去年、「ぼくたちはどうして消費に冷めてしまったのだろう」という記事を書いた。これはちょっとだけ多くの人に読んでもらえたようだ。自分としても何か大事なことへの入口に立てた気はしていた。それでそのあと、続きにあたることも書いてみた。“広告”とは別に”共告”という概念を考えだしたという記事と、消費者って捉え方がそもそも情けなかったんじゃないかなという記事、消費に冷めたぼくたちと広告じゃなく共告だってこととソーシャルテレビについて書いてみるなんていうのも書いたな。
でもどうも”つまりこういうことだ!”とズバッとは言えていない。うーんと、えーっと、という感じだ。頭の中では完成形がもやもやとできあがりつつある気がしてるのだけど、うまく言葉にできていない。ということはやっぱりできあがっていないんだな。
なんとかそこを、完成させて形にしていきたいと思うんだよ。だってね、クリエイティブビジネス論にとって、消費とメディアやコンテンツの関係はすごく重要だからね。
で、年も明けたことだし、春までに少しずつ結論に近づくようにしていきたいという、そんな狙いのシリーズの最初の記事だよ、これは。
この日曜日、1月7日の新聞のページをなんとなーくめくっていて、おや?と気づいた。なんだ今日の新聞!健康食品や旅行の通販ばっかりじゃんか!
ちなみにうちは日本経済新聞をとっている。もう二十年くらい購読しているかな。日経といえば日本随一の経済紙だ。一般紙が広告で苦労しても、日経はちがうよ、ということになっていたんじゃないのか。それがこんなにめくってもめくってもチラシだらけでいいのか?と憤るやら不安になるやら。
でもそれは電車に乗っていても似た感じがある。中吊り広告はほとんどチラシだ。チラシがだらだらぶら下がっている電車にぼくたちは乗っているのだ。
この話の流れで書くと、最近のテレビCMはずいぶん顔ぶれが変わった。知らない会社のCMがぐんと増えたと思う。そしてなんだかチラシみたいなCMが多い気がする。
こんな話は、“昔はよかった“的な話になっちゃうな、結局。何しろもう50才だし。往年の、広告がビカビカ輝いていた80年代に広告制作の世界に入って、その栄華を見てきた世代だから、広告の情けない姿を憂いているわけだ。うん、そうだね、実際。
そしてそんな自分を客観視して言うと、おっさん、あんたらの時代がおかしかったんちゃいまんの?となる。そもそも、広告なんて、看板かチラシやんけ。あんたらの時代に、その間に何か素敵な手法があり表現があるんだと勝手に思い込んだだけちゃいまんの?うーん、そうなのかもしれない。
広告はまず、看板として機能すればいいのだろう。商品写真がばーんとのっかっていて、その上に商品名がどーんと配置されていさえすれば、いいのではないか。そうじゃねえの?そうだろうが!とすごまれたりしたらもう、はいはいそうです、まちがいございません、とシュンとなっちゃう。
次にチラシであればいいはずだろう。商品がずらずらずらーっと並んでいて、それぞれの価格がはっきりくっきり表示されていればいい。その中で売れ筋のものはとくにでーんとでかく扱いたいね。あと、ぐいっと値引きした商品は30%OFF!と強調しておきたいもんだ。そうしてくれよな、そうしてくれるんだよな!と大声で迫られたら、もちろんですとも!とその通りにいたしまするよ。
看板とチラシだ。看板は、メーカー側のスタンスの広告。とにかく、商品を知ってください、憶えてください。チラシは、流通側の立ち位置の広告。これがありますし、これが安いので、買ってください。
看板とチラシこそが広告の本来の役割なのだ。それなのに、ぼくたちは看板とチラシの間に何かがあるつもりで、一所懸命企画していた。クライアント企業には、ブランディングですとかイメージが大切ですとか、今思えばふわふわしたことを言って説得していた。企業の側もそれなりに説得されてくれていた。クリエイターのあなたが言うなら、よっしゃ!そのアイデア買いましょう!と言ってくれていたわけだ。
もちろん、それもまちがっていたわけではない。ひとりの消費者としても、そういうふわふわした部分が商品を選ぶ際にひとつのファクターとなっていた。なんとなくCMが好きだから、という理由で商品を買った経験もはっきりある。
でもそのブランディングというやつ。いまはすでに、商品そのものがブランディングを決定するようになってしまった。受け手のレベルが上がったからなのか?AppleのCMは商品がどどーんとど真ん中にあり、まさに看板みたいな機能だけど、十分ブランディングを果たしている。いくら素敵なタレントを起用しても、スマートフォンとしての商品性がダメならほとんど意味はない。
CMがチラシの機能を大きく果たすこともある。通販企業のCMが増えているのはその表れだ。ネット企業のCMも、即効性が高い。さっきの日経の広告もチラシだらけだ。効果があるから新聞の紙面を使ってチラシみたいなことをするのだ。十分なレスポンスがあるからこそ、電話番号を掲載した広告を打つと電話がかかってくるのだろう。
昔、新聞広告を作る時は、“ボディコピー”を書くのに血道を上げた。大げさだけど、聖なる文章を書くような気持ちでボディコピーを練った。それがブランディングになりますとかなんとか言って。
いま、当時の新聞のボディコピーから伝わったようなことは、ソーシャルメディアを通して伝わるようになりつつある。そういうことになりはじめているのだと思う。
企業や商品の姿勢や理念みたいなものを、クライアント企業からブリーフィングを受けてコピーライターが書いていた。それはいま思えばどうなのだろう?企業のメッセージを代筆していたのだ。もしいま、ソーシャルメディアの運用を企業から委託されたとしたら、やはり代筆することになる。企業の気持ちや心持ちを代筆するのだ。それは実は大事な作業なのではないだろうか。
うーん、何か大事なことに入っていっている気がするけど、眠くなったので今日はここまで。この流れは少しずつ、でも着実に書き進めていくので、気長につきあってね。
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