ぼくはいま、自分の肩書を”メディア・ストラテジスト”なんてしている。名刺にはコミュニケーションデザイン室、とか書いてある。プロフィールには“元コピーライター”なんてある。
でも本当のことを言うと、ぼくはいまもコピーライターのつもりだ。
もう何年も、コピーと呼べる言葉は一行も書いてない。でも、コピーライターなのだ、ぼくは。自分のアイデンティティはコピーライターだと思っている。コピーライターはコピーを書かなくてもコピーライターなのだ。
そんなふてぶてしいことを胸を張って言うのは、梅本洋一さんのおかげかもしれない。
その梅本洋一さんが亡くなったそうだ。
梅本洋一さんは、コピーライターの大先輩だ。30年前から、大御所的な存在だった。昨日、亡くなったという情報が伝わってきた。聞いた途端、目に水分がぶわっと出てきた。しまった。ぼくは梅本洋一さんにお伝えすべきことがあった。訃報を聞いてそのことに気づくなんて。
25年前、ぼくはI&Sという広告代理店に入社した。気後れがちな映画青年だったぼくは、CMプランナーというものになりたくて、制作職を希望した。クリエイティブ局に配属になったが、コピーライターをやれと言われた。
コピーライターって、あの同級生でもミーハーなやつに限ってやりたいとか言ってた、浮ついた職種だろう?
と戸惑いつつ、やってみた。やってみたら面白かった。なに?おれ、意外に言葉が好きだったの?言葉にもイメージとかあるわけ?面白いよ、これ。
ちゃんと勉強しなきゃと思って、会社の奨学金制度(ケチだから貸してくれるだけ)を利用してコピーの学校に通った。最初は雑誌・広告批評がやってる広告学校に通った。でもそれはあまり実践的ではなかった。2年目に、宣伝会議主催のコピーライター養成講座にまた通った。この教室は歴史が有り昔は”クボセン”と呼ばれてコピーライター界の先輩たちはみんな行ってたという。
大学のゼミみたいに、ひとりの講師について週一回の授業で半年学ぶ。その時、なんとなく選んだのが梅本洋一さんの教室だった。
80年代にコピーライターという職業が浮上した際、糸井重里さんや仲畑貴志さんが世間的に有名になったが、お二人以外にも星のようにきらめく才能たちが素晴らしい表現を生み出していた。梅本さんはそのひとりで、「梅は咲いたか、YMOはまだか」とかサントリーのペンギンアニメCM「泣かせる味じゃん」、それからサントリーホワイトの「いとしのホワイト、ください」などで知られていた。そう、レイ・チャールズに「いとしのエリー」を歌わせたあのキャンペーンだ。あ、若い人は知らないか。
どうせ教わるならカッコいい感じの人に教わりたいな。そう思って、梅本さんの教室に申し込んだ。ぼくは”感性”みたいなものとは無縁で生きてきたので、こういう感覚的にカッコいい感じの書き方を教わるべきだと、大した考えでもない考え方でそうしたのだ。
梅本さんは、間近で見てもカッコよかった。ヒゲを上手にはやしていて、派手なカッコはしないが落ち着いたファッションで身を包んでいた。小柄だけど良く通る、知的だけどエネルギーを感じる声で滑舌良く話す人だった。当時、30代後半だったはずだ。いまだと30代後半は若造だけど、当時は業界自体が若々しく、ベテランの重みを漂わせていた。
その梅本さんが、最初の授業で言った。
「これからのコピーライターは、コピーなんか書かなくていいんだ」
何を言ってるのかよくわからなかった。カッコいいコピーの書き方を教わりに会社に奨学金借りて意気込んで通い始めたらいきなり「コピー書くな」というのだ。
それはつまり、考えろ、ということだった。コンセプトワークしろ、ということだった。コピーライターはいきなりいっぱい言葉を書いて書いて、というのではなく、言葉にする前に考えに考えろ、ということだったのだ。
なんとなくわかった。けど、わかってなかった。
多くの人は、コピーライターとはあのポスターやCMにのっかってる言葉を考える人でしょ?と思っているだろう。当時のぼくもそうだった。でも梅本さんが教えてくれたコピーライター像は、ちがうのだ。
うまく説明できないかもしれないけど、コンセプトメイカーたれ、ということかな。その仕事の、課題となる広告表現の、核になることを考えろ、ということ。
梅本さんに教わらなくても、コピーライターとしてちゃんとキャリアを積み重ねていくと、みんなそれがわかるようになる。みんな、そうするようになる。もちろん「なんかインパクトあるやつ、一発たのむよ、サカイちゃん!」とか言われて、結局は言葉を何十案も考えてひぃひぃ言うことにもなる。だがそれは実は、コピーライターの仕事の本質ではなく、コピーを書くこととはコンセプトを探り出し形作ることであり、最後にそれをひとことの言葉にできればそれでいいのだ。言葉をひねくり回しいじり倒すのは、コピーライターの仕事の派生的な作業に過ぎないのだ。ほんとうに素晴らしいコンセプトを見いだせれば、その結実として「キャッチフレーズは、”ありがとう”です」でいいこともある。
そんなことは、梅本さんに教わったあと、何年も実際に仕事を積み重ねて理解していったことだ。ある時ふと気づいて、「ん?いまこのおれがこの仕事でやったことが、梅本さんの言ってた”コピーを書くな”ってこと?」と悟りを開くようにわかるのだった。
梅本教室は半年で卒業となったけど、そのあとも時々、一緒に学んだ同級生や、梅本教室での後輩たちも加わって、酒を飲んだりした。
そのうち、ぼくはTCC新人賞に応募した。TCCとは東京コピーライターズクラブのことで、新人賞をとるとその会員になれる。いわばコピーライターの登竜門。新人賞をとれば一人前、プロとしてのお墨付きをもらえる、という賞だった。コピーライターになったら誰もが目標にする、大きな意味を持つ賞だ。
審査するのは、コピーライター界の先輩たち、重鎮たち。もちろん梅本さんもそのひとりだった。
新人賞に応募する時、審査員に相談する連中もいた。そこには、少なからず、前もって作品を見せて票を入れてもらう、できれば他の審査員にも喧伝してもらう、という意図もあったようだ。ぼくは考えた末、相談に行かなかった。自分の力だけで受賞した、と言えないといかんのだと思ったのだ。
審査が終わる頃だなあとそわそわしてたら、梅本さんが電話をくれた。「おめでとう!境も受賞してたぞ!」うれしかった。念願の賞を受賞し、それを梅本さんがわざわざ電話してきてくれて知ることができた。うれしくてうれしくてたまらなかった。「境のは最高賞ではなかったけど、票数が多くてその次ぐらいだったぞ。いやー、おれもあの作品を境がやったとは思わなかったよ」と言ってくれた。それもうれしかった。うれしかったけど、ああおれは師匠に義理を欠いちゃってたんじゃないかとも思った。いい作品ができた。TCCに応募しよう。そんな時に、梅本さんに報告に行けばよかったじゃないか。別にせこく賞がとれるような画策なんかじゃなく、これとこれを出品しようと思うんですけど、と相談に行ったってよかったじゃないか。生徒なんだから、尊敬してるんだから、素直に甘えてよかったんじゃないか。そんなことを、電話が終わったあと思った。
その後、ぼくはフリーランスになった。梅本さんみたいになりたかったからだ。仕事を重ねるほど、コピーを書いちゃダメだ、の意味がわかっていった。
さらにそのあと、ロボットに入って経営企画室なんてことになった。いまはソーシャルテレビがどうしたとか言ってる。コピーは比喩じゃなく書いてない。コピーはまったく書いていない。でも、実は仕事への姿勢は変わってない。本質を見抜く努力をしてコンセプトメイカーとなるのだ。ロボットでは経営を進めるためのコンセプトをまとめ、いまは新しいコミュニケーションづくりをするためのコンセプトを考えている。ぼくにとっては仕事の中身はほとんど変わっていないのだ。問題を解決するために、やるべきことを考えて、まとめる。コピーライターの仕事なんだ。
TCC新人賞の時に素直に弟子として甘えられなかったが、その後も結局、フリーになる時も、ロボットに入る時も、相談もしなければ報告もしなかった。梅本さんはどう思うのかなあ、梅本さんに知ってもらいたいなあ、梅本さんに教わったことはコピーの仕事を離れても役立ってます、あの通りやってます、そんなことを言えばよかった。伝えなきゃ、いけなかった。
梅本さん、ごめんなさい。ちゃんと言ってませんでした。25年前に教わったこと、その通りのことを、いまもやってます。教えてくださったことを、ありがたいと思ってました。思ってたくせに、言えませんでした。不肖の弟子です。
ぼくは、せめて、梅本さんに教わったことを、また若い人たちに教えていくことにしよう。コピーライター諸君、コピーなんか書いてちゃダメだぞ!本質を見抜け。解決の核になることを見つけて、カタチにしよう。そのために、考えて、考えて、考えよう。これはきっと、どんな仕事にも役立つから・・・
関連記事
小曽根と申します。
TCC2000年入会です。
私も梅本さんの教え子の一人です。
1987〜88年 宣伝会議55期・岡田耕&梅本洋一クラスでした。
梅本さんの訃報を昨日のTCCのメールで知りました。
ずっといつか梅本さんに再会したいと思っていました。
下手クソながらコピーライターって仕事に食らいついてきた20数年。
運良く新人賞いただけましたが、いつか梅本さんに会って挨拶したかった。
もう叶わないんですね…
あの大胆不敵なキレのいいコピー、今夜再読します。
小曽根さん、コメントどうもです。ぼくが通ってたより1、2年前ですね。岡田耕さんのお名前も懐かしい。
TCCでお別れ会をやるそうなので、その時に梅本さんに会えますね。その時は、ちゃんと伝えるべき気持ちを伝えて、きちんとお別れしましょう。
ふざけた言い方ですが、梅本さんはオビワンケノビのように、ぼくらの胸の中に居続けて、教えてくれるのだと思います。考えてみれば、これまでも二十数年間、胸の中で指導してくれていました。これからもずっといるんですよ、きっと。
境さま 初めまして加藤麻司と言います。1988梅本クラスの卒業生で、コピーライターです。TCCの赤城さんとも話をして、お別れ会が実現したら、梅本クラス有志の追悼の言葉を集めて、ラフな形でもいいから喪主を務めた弟さんに手渡ししたいと思っています。後輩で、2010年の卒業生もいたりして、一旦、ボクがまとめ役やるから、やろう!と企画を立ち上げました。同じような動きをされる方とも同調したく、一度、境さん、ご連絡いただけないでしょうか。小曽根さんはボクのひとつ前の世代ですね。よろしくお願いします。