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sakaiosamu について

コピーライター→映像製作会社ロボット→広告代理店ビデオプロモーション→再びコピーライター(フリーランス)。 メディアとコンテンツの未来を切り拓くコミュニケーションをデザインします。講演・執筆依頼もお気軽に!

Facebookわかんないなあ、って人へ

映画『ソーシャルネットワーク』を公開日に鑑賞したことはこないだ書いたよね。みなさん続々観に行ってるみたいで、タイムラインで「面白かった!」というつぶやきをよく見る。ゴールデングローブ賞をとったこともプラスに働いてるだろう。

これから観に行く人のために書いておくと、パンフレットの質が高いので買うといいと思う。監督や脚本家のインタビューも充実してるし、佐々木俊尚さんの解説文もある。きわめつけは、mixiの人たちが社長以下3名登場して座談会やってる。まさにソーシャルネットワークそのものをきちんと説明しようとしている。

その中で面白かったところをぜひ書いておきたい。この物語は、Facebookの創業者マーク・ザッカーバーグと共同創業者エドゥアルド・サベリンの確執がメインになっている。けれども映画の中で、いがみ合いながらもお互いをいまでも親友だと思っているのではと感じさせる場面がある。

これについて、インタビュー記事の中の監督のデヴィッド・フィンチャーと脚本のアーロン・ソーキンの解釈が微妙にちがうのだ。その微妙な違いがそのまま映画ににじみ出て「思っているのでは」と感じられたのだろう。この映画はそんな風に、多面的、多重的に解釈できたり受け止められたりする。そこが面白さなんじゃないだろうか。

さてこの映画を観てから、ぼくもなぜだかFacebookに頻繁にアクセスするようになった。アカウントはもう一年ぐらい前につくってあったのだけど、ずーっとほったらかしてた。まったく何もしなかったわけでもなく、週に一度ぐらいはのぞきにいったり、お友達申請があったら承認したり、Twitterとつなげてみたりした。でも、「結局何をどうしたらいいかわからない」状態だった。

Twitterもそんな状態が3か月ぐらいあったから、ソーシャルメディアとはそんなものなのかしら?

それがどうして頻繁にアクセスするようになったのかというと、すごく単純な話で、お友達が盛んに活動するようになったからだ。お友達の数がいい頃合いで増えてきて(それでもまだ25人だけ)、その中で活発に発言する人が出てくると、ぼくの方も何か言いたくなったり、「いいね!」ボタンを押したくなったりする。そうすると、またレスポンスがあったりして、だんだんぼくの活動も活発になってくる。

そう言えばTwitterで活発にやりとりするようになったのも、似たようなことだった気がする。話しかけられるとこっちも話したくなる。”社交”メディアなのだから、当たり前かもね。

そこに気づくと、逆に使い方で戸惑ったポイントがわかった気がする。Twitterもやっている人は、Facebookとどう使い分けるか、指針を持った方がいい。ぼくはそこ、欠けていた。とくに、TwitterのつぶやきをFacebookにそのまま流し込んでいると、Facebookに参加している意味がぼやけてしまう。

Twitterをやってた人がFacebookもはじめると、この2つの接続のやり方が書かれたブログなんかがあって、そんなことできるのならつなげちゃおう、と、ついついやってしまうかもしれない。でも明確な意識なしにこれをやると、「じゃあおれってFacebookで何言えばいいんだっけ?」ということに陥ってしまう。というか、ぼくがそうだったのだけどね。笑

だから、Facebookわかんね、って人は、Twitterとの接続を外してみたらどうかな?

それからもうひとつ、Facebookでは「何をしたらいいかわからない」となってしまいがち。これについて、「インターフェイスが不親切だしかわいくもない」という意見をよく見る。確かにぼくも、何をしたらいいかわからないのは、インターフェイスのせいだと思っていた。

でもこれは、日本のITサービスに浸っているからかもしれない。

日本のITサービスは、いや、そもそもWEB全般は、メニューがものすごく多い。何をすればいいか、あっちこっちに書いてある。至れり尽くせり、なのかもしれない。アクセス解析の結果、ユーザーが迷わずにすむ設計をしたから、なのかもしれない。

でも、ゴチャゴチャしすぎてない?

で、べつに「何をしたいならここをクリック」などと表示しなくても、お友達が興味深いこと書いてるのを見たら「いいね!」ボタンを押せばいいのだ。ぼくの場合、そういう状態に自然になるまで時間がかかっただけのこと。インターフェイスの問題とは別だったんだ。

インターフェイスがかわいくなくたっていいんだ、ホントは。ソーシャルメディアのコンテンツは”お友達”なのだから、お友達の発言や活動なのだから。むしろ、デザインがゴチャゴチャしてる方が困るだろう。お友達がもたらした”フィード”がパッと目に入った方がいいのだ。

Facebookってよくわかんない、って人は、コツコツとお友達を増やせばいい。そしたらきっとある日、誰か面白い人が出てきて、あなたも何か言いたくなるから。

さて、Facebookは今年来るんじゃないか、いや結局は来ないんじゃないか、という議論があちこちで盛んだ。

ぼくの結論は、こう。

Facebookは今年、大きくユーザーを増やすぞ!

その理由は、「ぼくが使うようになったから」。

えらそうでしょ?(笑 でも、ぼくは”アーリーマジョリティ”だと思ってるの。決して、アーリーアダプターでもないし、ましてやイノベーターでもない。”大多数の中の早い方”がぼくだということ。そのぼくが頻繁に使い出した。だから、”大多数”が使いはじめるだろうと。

結構当たると思うよ。Twitterもそうだったしね!

テレビとタブレットはタッグマッチを組んでいく

前々回の記事で、GoogleTVについて少々ネガティブなことを書いた。テレビで検索させるのは実はあまり求められていないのではないかと。じゃあこれからのテレビはどうなるのかについて、ぼくのイメージを今日は書くよ。

そもそも、検索とかウェブというのは、PC上の概念だとぼくは思う。PC上ということは、仕事モードの時ということだ。

そしてiPadがぼくらの生活に登場して知ったのは、仕事モードはリビングルームに不似合いだということ。なぜならば、リビングルームでは人はだらだら過ごしたいからだ。検索とは自分に必要な情報を探すことだけど、リビングルームでそんな面倒くさいことしたくない。もっと受動的に、なんとなく過ごしたいのだ。

だから、自分をある程度満足させてくれるコンテンツの選択肢を選びやすい形で提示して欲しいと感じる。「あなたが観たいのは、これかこれか、それともこれじゃない?」と、そっちから”提示”して欲しいのだ。自分から探しに行くなんてかったるくてやってられないのだ。

このあたりは、「iPad = LIFE STATION」という趣旨の記事で前に書いたことと関係している。iPadがあって、ソーシャルメディアで人々の話題を追ううちに興味が湧いたものを見に行く。リビングルームでできる”努力”はそんなところだ。そしてタブレットはそれに抜群に向いている。

ということは、同じリビングルームに、タブレットより大きな顔で鎮座しているテレビにも、似たようなことがふさわしい。さあ、自分が見たいものを自分で探してください、ではなく、あなたが観たいのは、これとかじゃない?と提示してくれればいい。

だからスマートTVはGoogleTVのような検索型ではなく、アプリやウィジェットから選ぶタイプになっていくだろう。

そしてそうした操作は、タブレットと連携することで、だんぜん便利になる。

連携までしなくても、実際にテレビを見ながらTwitterを楽しむ”ソーシャルテレビ”という視聴スタイルは、テレビとタブレットがあるからできる。それにテレビ画面の中にTwitterが出てくるより、手元のタブレットでTwitterを追っていく方が見やすいだろう。テレビ画面にはいまみたい映像だけをフルに映しておきたい。”情報”の方はタブレットでちらちら見た方が都合がいいのだ。

これを延長して、テレビとタブレットの連動をイメージしていくと、いろんなことができそうで楽しくなる。タブレットがリモコンになったり、入力ツールになったり、見ながらのコミュニケーションツールになったり、テレビの楽しみ方が多面的に広がりそうだ。

てなことを想像していたら、ほぼそのままのスタイルをパナソニックがすでに提案しているそうだ。というか、今年のCESはそんな新しいテレビ視聴のオンパレードだったようだ。タブレットとテレビの展示が目白押しで、しかもその連携についてもいろんな発表があったらしい。

この潮流は、テレビ放送にとってピンチでもあるけど、チャンスでもある。新しい視聴スタイルは、「これこれこういうテレビの見方なら、オンタイムで放送を見たくなるでしょ」という提案もいっぱい考えられそうだからだ。ソーシャルテレビはその原点みたいなもので、番組をソーシャルでつながって見るなら、放送している時間こそが楽しいに決まっている。いまだってサッカーのアジア大会を見ながらTwitterで「ゴーーーール!」なんて叫んで楽しんでる人は多いだろう。これ、オンタイムじゃないと全然面白くないわけで。

いま起ころうとしていることは、あくまで「これまでのテレビ」が激変しようとしているだけだ。それはマスメディアがいままでほどの”量”はいらなくなるということ。でもゼロにはならない。そして、失礼ながら紙メディアに比べると、テレビはまだまだ”必要”とされるとぼくは思う。

だとしたら、「これからのテレビ」はどうなるのだろう、と考えていけばいい。そして”放送”の新しい有り様もきっと見いだせるとも思う。それに、それを考えるのはすごく面白いと思う。面白いことは、いつか必ず実現できるはずだ。だから、どんどん勝手に考えていこう。イメージをぐいぐい広げていこうじゃないの・・・

起業ってロックンロールなのかもしれない〜映画『ソーシャルネットワーク』〜

映画『ソーシャルネットワーク』は、とくに強く期待していたわけでもない。ただ、ソーシャルだソーシャルだと言ってるんだから観とかなきゃなと思ってて、どうせなら公開初日に観ておくことにした。

そうしたらね、面白かったんだよ!

まあ、映画の感想って、事前の期待度との相関関係が大きく、ぼくは期待してなかったから大きくプラスに働いてるのかもしれない。でも、Facebookという題材の旬さとは関係なく、純粋に映画として面白かった。あらゆる面でのクオリティが高かったと思う。3Dだなんだという映像がどうのという映画じゃない分、脚本の完成度は素晴らしいものがある。

映画について語る時、ネタバレを気にする人は多いけど、たぶんまだ観てない人も心配しなくてもいいと思うよ。ストーリーをばらしちゃうような事は書かないから。(実はネタバレって『シックスセンス』や『ユージュアルサスペクツ』のような映画じゃない限り気にすることはないんだけどね)

物語は、かなり”いきなり”動き始める。出だしから本題に入る感じだ。で、おしまいまでずーっとそのままのスピード感で飛ばしていく。そのテンポの良さがまず楽しい。と言ってももちろん、カーチェイスもないし殺人も起こらない。主人公たちが新しいサイトビジネスを進めていく。だからビジュアル的には若者たちの会話だらけ。それでいてスピード感を感じる、なんとも不思議な映画なんだ。

そしてまた、かなり最初の方で、この物語は「成功後のいがみあい」の話だということもわかる。だから、少しずつ成功していくステップを見守る、アメリカンドリームの映画でもない。わりと最初から、陰鬱かもしれない。後味が悪そうな話だな〜、という感じで進んでいく。

登場人物はたくさんいるようで、実は少ない。主人公たるマーク・ザッカーバーグ。起業時の相棒、エドゥアルド。Facebookの企画のもとになったハーバード・コネクションの開発を依頼した双子のウィンクルボス兄弟とその友人ディヴィヤ。そしてナップスターの創業者で途中からFacebookを指導するショーン・パーカー。

いや、もっと言えば、登場人物はたった二人だ。マークとエドゥアルド。この二人の友情の話なんだ。あるいは、マークがエドゥアルドとの友情を裏切りながら成功する青春ストーリーだとも言える。この二人はいがみあうのだけど、最後まで互いを友だちだとも思っている。そこがいちばんこの話の美しいポイントだ。

観ているうちに、なんだかどこかで聞いた話だという気がしてくる。まず、Appleの創業時に似てる気がする。スティーブ・ジョブズとウォズニアック、そしてジョン・スカリーの話のようでもある。

それからさらに、ビートルズみたいだ、って気もしてくる。ビートルズの成功と友情の亀裂はまったくちがう流れだったわけだけど、ザッカーバーグの成功談はビジネスマンというよりロックンロールスターの方が近いのではないか。実際、Facebookの仲間は会社というよりサークルみたいで、ムチャをする場面も多々出てくる。

そう言えばぼくは「スティーブジョブズというロックンローラー」と題した文章を書いたことがある。ジョン・レノンのメッセージと、ジョブズがMacintoshに込めたメッセージは似ているんじゃないかと。

IT起業とは、つまりロックンロールに似ているのかもしれない。新しいITサービスを考え出して世の中に送り出す行為は、ポップスターが世の中にウケる曲を創り出して録音するのと似ているのかもしれない。

そんな視点に立ってこの映画を観た時に、また感心することがある。アメリカという国のどん欲さだ。Facebookの連中が若かろうと、ムチャをしようと、”こいつら成長するぜ”と読んだら、ベンチャーキャピタルだの弁護士だのがハイエナのように寄ってくる。でもそのおかげで、Facebookというサークル活動が、世界を動かすビッグビジネスになる。

アメリカには、イノベーションを成長させるシステムが(たとえハイエナのようだとしても)しっかり存在するのだ。若者だからと鼻であしらったりしないし、ネクタイを締めてないからと足げにしたりもしない。ましてや、出る杭を打つように突然法律をある方向に解釈して、検察団が乗り込んだりもしない。若者たちのイノベーションを支えた方が、世の中全体がトクをすると知っているのだ。

まあ、そんな風に、いろいろと多面的に面白いし、語るべき切り口がいっぱいあるんだ。それだけ、豊かな映画なのだと言えるだろうね。

物語の最後に、成功してもなお、主人公がコンプレックスを持っていることがわかる。起業の原動力は実は、そのコンプレックスだったのだ。それがいちばん、人生では大事なのかもしれない。「ちっくしょー!今に見てろよ!」その想いは、成功しても決して満たされはしないのだけれど・・・

GoogleTV はスマートTVと言えないんじゃないかな?

「グッバイ・コンピュータ、ハロー・ニューTV」のタイトルで前回はテレビが今年のポイントだと書いた。これはぼくだけが感じていることでもないらしく、あちこちのブログや記事でテレビの変化について触れられている。これはいよいよもって、2011年がテレビ激変の年だという証しなんだろう。

テレビの変化のひとつの大きな例として、GoogleTVの名前が出てくる。ただ、ぼくはGoogleTVはちょっと分けて考えないといけないんじゃないかと思っている。新しいテレビのことを、ネットTVとかコネクトTVとかスマートTVなどと呼んでいるようなんだけど、GoogleTVはネットTVでコネクトTVではあっても、スマートTVとは呼べないんじゃないだろうか。

ネットTVとコネクトTVはほぼ同意語で、インターネットにつながっているテレビ受像機のことだ。これは今年のテレビをホットにしている基本潮流で、新しいテレビはほとんどこれに当てはまるだろう。

スマートTVとは、アプリやウィジェットを使えるテレビのことだ。リモコンでチャンネルを選ぶだけでなく、特定の用途のアプリやウィジェットを選択して使うことができる。天気ウィジェットや放送局ウィジェットなどがあるらしい。スマートTVとはつまり、スマートフォンのテレビ版ということだろう。Yahoo!TVはこのタイプのようだ。

GoogleTVは、アプリやウィジェットを使うのではないらしい。検索させるのだ。アメリカでは番組がYouTubeだけでなくHuluなど多様なサービスを通じて視聴できるので、テレビ番組を検索できるようにしたのだ、と。

さらにGoogleTVは、映像のサイズを画面の中で少し小さくし、他の要素をいろいろ表示できるそうだ。テレビ番組を見ていると、その内容に連動したバナーが画面に出てきたりするのだろう。

つまりGoogleTVはテレビ画面=ブラウザーという発想で作られているのだろうね。

それって、どおよ?とぼくは思うんだ。

だって前回のタイトルでもぼくは「グッバイ・コンピュータ」と書いた。これは人様のブログのタイトルから拝借した概念で、そう言いたくなるくらい今年のCESではコンピュータが前面に出てこなかったということだ。

もうコンピュータ的なのは、進歩しなくていいよ、仕事でwordやExcelを動かせばそれでいいからさ。

だとしたら、検索もいまぐらいで十分だよ、ってことじゃないのかな。

「FREE」を書いたクリス・アンダーソンが”Web is dead”と言い出して話題になった。これもようするに、ブラウザーはもういいよ、アプリがあるからさこれからは、という主張なんじゃないか。検索するより、おれがやりたいことをパッとできるアプリがあればそれでいいよ、ってね。

だから、さあこれからはテレビでめいっぱい検索できますよ、というGoogleTVは、ちょいとズレちゃってるんじゃないかと思うんだ。

テレビ画面にいろいろ出てくるのもね、どうかと思うよ。地デジになって、”dボタン”っての、ついたでしょ?これ、日常的に使う?ぼくはこないだの紅白歌合戦のとき、何ヶ月ぶりかで使った。桑田佳祐の出番を確認するために。デジタルテレビを買って初めて、dボタンを有効に使ったよ。でもふだんは使わない。うざいよ、テレビにごちゃごちゃいろんな情報が出てくるのは。

じゃあテレビの新しい使い方って何よ、今まで通りがいいって言いたいのかよ、いやいや、そうじゃなくてさ。

テレビとスマートデバイスの連携だと思うんだよ。エアプレイだよ。

もう少し詳しく語りたいところだけど、今日は出張だったので疲れてるのだわ。明日、必ず続きを書くから、許してねー。

グッバイ・コンピュータ、ハロー・ニューTV!

前回、これからはソーシャルメディアとスマートデバイスだ、と書いた。2011年はそこに出口があるにちがいないから、走っていくよ、どんどん試すよ、と。

でも2011年が動き出して、もう1点の重要なポイントが今年はあるなと気づいた。気づいたとかいう前に、すでに今年はひとつ大きな山場があるのはわかってたんだけど、その山場以上に今年はそのポイントが動く。揺れる。激変する。そのことと、「ソーシャル&スマート」はすごく強く関係する。

その重要なポイントとは、テレビだ。

テレビが今年は激変の舞台になる。テレビの行く末が、テレビの変化の道筋が、今後のソーシャル&スマートの流れとも関与し、ぼくらの業界の今後が決まってくるだろう。

そこにはもちろん、7月24日にいよいよアナログ停波がやって来る、というのがある。これについては何度か書いてきたし、池田信夫先生がよくブログでとりあげている。先生によれば、地デジ化に取り残される世帯が半端じゃない数出てくるだろうとのことだ。2010年7月24日のブログでは、その数を500万世帯だとしている。2005年時点での日本の世帯数は約4900万世帯だから、500万世帯は1割だ。もしホントにそんな数が取り残されたら大変だろう。

1割が5%とか3%とかだったとしても、テレビ放送に大きな影響をもたらすのはまちがいないはずだ。さらに、個室や寝室などリビングルーム以外のテレビのかなりがデジタル化されないのではないかとの説もある。とにかく、”日本人がテレビ放送を見る量”が少なからず減少するのはまちがいないだろう。

でも今年はテレビが重要だとぼくがあらためて言うのは、アナログ停波のことだけではない。

ラスベガスで毎年この時期にCESという家電製品の展示会イベントが行われる。今年も当然いま展開されていて、ネットニュースでは連日、CESについて伝えている。

そのCESで、どうやら各社がテレビに力を入れて展示しているらしい。そのムードを象徴的に語っているのがこちらのブログだ。「”グッバイ・コンピュータ”までのラスト・ワン・マイル」と題したこの記事。UEIという開発会社の社長さんのブログで、CESのレポートを書いておられる。

今年はPCの展示がほとんどなくて、各社がスマートTVの展示を競っているのだそうだ。もちろん、スマートデバイスも華やかだという。

これ、よく考えると面白い現象じゃないだろうか。スマートデバイスとPCではなく、スマートデバイスとテレビで家電ショーが盛り上がっている。PCはもう、要らないとでも言うのだろうか?

もちろん実際にPCが不要になっているわけではない。ただ、進化が止まっちゃってるんだろう。それに代わって、スマートフォンと、テレビがいまホットなんだ。

テレビがホットだというのは、GoogleTVやAppleTVなどのネットTV、コネクトTVだ。放送のためのテレビではなく、ネットにつないで新しいスタイルで番組視聴をする機器としてのテレビだ。

なんてことを言うと、テレビ局の人はげんなりするのかもしれない。GoogleTVなんて断固許すまじ?・・・でも皆さんおわかりのはず。もはやその流れには逆らえない。

アナログ停波は起こるし、ネットTVはやって来るし、テレビの危機なのだろうか?

もちろん、こと”放送事業”に限れば危機だろう。それはもう、大きな大きな危機だろう。テレビとは放送事業なのだから。

でも一方で、テレビ事業は最大のコンテンツ製造システムでもあった。それからテレビ放送は最大のリーチ達成装置でもある。そこは変わらないと思う。これまでのテレビの莫大なパワーはどうしても減退するだろう。それでも、もっとも影響力のあるメディアであることには変わりない。新聞や雑誌がただひたすら存在意義が失われているのに比べると、テレビはその本来の放送の部分でも生き続けるとぼくは思う。

生き残り方の重要なファクターが、ソーシャルメディアとスマートデバイスにある。Twitterを日常的に使い、iPadを使い倒しているからこそ、それを実感している。ソーシャル&スマートとテレビは相性がいいのだ。見方を変えれば、ソーシャル&スマートで何かをやろうとした時、テレビとの連携があれば大きな力になりそうなんだ。

2011年はソーシャルメディアとスマートデバイスが本格的に成長する。その鍵を握るのが、実はテレビなんじゃないか。

この話は、もう少しずつ考えを進めていこうと思う。

何だって、やってみよっ!〜2011年をはじまりの年にするために〜

三が日はこれ以上ないと言うくらいダラダラすごした。今年は子供たちの受験で九州の実家にも行かなかったので、東京で寝正月だ。そんなお正月も終わりだね、ってことで、また書き始めようと思う。

2011年を始めるにあたり、去年の今ごろは何考えてたっけと、このブログを読み返してみた。2009年の大晦日に書いたのが、「長い長い終わりがつづく。はじまりはまだ、はじまらない。〜2000年代の暮れに〜」と題した文章だった。簡単にいうと、これから何をすべきかはわかんないなあ、という、やたらとアジテーションするのが特徴のこのブログとしてはいささか沈んだ内容だ。そんな弱音めいたことを書きたくなるくらい途方に暮れていたんだろう。

実際、2008年後半から2009年いっぱいにかけて、ぼくら”ギョーカイ”は歴史的と言っていいほどの大嵐に見舞われた。これまで起こったことのなかった大災害、カタストロフィみたいな事が巻き起こったんだ。それまでの常識や、業界を包んでいたお気楽さ、陽気さがいっぺんに吹き飛んだ。世界観が変わったと言っていいほどだろう。さすがのぼくもふと、暗い気持ちになっちゃったんだろうね。

そんな一年前と比べていまが明るい状況かと言うと、決してそんなことはない。ただあの頃吹いていた暴風雨がちょっと弱まった、くらいなもんだ。

また、次に何をすればいいか、相変わらずよくわからない。よっしゃ!こうすれば万事安泰!という明確な指針が見えたわけでは決してない。

いや、だけど、ちょっとちがうこともある。去年の今ごろと比べると、”ひょっとしたらこっちに出口があるんでね?”というファクターが出てきた。

ソーシャルメディアとスマートデバイスだ。

去年の今ごろ、Twitterがこんなことになるなんて想像していなかった。Facebookが来るぜ、なんて言ってる人はいないか、相手にされてなかった。

iPhoneは伸びていたけど、ここまで伸びるとは思ってなかったし、噂はあったけどiPadというタブレット端末がこんなに大騒ぎになんて思いもしなかった。そして来年以降、Andoroidも加わってスマートデバイスが急成長するのはもはや、既定事実になっている。

それに、この2つの要素は強く関係している。相乗効果で伸びていくだろう。

成長要因が2つ、はっきり出てきた。そこは、去年の初めとはまったくちがうことだ。そして、喜ばしい事だと思う。

まちがってはいけない。ソーシャルメディアとスマートデバイスが伸びるからと言って、ぼくたちメディアコンテンツ界の人間がみんな能天気になれるとは限らない。だって何がどうなるかまだまださっぱりわからないのだから。マスメディアの代わりにソーシャルメディアが伸びるからって、そこでマスメディアのようにお金が動くわけではない。スマートデバイスの上で、また”メディア”が事業となりえるかは誰もわからない。少なくとも、iPadでの雑誌は思うほど成功していないらしい。

それでも、成長する要素がはっきりあるのは、いいことだ。沈みゆく船の話ばかりだったのが、雄々しく大海原に漕ぎ出す船がそこにあるのなら、試しに乗ってみていいんじゃないか。

その船で、いったい何ができるのか、わからない。だったら、何かをやってみるしかない。ぼくたちにできるのは、そういうことだ。それしかないし、そこに少しでも光明が見えそうなら、やってみる価値はある。

2011年のクリエイティブビジネス論は”どんどんやってみる”というスローガンでいこうと思う。ぼくは、ふと考えたこと、やってみるよ。それにもし、あなたが考えたこと、いいかも、と思ったら手伝うよ。あるいは、あなたが途中まで考えたこと、具体化するにはどうしたらいいか、一緒に考えたっていいよ。

だからとにかく、”どんどんやってみる”。片っ端からやってみる。次から次に具体化していく。そういう軽いフットワークで、いい加減に、C調にやってみよう。なーに、それでうまくいかなかったら、やめればいいの。うまくいかないのに続けることもないわけでね。

イノベーションは100個やって1つ成功するかどうかだ、ってよく言うでしょ?そんな精神で。絶対にうまくいくことなんて誰にもわかんないんだから、やってみるしかないわけよ。

さっきの2009年の大晦日の記事で、ぼくはこんなことを書いている。

でも政権がこれから数年混とんとする気配が早くも漂っているように、業界も混とんがつづく。混とんとしながら、煙が微風に乗って結局はある方向に流れるように、かならず動く。あるべき方向にまちがいなく動いていく。
ぼくたちがなすべきは、その煙の動く先を読んで、いちばん出口に近い流れに泳いでいくことだ。

ということからすると、いま煙が微風に乗って「ソーシャルメディア」と「スマートデバイス」の方に流れていっている、ということなんだろう。

もうとりあえずね、そっちにみんなで泳いでいくしかない。行ってみよう!やってみよう!泳いでいこう!

そんな”行動する2011年”のはじまり。今年は、はじまりのはじまりになるのかもしれないぞ!

ソーシャルコミュニケーションとコンテンツ〜it’s gonna be alright!〜

クリエイティブビジネス論の2010年を振り返ってきたわけだけど、ブログを書いていてこれほど面白い一年間もなかった。

何が面白かったかと言うと、双方向のやり取りになったからだ。

もちろん去年までだってまったく一方通行だったわけではない。コメント欄を通して知りあった人もいるし、リアルで知っている人がブログを読んでくれて感想を語ってくれたりした。

だがしかし、Twitterの介在によっていままでとはまったく違う次元での双方向コミュニケーションがはじまった。感想をTwitter上でもらって、さらに別の人も加わってのやり取りになったとか、佐々木俊尚さんがこのブログについてつぶやいたもので、まったく新しい読者がどどーんと押し寄せたりとか。

そんな人たちと、リアルでお会いしたことも含めて、”ゆるゆるなコミュニティ”が現出し、勉強会を開く展開にまでなっていった(ホントにやるのかよ、おれ?)。

こうして経験した、新しい形のコミュニケーションは、コミュニケーションを仕事としていく上でも大きな刺激になり、ヒントがたくさんあった。それについて、「ソーシャルコミュニケーション構想」というカテゴリーを立てて連続して書いていくはずが、2回きりで終わっている。今年もっとも中途半端なテーマになっちゃったよ。

当然、来年はこのテーマをひとつの核に据えていきたい。ただ、大きな意味では書くことはすでに決まっている。それは、上に書いた経験をもとに整理していくことなんだ。

少し前の「そろそろ、広告の次の言葉が必要かもしれない」という記事の最後の方で、広告の媒体本位制度が崩れるだろう、と書いた。つまりは、ソーシャルコミュニケーションとは、媒体本位制度ではない手法ということだ。

これまで、コミュニケーションには必ずコストがかかった。そのほとんどは、媒体料だった。

ところが、ブログ活動を通して今年ぼくが理解したのは、媒体料を払わなくてもコミュニケーションは広がるぜ、ということだ。これはいままでだってものすごくパワーのあるブログを書けばなしえたことだし、そうした人々が”アルファブロガー”と呼ばれたわけだけど、そこまでじゃなくてもコミュニケーションが広がる、それを可能にしたのがソーシャルツールなのだ。

コストはかからない。でも必要な要素がある。それが、コンテンツだ。このブログで言えば、ぼくがこうしてだらだら話し言葉で書き飛ばす文章だ。このぼくの文章の価値というか魅力というかをエネルギーに、ささやかなコミュニティが現出したわけだ。

トリプルメディアマーケティングという考え方がある。自社メディアとソーシャルメディアとペイドメディアを組み合わせることが大事です、というものだ。

これに当てはめると、このブログで起こったのは、ペイドメディアは置いといて、自社メディア(=ブログ)とソーシャルメディア(=Twitter)を組み合わせた結果、ささやかなコミュニティができたかもね、ということだと言える。

トリプルメディアの中で、ペイドメディアを3つ目に並べるのはきちんと効果を得るためには正しいのだけど、自社メディアで波及力のあるコンテンツを配信する自信があるなら、そしてソーシャルメディア上で上手に振る舞って自社メディアに人々を呼び寄せるノウハウがあるなら、実はペイドメディアは要らなくなる。理論上はね。もちろん、企業活動としては”コンテンツの魅力”のような曖昧な要素には賭けられないからペイドメディアを使うべきだとなるわけだけど。

ただ、ここで言えるのは、ペイドメディアを使うにせよ、そこが考えるべき第一のポイントではないということだ。第一のポイントはコンテンツだ。まず何を伝えるのか、どう表現するのか、それが最初だ。それを決めた後で、今度はそれをソーシャル上でどう拡散していくか、どんなキャラクターで人々とやり取りするのか、それを考える。ペイドメディアはいちばん後だ。それも、ターゲットが棲息しているのはどんなコミュニティだろうか、どのサイトだろうか、そういうある種”ちまちま”した作業になる。

そういう作業をひとつひとつ”ちまちま”と積み上げていって、長い時間をかけて達成するのがこれからのコミュニケーションになるのだと思う。ちまちましてるかもしれないけど、そこでは媒体料よりも、コンテンツの魅力の方が重要になる。もっと言えば、伝える側の気持ちやエネルギーが大事になる。

”気持ち”とか”エネルギー”とか、そういう数値化不能な要素が出てきてしまうのが不思議であり、面白いと思う。テクノロジーが進んでコミュニケーションはもっと、ドライで数値化要素ばかりが重要になりそうなのに、意外にも人間味ベースの事柄が大事になってきている。

なんか、いいことな気がしてこない?これから、コンテンツ産業を支えてきた既存のモデルが崩れていくから、ぼくたちは大変になる。でも、いい感じの傾向が強くなっても来るみたいだ。

Don’t you know it’s gonna be alright?

ジョン・レノンって、いいフレーズいっぱい残してるね、まったく!

ということで、みなさん、2011年はAlright! な一年にしようぜ!

クリエイティブは世界を目指せ・・・とは言うものの・・・

今年のクリエイティブビジネス論を振り返るシリーズ。やっぱり「世界戦略」もおさえておかないわけにはいかないだろう。

どうして世界戦略を考えなければならないのか。

日本のコンテンツ市場は行き詰まりそうだからだ。というか、日本経済自体がもうすでに行き詰まっている。

コンテンツ市場とは何かを考えていくと、近代という時代とは何かとか、日本の高度成長とは何かという問題に突き当たる。そして、日本のこの60年間ほどがいかに希有な時代だったかがわかってくる。

まず日本の高度成長は結局なんだったのか。ぼくはずいぶん前に野口悠紀雄さんの「1940年体制」という論に学んで日本の戦後の納得のいく解釈を得ていた。それは1940年代に完成した戦時体制がそのまま戦後の経済的社会的制度となり高度成長を支えたというものだった。

最近また池田信夫さんのブログなどで知った新たな解釈によれば、人口の問題も大きかったのだという。人口がどんどん増えた上に、農村から都市部に大移動した。その人口が大量生産と大量消費をもたらしたのだという解釈。

そしてコンテンツ市場も、そんな大量生産大量消費の中から生まれたのだ。大量消費に必須のマスメディアの興隆とともにコンテンツ市場も成長してきた。

いま、そのコンテンツ市場が行き詰まっているのは、そんな高度成長の流れがとっくに止まったからと言えるだろう。

だから、世界、なのだ。

今年、K-POPの人気が出た。韓流ドラマはこの十年ぐらいで定着した。これは明らかな韓国の国策の成果。ではどうして韓国のコンテンツ産業は国を挙げて世界を目指したのか。韓国は国が小さく、人口も少ないからだ。

日本も高度成長が終わった上に人口が減少しはじめている。だったら世界を目指すべきなんじゃないか。幸い、世界を目指すに値するだけのクオリティを日本のコンテンツ産業は獲得しているようだ。世界へ行くべきタイミングなのだと言える。

世界を目指すべき理由はもう一つある。

マスメディアの時代が終わろうとしている中、いわゆるミドルメディア的な数の顧客を各コンテンツが獲得する必要がある。人口が縮小している日本だけでそんなファンを獲得するより、世界でファンを作っていった方がいいはずだ。

「おいらとあんたの世界戦略」では、だいたいそんなことを書きつづってきた。大筋は正しいと思う。

ただし、これはただの「りくつ」に過ぎない。論理的には正しい。でもこれを具現化するのは並大抵ではない。

まずもちろん、世界との物理的な距離がある。いくらネットで世界とつながるとは言え、世界の人がどんなコンテンツを求めていて、どんな経路でコンテンツに触れていくのか、ネットでの理解には限界がある。本気でやるのなら、主要各国に支社ぐらい必要だろう。

それから、言葉の壁も大きい。距離の壁はひょっとしたらネットがあれば超えられるかもしれないが、そこで言語は別の壁になる。魅力的なコンテンツを作れたとしても、数カ国語に翻訳しないと「世界戦略」にはならない。プロモーションなどの活動でも日本語だけでは何も伝わらない。

コンテンツ産業は楽天みたいに英語を公用語にするぐらいやらないといけないのだろう。

こうした困難を乗り越えるには、個々の企業では限界がある。日本のコンテンツ企業はほとんどが中小企業だ。いや、小さな個人事務所がいっぱいだ。世界に支社なんて持てるはずはないし、英語の堪能なスタッフをそれぞれで雇うなんて無理だろう。

たぶんぼくたちには何らかの形で、連帯が必要なのだ。

「おいらとあんたの世界戦略」を実現するための、コンテンツ産業の”連帯”。2011年への、宿題なのかもしれない。少なくともぼくは、強く意識していこうと思っている。

スマートフォンは爆発するけど、タブレットはどうだろう?

今年のこのブログ最大のシリーズは、どう見てもiPadについての記事群だった。我ながらよく頑張ったというか盛り上がったというか。

カテゴリーで言っても「iPadから見えるコンテンツの未来」で40本書いて、それだけじゃ済まずに「iPad Messages」とカテゴリーを別に立てて18本書いている。ちゃんと数えてないけど、今年書いた記事の半分ぐらいはiPad関連ではないかな。

アクセス数でも多かった。iPadについて検索して読んでくれる人も多かったみたいだ。それに何と言っても「電子雑誌はPDFじゃダメなんだよ!」と題した記事はものすごく読まれたようだ。gooブログはアクセス解析でも、特定のページのアクセス累計なんて気の利いた分析は出してくれない。だからこの記事がどれくらい読まれたのかわからない。でも毎日のアクセス分析で、最新記事の次とかその次とかで読まれているのは最近もこの記事だったりする。

それくらいiPad熱が上がった。とくに夏は最高潮だった。

でも秋が来て冬になると・・・おや?という感じになった。こないだリアルでも初めて会った@elllll(ellyとも言う)も、ぼくがiPadについて盛んに書いてた頃は、彼女もiPadに夢中だったそうだ。で、最近は?と聞くと口ごもっていた(笑)。熱が冷めたのだろうか。

世の中全体としても、iPad熱は秋あたりから急激に下がった気がする。

実際、アメリカでは700万台売れたとか、もっとだとか、とにかく大きな数字が乱れ飛んでいるのに比べて、日本ではグッと少ないようだ。人口比からいって1/3売れていてもおかしくないけど、どうやら100万台はおろか、20万台とか30万台とか、そんなレベルらしい。

ひとつにはやはり、日本語のコンテンツが少ないからだろう。とくに新聞雑誌の電子版はアメリカに比べると少ないと思う。

これは致し方ない。日本の出版業界がどうのこうの言う前に、日本はアメリカじゃないからジョブズがいない、というのが大きいんじゃないか。ジョブズはプレゼンして回ったそうなのだ。出版業界を動かそうと頑張ったのだ。でもあくまでアメリカで。そういう営業努力(?)が大事だったりする。

そうして結局、卵が先か鶏が先か、という状態になる。iPadが売れたらコンテンツが増えるだろう。コンテンツが増えたらiPadが売れるだろう。んー、どっちが先なんだ?いまはそんな状況だろう。

では来年はもっと伸びるのだろうか。日本でのiPad元年は本国アメリカに一年遅れて2011年、ということだろうか。あるいは、GalaxyTabやGalapagosなどが続々出るので、タブレット端末全体が来年は伸びるよ、となるのだろうか。

ぼくの予想では、タブレットが本格的に伸びて、そこが”コンテンツ市場”になるのは、来年の後半からだと思う。

というのは、タブレットのよさは、スマートフォンのよさを知ってから、になってしまうからだ。なにしろ、ぼくがそうだった。

iPhoneを買った2月。そして3月4月5月と、一日中いじっていた。移動中や会社ではもちろん、帰宅後もiPhoneをいじりたおしていた。ただ、疲れもした。とくに45歳を過ぎてからは老眼がぐいぐい来てるので、小さい液晶を見つめ続けるのは大変だった。

そして5月末にiPadを手に入れた。それからはもう、帰宅後はiPadだ。ずーっとiPad。会社でも打合せにiPadを持ち歩く。外出時だけはiPhoneを使うけどね。

これがいきなりiPadだと、なかなかなじめないんじゃないだろうか。

それで、どうして来年後半からだと予測するかと言えば、スマートフォンのビッグバンがまず来年5月に起こるからだ。これはもうまちがいないと思う。いまもかなりの種類のスマートフォンが出てはいるが、まだまだ選びにくいと思う。それが5月にホントにどかんと多様な機種が出るから、そこでようやく”どいつもこいつもスマートフォン”状態になるはずだ。

それを受けて、今度は「これ面白いけどもっと大きいのがいいな」というニーズが高まるだろう。その時ようやく、タブレット型が本格的に普及するのだ。

なーんてね、ぼくは本来、こういう予想をするタイプじゃないんだけど、ちょっと考えてみたよ。当たるかなあ?

まあでも、来年はスマートフォンとともにタブレットも伸びる、スマートデバイス本格元年になるはずだ。iPadちょっと飽きたな、という皆さんも、そんなこと言ってる場合じゃないぞ。乗り遅れちゃうぞ。ellyも、オウケイ?

そろそろ、「広告」の次の言葉が必要かもしれない

2010年という、(おそらく)エポックメイキングな一年として語り継がれそうな年を振り返ろうと思っていたのだけど、なかなか、書けなかった。

何書くかな?ともやもやしちゃってたのだけど、今日久しぶりにTwitterでこってりいろんな人と話したら、どんどん書くべきことがわいて出てきた。そういうもんだ。誰かから刺激を受けて脳みそが働くようになる。

いろんな人とのいろんな話の中に広告の話題もあった。

そう言えば、「広告の新たな地平線」というカテゴリーで書いてきた内容は途中な感じになっていた。少しずつ書いていたのは、ソーシャルメディアとコンテンツについてだった。

広告はもういま、すごい勢いで変化している。少し前までの「コミュニケーションの核はWEBになるんでしょ?」という段階からぐいっとちがうステージに進みつつある。それはもちろん、ソーシャルメディアが登場したからだ。

少し話がずれるけど、スマートフォンがいますごい勢いだ。いまやケータイ電話の新機種といえばスマートフォンといった感さえある。さらに来年は加速するだろう。

スマートフォンを持つ意味は、単なるケータイ電話の代わり、ではない。それはわかっていたことのようで、あらためて認識させられた。Garbagenewsのこの記事「世界各国のソーシャルメディア利用率をグラフ化してみる」を読んだからだ。タイトル通り、各国のソーシャルメディアの普及度を表にしてある記事なのだけど、いちばん最後に、こんな文章がある。

来年はスマートフォンの浸透と合わせ、さらにこの動きは加速化していくに違いない。モバイル端末はソーシャルメディアと共に、世界全体を大きく動かそうとしていると見ても、あながち間違いではないのかもしれない。

ソーシャルメディアの普及について語る際は、スマートフォンとセットだよねと言っているわけ。

ソーシャルデバイドについて何度か書いてきたけど、その差異は要するにスマートフォンでソーシャルメディアを使っているかどうか、に集約される。常に例外はあって、スマートフォン持ってるけどソーシャルやってない人もいれば、スマートフォン持ってないけどソーシャルメディアばりばりの人もいる。でも傾向としては、ソーシャル=スマートフォンなんだ。これはセットでいま世界を変えつつある。

つまり、テレビ新聞雑誌=マスメディア一辺倒だったのが、スマートフォン=ソーシャルメディアに変化しつつある。マスメディアがなくなるとは言わないが、規模が急激に小さくなるだろう。その分、ソーシャルメディアの影響力がぐいぐい高まるはずだ。

そうすると何がどうなるか。考えれば考えるほど、答えは簡単じゃない。さらに、考えれば考えるほど、いまとまったくちがうことになっていきそうだ。天動説と地動説ぐらいちがう。宇宙のとらえ方がまったく変わってくる。

「広告」という熟語がいつ生まれたのか知らないが、「商品のセールスなど企業活動のためのコミュニケーション」てな意味合いになるだろう。それが「広く告げる」という熟語になっているのは面白い。マスメディアを使うことが前提になっているかのようだ。

でもこれからは、マスメディアではなくソーシャルメディアを活用した広告が出てくるべきなわけだ。そうするとそれはもう、「広く告げる」作業ではないかもしれない。少なくとも、何百万人を相手にすることではなくなっていくのだろう。だったら「広告」という言葉はふさわしくないだろう。だから(よく言われる)「狭告」と呼びましょう、といいたいわけではない。何かもっと、まったくちがう方向から持ってきた言葉を当てるべきなんだろうと思う。

もし、マスメディアではなくソーシャルメディアを軸に広告(?)活動をしていくとしたら、いわゆる媒体料をもとにした話ではなくなっていくはずだ。そしてその時点で、広告の世界がまったく別のものになるのだ。

そんな世界がまだぼくには具体的にはイメージできない。見えてこない。それぐらい、これまでの広告ビジネスは媒体料が基本だった。媒体本位制だった。そして媒体マージンがすべての源泉だった。みんなのお給料や、なかなかの金額の広告制作費のもとのもとだった。

媒体本位制が崩れる。2011年は、まちがいなくそういう年になる。スマートフォンの急激な普及がそれを後押しするんだ。

そんな中、ぼくたちは何ができるんだろう。どう生きていくのだろう。iPhoneを手に立って、ぼくらは考えねばならない。いや、考えている場合ではないか。どんどん歩き出さねばならない。・・・それから、手にしているのはもうiPhoneじゃなく、Andoroidかもしれないしね・・・

AnimeTunes Vol.1 iPhone版も出た!

前回AnimeTunes Vol.1 HDが出ました、という記事を書いた。HDだからiPad版だったわけです。

で、今日はそのAnimeTunesのiPhone版が出たよ、ということを書く。

実はiPad版が出た時点で、審査に申請中だった。もうクリスマス休暇だろうし、これは年越しなんだなと思っていた。ところが、滑り込み的に審査通ったので、iPhone版も発売した。公式なリリースはまだだったので、iPad版iPhone版同時にリリースをまいた。

iPhone版はiPad版とほぼ内容は変わらない。アプリそのものは無料で、個々のアニメーション作品は有料。今回のものはすべて230円だ。ひとつひとつをダウンロードしてもらうことになる。WiFi環境じゃないとダウンロードできないので注意してくださいね。

いきなり有料はなあ、という方は無料のものもあるので、まずは試しにいくつか見るといいだろう。

それぞれ、個人作家の方の作品だ。作家のアニメーション作品というと、小難しそうに思えるかもしれない。でも、気軽にエンタテイメントとして見ても、全然楽しめる。僕自身、今回のこの作業で初めてみたものがほとんどだけど、ひとつひとつ、ホントに面白かった。

例えば上の画像で画面写真がある「恋するネズミ」なんかはたぶん誰が見ても面白いだろう。

銀行強盗のネズミがチーズを盗む。その中にとてもチャーミングなチーズがいて、ネズミは恋をしてしまう。恋してるから食べない。でもネコ警官に追われて隠れている。だんだん食べ物がなくなって・・・という、物語としてわかりやすいし面白い。なぜかウシのキャラもからんでヒューマンなドラマが展開される。

ほら、面白そうでしょ?そんなアニメーション作品がいっぱい入っているわけ。ダウンロード販売だから何度でも見れる。不思議と短編アニメーションって何度も見たくなるものなんだ。

ということで、AnimeTunesはこれからのVODのひとつの有り様を具現化しているつもり。まあ、試しに見てみてくださいな。

AnimeTunes Vol.1 HD発売しました!

9月にこのブログでAnimeTunesについて書いたの、読んでくれてる?

2回に分けて「アニメーションVODレーベル AnimeTunesスタート」という記事と、「AnimeTunesはミドルメディアの実験だ」という記事を書いた。そんなのあったの?という方はこの機に読んでみてちょ。

読むのが面倒くさい方には簡単に説明すると、主に短編を中心に、個人作家が制作したアニメーション作品をセレクトしてお届けするVODレーベルだ。9月からアクトビラ上ではじまった。その時も、何人かの方からiPadでやらないの?と言われていた。

もちろん着々と(でもないけど)準備して、この度iPadアプリとして登場した。AnimeTunes Vol.1 HDという名前でAppStoreにあがっている。

このアプリ自体はダウンロード無料。ただし、その中の作品を視聴するには230円が必要。

無料のものも7本ほどあるので、いきなり払うのはちょっと、という方はまず無料でいくつか見てからでもいい。

このVol.1で選ばれた作品のうちかなりが、国内や海外の映画祭で賞を受賞しているものだ。当然、見ごたえある作品ばかり。

短編で個人作家で受賞作品と聞くと、アーティスティックで小難しいと思うかもしれない。でも、まったくそんなことはない。むしろそれぞれエンタテイメント性が高く、気軽に楽しめる作品だ。短いものが多いので、ちょいとあいた時間に見てみるにはぴったり。

VODについてけっこうこのブログでも書いてきた。いまぼくにとって重要なテーマのひとつだ。そうした考えの反映でもあるのがこのAnimeTunes。これからの映像コンテンツの楽しみ方のひとつとして皆さんに提示しているつもりだ。iPadのようなスマートデバイスで、ちょっとした時間に気の向くままに楽しむ。そういう視聴は増えていくんじゃないだろうか。

とはいえ、ちょっとドタバタと慌ててつくったので、いろいろ不備もある可能性もある。また自分で使ってみると改良したい点も出てくる。そのあたりは、起ち上がったばかりのよちよち歩きのサービスだということで、今後に期待してくださいね。

無料だし、とりあえずダウンロードしてみっか、という方は、このリンクからジャンプしてみよう。iTunesStoreが起動するはず。とにかく見てみて!