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コピーライター→映像製作会社ロボット→広告代理店ビデオプロモーション→再びコピーライター(フリーランス)。 メディアとコンテンツの未来を切り拓くコミュニケーションをデザインします。講演・執筆依頼もお気軽に!

高度成長の焼け跡に、ぼくらはiPhoneを手に立っている

今日、ある方と会食した際、言ってたこと。「これから面白くなるんじゃないですかね。だって日本が戦後の焼け跡以来、60年ぶりに迎えようとしている時代がはじまるってことですから。敗戦ですべて焼けてもうイチから作るしかない状況と同じですよ。ソニーだってホンダだってそんな中に生まれたわけですしね」ちょっとちがうかもしれないけど、だいたいそんな内容のことを言ってらした。

ぼくと、同席した新しもの好きのおじさんは、うんうん、と深く何度もうなずいた。

そう、それでもってぼくらにはインターネットがあり、iPhoneがある!

昨日ぼくは、この国は”会社に生かされてる”社会だと感じて、そこから逃げて生きてきた、と書いた。(こっからすげえ個人的な”想い”です、すんません!)ぼくは九州の超進学校を出ていわゆるひとつの最高学府に入学した。その頃の気分は、やべえ、このままだと”会社に生かされる人生”になっちまう!ってことだった。

そこでなんとかそこから逃げ出そうと思った。なんとなく”ギョーカイ”に逃げ込み、そこでコピーライターの肩書きを手に入れた。するとどうやらコピーライターはフリーランスな生き方が”有り”だった。よし!と20代はがむしゃらに頑張って30の時、TCC新人賞というものを獲得。ここだ!とフリーランスになった。

フリーランス生活は確かに”逃げ出せた”実感があった。いま思えば幸いなことに、30代を過ごした90年代は広告業界はまだまだ成長していた。超一流じゃなくても仕事はどんどん来た。きちんと仕事すれば認められ、少しずつステップアップ感もあった。うん、おれは逃げおおせているぞ。そんな気分だった。

40代になって”経営”にめざめ、いまの会社でマネジメントをはじめた。これも”逃げた末の”到達感は持てた。ぼくは大企業で”生かされてる”人生とぜんぜんちがう道を走りつづけてるぞ、どんなもんだい!

リーマンショックが起こった。

08年の9月、その時点ではその意味がよくわからなかったけど、徐々にボディブローのように効いてきた。あれ?リーマンショックって何もかもを変えようとしているの?気がつくと、09年のギョーカイは90年の水準に戻っていた。

なんてこった!この20年は何だったんだ?

ぼくは逃げ続けられてきたつもりだったけど、すべてが明らかに崩壊しているいま、逃げた意味も何にもない、すべてが”無”になろうとしていることに気づいた。大企業にいてもフリーランスでも中小企業のマネジメントでも、おんなじだ。いまは、みんなおんなじなんだよ。どこに所属していようが、これまでどう実績があろうが、もはや大した意味なんかない。ギョーカイで言えば、民放キー局にいようが、大手代理店にいようが、自分の制作会社を持っていようが、フリーランスで頑張っていようが、一流クリエイターと言われていようが、こつこつ実績積んでこようが、ほとんど関係ない。ぜんぶ終わった。壊れた。何もなくなった。

1945年、日本はアメリカとの戦争で負けて焼け跡になった。2010年、日本は20年間の独り相撲の末、高度成長で築いたすべてがもう一度、焼け跡になっていた。いつの間に、誰に負けてたのかも、よくわからないまま。

目の前に広がる、バーチャルな焼け跡をぼう然と見るともなしに見ながら、この焼け跡は高度成長が焼け落ちたあとなんだと気づく。

そして次にこう考えよう。それでいいじゃん!だから面白いんじゃん!

それにぼくらにはいま、iPhoneがあるじゃないか。もう逃げつづける必要さえない。もう”生かしてくれる”会社なんてない。会社員かフリーランスかどうかももうどうでもいい。ただひたすら、”2010年のぼく”がいる。それだけが真実だ。いま現在のぼく、そのたったひとつの真実があれば、iPhoneで世の中を受信し、ぼくからも発信しつづければいい。新しく動き出せばいい。そういうことなんだ。

ほんとうに面白いのは、これからだぜ。60年ぶりに焼け野原になったこの国は、60年ぶりに面白くなる。だったら面白くする側に参加しようじゃないか。

ってことで、みんな、いいかな?

iPhoneとTwitterと”新聞テレビ断末魔”と”セルフブランディング”

タイトルにあるiPhoneとTwitter、はわかるとして、それと”新聞テレビ断末魔”と”セルフブランディング”がどう関係してくるのか、というとね。

あ、その前に、”新聞テレビ断末魔”は今日発売の週刊東洋経済の表紙に踊っている特集記事のタイトルね。”セルフブランディング”とは佐々木俊尚さんが『ネットがあれば履歴書はいらない』の中で書いている概念。

で、まず、ぼくが高校生の頃からずーっと”ひっかかって”きたことがある。それは・・・

この国は”会社に生かされている”状態で生きなきゃいけないらしい、ってこと。

それがひっかかって、イヤでイヤで、自分はそうならないようにしようと心に決めて生きてきた、つもりなんだ。

わかる?”会社に生かされてる”って感覚。そんな風に感じたことない?それっておかしいぜよ、って思ったことない?ぼくは思ったわけ。ずーっとそう感じて、いかにその状態から逃げ出すか、ばかりを考えてきた。

どう逃げてきたかについては、また別の機会に書くとして、どうやらいま、もうそんな不快感は感じなくてすむ時代になってきたらしいなと。

だって”新聞テレビ断末魔”だよ。それはつまり、ぼくら”ギョーカイ”の世界で”大企業”中心の宇宙が断末魔を迎えてるってことだよ。ギョーカイはもう、”会社に生かされてる”状態ではなくなるってこと。というか、会社に生かされてると、死んでしまいかねない、ってことだから。

そんな状況の中、ぼくらはiPhoneを手にしてTwitterで”ひとびと”とつながった。そして『ネットがあれば履歴書はいらない』から”セルフブランディング”という啓示を受けた。

“セルフブランディング”は決して、フリーランスになろう独立しよう、と言っているわけではない。これからは、会社にいてもセルフブランディングした方がいいよ、ネットの中での”じぶん”を確立していった方がいいよ、と説いている。会社員も、会社員である前に”ナニノナニガシ”さんなのだから、と、言っている。

ぼくたちはもはや、会社員である前に、個人なのだ。

そんなこと当り前だけど、その当り前のことを、当り前と感じられる世の中にやっとなってきたんだよ。

だってフジテレビにいても朝日新聞にいても電通にいても、トヨタにいてもキリンにいても、JALにいても三井住友銀行にいても、先のことなんかわかんないじゃない。将来も老後も会社はもう保証なんかしてくれないし企業年金は満額もらえないらしいじゃない。

そんな当り前のことがわかった時に、ぼくたちはiPhoneでユビキタス化できちゃうんだぜ。”ぼく”という個人が、ネットワークを介していろんな”あなた”という個人と、自在に交遊することができる。そこでは、ぼくという人間の”ひとつの”バックグラウンドとして、”いまいる会社”はそれなりに大事だ。でも、もっと大事なのは、例えばぼくがこうしてここでこんなこと考えて書いちゃうヤツだ、ってことだ。そいでもって”ぼくはこんなことできるぜ”とか”こんなこと構想しているとこっす”とか、そんなことを言ってのけることだ。そんなことやあんなことの一切合切で”ぼく”が構成されている。

ここで幕末の話に結びつけるのは唐突すぎるし恥ずかしいけど、あの時代の”志士”たちは、どんどん”藩士”の立場をはみ出していった。龍馬は土佐藩とはあんまり関係なく動いていったし、西郷どんなんかしまいには主君たる島津久光なんか無視!を決め込んで勝手に”幕府を倒さねばこの国は変わらんのでごわす!”と戊辰戦争の大英断を下した。

あの時代の”藩士”が”会社員”なんじゃない?志士たちは最新情報を得るために江戸や京都で密会したけど、ぼくらはそんな一所懸命こっそり集まらなくてもいい。iPhoneがあればそこがあなたの”寺田屋”になるんだもん。

このブログのタイトルを”クリエイティブ経営論”から”クリエイティブビジネス論”に変えたのも、同じ流れなんだな、いま思うと。いまの会社で”会社として整える”ことをずっとやってきたんだけど、こないだある男に言われたの。「あんたはもう経営論じゃなくていいんじゃないの?ビジネス論、でいいんじゃないの?」つまり、もうそんなに会社の面倒をしょいこまなくていいよ、面白いと思うことをおやんなさいよと。

うん、そうする。もう会社のこと背中から下ろす。そんな思いでタイトルを変えたのでした。

あー、ごめんなさい、読んでる人からすると、ただ頭の中のカオスを垂れ流されてるだけだね、きっと。でもぼくはこうやって書きながら、カオスが徐々に整っていっているのですわ。混とんが落ち着いて固まったら日本列島ができたらしいけど、いまぼくの中でぼくがもう一度固まってきたぞ。

さて、そういうわけでぼくはこれから少しずつ”セルフブランディング”を実践していくことにしよう。ここでもどこの誰かがぼんやりとしかわからないようにしてきたけど、何者なのかをじわじわにじみ出させていくつもり。

なんか、ちょっと、2010年は起きるよ、きっと。何かが。まだよくわかってないけどさ・・・

iPhoneでユビキタス化されたら何がどうなっていくのか?・・・

というわけで、今日もiPhoneについて書くよ。

ほんと、iPhoneで生活が変わったんよ。変わったことはいっぱいあるんだけど、まずテレビを見る時間が減った。オリンピックもほとんど見てない。ごめんね、非国民で。

それから当然だけどいままでのケータイは電話以外で使わなくなった。これは皮肉だね。電話もできるからi”Phone”なのに、電話は相変わらずドコモだ。でもそういう人、多いんじゃない?

ものすごくささいなことだけど、ものすごくうれしかったこととして、料理がベンリになった。いやほんとにささいなことから書いて申し訳ないけどさ。

ぼくは土日はけっこう料理をするのね。レシピをWEBで検索して、材料と作り方をコピペしてケータイにメールで送って、買物の際や料理する際にそれ見ながらやってた。持ち歩けるのはベンリだったけど、ケータイの画面でクリクリ見るのは面倒だった。

iPhoneのメール画面は携帯メールより広い、だけでなく、htmlメールもhtmlで読める。そうすると、レシピページの画面がそのままコピペできる感覚になる。それに、材料と作り方の箇所を行ったり来たりも、すごくスムーズ!もちろんレシピページをWEBとしてブラウズもできる。そんなことが感激なのだった。iPhoneはそんな風に、すべてがWEBっぽい。携帯サイトのあのきちゃない不便な画面はもうおさらばじゃよ。

いかん、もっと本質に迫ろう。

ユビキタスって言葉があるでしょ。iPhoneを持って、ああこれがユビキタスってことなんだなと感じる。よくできてるなあと思うのが、通信をWiFiと3G(携帯通信ね)とで都合よく切り替えてくれるとこ。自宅にはAirMacが入ってるので、家ではWiFiでサクサク。電車に乗ると3GでWiFiほどサクサクしないけど、それなりの速度。会社はまたWiFiでサクサク。WiFiは一度つなぐと憶えていてくれて家に変えると勝手にWiFiの電波につないでくれる。そんな感じだから、意識せずとも常に”つながってる”生活ができる。

そんな状態で何をするのかと言うと、簡単に言えば”情報収集”。そのほとんどがTwitterとRSSなの。つまり、いろんな人の”つぶやき”と、いろんな人のブログが情報源。それでテレビや新聞を読まなくても世の中で起こっていることが把握できる。把握できるだけでなく、ぼくにとって興味のある領域に絞り込まれた情報を、マスメディアから得るより深く知ることができる。

池田信夫さんのブログを読みはじめた頃から、テレビや新聞よりブロガーの方がよほど物知りだなと感じるようになった。Twitterをはじめてからその感覚が加速した。ぼくがフォローしているのはほんの30人くらいだけど、情報感度と見識に優れた人たちがいっぱいいる。その人たちのつぶやきや、ブログページの紹介などを読んでいるだけで、すごく賢くなれる。たった30人でも追いかけるだけで大変なほどだ。

そいでね、ここからちょっと漠然としちゃうかもしれないんだけど、いま感じていることがあってさ。

iPhoneでユビキタス化されたぼくは、世界と四六時中つながっているわけだけど、つながっているのは”個人”の集積なんだなあと。ユビキタス状態のぼくにとって大事なのは”個人”になってきたってわけ。

これはさあ、2010年といういま、”そういう状況”がもたらされている、ということで、すごくいいタイミングでiPhoneとTwitterという、互いに関係なく生まれたはずの機能がこなれてきたってことだと思う。ぼくみたいな典型的アーリーマジョリティ(なんかいわゆる流行ってきたなと感じたら飛びついちゃうミーハー)が、この2つに同じタイミングで手を出したと。ってことは、これから数年ぐらいでマジョリティに浸透していくのだろうなと。そういうタイミングが2010年なんだね。

さらにね、もう一歩踏み込んだことを書くとね。その同じタイミングで、”既存のシステム”が壊れつつある、と。これもすごいどえらいシンクロニシティなんじゃないだろうか。ここで言う”既存のシステム”とは”ぜんぶ”のことなんだけどね。明日発売の東洋経済の特集が『新聞テレビ断末魔』だってこととか、トヨタが世界中でリコールしたり、キリンとサントリーの経営統合がご破算になったり、小沢一郎の立場が危うくなったり・・・とかね。

で、ぼくはその同じタイミングで佐々木俊尚さんの『ネットがあれば履歴書はいらない』を読んでいる。これも、iPhoneやTwitterとも、『新聞テレビ断末魔』とも、つながっているんだ。深く関係しているんだ。

ぜえぜえ、ようやく書きたかったことの入口にたどり着いたら、もう文章作成脳幹が息切れし出した。つづきは、明日ね。あ、もう絶対、明日書くから。けっこう大事なところだからさ・・・

iPhoneはimodeを凌駕するのか?

さて土日にいじりたおしたiPhoneを、今日は当然会社に持って行った。持って行って、とりあえずぼくの仕事のやり方にびっくりするほどの変化が起きたわけではない。というか、まだよくわかんない。ただとにかく、今日はずーっと左手にiPhoneを持って過ごした。

これから買おうかなって人にはひとつ言っておくと、一日バッテリーが持つかどうか、ちょい心もとない。バッテリーが切れちゃうと他の機能はともかく、電話できなくなるわけで。乗りかえる場合はそこんとこ考えといた方がいいよ。

そいで一日中片手に持って何してたか。6割はツイッター読んでた。3割もいろんなツールでニュース読んだり株価チェックしたり。1割がメールとかゲームとか。

ツイッターもニュースも、これまではMacで読んでた。デスクにはMacが今日もちゃんと存在していたのに、iPhoneを使ってた。まあ、買ったばかりだからってのもあるんだけどさ。

iPhoneは何がミソなのだろう。ぼくが思うに、”最適化”なんじゃないかな。

典型的なのが、デフォルトでついてる”株価”というアプリ。いくつかの気になる企業を登録しておくと、リアルタイムで株価を表示してくれる。数ヶ月単位での株価推移のグラフも示してくれる。それだけ。

それだけなんだけど、株価について最低限知りたいことが凝縮されている。もっと詳しく確認したければ、PC上で読めばいいわけで。「あいた時間にちょいとだけ株価見たいんだけど」というニーズにだけ”最適化”されている。これがiPhoneの基本的なコンセプトだと言えるんじゃないかな。

“最適化”は情報の凝縮、というだけではない。デザインコンセプトも最適化されている。ここも大きなミソだ。すっきりと変に飾らす、でもなんというかセンスよくと言うか小ぎれいにと言うか。とにかく見やすい形で見せてくれる。

それから、ぼくが買う強い動機となったポイントとして、”WEBとのシームレス感”もある。これがケータイには無理なとこ。これは一種の発明だと思うな、うん。iPhoneのアプリ自体では「あいた時間にちょいと」だけ。その奥まで知りたければWEB見れば?そういう考え方なんだ。そしてそれは、決定的にベンリだ。

携帯端末での情報の見せ方が”最適化”されている。そして”WEBとシームレス”につながっている。この2点において、iPhoneはimodeを凌駕しているんだな、実は。

imodeサイトは比べてしまうと情報の見せ方として”過剰”だ。タテに長ーい画面を、ケータイのせまーい画面で見せるから、カチカチ押してスクロールさせられる。そしてWEBに飛べると言えば飛べるけど、あまり見やすくはない。シームレス感はない。

ぼくはかねがね、ケータイサイトが嫌いだった。あれやこれや、いろんなものを提示してくる。しかも、きちゃなーいデザインで。読みたい情報、とり出したいコンテンツにたどり着くのに、カチカチカチカチやらされて、なんだか心が貧しくなる感じだった。頭悪い感じ。センス悪い感じ。スマートじゃない。

それでも、imodeは日本のコンテンツ産業の大成功例だ。これがいろんなもん呑み込んじゃうのだろうと思っていた。

少なくともぼくにとって、iPhoneの考え方はimodeから乗りかえさせる強いパワーを持っていた。そして今日、ぼくはケータイでカチカチを一切やらなかった。

ぼくのパケット代は今月から、docomoからSOFTBANKに移行するのだ。そう動かしたキラーアプリはツイッターだった。そしてツイッターのコンテンツとは・・・人びとの”つぶやき”だ。

あ、なんてこった!つまりいま最強のコンテンツは、莫大な製作費のドラマでも、最高の技術を駆使したアプリケーションでも、有名占い師のありがたい啓示でもないんだ。人びとのつぶやきなんだ。”にんげん”こそが、キラーコンテンツだったんだ・・・なんかこれはすごいことなんでないかい?!

おれの知りたいニュースを教えてくれるのはiPhoneだった!

最近、ツイッターにはまってる。はまってるとは言え、ぜんぜん自分ではつぶやいてないのだけど。でも、”賢人”のみなさんのフォローをするだけですごい重要な情報が入ってくる。追いつくのが大変だぜ!ってんで、最近はケータイでもツイッターを読むようになった。

・・・ところがね、これが不便なの。賢人たちはよくブログについてつぶやく。PCならその元のブログにパッと飛べるのだけど、ケータイだと、読めないページが多々出てくる。それに、ケータイってこういう時、おそ!と感じる。こういうことに向いてないんじゃないあんた?って感じ。

で、iPhoneはツイッターにいい感じだ、という噂を聞いた。買ってみよっかなー、と悩んでいた。悩んでいた矢先に、こないだの金曜日に一緒にごはんを食べたお二人が、iPhoneユーザーだった。二人で、ツイッターは何で読んでる?などと話している。あー、うらやまぴいー!

しかもだ!そのうちのおひとかたはなんと、60代後半の悠々自適ライフをお過ごしのご年配の方だ。これはびっくりした。もちろん、その方が特別にお年を召しても新しもの好きなのだろう。その方を標準的にとらえてもしかたなかろう。だがしかーし!やはり目の前で20歳ぐらい年上の方に見せびらかされては、いや、ご本人は見せびらかしてなどいないわけだが、見ているだけでそんな気持ちになっちゃうのよ!

というわけで、翌日さっそくSOFTBANKショップを調べたら、隣の駅にあるじゃないの。すぐさま電話したわけ。そしたら在庫あるっちゅうわけ。これは買いに行くしかないだろう。

さてそこではたと悩んだ。なにしろこないだ妻と、新聞をやめるかどうかディスカッションしたばっかりだ。ケータイがあるのにまた買うの?と重たいディスカッションになりかねない。それにケータイ関係を2つも持ち歩くのは不便だろう。いまは番号そのままサービスもあるんだし、乗りかえるか・・・・とそこまで考えて、ああー!!と気づいた。

おサイフケータイどうすんの?

私はDCMXに加えてSuicaもEdyもおサイフケータイで使っている。通勤の改札からお昼の買物、帰りがけに書店やコンビニで買物する時も、ぜんぶおサイフケータイ。小銭を持たなくて済んでなんとベンリだ、と。実際ここんとこ、銀行でお金をおろすことがなくなった。足りなくなったらケータイに通信でおカネを補充する生活。もはやおサイフケータイ抜きの生活は考えられなくなっている。

というわけで、妻とのヘビーなディスカッションを覚悟しつつ、乗りかえは諦めた。

さて隣町のSOFTBANKショップへいそいそと出かけ、あっという間にiPhoneユーザーとなった。前の晩に会食したお二人にはさっそくiPhoneからメールで報告。私を刺激した年配の方から「ハレルヤ!」と歓迎の返信が来たよ。へっへっへ。

こういう次第でこの土日はiPhoneをいじりたおした。そいでね、これは画期的!自分の中でパラダイムシフトが起きたよ。この感覚はどっかで味わったなと思ったら、自分のMacを買ってすぐさまモデムでネットにつないだ時、あれに似ている。あの時、自分の仕事のやり方が大きく変わった。と、思う。ついでにどこか考え方にも変化が起きた気がする。同じように、iPhoneは大袈裟に言えば第二のIT革命だよ、これは。

いちばん変わるのは、情報収集だ。いままでは、何のかんの言ってもテレビや新聞が先にあって、そいでもってMacだった。でもこれからは完全に情報収集の中心にiPhoneがどでんと存在することになるだろう。しかもテキストも写真も音声も映像もすべて含んじゃう、呑み込んじゃうんだなiPhoneが。

という、事の顛末を書いていたらもう寝なきゃいけない時間だぜ。何が第二のIT革命かって続きは明日ね。・・・あれ?いろんなこと続きを書かなきゃいけない気がするなあ・・・

邦画興行のびみょーな10年〜日本映画産業論その10〜

前回の”映画興行10年グラフ”を見つつ、あるいは日本映画製作者連盟のデータを参照しつつ、興行から見た日本映画の基礎情報を書いていこう。

まず昨日の”ひま人”さんのコメントでもあったように、2009年の10億円以上の34本のほとんどが東宝配給。東宝以外は12本だけ。2/3が東宝だってわけ。かなりの”寡占”状態だと言える。

コメントでも書いたように、これははっきり言ってこの15年間ぐらいの経営努力の差が出た。東宝には戦略があったのに対し、東映と松竹にはなかった。戦略に差があったのではなく、戦略があった1社と戦略がなかった2社ということ。実際、20年30年前のヒット作リストを見てもらうと、東宝・東映・松竹に大きな差があったわけではないのがわかる。

もともと東宝の映画館は繁華街のいい場所にあった。その上、改装をしっかりやってきれいな劇場にしていた。東映と松竹は繁華街での陣取りがヘタだった上に改装も遅れた。

そこへシネコンがやって来た。映画は郊外のショッピングセンターのシネコンで観るものになり、繁華街にはいらなくなった。でも東宝の映画館は陣取りが良かったのでけっこう生き残った。そいでもって、ヴァージンを手に入れた。東映と松竹もシネコン展開をやろうとしたが、ヴァージンを手に入れてドカンとシネコンを手に入れた東宝は戦略的勝利を収めた。

一方、この15年間ぐらいで、テレビ局+配給会社、が映画製作の軸になった。これも東宝がいちばん上手にやった。ある意味、変に意地を張らずにテレビ界と手を組んだのだ。

90年代前半あたりまでは、テレビ局が映画製作にからむのは”そういうこともある”感じだった。それがこの15年間で、”それが当り前”になった。

10億円以上が34本。邦画の興行収入が1173億円という快挙は、こうした東宝戦略の総決算的な結果だと言える。

さて一方で、日本の映画興行市場はこの10年間、2000億円を行ったり来たりしてきた。どうもこれ以上増えそうにないのだ。あるいは、入場者数は1億6千万人前後を行ったり来たりだ。興行市場は増えない。日本人はこれ以上映画を見ないのだろう。

そうすると、1173億円は、臨界点かもしれない。2000億円市場の6割。これがいいとこなんじゃないか。

もしそうだとすると、2009年は、東宝+テレビ局による映画づくりのひとつの到達点なのかもしれない。そしていま、テレビ局は急激に体力を失いつつある。

これから、また別のパターンの映画づくりがはじまるのだよ、おそらく。いや、新しいパターンを試行錯誤していかないと、まずい。ああ、2009年は良かったな、最高だったよ、でもあの頃にはもう戻れないよなおれたち。10年後、青春を振り返るおじさんみたいなことを言ってるのかもしれない。

うん、そうなっちゃ、いかんよね、やっぱね・・・

2009年興行のびみょーな結果〜日本映画産業論その9〜

はい、またグラフを作ったよ。あ、これは解説しないとわからないか。

その前にまず、このサイトを見てみよう。日本映画製作者連盟という団体が毎年1月末に、前の年の興行データを発表しているんだ。ほおほお、ふむふむ。そうか、去年の日本国内の映画興行収入は2060億円だったのか、前年比105.7%か、すごいじゃない!てなことがわかる。そのうち邦画は56.9%で1173億円か。

・・・でもここだけ見ても、2009年がどういう年だったのか、いまいちピンと来ないでしょ?そこで、こっちのページも見た方がいい。一番下に、2000年代のデータがあるよね?すると、邦画1173億円の興行収入の意味がわかってくる。これまででいちばん邦画の興行収入が高かったんだ!しかも2000年は543億円だから、この10年で倍以上になったんだ!

さてそこで、上のグラフの意義がわかってくる。邦画と洋画それぞれの興行収入10億円以上の作品数と、30億円以上の作品数をグラフにしたものなわけ。

するとあからさまにわかるのが、2005年をピークに、洋画の10億円以上作品数がガクンと下がっていること。2006年から邦画の方が多くなり、そして去年はぐいっと増えて洋画との差が開いている。一方30億円以上の作品数も、2005年あたりからデッドヒートとなり、一昨年、そして去年と、完全に邦画優位になっている。

へー、そうなんだ。だったら邦画、君はすごいじゃん、がんばってるじゃん。なんか、ついに洋画を突き放したって感じじゃん。順風満帆じゃん。これからは日本映画の時代だね!

うーんと、まあ、そう、ね。そうなんだけどね。これがね、びみょー、なんだわ。

2009年は、”ヒットと言える水準”の10億円を突破した作品数がグンと増えた。34本にもなった。

ただ、30億円以上の作品は前年並だった。つまり、10億〜30億円の作品数が増えた。もう少し詳しく言うと、10億円台の作品数が増えた。これはほんとに、一昔前のことを考えるとすごい変化で、90年代は邦画が10億円を越えると大騒ぎだった。それが去年はわりと”ふつう”なことになったのだから、画期的だよね。

でもね。

前にも書いたけど、興収20億円でも、ちょっと製作費がかさむ映画だと、あんまーり収益性がない。興行側(つまり映画館)や配給会社はわりとストレートに喜べる話だけど、製作の立場からすると、”もうちょっと行って欲しかったねー”って感じ。

少なくとも、10億円台の作品は、スペクタクルなものにはしにくい。テレビドラマの延長線的なものならオッケー、って感じ。そうすると、わりと日常的な設定や恋愛ものが安心だね、ってことになる。

もちろんね、日常的な設定でも面白い物語は企画次第ではある。

でもさあ、一方で、ここでも数回に渡って書いた『アバター』みたいなもんが映画館を席巻しているわけでさー。

・・・というわけで、書ききれないので、2009年の映画興行を見ながらもう少し語りましょか。・・・って次はまたちがう話題で書きたくなったりするかもしれないけど・・・

日経は奥さんたちを説得できるか〜日経電子版が出るぞ!のつづき〜

この週末のぼくと、ぼくの奥さんとの会話。(面白くするために多少デフォルメしてある)
「あなた、これ見て。去年の家計をまとめてみたのよ」
「ん?ええー?!こんなことになってるの?」
「そうよ、こんなことになってるの」
「それにぼくの給料もあんなことになったしねえ」
「そう。それから来年受験だし」
「教育費ってかかるもんだねえー」
「そう、だから生命保険とか、ケータイ料金とか、あなたのお小遣い、見直さないとね」
「ええー?!それはちょっと・・・」
「新聞もとるのやめた方がいいかしら・・・日経って高いわよね。月々4300円よ」
「ええー?!」
「あなた最近、朝起きるのギリギリだから読んでないじゃない?」
「えーっと、でも日経は仕事に必要なんだよ」
「あら、だっていまはネットでたいがいの記事読めるんでしょ?」
「それはそうだけど」
「でも時々学校で、新聞記事を読んで文章を書かせる宿題がでるのよね。それどうしよう・・・」
「そっちが大事なんすか?」
(以上、これを読むとぼくの奥さんはものすごくクールな人みたいだけど、そうとうデフォルメしてあるからね)

たぶん日本中の家庭でこんな会話がいま交わされてるんじゃないのかな。新聞業界は広告出稿が急減して大ピンチだけど、家計から見離される、つまり奥さんたちから見離されるという危機も、いま、そこにある、わけだ。

こないだの記事でぼくは、1000円増しで電子版が読めるなら悪くないねと書いたけど、そんな甘いこと言ってる場合じゃなかったよ。

悪くないねと書いたのは、紙の新聞をとるのは当り前という前提だった。紙の新聞をやめることを自分が検討するなんてことは想像もしていなかったわけ。でも奥さんたちは、紙と電子版を比べるし、紙をやめようかと真剣に考えている。そこにお父さんのお小遣いも影響するのだから、お父さんも考えざるをえないわけだ。

奥さんたちに、紙に4300円払っている上に電子版で1000円追加なんて言ったら激怒されるだろう。電子版があるなら紙はやめちゃいなさいと叱られる。

日経のメニューは、紙が4300円、紙の読者は1000円増しで電子版も読める。そして電子版のみだと4000円だという。

奥さんにこれを言おうものなら、「電子版だけで4000円なんてありえないわよ!」とぶち切れてしまうにちがいない。「だったら会社で読めばいいでしょ!」と言い出すだろう。

新聞購読料は、電気やガス代、電話やケータイ料金、インターネット接続料金、ケーブルテレビ料金、などと並べられて闘うことになるのだ。インターネットにつなぐためにお金払ってて、新聞の記事はネットで読めるのに、4000円も払う理由が無くなりつつある。

4000円は高い。

たぶんそこには、紙の生き残りにかかるコストも含めて計算された結果が反映されているのだろう。そこは日経さん、甘いかもしれまへんで。世の中の奥さん方を、なめたらあかんのや。新聞は必ずとるもんや、っちゅう常識はもう、リーマンショック以降なくなりつつあるんやでー・・・

広告費は分類不能へ〜マス広告費の行方〜

昨日の記事の最後で「マス広告費についてはもう少し書かなきゃならないことがある」と書いた。

それは、たぶんあと数年で、広告費のメディア別分類、ということが無意味化する。もしくは分類が変わるだろう、ということですたい。

例えば日経新聞が電子版をいよいよ出す。紙との併存を考えた、それなりによくできた仕組みだけど、それでも紙との併存は時間の問題で無理だ。とは言え、売上規模が減っても、紙の印刷や販売のためのもろもろを諦めれば生き残れるかもしれない。

紙の新聞が無くなっても”日経”は広告費を稼げるだろう。・・・あれ?そうすると、日経電子版が稼いだ広告費は、新聞広告費なの?インターネット広告費なの?

ほぼ同じことが、他の新聞や雑誌でも起こる。どれもこれも、時間の問題で、ネットベースの媒体に移行する。iPadが出たにつけても、そうなるのは自明の理だ。

そうすると、新聞広告費とか雑誌広告費とか、そういう分類は無意味化するだろう、と。極端に言えば、広告費=インターネット広告費、になるわけだ。

ぜんぶインターネット。

すべてはインターネット。

ようするに、いま起こりつつあるのはそういうことなんだね。

あ、テレビ広告費は?うん、これはちょっと話がちがうよね。メディアのためのツールが、”ウィンドウ”に集約されていく中で、リビングルームのテレビモニターは、特別な存在として生き残るのだ。テレビと、PCと、ケータイと。そしてiPadとか、DSとか、PSPとか。インターネットにつながるあらゆるウィンドウ。それぞれがメディア、というより広告をのせる端末になるのだろう。

つまり、今後の広告費の分類は、テレビ広告費と、インターネット広告費の、ふたつになる。インターネット広告費は分類しはじめるとものすごく細かくなるってこと。

しかも!

テレビモニターがインターネットのウィンドウになる動きもすでに出てきている。そんなテレビの開発ははじまっているんだ。

そうすると・・・ほんとにぜんぶがインターネット広告費になっちゃう!

そうなったら、いったい何がどうなってどう展開するのだろう・・・わかるわきゃないよ!

坂本龍馬が唱えた新政府は、幕府を中心に諸侯が議論して物事を決めるものだった。実際に明治維新が起きたら、幕府そのものがなくなってしまった。龍馬でさえ、明治の世の中はイメージできなかったのだ。

そんなことが、メディアコンテンツの世界でいま、起ころうとしているのだね・・・

2011年に何が起こるか?〜マス広告費の行方〜

それにしても、昨日の記事につけたグラフを見ているとあらためてすごいことになっちゃってるなあと思う。

テレビ広告費のグラフの2008年から2009年への下り坂ぶり。1900億円から1600億円へ、ジェットコースター状態になっちゃってる。こんなに急な下りっぷりでは立っていられないよね、ふつう。

それで昨日書いたのは、そのあと2010年も5%ダウンとまた下がるとは言え少し緩やかな下りになり、2011年にもう一回10%ダウンの急勾配になる、と。で、それはなんでかって話ね。

答えは、地デジ化が完了するから。つまりアナログ波が止まるから。

地デジ化について、各テレビ局がお祭り騒ぎのように告知してるでしょ。あれは必死のお祭りなの。どんどん告知して、とにかく地デジ化に日本中の家庭が対応してくれないと、大変大変困るから。

だって、地デジ対応のテレビにみんなが買い替えてくれないと、アナログ停波したら「テレビを見ない世帯数」がぼこっと生まれてしまうのだ。それは困るに決まってる。

実際、海外で先にアナログ停波した国では、5%とかいうレベルで「テレビを見ない世帯」が誕生した。5%が3%とか2%だとしても、テレビ局にとっては大打撃だ。リーチを稼げるという最大の武器が損なわれる。

でも、どんなに頑張って告知しても、どうしても数%は「見ない世帯」が生まれてしまう。それはもう、避けられない。

さあ、そうするとテレビ広告費はもう一度急減してしまう。ジェットコースターの最初のビッグな下り坂が終わって、ちょっとひと息入れてたら、また急な下り坂が来た!そんな感じになる。

今後のマス広告費については、もう少し書いとくべき点があるのだけど、それはまた次回ね・・・って、フランスの話はいつ書くんだ、おれ・・・

新聞広告費とネット広告費、ついに逆転!

はい、久々に登場ですね、メディア別広告費の推移グラフ。

去年10月の記事で登場した時と少しちがう。まずインターネット広告費の数字もグラフ化してある。2005年に突如データ上に姿を現し、ぐいぐい伸びているね。

それと、2009年の実績値をこのブログの記事をもとに入れてある。テレビと新聞はぼくの予測値とほぼ一致している。

さあ、インターネット広告費の数字もグラフ化すると、2009年が広告業界の歴史上、大きなポイントだったことがくっきり浮かび上がるね。そう!インターネット広告費が新聞広告費を抜いたのだ!

“抜いた”というのは正確ではないか。インターネット広告費はほぼ横ばいだった。新聞広告費の方が勝手にぐいぐい下がっちゃったもんで逆転した、と言うのが正しいね。

前にも書いたけど、テレビ広告費が新聞広告費を抜いたのが70年代前半。それ以来、テレビと新聞は微妙にテレビに重心を移しながらも、仲良く両巨頭態勢でやって来た。それが崩れた。崩壊した。それが2009年の広告史上の出来事なんだ。これはすげえことだよ!業界のパラダイムシフトだ。政権が自民党から民主党に移ったのと同じくらいのインパクトだ。

テレビと新聞の両巨頭態勢というのは現象としてそうだったというだけでなく、日本のメディアの歴史上、政治との関わりも含めて深い意味があることだ。かなり権力や利権とも絡んでの巨頭態勢だった。それが崩れたのよ。おっきいぜ、これは。

さて上のグラフには、あえて2011年までの予測値も入れてある。むちゃくちゃ大ざっぱだけど、テレビ広告費は2010年5%ダウン、2011年10%ダウンにしてある。新聞広告費は10%ダウンが2年続くという予測。すると2011年にテレビ広告費は1兆3500億円ぐらい、新聞広告費は5200億円ぐらいになる。

ちょっと落ち過ぎ?いやいや、だいたいそんな感じだと思うよ。

え?なぜテレビ広告費は2011年に10%もダウンするのかって?それはちゃんと根拠があるんだよ。つまりね・・・とまた長くなるので続きは次回。・・・続きネタが映画産業と日経電子版とこれとで3つになっちゃった。うまく書き進められるのだろうか・・・

おれの知りたいニュースを教えてくれる?〜日経電子版がでるぞ!〜

このブログで、去年の6月29日付の記事で書いたこと。ニュースサイトは、”おれの知りたいニュース”を教えてくれるようじゃないとダメだと。つまりAmazonが”おれの読みたい本”を教えてくれるように、ニュースもレコメンエンジンつんで、それまでの記事の閲覧履歴などから個々人の嗜好に合わせてニュースを提示して欲しいということね。

日経電子版は、少なくともひとつの機能としてこれがあるらしいのだ。

あらかじめ選んだキーワードをもとに、そして過去の履歴をもとに、「あなたがいま読みたいニュースってこれじゃない?」と提示してくれる。これはベンリだ。

それにこの機能、日経だからこそ”効く”と思う。ビジネスニュースや情報の中で、例えばぼくで言えば、メディアコンテンツ業界のニュースを選んでくれるのだろう。ビジネスに限定した中で選ぶからこそ価値がある。これが一般紙なんかだと、映画の試写会で女優が何を言った、なんてもんまで入って来かねない。

“日経”というブランドアイデンティティがはっきりしているメディアだからこそ価値が出てくるわけだ。

日経電子版でもうひとつ驚いたのは、紙の方とのシンクロ性だ。

電子版でも紙が読める。紙の方の日経で、一週間どんな記事があったかを、紙面そのままのレイアウトで閲覧できるのだ。これも日経ならではの機能だと思った。

上司や取引先と話していて、「今朝の日経でこんな記事がね・・・」ということ、よくあるでしょ?目を通したはずなのにその記事は気づかなかったなあ、なんてことになる。そんな時、電子版でチェックできるというわけ。これもね、他の新聞ではあまり意味がない。他紙でやったら、じゃあ電子版があればいいから紙の方はやめるね、となりかねない。紙との両立は日経だから可能になるのだ。

似た発想で、料金も考えてある。紙を購読している人は、1000円程度の追加料金で電子版が読めるとの話。ここには日経の自信が垣間見える。紙の方も継続した上で、電子版を追加料金払えば読めますよ、もっとベンリになりますよ。そんな考え方なのだろう。

まだ全貌を把握しているわけではないのだけど、大ざっぱに得た情報では、よく考えられていると思った。そして、日経というブランドアイデンティティを踏まえた上でのサービスなのだなと。

もちろん、それでも紙の購読者は減ってはいくだろう。おそらく減っていく前提で、徐々に電子版ベースに自らも読者も移行させていく戦略なのではないかな。

少し褒め過ぎかもしれないけど、紙メディアの将来が少し見えた気がしたのでね。まあもうじき詳細が発表になると思うので、それを見てまた検証したいね。