メディアとは、凶悪と正義の間をウロウロしつづける存在だ(そして人間も)〜映画『凶悪』をもとに〜

これから書くことは、うまくまとまるかどうか自信がない。映画『凶悪』と先週の『笑っていいとも!グランドフィナーレ』を関係づけた内容になる予定。文章のゴールはたどり着かないとわからないし、ゴールはないかもしれない。

kyoaku
※サイトのキャプチャー勝手に使ってます。まずかったら言ってください

この週末に映画『凶悪』を観た。去年、すごいすごいと聞いてワクワクしたのに観に行きそこねた。それがAppleTVに入ったのでさっそく観た次第。そうしたら、聞いていた以上にすごい映画だった。公開規模が大きかったらもっと話題になっていたんじゃないだろうか。去年の邦画では『舟を編む』や『さよなら渓谷』なんかが素晴らしかったと思うけど、それらと並ぶくらいの作品だった。

山田孝之演じる週刊誌の記者が、ピエール瀧演じる死刑囚からの手紙を受け取る。自分と一緒に殺人を犯した木村が許せないので記事にしてくれと言う。この木村をリリー・フランキーが怪演。物語は、記者の取材を通して二人の、まさに凶悪な様子を描き出す。

ピエール瀧とリリー・フランキーの凶悪ぶり、執拗に過去を追う山田孝之の執着ぶりが両方とも凄みがある。とくにリリー・フランキーがうひゃひゃと下品に笑いながら酷いことをしていく様は目を背けたくなる。これはホントに観て損はない。このリンクからiTunesで観れるので未見の方はぜひ。

そういう犯罪ものとしての面白さにぐいぐい引き込まれて見続けていると、最後の方で突然、映画の刃が見ている側に向けられる。

事件の取材にかまけて家庭をほったらかしにし続けた記者に、池脇千鶴演じる妻が記事を読んで言う。セリフをそのまま書くのは避けるが、要するに、こんな変な事件を追ってたのは、あんたが面白がってたからだ、と言う。読んでる自分も面白かったし、とまで言う。

信じられないような凶悪な事件が起こった時、人間はこれほどの悪をなしえるのかと思いながら、ぼくらは面白がっている。

「ひどいねえ、こんな人間っているもんなんだねえ」とか「結局この男は命を金より軽んじていたんだねえ」とか、言ったりしながら、ぼくたちは事件のニュースを追う。詳しく取材したワイドショーを見る。犯人の人物像を掘り下げた記事を読む。

映画『凶悪』が描く凶悪とは、人を面白がって殺めていく犯罪者たちのことを言っているのか、それを面白がって取材する記者のことなのか、その記事を面白がって読んでいる読者視聴者のことを言っているのか。たぶん全部なのだろうなあと思う。

記者は「こんな犯罪が野放しにされていいのか!」という正義感に燃えて、埋もれかけた事件を暴き、確証を掴んで記事にする。それがすべてを白日にさらし、真の犯罪者をあぶり出す。正義だ。その正義感には一点の曇りもなく、純粋なものなのだ。

でもその正義感と一体となり、決してはがれることのない裏表の関係で、面白がっている心もある。いや、埋もれていた犯罪を調べ上げて世間にさらすなんて、こんなに面白いことはないだろう。

それがメディアの宿命なのだと思う。メディアは社会の公器だから、正義の立場で不正を暴く。そこには重要な役割がある。でもその正義の報道の裏側には”面白いでしょ?”が張り付いている。受け取る側も、それはけしからん!という言葉の裏に”うん、面白い”がくっついている。それが人間の本質だろうから。

面白くなければメディアじゃないのだ。

と、言っていると、思い出した言葉がある。

楽しくなければテレビじゃない。

フジテレビが80年代に掲げたスローガンだ。

先週の月曜日、夜に『笑っていいとも!グランドフィナーレ』と題した終了記念番組があるというので、早めに帰宅して最初から観た。

明石家さんまが出てきて、タモリと二人での「日本一の最低男」というだらだらトークする懐かしいコーナーを再現した。途中でダウンタウンやとんねるずやウッチャンナンチャン、爆笑問題など、バラエティの主役級たちが続々現れ、全員そのまま居続けた。

ほんとうは交替で出てくるはずだったのが、次々に全員出てきてしまったものだから、もう台本も何もないカオス状態になっていた。あとで出てきた記事を読むと、ほんとうに予定外の状況になったらしい。

ああ、こういうの懐かしいなあ、と思った。

80年代のフジテレビは、カオスだった。カオスなところがよかった。誰か天才のコントロールで番組が行われたというより、台本も何もない感じが面白かった。面白かったというより、うひゃーとか、わちゃーとか、まずくないこれ?という感じ。際どかったというより、度を超えていた。むちゃくちゃだった。

70年代までのテレビを引っ張っていたTBSは、完璧だった。「全員集合」にせよ「ザ・ベストテン」にせよ、決められた進行に沿って生で完璧に進んでいた。誰かが明らかにコントロールしていた。そこがすごかった。

でも80年代のフジテレビは、カオス。むちゃくちゃ。

猥雑さ。メディアにはそれが必要なのだと思う。”メディア”とは不思議な言葉で、訳すと”媒体”でしかない。USBメモリとかSDカードとか、そういうものもメディアだ。でもマスメディア、などという時のメディアは、コンテンツの入れ物だ。そしてそこには猥雑さがまとわりつく。人びとのどん欲な好奇心、のぞき見趣味に応える存在なのだ。

そこを、肩ひじ張らずに、知的なプライドはかなぐり捨てて「楽しくなければ」と言ってのけたところに、80年代のフジテレビのパワーの源泉があった。

面白かったと書いたが、当時素直に面白がっていたかというと、少し違う。けっこう蔑んでもいた。こんなことでいいの?などと感じていた。実際、『笑っていいとも!』の最初の頃には司会のタモリさえ引いているように見えた。素人が登場するコーナーがたくさんあって、こんな人出していいのかよ、と思ってしまう奇妙な人びとがよく出ていた。目を背けたくなる。

際どいことを言うが、『凶悪』で木村が繰り広げる悪行から目を背けたくなる感覚と似てるんじゃないかと、そう思うのだ。

目を背けたくなるので顔を手で覆っているのだけど、指の隙間から見ちゃう。やっぱり見たいからだ。

”メディア”のミッションがそこにはある。時に正義を振りかざしながらも、その裏側に「これ、面白いでしょ?」という凶悪さをこっそり隠し持つ。その企てがうまくいくと「うん、面白い!」という世間の反応が出て部数や視聴率につながる。

マスゴミという言葉があって、最近のネット中心の若者がマスメディアを腐す時に使われる。でも80年代からぼくたちはテレビをマスゴミだと実は思っていたのだ。

だからマスゴミでいいじゃないですか、と言いたいわけではない。ただ、正義と凶悪の間でウロウロ迷いながら行ったり来たりしつつ「これ、面白い?」と提示しつづけることをメディアは続けないといけないのだろう。

えーっと、やっぱり何を書いているのかわからないままだけど、これで終わりです。

コミュニケーションディレクター/メディアコンサルタント
境 治
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@sakaiosamu

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