内田樹『街場のメディア論』から〜仕事選びに

んーと、今日はこの本について書きまーす。

街場のメディア論 (光文社新書)内田 樹光文社このアイテムの詳細を見る

をいをい、なんだよ書評かよ、いやえーっと、ぼくはこのブログでは書評は避けているのですがね。例外的に、少し前に佐々木俊尚さんの『電子書籍の衝撃』について書いたことはある。でもこれは、このブログの今後の内容に強く影響しそうだったし、”クリエイティブビジネス”にとってエポックメイキングな本になるなと思ったので、特別のつもりだった。そして”書評”を書いたつもりもない。『電子書籍の衝撃』に衝撃を受けて触発されたことを書いたのです。

で、今回なんで『街場のメディア論』について書くのかというと、これも”クリエイティブビジネス”にとってすごく重要な(そしてステキな)ことが書かれているので、ここはどうしても書きたくなった。このブログ読んで気になったら、皆さんも読むといいと思う。このブログは少なからず何らかコミュニケーションに関わっている人が読んでくれてるみたいだから、きっと読むといい。コミュニケーションとは、表現とは、何なのだろう、というテーマだと言えるのです。

かなり刺激を受けたので、3回に分けて書きます。ぼくの受け止め方として、3つの主題に分れているなあと思ったので。

この本は、著者の内田樹氏が大学でメディア論の講義をしたものをまとめたものだそうだ。そしていちばん最初は、メディア論なのにキャリア論が書かれている。その講義自体がキャリア教育プログラムの一環だったから、なんだって。

そのキャリア論は全8講の中の1講だけですごく短い。でもしょっぱなからぼくは強く心を動かされた。

そこで説かれているのはものすごくカンタンにまとめると、職業選択の際、自分の適性なんて考えちゃダメだ、ということだ。

仕事の能力は、その仕事に就いてから開発されるものなのだ、と言っている。

なんとなくもやもやとしていたことを、くっきりさせてくれた気がした。もやもやとゼリーみたいに曖昧だったところを、そのゼリーをスパッと切って、ほら、君のもやもやの中身はこうなっとるんじゃよ、と見せてもらえたような感じ。

ぼくは兼ねてから、「自分のやりたいことが見つからない」という若者がよくわからなかった。だけど、どうも世界には「青年よ、お前の本当にやりたいことが、どこかにきっとあるはずだ」というメッセージが漂っている。オビ・ワン・ケノビが亡くなったあともなおルークの心に呼びかけるように、青年に対してメッセージされ続けて来たのではないだろうか。

でも内田氏は言ってのける。

「自分は何がしたいか」「自分には何ができると思っているか」には副次的な意味しかありません。

そうではなくて、その能力が必要とされたときにはじめて潜在能力は発動すると言うのだ。

そしてその”能力が必要とされたとき”とは、他人に求められたとき、なのだと言う。

人間がその才能を爆発的に開花させるのは、「他人のため」に働くときだからです。

うーん、その通りだと思う。自分の人生に照し合せてもその通りだった。言われてみれば。あるいは、時々若い人と話していて、あれ?なーんかちがうんだけどなあ、と感じた時があって、それはようするに「自分のやりたいことを探してるんっす」とか「自分がやりたかったことがやっとわかったんす」とか、すごい力を込めて言っているからだったんだなと。

「自分がやりたいことを早く見つけよ」というオビ・ワン・ケノビからの幻の命令が彼らに発せられていたのだろう。でも、そうやって躍起になって探さないといけない「自分がやりたいこと」なんてあるはずないのだ。ところがこのオビ・ワン・ケノビのメッセージはこれまで、そこここに潜んできたのだ。ハリウッド映画の中に、青春ドラマの感動の中に、青年マンガの物語の底流に、潜んでいた。オビ・ワン・ケノビがいっぱいいた。それが戦後で、近代なのだ。近代の誤解が、(たぶん日本も欧米も問わず)「自分のやりたいことは探さなきゃ」というメッセージをそこいら中に漂わせてきた。

近代がそういう誤解をもたらしたのは、近代がどこの国でも”職業は自分で決めていい”状況をもたらしたからではないかと、つまり封建制から解放されて職業選択の自由、アハハン♪がやって来たからではないかと、ぼくは思うんだ。

それはまちがいだ、と内田樹氏は言ってのけるのだ。自分が何をやりたいか、より、自分が他人にとって価値あるものか、が大事なのだと。

いま、コミュニケーションに関わる仕事に就いている人、つまり広告制作とか映像制作とか、出版物の編集とか、WEB制作とか、デザイナーとか、あるいはIT関係とか、そういった人たちで(そういう人がこのブログの読者には多いみたい)「これが自分のやりたいことだああああ!」なんていう幸福な職業選択をした人はほとんどいないんじゃないだろうか。自分の適性はこれこれで、それにぴったりの仕事はこれでした、なんてことではなかったんじゃない?

たぶん、もっとあれよあれよという間に、卒業しちゃうぞ何か仕事に就かなきゃどうしよう、などと焦ってる間に、やた!仕事が決まった!てな感じでいまの職種に就いたんじゃないか。あるいは、最初はこの仕事やってたんだけど、次はこっちの仕事になって、気づいたらこうなってました、とか。締切に追われるし大した給料じゃないけど、面白いっす!だからやってます。そんな感じじゃないかなあ。

気づいたら、仕事に就いてて、仕事に就いたらやりがい出てきて、そのやりがいの大半は、何らかの他人からのレスポンスなんじゃないか。上司とか、仲間とか、得意先とか、世の中やメディアとか。

『街場のメディア論』の第1講は、能力は他者によって開発される、という、メディア論とはおよそ関係ない話だ。ところがこれが、後半と関係してくる。どう関係してくるかは、次回また書くね。

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