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コピーライター→映像製作会社ロボット→広告代理店ビデオプロモーション→再びコピーライター(フリーランス)。 メディアとコンテンツの未来を切り拓くコミュニケーションをデザインします。講演・執筆依頼もお気軽に!

アマゾンだけじゃない!VODサービス続々登場。次は、観たくなる工夫がポイントだ!

「アマゾンはVODを日本で日常化させるか?」と題した記事を書いたけど、アマゾンだけで終わりではなかった。28日にはマイクロソフトが動画配信サービスXbox VideoのWEB版を公開したというニュースが飛び込んできた。これまでゲーム機XboxかWindows8だけでしか使えなかったのが、普通のWEBブラウザーで使えるようになったのだそうだ。もちろんぼくのようなMacユーザーも使える。

アマゾン同様、映画とドラマが視聴できるのだけど、レボリューションやホームランドなど、他のVODにはない新しめのコンテンツも入っている。やるなあ、マイクロソフト!

それから、知らなかったのだけど10月30日にはGooglePlayでもそれまでの映画に加えてテレビドラマを扱いはじめたそうだ。いずれもタブレット端末のセールスに向けたサービスらしい。アマゾンはKindleHDの新製品が出たし、GoogleもNexusの販売のためにドラマも揃えたというわけだ。こうなると、iTunesではドラマは扱っていないので、iPadがちょっと不利かもしれない。・・・まあきっとAppleもそのうちドラマも扱うのだろうけど。

ぼくのような映画やドラマが大好きな人間にとって、こうしたVODサービスの続々の登場は喜ばしいことだ。思い返すと、2005年だったかにビデオiPodが出た時、海外では映画やドラマをiTunesで取り扱うようになったのに、日本ではミュージックビデオしか見れなかった。あの頃からすると隔世の感があるが、もう8年も経っているのだからなー。

さてこうなると、VODサービスにさらなる向上を求めたくなる。そもそも、ぼくはこれまでのAppleTVやhuluにいささか不満があった。コンテンツを選ぶための情報が、圧倒的に少ないのだ。

AppleTVで映画を選ぶ際、カンタンなあらすじとキャストやスタッフの情報があるだけ。でも映画の紹介って、あらすじだけじゃない。あらすじよりもっと大事なのが、その作品の位置づけ的な情報だ。その昔なら淀川長治や水野晴郎がテレビのロードショー番組で映画を紹介する時、わくわくするような話をしてくれた。誰々が主演で、この作品によって一躍彼は大スターになった、とか、誰々が監督で、彼の遺作となったのがこの作品だとか、そういう情報。そういうのをコンテキストと言う。

コンテキストは様々で、もっと個人的なことかもしれない。自分が学生時代に初めて観たスプラッタムービーで衝撃だったとか、若い頃デートで観てうっとりしてその後でプロポーズされたとか、そんなことでもいい。そんな情報が作品に与えられると、なんだか観たくなるものだ。

逆に言えば観る理由は何だっていいのだ。なんとなーく、興味を持った作品を観る時に、一押ししてくれさえすればいい。観たあとで、なんだそうでもなかったじゃないかとか、言っていた以上に面白いじゃないかとか、それでいいのだ。とにかく、その日、その時間にその映画を観るための、自分に対しての納得をちょっとだけくれればいい。

AppleTVにはそういう要素がほとんどない。わずかに、他の人の短い感想が3つ程度読めるだけ。

huluはもっとそっけない。あらすじしかない。キャストや監督の情報もないのだ。だから別途その作品について検索しないと情報が得られない。

AppleTVやhuluで何か観ようと起ち上げて、でも情報が少なく自分で検索するのにも疲れて、結局何も観ないで終わる、ということがしょっちゅうある。

モンクついでに他のVODについても言ってしまうと、ぼくが加入しているケーブルテレビにはVODサービスもあるのだけど、これがインターフェイスがよくない。さらに、ブルーレイレコーダーでアクトビラとTSUTATA TVを使えるのだけど、同様に使いづらい。ちょっとページを切り替えるだけですごく待たされる。これらに比べると、AppleTVもhuluもさくさく動いてずっと使いやすい。

なんだかモンク大会になってしまったけど、とにかくVODサービスはまだまだ改善すべき点がいっぱいある。もうサービスが出そろったのなら、次のステップに進んで欲しい。選びやすくして欲しい。どれもこれも観たくなる、そそる仕組みを構築して欲しい。情報を整えるのが重要だし、ソーシャルもうまく活用して、その映画についてのみんなのつぶやきがささーっと読めるとか、絶対にやった方がいい。

映画やドラマに限らず、コンテンツが莫大に増えると、選べなくなるものだ。自分が何を観たいかがわからない。でも、そんなにまっとうな理由が必要なわけではないのだ。ちょっとしたことで”そそられる”。いくつかの角度で”ちょっとしたそそる情報”を作品毎にパッと見られるようにすればいい。

もうそれぞれ、きっと考えてるよね。さっそく具現化して欲しいもんだと思う。考えてないなら、意見言わせて欲しいもんだなあ。

コミュニケーションディレクター/コピーライター/メディア戦略家
境 治
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sakaiosamu62@gmail.com

アマゾンはVODを日本で日常化させるか?

アマゾンが映像配信サービスを日本でも開始すると報じられた。しかも月内にスタートするという。これはえらいことだと思っていたら、26日に実際にスタートしていた。

さらにこんなニュースもあった。 「米アマゾン制作のオリジナルドラマ、ストリーミングサービスで視聴回数No.1」 米国のアマゾンの映像配信で、オリジナルドラマが好評だと。 ということは、月内にアマゾンが映像配信を始めたらいきなりオリジナルドラマも配信するかもしれないと思ったけど、さすがにこのドラマは26日の時点では置いてなかった。政治コメディだから日本で受けるタイプでもないだろうしね。

 

アマゾンのサイトにアクセスすると、ジェフ・ベゾスの名前でこんなコメントが掲載されていた。 映像配信のサービス名は、インスタントビデオというそうだ。ハリウッドコンテンツだけでなく、日本の映画やドラマ、アニメも十分揃っている。

PCではそのまま視聴できるけど、iPhoneやiPadで見ようとすると、作品を選ぶところまでは進めるものの、視聴するには至れなかった。iPadだと専用アプリをダウンロードしろと言われ、でもそれは日本には対応していないとアラートが出た。 PC以外で見たいならKindleを買いなさいということなのだろう。

ラインナップはいきなりかなり揃っている。でもiTunesなど既存の映像配信サービスと比べて何か優位性があるわけではない。iTunesではテレビドラマを扱ってないのでそこは優位性があるかもしれないが、huluにあるのがほとんどだった。だったらhuluの方が定額制の分お得感がある。

とは言え、ほかならぬアマゾンが映像配信サービスを始めた意義は大きい。

ぼくはずいぶん前からVODに注目してきて、このブログでも書いてきた。「VODに未来はあるのか」というカテゴリーを見てもらうと、その一連の記事が読める。

ほんの少し前、2000年代後半までは、VODは「まともな映像を見せる場ではない」と捉えられていた。えー?そうだっけ?という人は、その頃の感覚を忘れているのだと思う。

「VODって言ったって、オタクなアニメと、あとはエロ動画しかないじゃないか。そんな場でちゃんとしたドラマや映画を見せられないし、見る人もいないよ」業界のあちこちからそんな声ばかり聞こえていた。当時のVODサービスはそういう、”場末の小汚い店”だったのだ。

GyaOが映像配信をはじめたけれどなかなかいいコンテンツが集まらず、そのうち事業として失敗ということになってYahooに引き取られた。徐々にコンテンツも増えたが、なーんだかマイナーな場だった。場のイメージがマイナーだと、コンテンツもマイナーなものしか集まらない。そういうものなのだ。

それを変えたのは、AppleTVとhuluだった。 AppleTVは2010年に「普通に使えるVOD端末」として登場した。日本でも11月に突然発売されて驚いた。その時のことをこのブログで「テレビに未来がやって来た!〜AppleTV即買い記〜」と題して記事を書いている。TechWaveにも転載してもらったので読んだ人もいるかもしれない。

そして翌年、2011年の2月に、『踊る大捜査線』の3作目が、DVD発売と同時にAppleTVで配信を開始した。”潮目”がはっきり変わったのはこの時だった。この時をきっかけに、DVD発売と同時にVODサービスでも配信するのが当たり前になった。それまでは、ちょっと時間を置いてから配信されるのが普通だったので、早く見たい作品は店舗でレンタルしていたが、もうその必要はほとんどなくなった。最新の作品がいつも並んでいる、実に素晴らしいサービスになった。

ただ、AppleTVは決してポピュラーなサービスとは言えない。ちょっと”わかってる”人がAppleStoreで買ってきて、テレビとネットとつないで使う。少しだけどハードルがある。

そういう、別の端末をテレビにつなぐタイプにしろ、PCで見るタイプにしろ、VODサービスはどこかハードルがあるものだった。ところがアマゾンはかなりの人がすでにアカウントを持っており、とくに本を買う時は日常的に使うサービスだ。

そんなアマゾンにアクセスすると、さっきのメッセージが出てビデオレンタルがPC上でできますよ、と言うのだ。ビデオオンデマンドを使ってみたかったけど、実際にどうやればいいのかなーともやもや思っていた人に、大きなきっかけをもたらすだろう。これを機に、映像配信の普及率はかなり高まるに違いない。

2000年代半ばに、VODについてよく言われたのが、ネットの映像にお金を払う文化はない、というものだ。だが、実際は少し違うのだ。ネットにお金を払わないのではなく、お金を払う手続きが面倒だったのだ。アマゾンですでにアカウントを持っている人なら、ふらりとこのインスタントビデオサービスを使ってしまうだろう。作品を選んで購入ボタンをクリックするだけなのだから。

VODが日常的なサービスとして普及することは、今後の映像文化にとって、あるいは放送事業にとって大きな意味を持つし、これをどう利用するかが分かれ道になると言ってもいいと思う。これについてはまた書いていこうかな。

コミュニケーションディレクター/コピーライター/メディア戦略家
境 治
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世界を変えたい人がいるほど、世界は変わっていく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

スティーブ・ジョブズの功績はMacやiPhoneを作り出して世界を変えたことだが、それより大きな功績は、誰にでも世界を変えることができることを人びとに示したことではないだろうか。

ぼくは二十年近くのMacユーザーで、映画『スティーブ・ジョブズ』は公開翌日に観に行った。正直、映画としての完成度はいまひとつだと思う。『ソーシャルネットワーク』の方がよほど優れた作品だ。でも映画として観に行ったのではないので気にならなかった。ジョブズについて描かれた映画であるだけで、ぼくにとっては価値がある。Macが好きで、そのストーリーをある程度知っている人なら、十分楽しめるはずだ。なにより、アシュトン・カッチャーがジョブズそっくりで、リスペクトして演じているのが伝わってきて素晴らしい。

ぼくは過去にブログで何度かジョブズについて書いている。

iPadが受継いでいるMacのメッセージ
スティーブ・ジョブズというロックンローラー
Rockの矛盾、Macの矛盾
製品にメッセージを感じることなんて、もう二度とないんだろうね・・・
Macに救われた人生は、世界中にたっくさん存在するのだろう
スティーブ・ジョブズは神様になってしまった

ぼくは決してジョブズによって人生を変えられたというほどの信奉者ではないけれど、Macのおかげで助かったことが多々あり、Macから伝わってくるメッセージに奮い立たされて生きてきた。ぼくはMacを使って考え、Macを使ってその考えをまとめ、Macを使ってそれを人びとに説明している。自分の表現力を増幅してくれるのがMacだった。

AppleTVに『スティーブ・ジョブズ1995〜失われたインタビュー』という作品が入っていた。テレビ番組用にインタビューされた映像が見つかり、未発表のジョブズの映像を90分に渡って見ることができる。こういうのが観れるのもVODのおかげであり、AppleTVのおかげであり、つまりはジョブズのおかげだ。そんなわけで、ジョブズのおかげでジョブズの話をこってり聞くことができた。

思いの外、素直に話していて、饒舌にいろんなことを喋るインタビューだった。

ひとつひとつ、かなり詳細に自分の考えや経験を語っているので、なるほどーと下手なビジネス本よりずっと役に立つ話が次々に出てくる。映画の方を見てもわかるのだけど彼はAppleの創業者とは言え、会社が大きくなってからは何でも思いのままにはいかなかった。だから彼なりに人の気持ちの高め方、組織の動かし方で苦労したことを語っていてそれだけでも十分面白い。

でもやはり、彼の考え方、ビジョンを語る部分が何より面白かった。

いちばん興味深かったのは、ブルーボックスのくだりだ。ジョブズは10代のころ、のちにAppleをともに創業するスティーブ・ウォズニアックと出会いいろんな”開発ごっこ”をした。たまたま見つけた記事にあったブルーボックスという、電話を不正に無料でかける技術に興味を持ち探し回ったあげく、図書館でAT&Tの技術資料を見つけた。それをもとに、独自にブルーボックスを完成させたのだという。それであらゆる国に国際電話をかけまくり、ついにはローマ教皇にかけて本人を呼び出そうとした。

ジョブズはこの時、感じたのだという。自分たちには何かを生み出せる。何かを生み出して巨大な何かをコントロールできるのだと。

つまりこの時、スティーブ・ジョブズは新しい製品によって世界を変えられるのだという一種の啓示を受けたのだろう。

これを語るジョブズを見た時、ぼくは90年代後半、ジョブズが復帰したあとではじまったAppleの”Think Different”キャンペーンを思い出した。「クレイジーな人びとへ。」そんな出だしだったと思う。アインシュタイン、ヒッチコック、エジソン、ピカソ、マイルスデイビス、そういった偉人たち、偉業を成し遂げた人びとが出てくる。彼らのことをクレイジーだと表現しつつ、そんな異端児たちが世界を変えてきたのだとメッセージする。Think DifferentとはなんとAppleらしいメッセージだろう。みんながWindowsを使っていてもずっとMacを使ってきたひとりとして、うれしいキャンペーンだった。そしてその後のAppleはiPod、iTunes、iPhoneそしてiPadを出し、ほんとうに世界を変えていったのだ。

ジョブズとアインシュタインと、どっちが偉人かと言えばもちろんアインシュタインだろう。あるいはエジソンと比べると、エジソンの方が大発明家ではないかと言われればまったくその通りだし、だからこそ、Appleがリスペクトする人物としてこういう人たちをあげたのだろう。でも、ジョブズがひとつだけ他の偉人にはない点があるとしたら、それは「世界を変えるために製品を生み出した」ことではないだろうか。世界を変えることが先にあり、そのために製品をつくったのだ。

その影響は計り知れないのだと思う。いまの一部の若い人びとは素直に「自分たちも世界を変えよう」と思っているようだ。少なくとも、そんなことを口に出して言っても笑われない。一昔前、例えば80年代にそんなことは恥ずかしくて言えなかったし、言ったら笑われていたと思う。いまよりずっと経済的には豊かだったのにだ。

クレイジーでいいのだ。鋳型にハマってなくていいのだ。ジョブズはそう、製品を通してメッセージしている。それを素直に受け止めた人たち、ひとりひとりがこれから世界を変えていくのだと思う。ひとつひとつの変化が小さかったのだとしても、小さな変化がたくさん集まることで世界は変わっていく。ジョブズがメッセージする前から、世界はそうやって動いてきた。

だからぼくたちはもう少しずつ、クレイジーでもいいのだと思う。ちょっとだけでもいいから、もっとこうしたい!ということを、口に出して言っていけばいい。きっとそれだけでも、世界はちょっぴりだけ変わったのだから。

※この記事はアートディレクター・上田豪氏と、続けてきた試み。記事を書いて挿し絵的にビジュアルをつくるのではなく、見出しコピーだけを書いたものに上田氏がビジュアルをつけて言葉とともにひとつの表現として完成させたもの。それをもとにあらためて本文を書く、というやり方をしている。ネット上での情報拡散はビジュアルが有効なので、その中にメッセージも入れ込んでみる、というやり方だ。期せずして、昔の企業広告のような見え方になっている。一昔前のグラフィック広告はこういうメッセージ性を帯びていたものだ。週一回程度、今後も続けていこうと思う。

コミュニケーションディレクター/コピーライター/メディア戦略家
境 治
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テレビとネットは広告で融合できるかがポイントだ~All About zeebox(3)~

いろんな話題を記事にしているうちに、zeeboxに関するシリーズがないがしろになっていた。今回は続きを書こうと思う。

前の記事を読んでない方は、下記のリンクから読んでもらった方がいいと思う。
映画「スティーブ・ジョブズ」公開の日にやって来た男、アンソニー・ローズ~All About zeebox(1)~

コンテンツを上手に選ばせる仕組みが重要だ~All About zeebox(2)~

今回は、zeeboxがどう収益を得ているかをテーマにしよう。

zeeboxのビジネスモデルはようするに広告モデルだ。一部にはECのアフィリエイト収入もあるそうなのだが、メインは広告だということ。

そしてその手法は「テレビCMとの連動」である。

テレビ放送中にCMがオンエアされると、手元のzeebox画面上にも同じ製品の広告バナーが登場する。オンエア中は表示が続く。クルマの広告だったらIPアドレスに基づいて近くの販売店を表示することも可能。そしてCMオンエアが終わるとバナーもなくなる。ただし、タグが残っていて、あとでもう一度見ることもできる。

なるほどー、よく考えられている。

テレビ放送とネットでの広告の関係は難しい。番組の邪魔になってはいけない。他社のCMとかぶってもいけない。だから”同期”をさせないと、A社のバナーがB社のCM放送中に表示されつづけたり、CMが終わって番組に戻ってもバナーが表示されることになり、そこには営業的な問題がどうしても残ってしまうのだ。A社にはなんて言うのだ、B社に説明がつかない、てなことになる。

zeeboxはその込み入ったところを、同期によって解決しているのだ。

ただ、現状でzeeboxが実現できているのはこの”同期”までで、販売店を表示させる、ようなところまでだ。

先日の「テレビの未来を担う、セカンドスクリーンは定着するか〜マル研&JoinTV〜」と題した記事で紹介したJoinTVの構想ではO2O2Oつまり店頭で購買にまで誘おうという考え方なので、そこが少し違うことは言っておきたい。

さてこのzeeboxが実現しているテレビCMとネットでのバナー広告の”同期”はテレビCMの価値を大きく高める可能性を示している。実際、すでにzeeboxはこの仕組みでテレビ局に広告収入をもたらしている。ここがzeeboxの姿勢のポイントだが、あくまで広告収入を得るのはテレビ局だ。もちろんzeeboxもレベニューシェアを受け取るのだが、自分たちが前に出てくることはしない。

実はアンソニーに会うまで、こうした姿勢は知らなかった。もっとテレビ局と別に、勝手にビジネスしているのだと思っていた。だが彼らにとってテレビ局は重要なパートナーであり、”協業”している。セカンドスクリーン用のサービスはzeebox以外にも存在するのだが、彼らだけが成功者として聞こえてくるのは、テレビ局とのパートナーシップで優位に立っているせいなのだろう。

セカンドスクリーン用のサービスはそもそもが、テレビ放送ありきのビジネスだ。テレビに取って代わる新しいメディアではなく、テレビをより楽しめるようにすることで、ビジネスにもなる類いのもの。だったら勝手にやるよりパートナーシップでやった方がいい、ということだと思う。

放送と通信の融合、と言われはじめてから久しいわけだが、ビジネス上、融合のためには広告の仕組みが必要なのだと思う。zeeboxはその仕組みをテクノロジーによって初めて具体化したサービスだと言える。ようするに「こないにしたら、よぶんにもうかりまっせ」と胸を張って言えるようにすること。いろんな意味で学ぶべき点がそこにはあると思う。

コミュニケーションディレクター/コピーライター/メディア戦略家
境 治
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発覚した事態は、すでに日本中で起こっている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ちょっと時間が経ってしまったけど、一流ホテルのメニューが偽装されていたことが発覚した件について。

ホテル側の言い分では偽装ではなく、誤表示だったとのこと。この際、偽装でも誤表示でもいいけど、例え悪意がなかったとしても、間違いだったことに間違いない。間違った表示を何年も続けていたのなら大きな罪だと思う。

この偽装騒動で面白いなあと思ったのが、ひとつのホテルで発覚したことが、あちこちのホテルでもほとんど同じことが行われていたとわかっていったことだ。発端は10月22日の阪神阪急ホテルの会見だったのが、その後ほんとうに日本中のホテルが次々に会見を行った。

あんまり続いたので大きく報道されなくなったけど、11月に入ってからも続いていたし、つい数日前も発表があった。いずれも、わりと有名な、名門と言っていいホテルだ。

いちばん多いのは、車海老や芝海老と表示されていたのがバナメイエビやブラックタイガーだったというエビ関連の偽装(誤表示)だ。聞くところでは、小型の海老を一般的に芝海老とか車海老とか業界では呼ぶのだとか。でも、スーパーで車海老や芝海老と表示された海老は明らかに高級そうだし値段も高い。バナメイエビやブラックタイガーはランクで言うと”並”という感じで、庶民感覚的にはずいぶんレベルがちがう食材だ。業界の慣習ではすまないと思う。

海老の話は置いといて、とにかく日本中のホテルで行われていたこの不祥事。一カ所で発覚したことが日本中でも、というのは、デジャブ的な印象がある。前にもいっぱいあったよ、似たようなことが。

食品偽装はこれまでにもいくつかあった。保険金不払い事件なんてのもあったなあ。違法派遣ってのもあったし、偽装請負というのもあった。

極め付けは「消えた年金記録」問題。この時は、一カ所で見つかって騒動になったあと、日本中でいったい何万人の記録が失われているんだろうという事態となった。大騒ぎだったし、結局これ、解決したんだっけ?

こういう連鎖反応みたいなことが起こった時、不思議だなあと思う。ひとつめの不思議は、最初に発覚した時は「まったくなんてことしてたんだそいつらは!」とびっくりするのだけど、今回のホテルのケースのように「ほとんどまったく同じ不祥事」があちこちで起こっていた。なにか、全員で示し合わせたかのように同じような不祥事なのだ。

もうひとつ面白いのは、そんな不祥事があちこちで起こっていただけでなく、同じタイミングで発覚することだ。もちろん、最初の発覚が引き金になっているのだけど、みんな自主的に「私もやってました」と発表していく。それまで隠してたのだから隠し通そうとしてもいいんじゃないかと思うのだけど、むしろ誰も彼も率先して謝りはじめるのだ。

誰かが考える悪事は、多くの同業者も考えるものなのだろう。あるいはひょっとして同業者の間で「こうするとトクだぜ」と情報が伝わってみんながやっちゃってたのではないか。

だからこそ、一カ所で発覚すると、「あちゃー、あそこでバレちゃったかー、じゃあうちもいまのうちに謝っちゃう方がいいかなー」とあちこちで白状しはじめる。つまり悪いことしてる自覚有り有りなのに違いない。

こういう捉え方だとなんだか軽いけど、この現象、よーく考えると空恐ろしい気持ちになる。だって、いったいどんな領域でどんな不祥事が隠されているのかわからない、ということになるのだから。そしてそれは、一カ所で発覚すると日本中で実は起こっているのだ。一匹ゴキブリが見つかると家中にいるのだとよく言われる。一カ所で出血が起こるとあちこちで血が噴き出すのかもしれない。そんな暗ーい捉え方をし始めると、どんどん恐ろしくなってくる。

同業者の内輪でみんながやっていると鈍感になり、ま、いいんでね?あいつもこいつもやってるし、と自分に緩くなる。外から見たら、なんてひどいこと、社会的に見て危ういことだったりしても、仲間同士で「ま、いっか」となっている。そんな事態が平穏な日常の奥底にいっぱい隠れているかもしれないのだ。薄皮一枚ひっぺがすと、あちこちで膿みたいに淀んだものが溜まっているのかもしれない。

ぼくたちは、自分の業界にも膿があるんじゃないかと疑った方がいいのだろう。それってまずくないすか?ま、いいんでね?ずっとみんな、そうやってきたからさ。そんな事態が近い将来、日本中で発覚するのかもしれないのだから。

※この記事はアートディレクター・上田豪氏と、過去数回やってきた試みの続き。記事を書いて挿し絵的にビジュアルをつくるのではなく、見出しコピーだけを書いたものに上田氏がビジュアルをつけて言葉とともにひとつの表現として完成させたもの。それをもとにあらためて本文を書く、というやり方をしている。ネット上での情報拡散はビジュアルが有効なので、その中にメッセージも入れ込んでみる、というやり方だ。期せずして、昔の企業広告のような見え方になっている。一昔前のグラフィック広告はこういうメッセージ性を帯びていたものだ。しばらくお休みしていたが、この試みは気長に根気よく続けていこうと思う。

コミュニケーションディレクター/コピーライター/メディア戦略家
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テレビの未来を担う、セカンドスクリーンは定着するか〜マル研&JoinTV〜

「セカンドスクリーン」という概念がある。テレビを見ながら別のデバイスの画面つまりPCやスマートフォン、タブレットなどを見ることだ。テレビがファーストスクリーンで、別のデバイスがセカンドスクリーンというわけだ。

このセカンドスクリーン現象は前々から起こっていた。テレビCMに「つづきはWEBで」と出たりしたし、ガラケーを片手に”ながら視聴”をしていた。

ただ、スマホとソーシャルの時代になり、twitter上でテレビ番組をネタにつぶやくことが増え、またスマートデバイスではガラケー以上に多様なことができるので、こんな新しい言葉が生まれていろんな人がいろんなことを考えはじめていろんな試みに取り組むようになった。ぼくのブログでもしょっちゅう取り上げているので、よく読んでくれてる人なら知ってるよ!って話だろう。

先日のソーシャルTVカンファレンスも、言ってみればこのセカンドスクリーンがテーマであり、キーノートをしてくれたアンソニーが開発したzeeboxはセカンドスクリーンサービスだ

日本でもセカンドスクリーンの開発に早くから取り組んでいるのがマルチスクリーン型放送研究会、通称”マル研”。関西キー局を中心に全国のローカル局が集まって2011年末からスタートしていた。

先週、11月13日から幕張で開催された放送業界の技術展示会InterBEEで、マル研はブースを持ち展示していた。彼らはこのInterBEEで、驚くべき発表をした。このITproの記事が詳しく書いている。
「マル研が来年早々にオンエア・トライアル、InterBEE期間中に放送局対象にゼミナールも」
マル研構想の仕組みは、セカンドスクリーンで見せるデータを放送電波で送り届けるのがポイントだ。ネットで送ると、テレビがもたらす膨大なトラフィックを処理するのは難しい。電波で送ればその混乱を防げる。ただし特別な端末を各家庭で持つ必要があるので、具体化はずいぶん先なのだろうと思っていた。

ところが来年、トライアルをやるというのだ。しかも、それがうまくいけば来年春から実際にスタートするとも言っている。特別な端末を使うのは先にして、ネットでできることをはじめてしまおうというのだ。そのスピード感には驚きだ。

ブースではこの写真のような展示をしていた。これはいわゆるCMSで、放送局の側が番組に合わせてこんな画面に、視聴者に対して番組に合わせて見せたいコンテンツや投げかけたい質問などを入力する。あらかじめ入力しておけば番組の進行に添って視聴者の手元の画面、セカンドスクリーンに表示されるのだ。これなら、番組スタッフがプログラミング知識がなくても自分たちで操作できる。これができたので、実用化も可能だということだろう。

そんなマル研に驚いた矢先、今度は日本テレビのJoinTVのスピードにまたびっくりした。11月15日金曜日に、JoinTVConference2013という催しが開催されたので見に行ったのだ。

これについてもITmediaの記事を読むのが早いと思う。
「「JoinTV」で新しい広告モデルの構築を目指す日テレ」
カンファレンスの目玉として、「O2O2O」というプロジェクトが示された。

マーケティングの注目概念としてOnline to Offline略してO2Oというキーワードがある。PCやスマートフォンなどでオンラインで接触した消費者を実際の店舗での購買に結びつける仕組みで、店舗はOfflineなのでO2Oと呼ばれる。

日本テレビが唱えるO2O2OはこのO2Oの前にもうひとつのOを加えたもの。それはOnairつまり放送だ。テレビで観て、ネットで接触し、店舗に誘導する。だからO2O2Oというわけだ。O2Oにテレビ放送が加わることで、入り口をネットより格段に大きくすることができ、実現したらマーケティング効果は絶大になる。これまでテレビ広告はリーチ力は強いが実際に購買に結びつける力がないと言われてきたので、その弱点を克服する仕組みだと言える。これを、日本テレビはマイクロソフトやビーマップなどとの提携で具現化するのだと言う。

提携企業までもう決まっていて、ここまで具体的に進んでいたとはと、これまた驚いてしまった。日本では物事が進むの、遅いよなーと思っていたけどそんなことは全然ないじゃないか。

このJoinTV Conferenceはそうした日本テレビ側からの発表が続いたあと、最後にシンポジウムの時間もあった。これがまた面白かった。ゲストにNHK鈴木祐司さんとドワンゴの川上会長が登壇し、テレビはこれからどうなるのかを議論したのだ。

川上会長も例によって面白いのだけど、最初はNHK鈴木さんのプレゼンテーションの時間があって、ぼくはこれも大変刺激的で面白かった。

ものすごくカンタンに鈴木さんの問いかけを書くとこんなことだ。

NHKスペシャルの企画に役立てるために視聴者のリテラシーを調査したらピラミッド的な分類になった。三角の上の方には熱心な視聴者がいて彼らは年配だが意外にPCを使いながらテレビを見たりする。ドキュメンタリーのターゲットは彼らだろう。もうちょっとくつろいで視聴するのはドラマ視聴者、さらに退屈しのぎで観る層はバラエティ好き。ソーシャル×テレビの対象者は実は一部に過ぎないのではないか。それよりもっと問題なのはタイムシフト視聴ではないか。日テレさんはソーシャルテレビ頑張ってるけど、タイムシフトにはどう対処するの?強引に短くまとめるとそんな話だった。

タイムシフト視聴、つまり録画による番組視聴はどんどん増えている。録画だとCMを飛ばされるし時間編成も無視される。テレビ局にとってはいろんな側面で由々しき問題だ。そんなことを鈴木さんは問いかけていて面白かった。

マル研とJoinTVのスピード感に圧倒されながら、ぼくもぼくなりに疑問に思ったことがある。両者の向かう方向は、ほんとうに視聴者が求めているのだろうか。どれくらいの数の視聴者が求めているだろうか。あるいは、日常的に求めることだろうか。

インタラクティブな番組は、参加すると面白い。これまで様々な番組の様々な試みが繰り広げられ、ぼくはそれぞれ大いに楽しんで参加してきた。”お祭り”として、面白かった。

でも常日ごろ、テレビを観ながらセカンドスクリーンでしているのは、もっと気ままで自分勝手なことだ。ドラマに出てきた出演者、この人どこかで観たなあ、どのドラマに出てたっけ。と思うとスマホで検索する。番組を観ながら、おおー!と思ったらFacebookやTwitterで「おおー!このあとどうなっちゃうんだ?!」とつぶやく。他の人も「おおー!」と驚いているのをタイムラインで見て喜ぶ。たまに誰かが反応してきてやりとりする。

ぼくが日常的にテレビを見ながらやりたいことは、そんな程度だ。だが、そんな程度のことをするのに、えらく面倒が生じる。検索したりつぶやいたりするたびに、アプリを切り替える。番組についてつぶやく時にハッシュタグの入力が大変だ。番組を観ながらつぶやいてる人たちとハッシュタグを検索してタイムラインでやっと出会う。

セカンドスクリーンでやりたいこと、よくやることにはいろんなことがある。”参加”もそのひとつだけど、実はあんまり毎回やりたいわけではないのだ。特別な番組なら参加も楽しいだろうけど、毎週見ている番組で毎週参加を求められてもやらないと思う。

日常的に使うセカンドスクリーンサービスが、実は現状は存在しないし、欲しいと思っている。そして、広告効果を高めるにせよ、O2O2Oをビジネス化するにせよ、テレビを見ながら日々使うサービスじゃないと効果が出ないのではないだろうか。

それに、そうしたサービスは地上波だけでは物足りないだろう。BSを見る機会は増えたし、MXテレビをはじめU局を見る機会も意外なほど増えている。スカパーやケーブル加入者は多チャンネルで観てたりする。

セカンドスクリーンを舞台にこれから、多様な試みが、具体化しそうだ。その道のりはまだまだ先があるだろう。誰でも、普通に使いやすい、日常性と普遍性がポイントになるんじゃないだろうか。・・・というのも、いま思うことに過ぎないかもしれなくて、来年になったらまた変わる可能性も大いにあるだろうけど・・・

ところで、11月21日木曜日の22時30分から、スクーというサービスを通じて”ネット授業”をやることになった。「「半沢直樹」のヒットから考える、ソーシャルテレビの可能性」というタイトル。興味あったら見てください。→申込はここをクリック!

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新しい学校「スクー」に、放送の価値を再発見した、って話

まず前もって書いておくと、この記事はかなり”宣伝”目的で書いている。これはステマですと宣言するとステマにならないわけだけどステマ的な意図があるのはわかっておいてね。

「スクー」というWEBサービスがある。一種のベンチャー企業なのだけど、”授業を企画制作して放送する”という、そんなのビジネスになるの?というユニークな事業を始めた会社だ。

事業内容はサイトを見てもらえばわかると思う。そのスクーでぼくも21日(木)22時30分から授業をすることになってしまった。タイトルは「「半沢直樹」のヒットから考える、ソーシャルテレビの可能性」というもので、まあいつもブログで書いてることなどをまとまった話にしてみようと思っている。興味あったらぼくの授業のページで「受けたい!」ボタンを押してくださいな。→このリンクから飛んでいける

すでに何百もの授業を放送してきたそうで、ノウハウも構築されており、なかなかよくできたシステムになっている。

中でもとくになるほどなーと思ったのは、授業を”放送する”手法をとっていることだ。なんというか、そこがミソだと思う。もちろん”生放送”だ。生放送だからもたらされる習慣性とライブ感が大事で、スクーの皆さんはそこをわかってこだわっているにちがいない。

テレビやラジオが持っていた社会的意義がこの「放送」にはあると思う。つまり、コンテンツとしての中身や質とは別に、一定の時間にそのメディアをオンにするとはじまること、そしてそれがライブであることに意義がある。カメラの前で起こることを共時的に共有する。それがコミュニティにとって意義があり、また逆にそれがコミュニティを規定する。

授業を映像化してオンデマンドでいつでも視聴できるようなやり方もあるし、それはそれで価値があるだろう。でも「21日22時30分から境さんがソーシャルテレビの授業やりますよー」と言われることで「なんだなんだ」となる。境さんってよく知らないけど、なんだろう、見てみようかな、と人によっては反応するのだろう。そういうイベント性が人を「なんか、見なきゃ」という気持ちにさせる。そうやって集まった人には「ソーシャルテレビって何だろうと思った」程度の共通項があり、コミュニティが形成される。

授業を”生放送”することにはそういう、独特の価値を醸成する効果があるのだと思う。

もうひとつ重要なのが、生だからこそのインタラクティブ性だ。スクーの画面は先生の側と学生の側が相互にやり取りしやすいように構成されている。先生役へのガイダンスにも対話を盛り込んでほしい旨が書かれている。

ラジオ番組でハガキを読んだり電話をかけたりするのと似ている。送り手と受け手の距離が一気に縮まり、コミュニティの共有感もいっそう高まる。

言ってみれば学校もメディアなのだなと思う。あるいは、学校をメディアと捉えることでスクーは独自性を獲得できているのかもしれない。リアルの大学なども、自らをメディアと捉え、先生たちが授業を放送と捉えることで、授業の価値が高まるのではないだろうか。

スクーを参考に既存メディアの価値を見直すと、テレビにはドラマやコントといった作り込まれたコンテンツを見る側面がありつつ、それと二重に”いま”を共有する価値があり、実はそこにこそ”メディア”の本質があるのかもしれない。良質なコンテンツを鑑賞するなら劇場に行けばいいのだろうが、それとは別の、コミュニティとの関係での共有感をもたらす装置として、放送メディアは存在する。

そしてさらにスクーに倣う点があるとしたら、コミュニティの規模だ。スクーの授業のタイトルを見ていくと、様々な分野の授業が並ぶ。それぞれに数十人、数百人の「授業を受けたい」人びとがいる。放送メディアは何百万人を相手にするものと決めてかかる必要はなく、数百人相手でも「受けたい!」人がいればその人にとっては大きな大きな価値があるのかもしれない。必要とする規模のコミュニティと、放送メディアの運営手法の関係がミソであり、スクーはその兼ね合いを見いだすための実験なのだと思う。

ということで、さあ、興味を持ったありがたい方がいたら、ぼくの授業も受けてみてください。しつこく書くけど、ここをいますぐクリックしてみて!→スクー授業「「半沢直樹」のヒットから考える、ソーシャルテレビの可能性」

コミュニケーションディレクター/コピーライター/メディア戦略家
境 治
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コンテンツを上手に選ばせる仕組みが重要だ~All About Zeebox(2)~

11月1日のカンファレンスでのZeeboxに関するキーノートレポートの第2弾の記事を書く。第1弾を読んでないという人は、そっちから読んだ方がいいので、ここをクリックしてくださいな。

Zeeboxの機能の第一は、いま観るべき番組はどれかをガイドしてくれるところだ。テレビが大好きな人にとって最も大事な機能だろう。そして、海外では多チャンネルが普通なので、日本よりずっと重宝する機能でもあると言える。

トップ画面で、Zeeboxはいくつかの「観るべき番組候補」を提示してくれる。まずは「もっとも人気がある番組」。これは、Zeeboxユーザーの中でもっとも視聴されている番組を一分ごとに算出してくれるもの。あくまでアプリユーザーの中で、なので、いわゆる視聴率とは違う。でも、その瞬間でもっともたくさんの人が見ている番組がわかるのだ。

それから、いわゆる”レコメン”もしてくれる。これまでの視聴傾向から、類推しておすすめしてくれるのだ。

そして、Twitterでいまこの瞬間にもっともTweet数が多い番組も提示してくれる。さっきのもっともたくさんの人が見ている番組とは別に、視聴者がホットになっている番組がわかるということだ。

日本ではチャンネルの数が少ないからそんなに選び方がいろいろなくてもいいよ。そんな声も聞こえてきそうだ。だが、スカパーやケーブルテレビなどで多チャンネル環境にある人は多い。またBS放送もこの数年で次々増えた。そして見慣れた地上波のタイムテーブルは大まかに頭に入っていても、それ以外のチャンネルでいつどんな番組を放送しているか、記憶している人はほとんどいない。だからZeeboxはせっかくの多チャンネル環境を充実させてくれるかもしれない。

ぼくたちにとっての番組への接触は、長い間”リモコン”に規定されてきた。リモコンの便利さは逆にチャンネル選びでの制約にもなっていた。すぐに押せるボタンで4だの6だの8だのを選ぶ。それ以上になると途端におっくうになる。そんなぼくたちのテレビの観方を、その制約から解放するのがZeeboxかもしれないのだ。

コンテンツとぼくたちの関係は、どんどん複雑になっている。少し前までは蛇口が数個しかなかったので、選ぶのもたやすかった。でも蛇口がどんどん増えると、どの蛇口をひねればどんな飲み物が出てくるのかわからなくなる。無限に増える蛇口の前でぼくたちは途方に暮れたりしてしまう。

そんな中で”選びやすい”仕組みを提供することは、テレビに限らずいろんな局面で必要になると思う。

Zeeboxに戻ると、もうひとつ、番組ガイドとしてユニークな機能がある。いま見ている番組が何かを教えてくれるのだ。ACRという技術がある。今年の4月の記事でもふれた、コンテンツ認識のためのテクノロジーだ。この記事で紹介したGracenoteの技術を、Zeeboxでも使っている。番組の音を通じて、どの番組かを認識するのだ。

いま見ている番組を示すだけだと、とくに日本人にとっては要らないよとなってしまう。だがこの機能は録画した番組を再生する時にも使える。そして、ここがポイントなのだが、放送時の番組に関するTwitterのタイムラインとリンクできる。

つまり、録画で観ても、あたかもリアルタイムで観ながらTwitterを見ているような視聴を再現できるのだ。これは、ソーシャルな視聴スタイルにとってうれしい機能だ。番組を観ながら「おおー!」と思った時に、Twitter上で「来たーーー!」のようなTweetが並ぶのを、録画でも体験できる。素晴らしい機能だと思う。

ここまでですでに、Zeeboxがテレビ視聴を未来にしてくれることが感じてもらえただろう。でも、まだまだあるので、第3弾を待っててほしい。今週のうちに続きを書こうと思う。

コミュニケーションディレクター/コピーライター/メディア戦略家
境 治
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『水曜どうでしょう』にはテレビの未来へのヒントがつまっている

11月1日に開催した「ソーシャルTVカンファレンス」では最後のコマで豪華ゲストによるバトルトークをぼくの司会で行った。モデレーター特典としてゲストはぼくが呼びたい人が大集合。角川アスキー総研の遠藤諭さん、東芝で”録画神”と呼ばれる片岡秀夫さん、博報堂のソーシャルメディアの女王・森永真弓さん、そして北海道テレビ『水曜どうでしょう』のディレクター藤村忠寿さん、通称藤村D。

藤村Dをわざわざ北海道からお招きしたのは『水曜どうでしょう』には実はテレビの将来が見え隠れしている、とぼくが感じているからだ。藤村Dはソーシャルメディアは使わない。けれど、『水曜どうでしょう』はソーシャルテレビのひとつの形だと考えている。

『水曜どうでしょう』の新作は北海道テレビではすでに10月からスタートしている。東京では約一カ月遅れて今月11月10日からMXテレビで放送される。これを読んでいる東京在住の皆さん、今度の日曜日はとにかくこの番組を観てほしい。今を時めく大泉洋と、何者かよくわからない鈴井貴之という人物が出てきて、とりたてて特別なこともしないのになーと思っているうちにその独特の世界に引きずり込まれるだろう。

カンファレンスで藤村Dは言ってのけた。「ぼくは視聴率は気にしてません」視聴率についてこんなことを平気で言うテレビマンは他にはいないのではないか。

「いい番組作りが大事だから視聴率は気にしないようにしてます」そんなことを言う人はいるだろう。でも藤村Dはそういう美しい姿勢とはまったくちがう。「視聴率の高さで入る広告収入より、番組販売やネット配信、DVD販売の方がずっと高いですから」

つまり藤村Dにとって視聴率は最優先するべきではない数値なのだ。視聴率を気にして番組がその時だけの価値になって逆にDVDで観る価値がない、てなことになってしまうと損をする。視聴率は気にせず、本気でいい番組作りに取り組んだ方がDVDが売れる。そんな確信を持てるだけの実績があるのだ。

藤村Dはまた、視聴者についてこう言う。「ぼくにとって視聴者は友達なんですよ」この言い方は新鮮だ。だが考えてみたら当たり前だ。視聴者は制作者と同じ人間だ。なのに、ともすると制作者は、視聴者との間に線を引き、違いを意識し、壁を作ってしまう。”大衆”という言い方がそうだが、視聴者は大勢の塊のように捉えられがちで、ひとりひとりの顔を見えなくさせていた。視聴者を友達と捉えるのは大いなる発想の転換かもしれない。

『水曜どうでしょう』の面白さ、その独特の持ち味、そしてソーシャルな感じはこの”友達”に起因している。森永さんはこの番組を「とくに何も起こらない、友達のプライベートなビデオを見せられている感覚だ」と評した。「それ、褒めてないんじゃないですか?」と不平のように言いつつ藤村Dはまんざらでもなさそう。なぜならば、まさしくそういう作り方なのだ。

友達と作ったビデオを友達に見せるように放送する。だから友達のつもりで観れば、こんなに面白い映像もない。この番組には藤村Dがカメラの横で笑う声がそのまま放送され、時には画面に登場する。テレビの常識では、制作者は黒子で画面には出てこないものだが、これも友達だから出ちゃうわけだ。

意外にも『水曜どうでしょう』の公式サイトは90年代に起ち上げたものなのだそうだ。そこではファンの書き込みが盛んになされた。友達だからだ。そして藤村Dは書き込みに対して友達のように応じた。腹が立つ書き込みには平気で、その言い方はなんだと友達に言い返すように書いた。そのやり取りで、藤村Dは番組のファンの気持ちを把握していったのだそうだ。自然と番組作りにも反映されたと言う。今で言う”ソーシャルリスニング”を10年以上前にソーシャルメディアなしでやっていたのだ。

公式サイトは起ち上げた当時のフォーマットのままで、今見ると古いスタイルに見える。もちろんソーシャルを取り入れた新しい仕組みなどない。”ソーシャル”とは実は、ツールやテクノロジーより、姿勢、考え方なのだ。旧式でも、交流したい意志があればソーシャルになりえる。

藤村Dはこうして十数年かけてファンを”育てて”きた。気の長い話ではあるが、こうしてファンという友達と深い関係が築けているので、番組を取り巻くビジネスは”読める”ものになっている。視聴率という水物ではなく、販売という地に足のついたビジネス展開ができている。いわゆる”エンゲージメント”が確立できている。そうなるともはや”放送”を超えた存在になる。だから「どうでしょう祭り」を開催すると何万人も集まるのだ。

公式サイトには「一生どうでしょうします」との宣言が書かれている。ファンが待ってくれている限り、続けていける。制作者としてこれほど素敵なこともないだろう。さらに藤村Dは「どうでしょう」を中心にしながらもドラマ制作も手がけている。もちろん”どうでしょうファン”が観てくれる。番組販売され全国のテレビ局で放送されているのでファンは全国にいる。藤村Dが東京でトークイベントをやると大勢集まる。

『水曜どうでしょう』が提示するテレビの未来像とは整理すると、視聴者と友達としてつきあう → ファンが増え強いきずなができる → 視聴率とは別の経済価値ができる → ファンたちとつきあいながら番組を続けていく。テレビの未来というと何かテクノロジーを駆使し新しいことをしつづけなければならないと考えがちだが、『水曜どうでしょう』が提示するのは、人間として基本的なことだ。誠意を持って作りつづけ、交流しつづける。テレビに限らず、創造的な活動を続けることは結局、そういうことなのかもしれない。

今度の日曜日からMXテレビでスタートする『水曜どうでしょう』の新作を、ここで書いたことを頭に入れて見ると何かが発見できるかもしれない。いや、そんな七面倒は置いといて、純粋に楽しめばいいのかな。

コミュニケーションディレクター/コピーライター/メディア戦略家
境 治
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映画「スティーブ・ジョブズ」公開の日にやって来た男、アンソニー・ローズ~All About Zeebox(1)~

このブログで何度かに渡って告知してきた「ソーシャルTVカンファレンス2013」が11月1日(金)に無事終了した。プログラムはイベントページを見てもらえればわかるが、目玉はロンドンからZeeboxのCTOであるアンソニー・ローズ氏を招いてキーノートスピーチをやってもらったことだ。

この日は偶然にも映画「スティーブ・ジョブズ」の日本での公開日だった。コンピュータを通して世界を変えた男に、ソーシャルテレビの分野でメディア界に変革をもたらそうとしているアンソニーを重ね合わせてしまうのは無理があるだろうか。いや、分野の違いはあってもぼくには相似形に思えるのだ。アンソニーが開発したZeeboxには、そんな連想をしたくなる大いなる可能性が感じられた。

Zeeboxは英国でスタートし、米国と豪州でも展開しているソーシャルテレビ用のサービスだ。つまり、テレビを見ながら使うためにPCやスマートフォン、タブレットに提供されるもの。テレビを見ながら別のデバイスを使うことを”セカンドスクリーン”と呼び、そのためのサービスが各国で数多く登場している。Zeeboxはその中で最も成功しているもののひとつだ。2011年末にはじまったのに、すでに英米ではデファクトスタンダードになりつつあるのだから、そのスピードの早さは目覚ましい。

このブログ上でその詳細を数回に分けて紹介しようと思う。何しろ、ソーシャルテレビはこのブログ「クリエイティブビジネス論」がもっとも注目する現象だし、だからこそぼくが運営する勉強会「ソーシャルテレビ推進会議」でアンソニーを招聘したのだ。今回、直接彼のプレゼンを何度か聞いて日本で一番Zeeboxに詳しい人間になってしまったので、こってり語っていきたいと思う。

アンソニーがプレゼンで使ったシートの中で公開できる一枚をお見せしよう。このチャートを見てほしい。テレビ視聴者を数種類に分けたものだ。
図をクリックすると大きく見られる

縦軸が、テレビをよく見るかどうか。横軸がZeeboxへの興味度が高いかどうか。その上で、赤い枠でくくられたタイプがZeeboxの対象者だ。

このチャートが新鮮なのは、これまでテレビとソーシャルメディアの関係を論じる上で、こんな風に視聴者を分類したことはあまりなかったことだ。だが、テレビを見ながらつぶやく人々は視聴者のあくまで一部のはずで、このチャートではそこをはっきり示している。

テレビが大好きな人たちは”TV Mavens”と括られている。Mavenとは”達人”のような意味。彼らは例えばドラマの次のエピソードは見逃さないし、常に面白い番組を探している。でも番組を見ながらソーシャルメディアはあまり使わない。視聴に集中するからだ。比較的年齢層も高いそうだ。

そして”Pop Idols”。アイドルが好きな人たち。彼らは「アメリカンアイドル」「ザ・ボイス」のようなリアリティ番組を好んで視聴する。番組を見ながら積極的にソーシャルメディアを使う。そして見知らぬ人でも同じスターや番組を好きな人とメッセージを交わしあう。日本で言えばAKBやジャニーズタレントのファンたちがこれに当たるのだろう。

それから”Social Watchers”。彼らは番組を見ながらソーシャルメディアを積極的に使うのだが、見知らぬ人とはコミュニケーションしない。実際の知人友人と言葉を交わすのだそうだ。なるほどと思ったのだが、ぼくは少し前まではtwitterで見知らぬ人と番組を見ながら交流していたが、最近はFacebookで友人たちと言葉を交わすようになった。めんどくさくなってしまったのだ。つまりぼくはSocial Watcherなのだろう。

こうした人びととは別に、例えばニュースを中心にテレビを見る人、スポーツばかり見ている人もいる。また”Connected Multitaskers”と分類される人もいる。これはテレビはつけているけど他のいろんなこと、メールを書いたりWEBを見たり、テレビ視聴と無関係なことをマルチにこなす人びとだ。こうした人びとには、Zeeboxのようなセカンドスクリーンサービスはいらないのだと言う。

さてZeeboxはどんな機能を持つのだろう。まず”Discovery”、つまり番組を発見するためのTVガイドの役割。それから”Social”つまりソーシャル機能。そして”Information”これは情報、要するに番組を見ながら知りたいことがわかる機能。さらに”Participation”つまり番組への参加を促す機能だ。最後に”Shopping”これは番組と連動した通販機能だ。

こうして機能について詳細を書いていくと、サービスとしての便利さはわかっても、なんで最初にスティーブ・ジョブズの話をしたかはわかってもらいにくいだろう。だがソーシャルテレビの概念にはそもそも、テレビ視聴をもっと自由にのびのび”解放”するような理念めいたものが含まれている。少なくともぼくはそういう理念を込めてソーシャルテレビに関わっている。

アンソニーと話していると、やはりそこに理念を感じるのだ。電波を軸にした技術的要素にテレビはどうしても縛られてしまう。そしてたくさんの人に視聴されるけれども一方通行のコミュニケーションの枠組みからは出られない。それがソーシャルメディアと連携することで、電波による一方通行の窮屈さから脱却することができる。そこにはマスメディアの未来の姿が見えてくる。アンソニーの言葉のひとつひとつの奥底には、そんな思いが流れている。ぼくは直接彼の話を聞いて、強くそれを感じたのだ。

というわけで、あと数回、Zeeboxについて書いていく。ソーシャルテレビに興味のある人、そしてこれからのメディアについて関心を持つ人、コンテンツ制作とメディアが今後どうなるのか考えている人には、ぜひ読んでもらえればと思う。

またカンファレンス各パートの詳細なレポートをブログ「Film Goes With Net」でソーシャルテレビ推進会議の一員でもある杉本穂高氏が書いているのでそちらも参考にしてもらうといいだろう。

Film Goes With Net:ソーシャルTVカンファレンスレポート
事前レクチャー編
①:Zeebox創業者Anthony Rose氏のセッション
②:日本のユーザー参加型テレビ番組事例
③:テレビ広告の真(新)の実力を考える
④:どうなる?どうする?ソーシャルテレビ

コミュニケーションディレクター/コピーライター/メディア戦略家
境 治
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守るつもりが、損してる。ほったらかしたら、トクをする。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

少し前に半沢直樹の視聴率の高さについて記事にした時、ネット上の動画が視聴率に寄与したようだと書いた。それは公式オンデマンド配信のことを建前上は言っているのだが、実際には違法にアップロードされたものも多く観られたと思う。スマホの普及がそれを加速させた。

ぼくの知人、50代半ばの人なのだが、半沢直樹が面白いと聞いてスマホで検索したら出てきたので、放送済みの番組を観たのだそうだ。3話分を、スマホで観たという。それを見て面白かったから4話目からリアルタイムで観るようになった。

スマホは革命的だなと思う。PCだとその人は観なかっただろう。身近な存在であるスマホだから気軽に検索し、出てきた動画を3時間も観続けたのだ。画質だってクオリティが高い。とくにしんどい思いもせずに観ることができる。

テレビ局としては、違法動画など観ないでください、というべきところだろうが、それを見ることでその後の視聴率が上がるのなら、まあいいか、というところだろう。

著作権法は著作者を守るための法律だが、著作権が守られない方が著作者はトクをすることもある。そんな状況ができつつあるのだ。だからむしろ、テレビ局は放送後にネットで番組を無料で配信した方がいいんじゃないか。これについては、あやとりブログでも少し前に書いた。無料でもCMつきで配信し、ゆくゆくはスポンサーに追加の提供料を視聴数に応じてもらえばいい。もちろんそんなにカンタンではないのはわかっているけど。

ネットでの再配信はテレビ局自身が嫌がっているより、出演者、タレント事務所サイドが嫌がっていることが多い。いまやそっちの方が強いブレーキかもしれない。大事なタレントの映像をやたらネットに置いたらファンに勝手にコピーされる。タレントたちの肖像が資産なのだからタダでは配れないよ。そんな考え方だ。でもそれも、頑なに守っても意味がない。トクにならない。そんな時代になっていることに気づいた方がいい。

著作権法には要するに“複製を勝手にするな”という思想が底にある。レコードをプレスするとか、本を印刷するとか、そういったことがカンタンにはできず、だからこそその価値を重たくする必要があった。でもいまや、複製はドラッグ&ドロップで簡単にできてしまう。複製の価値が下がってしまった。

複製いいじゃん。複製ありだよ。どんどんやっちゃって。そう考えた方がトクなのだ。オープンにしていけばプロモーションになる。多くの人の目にふれることができる。そうして知名度を上げて、何か別の要素でマネタイズする方がいい。そんなことになっちゃったのだ。もっとも「何か別の要素でマネタイズ」がはっきり見えてないのがやっかいだが。

少し前の話で、書籍の自炊代行は違法だと判断された裁判があった。これもどうなのかなと思う。本を買った人が自分で自炊するのはいいけど、それを代行するサービスはダメだというのだ。もちろん、そうやって残ったデータが何に悪用されるかわからないでしょ、という心配は理解できる。でもそれは自炊代行サービスと直接関係はなく、自分がやるとOKで代行サービスはダメというのはどうにも矛盾がある。著作権についての考え方にほころびが出てきている。

複製ってなんでそんなにダメなんだっけ?というところからもう一度問い直した方がいい。法律におかしなところが出てきているのは、法律を取り巻く考え方がズレてきているからで、著作権は守られなければならないので守られねばならない!とだけ言い続けるのは自分が損することだと気づいた方がいい。これは著作権を否定しているのではなく、上手に守って上手にゆるめた方がいいんじゃないの?という話だ。

著作者の願いは、生み出したものをできるだけ多くの人に楽しんでもらうことだと思う。そのためにどうしたらいいかと考えたら、頑なに守ることだけが答えではないと気づくはずだ。実は、権利を守ることの前に大事なこと、人びととどう心を通わせるか、にほんとうの答えがあるのではないだろうか。

※この記事ではコピーと写真をデザインしたビジュアルを使っている。このビジュアルは文章の挿し絵ではなく、ひとつの独立した表現のつもりだ。ぼくが書いたコピーに、アートディレクター上田豪氏が絵をつけ、コピーとともに配置している。ちなみに写真も彼が撮ったもの。こうしたビジュアルを先に作ってそれに沿って文章を書く記事をこのところ毎週続けている。ネット上での新たな表現形式にならないか、そしてそれが新しい広告のフォーマットにできないか、という試みだ。とりあえず当面続けてみようと思う。
●これまでの記事
「させていただきます、を必要以上に使いすぎてると、言わせていただきます。」

「反対は、上手になった。正解は、わからなくなった」

「誰かをヘイトしていると、あなたがヘイトされる。」

コミュニケーションディレクター/コピーライター/メディア戦略家
境 治
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「笑っていいとも」の終わりは、新しいテレビのはじまりになるのだろうか

NHKの「NEWS WEB24」はソーシャルメディアを活用したニュース番組で、後半に”つぶやきビッグデータ“というコーナーがある。その日、Twitterでとくにつぶやかれた言葉をピックアップする。昨日(10月22日)夜の放送では「いいとも」「終了」などが多くつぶやかれたそうだ。もちろんその日の昼間に駆け巡った「笑っていいとも、3月で終了」のニュースが爆発的に拡散されたからだ。ぼく自身もびっくりしたが、ソーシャルメディア上でこれほど驚きが飛び回ったことにさらに驚いた。

1982年のスタート時、大学生だったぼくにとって、「笑っていいとも」はともに歩んできた番組だ。そしてまた80年代に起こったテレビの流れの変化を象徴する番組だと言えるだろう。

平日お昼のフジテレビは、80年に「笑ってる場合ですよ」というB&B司会の番組によって「お昼なのにお笑い番組」の路線がすでにはじまっていた。いま思えば「笑ってる場合ですよ」というのもすごいタイトルだった。B&Bも若い人は「島田洋七=がばいばあちゃん」としか思わないだろうけど、あの頃はビートたけしや明石家さんまと並ぶ存在だった。

フジテレビは80年代に入って漫才ブームを巻き起こすなど「楽しくなければテレビじゃない」のスローガンで走りはじめた。「笑ってる場合ですよ」はその姿勢をリードする番組だったがなぜか2年で終了し、その後継番組としてはじまったのが「笑っていいとも」だった。

当時のタモリは、いまのような「お茶の間の人気者」ではまったくなかった。お笑い番組には出ていたが、他のコメディアンとはまったくちがう、知的でブラックな雰囲気をぷんぷんさせていた。四カ国語マージャンやイグアナなどのネタも面白かったが、架空の言語ハナモゲラ語を駆使して山下洋輔とジャズ共演をしたり、とにかくカッコよかった。健全の正反対に位置して、なんというか、カウンターカルチャーのヒーローだったのだ。

そのタモリがなんと、昼の番組で司会をはじめた。「テレビ的なお笑い」とは一線を画していたのに。青臭い学生たちの間ではそれが議論になった。「タモリはメジャーに日和ったのだ。タモリはもうおしまいだ」「いや、あれはとりこまれたふりをしているのだ。あとでひっくり返すつもりにちがいない」いま思うと笑ってしまうが、本気でそんな議論をしたものだ。いまネット上でテレビのことをマスゴミ呼ばわりするのと同じように、当時のぼくたちもテレビはエスタブリッシュメントの側にある反発すべき存在で、タモリがそっちの側に行くのはそのままでは受け入れられなかったのだ。いやホントにいま思うと笑っちゃう。

スタートした「笑っていいとも」は「○○○○な人募集」などと、一般人を舞台に上げる参加型の番組だった。それはいまもそうなのだけど、はじまった頃の「いいとも」は、登場する素人がなんというか、むちゃくちゃだった。どこかいびつな人びとが次から次に登場し、テレビ画面を危ないムードに覆っていった。いまだったら放送できなかったのではないか。やばーい!そんな番組だった。そのラジカルさに興奮したり、辟易したりしながら見ていた。

「笑っていいとも」が典型だが、80年代のフジテレビは、いまと比べようもないほど猥雑だった。やばかった。うわー、こんなことテレビでやっちゃっていいの?その連続だった。

バラエティもだけど、ドラマだって80年代前半まではひどかった。安っぽく、うさんくさく、ダメダメだった。

当時のフジテレビはとにかく何かにつけムチャクチャで、すぐに何かを踏み外したり平気で常軌を逸したりしていた。

局をあげて「テレビを逸脱してやる!」とでも言うべき意気込みで満ちあふれていた。ぼくは大げさでなく、80年代のフジテレビの変化がなかったら、日本のテレビ文化はいまほどの深みや奥行きは勝ち得てないと思う。

70年代にTBSがある高みまで持っていったテレビという文化を、一度地に下ろし徹底的に破壊し、台無しにした。それが80年代のフジテレビだったと思う。TBSはすべてのメインストリームにある文化をとりこんで料理しテレビ化していった。フジテレビはそれに加えて、アンダーグラウンドなものまで含めて何もかもどん欲に取り込んでいったのだと言えるだろう。タモリの司会起用はその象徴なのだ。

そのどん欲さはやがて洗練に昇華されていく。90年代に入ると、ただ壊していただけだったのが、ひとまわり高いレベルで完成度を高めていく。ぼくはいまでも、90年代前半のフジテレビの一連の深夜番組への興奮が忘れられない。毎晩、夜が更けるのが楽しみだった。「カノッサの屈辱」が有名だがそれだけではない。「アインシュタイン」「カルトQ」「19XX」「TVブックメーカー」「NIGHT HEAD」「征服王」….挙げはじめるとキリがないほどだ。ひとつひとつが、「テレビってこんなこともできるんじゃないか」という探求心の結晶だった。へー!こういうのもありなんだ、とびっくりしながら見ていた。

深夜だけでなく、ゴールデンタイムでもフジテレビはテレビの面白さを開拓していった。ドラマももはや安っぽくなんかなく、どんどんクオリティが上がっていた。そんなフジテレビに負けまいと、他の局も面白い番組を開拓していく。テレビがもっとも充実して花を開かせ続けたのが90年代で、それを引っ張ったのがフジテレビだったと思う。大げさに言うと、90年代にテレビは完成されたのだと思っている。

だからいまのテレビがつまらなくなったとか、レベルが下がったとか、言うつもりはない。むしろいまもレベルは高まっていると思う。90年代のドラマよりいまのドラマの方がいろんな意味でクオリティが高いと感じている。ただ、90年代にできあがったことの延長線にあると思う。そういう意味では、テレビはやはり90年代に進化しつくしたと思う。やれることは全部あの頃にやっちゃったんじゃないか。

そんな風にテレビを見てきたもので、ぼくにとって「笑っていいとも」終了は勝手にいろんな意味を込めてしまう。終わるんだなあと。テレビというシステムが、そしてそのシステムに添って発展してきた創造活動の流れが、一度これでおしまいになる。そんな風に受けとめてしまっている。

だからテレビがおしまいだ、オワコンだと言っているのではない。これまでのテレビが終わり、新しいテレビがはじまるんじゃないかと言いたいのだ。ではその新しいテレビとはどんなテレビなのか。それはまだいろんな人の頭の中にそれぞれ、もやもやと存在しているのだろう。

ただ、それはいままで通り番組を作ることに血道を上げる世界ではないのだと思う。作り手たちが個人の創造性を追求することではない気がする。

意外にそのヒントはまた「笑っていいとも」にあるのかもしれない。”いびつな人びと”が画面を跋扈し、観ている側さえヒヤヒヤしたあのドタバタに、これからのテレビが潜んでいたりして。

そんなことを夢想しつつ、人生の蜜月をともに歩み、ぼくのテレビ観に大きな変化を及ぼしたひとつの番組の終了を、感慨深く受けとめたい。「笑っていいとも」お疲れさん。タモリさん、ありがとうございました!

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