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コピーライター→映像製作会社ロボット→広告代理店ビデオプロモーション→再びコピーライター(フリーランス)。 メディアとコンテンツの未来を切り拓くコミュニケーションをデザインします。講演・執筆依頼もお気軽に!

日記:文字通り”ソーシャル”な夕べ〜佐々木俊尚セミナー「ネット広告の未来地図」終了後

今日はホントは前回の『本当に使えるウェブサイトのすごい仕組み』についての記事の続きを書こうと思っていた。

それから、9月10日の夜に行なわれた講談社現代ビジネス主催の佐々木俊尚セミナー「ネット広告の未来地図」についても書かなきゃ、とも考えていた。なにしろ、さっきそのセミナーから帰ってきたところだから。

佐々木俊尚”信者”としては、こりゃ数回分は佐々木俊尚ネタで行かなきゃね、というところ。

ところがそのセミナーで、とても面白いことがあったので、予定変更。その出来事を書くよ。つまり、今日は日記。個人ブログに日記を書くなんていかにも、でしょ。たまにはね。

さて今日のセミナーにはTwitterで知りあって二度ほどお会いしている@vegevege13 さんも来ると聞いていたので、会場でお会いしましょうと約束していた。会場の講談社は護国寺にある。あまり行ったことのないエリアなので、会社を出る前に護国寺には池袋経由で行くものなのか、というようなTweetをしていた。

するとこれに返信をくれた方が。

「@sakaiosamu む。お会いできますかね^^」

この@punipuki さんは、何度かこのブログにコメントをいただいたり、Tweetを交わしたりしていた。ああ、じゃあ会場で会えるのかな?

ぼくもすぐにRT。

「やはり護国寺ですか?RT @punipuki: @sakaiosamu む。お会いできますかね^^」

会場は講談社の会議室で30人分ぐらいのさほど大きくないところだった。だったら@punipukiさん、すぐわかるんじゃないかな。・・・あれ?でもあちらはアイコンがイラストだから、顔わかんないなー。うーん、まあとにかく座ろう。

さすがに来場者はPCやiPhone、iPadを持ち込んでいる人が多い。佐々木さんの話をメモしようということなんだろう。隣に座ったヒゲの男性も、iPadを開いた。

さーて@punipukiさんをどう探そう。Twitterでつぶやけばいいのかな?と、iPhoneを見てみたら・・・@punipukiさんのこんなTweetが・・・

「@sakaiosamu んです、もしかして隣?w」

え?隣?と横を見たら、さっきのiPadのヒゲの男性が笑っている!なんだ!この人が@punipukiさんか!

二人で顔を合わせて大笑いした。なーんだ。こんなことって!あはは。面白いよ。

ぼくはTwitterで顔をアイコンにしているから、@punipukiさんは「これが境さんかな?」と隣に座ったのだけど、声をかけてちがってたら失礼だしどうしよう、ということでTwitterで話しかけたのだそうだ。横に座ってる人にTwitterで話しかける。ソーシャルメディア史上最短距離のコミュニケーションかもしれない。

「他にTwitterでのお知り合いはいらしてたりしないんですか?」と言われ、そうそう、@vegevege13 さんが来てるはず。と、iPhoneを見ると・・・

「着いてますよ〜!!」とDMが。

右斜め後方に発見!という、これも、小さな会場でTwitterでお互いを確認するという奇妙な状況になった。

・・・さてセミナーも終了し、じゃあ三人で食事でも、と建物を歩いていたら、背の高い女性が話しかけてきた。おや?ナンパ?

「あのー境さん、ですよね?」「あ、ええ、そうです」「あのー、私・・・Twitterで・・・」
と名刺をいただきそのファーストネームでピンと来た!

少し前にTwitter上で、濃いDMを交わした@chiemit さんだったのだ!

その場で@punipuki さんと@vegevege13 さんを紹介し、じゃあ4人で食事しましょう、という流れに。

すでに顔見知りになっていたとは言え、@vegevege13 さんと出会ったのもTwitterだし、@punipuki さん、@shiemit さんとはそれぞれ、Twitterでなかなか濃いコミュニケーションをしていた方たち。そんなお三方と同時にリアルでお会いできたのも、佐々木俊尚パワーだと言える。このブログは佐々木さんのTweetを見て読んでくれるようになった方が多いし、その上でTwitterでぼくをフォローして関係が生まれている。佐々木さんとこのブログを軸にしたソーシャルグラフで4人がリアルで出会ったわけだ。

ソーシャルメディアの”ソーシャル”は日本語で言えば”社交”なわけで、文字通りソーシャルな夕べとなったのだった。

そういうつながりだし、佐々木さんのセミナーのあとなので、食事しながらの話題もソーシャルメディアのことになった。

脈絡もなくいろんな話が出た中で、印象的だったのが@punipuki さんのこんな発言。「Twitterが出てきたりmixiがまた変わるらしいとか、いろんなメディアの変化はあるけれど、結局は使う”人”の方が変わらないとホントには変わらないですよね」@punipuki さんは黎明期からインターネットのコミュニケーションに関わる仕事をしてきた。だからこその、実感のこもった言葉。

人が変わらないとどんなに新しいツールが出てきても変わらない。そしていまは、もっとも大きく変わろうとしているタイミングだ。変化を貪欲に取り込んで自分自身も何らか変わろうという人と、新しい現象を自ら体験しようとせず変わる必要を実感しようとしない人と。その”差異”はどんどんふくらんでいっている気がする。

一方、@chiemit さんが、これはこれでなるほど、ということを言う。「変わらなきゃと新しい現象を追いかけている中で、ふと疲れることもある。それに本当に変化していくことに意味があるのかという気もして」これもわかる。実感する。

ソーシャルメディアの新現象を懸命に追いかけていくのは、けっこうエネルギーのいることだ。でも追いかけようともしない人は大勢いる。先へ進めば進むほど、留まっている人とのギャップはますます大きくなる。そしてお金を出すことに決定権を持つ人は、「変わる気ありませんけど、何か?」という態度が多い。だったら変わろうとする意味、あんの?

ソーシャルメディアはどんどん進化しているし、今日の新サービスが来年には陳腐化する可能性もある。一方でマスメディアのパワーが減退する中、これほどの過渡期もないだろう。過渡期の変化についていくのは大変だし、どこまで意味があるかもわからない。

ようするにわからない、というのが結論だろうか。

ただはっきりしているのは、今日という日に、ぼくたち4人が本当の意味でソーシャルな関係を築けた、その事実と価値は確実に存在する。はっきりとした意義がある。例えTwitterが3年後あたりに消滅したとしても、このリアルな出会いはリアルな価値があり、実存なのだ。

それこそがソーシャル(=社交)メディアであり、そのことはひたすら素晴らしいことだと思う。

ご一緒したのはほんの2時間ほど。でも濃密で楽しい時間だった。ぼくは次にまたどんな方と会うのだろう。ひょっとしたらそれは、あなただったりしてね。いや、十分ありえるよ。全然あり!・・・

『本当に使えるウェブサイトのすごい仕組み』〜佐々木俊尚はこう読め!〜

月曜日、日本経済新聞出版社から郵便が届いた。なんだろうと開けてみたら『本当に使えるウェブサイトのすごい仕組み』(日経ビジネス人文庫)が出てきた。びーっくり!

おお!これってブロガーとしてのぼくへの”献本”ってやつ?

前にも「『電子書籍の衝撃』の衝撃」と題した記事を書いていて、これも献本を受けてのものだった。それに続いて献本による記事をまた書いてしまおう。ふっふっふ。なんだか少し気分がいいぞ!

献本をいただいたのは、実は少し前にお会いしているからだ。「高度成長の焼け跡に、ぼくらはiPhoneを手に立っている」と題した記事の冒頭に登場する、ぼくに”焼け跡”というキーワードをくれた”ある方”とは、他ならぬ佐々木俊尚さんだったのだ。

もっと言うと、ぼくはこのところ、佐々木俊尚”信者”と言っても過言ではない。このブログで実名をさらし、Twitterとつなげてみたのも『ネットがあれば履歴書はいらない』(宝島社新書)を読んで、そこに書かれていた通り”セルフブランディング”を実践してのこと。佐々木さんの本を読んではそれにあからさまに影響を受け、実践しているわけ。セルフブランディングをどう実行したかも、「焼け跡からみんながぞろぞろ這い出して、裸で挨拶しあっている!」という記事にしている。

あと、毎朝Twitterで佐々木さんのTweetをすべてチェックしている。取り上げられたニュースやブログは必ず読む。佐々木さんがTweetしている情報はきっと大事だ!すごく重要だ!目を通さなきゃ。そんな感じ。

それほどの”信者”なので、もし誰かに「きみは佐々木俊尚かぶれなんじゃないの?」と言われたら「はい、かぶれてます!」と胸を張って言うだろう。

本や映画を通して作家などに”影響を受けた”ことはは若い頃にはいろいろあったけど、この年になって新たな影響を受けるとは。しかも、ここまで自分の行動に具体的な影響を及ぼした例はこれまでなかったね。

さて『本当に使えるウェブサイトのすごい仕組み』は、そのタイトル通り、最近登場した様々なWEBサービスについて解説した本だ。佐々木さんはITジャーナリストという肩書きなわけだけど、肩書き通りというか肩書きの原点というか、ITの最新動向を取材して書いたもの。

佐々木さんはぼくがお会いして以降、テレビの討論番組に出たり孫さんと対談したりで急激に有名になった。でもけっこう、名前と発言は知ってるけど本は読んだことない、という人もまだまだ多いみたいだ。

えへん!ぼくは佐々木さんと一緒にごはんも食べたし、新著は献本されたりするし、何と言っても自称”信者”なので、この機に”佐々木俊尚の読み方”をレクチャーしてしんぜよう。よく聞くべし!

佐々木さんの著作は2つの要素でできている。

1つ目は、新しい現象の克明な取材記事の部分。”現象”はすごく大きな範囲で、この本のように新しいWEBサービスだったりクラウドツールだったり。『電子書籍の衝撃』ではコンテンツ流通のこれまでと新傾向について書いている。

この取材部分の克明さ、詳細さが”佐々木俊尚”である。どうやら相当取材をしている。そうじゃないと書けないことだらけだから。それにサービスやツールについては、実際に使ってみる際のマニュアルのように、具体的に書いてある。その”深さ”は、さすが元新聞記者だなあと感じさせられる。

でも佐々木俊尚が佐々木俊尚であるのは、2つ目の要素にこそある。新しい現象を紹介した上で、それをもとにした”提言・預言”を書くのだ。この部分が”しびれる”ところ。そこには一貫したメッセージが流れている。旧態依然とした習慣や考え方をバサッと切り捨て、個人がもっと自由に活動するべきだ、と言っている。そんな受け止め方をぼくはしてきた。(そういえば”たぬきち”さんも佐々木さんのことを”剣豪のようだ”と書いていたよね)

そういう2つの要素は、もちろん『本当に使えるウェブサイトのすごい仕組み』の中にもブレンドされている。

だからまず、ステップ1の読み方として、紹介されているWEBサービスを新たに知る、というのがある。

目次をざっと眺めると、食べログとかクックパッドとか、わりとよく知られていて自分も使ったことがあるサイトが目に入る。ああ、ああいうのを紹介するのね、と見透かしたような気持ちで読みはじめると、だんだん驚くことになる。ええ!そんなサービスあるの?なに?そんなことまでできるWEBサイトがあるわけ?

実際ぼくは、半分以上は知らないサイトで、かなり驚いた。”Alike”というグルメサイトや、”リビングスタイル”というインテリアの仮想体験サイトは、その仕組みの先進性に感心した。そうしたサービスをユーザーとして使ってみよう、という題名通りの読み方もあるし、自分でWEBサービスを起ち上げようと模索中の人にはかなり実際的に参考になるだろう。サービスを運営する会社に取材したり、サービスのユーザーの話も書かれていたり、例によって”深い”内容なので、大いに役立つんじゃないか。

ステップ2の読み方としては、”提言・預言”の部分を読みとっていく、ということもできる。例えば”スマイティ”という賃貸物件サイトのパートでは、不動産業界における商習慣をこのサイトがどう打ち破ったかについて言及されている。これまでの不動産業界が供給側の論理を重視していたのをスマイティが消費者視点に変換していき、さらには不動産業者側もそのことの合理性に気づいたから成功したのだとわかっていく。うんうん、佐々木節がうなってるぞ!

あるいは、”おとりよせネット”のパートで物語消費についてふれられているのを、これはあっちの本でも書かれていたキーワードだなというような佐々木俊尚”通”な読み方もイケてるかもしれない。

佐々木俊尚さんの本は2冊ぐらい読んだよ、という人にはステップ3の読み方として「少し不満を呈してみる」というのもありかもしれない。

実はこの本、ここ最近の佐々木さんの著作としては一抹の”物足りなさ”があるのだ。

さっき挙げた「佐々木俊尚の2大要素」の2つ目、”提言・預言”の部分が少ないのだ。

もちろん、個々のサービスのパートの中で、克明な紹介とともに、提言的な要素も入ってはいる。けれども本全体としての”大きな提言”は、ないと言えばないのだ。例えば『電子書籍の衝撃』では”アンビエント化”とか”コンテキスト”といった新しいキーワードとともに書かれている”大きな提言”があった。そこに、文字通り”衝撃”を受けた人からすると、ええー?これでおしまいなの?と思うだろう。

佐々木俊尚は理念的なところがいいのに、この本はWEBサービスの紹介がほとんどじゃないすか、そこがぼくにはちょっと物足りないすね。てなことを言ってみる。佐々木俊尚初心者に対し、おれはわかってるぜ的なところを示す、高度な読み方。仲間内での会話の中で優越感が持てるだろう。それがステップ3。

最後にステップ4の読み方として、そんなステップ3の人に対し、さらに優位に立つ態度でのぞむ、というのもある。

「この本は佐々木俊尚の著作としてはいまいち物足りないね」と言ってる人に対し「ちっちっちっち」と人さし指を立てて左右に振りながら(宍戸錠がよくやってたみたいにね)こう切り返すのだ。

「ちっちっちっち。お嬢さん、わかっちゃないねえ」

そしてこう続けよう。「佐々木さんはこのあと、広告についての本を出すんだぜ。それは『電子書籍の衝撃』に続いて”提言”のカタマリになるのさ。つまりこの本は、大きな提言を持つ2つの著作の間の副読本なんだよ。教科書と一緒に配られて、教科書の内容を補強する副読本ってあっただろ?そういう著作だってことさ。わかるかい?」

こう言うことで、佐々木俊尚に関する会話の中で圧倒的優位に立ち、ライバルに地団駄を踏ませ、女子からは潤んだ目で見つめられる。・・・いやそんなこともないけど、佐々木さんの本を次々に読んできた人なら、これぐらいのことは言ってみたいものだ。

そんな風に、『本当に使えるウェブサイトのすごい仕組み』は、いろんな読み方がある。まあどう読もうが結局は読む人の勝手なわけだけど、上に書いた4つの読み方を知った上で読むと、幾重にも楽しめると思うよ。

ところで、今度の広告についての佐々木さんの本。ぼくはベースが広告屋あので、これがまた楽しみだ。近々、その本にまつわる佐々木さんのセミナーが開催される。もちろん”第一使徒”としては(信者から使徒に昇進してみた)すでに申込み済みだよ。

え?いつどこでやるのかって?それは佐々木さんのTweetをチェックしてみてよ・・・

AnimeTunesはミドルメディアの実験だ

さて今日は、前回紹介したAnimeTunesの続きを書くよ。

AnimeTunesって何よ?って人は、前回の記事を読んだり、AnimeTunesの公式サイトを見たりしてほしい。アクトビラ上の映画情報コーナー、MyシアターではじまったVODレーベル。今後、いろんなVODサービス上に展開していく予定の、プラットフォーム・オン・プラットフォーム・オン・プラットフォームのサービスだ。

さてこのAnimeTunesは”キュレーション”の概念を具現化したサービス。キュレーションについて説明すると長くなるので、自分なりにいろいろ調べてみてね。簡単に言えば、ある分野の情報や評価をある人物が主観で選定する作業、ということ。

AnimeTunesにはキュレーターが設定されている。野村辰寿というロボット所属のアニメーション作家がその人。このサイトにプロフィールなどが掲載されているよ。ロボットにはアニメーション作家が4人いて、そのリーダー格の人物だ。

ショートアニメに長らく取組んでいて、作品数も多い。作家仲間の中でも中心的な存在で、交流も多い。もちろん、国内外のショートアニメをたくさん見てきている。前回書いたように、この分野はメジャーシーンではなかなか取り上げられないから世間的に有名ではないかもしれないけど、知る人ぞ知る存在だ。いろんなところに呼ばれて講演をしたり、海外のアニメ映画祭に招待されたりもしている。それでいて親しみやすい人柄で、みんなから愛される存在。

だから、ショートアニメ作品のキュレーターとして、日本に彼ほどふさわしい存在はいないのだ。これは身内だから手前みそで言っているのではなく、客観的に見てそうだと言いきれる。

その野村辰寿をキュレーターに据えたのがAnimeTunesだ。作品の選定をこれから毎月彼の視点で行ない、彼の言葉でおすすめする理由をコメントする。この作品を見るべきかどうか、彼のコメントをもとに判断してもらえるはず。

いまはまだ、作品数が少ないので、コメントを参考にと胸を張って言いにくい状態だけど、作品が増えていったら、彼のコメントをもとに作品を選んでもらえることだろう。

ここでも何回か書いてきたけど、VODサービスはたくさんコンテンツが並べば並ぶほど、どれを見たらいいかわからなくなる。コンテンツを楽しんでもらう中にこそ、キュレーションは重要になってくるだろう。その試行錯誤の第一歩を、AnimeTunesではじめてみたのだ。

AnimeTunesはまた、ミドルメディアの実験でもある。

映像コンテンツはお金も時間もかかるので、かけた費用の回収が大変だ。映画だと、数十万人数百万人に見てもらわないと回収できない。ドラマも同様だろう。

作家性の高いショートアニメは、一般的な映画やドラマに比べると、かかる費用が少ない。もちろん、作家のこだわりや膨大な作業エネルギーは費用換算不能だったりはする。ほとんどの場合、作家がひとりで制作するし。だから一概には言えないが、比較的費用は少なくてすむ。

そうすると、数十万人を相手にする必要はないかもしれないのだ。数万人の視聴者を安定的に獲得すればいいのかもしれない。

VODサービスが多様に増えていき、またiPhone/iPadをはじめとする、映像を視聴するのにふさわしいデバイスも今後増えていく。またそれらは国内だけでなく、世界中に配信できる。そうしたいくつものプラットフォーム上で海外も含めて展開していけば、数万人の視聴者獲得は不可能ではないはずだ。

数万人の、ショートアニメを楽しんでもいいかもしれない人、を相手に想定したミドルメディアとして、AnimeTunesは配信していく予定だ。

と、理屈上はいいのだけど、とりあえず起ち上げる時点で大変だった。アクトビラでサービスを開始する、それだけのことなのだけど、やったことないことやるのってホント大変。ギリギリまであそこはまだだった、ここはどうするんだっけ、の綱渡りが続いた。

そこをなんとか乗りきれたのは、ロボットには@andotakeshiをリーダーとするデザインチームがあるから。最近、新しいことをはじめる時、仲間に多様な能力を持つ人材がいることの価値を感じる。それに一時期散々書いたように今後のデバイスの中でアートディレクションの役割が再浮上する。そのことを、AnimeTunesスタートでも実感したものだ。

それから忘れちゃならないのは、@Gauguinscomのナイスサポートだ。日本と世界のショートムービー界をつないできた彼らの力がなくてはAnimeTunesは開始できなかっただろう。AnimeTunes公式サイトも手弁当でつくってくれたのだった。

という、なんか身内を褒めそやす手前みそだらけになっちゃったけど(苦笑)、でも”新しいことに取組む”時に、志しを同じくしてくれる仲間の存在は大切だ。

人間ひとりができることなんて、タカが知れてる。どんなにすごい才能があっても、あるいはどんなに財力があっても、たったひとりでは大したことなんてできないんだ。

でも、何人かが集まったら、大したことができる。必ずできる。仲間がいれば、人間にできないことなんて、ない。ぼくはそう信じているし、今回も実感している。

いやでも、AnimeTunesはまだまだ、大したことではないんだっけ。これから大したことに育てていかないといけない。これからがもっと大変だ。でも焦らず、地道に、少しずつ、前へ進んでいくので、みなさん暖かい目で見守ってやってください。

アニメーションVODレーベル、AnimeTunesスタート

今日の記事はいつもとちょっとちがう。自分がやっていることを書いてしまう。

9月1日にAnimeTunesというVODレーベルをスタートさせました。

VODレーベルって、あんまり聞いたことないでしょ?これ、ちょっとした発明。

どういうサービスかを説明するけど、ちょっとややこしいから、よく読んでね。

まずMyシアターという映画情報サービスがある。マイシアター株式会社が運営するもので、アクトビラで展開中。

あ、アクトビラも説明しなきゃね。大手家電メーカーが出資してはじめたVODサービスで、最近のテレビやHDレコーダーを買うとリモコンに”アクトビラボタン”がついてたりする。これを押すとつながるサービス。もっとも、テレビやレコーダーをネットにつないでないと何も映らないけど。

アクトビラは3万本以上のタイトルが視聴できるVODサービスだ。最近は、DVD発売と同時にアクトビラでも見れたりするタイトルも多いらしいよ。映画やドラマが好きなら、チョー便利。

で、そのアクトビラのメイン画面のちょい下の方に”映画情報Myシアター”というボタンがある。それを押すとMyシアターが起ち上がる。ここでは、いま公開中の映画の情報が視聴できる。予告編のフルバージョンがHD画質で見れるから、なかなかそそられるよ。

つまりMyシアターは、プラットフォーム・オン・プラットフォームとでも呼ぶべきサービスだ。今後、アクトビラ以外のVOD上でも展開していくそうだ。

MyシアターはiPhoneでも展開している。8月にはiPadアプリ版も出たから、このブログ読んでるiPadユーザーには便利だと思う。iPad版も上映中の映画の予告編が視聴できる。それから、これはアクトビラ版にもあるのだけど、劇場を検索してオンラインチケット購入も可能。(まだTOHOシネマズのみ)うんうん、これは便利だ。

え?AnimeTunesはどうなったかって?まあそう急がずに。説明するのややこしいんだから。

そのMyシアターのアクトビラ版の上で9月からはじめたのが、AnimeTunesだというわけ。Myシアターの中に”AnimeTunes”という表示があって、それを押すと、サービス登場。

AnimeTunesっていう名前の通り、アニメーション作品がVODで視聴できる。アニメーションと言っても、あまりメジャーな作品ではない。作家性の強い、これまでだとショートアニメとかアートアニメとか言われていたもの。

こういう作品は、あまり多くの人に見てもらう機会がなかった。劇場ではなかなかやってないし、テレビ放送にも乗らない。子供向けとは言えないし、短いものが多いので放送のプログラムにのっけにくいからね。だから、特別な会場、アート系の小さな劇場や美術館などでの上映がほとんどだった。

ではこうした作家性の強いアニメーション作品がエンタテイメントではないのかというと、決してそんなことはないのですよ。見てみると、面白いの。もちろん万人受けするものではないかもしれないけど、へーアニメーションってこんなこともできるんだ、という作品がいっぱいある。笑える作品だってある。普通のおじさんおばさんが見てなける作品だってある。

映像コンテンツはこれまで、劇場かテレビ番組の形態で見るのがほとんどだった。だから、その枠にはまらない作品は日の目を見なかった。VODなら、そこ、自由になるんじゃないか、と。そんな実験が、AnimeTunesなんだ。

AnimeTunesは、そんな多様なアニメーション作品を、これからどんどん配信していこう、というもの。ロボットの作品が入ったりもするけど、国内外のいろんな作家の作品を紹介していく。だからVODレーベルと言っているわけ。

Myシアターがプラットフォーム・オン・プラットフォームだったから、AnimeTunesはプラットフォーム・オン・プラットフォーム・オン・プラットフォーム、なのかな?スタートはアクトビラ上だけど、今後いろんなプラットフォームに展開していく予定。もちろん、iPadなんか、いいよね!

AnimeTunesにはもうひとつ、重要な要素がある。”キュレーション”の概念を使ったVODサービスなのだ。

その詳しい内容を書こうと思うのだけど、ここまで長くなっちゃったので、続きは次回ね。

そんなの待ってらんねえよ、って人は、AnimeTunesの公式サイトを読んでみてください。キュレーションって誰がやんのよ、って答えも、公式サイトみればわかるよ!っつーか、アクトビラつながってる人、見てください、ぜひ!・・・あんまりいないだろうけど・・・

<Apple Event>アップルが音楽をソーシャルにする!

きっとみんなワクワクしながら待っていたと思うのだけど、Apple Special Eventと題したジョブズのプレゼンテーションを見た。ライブストリーミングでストレスはほとんどなく視聴できた。ぼくはとくに英語が堪能でもない。でも、スライドショーでポイントが紹介されるので、内容はほぼ理解できたよ。

あらかじめ噂されていたのとほとんど同じ内容だった。

iPodの全ラインナップのリニューアル、iOS最新版の説明、iTunes10の発表(ついにアイコンからCDが消える!)、そして新しいApple TV。唯一事前の予想と違ったのは、新しいApple TVはiTVと名前が変わると言われていたのが、そのままだったことぐらいかな。

このブログはApple最新情報をとりあげているわけでもないので、詳しい内容はこのニュースサイトのような他のサイトで確かめてみて。

あ、でもApple TVはちょっとイメージと違ってたな。iPadみたいにアプリが乗っかるのかと思ってたら、操作できることはあらかじめ決まっていた。映画やドラマ(TV Showと言ってたけど)がレンタル視聴できる。iPadの”ビデオ”アプリだけが使える、みたいなこと。映像だけではなく、写真も見れたりするけど、とにかくアプリではなかった。ちょっとがっかり。

ああそうか、iOSマシンではないからiTVじゃないのか。

そしてあくまで欧米での話で、日本では映像コンテンツを置くようになるまで時間がかかるだろうから、当面はぼくたちの生活とは関わりのない製品になるだろう。実際、日本のApple Storeサイトには新しいiPodは並んでいるけど、Apple TVの姿はない。

TVの話は置いといて、この発表でいちばん驚いたのはPingだった。iTunesの新機能として紹介された、Social Network for Musicの名称だ。iTunes上でTwitterやFacebookのようにソーシャルコミュニケーションできちゃう。フォローしあって投稿して、というところはまったくTwitter。ただし音楽という要素が加わる。自分の好きなアルバムを登録したり。だから、自分がフォローしてる人はこんな曲聞いてるんだな、なんてことがわかる。

これは相当画期的だ。他の誰かがやるべきことを、Appleがはじめてしまった。ぼくが思うに、急速に普及すると思う。iPhoneでも使えるようになるって言ってたしね。

何が画期的かと言うと、いくつかあるのだけど、まず音楽市場が活性化すると思う。音楽はiTunesなどのダウンロードサービスの登場で”アンビエント化”していた。アンビエント化って何?って人は、前に書いたこの記事あたりを読むといいかも。アンビエント化した状況では音楽に古いも新しいもなくなって、ただ目の前に広大な楽曲の海が広がり、どれを聞けばいいかわからなくなってしまう。

そこで、Twitterのようなソーシャルネットワークを通じて誰かの投稿から気になった音楽を手に入れたりする。そうするとそのうち、音楽を売っている場所とソーシャルサービスがつながっていた方がいいね、となる。それをApple自らはじめてしまうわけだ。

Apple自らソーシャルサービスをはじめるのもまたすごいことだと思う。Facebookのザッカーバーグなんかはいまごろ地団駄踏んで悔しがっているんじゃないかな。iTunesという音楽売場を運営しているAppleがソーシャルサービスをはじめるというのは、最強な感じだもんね。

コンピュータを作って売っていたAppleはプラットフォーマーになったわけだけど、今度はソーシャルサービス事業者になろうとしている。すごい勢いで自ら変身を続けているよ。

コンテンツ売場とソーシャルサービスの関係については、いろいろ書きたいし、この9月1日にはじめたVODレーベルともつながってくるのだけど、それはまた次回にでも書きますね。だってさあ、もう眠いんだよね。ZZZZ….

内田樹『街場のメディア論』から〜コンテンツは誰かさんへの贈り物

ウカウカしている間にもう月曜日だ。先週は更新頻度が鈍化して、『街場のメディア論』について書き終わらないまま週を越してしまったぜ。ほんとにウカウカしていたね。

さてその『街場のメディア論』をぼくは「3つに分かれる」と受けとめた。だから今日が最後、完結編。実は、ぼくがここでこの本について書こうと思ったのは、3つ目のパートに感銘を受けたからだ。そしてなにげにカテゴリーを”iPad Messages”に入れてあるのは、この3つ目のパートが、iPadについて考えてきたことと関係しているからなんだ。

3つ目のパートは、第6講「読者はどこにいるのか」第7講「贈与経済と読書」第8講「わけのわからない未来へ」の3講分から成る。メディア論と言いながらメディア論は2つ目のパートの部分で、3つ目のパートでは読書論、あるいは表現とは何かについて書いている。

例によって散漫な内容をひとことでまとめるのは難しい。多岐に渡りあちこちに話が飛ぶわけだけど、例えば彼は「書物は商品ではない」と言いきる。740円で書店で売られている新書の中で彼は、これは商品ではない、と言ってのけるのだ。すごいでしょ。

書物が商品という仮象をまとって市場を行き来するのは、そうした方がそうしないよりテクストのクオリティが上がり、書く人、読む人双方にとっての利益が増大する確率が高いからです。それだけの理由です。書物が本来的に商品だからではありません。

なんて無茶なことを言い出すのか。いや、でもなぜか、納得してるしうれしくもなってる自分がいるぞ。なぜだろう。

そして彼は著作権に対して否定的なことを言い出す。

著作権というものはたしかに価値あるものですが、それに価値を賦与するのは読者や聴衆や観客の方です。紙やCDや電磁パルスやフィルムそのものに価値が内在するわけではありません。

なんだかだんだん、そうそう!と言いたくなってこない?うれしくなってこない?

つまり彼は、本を書く人にとって大事なのは、自分の本を読みたいと思ってくれることであって、自分の本にお金を払うことを優先させてはいけないんじゃないかと言っているのだ。著作権を守ろうと躍起になっている人は、お金を払わせる方を優先させていないか、と問いかけている。

そんな論をいろんな話を交えながらぐいぐい押し進めたあと、”贈与”の話になっていく。贈与経済はすべての経済活動の起源なのかもしれないという話をする。ある部族が自分たちの活動領域の境界に何か特産物を置く。となりの部族がそれを手にし、自分たちの特産物を返礼として置く。そうやって交易がはじまったのだろうと。その時、お互いの特産物の価値は相手にとっては”よくわからないもの”だったはずだと。

”価値がよくわからないもの”に返礼をする。価値がわからないけど、どうやらこれは”贈り物”らしい、だから返礼をしよう。相手の部族がそう感じれば、それは”価値”あるものになる。

著作物だって、そんなもんじゃないのか、と言いたいわけだ。誰かが、よくわからないけど、自分宛ての贈り物のようだな、うれしいな、ありがとう、と感じとる。そんな反応があれば、価値が生まれる。

ちょっと長いけどまた引用。

「著作物それ自体に価値が内在している」というのが著作権保護論者たちの採用している根本命題です。読者がいようといまいとそれには価値がある。だからこそ、それを受け取った者は(その価値を認めようと認めまいと)遅滞なく満額の代価を支払う義務がある。このようなロジックを掲げる人は、「贈与を受けた」と名乗る人の出現によってはじめて価値は生成するという根源的事実を見落としています。

ちょっとややこしい部分を引用しちゃったかな。実際に読んでもらえば、もっとわかりやすく語っていることがわかるのだけど。ようするに、著作物が価値を持つのは、価値を認める相手が出現した時なのだと言っている。価値を認める相手がいない著作物なんて価値がないよ、と。

ぼくはこうした『街場のメディア論』が唱える”表現とはありがとうと言われて価値を持つ”という論を読んで、何かを言葉や絵や映像にするということの原初的な意義を感じとった。そして、デバイスだ電子書籍だと最先端の議論をする際に、この原初的な感覚を忘れてはならないと思ったんだ。

表現は「ありがとう」と言われて価値を持つ。いや、ありがとう、じゃなくてさえいい。何か他人からの反応があれば、それが表現であり、表現をする意義なのだ。

例えばこのブログ。6月以降、更新頻度が高まっている。毎日のように書いている。どうしてかというと、前よりも読んでくれる人が格段に増えたからだ。アルファブロガーと言われる人はもっと多いのだろう。このブログはそこまでではないのだけど、でも毎日たくさんの人が読んでくれる。コメントを書いてくれもする。Twitterで感想をつぶやいてくれたりする。うれしくなって、日々書くようになったのだ。

みんなが読んでくれるから、うれしいんだ。そこには金銭化しようのない価値がある。喜びがある。だからどんどん書きたくなる。

もっと原初的な話をしていくとね。表現を仕事にする人は、表現を仕事にしたかったかどうかの前に、表現をすることが楽しかったからだろう。表現をして、誰かに見せたら何か反応をもらえた。それがうれしかったからではないだろうか。

教科書の落書きの話をこないだTwitterで交わしたのだけど、授業中に教科書に絵を描いて、パラパラマンガにしてみたりして、それを友達に見せたりなんかして、ウケちゃったりなんかして、もう一回描いちゃったりなんかして。そんなことが、表現することの最初の最初なんじゃないだろうか。

小学校のころ、ぼくは先生に命令されたわけでもないのにクラス新聞をつくって壁に貼った。記事とともになんと、マンガも描いて載せた。面白いとか、もっとこうしろとか言われた。ぼくは絵がチョー下手だ。いまはそう思ってるけど、その頃はそんなことまったく気にしなかった。五年生になったら、友だちと劇団を結成し、ほとんどコントの芝居をクリスマス会とか機会があるたびに上演してウケた。(その時こいつに脚本を書かせたらきっと面白いにちがいないと目をつけた男は、いまや有名な劇作家になっている)

クリエイターとか、なんとかディレクターとか、かんとかプロデューサーとか、作家ですとか、イラストレーターですとか、なんとかかんとか、そういう人たちも、原点は、教科書の落書きだったんじゃないか。クラスの出し物を演じてたんじゃないのか。そしてそれがクラスでウケた!そんなことがすべてのはじまりじゃないのか。

iPadにぼくたちが色めき立っているのは何なのか。考えてみれば、ぼくたちが頼ってすがってきた、ごはんのタネであるマスメディアが傾きかけ、iPadはその流れを加速するかもしれないのに、ぼくたちは何にそんなにコーフンしているのだろう。

それは、教科書の落書きを世界中の人に見せることができるからなんじゃないだろうか。ビジネスモデルがどうしたとか、中抜きによって収益構造がどうのとか、そんなことは二の次でよくて、ぼくたちの楽しい落書きを、直接見知らぬ人に見てもらうことができるんだ。世界中の見知らぬ人が”わけがわからないけどいいと思ったので、ありがとう”と言ってくれるかもしれない、ということなんだ。

もちろん、ビジネスモデルがどうのも、勉強しないといけないよ。ありがとうを、どうすれば言ってもらえるかには作戦が必要だよ。そのへんを馬鹿にしてるんじゃない。でも、大事なのは、落書きにありがとうをもらえることなんだ。そこをちゃんと感じとっていないで、ビジネスモデルを振りかざしても意味がない。ビジネスモデルのことだけ考えてる人は、失敗すると思う。落書きを見せることにプリミティブな喜びを感じていることに意義がある。その気持ちがあれば、なんとかなるって気がする。

落書きに立ち戻ろう。そこがはじまりであり、そこにしか答えはない。

『街場のメディア論』は、ぼくをそんな風に刺激してくれた。なぜか幸福な気持ちになれた。たまたま手にとった”わけのわからない”書籍に、ぼくは大いにありがとうを言いたい。こんなことがあるから、ぼくたちはまた本や音楽や映画に出会いたくなるんだね・・・

内田樹『街場のメディア論』から〜言論は

前回に続いて、内田樹氏の『街場のメディア論』について書き進めるよ。

この本は前に書いた通り、大学の講義を再編集したもの。全8講からなるうちの、第1講がキャリア論で、第2講からいよいよ、本題のメディア論が語られる。第5講あたりまでが、もっとも核となる部分。「どうしてマスメディアは凋落しているのか」についてこってり語られる。

ぼくは内田氏の本を初めて読んだのだけど、なかなか新しい読書体験だった。言っちゃ悪いけど、内容が散漫だ。話があっちに跳んでこっちに跳んで進んでいく。メディア論のはずが、どうもちがう話になってるな、という部分が続いたり、でもちゃんとメディアの話に戻ったり。散漫な話を読んでいるようで、でもいつの間にか一本の主張が頭に残っていく。学者なのに不思議な文章だなあと思った。そこが魅力的なんだろう。

さて内田氏は「マスメディアがなぜ凋落しているのか」について、よく言われるようなことは一切書かない。つまり、インターネットの登場によってうんぬん、ビジネスモデルがどうのこうの、という話ではない。そうではなくて、彼は「言論の場としてマスメディアがダメになってきたからだ」というようなことを言っている。つまりここでいうメディア論とは主に、ジャーナリズム論だとも言える。必ずしも報道番組だけの話をしているわけではないけど、ドラマやバラエティは直接的にはあまり関係ない内容だ。

なぜ凋落しているのかに対する内田氏の答えは、ひとことで言いにくい。なにしろ散漫だから。話があちこち飛びながら、でも全体としてひとつのことは言っている。でもそのひとつのことを、ひとことでまとめづらい。

各講の見出しだけをつないでいくと、マスメディアはウソつきになってしまい、クレーマー化し、正義を暴走させたもんで、変えない方がいいものを変えてしまった、から、ってことになる。うーん、でもこれではなんだかわからないね。

ぼくなりに内田氏の言っていることをまとめてみると、こういうことだと思う。

マスメディアは、ひとりの人間として責任を負った言論を発せなくなってしまったから、凋落しているのだ。

例えば、こんなエピソードが出てくる。内田氏のところに、いわゆる「おじさん系」雑誌の編集者が来た。でも若い女性だった。「たいへんでしょう」と訊いたら「別に」と不思議そうに答えた。

この週刊誌では記事の書き方に「定型」があるので、それさえ覚えれば、若い女性もすぐに「おじさんみたいに」書けるようになるからだと教えてくれました。

笑えるけど、けっこう哀しい話ではないだろうか。

もう一箇所、引用してみよう。こういう箇所がある。

第一は、メディアというのは「世論」を語るものだという信憑。第二は、メディアはビジネスだという信憑。この二つの信憑がメディアの土台を掘り崩したとぼくは思っています。

メディアがビジネスだと思っちゃいけない、ってのも、なんてこと言ってんだよ、と思いつつ、まあでもそうかもな、そうだよな、という気持ちになってくる。

言ってみれば内田氏は、マスメディアでの言論が「業務」になってしまっているのを批判しているのかもしれない。

言論は、そしてもっと大きく捉えると表現は、”業務”になってはいけないのだ。言論や表現は、本質的には”業務”ではないのだ。相いれないのだ。

そんな風にこの本を解釈しているうちに、ぼくの中で長らく眠っていたある記憶とその時の強烈な印象が、突然思い起こされてきた。

25年前に、豊田商事会長刺殺事件、という出来事があった。それをぼくは思い出したのだ。ずーっと忘れていたのだけど。

20代の人は知らないだろう。1985年にまず豊田商事といういわゆる詐欺商法の会社が社会問題化した。お年寄りに金による利殖を勧誘し、実際には存在しない金を持ったつもりにさせるという悪質な手口だった。被害者が全国で大勢浮上し、老後の生活のためのなけなしの貯金をだまし取られて途方に暮れる老人が続出した。

その豊田商事の会長の逮捕が間近だというので、会長宅の前でマスメディアの記者とカメラマンがごった返していた。突然現れた二人の男が会長宅のドアをガンガン叩き出した。やがて窓格子をけ破って、刀らしきものを手に会長宅に押し入り、しばらくして血まみれで出てきた。殺してしまったのだ。

この殺人の様子を、テレビカメラはずーっと見つめていた。そしてゴールデンタイムのニュースでそれは全国のお茶の間に放送された。

ぼくはものすごくびっくりした。びっくりしたのは、殺人の様子がそのまんまテレビで流されたことに対してだけど、同時にびっくりしたのは、その場に大勢いたマスメディアの記者やカメラマンが誰も犯人を止めなかったことだ。ある局のカメラは、現場を離れる犯人とともにエレベーターに乗り、インタビューする様子を撮り続けた。ヒーローインタビューと錯覚するかのように、記者は犯人に”敬語で”質問した。1階に着いて犯人と一緒にエレベーターを降りた記者は、駆けつけた警察官に叫んだ。「お巡りさん、こいつが犯人や!」・・・いまのいままで、敬語でヒーローインタビューしてたじゃん・・・

ぼくはたいそうショックを受け、そしてその場にいた記者たちは犯人を止めるべきだったと思った。きっとそういう話になったり、あとで記者が反省したり、という報道も出てくるのだろうと思った。だがそういう話はほとんど聞かれなかった。

報道の中で、ある大ジャーナリストが事件の背景や感想を語り、キャスターが「ところで現場にいた記者は止めるべきだったのでしょうか」と質問した。大ジャーナリストは「いえジャーナリズムとしては、止めるべきではないのですよ。事件を報道するのがジャーナリズムの使命ですから」と答えた。これにはぼくは大仰天した。

目の前で犯罪が行なわれているのに、止めるべきではない、のか?

もし自分があの現場にいたら、止められたかどうかは自信はない。あれよあれよという展開に驚くばかりで止めなきゃとは思えなかったかもしれない。でも自分がもしあの現場にいて止めることができなかったら、あとで猛烈に反省するんじゃないだろうか。そっちの方が自然な感情ではないだろうか。ジャーナリズムがどうあるべきか、という前に、ひとりの人間として目の前の犯罪を(しかも殺人だ!)止めなくていいはずはないだろう。

だがその大ジャーナリストは本当に言ったのだ。止めなくてよいのだと。

現場にいた人たちは、実際には反省したのかもしれない。大ジャーナリスト氏は、後輩たちの気持ちをおもんばかって「止めなくていいのだ」とあえて言っただけかもしれない。だが少なくとも、そんな話はまったく聞こえてこなかった。結果的には「あれは止めなくてよかったの!」ということになってしまった。

これが25年前のこと。あの時あたりから、内田氏が指摘しているような側面がマスメディアに広がっていったのかもしれない。本来は個人の責任のもとに発せられるべき言論が、どこの誰が何を思って言っているのかわからなくなってしまった。だってジャーナリズムはただ伝えていればいいのだから。大ジャーナリスト氏が言ってのけたように。

25年経つ間に、本当は秘かに巻き起こったのかもしれない「自分たちは止めるべきだったのではないか」という議論も埋没していき、ついでにぼくが強烈に感じた「止めるべきだったんじゃないの?」という疑問も自分の中で風化してしまった。

マスメディアは「ただの現在に過ぎない」存在としてぼくたちの生活の中に溶け込んでいった。そのあとはじまったバブル経済にメディアもぼくたちも踊り、その後長らく続いた停滞ムードとともに、ただ存在し続けた。

それが”いま”だ。これに対し内田樹氏は問いかけているのだ。言論は”業務”になっちゃっていいのかと。表現は”業務”とは相いれないのではないかと。

そして『街場のメディア論』は、ぼくの分け方で言う、3つめのパートでクライマックスを迎えるんだな・・・

内田樹『街場のメディア論』から〜仕事選びに

んーと、今日はこの本について書きまーす。

街場のメディア論 (光文社新書)内田 樹光文社このアイテムの詳細を見る

をいをい、なんだよ書評かよ、いやえーっと、ぼくはこのブログでは書評は避けているのですがね。例外的に、少し前に佐々木俊尚さんの『電子書籍の衝撃』について書いたことはある。でもこれは、このブログの今後の内容に強く影響しそうだったし、”クリエイティブビジネス”にとってエポックメイキングな本になるなと思ったので、特別のつもりだった。そして”書評”を書いたつもりもない。『電子書籍の衝撃』に衝撃を受けて触発されたことを書いたのです。

で、今回なんで『街場のメディア論』について書くのかというと、これも”クリエイティブビジネス”にとってすごく重要な(そしてステキな)ことが書かれているので、ここはどうしても書きたくなった。このブログ読んで気になったら、皆さんも読むといいと思う。このブログは少なからず何らかコミュニケーションに関わっている人が読んでくれてるみたいだから、きっと読むといい。コミュニケーションとは、表現とは、何なのだろう、というテーマだと言えるのです。

かなり刺激を受けたので、3回に分けて書きます。ぼくの受け止め方として、3つの主題に分れているなあと思ったので。

この本は、著者の内田樹氏が大学でメディア論の講義をしたものをまとめたものだそうだ。そしていちばん最初は、メディア論なのにキャリア論が書かれている。その講義自体がキャリア教育プログラムの一環だったから、なんだって。

そのキャリア論は全8講の中の1講だけですごく短い。でもしょっぱなからぼくは強く心を動かされた。

そこで説かれているのはものすごくカンタンにまとめると、職業選択の際、自分の適性なんて考えちゃダメだ、ということだ。

仕事の能力は、その仕事に就いてから開発されるものなのだ、と言っている。

なんとなくもやもやとしていたことを、くっきりさせてくれた気がした。もやもやとゼリーみたいに曖昧だったところを、そのゼリーをスパッと切って、ほら、君のもやもやの中身はこうなっとるんじゃよ、と見せてもらえたような感じ。

ぼくは兼ねてから、「自分のやりたいことが見つからない」という若者がよくわからなかった。だけど、どうも世界には「青年よ、お前の本当にやりたいことが、どこかにきっとあるはずだ」というメッセージが漂っている。オビ・ワン・ケノビが亡くなったあともなおルークの心に呼びかけるように、青年に対してメッセージされ続けて来たのではないだろうか。

でも内田氏は言ってのける。

「自分は何がしたいか」「自分には何ができると思っているか」には副次的な意味しかありません。

そうではなくて、その能力が必要とされたときにはじめて潜在能力は発動すると言うのだ。

そしてその”能力が必要とされたとき”とは、他人に求められたとき、なのだと言う。

人間がその才能を爆発的に開花させるのは、「他人のため」に働くときだからです。

うーん、その通りだと思う。自分の人生に照し合せてもその通りだった。言われてみれば。あるいは、時々若い人と話していて、あれ?なーんかちがうんだけどなあ、と感じた時があって、それはようするに「自分のやりたいことを探してるんっす」とか「自分がやりたかったことがやっとわかったんす」とか、すごい力を込めて言っているからだったんだなと。

「自分がやりたいことを早く見つけよ」というオビ・ワン・ケノビからの幻の命令が彼らに発せられていたのだろう。でも、そうやって躍起になって探さないといけない「自分がやりたいこと」なんてあるはずないのだ。ところがこのオビ・ワン・ケノビのメッセージはこれまで、そこここに潜んできたのだ。ハリウッド映画の中に、青春ドラマの感動の中に、青年マンガの物語の底流に、潜んでいた。オビ・ワン・ケノビがいっぱいいた。それが戦後で、近代なのだ。近代の誤解が、(たぶん日本も欧米も問わず)「自分のやりたいことは探さなきゃ」というメッセージをそこいら中に漂わせてきた。

近代がそういう誤解をもたらしたのは、近代がどこの国でも”職業は自分で決めていい”状況をもたらしたからではないかと、つまり封建制から解放されて職業選択の自由、アハハン♪がやって来たからではないかと、ぼくは思うんだ。

それはまちがいだ、と内田樹氏は言ってのけるのだ。自分が何をやりたいか、より、自分が他人にとって価値あるものか、が大事なのだと。

いま、コミュニケーションに関わる仕事に就いている人、つまり広告制作とか映像制作とか、出版物の編集とか、WEB制作とか、デザイナーとか、あるいはIT関係とか、そういった人たちで(そういう人がこのブログの読者には多いみたい)「これが自分のやりたいことだああああ!」なんていう幸福な職業選択をした人はほとんどいないんじゃないだろうか。自分の適性はこれこれで、それにぴったりの仕事はこれでした、なんてことではなかったんじゃない?

たぶん、もっとあれよあれよという間に、卒業しちゃうぞ何か仕事に就かなきゃどうしよう、などと焦ってる間に、やた!仕事が決まった!てな感じでいまの職種に就いたんじゃないか。あるいは、最初はこの仕事やってたんだけど、次はこっちの仕事になって、気づいたらこうなってました、とか。締切に追われるし大した給料じゃないけど、面白いっす!だからやってます。そんな感じじゃないかなあ。

気づいたら、仕事に就いてて、仕事に就いたらやりがい出てきて、そのやりがいの大半は、何らかの他人からのレスポンスなんじゃないか。上司とか、仲間とか、得意先とか、世の中やメディアとか。

『街場のメディア論』の第1講は、能力は他者によって開発される、という、メディア論とはおよそ関係ない話だ。ところがこれが、後半と関係してくる。どう関係してくるかは、次回また書くね。

NHK『灼熱アジア』コンテンツ業界にとっても他人事じゃない!

今日のお話はiPadとは直接的には関係ない。でも”クリエイティブビジネス論”らしい話題だよ。

この日曜日の夜、NHKスペシャルで『灼熱アジア』という番組をやっていた。みなさん、見た?NHKスペシャルでは中国、アフリカと新興国をテーマにその最新のレポートを番組にしてくれてすごく勉強になっている。そして今回は”アジア”をテーマにした第1回だったわけ。

どんな内容だったかについてはこのサイトにだいたい書いてあるし、なんだったらNHKオンデマンドで有料で見てもいいと思う。有料で見る価値はあると思うよ。

NHKオンデマンドについては前に視聴しようとして散々な目に遭ったことを悪く書いたけど、あのあとリニューアルされてグッと見やすくなっているよ。何と言っても、Macでも視聴できる!

『灼熱アジア』第1回はタイの取材。おぼろげにしか知らなかったけど、タイはいま、製造業が盛んになっていて、日本企業も工場進出をしている。そんな中、技術力も急激に伸びていて、中にはビッグな企業に成長した会社もある。そして日本の中小企業を買収したりなんてことも起こっているそうだ。うーん、びっくり。すごいエネルギー。

どうして買収したかと言えば、日本の製造業の技術が欲しかったから。番組では、買収された日本の会社の技術者たちが、タイに技術を教えにやって来たところが描かれていた。買収はされたけど、自分たちの技術を教える新たなミッションに燃える日本人たち。がんばれー!と応援したくなっちゃったよ。

さて番組で描かれたのは、製造業だった。これは他人事だろうか?メディアコンテンツ業界には関係ないこと?

そんなことない!メディアコンテンツ業界にだって起こりえることだ。起こりはじめていることかもしれないよ!

ずいぶん前に、やはりNHKスペシャルの『チャイナパワー』と題した番組について書いた。その第1回が中国で急激に伸びはじめた映画産業についてだった。

映画に限らず、中国ではクリエイティブ産業がすごい勢いで勃興しはじめている。とくにアニメやCGはぐいぐい伸びている、らしいんだ。

例えばハリウッドのCG映像作品では、中国に下請け発注されることがフツーに行われているそうだ。もはや、中国のCG制作のレベルは、ハリウッドのオーダーに応えられるレベルにまで上がっているらしい。

もちろん日本の方がまだまだレベルは高いだろう。でも、日本は高い。英語も通じない。プライドも高いから四の五の言う。だったら、レベルが上がってきた中国の方が頼みやすいし、価格も安いし、グッドね〜、ということらしいんだ。

オーマイガッ!コンテンツ業界でもガラパゴス化はとっくにはじまっているってことかよ!

CGとアニメと書いた。つまり、それらはデジタル技術を使うものだ。そこがポイント。技術そのものはPCとアプリケーションがあれば、数年で修得できるだろう。何しろ、中国は明確に国策としてクリエイティブ産業を押し出している。税制面での優遇もある。そして拠点をいくつか決めて、人を大勢集める。何千人のレベルじゃない。何十万人も集めるんだ。

何十万人もの若者が集まって、PCでCGやアニメを制作する技術を学んでいる。トキワ荘の何万倍もの規模でCGやアニメのクリエイターたちが要請されているわけだ。そりゃぐいぐい成長するだろう。

製造業の主戦場が、”世界の工場”と言われた中国から、タイをはじめアジア全域に広がりはじめているように、コンテンツ産業も中国だけでなくタイだのベトナムだのインドネシアだのにも広がっていくのかもしれない。アジア中でトキワ荘の若者たちが新しい表現に青春を費やすことになるのだろうか。

そうなったら、いったい日本の立場はどうなっちゃうの?

日本の立場は、まだ、あるはずだ。クリエイティブ先進国として、誇れる実績があるはずだ。だって、クリエイティビティと技術は表裏一体ではあるけれど、でも技術は技術でしかない。そこにどんな夢をのせるのか、その夢をどうやって組立てれば人びとは楽しんでくれるのか。そういう創造性は、まだまだ、まだまだ、日本の方が上のはず。

だから、いまのうちなんだと思う。いまのうちなら、アジアのクリエイターは尊敬してくれる。やっぱり日本人はすごいね、素晴らしいねと言ってもらえる。そう言ってもらえるうちに、ぼくたちはアジアの人たちと”一緒につくろうぜ”と言わなければいけない。ここで一緒に製作していくパイプとか手法とかノウハウとかつくっておかないと、アジアの成長から取り残されかねない。そんな中国とかタイとかとは一緒にやれないよ、なーんて内にこもってたら、そのうち彼らが勝手に欧米とつながっていき、あれ?日本にもコンテンツ産業あったの?なんてことになりかねない。

コンテンツ産業の海外進出は、もちろん欧米を考えるべきだけど、同じくらい、いやそれ以上に、アジアを目指さねばならないだろう。

うーん、でもどうやって?ここはひとつ、みんなで手に手をとっていかないと、まずいと思うな!けっこう、急がなきゃ、ホントにヤバイと思うよ!

業界1Q決算〜ちょっとひと息?〜

このブログは最近めきめきアクセス数が増えてきていてホントにありがたいやらうれしいやら。でも最近読んでくれるようになった方は、なんかあれだろ?毎日iPadについて書いてるんだろ?と思ってるかもしれない。

実際iPad発売以来そうなってるのだけど、もともとはわりと業界内インナー的なことを書いていた。で、四半期ごとに業界各社の決算内容を表にしてまとめるなんていう地道なこともやってきていたのね。自分でもそういうこのブログの”本業”を忘れそうだったのだけど、休暇中に思い出したので、今日はそれ、です。

今回の四半期決算の内容は、久しぶりに落ち着いて見ることができる。ちょっと、僅かに、ささやかに、持ち直してるかなー、って言える数字が並んでいるから。こんなこと、この2年間なかったことだよ。ジェットコースターの急な坂を下り終えて、あー怖かったねードキドキしたよねー、これでもう急な下りはないのかなー、このままゆるく進んでいかないかなー、という感じかな。

このブログは2008年の3月から書きはじめている。思えばその頃は、業界にちょっとした警鐘を鳴らしてみようかな、というぐらいの内容でいくつもりだった。その頃のぼくのイメージは、2011年の地デジ化完成から業界は大変化に見舞われるにちがいない、というものだった。まさか3年も早くその大変化が、しかもこんなに急な下り坂で起こるとは夢にも考えていなかったよ。警鐘を鳴らすなんていう余裕な立場でいようなんて甘かったね。

ちょうど2年前の四半期決算をまとめた記事がこれとか、それからそのすぐあとに書いたこの記事とかなんだけど業界大手企業が軒並みマイナスなことになっているのにびっくりしている。

その頃の気分はよく憶えている。本当にびっくりした。あれー?なんかいま、変な気がするぞー?って思ってたところにその数字を見て、あ!ホントに変なことになってるんだ!と驚愕したんだ。これはえらいことになっている!

これがリーマンショック前夜。そして9月半ばを過ぎて、なんか変、なんてことじゃなくジェットコースター状態になっていった。

もちろん日本中、世界中ですべての産業がジェットコースターになったのだけど、日本の”ギョーカイ”の場合、すでに前半で予兆があったのがポイント。つまり、この数年の大波乱の原因はすべてリーマンショックにあるわけではない。もともと下り坂がはじまっていたわけだ。リーマンショックはそれを加速させたに過ぎない。過ぎないというわりにはものすごく加速させたわけだけど。

で、その2008年前半以来、いま”ひと息つけるね”という状態がやって来たわけだ。

もちろん、いまや誰でもわかってるように、ここから急に上向くことはない。これからは少しずつ緩やかにでも確実に下り坂は続いていく。ひょっとしたらまた急な下り坂になるのかもしれない。少し前に書いたように、来年のアナログ停波が次の急な下り坂のきっかけになってしまうのかもしれないし。

一方、今年後半は広告費が相当に持ち直すという予測もある。日経広告研究所が先月発表した予測によれば、とくに下期は前年比で大きくプラスになるという。

ただ、前年がものすごくマイナスだったのでプラスになるということで、よかった頃、2007年の水準にはほど遠いのだそうだ。まあ、それはそうだろうね。

それから、今期後半は、インターネット広告費がいまだかつてないほど伸びるらしい。つまり、企業がいまちょっといいから広告費を増やそうかなという時、決して旧来型のマスメディアに回帰するわけではなく、ネットに注ぎ込むということ。ただ、テレビ広告費は戻るのだと。新聞や雑誌は回復といえる状態にはならないだろう。これも、普通の感覚として、そりゃそうだろうねと受けとめる話だろう。あ、新聞雑誌関係の方、なんかすいません。

この、インターネット広告費がかつてないほど伸びる、ということは重要だと思う。おそらく、びっくりするほど伸びる。その機会にどう対処するかが、大きな会社から個々人まで問われる、今後のベースになるんじゃないだろうか。大きく伸びるインターネット広告費に対し、どんなメニューを揃えられるかが大事になるはずだ。

という、iPadでコンテンツの未来を考えようぜワクワクするね、という内容じゃなくてすんません。でも、こういう状況を見据えた上で、さてiPadで何をどうするのか、と考えていくのがよろしいかと思いますです。はい。

iPadの熱い夏、後半戦へ向けて

お盆も終わった。短かったけどささやかな夏休みをとって、でも子供たちは勉強で忙しいと言うので、遠出もせずに4日間ダラダラ過ごした。Twitterものぞかず、このブログもお休みしていた。更新を期待してこの数日チェックに来ていたみなさん、すんませんした。

中三の息子が鈴虫を飼いはじめて、りーんりーんと鳴いている。ああ、もうお盆も過ぎて、夏も終わりが近いんだなあ。

iPadの熱い夏も、いよいよ終盤戦へ突入だね。このブログを読んでいるみなさんも、たぶん自分で買って毎日使い方を発見したり、ひょっとしたら何か自分たちでアプリを開発しようとしたりしてるんじゃないかな。そう、この夏が、iPadに関するひとつの山場だね。前にも書いたけど、ぼくも仲間たちと取組んでいることあるよ。

「iPadとトリプルメディアマーケティング」と題した回でも書いたけど、iPadコンテンツについては、どんなものにするかという企画制作でも、どう売っていくかというマーケティングやプロモーションでも、手探りになってくる。公式と言えるものがないので、予測憶測を議論して仮説を立て、それを実行してノウハウを積み重ねていくしかない。その作業は雲をつかむようで難しいけど、未知なる荒野を開拓する面白さもある。

iPadコンテンツについて考える作業がどうしてこんなに難しく、また面白いのだろう。そもそもぼくはこのクリエイティブビジネス論と題したブログでなぜまたiPadに限ってこんなにフィーチャーして書き進めているのだろう。そしてあなたは、どうしてこのブログを熱心に読んでくれてるのかな?あれ?熱心に読んでるわけでもない?いやそこはひとつ話の流れ上、熱心に読んでることにしてくださいな。

話は変わるのだけど、この休み中に読みはじめた本について書くね。野口悠紀雄先生の書いた『経済危機のルール モノづくりはグーグルとウォール街に負けたのか』という本。

野口悠紀雄先生についてはまた別の機会に書くけど、この本は70年代、80年代と10年ごとに世界経済の足跡を振り返りながら現在の問題を見通すという内容。野口先生によれば、世界経済の仕組みは一度70年代にでき上がり、80年代のレーガン・サッチャーの改革以降、英米は別の歩みを始めたけど、日本(とドイツ)は取り残されちまったぜい、というようなことが書いてある。

この経済史観と、クリエイティブビジネス論のテーマとiPadは深くつながっているんだ。とぼくは受けとめている。

iPadコンテンツについてどうしてこれほど公式がなく、売り方がわからないけど考えるのは面白いのか。それとこの経済史観は関係している。たぶん。

つまり、iPadコンテンツについて考えることは、70年代に完成した経済の仕組みをもとにしたメディアコンテンツ産業の構造とはまったく関係がないのだ。まったく新しい構造をこれからつくりあげなければいけないのだ。だから難しくて面白いのだと思うわけ。

70年代に完成した経済の仕組み。それはこと日本では、製造業を中心にした右肩上がり経済の仕組みだった。そしてメディア産業とそれに付随するコンテンツ産業は、その製造業からこぼれ落ちる広告費(=メディア媒体費)で成立していたのだ。

いま、コンテンツ産業はメディア産業に”付随する”と書き、それを支える広告費は”製造業からこぼれ落ちる”と書いたことには目を留めておいてね。

えっと、とにかくメディア産業は製造業が捻出する広告費で成り立っていたし、コンテンツは”メディアのオマケ”だった。そしてそこには明らかな”公式”があったのだ。仕組みはそこに、できあがっていたのだ。

仕組みといっても構造は実に簡単、単純。広告費を原資としたお金の流れがあって、その枠の中でコンテンツをつくる。しかもそのコンテンツにかける費用(もしくは料金)は、それぞれのメディア別の広告費に準拠して決まっていった。いや単純に言い過ぎてるかもしれないけど、大まかにはそんな構造だった。

これは広告制作費だけではないよ。そのメディアを支えるコンテンツ、テレビの番組や新聞雑誌の記事にしたって大きく捉えれば同じことだ。例えばいま、雑誌などの記事を書くいわゆるライターさんのひとつの記事あたりのギャラが下がっているという。雑誌で活躍していたカメラマンが実家に帰ろうかなどと悩んでいる例を聞いたりした。そういう現象も、広告費の流れがキューッと絞られているからだ。

一流と言われているかどうか、有名かどうかで程度の差はあるだろうけど、みんな一様に大変だ。だってコンテンツをつくるために支払われていたお金の源泉は、結局はどれもみな”製造業が支払う広告費”にたどり着いていたのだから。それがこの国のコンテンツ産業の実情だったの。

そこにはコンテンツをどう売っていくかの公式も、すごくシンプルなものがあった。大きなメディアに付随したものは、売れる。売れるから、コストをかけてもよろしいですよ。

ものすごく事態を単純化して言っているわけだけど、大まかにはそうだったの。大まかにはまちがってないよ。

さて、では、iPadコンテンツはどうだろう。これ、まったくわからない。もちろん、大きなメディアに付随した方が売れるのかもしれないけど、何しろいまは大きなメディアがさほど大きなメディアでもなくなってきているから、そんなアテにしてはいられない。それに、海外でも売ってみようとなると、大きなメディアは届かない。関係ない。

そしてiPadコンテンツでもっとも重要なのは、大きなメディアに頼らなくても、つくったものを世に送り出せる。なんだったら世界中に送り出せる。そこが決定的にちがう。だから難しく、そして面白い。

2010年はiPadが世界に登場した、コンテンツ史上に刻まれるべき年になるだろう。そしてこの夏は、そのiPadコンテンツの最初の山場として、記憶に残る夏になるだろう。

りーんりーんと息子の鈴虫が鳴いている。夏も終わりだねえ、と風流に浸りたいところだけど、そういうわけにもいかない。あの鳴き声はひょっとしたらぼくたちをせかしているのかもしれない。とっとと動かないと、夏は終わっちまうよー、と。まだまだ続く残暑の中、休暇を終えたぼくはまた動きはじめないといけないかな。というわけで、このブログもまた頑張って書いていきますんで、よろしくねー。

<Video Moves>iTVはVODをイキイキさせるか?

今日から夏休みなのだけど、ちょっと見逃せないニュースが飛び込んできたので、ここは頑張って更新しちゃう。

きっともうみんな知ってるだろうけど、iTV発売がにわかにリアルになってきた。

Tech Waveで湯川さんが書いた「Apple次の目玉はiTV=ただし解像度は720p」という記事がそれ。

ほぼ同じ内容のギズモードの記事「アップル、まもなくiOSを搭載する「iTV」を発売へ! 1万円を切る低価格だよ〜」ってのもあった。

ITmediaでは「プロセッサ強化の新型iPad、2011年第1四半期に登場か」という記事の中で”2011年1月には新たにApple TV発売の見通し”と触れられている。

Apple TVはiTVという名前に変わるらしい。発売時期は結局、秋なのか1月なのかははっきりしないけど、いずれにしろ”もうすぐ”なのはまちがいなさそうだ。

iTVという名前に変わるのは、どう見てもiPhone→iPadと同じ開発思想なのだということだろう。つまり、アプリを動かすためのテレビ用機器だということにちがいない。HDMIケーブルでテレビとつなぐのだと思うけど、720pじゃない、つまりフルHDじゃないということだね。ネット接続は、WiFiなんじゃないかな。

これは主に何をさせたい機械なのだろう。さっきのギズモードの記事にはヒチコックの映画『北北西に進路をとれ』の1シーンがテレビ画面に収まっているイメージ画像が使われている。ようするに、VODサービスをイメージしているわけだね。

アプリが動くのであれば、何もVODだけと決まっているわけでもないだろう。アイコンひとつで天気予報や株価が見れたり、写真が見れたり、旅行ガイドが見れたりとか、いろいろ考えられる。でもさすがにTwitterを大きな画面で読むのは逆に不便だし、電子書籍を読むのも無理がある。

テレビで何を楽しむかといえば、やっぱりメインは映画やドラマ、つまりVODサービスになってくるだろうね。

そうすると、少し前の記事「コンテンツはアプリになっていく」でも書いたように、アプリとしてのVODサービスを提供できることになる。その時も書いたけど、名もない映像作家のドラマが世界で大ヒット、なんてことが可能性としてあり、ってことになってくる。

ただし、これはiPadでの電子書籍にも言えることなのだけど、そうやってあらゆる映像作品をカンタンに視聴できるようになると、”おれが見たいビデオを教えてくれ”問題が浮上する。何千何万という映像が視聴できる状態では、名もない映像作家の作品にどうやってたどりつけばいいのか、ってことになってしまうわけだ。そうすると、名のある映像作家や、名のある出演者が関係してないと注目してもらえない、存在すら知らしめることができないことになる。

前回の記事でもぼくは、iPadコンテンツは自分たちでプロモーションするしかないのだと書いた。同じようにiTV上でも、なんとかプロモーションを考えないといけないのだろう。あるいは、うまく作品を提示する手法も含めてVODアプリを開発する必要があるのだろう。

ひとつのポイントは、佐々木俊尚さんがよく言う”キュレーション”なのだと思う。誰かふさわしい人がキュレーションしてくれることとセットで映像を視聴させる仕組みをアプリ化できたらいいんじゃないか。

そう言えばね、十数年前まで、テレビの洋画番組には解説者がいたよね。淀川長治さんとか、水野晴郎さんとか。映画がはじまる前、終わったあとに見どころを語ってくれたり、監督や俳優を紹介してくれたりした。あれも一種のキュレーションだったんじゃないかな。テレビ局が、ではなく、淀川さんが、水野さんが、選んだ映画だから見たくなっていたのかもしれない。

実際にぼくは子供の頃、ヒチコックとかジョン・フォードといった名匠たちを、彼らを通して教わったのだ。思い返せば、ぼくにとっての映画知識の基礎は彼らからもらったと言える。

これをもっと突っ込んで考えていくと、iTVで大量の作品がVOD視聴できるようになったら、キュレーションアプリ、なんてのもできるのかもしれない。映画をお勧めし、見どころを教えてくれて見たい気持ちになるアプリ。どうやってマネタイズするのかわかんないけど。アフィリエイトみたいなことかな?そんなことアプリにできるのか知らないけど。

とにかく、iTVの登場は楽しみだ。iPadが出版業界を大騒ぎにさせてるように、iTVは映像業界をてんやわんやな状態にしてしまうのかも。面白そうじゃない?面白そうなことが次々に起こる。2010年はすごい年なのかもね!