【赤ちゃんにやさしい国へ】これは大きな家族であり、ひとつのムラかもしれない〜自主保育・野毛風の子(その2)〜

少し前に書いた、自主保育・野毛風の子の活動。

【赤ちゃんにやさしい国へ】みんな自分の子供みたいに思える場所〜自主保育・野毛風の子〜

その続きを今日は書いていく。

前回の記事で「預けあうためには信頼関係が重要で、月に一回のミーティングで意見を言いあうことでそれが築けるそうだ」と書いた。そのミーティングの場におじゃました。

区民集会所という施設がある。ぼくも長らく東京都に住んでいるが、そんな施設があるのは知らなかった。区民であれば気軽に使うことができる。風の子のミーティングはここで行われる。
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写真で見せるほどのこともない、こんな地味な施設だ。

広い和室があり、二、三十人なら集まって何かをすることができる。高齢者の集まりなどにもよく使われているようだ。

そこにお母さんたちが集まっていた。子供たちも連れてきている。広い部屋がうれしいのだろう、ドタバタ走り回る子もいてなかなか賑やかだ。そんな中、ミーティングがはじまる。

まずその進め方。進行役が明確に決まっていないようだ。じゃあ○○さんから、と誰かが言って、その○○さんが話しはじめる。この一カ月の中で気づいたこと、感じたことなどを話す。

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話している間、小さい子はテーブルがロの字型に組まれた中に入り込んだりする。置いてある紙をつかんじゃったり。走り回っていた子がお母さんのところに行って話しかけたり何かをせがんだり。

「会議」としてはせわしなく落ち着かない。自分の子どもの相手をするので、他の人が話していることに耳を傾けられない人もいる。見ていて、この会議は大丈夫なの?と、やきもきしてしまった。

でも、誰一人としてその状況にいらだったりする人はいない。聞ける人が聞く。そんな進み方。時折、それなりに深刻な内容を話す人もいる。それに対し真剣に意見を返し議論になったりする。でも横では子どもの相手をする人もいる。

なるほどなあと思った。進行役がはっきり決まっていないのは、決めたところでその人がずっと司会できるわけではないからだろう。子どもの相手もしながらできることをする。進められるように進める。

一方で、真剣な話もするし、トラブルについても対処を話し合う。何しろ毎日の保育を続けないといけないし、先生や園長さんが解決してくれるわけでもない。自分たちで解決するために、本気で意見を出しあう。

午前中の2時間いっぱいかけてひとりひとり意見を言う順番が回ってくる。慌ただしくしながらも、聞ける人がそれを聞いて話し合う。

信頼関係ができてくるのは、こういうことなのだなあとわかった気がした。話をする時間をじっくり持って、問題を共有し対処をみんなで考える。言いたいことを呑み込んだりガマンしたりしない。だって我が子のためでもあるから。

会社の会議が表面的になりがちなのに比べて、実はここには本来的な議論の場がある。会社だと、とくに定例会議になるほど儀式化してしまう。あー、今日も上から突っ込まれなくてよかった、というのが会社の会議。何事も起こらないようにしたいし、だからこそホンネなんか言えない。それが会社の定例会議だろう。その違いが面白かった。これは組織運営の手本にもなるのではないかと思う。

定例ミーティングの取材のあと、3月はソツカイシキがあるからよかったら来ませんかと誘われた。ソツカイシキ?あー、卒会式!幼稚園なら卒園式だが自主保育は”会”なので卒会式と呼ぶのだと気づいた。保育活動と同じ多摩川の河原でやるという。河原でそんな行事を行うなんてどんな感じなんだろう。面白そうなので行ってみた。

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行ってみたら会場はこんな感じだった。ほんとうに河原で卒会式。東京都内の、世田谷区で、こんなにラフな雰囲気の催しが行われるとは。そこからして、面白い。

保育活動を見学した時より人数がずっと多い。卒会式には、日頃のメンバーが勢ぞろいするだけでなく、お父さんも来ている家庭もある。少し前に卒会した子どもやお母さんも来ていたり、他の自主保育のメンバーも招待されていたり、いつもより断然賑やかに開催されるのだ。

参加者はお昼ごはん用に何か持ち寄る。それを2つのテーブルにずらり並べてあった。
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それぞれがつくった食べ物を持ち寄る。これは素晴らしい行為だと思う。その集団の気持ちが理屈を越えてひとつにまとまる。大切な時間を一緒に過ごすことが強く実感させられるのだ。まるで大きな家族になったような。その上、それぞれが美味しかったこと!ぼくもイチゴを買ってヘタだけ取って持っていった。”つくった”とはお世辞にも言えないが、あっという間になくなってうれしかった。

みんなで昼ごはんを食べたあと、卒会式がはじまった。手作り感満載の会場で、意外に多様なプログラムだ。
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卒会するお母さんが挨拶をするのだが、その中のひとりのお母さんが途中で号泣。楽しい思い出がいっぱいあっただろうし、でもつらかったこともあったに違いない。つらいことも、大変なことも、この仲間たちと一緒だったから乗り越えられた、そんな思いが、胸の奥から込み上げてきたのだと思う。

場所が屋外、河原だったこともあって、見ているとそこは”ムラ”のように思えてきた。それぞれが住んでいる場所は近所とは言えない離れた家ではあるけれど、毎日のようにこの河原に子供たちと一緒に集まって、夕方まで過ごしてきた。家が別々なだけで、ここにいるお母さんたち、子供たちは一緒に”暮らして”きたのだ。日常的に時間をともにし、ミーティングでは言いたいことを言いあう。そうやってこの共同体は続いている。そこにあるのは疑似的ながらはっきりと”ムラ”なのだ。

“ムラ”の中心は子供たちであり、お母さんたちだ。お父さんたちはその周りにいてお母さんたちをサポートしている。周囲の”ムラ”の人たちとも連携があり、OBたちも支援してくれている。人びとが一緒に暮らす形の原初的な姿がここにある気がする。

ムラが”くに”になり、国になって国家になっていった中で、ぼくたちが落っことしてしまった何かがこの河原にはあるのだと思う。子育てがどこか息苦しくしんどいものになってしまった時、子育てを軸に共同体ができたら、人が集う本来的な姿が見えようとしているのかもしれない。
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自主保育の活動に接して、子育ての問題解決の大きなヒントがそこにある気がしている。別にみんな幼稚園や保育園をやめましょうということではない。お母さん同士で自主的に保育活動することで万事解決と言いたいわけではない。相変わらず保育所は足りないのだから、増やすべきだと思う。

一方で、保育所を増やせば、待機児童をなくせばそれでいい、ということでは決してないと思う。自主保育から感じとれるのは、子育ては本来、みんなで力を合わせるものだということだ。誤解を恐れず言えば、行政なんか当てにしないで考えよう、ということだ。

幼稚園や保育所を利用したにしても、しないにしても、子育ての問題には自分たちで考えて自分たちで立ち向かうべきなのだと思う。そしてお母さんたちがそうすることで、河原みたいな場所がなくても”ムラ”がきっとできるのではないだろうか。

まだ全然考えがまとまらないのだけど、そんな考え方の延長線をぐいーっと引っ張って進んでいくと、子育てだけでなく社会全体の様々に波及する何かができる気がしている。でもまだまとまらないのでそれは追い追い書いていきたいと思う。

それから、自主保育はあくまで仕事を持っていないお母さんへの処方であって、パートや時間に融通の利く働き方の人なら参加可能だが、フルタイムで会社勤めする人にはできない。できないけれど、これもやり方があるのではないかと思う。これについても、また追い追いですね。

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ところで、「赤ちゃんにきびしい国で、赤ちゃんが増えるはずがない」の記事にはじまるこうした取材や、それにともなって考えていったことを、書籍にできないかと考えている。赤ちゃんと、そのお母さんの悩みや、それを解消するための活動、ひいてはひとりひとりのお母さんには、何かとても重要なメッセージがたくさん隠れている気がするのだ。それを少しずつひも解いて、ひも解く過程を本にできないだろうか。もし、興味を持ってくれる編集者の方がいたら、下記にメールをください。この作業は続けていくので、気長にお待ちしています。

コミュニケーションディレクター/メディアコンサルタント
境 治
What can I do for you?
sakaiosamu62@gmail.com
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