の仕事の都合でこの街を離れるところだったのを、説得して居続けたのだそうだ。それくらい、離れられない。

「普通の保育園は”つるっとした”ものを求めるじゃないですか。」と彼女は言う。ものすごく抽象的な表現だが、なんというか、便利だけど無味乾燥で血の通っていない様子を”つるっとした”と言っているようだ。

「”つるっとした”ものを求めると、ホントのものにならないんですよ。たつのこは違うんです。つるっとしてない。手もかかる。時間もかかる。そんなやり方にみんなで取り組んでいるんです」熱く熱く語る中から、理屈じゃなく伝わってくるものがある。

保育者の一人、信安直美さんとも話ができた。なんと!彼女は自分の子供たちは野毛風の子で自主保育で育てたのだと言う。自主保育の楽しさ温かさが忘れられず、子供たちが育ってからも関わりたいと思っていたらたつのこと出会い、保護者ではなく保育者の立場で関わることにしたのだそうだ。そして今度、保育士の資格を取ろうとしているのだと言う。その情熱にまたびっくりした。

自主保育を取材した時、母親たちが自分で保育することと、その伸び伸びした育て方に、保育の理想かもしれないと感じた。ただ自主保育はフルタイムのワーキングマザーには参加できない。

“共同保育”は、保育者を保育の中心に据えつつ、手伝う保護者と、預けるワーキングマザーと、うまく役割分担できている。だったら、これが理想的なんじゃないのだろうか?つるっとした、とにかく子供をきちんと預かってくれればいいサービスを求めるなら普通の保育所がいいわけだが、でも少しでも参加意識を持ちたいなら、共同保育はいい選択肢になるだろう。

自主保育の取材でも感じたのだが、保育とは普通のサービスではないのだと思う。そんな”つるっとした”言葉では包みきれない、もっとデリケートでまた非合理的なものだ。預ける側と預かる側に心が通いあい、ピュアに信頼しあえる”同士”のような関係が成立しないと本来はうまくいかないのだ。先日のベビーシッターの事件も、ポイントはそこにあるのではないか。

共同保育所はたつのこ以外にもあるそうだ。興味を持った方は近くにあるか探してみるといいと思う。

信安直美さん(左)と有園愛さん(右)二人で楽しく語ってくれた
信安直美さん(左)と有園愛さん(右)二人で楽しく語ってくれた

有園さんと信安さん、お二人に話を聞いているとなんだか姉妹のように見えてくる。「信ちゃん」とか呼んでるし。姉妹みたいだ、というのも自主保育でも感じたことだった。保護者が保育者をちゃんづけで呼ぶなんて普通の保育所ではなかなかないんじゃないだろうか。そういう信頼関係、いや信頼関係なんて仰々しい、もっと親密なほんとうに家族のような関係があり、一緒に子育てする。心強く安心できると思う。

共同保育は、自主保育とともに、今後も追っていこうと思う。

ところで、この2回目の取材には、一緒に三輪舎の中岡さんが同行してくれた。前に記事の中で「本にしたいのだが出版社の方に相談したい」と書いたら、彼がメールをくれたのだ。なんと、この1月に自分で出版社を起ち上げたのだそうだ。中岡氏の三輪舎についてはまた別の回に、じっくり書こうと思う。・・・というわけで、この「赤ちゃんにやさしい国へ」のシリーズ記事を元に、本を出すことになる・・・のかな?

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ソーシャルテレビは死んだのか?(あるいは次の段階に向かっているのか?)

(今回の記事は”ソーシャルテレビ”と言われて「は?それナニ?」という方にはあんまり面白くないと思うのでそのつもりで。でも読んでたら面白くなるかもしれないけど)
socialtv2
『白ゆき姫殺人事件』という映画が公開されていて、面白く観た。地方都市で起こった殺人事件について、テレビとソーシャルメディアが呼応しながら情報が錯綜する。twitterで盛り上がればテレビがとりあげ、それがまたtwitterで増幅していく。フィクションだが、すでに現実はこうなっているのだと思う。

ソーシャルテレビとは、この映画が描いたようなコミュニケーションの呼応を捉えた概念だ。そしてそこには、テレビとネットが融合する接点が見えている。映画のように、事件の噂を暴走させる負の側面もあるが、テレビとそれにまつわるコミュニケーションをもっと楽しくする可能性も秘めている。

ぼくはこのソーシャルテレビに、メディアとコンテンツの次の姿が見えるのではと思い、“ソーシャルテレビ推進会議”という勉強会を運営している。いまの自分にとってもっとも注力している活動だ。

そのソーシャルテレビに関して先週、ショッキングな記事が出現した。

野村総研の山崎英夫さんはメディア論界隈で尊敬する論者の一人だ。SocialNetworking.jpというブログで、海外のメディア関連の記事を紹介している。先週、こんな見出しで記事を書いておられた。

ソーシャルテレビアプリサービスの整理淘汰の中でZeebox がBeamlyにブランド名称を変更、勝ったのはツイッター!!

な、なんと!このzeeboxとは、昨年11月にソーシャルテレビ推進会議主催でカンファレンスを開催した際、英国からそのCTOであるアンソニー・ローズ氏を招いた会社だ。

テレビを見ながら使ういわゆるセカンドスクリーンアプリとしてもっとも成功していると言われるzooboxが名称をBeamlyに変更したというのだから、何かうまくいかなくなったのか?とやきもきしてしまう。山崎さんが引用した元の2つの英文記事を辞書を引き引き頑張って読むと、zeeboxの話は意外にカンタンに名称の変更を伝えてるだけで、別に危うくなったということでもないとわかる。でももうひとつの「Let’s face it: social TV is dead(直訳すると「直視せよ:ソーシャルテレビは死んだ」となる)」には長々と、ソーシャルテレビアプリはことごとくうまくいってなくて再編の波がやって来ていると語っている。これは気になるなあ。

いろんなTVappsが登場したけど、結局はみんなTwitterやFacebookを使うのだとか。だから「勝ったのはツイッター!」ということなのだろう。

zeeboxの記事は他にもいくつか出ていて、名前を変えたひとつのポイントは、”zeebox”だと男性のギークっぽいのが問題だったということのようだ。ドイツ製のXboxみたいなもの?と誤解されたりしたとか。女性が増えてきたしもっと一般性のあるアプリにしたかった。そこでBeamlyに名前を変えたそうだ。

zeeboxがBeamlyに名称変更したことについての記事は他にもいくつか出ている。

TV App Zeebox Changes Its Name to Beamly, and Hopes to Grow by Getting More Social

Social TV app Zeebox relaunches as Beamly to lose ‘male geeky’ image

Zeebox Becomes Beamly to Focus on Social TV

これらを拙い英語力で頑張って読んでいくと、zeeboxが次の段階に入ったことがわかる。”Getting More Social”あるいは”Focus on Social TV”と見出しにあるようにソーシャル色を強めたアプリになったということだ。またそれによってか、その前からか、より若い層(16-24才)の女性ユーザーが中心にシフトしてきた。

ソーシャル色を強めた、というのは、具体的には「テレビ番組をフォローする」あるいは「出演者をフォローする」「他のユーザーをフォローする」ことを促す。そして(これはもともとあったのだが)「TV room」という番組ごとのチャットルームでおしゃべりできる。番組ごとだけでなく、テーマごと、エピソードごとにroomがつくれる。好きな番組の好きなテーマで語り合いたい人と語れるのだ。

これによってユーザーは番組に接する頻度が高まる。そこがポイント。番組をフォローし、出演するセレブや同じ番組が好きな人をフォローすることで、”来週も観ようかな”と自然と思うようになるのだ。

つまりBeamlyとは、テレビを媒介にした大きなソーシャルネットワーキング装置なのだ。テレビを軸に、人とつながるアプリだ、ということだ。

さて海外のソーシャルテレビ状況をざっと見たところで、日本の状況はどうだろう。

日本のセカンドスクリーンは、ずいぶん進んできた。海外の事例よりずっと進んでいるし、見たこともない仕掛け、聞いたこともなかった企画が次々に登場してきた。このブログでもたくさん紹介してきたし、より高度なことができるようになっている。

だがしかし、あえて提言するのだが、ここでもう一度、振り返った方がいいのではないだろうか。ソーシャルテレビとは本来何なのかを。

セカンドスクリーンの仕掛けがある番組と聞くと、欠かさず見てきた。アプリを落としていじってみた。ボタンを押したり投票したりしてみた。それはそれで面白かった。

だけど・・・・・・飽きた。

この頃はそういう番組と聞いても、観ようとしなくなってしまった。アプリを落としたりしなくなってしまった。

別にネガティブなこと言って喜んでいるのではなく、こういうことだ。

特番で特別な仕掛けをやる時期はもう終わっていいのだと思う。

では何をすべきか。・・・定期的に観る番組で、みんなとしゃべりたい。・・・このニーズに応えることがいま必要なのだと思う。

zeeboxあらためBeamlyの考え方は納得がいくものだ。TV roomこそがぼくたちには必要なのだと思う。

ここには、大きな考え方の転換が必要だと思う。ソーシャルテレビは、あるいはセカンドスクリーンは、番組の視聴率を即座に上げるものではない、ということだ。それを目的にしてもほとんど意味がないということだ。

それよりも、番組のファンを増やす、そのための仕組みだととらえるべきだ。だってソーシャルってそういう概念だったでしょ?

番組と語り合う。番組の出演者と交流できる。番組が好きな視聴者と出会える。そういう場が必要であり、そういう場があることで、ファンが増えていく。結果として、視聴率にもつながっていく。この”結果として”というところが重要。すぐには視聴率につながらない。でも結果として、コツコツ努力したら必ず影響するだろう。

テレビの人は、どうしても、”その場でわーっと面白いことやる”のに頭が行きがちだ。テレビ番組はそう言うメディアだからだ。そこで、セカンドスクリーンも”わーっと面白いことやる”の一端ととらえがちだろう。でもそこに視聴率への効果を期待するには、ネットは小さいし向かない。

その場より、番組の前後、番組と番組の間の時間をどう視聴者と共有できるかが大事なのだ。そのための作業をコツコツ積み重ねて得たファンは、揺るがない。

わかりやすい例が『水曜どうでしょう』だ。北海道テレビのローカル番組なのに全国的な人気番組に成長した。これはコツコツ視聴者と気持ちを共有してきたからだ。ディレクターの藤村忠寿氏は「ファンが10万人いる」と力強く言っていた。それは、確かに万単位の人たちと交流をしてきたから自信を持って言えるのだ。”祭り”と称してリアルイベントも行うことが、その確かな実感を支えているのだろう。そして彼は、ソーシャルメディアが登場する前から、番組掲示板を通してファンと交流してきた。文句を言われたら本気で怒ったコメントを返したりしたそうだ。本気でファンと付き合ってきたからこそ、ファンは増えたし離れないのだ。

特殊な才能の人の特殊な事例だろう、と言うのなら、『テラスハウス』も例にあげよう。いまでこそ、若者の間でひとつのムーブメントを引き起こしている。でも、ほんの数カ月前までは視聴率もさほどでない、マニアックな番組だった。若い視聴者を引きつけられないかとツイッターを積極的に活用しはじめた。出演者にも、放送中につぶやいてもらった。それを続けていくうちに、視聴者が根づいていき、ホットな番組として注目を集めていったのだ。テラスハウスのハッシュタグでつぶやくことが、BeamlyのTVroomのような空間をぼんやり生み出したのだと言える。いまやテラスハウス出演者はセレブになっている。

先日、総務省の「40代50代のテレビ視聴時間が大幅に減少」という調査結果が発表され驚いた。去年から始まった調査で2回目なので鵜呑みにしない方がいいのだろうけど、”テレビ離れ”は若者だけの話でもないのだろうか。それは自分の生活を振り返っても実感がある。

そんな中で「視聴者とのつながり」は今後ますます重要になるだろう。ソーシャルテレビを、お祭り騒ぎの一端ではなく、つながりをつくり保つための概念だととらえ直すべきではないだろうか。

そのために必要なのは、「つながりたい」という意志だ。気持ちだ。番組を放送することは、自分の創造性を披露することではなく、コミュニティにとって必要なコミュニケーションをとりむすぶことが本来的意義のはずだ。視聴者と真摯に向き合い、つながりたい!という思いを持つことを原点に、そのためのツールとしてのソーシャルテレビととらえたい。あらためて、そう思うのだ。

【赤ちゃんにやさしい国へ】子育てをめぐる環境は、きっと変えられると思う〜AERA特集「子育て小国を生きる」〜

1月の「赤ちゃんにきびしい国で、赤ちゃんが増えるはずがない」の余波はまだまだ続いている。余波が続いているというより、子育てについて考える人にすっかりなってしまった。だって15万いいね!(その後16万に増えたが)がついて子育てに悩むお母さんたちから「ありがとうございます。これからも頑張ってください」とメールをもらったりすると、頑張らないわけにはいかなくなる。

その後も取材をしたりして、続きを書き進めてきた。

「赤ちゃんにきびしい国」のつづきとか補足とか〜12万いいね!の理由〜
【赤ちゃんにやさしい国へ】お母さんはメディアになり、赤ちゃんは先生になる〜赤ちゃん先生プロジェクト〜
【赤ちゃんにやさしい国へ】みんな自分の子供みたいに思える場所〜自主保育・野毛風の子〜
【赤ちゃんにやさしい国へ】子育てはやっぱりみんなでするものだ〜二人のママさん訪問録〜
【赤ちゃんにやさしい国へ】これは大きな家族であり、ひとつのムラかもしれない〜自主保育・野毛風の子(その2)〜

すると当然、子育て関連の記事が気になってくる。目についたら片っ端に目を通してしまう。そしてどうも、その手の記事が最近増えてきている気がしてきた。でもそれは、気にしているからだったり、グノシーのエンジンがぼくの傾向を読み取っているせいかもしれないが。

もちろん、先日のベビーシッターの事件もあったし、配偶者控除の見直しも話題として浮上しているせいもあるだろう。でもどうも、子育てについての議論はホットになりつつあるように思えるのだ。何かよくわからないけど、そういうタイミングなんじゃないだろうか。

と、思っていたら、AERAの記者の方からメールが来た。ハフィントンポストの記事を読んだと言う。4月14日発売号で「子育て小国を生きる」という特集を組むので取材してコメントを載せたいとのこと。

AERAは週刊誌としてはちょっと独特な姿勢を持っている。ほとんどの週刊誌は”オヤジくさい”。女性向け週刊誌はゴシップ誌ばかり。そうでなければビジネス誌。AERAはそのどれでもない。そして働く女性を意識している記事が多い。

でもそんなAERAのような立派な雑誌が子育て問題の特集で、ぼくのようなこの分野ではアマチュアの人間に取材に来るなんていいのだろうか。ちょっと躊躇した。専門家じゃなくて、たまたま子育てをネタにブログを書いただけですよ。そう返信した上で、お会いすることになった。

やって来たのは、小林明子さんという女性記者だった。新聞社系の記者さんというので、舌鋒鋭い攻撃的な女性をついついイメージしていたのだが、その反対で笑顔の可愛らしい明るい女性だった。

なかなか女性を上手に撮れないのだが、今回は素敵に撮れたと思う
なかなか女性を上手に撮れないのだが、今回は素敵に撮れたと思う

あらかじめ彼女の名前をググったら、子育て関連の記事を多く書いている様子だった。実際、ご本人としても自分のテーマとして意識しているそうだ。自身もワーキングマザーであり、自分の悩みや気持ちも背景に持ちつつ子育て問題に取り組んでいるという。

今回の特集では、「子育て小国」というキーワードを立てたのだけど、それだけだとネガティブな内容になりかねない。子育てに課題が多い中で、”生きる”つまり前向きに積極的に取り組んでいる様子も取材したいのだそうだ。

取材に対して何をしゃべったかよく憶えてない。彼女の話しやすさ、楽しさに引っ張られて調子に乗ってたくさんしゃべった気がする。その内容はまあ、14日(今日!)発売のAERAをめくってみてください。

AERAではもともと働く女性を意識した記事が多かったのだが、今後ますます力を入れていくそうで、「AERAワーキングマザー100人委員会」という集まりを起ち上げるという。AERAの誌面はもちろん、リアルなイベントなど立体的な展開で情報発信していくのだ。

さっそく5月24日にキックオフイベントを開催するという。ぜひぜひ取材に来てくださいというのでもちろんと応じた。それに、お互いいろいろ情報交換していこう、連携できることあったらチカラを出し合おう、と意気投合した。なんだか”仲間”を得た気分。お母さんたちの活動をひとりで取材するだけだったのが、同じように取材する側として、いろいろと共有できそうだなと思った。

取材のあと、もらったメールで、ぼくにもその「ワーキングマザー100人委員会」のメンバーになってくれないかと言われた。えー?こんなおっさんがメンバーになっていいのかなあ。男性初のメンバーとして、ぜひ!と言う。それは光栄なんだけど、ちょっと気恥ずかしい。じゃあ隅っこの方にちょこんと座ることにしようか。

それにしても、どうもやっぱり”流れ”がいま起こりつつあるんじゃないだろうか。子育てへの様々な不条理や不都合がここへ来て限界にきつつあり、それが待機児童問題をはじめ喫緊の課題として急浮上しはじめている。ぼくの記事への15万いいね!も、そういう潮流が顕在化しつつある中で起こったことだという気がする。

お母さんたちの小さな声が、いま凝縮されカタマリとなって大きな声に膨れ上がりつつあるんじゃないだろうか。ソーシャルメディアが主婦層にまで普及したこともあり、その膨張が加速してきているのだ。

そんな中で、ハフィントンポストとAERAというメディアがあり、”子育て”というテーマでは呼応しようとしている。ぼくと小林さんがそれぞれでの導火線の役割になれるのかもしれない。

いや、導火線はあちこちに実は張り巡らされていて、連鎖反応を待っているのだろう。名のあるメディアでなくても、他にもブログを書いていたり、ソーシャル上で発言していたり。いままでだと局地的にしか火がつかなかったのが、ネットワークが飛び火を可能にした。それぞれが頑張って火を絶やさないでいれば、相乗効果によって火が炎になる。炎になって大きな上昇気流を社会に巻き起こせる。そんな機運が今なのだと思う。

こうなったらぼくも尻込みしてないで、たまたまだけど自分がつけた火を炎に成長させるべく、ますます積極的になってみようと思う。何しろ、味方はいる。AERAにもいるし、あちこちにいる。メールをくれたママさんたちも味方と思っていいのだろう。いいね!してくれた16万人も全員味方かもしれないと思うと、なんとも心強いじゃないか。

ぼくたちは世の中を変えることができる。子育ての分野では、それがホントのことにできそうな気がする。子育てをめぐる環境を変えていくのは、ぼくでありあなたなのだ。

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メディアとは、凶悪と正義の間をウロウロしつづける存在だ(そして人間も)〜映画『凶悪』をもとに〜

これから書くことは、うまくまとまるかどうか自信がない。映画『凶悪』と先週の『笑っていいとも!グランドフィナーレ』を関係づけた内容になる予定。文章のゴールはたどり着かないとわからないし、ゴールはないかもしれない。

kyoaku
※サイトのキャプチャー勝手に使ってます。まずかったら言ってください

この週末に映画『凶悪』を観た。去年、すごいすごいと聞いてワクワクしたのに観に行きそこねた。それがAppleTVに入ったのでさっそく観た次第。そうしたら、聞いていた以上にすごい映画だった。公開規模が大きかったらもっと話題になっていたんじゃないだろうか。去年の邦画では『舟を編む』や『さよなら渓谷』なんかが素晴らしかったと思うけど、それらと並ぶくらいの作品だった。

山田孝之演じる週刊誌の記者が、ピエール瀧演じる死刑囚からの手紙を受け取る。自分と一緒に殺人を犯した木村が許せないので記事にしてくれと言う。この木村をリリー・フランキーが怪演。物語は、記者の取材を通して二人の、まさに凶悪な様子を描き出す。

ピエール瀧とリリー・フランキーの凶悪ぶり、執拗に過去を追う山田孝之の執着ぶりが両方とも凄みがある。とくにリリー・フランキーがうひゃひゃと下品に笑いながら酷いことをしていく様は目を背けたくなる。これはホントに観て損はない。このリンクからiTunesで観れるので未見の方はぜひ。

そういう犯罪ものとしての面白さにぐいぐい引き込まれて見続けていると、最後の方で突然、映画の刃が見ている側に向けられる。

事件の取材にかまけて家庭をほったらかしにし続けた記者に、池脇千鶴演じる妻が記事を読んで言う。セリフをそのまま書くのは避けるが、要するに、こんな変な事件を追ってたのは、あんたが面白がってたからだ、と言う。読んでる自分も面白かったし、とまで言う。

信じられないような凶悪な事件が起こった時、人間はこれほどの悪をなしえるのかと思いながら、ぼくらは面白がっている。

「ひどいねえ、こんな人間っているもんなんだねえ」とか「結局この男は命を金より軽んじていたんだねえ」とか、言ったりしながら、ぼくたちは事件のニュースを追う。詳しく取材したワイドショーを見る。犯人の人物像を掘り下げた記事を読む。

映画『凶悪』が描く凶悪とは、人を面白がって殺めていく犯罪者たちのことを言っているのか、それを面白がって取材する記者のことなのか、その記事を面白がって読んでいる読者視聴者のことを言っているのか。たぶん全部なのだろうなあと思う。

記者は「こんな犯罪が野放しにされていいのか!」という正義感に燃えて、埋もれかけた事件を暴き、確証を掴んで記事にする。それがすべてを白日にさらし、真の犯罪者をあぶり出す。正義だ。その正義感には一点の曇りもなく、純粋なものなのだ。

でもその正義感と一体となり、決してはがれることのない裏表の関係で、面白がっている心もある。いや、埋もれていた犯罪を調べ上げて世間にさらすなんて、こんなに面白いことはないだろう。

それがメディアの宿命なのだと思う。メディアは社会の公器だから、正義の立場で不正を暴く。そこには重要な役割がある。でもその正義の報道の裏側には”面白いでしょ?”が張り付いている。受け取る側も、それはけしからん!という言葉の裏に”うん、面白い”がくっついている。それが人間の本質だろうから。

面白くなければメディアじゃないのだ。

と、言っていると、思い出した言葉がある。

楽しくなければテレビじゃない。

フジテレビが80年代に掲げたスローガンだ。

先週の月曜日、夜に『笑っていいとも!グランドフィナーレ』と題した終了記念番組があるというので、早めに帰宅して最初から観た。

明石家さんまが出てきて、タモリと二人での「日本一の最低男」というだらだらトークする懐かしいコーナーを再現した。途中でダウンタウンやとんねるずやウッチャンナンチャン、爆笑問題など、バラエティの主役級たちが続々現れ、全員そのまま居続けた。

ほんとうは交替で出てくるはずだったのが、次々に全員出てきてしまったものだから、もう台本も何もないカオス状態になっていた。あとで出てきた記事を読むと、ほんとうに予定外の状況になったらしい。

ああ、こういうの懐かしいなあ、と思った。

80年代のフジテレビは、カオスだった。カオスなところがよかった。誰か天才のコントロールで番組が行われたというより、台本も何もない感じが面白かった。面白かったというより、うひゃーとか、わちゃーとか、まずくないこれ?という感じ。際どかったというより、度を超えていた。むちゃくちゃだった。

70年代までのテレビを引っ張っていたTBSは、完璧だった。「全員集合」にせよ「ザ・ベストテン」にせよ、決められた進行に沿って生で完璧に進んでいた。誰かが明らかにコントロールしていた。そこがすごかった。

でも80年代のフジテレビは、カオス。むちゃくちゃ。

猥雑さ。メディアにはそれが必要なのだと思う。”メディア”とは不思議な言葉で、訳すと”媒体”でしかない。USBメモリとかSDカードとか、そういうものもメディアだ。でもマスメディア、などという時のメディアは、コンテンツの入れ物だ。そしてそこには猥雑さがまとわりつく。人びとのどん欲な好奇心、のぞき見趣味に応える存在なのだ。

そこを、肩ひじ張らずに、知的なプライドはかなぐり捨てて「楽しくなければ」と言ってのけたところに、80年代のフジテレビのパワーの源泉があった。

面白かったと書いたが、当時素直に面白がっていたかというと、少し違う。けっこう蔑んでもいた。こんなことでいいの?などと感じていた。実際、『笑っていいとも!』の最初の頃には司会のタモリさえ引いているように見えた。素人が登場するコーナーがたくさんあって、こんな人出していいのかよ、と思ってしまう奇妙な人びとがよく出ていた。目を背けたくなる。

際どいことを言うが、『凶悪』で木村が繰り広げる悪行から目を背けたくなる感覚と似てるんじゃないかと、そう思うのだ。

目を背けたくなるので顔を手で覆っているのだけど、指の隙間から見ちゃう。やっぱり見たいからだ。

”メディア”のミッションがそこにはある。時に正義を振りかざしながらも、その裏側に「これ、面白いでしょ?」という凶悪さをこっそり隠し持つ。その企てがうまくいくと「うん、面白い!」という世間の反応が出て部数や視聴率につながる。

マスゴミという言葉があって、最近のネット中心の若者がマスメディアを腐す時に使われる。でも80年代からぼくたちはテレビをマスゴミだと実は思っていたのだ。

だからマスゴミでいいじゃないですか、と言いたいわけではない。ただ、正義と凶悪の間でウロウロ迷いながら行ったり来たりしつつ「これ、面白い?」と提示しつづけることをメディアは続けないといけないのだろう。

えーっと、やっぱり何を書いているのかわからないままだけど、これで終わりです。

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テレビの価値はもっと多面的なはずだと思う〜エムデータ顧問研究員となりました〜

テレビって不思議な存在だと思う。そのことを、思い返せば学生時代だった80年代からずっと考えていた。その80年代にはじまった『笑っていいとも!』が終了したことは何かを象徴している気がする。

これまで何度かとりあげてきたのだけど、テレビ論の原点であり終着点として「お前はただの現在に過ぎない」というテーゼがある。これは本のタイトルで、もう40年以上前にテレビマンたちが書いたものだ。
お前はただの現在にすぎない
テレビ論に興味がある人は一度読んでおくといい。読んだ方がいいのだけれど、実は読まなくてもいいかもしれない。重要性のすべてはこのタイトルにこそあるからだ。

「お前はただの現在にすぎない」

このひと言こそがテレビだと思う。もっと言うと、”メディア”とはこういうことだと言えるし、そのメディアの中でももっともメディアであるのがテレビであり、だからよけいにこのひと言はテレビの意味をものすごく凝縮しているのだと思う。

「ただの現在」つまり、テレビなんて、まあ大したものではないのだ。だが何しろこれほど現在であるものも他にないので、そこには大いなる価値がある。

「ただの現在」であるテレビの利用価値を、ぼくたちは十分に絞り出せていないのではないだろうか。

前置きが長くなったけど、今日書きたいのは、わたくし境治はこの4月から、エムデータ社の顧問研究員となりましたということだ。顧問研究員というのもよくわからないわりにえらそうな肩書きだが、ようするにいろいろお手伝いすることになった。社員ではないので外部からのお手伝い。でも自分がやりたいことの鍵がこの会社にはあるので、けっこう注力していくつもり。

エムデータ社については少し前の記事に書いた。

「テレビ情報を再構築すると、新ビジネスが見えてくる?」

この中で、他の会社とともにエムデータ社についても書いている。

同社はメタデータを生成する会社だ。もっと具体的に書くと、テレビで放送された番組情報をテキスト化する会社だ。テレビを見ながら、その中に出てきたあらゆる事柄をひたすら書き出す。内容、出演者、出てきたモノや店などなど、すべてを書き出す。そんな作業を何十人もの人がやっている。書き出されたものがメタデータだ。
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そんなものが何になるのか、と普通は思うだろう。だがさっきの話に戻ってみよう。テレビとは”現在”なのだ。するとテレビに出てきた事柄を書き出したデータは、”現在”のデータなのだ。”現在”が次々に連なってできる時の流れをテキスト化したものがメタデータなのだ。

テレビが生み出した”現在”は、流行を生み出したりする。翌日スーパーで売れるものを左右したりする。これから売れそうな楽曲を人びとの耳に植え付けた記録でもある。あらゆる分野のトレンドの種子が蒔かれた様子が記録されている。

つまり、メタデータとは現在の記録であり、その上では未来が助走しはじめている。そこには個々のテレビ制作者が意図しなかったテレビの価値が潜んでいるのだ。

それぞれの番組、それぞれの局では見えないにしても、それを集積して大きな”テレビ”という装置だととらえると、それがはき出していく現在は大きな大きな価値に膨らむ可能性がある。メタデータを日々生成し、それを集約し、分析することで、テレビの価値が新たに出現するはずだ。

可能性はほんとうに多面的に広がる。そこには、視聴率とは別の番組評価軸が見いだせるかもしれない。テレビCMの価値を累乗的に拡大する未知の広告手法が開発できるかもしれない。テレビのメタデータだけでなく他のいわゆるビッグデータと結びつくことで、未来予想ができるかもしれない。

かもしれない、と書いたけれど、まちがいなくできるのだ。それらが見いだせた時、テレビはこれまでのビジネスモデルをステップアップしはじめる。そうなったら、これまでとは別の番組の面白さにもつながる。そんなことさえ起こりえる。

メタデータの可能性、エムデータが取り組みはじめていることについては、一度に書ききれないので、数回に分けて書いていこうと思う。そこにはテレビ界の新しい動きも含まれるので、お楽しみに。

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【赤ちゃんにやさしい国へ】これは大きな家族であり、ひとつのムラかもしれない〜自主保育・野毛風の子(その2)〜

少し前に書いた、自主保育・野毛風の子の活動。

【赤ちゃんにやさしい国へ】みんな自分の子供みたいに思える場所〜自主保育・野毛風の子〜

その続きを今日は書いていく。

前回の記事で「預けあうためには信頼関係が重要で、月に一回のミーティングで意見を言いあうことでそれが築けるそうだ」と書いた。そのミーティングの場におじゃました。

区民集会所という施設がある。ぼくも長らく東京都に住んでいるが、そんな施設があるのは知らなかった。区民であれば気軽に使うことができる。風の子のミーティングはここで行われる。
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写真で見せるほどのこともない、こんな地味な施設だ。

広い和室があり、二、三十人なら集まって何かをすることができる。高齢者の集まりなどにもよく使われているようだ。

そこにお母さんたちが集まっていた。子供たちも連れてきている。広い部屋がうれしいのだろう、ドタバタ走り回る子もいてなかなか賑やかだ。そんな中、ミーティングがはじまる。

まずその進め方。進行役が明確に決まっていないようだ。じゃあ○○さんから、と誰かが言って、その○○さんが話しはじめる。この一カ月の中で気づいたこと、感じたことなどを話す。

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話している間、小さい子はテーブルがロの字型に組まれた中に入り込んだりする。置いてある紙をつかんじゃったり。走り回っていた子がお母さんのところに行って話しかけたり何かをせがんだり。

「会議」としてはせわしなく落ち着かない。自分の子どもの相手をするので、他の人が話していることに耳を傾けられない人もいる。見ていて、この会議は大丈夫なの?と、やきもきしてしまった。

でも、誰一人としてその状況にいらだったりする人はいない。聞ける人が聞く。そんな進み方。時折、それなりに深刻な内容を話す人もいる。それに対し真剣に意見を返し議論になったりする。でも横では子どもの相手をする人もいる。

なるほどなあと思った。進行役がはっきり決まっていないのは、決めたところでその人がずっと司会できるわけではないからだろう。子どもの相手もしながらできることをする。進められるように進める。

一方で、真剣な話もするし、トラブルについても対処を話し合う。何しろ毎日の保育を続けないといけないし、先生や園長さんが解決してくれるわけでもない。自分たちで解決するために、本気で意見を出しあう。

午前中の2時間いっぱいかけてひとりひとり意見を言う順番が回ってくる。慌ただしくしながらも、聞ける人がそれを聞いて話し合う。

信頼関係ができてくるのは、こういうことなのだなあとわかった気がした。話をする時間をじっくり持って、問題を共有し対処をみんなで考える。言いたいことを呑み込んだりガマンしたりしない。だって我が子のためでもあるから。

会社の会議が表面的になりがちなのに比べて、実はここには本来的な議論の場がある。会社だと、とくに定例会議になるほど儀式化してしまう。あー、今日も上から突っ込まれなくてよかった、というのが会社の会議。何事も起こらないようにしたいし、だからこそホンネなんか言えない。それが会社の定例会議だろう。その違いが面白かった。これは組織運営の手本にもなるのではないかと思う。

定例ミーティングの取材のあと、3月はソツカイシキがあるからよかったら来ませんかと誘われた。ソツカイシキ?あー、卒会式!幼稚園なら卒園式だが自主保育は”会”なので卒会式と呼ぶのだと気づいた。保育活動と同じ多摩川の河原でやるという。河原でそんな行事を行うなんてどんな感じなんだろう。面白そうなので行ってみた。

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行ってみたら会場はこんな感じだった。ほんとうに河原で卒会式。東京都内の、世田谷区で、こんなにラフな雰囲気の催しが行われるとは。そこからして、面白い。

保育活動を見学した時より人数がずっと多い。卒会式には、日頃のメンバーが勢ぞろいするだけでなく、お父さんも来ている家庭もある。少し前に卒会した子どもやお母さんも来ていたり、他の自主保育のメンバーも招待されていたり、いつもより断然賑やかに開催されるのだ。

参加者はお昼ごはん用に何か持ち寄る。それを2つのテーブルにずらり並べてあった。
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それぞれがつくった食べ物を持ち寄る。これは素晴らしい行為だと思う。その集団の気持ちが理屈を越えてひとつにまとまる。大切な時間を一緒に過ごすことが強く実感させられるのだ。まるで大きな家族になったような。その上、それぞれが美味しかったこと!ぼくもイチゴを買ってヘタだけ取って持っていった。”つくった”とはお世辞にも言えないが、あっという間になくなってうれしかった。

みんなで昼ごはんを食べたあと、卒会式がはじまった。手作り感満載の会場で、意外に多様なプログラムだ。
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卒会するお母さんが挨拶をするのだが、その中のひとりのお母さんが途中で号泣。楽しい思い出がいっぱいあっただろうし、でもつらかったこともあったに違いない。つらいことも、大変なことも、この仲間たちと一緒だったから乗り越えられた、そんな思いが、胸の奥から込み上げてきたのだと思う。

場所が屋外、河原だったこともあって、見ているとそこは”ムラ”のように思えてきた。それぞれが住んでいる場所は近所とは言えない離れた家ではあるけれど、毎日のようにこの河原に子供たちと一緒に集まって、夕方まで過ごしてきた。家が別々なだけで、ここにいるお母さんたち、子供たちは一緒に”暮らして”きたのだ。日常的に時間をともにし、ミーティングでは言いたいことを言いあう。そうやってこの共同体は続いている。そこにあるのは疑似的ながらはっきりと”ムラ”なのだ。

“ムラ”の中心は子供たちであり、お母さんたちだ。お父さんたちはその周りにいてお母さんたちをサポートしている。周囲の”ムラ”の人たちとも連携があり、OBたちも支援してくれている。人びとが一緒に暮らす形の原初的な姿がここにある気がする。

ムラが”くに”になり、国になって国家になっていった中で、ぼくたちが落っことしてしまった何かがこの河原にはあるのだと思う。子育てがどこか息苦しくしんどいものになってしまった時、子育てを軸に共同体ができたら、人が集う本来的な姿が見えようとしているのかもしれない。
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自主保育の活動に接して、子育ての問題解決の大きなヒントがそこにある気がしている。別にみんな幼稚園や保育園をやめましょうということではない。お母さん同士で自主的に保育活動することで万事解決と言いたいわけではない。相変わらず保育所は足りないのだから、増やすべきだと思う。

一方で、保育所を増やせば、待機児童をなくせばそれでいい、ということでは決してないと思う。自主保育から感じとれるのは、子育ては本来、みんなで力を合わせるものだということだ。誤解を恐れず言えば、行政なんか当てにしないで考えよう、ということだ。

幼稚園や保育所を利用したにしても、しないにしても、子育ての問題には自分たちで考えて自分たちで立ち向かうべきなのだと思う。そしてお母さんたちがそうすることで、河原みたいな場所がなくても”ムラ”がきっとできるのではないだろうか。

まだ全然考えがまとまらないのだけど、そんな考え方の延長線をぐいーっと引っ張って進んでいくと、子育てだけでなく社会全体の様々に波及する何かができる気がしている。でもまだまとまらないのでそれは追い追い書いていきたいと思う。

それから、自主保育はあくまで仕事を持っていないお母さんへの処方であって、パートや時間に融通の利く働き方の人なら参加可能だが、フルタイムで会社勤めする人にはできない。できないけれど、これもやり方があるのではないかと思う。これについても、また追い追いですね。

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ところで、「赤ちゃんにきびしい国で、赤ちゃんが増えるはずがない」の記事にはじまるこうした取材や、それにともなって考えていったことを、書籍にできないかと考えている。赤ちゃんと、そのお母さんの悩みや、それを解消するための活動、ひいてはひとりひとりのお母さんには、何かとても重要なメッセージがたくさん隠れている気がするのだ。それを少しずつひも解いて、ひも解く過程を本にできないだろうか。もし、興味を持ってくれる編集者の方がいたら、下記にメールをください。この作業は続けていくので、気長にお待ちしています。

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境 治
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【赤ちゃんにやさしい国へ】子育てはやっぱりみんなでするものだ〜二人のママさん訪問録〜

1月に書いた子育てについての記事がどえらい「いいね!」数になってから、そのフォロー記事を少しずつ書いてきた。

赤ちゃんにきびしい国で、赤ちゃんが増えるはずがない。(1月23日)

「赤ちゃんにきびしい国」のつづきとか補足とか〜12万いいね!の理由〜(1月27日)

【赤ちゃんにやさしい国へ】お母さんはメディアになり、赤ちゃんは先生になる〜赤ちゃん先生プロジェクト〜(2月10日)

【赤ちゃんにやさしい国へ】みんな自分の子供みたいに思える場所〜自主保育・野毛風の子〜(2月17日)

<赤ちゃん先生プロジェクト><自主保育・野毛風の子>といった子育てを支える活動に取材したのは、それぞれに関わる方からメールをいただいたからだった。

メールは他にもたくさんもらった。批判的な内容のものも一部あったが、ほとんどが記事の内容に賛同するお母さんたちからのものだった。賛同と言うより「言ってくれてありがとう」という、感謝と言うかなんというか、そんな内容のものが多かった。

ブログを書いて、コメント欄に意見をもらったり、Twitterで賛同や反論をもらうことはけっこうあるけど、メールで感謝されるなんて初めてだった。わざわざメールを出すってどういうことなのだろう。そこでその中の、どうやら東京圏にお住まいのお二人に会いに行ってみることにした。申し出にはお二人とも即快諾をくれた。

一人目は川本聖子さん。会うためにメールをやり取りしてわかったのだけど、パクレゼルヴという会社の社長さんだった。同社はモバイルコンテンツを制作して配信する、ある意味もっとも時代の先を行く会社だ。どうやら急成長中の様子。そんな会社の女性社長が赤ちゃんの子育てで悩んでいるという、そのギャップがお会いする際の興味を倍化させた。

これがパクレゼルヴ社のトップページ。「赤ちゃん」と言うテーマからはかなり遠い
これがパクレゼルヴ社のトップページ。「赤ちゃん」と言うテーマからはかなり遠い

最先端の会社の女性社長、ということで、どうしてもバリバリのキャリアウーマンっぽいイメージで行ったら、登場したのは物腰柔らかな女性だった。
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大学卒業後、外資のメーカーに入社したあと、躍進中のネット広告企業系列のモバイル事業の会社に入った。ちょうどi-modeとともにモバイル業界が急成長する時期で会社もどんどん大きくなった。それに連れていろいろ任されるうち、同業のパクレゼルヴ社に社長として引き抜かれたのだという。創業者の廣田氏はかなりのやり手で、他にも事業を展開し、パクレゼルヴ社を誰かに任せる必要が出てきた。聖子さんがいた会社とパクレゼルヴとは協業もしていたので、彼女の実力を知っていたからだろう。社長として大抜擢した。

そんな中、結婚して子供ができた。社長として雇われて半年後だったので叱られると思いつつ廣田氏に報告したら、つかつかと歩み寄ってきて「おめでとう!」と握手して祝ってくれたそうだ。なんと素敵な経営者だろう!

出産でのテーマは「仕事をいかに継続できるか」。何しろ聖子さんは仕事が好きで、できるだけ間をあけないためにいろいろ調べた。無痛分娩なら後を引かないと聞き、レクチャーを受けた。そのおかげで、出産後にとった一週間の休みの間もメールで仕事のやり取りができたそうだ。

赤ちゃんはいま七ヶ月。いいベビーシッターが見つかったので、実家のお母様にも手伝ってもらいながら、仕事となんとか両立させている。ご主人も子育てに一緒に取り組んでくれて、早く帰る日を交替で決めている。それでも無理を感じ、近々ご両親と同居することに決めたそうだ。

だから「赤ちゃんにきびしい国で・・・」の記事の中の”核家族には無理がある”という部分に強く共感したという。結婚して親と別居し、頑張って家を買ったとしても、子育ては手伝ってもらった方がいいし、介護のことも出てくるのなら、最初から同居した方がいいのではないかといま感じているそうだ。

女性も仕事を続けて家庭とうまく両立していったほうがいい。そう考える彼女は、社長として楽しそうに子育てしていきたい、その楽しさを若い女性社員に感じ取ってもらって自分もそうしたいと思って欲しいという。いま若い世代の女性には専業主婦志向がまた高まっているようだが、それでいいのかなと思っているそうだ。

聖子さんは経営という重たいものを背負いつつ、子育てにも追われているはずなのに、気負いがなくふんわりした空気を醸し出す。そんな自然体の姿勢こそ、忙しいキャリアママには必要なのかもしれない。

写真がヘタで全然良さが撮れていないのだけどこれが光が丘公園
写真がヘタで全然良さが撮れていないのだけどこれが光が丘公園

お会いしたもうひとりは、榎戸純子さん。よかったらご主人もご一緒にと申し出たら、休日の光が丘公園で会うことになった。初めて行ったのだが、都内にこんなに大きな、緑あふれる公園があるとは。そこにご主人の真哉さんと、二人のかわいいお子さんたちと一緒に来ていた。

純子さんは結婚したあとすぐ、ご主人の仕事の関係でアメリカで暮らした。一人目のお子さんは向こうで出産し育てた。

下のお子さん、泣かしちゃってごめんねー
下のお子さん、泣かしちゃってごめんねー

ご主人の職場は日本の会社の海外支社で、いわゆるシリコンバレーにある。カリフォルニアの郊外の伸び伸びした環境でゆったりと子育てできたそうだ。

アメリカではとにかく、子育てに対して手を貸したがる。困っている人を助けることにプライドさえ持っている、そういう文化があるのだという。ベビーカーを見ればすかさず手伝いに来る。だから向こうでの生活の中で、子育てをあまり苦に感じなかった。

ご主人の会社も日本企業ながらアメリカ流の働き方で、残業もほとんどなく子育てに十分参加してもらえた。

ベビーシッターを頼みやすい文化もあり、知り合いの高校生や大学生に気軽に頼み、頼まれるのが当たり前になっている。そもそも、子供だけを家に残して出かけてはいけない法律があるのも大きいだろう。

これは最初の記事を書いた時にやはりアメリカでの子育て経験を持つ人から言われたことで、とにかく子育てしやすい環境というか文化というか、整っているそうだ。制度が施設が、というのもあるけど、どうも子育てに対する社会のとらえ方がまったく違うように思える。

だから純子さんも、その後日本に戻ってきてギャップに驚いたそうだ。子供を連れて遠くに出かけようと思えない。そうする時には大きな覚悟が必要だ。出かける時はもっぱらクルマ。一度だけ、都内の友人宅に行く時にベビーカーで電車に乗ってみた。もちろんラッシュアワーは避けたが、もう二度とやろうとは思わない。

そしてそんな思いをしてもなかなか大きな声で言えない。母親が子育ての社会環境についてものを言ったらかえって白い目で見られかねない。だからこそ、ぼくの記事に反応したのだそうだ。第三者が、しかも男性が、自分の言いたいことを言ってくれている。

純子さんは帰国して東京での住まいを決める際、都内の実家の近くにしたそうだ。そのおかげで、子育てに関して大いにご両親のお世話になっているという。

もちろん誰よりも夫の理解とサポートが必要だ。その点、純子さんはご主人の真哉さんの支えを十分に得ていて、素晴らしい夫だとはっきり言っていた。自分の夫のことを胸を張って褒めるのは、素敵なことだと思う。

とは言え、子供と自分だけだと息が詰まってしまいそうだと、純子さんも働きに出ることにした。保育園を見つけるのはほんとうに大変だったが、運良く二人とも預けることができ、あるスタートアップ企業に勤めている。そちらは、まだ小さな会社らしいが、先ほどの聖子さん同様ベンチャー企業なのも面白い。

さて、純子さんと聖子さんが言っていたことの中で、共通していた印象的なことがある。今日の記事はほとんど、このことを書くために書いているのかもしれない。それくらい大事なことだと思う。

言い方は少しずつ違うのだが、子供ができるよりずっと前に、部下もしくは後輩が仕事上の大事な局面で「子供が熱を出しているので帰らせてください」と言ってきた。その時、帰宅を承諾しながら「この人はこれまでの人だったのね」と”その時は”思った。つまり大事な仕事よりも子育てを優先させたことを、当時はさげすんでしまっていた。

二人ともそれぞれ、その時のことを恥ずかしいことだった、間違っていた、と語っていた。母親になり、子供に愛情を注ぎながら育てることの大変さ素晴らしさを理解しているいまは、強く後悔しているのだと言う。

この話を聞いた時、すごく驚いた。子育てについて非常に愛情を持って語るお二人が、当時はそんな受け止め方をしていたなんて信じられない。信じられないけれど、そういうものかもしれない。

子供ができないと、子育ての大変さも素晴らしさもわからない。わからなかったことを恥じ、後悔もしている。だからこそ、ぼくに語ってくれたのだろう。後悔したことを誰かに語り、若い後輩たちに伝えたいのではないだろうか。

働くことは素晴らしいことだ。仕事を通じて自己実現への努力をすることは人生の大きな価値のひとつだろう。またそこには、同僚や先輩、上司、そして取引先への大きな責任もある。「子供が熱を出した」ことは個人的なマターに過ぎない。そんな個人的な事柄より、たくさんの人への責任が絡む仕事の方を優先させるべきだ。そうでなければ、仕事を通して自己実現できない!

それは間違っているのだ。

「子供が熱を出した」ことは、仕事よりも、その人にとっては優先するべきことだ。べき、と言うより、優先、と言うより、何をおいても、どんなに大事なことがあっても、すぐさま駆けつける事態なのだ。優先でさえない。

「子供が熱を出した」・・・「それはいけない、すぐ帰りなさい」「仕事の方は私たちみんなで力を合わせてなんとかするから」「気にしないで、さあすぐに行かなきゃ」・・・と、ならなくては。

いずれ母親になるであろう若い女性のみなさんもそうだが、男性も年配も含めて、あらゆる職場であらゆる仕事に携わるすべての人が、この点を理解しないといけない。「ちっ」と舌打ちしないで、「女はこれだから」とか思わないで、「子供が熱を出した」時に帰宅するのは当然だと認識を改めないといけない。なぜかこの国にはそういう文化がない。家庭は仕事の犠牲にするものだ。それが常識になってしまっている。でも、それは異常なのだ。

働くことに価値を見いだしている女性たちは、見いだしているほど、子育てが目に入らずに過ごしてきた。それが、結婚し子供ができると突然、子育ての世界に入り込む。まったく違う価値観に浸ることになる。その時になって初めて気づく。その大変さと素晴らしさに。仕事と比べようもない価値があることに気づく。

仕事は素晴らしい。仕事を通した自己実現に、誰しも、男性も女性も、取り組むべきだと思う。ただ・・・仕事は、自己実現は、実はその時々のものでしかない。学生時代に熱中したことが、いまは笑い話になったりするように、仕事で何かを達成したことも、年月が過ぎると意外にうたかたの夢でもあるのだ。その充実感は素晴らしい思い出になるが、その中身はその時の価値しかなかったりする。

子育ての価値は、それと同次元ではない。大袈裟に言えば、時空を超えた価値がある。大きいとか小さいとか、高いとか低いとかではなく、親にとっては何をもってしても計測できない、無限大の価値がある。”かけがえのない”という言葉があるが、なんて抽象的なと思いつつ、子育てこそが”かけがえのない”ものだと思う。

そんなことは、子供ができてようやくわかる。でも、もっと前に気づく方法はないものかと思う。それは、子育ての周りにある文化を変えることだ。子育てとはどういう作業なのかという情報に、若いうちに接する機会をつくるとか、子育てをもっと社会の中に入り込ませていくことだと思う。前に紹介した赤ちゃん先生プロジェクトはそのひとつだ。

いまの、とくに都市圏では、子育てと社会が分断されてしまっている。働く空間と子育てが入り交じって共生するような、そういう設計がこれから、必要だと思うのだ。それこそが、赤ちゃんにきびしい国をやさしい国に変えていくことだと思う。

そんなことに気づかせてくれた二人のお母さんとそのご家族に、ぼくは感謝する。

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言っていいことが、明日には言って悪いことになる。

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この記事は見出しを読めば、はは〜んあの件やその騒動のことね、と誰でも想像つくだろう。あるいは画像の上にカーソルを載せると出てくるいくつかのリンク先を見てもらってもいい。このところ続々起こったCMの放送中止やドラマへのクレームの嵐についての話だ。

CMの件では「えー!!そのギャグもダメなのー?」「キャラがいけないって意味わかんない!」と驚いた。クレームの意図が理解できなかったからだ。そんな表現までクレームがつく世の中になっているとはと愕然とした。

ただ、放送中止はけしからんとか、クレームつけるなんてひどいとか、あらためて書くつもりはない。その手の話はすでにさんざん出たことだし、ここで書きたいのは少し方向が違う話だ。

そもそも、表現とは不自由なものだとぼくは思う。

もちろん、ぼくたちは何を言ってもいい。表現は自由だ。ただし、自由とセットで責任もつきまとう。表現は自由だけど言ったことについては責任を持たなきゃな、ということだと思う。責任を持つ覚悟があるなら自由だよ、と。

例えば十年ぶりに会った友人の頭からすっかり髪の毛が消えうせていても「久しぶり!いやー、すっかりつるっつるになっちゃったねー!つるっ○○!」と思ったことをそのまんま口にしたら、それまでのつきあいによっては、もう二度と会えなくなるリスクを負う。上司にFacebookのはじめ方を質問された時「そんなことも知らないんだ!遅れてるなあ!」と思ったからと言ってそれを口にしたら、査定に響く危険がある。

憲法には「表現の自由」と書いてある。でも決して「誰が誰に対して何を言ってもかまわない」という解釈はしない方がいいと思う。だって条文はこれだ。

第21条 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
2 検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。

「表現の自由」を語るのに「集会、結社及び言論」となっている。これはつまり、政治的な意味での表現が前提になっていて、主に国家権力に対しての表現の自由なのだと言えるだろう。だからこそ第2項で「検閲」や「通信の秘密」が出てくるのだ。国家と国民の間の約束であり、国民同士にそのまま適用できない。

もちろん憲法にどう書かれようが、表現は自由だ。ぼくたちが何をするのも自由なのと同様に、表現も自由なのだ。その代わり、言ったことには責任がついてまわる。責任を考えず自由に表現していると友人に嫌われたり上司にマイナス査定を食らう可能性がある。そんなリスクを背負った上での、表現の自由なのだ。

少なくとも表現の自由には”範囲”があるのだ。

そして表現の自由の”範囲”は時代や状況、立場によって変化したりする。その変化が突然だったり極端だったり背景が見えなかったりするので、昨日まで言ってよかったことが、突然言って悪いことになって戸惑う。

ただ、いまその”範囲”について急激に過敏になっている。そこが問題だと思う。”○○○とはいかがなものか”と何かについて誰かが言い出す現象が増えている。ほら!あいつがまずい表現をした!とチェックしたがる風潮。検閲する公権力はいないのに、お互いに検閲しあっているような状況になっている気がする。

それをソーシャルメディアが加速してしまっている。誰かがぽろりと言った”いかがなものか”を、その通り!と最初の人が意図した以上に拡散したりする。ちょっとした一言が大炎上になりかねない。

だから、お互いに落ち着いた方がいいのではないかと思う。クレームをつけるのは自由だけど、「けしからん!即刻中止」と言う前に「考えられたし」でとどめるとか。言われた側も「はい、すいません」と謝る前に「じっくり検討してご回答します」とするとか。少なくともいきなりやめてしまわないようにできないものかと思う。

その上で、理想はお互いによく話し合うことだと思う。できれば直接。どこがまずいのでしょうか。どうすればいいのでしょうか。直に会って話し合えば、解決点が見いだせるかもしれないし、より良い表現に向かうかもしれない。ガイドラインをつくるとかね。

クレームをつけた側は話し合いを避けてはいけない。クレームをつける行為はけっこう重みがあることだ。クレームをつけた責任というものがあるはず。堂々と話し合いに応じるべきだと思う。

言いたいことだけ言いやすくなっている。言いたいことだけ言いあっていてもあんまりいいことにならない。言いたいことは面と向かってぶつけあう。そうなっていけば、表現とクレームの問題は”前へ進む”ことができるんじゃないだろうか。クレームがついたらそれを避けて通るように表現をやめてしまうのではなく、クレームに向き合う時代になっていけばいいなと思う。

BeeStaffCompanyのアートディレクター・上田豪氏と一緒に続けているビジュアル付きのシリーズ。今回もStippleの仕組みを使ってリンクを画像に埋め込んでいる。そして今回は上田氏の部下・Sくんがモデルとして登場。アナウンサーのイメージで演じてくれた。BeeStaffに来てくれれば、実物のSくんに会えるのでどうぞお越しを。

コミュニケーションディレクター/メディアコンサルタント
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ハイブリッドキャストはテレビを面白くするのか?〜3月7日放送・フジテレビ『人狼』事前取材〜

※この画面は開発中のものなので実際の放送とは細かな部分が違う可能性があります
この画面は開発中のものなので実際の放送とは細かな部分が違う可能性があります

ハイブリッドキャスト・・・と言われて、ああ、あれはね、と説明できる人はどれくらいいるのだろう。おそらく100人中5人くらいじゃないかと思う。いや、もっと少ないかな?

カンタンに説明するとNHKが中心になって開発した次世代放送の規格で、放送と通信を連携させることができる。テレビ番組にインタラクティブな要素を加える、スマートテレビの時代にひとつの主流になりそうな技術だ。

という説明は、概念的に理解していることを文章にしただけで、具体的なことが実はいまひとつ理解できていなかった。そもそもNHKだけで一般化するのかなあ、と思っていたら昨年12月にこんな発表があり驚いた。

「ハイブリッドキャスト、民放局でもサービスをスタート–2014年1月から実証実験」

え、ええー?そうなんだ!てっきり民放側は興味ないのかと思っていたので意表を突かれた。ただ、あくまで総務省の実証実験プロジェクトに民放各社が参加する、ということなので、各局がどこまで本腰を入れていくのかはわからない。

それにしてもハイブリッドキャストでどんな番組ができるんだろう。NHKの技研公開でデモを見てはいたものの、具体的にイメージできていないのでリアルなところを知りたいなと思っていたら、フジテレビ・メディア推進センター所属の小池一洋氏がその実験プロジェクト参加番組の担当だという。小池氏とはFacebookでお友達なので、図々しくも取材をお願いしてみたらどうぞどうぞとお招きいただき、2月末にフジテレビに行ってみた。

3月7日深夜1時30分から放送される『人狼〜嘘つきは誰だ?〜village05』がその実証実験番組だ。”人狼”はきっと皆さんご存知だろう。市民の中にまぎれこんだ人の姿をした狼・人狼を、プレイヤー同士が会話しながら当てるゲーム。これを番組化した企画は他の局も放送しているが、フジテレビはとくに力を入れて放送してきた。

その『人狼』をハイブリッドキャストでインタラクティブに放送するというのだから、視聴者もゲームに参加して楽しめる仕組みになるのだろう。果たして最新技術ハイブリッドキャストでどこまで面白くできるのか、期待したくなる。

フジテレビに着いて通されたのは、テレビ受像機がたくさん並んだ部屋。いわゆるスタジオではない。『人狼』のゲームそのものはすでに収録が済んでおり、そこにインタラクティブな仕組みを組み込む作業を進めている。それを確認するための部屋なのだ。

テレビがたくさん並んでるのは、”動作確認”をするためでもある。ハイブリッドキャスト対応のテレビ受像機は去年秋からようやくいくつかのメーカーが発売しはじめたが、まだ機種によって画面表示がちがったりズレたりする。あっちのテレビではちゃんと表示されるのにこっちでは端が切れちゃう、なんてことがないか確認するのだ。

『人狼』の説明の前に、そもそもハイブリッドキャストとはどんな仕組みなのか、ぼくもわかってなかったのが大まかに理解できたと思うのでここでデータ放送との違いを軸に説明しておこう。
hybridhikaku

この図はまず、左側がデータ放送の仕組み。リモコンのdボタンを押すと、番組の画面が縮小しL字型の部分に情報が表示される。この両方が放送波を通じて送られてくる。セカンドスクリーンを使う場合、そこに送られる情報はネット経由だ。また、テレビがネットにつながっていれば、部分的にネット経由での情報がデータ画面で表示できたりはする。

ちなみに日本テレビのJoinTVなら、このデータ画面とスマートフォンの連動ができる。

今度は右側を見てもらうと、データ放送とハイブリッドキャストの違いがわかると思う。まず情報部分はネット経由でHTML5で表示される。データ放送のBMLより格段に描画力が高い。しかも、データ放送のようにL字型に番組と情報を分けるのではなく、番組画面の上に情報を直接乗せて表示させる。いわゆるオーバーレイだ。

さらに、テレビとスマートデバイスを直接連携させられる。それにより、テレビの情報部分にスマートデバイスを通じて情報を表示できる。言ってみれば、スマートデバイスがテレビのコントローラーになってしまう。

うーん、全然うまく説明できてない気がするなあ。

ここは画面を見てもらうのがいちばんだろう。

人狼_プロフィール表示画面
この画面の下部分に出演者の顔が並んでいる。また右上には田村淳のプロフィールが載っている。これらの部分が”情報”に当たる部分で、ハイブリッドキャストによりネット経由で表示されている。この部分はリモコンやスマートデバイスで操作できる。『人狼』では「次に追放されるのは誰か」を予想し”投票”できる。スマートデバイス上で予想した出演者を選んで”決定”するとテレビ画面上に反映される。予想が当たると「正解!」と画面に文字が出てくる。

ここで面白いのは、当然ながら正解した人のテレビにだけ「正解!」と出る。テレビによって表示される画面が違うのだ。これに近いことはデータ放送でもできるのだが、画面の使い方が全然違う。画面の真ん中にどどーんと表示されるのは新しいテレビ体験だ。

スマートデバイスを使っていろいろな操作ができる。その画面はこんな感じ。
CA_トップ
ここで追放者を選んだり画面に表示される情報をオンオフしたりできる。

言ってみれば、番組映像をベースにしたテレビゲームで遊ぶ感覚。テレビを見ながらスマートデバイスを操作して表示を変えたり参加したりできる。出演者のゲームを受動的に見ているのではなく、まさしく”参加する”テレビになるのだ。

『人狼』ではもうひとつ別の趣向も用意されている。ゲームの内容とは直接関係ないゲームで遊べる。
人狼フリックゲーム
この画面の説明の通りだが、右側の枠内に狼か市民が出てくるので、指示通りにスマートデバイスをフリックするとポイントになる、というもの。番組の小休止タイムのちょっとした遊びだ。

これはCM放送時を想定して、CM中も視聴者をテレビに引きつけるための実験。チャンネルを変えたり席を離れたりさせない施策だ。『人狼』では点数に応じた特典映像がスマートデバイス上に届き、番組終了後に楽しめるそうだ。これもCMと連動した映像の配布を想定しているのだろう。

フジテレビの実証実験ではハイブリッドキャストと並行してデータ放送でも同じ体験ができる。もちろん画面の使い方や描画はかなり違うわけだが。2つの仕組みを同時に配信することでその違いなどがわかるのだろう。

でもその分、スタッフには2倍の労力がのしかかる。それにハイブリッドキャストはほぼゼロからの作業なので大変だ。放送当日までチェックにチェックを重ねる日々らしい。

フジテレビの実証実験は編成の小松勇介氏が命を受け、小松氏がメディア推進センターの小池氏、コンテンツ事業局の副島史郎氏に声をかけた。こういう仕事では新しいことに取り組む意欲がいちばん大事なので、他にも燃えてくれそうなメンバーばかり集めたという。そしたら核となる三人は十年前にBSフジでデータ放送起ち上げに参加したメンバーでもあった。時は繰り返して進んでいくのだ。

小松氏がこだわったのは、セカンドスクリーンに視線が集中しないような仕組みづくり。いくら新しい技術を駆使しても、番組を楽しんでもらわないと意味がない。あくまで番組をさらに面白くするためのセカンドスクリーンにしようとメンバーに呼びかけたそうだ。

お三方からは、苦労話や課題の多さを聞いたのだけど、大変だ大変だと言いつつどこかそれを楽しんでいるようだ。新しいことに取り組む高揚感が言葉の端々からにじみ出る。テレビが次の時代に向かって新しくなることを予感させてくれた。

3月7日深夜の放送で、そのインタラクティブな面白さをみんな体感するといいと思う。ただし、ハイブリッドキャスト対応テレビじゃないと上に書いたことは体験できない。データ放送とスマートデバイスで楽しみながら、ハイブリッドキャストの画面を想像してください。

それから、各局の実証実験を機に一気に日本のテレビ界がハイブリッドキャスト一辺倒に向かうわけではないだろう、という点は書き添えておきたい。あくまで”実験”の段階だ。何しろ手がかかるので、対応機種がかなり普及しないと日々の番組で取り入れられないだろう。

ひょっとして2020年までに普及が進めば、東京オリンピック中継が各局ハイブリッドキャストで面白い放送をするのかもしれない。インタラクティブなオリンピック観戦なんて、楽しそうではあるかな。

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