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コピーライター→映像製作会社ロボット→広告代理店ビデオプロモーション→再びコピーライター(フリーランス)。 メディアとコンテンツの未来を切り拓くコミュニケーションをデザインします。講演・執筆依頼もお気軽に!

【赤ちゃんにやさしい国へ】子供たちがのびのび過ごす時間が、ユートピアなのかもしれない〜ごたごた荘とまごめ共同保育所(映像付き)

ユートピア、と言われてあなたはどんな場所をイメージするだろう。青空の下に広がるお花畑。美男美女二人だけの楽園。「チャーリーとチョコレート工場」に出てきたようなお菓子でできた空間とか?そんなありえない、想像の中だけの場所がユートピアなのだろうか。

いや、でも意外にもっと身近な場所にユートピアはあるのかもしれない。幸せの青い鳥がもともと家で飼っていた鳥だったように、なんてことない、そばにいつでもつくれる空間がユートピアなのだ。それでいて、かんたんにはつくれない。ぼくたちは幸せとは何かを、きっと勘違いしている。

「赤ちゃんにきびしい国で赤ちゃんが増えるはずがない」の記事を書いてから、自主保育活動を取材し、さらに共同保育についても取材した。

【赤ちゃんにやさしい国へ】みんな自分の子供みたいに思える場所〜自主保育・野毛風の子〜
【赤ちゃんにやさしい国へ】これは大きな家族であり、ひとつのムラかもしれない〜自主保育・野毛風の子(その2)〜
【赤ちゃんにやさしい国へ】保育の理想は”サービス”とは離れたところにあるはずだ〜たつのこ共同保育所〜

“たつのこ共同保育”を取材した際、話してくれた有園さんが、”ごたごた荘”と”まごめ共同保育所”について教えてくれた。”たつのこ”が行き詰まった時、相談に行ったのだという。有園さんからすると、両方とも共同保育所として理想的な存在で大いに参考になったそうだ。

興味を持ったので連絡してみて、取材をお願いした。今回の取材は、三輪舎の中岡祐介に加えて、映像ディレクター山本遊子も同行しカメラを回してもらった。彼女とは十年来のつきあいで、テレビ番組やWEBムービーなどの仕事をしながら、母親として子育て真っ最中。独特の視点と空気を持つ映像を作る彼女が、母親として共同保育所をどう切り取るか。今回のブログはその映像もあるのでぜひ見て欲しい。
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練馬区大泉の駅からずいぶん遠いところに、”ごたごた荘”はあった。”たつのこ”を訪れた時も驚いたが、”ごたごた荘”も一見すると、とても保育所には見えない。普通の家に見える、いや普通の家のようで小さなアパートか何かに見える。

IMG_3534こんな家で保育がホントに行われているのか。表札には確かに「ごたごた荘」とある。確かに、と書いたがこんな奇妙な名前の保育所がある、というのが不思議だ。日常的な空間に突如ファンタジーの世界が湧いて出たような感覚。

中に入ると子供たちの元気な元気な声が聞こえてきた。どたどたばたばた。なるほど、これは”ごたごた荘”だ。この名前はどこかで聞いた気がする、という人もいるだろう。スウェーデンの作家リンドグレーンの「長靴下のピッピ」のピッピの住む家がごたごた荘なのだ。

設立は1982年。もう三十年を超えて活動している。いまは東京都の認証保育所であり、運営主体はNPO法人”ごたごた荘”だ。ちゃんとしてるようだが、何しろ自主的な保育活動なのでこれまでも困難は多々あった。2010年にいまの場所に移って体制が整い、ようやく落ち着いたのだ。

共同保育とは、親の側と保育士の側とが言葉通り”共同で”運営する。設立の経緯がまさにそうだった。既存の保育所に疑問を持つ親と保育士が出会って、自分たちの理想の保育を具現化しようと”ごたごた荘”が誕生した。

では”ごたごた荘”の理想とは何だろう?もらった資料から一部を書き出してみよう。

共同保育って?
保護者もわが子を預けっぱなしにするのではなく、保育者と一緒に保育や運営のための会議に参加したり、行事や日常の係を分担し、そこで生まれる絆の中で子どもたちの育ちの場を支えています。わが子以外の子どものオムツを替えたり、わるさを叱ったり、互いに本音を出し合いながら、”一緒に育てた”子どもたちが大きくなっても、ずっと家族ぐるみで付き合っていける、そんな関係を築いています。

”共同保育”と聞くと親の側も毎日保育をするように思えるが、ポイントはそこではない。保育をやりたい親はそうしようと思えばできるが、”共同”の本質は、この保育所の運営にある。具体的には、月一回の会議に親も参加する。そこでは保育所の方針や運営について情報共有と議論がなされる。

会社で言うと、”経営会議”に参加することに近しい。子どもたちのためにどうしていけばいいか、親と保育者がともに考えるのだ。親と保育者の間の”ポジションの違い”をできるだけなくし、同じ立場で子どもたちのことを思い、具体化する。それが共同保育だ。

どたどたばたばたと元気いっぱいな子どもたち。保育所に彼らが遊ぶ”園庭”はないので、近くの公園にみんなで行くのが日課だ。彼らののびのびした空気を、映像から感じてもらえたらと思う。山本遊子が撮影・編集した映像からどこまで伝わるか。短いけれど”空気”は共有できるだろう。

“ごたごた”荘とともに、有園さんから教わったのが”まごめ共同保育”。大田区の馬込にあり、こちらも取材に行ってみた。

都営浅草線の終点、西馬込駅からすぐ近く。たくさんの車が行き交う国道一号線から少し入った閑静な一画に見えてきたのは、三階建ての立派で素敵な建物だ。共同保育といえば、”たつのこ”や”ごたごた”のようなこぢんまりした建物だと思い込んでいたのでこれは驚いた。
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いったいどうしてこんなに立派な建物なのか?不思議に思いながら、入ってみた。

中はどーんと大きな部屋があり、付随的に小部屋がある構造。1階は幼児たち、2階は赤ちゃんたちという分け方。入口の棚の上にごろりと置かれた大きなキュウリが、この保育所を象徴している。無雑作で、だからこそのびのび育つ。

1970年代前半、馬込に保育所を作ろうと動いた人びとがいた。資金作りのために二年間廃品回収をしたという。なんとかお金ができたものの、ようやく見つけた場所が大田区中央一丁目。馬込というより大森と呼ぶべき場所だったが、名前は”まごめ保育所”となった。

それから日々悪戦苦闘、二回の引越しの末にいまの場所に落ち着き、東京都の認証保育所にもなることができた。という七転八倒ぶりはごたごた荘と変わらない。

ただこの大きな空間が借りられたのは幸せなことだろう。たまたま縁があって、企業経営をしていたご夫婦が一線を退いた際、会社で使っていたこの家を手ごろな家賃で貸すと申し出てくれたそうだ。そのご夫婦は三階に住んでいて、賑やかな方が楽しいと思ってくれたのだろう。素敵な申し出だ。

まごめ保育所にはこれまでの歴史がわかり、親たちの幸せに満ちた気持ちも書かれた印刷物がいくつかある。とくに2009年に編まれた写真集のような分厚い冊子は、70年代から最近のものまで子どもたちの写真がいっぱい使われていて、読んでいくとなぜか涙が出てくる。40年分の家族のぬくもりが詰まった冊子だ。

IMG_3558大森はジャングルだ、というのがひとつの合言葉のようで、唄もできているらしい。まごめ保育所にはそんな、親たちの創作物があちこちに絡まっていて、さっきの冊子も広告関係の親が中心になって作ったそうだ。

共同保育は父親たちも積極的に関わっている。まごめでも、保育に関わる父親は代々多く、やはり月一回の運営会議でも父親が参加することもよくあるという。また父親同士で飲みに行くことも多いそうだ。

自主保育や共同保育を取材するといつも、親と保育者が大きな家族になっているのだなと感じる。ぼくたちは”近代化”を通して農村のしがらみやどろどろした地縁血縁から逃れて都市に来たはずだった。だが共同保育では新たな地縁血縁が再構成される。少なくともそういう”縁”を必要とする人たちがいるのだ。あるいは核家族化で失われたコミュニティを、疑似的にでも再生しないと、幸福な子育てはできない、ということではないか。

まごめを訪れた時はちょうど子どもたちが昼寝に入る時間だった。お話を聞いているうちに子どもたちの寝息や可愛いいびきが聞こえてきた。訪れた日は雨も降らずまだ暑くもない天気でそよそよと風が流れ込んでカーテンを揺らしていた。

気持ちいい。

ぼくはこの場所にずーっと居たいと思った。家族とともにここに部屋を借りて暮らせたら、さぞかし幸福に日々を送れるのではないか。ユートピア、という言葉が浮かんだ。ぼくの自宅も大田区で馬込は近いのだが、こんなに近所にユートピアはあるのだなあと感じた。

まごめ共同保育所の映像を見てもらいたい。山本遊子が2分18秒の短い時間に封じ込めたユートピアの空気を、皆さんも吸ってもらえたらと思う。

さて、まごめ共同保育所でお話を聞いている中に、何度も何度も”からあげ”という言葉が出てきた。からあげ?どうやら、”唐揚げ”ではなく、そういう愛称の人物について話しているようだ。断片的に聞いた話をまとめていくと、もともと美容師だった男性が数年前からまごめを手伝って保育に携わり重鎮的になった。このたび定年を迎えて退職した。先ほどの分厚い冊子にも締めとして文章を寄せている。写真も載っているが、職人的な雰囲気を漂わせた年配のおっさんだ。

猛烈に興味が湧いた。なんでこんなおっさんが、保育を手伝ったんだ?

まごめにはもう一度取材に行きたいと考えている。実現したら、またここで報告しよう。
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取材サポート・中岡祐介(三輪舎)
映像制作・山本遊子(Uguisu Production)
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【赤ちゃんにやさしい国へ】クレイジーなひとりの女性が、日本の育児を変えていく。〜子育てシェア・アズママ取材〜

その小柄な女性に話を聞いたのは、横浜の小さな会議室での1時間半ほどに過ぎない。その短い時間、彼女から発せられるエネルギーをめいっぱい浴びていた感じだった。話を聞きながらぼくは、十数年前のAppleのキャンペーンを思い出していた。Think Differentをスローガンにしたそのキャンペーンには、アインシュタイン、ジョン・レノン、エジソン、ピカソといった、いろんな分野の、世界を変えた人びとが登場する。CMのナレーションはこう結ばれる。

「彼らはクレイジーと言われるが、私たちは天才だと思う。自分が世界を変えられると本気で信じる人たちこそが、本当に世界を変えているのだから Think Different」

ああそうか。その時ぼくは気づいた。ぼくは彼女の中にクレイジーを見たのだ。だって彼女は世界を変えられると信じている。だから彼女は世界を変えるのだ。

ほとばしるエネルギーに圧倒されながら、ぼくはそんなことを考えていた。

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前にAERAの特集「子育て小国を生きる」(14.4.21号)でコメント取材を受けた時、同じ記事の中でAsMama(アズママ)が紹介されていた。「子育てシェア」サービスなのだと言う。これをはじめた甲田恵子さんに会ってみたいと思った。AERAの小林明子記者を通じて紹介してもらい、横浜まで会いに行った。

三輪舎の編集者・中岡祐介とともに訪ねた関内の中小企業会館。1階が、こじゃれたコワーキングスペースになっている。その会議室にやって来たのはイメージしていたより小柄で、イメージしていたより元気いっぱいの女性だった。

「子育てシェア」サービスと言われて勝手に想像していたのはNPOとして細々とけなげに活動している姿だったのだが、アズママは立派な株式会社で、けなげと言うより満ちあふれるパワーを人びとに分け与えているような明るさを放っていた。

アズママはあちこちから取材を受け記事になっている。中でも、ぼくたちが訪問する数日前の日経コンピュータの記事「AsMama、異色のビジネス「子育てシェア」確立までの紆余曲折」は、分厚い内容で完成度が高い。ITproでWEBでも読めるようになっているのでぜひ読んで欲しい。ぼくは前もってこれを読んでしまって、アズママがよく理解できてしまい、これ以上何を聞けばいいのかわからなくなってしまった。だからできるだけその記事にないことを書こうと思う。

甲田氏は20代から30代の前半を会社員として過ごした。当時はキャリアウーマンとして会社社会にどっぷり浸り、いまの自分とやってることがまったく違うと言う。そのパワフルさから想像するに、さぞかしバリバリ働く優秀なビジネスウーマンだったことだろう。

ところがリーマンショックでリストラにあう。その時にIT技術などを学ぶべく職業訓練校に通った。ともに学ぶ女性たちが、子どもを預けられずにキャリアを捨ててしまうのを見て、子育てを事業のテーマにしようと思いついたそうだ。彼女自身も一児の母だが、自分の悩みではなく周りの女性たちの悩みを解決するのが動機だった。そういうところが彼女の強さかもしれない。

そこからアズママのビジネスがはじまるのだが、いまの形にたどり着くまでに山あり谷あり、紆余曲折があった。その分、完成度が高いと言うか、ほんとうによくできている。それはコミュニティづくりであり、子育て以外の領域にも応用が利く、一種の発明と言えるのではないかと思う。

子どもを預けるのはかなり勇気がいるし神経を遣う行為だ。信頼できる相手じゃないとなかなか預けられないだろう。ベビーシッターをネットで見つけるサービスだと、少し前にあった悲しい事件のようなことが起こるリスクがある。そうじゃなくても、自分の子どもが迷惑をかけないかとか、逆に変な扱いを受けないかとか、心配はつきない。

アズママはそれを見事に解決している。

リアルとネットの2つの場でコミュニティを形成し、知りあって関係を結んだ相手に子どもを預けることができるのだ。

アズママの活動の基本は、イベントだ。子どもを預けたい、あるいは預かってもいい人たちを集めて心を通わせてもらう。子育てシェアは顔見知り同士であればだれでも預けることも預かることも出来るが、「友達の輪をどんどん拡げて地域の子育てを支援したい。子どものお預かりで役立ちたい」という人たちをアズママでは「ママサポーター」に認定している。預けたくて参加した人は、ママサポーターとコミュニケーションすればいいのだ。気が合うな、信頼できるな、と思えるママサポーターなら、子どもを預けられる。

一方でアズママは”オンライン共助サービス”を持っている。これは要するにSNSだ。子育てシェアに限定したFacebookのようなものをイメージしてもらえばいいと思う。

登録すると、ほんとうにFacebookのような画面を操作していく。例えば、地図上で自分の近くにこんなにたくさん利用者がいる!とわかる。そしてママサポーターは詳細なプロフィールを記載しているのでどんな人物かもよくわかる。もちろんリアルイベントで会っていれば問題ないわけだが。

アズママはそんな風に、イベントを通してあるいはSNSを通して信頼関係を築きコミュニティを形成しながら子どもを預かってもらえるので安心できる。これはつまり、疑似的に”地縁血縁”を形成しているのだ。信頼できる相手に1時間500円から700円で預かってもらえるのだから、こんなにいい育児システムはないだろう。

さてアズママは株式会社だと書いたが、どこで収益を上げているのだろう。なんと驚くべきことに、会員からは料金を取らない。500円から700円の預かり料は母親とママサポーターが直接やり取りし、アズママは仲介もせず手数料ももちろん取っていない。これを聞いた時、頭の中がハテナマークでいっぱいになった。子育てシェアサービスの会社が子育てシェアで手数料を取らなくて何がお金になるのか?
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答えは、イベントにあった。母親とママサポーターが集まるイベントは、企業の後援で開催する。つまりスポンサーだ。イベントへのスポンサー料がアズママの収益源なのだ。

何しろ、赤ちゃんのいる母親、という明確なプロフィールを持つ人びとが必ず集まるのだ。育児関連だけでなく、そういう子育て世代をターゲットにしたい多様な企業にニーズがある。言ってみればアズママはひとつのメディアであり、メディアに特定の人びとが集まるのだからスポンサー収入が得られる。言われてみるとなるほどと思うが、会員から会費的な料金を取らないのは目からウロコだった。

甲田氏はそういう、ちょっと普通では考えないアイデア力、発想力が満ちあふれている。

中でも驚いた話がある。アズママでは育児の中で起きた事故に対し保険が適用される。これは大変な努力の末に実現したものだそうだ。会員に負担無しで保険が組めないか、保険会社に相談するとそもそもそんな商品がない。一から計算して組み立ててもらうとかなり高額の保険になってしまった。

でもなんとか実現したいと、あちこちの保険会社を回って相談した。回っても回っても無理だし組んでも高額になると言われたがそれでも諦めなかった。ある時、前職時代に縁があった保険会社の、立場の高い方が身近に赴任してきた。昔の縁でと頼みに行った。それでも無理だと言われたが何度も何度も足を運んだらようやく部下の方に対処するよう言ってくださった。そしてついに保険が実現できた。

さて、保険実現の過程でのエピソード。あちこちに相談する中で、世界の保険の胴元的な会社、イギリスのロイズにも電話をかけて相談した。いきなりの電話に相手も真摯に対応してくれたが、やはり簡単ではない様子。話をする中で、英国の担当者が「ところであなたはどこの保険代理店か?」と聞いてきた。いや、自分は保険代理店ではないのだ、育児サービスの経営者だと答えた。

「そしたらね、そのロイズの人が私にね、”Are You Crazy?”って言うてきたんですよ。あはははは」

保険会社の人間でもないのに保険の組み方についてロイズに直接電話してくるなんて、なんてクレイジーなのか、ということだろう。

大阪出身で、関西弁であっけらかんとしゃべる彼女のそのエピソードには本当にびっくりした。最初に書いた通り、ぼくは彼女の話を聞きながらAppleのThink Differentキャンペーンを思い出していたからだ。頭の中でパパパパパッとアインシュタインやエジソンやピカソやジョン・レノンの顔が映し出され、そこに彼女の顔も重なった。そうだ彼女も「クレイジーな人びと」のひとりなのだ。
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彼女はプレゼンファイルをぼくに見せながら熱く語った。「この仕組みをね、介護など他の分野や、世界にも広げていける思うんですよ。それめざして頑張ってます!」

彼女はそれを実現してしまうのだろう。なぜならば彼女はそれができると信じているし、それができるまで努力をやめないのだろうから。

彼女はクレイジーなほどの発想力を持ち、またクレイジーなほど諦めない。彼女は日本の育児を変えていくだろう。そして彼女は世界も変えるのかもしれない。

アズママは面白くぼくたちに発見をくれる。今後も追いかけてみようと思う。

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良妻賢母という言葉に、良妻賢母ほど追い込まれる。【赤ちゃんにやさしい国へ】

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NHKの朝ドラ『花子とアン』を観ていると、あの時代の女性が高等教育を受けることは格別のことだったんだなあと感じる。主人公の花は甲府の貧乏な家の出身だが、同級生たちは育ちがよさそうで、良家の子女たちなのだろう。結婚が決まって退学する同級生もいたし、いかにも”良妻賢母”を育む場だ。

彼女たちが教育を受けるのは、花のように教師になったり出版社で働いたりするのもあるだろうけど、主にはよい結婚をするためだったのだと思う。経済や政治を支える当時のエリートたちとめぐりあい良き妻、賢い母になるには”教養”が必要だったに違いない。もっとも花子の親友”蓮さま”を娶った九州の石炭王は、そんな教養は疎ましいようだが。

戦前の女子教育は”良妻賢母”が理念だった。この概念はどうやら、儒教に根ざした古来からアジアにある理念、というものでもなく、少なくとも明治以降に使われるようになった言葉のようだ。言葉だけ見るときれいな言葉だし、反論しにくいというか、そりゃその方がいいでしょ、という要素でできている。戦前に高等教育を受ける際には、めざすべき目標として素直に前向きに受け止められていたのではないか。

戦後もこの言葉は生き続ける。ただしモデルはアメリカの中産階級だ。

ぼくの母親は昭和一桁世代で戦後に青春を過ごした。戦争が終わった途端押し寄せたハリウッド映画はカルチャーショックだったようだ。ぼくが小学生の頃、テレビの洋画劇場で『グレン・ミラー物語』が放送された。母は「この映画、パパと何回も見に行ったのよ」と言っていたのを今も憶えている。グレン・ミラーは戦前の音楽家で、この伝記映画では自分の楽団をつくりヒットを飛ばし、戦時中の慰問演奏で訪れたヨーロッパで飛行機が撃ち落とされて死ぬまでを、妻の視点で描く。いま観ても素晴らしい作品で、言わば”内助の功”の美しい物語だ。良妻賢母なんて言葉はひと言も出てこないが、良妻賢母そのものだと思う。

筆者が子どもの頃はテレビでアメリカのドラマが毎日のように放送されていた。『奥様は魔女』もそのひとつで、夫は広告代理店のアイデアマン。(今思えばあれはコピーライターだったのかもしれない)社長とともに自宅にお得意先を連れてくる。降りかかるトラブルも含めて奥さんのサマンサが、魔法ですべて解決し接待はうまくいく。そう、あれも内助の功の物語だったのだ。

『奥様は魔女』にはアメリカの中産階級の大きな家が出てきて、キッチンも広く電化製品もたくさん使われていた。夫のダーリングもそういう大量生産の商品の売り方を考える人だ。世の中がどんどん便利になることを日本人にも感じさせてくれるドラマだった。サマンサが口元をピコピコピッと動かして繰り出す魔法のように、多様な電化製品が家事のすべてを解決する。そんな夢を母たちはうっとり思い描いたはずだ。

戦前からあった”良妻賢母”の理念は、アメリカの豊かさを目の当たりにした時、うまいこと化学反応を起こしたのかもしれない。良妻も賢母も大変だけど、頑張って乗り切ったらサマンサみたいな豊かな生活が待っているはず!ドラマに出てくる冷蔵庫も洗濯機もカラーテレビも手に入り、幸福になれるんだわ!そんな夢が、なんと驚くべきことにかなってしまった。日本は奇跡のような高度成長を実現し、80年代までは世界に例のない成功した国になった。良妻賢母は高度成長とともに日本に豊かさをもたらした”成功モデル”となった。

だが、そんな風に日本の女性たちに幸福をもたらしたはずの”良妻賢母”は、いまや逆に働いている気がする。この言葉に縛られ、下手をすると苦しめられるようになっていないだろうか。真面目な女性ほど、いまも”良妻賢母”たろうとし、でも実はたやすいことではないのでしんどいことになっている。とくに共働きだと、ほぼまちがいなくムリだ。

なのに、母親になると生活のスキマに、”良妻賢母たれ”というメッセージが仕込まれている。子供たちのために当たり前のように弁当を作れと要望され、幼稚園に持っていく雑巾を母親なら自分で作れと迫ってくる。良妻賢母は子育てをする仕組みの中にすっかり溶け込んでしまい、母親はその指令からなかなか逃れにくい。そして真面目な女性ほどその指令を実直に受け止めて、すべてこなそうとする。

だが”良妻賢母”は専業主婦が前提であり、なおかつ少しずつでも確実に豊かになっていく時代だからこそ前向きに受け止められた。ワタシもそうなろう、と頑張れた。ぼくの母は、昔を思い出し「あの頃は、ほんとうに大変だった」と言う。父はノンキャリの警察官で、当時は安月給で経済的にもしんどかったようだ。でも『ALWAYS 三丁目の夕日』の鈴木家同様、この国が、住んでいる都市が、突如できた東京タワーのように急激に発展していくことと自分を重ね合わせて乗り切ってきた。そんな特殊な時代じゃないと、”良妻賢母”は機能しない。

前に「日本人の普通は、実は昭和の普通に過ぎない」という文章を書いたけど、それと良妻賢母はセットなのだと思う。だから、政治や経済の世界がなかなか昭和のモデルを捨てきれないように、良妻賢母も日本人の家庭観からかんたんには切り離せない。上の世代からすると、自分たちができたのだからあんたたちもできるはずだ、努力が足りない、もっと頑張れ。そうなりがちだ。

良妻賢母。この一見すると美しいこの言葉は、そうした方がいいに決まってるように見える。だがこの言葉が訴えてきたメッセージは、そうやって考えていくと実は、もう寿命が来ているのかもしれない。『花子とアン』の時代からの理念だとすると、とっくに100年は経っている。もうそろそろ、引退させてあげないといけないのだと思う。

また、さっきの映画やドラマの例でも見たように、”良妻賢母”的な家庭観は日本固有のものというより、工業社会の発展段階では欧米でもどこでもあったようだ。ただ、欧米は70年代以降に女性解放運動などによって次のステップに入ったのだと思う。日本はその頃ちょうど欧米を越えようとした絶頂期になったので変化しそこねたのかもしれない。結果、日本だけなんだか遅れてしまった。

都議会であんな下品な野次が21世紀になっても平気で飛び交うのも、日本が遅れているからだ。野次を放ったあの議員に「良妻賢母ってどう思います?」と聞くとおそらく「いいことだと思いますよ」と今も言うだろう。謝罪会見でもわかってなさそうだったからね。

ぼくは言葉狩りのようなことは嫌いなので「使わないようにしましょう」とは言いたくないが、これから”良妻賢母”という言葉を使う時は、一度考えた方がいいと思う。男性の側はもちろんだし、女性の側も、自分や他人を追い込むようなことにならないか、気をつけた方がいい。

BeeStaffCompanyのアートディレクター上田豪氏と続けているビジュアルつきのシリーズ。今回もチカラを込めて上田氏が写真を撮ってくれた。ゴム手袋に握られた拳銃は何をあなたに突きつけるだろう。
さて、このブログでは「赤ちゃんにきびしい国で、赤ちゃんが増えるはずがない」の記事を書いたあと、その続きとして「赤ちゃんにやさしい国へ」のサブタイトルで記事を書いてきた。そしてこの度、「赤ちゃんにやさしい国へ:のFacebookページをはじめることにした。記事について皆さんの感想をもらいたいし、新しい記事を書いたら皆さんに知って欲しい。さらには、皆さんからの子育てについての情報や意見のやり取りの場にもしていきたい。「赤ちゃんにやさしい国へ:この国を変えていくためのコミュニティだ。よかったら、まずはFacebookページに「いいね!」してください。何かひと言書き込んでもらえると、もっとうれしいです!(下のバナーを押すとFacebookページにジャンプ!)

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メディアがこれからどうなるか、誰もわからない。だから今、面白い!〜ニュースサミット2014をレビューする〜

メディア論がメインのはずのこのブログは最近、すっかり育児関係の記事で埋まっている。いかん!このままだとメディアを語る者としてのぼくが忘れられかねないので、今日は本来のこのブログらしい記事を書こうと思う。

一昨日(2014年6月25日)、ニュースサミット2014というカンファレンスイベントが行われた。”2014”とあるけど、今年初めてのもの。友人に席があるからと誘われなんとなく行ってみたらかなり面白かった。これまで参加したカンファレンスイベントの中でも充実度では五本の指に入ると思う。その面白さを、ここでできる限り再現してみよう。

NewsSummit

六本木のブルーシアターという、ブルーマンショーが行われる会場。なかなか豪華なシアターで、なんとなくラグジャリー感がある。13時にまずはホリエモンによるオープニングのスピーチ。このイベントは、ほんの3カ月ほど前に、堀江氏がやるべきだと考えてイベント運営会社に相談して実現したとのこと。何をやるべきかといえば、ニュースアプリ盛り上がってるでしょ、ということだったそうだ。ニュースをキュレーションするアプリは日本独特のもので、これを世界に広めたいとの思いが堀江氏にはあるようだ。
opening
10分ほどで堀江氏のスピーチは終わり、最初のパート、そのニュースキュレーションアプリを運営する三人の方をパネラーにしたセッションがはじまった。

このところテレビCMをガンガン打っているグノシーの木村氏と、ついこないだからやはりテレビCMを打ちはじめたANTENNAを運営するグライダーアソシエイツの町野氏、そして経済分野にフォーカスしたニュースアプリNewsPicksの運営会社ユーザベースの梅田氏、モデレーターはコカコーラパークを成功させ、企業のオウンドメディア戦略を具現化した江端氏だ。

newsapps

なんでSmartNewsの人がいないのかなあ、というのが気になったけど、まあこのセッションはこのイベントの核のようで、まだはじまったばかりのサービスのせいか、それぞれのプレゼンテーション的な内容で終わった。正直、このあとこそが盛り上がったのでここからは書き込んでいきたい。

2つめのセッションは動画がテーマ。「動画元年2014。動画活用でコンテンツは変わるのか」のタイトルで、テレビ東京コミュニケーションズの蜷川さん、日本テレビの太田さんというテレビ局で動画活用をになうお二人と、広告主側として花王の本間さんが登壇。これをAOL(というかAdapTV)の橋本さんがモデレートした。
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ここからは、皆さんのお話の中で特筆すべきコメントをぼくがツイートしたものを取り出し、それに解説を加えつつ進めよう。

アプリの広告もテレビCM使うわけだしね、と本間さん。ここで終わると身も蓋もないσ(^_^;)

ネット動画どうなるんでしょう?と聞かれてシニカルに本間さんが「だってさっきのグノシーやANTENNAだってテレビCM使うのは、それがいちばん効果あるからですよね」と答えた。それじゃ身も蓋もないじゃないですか、と橋本さん。ここはまあ、ちょっとしたギャグになっているやりとり。

ネット動画に広告打たないのか?結局リーチが問題ならテレビでいいよ!というのが根本にあるわけだ。それに、テレビCMを扱うのと、ネット広告を扱うので、広告主企業の部署がちがったりする。そういう問題は多々ある、という話も出た。

ヘルシアコーヒーを、買った人のうち18%はテレビメディアに接触していなかった。これ、衝撃の数字だと思うけどσ(^_^;)

これも面白い話。ヘルシアのコアユーザーは30代40代の男性でテレビとの接触がそもそも少ないのもあるだろう。ただテレビがリーチメディアとして万全ではなくなっている証しではある。

リアルタイムだから広告見られてるってのも妄想でしょ?と本間さんが切り込むσ(^_^;)

本間さんが場を盛り上げようと意図的に切り込んだと思われる発言。タイムシフト視聴が俎上にのぼると、録画だとCM飛ばすと言われるけど、じゃあリアルタイムでCMをみんな真剣に見てくれてるのか、という問題はあるという話。確かに昔からトイレタイムと言われたし、いまだとザッピングタイムかもしれない。

広告モデルとサブスクリプションに分かれるだろう、と太田さん

今後のVODはどうなるかと聞かれての太田さんの回答。広告モデルだと無料で視聴できる。有料も個別に課金するよりhuluのように月々いくらのサブスクリプションが主流になるだろうと言っている。だから個別課金がなくなる、いらなくなる、ということでもないだろうけど。

権利処理はどうだった? ちゃんと説明したら誰も拒否しなかった。我々の側が躊躇しすぎていたかも、と太田さん

見逃し無料配信サービスを始める時、権利者に反対されなかったかと聞かれての答え。「どうせ反対されるんだろうなあ」と思っていたら、意外にちゃんと説明したら了解してくれた。一度嫌がられると「こう言われちゃうから」となりがちだけど、時間が経てば意見変わるのは全然不思議じゃないわけで。

YouTubeの問題はユーザーが作った動画に広告をつけにくい、

これも本間さんが言ったのだと思う。テレビ局の人は知っておくといい話。YouTubeにCMどんどんついてるけど、クオリティの低い映像にはCMつけたくないのが広告主の気持ち。ブランドが棄損するから。

テレビって視聴率だったのにネットの話になると、誰が見てるか、視聴者の話になる ここ今日のポイントかもσ(^_^;)

これ、ホントに大事なポイント。テレビ番組をネットに置いてテレビ同様「何人に見られました」と報告するのか。だったらテレビにかなわない。「こんな人が見てます」と言える状況をつくれるかどうか。つくれたらいい広告がつくかどうか。

これからは広告そのものもコンテンツとして見られるようにしないといけない

これは太田さんが言ったコメント。放送では番組と広告の区別は明確にしないと法律上の問題が出てくる。でもネットならそこを気にしなくてもよくなる。だったら番組の中で広告的なことをやってもいい。だからといってあからさまに商品を褒めても信じてもらえないからやり方は考えるべきだけど。やりようはいろいろあるはず。

共通認識ができてないから議論になる

これもキモ。ネット動画はPV数じゃない価値を作りたい。それは何か。例えば滞在時間とか?あるいは「いいね!」数?そこを、メディアと広告主とエージェンシーとで「基準はこうしようね」と握らないとビジネスにならない。逆に言えば、そこをみんなでルール決めればビジネスになる。視聴率だって時間かけてこれを基準にしようねと決めたから重要になったわけでね。

ネットにプレミアムな動画が来たら広告主は予算を動かすだろ

これは本間さん。多少のリップサービスかもしれないけど、さっきの「ユーザーが作った動画に・・・」の反対で、テレビ局が作ったまともな映像なら広告はつけやすい。そして若い世代へのアプローチにネット動画を使いたくてうずうずしている広告主はいる。テレビ局はネットに動画をいまこそ出すべきだということかも。

この分野はぼくにとってもかなり興味あるのでたくさんツイートしている。

さて次も面白かった。メディアビジネスのセッション。
media
Yahoo!の米谷さん、TABI LABOの久志さん、メディアジーンの今田さんのお三方をターゲッティングの藤田さんがモデレート。これもツイート解説形式で。

メディア運用で大事なのは熱量

メディア運用で、あるいはコンテンツ制作で大事なのは熱量。これは自分でブログ書いていても感じることだ。ネットではクオリティや内容も大事なのだが、熱量が高いと拡散される。

ディスプレイ広告はすっかり価値が失われ、カオスマップに並ぶ事業者にかすめとられている。 だからネイティブ広告に力を入れはじめた。

DSPなどのアドテクでバナー広告はやたら安く売られるようになった。DSPとはDemand Side Platformだから広告出したい側のロジックで価格が決まるわけだ。また間にいる事業者も増えた。その分、価格の中のマージンも増えてメディア側の取り分も減っている。だからネイティブ広告がいま浮上しているのだ。
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キュレーションメディアとどう向き合えばWinWinになれるのか

さっきニュースキュレーションのセッションがあっただけにここは面白い。いまやキュレーションアプリからの流入はメディアにとって必要で欠かせない要素だ。でもそこには忸怩たる思いもあるわけで。何がお互いにとっていいのか、今後そういう議論になるのだろう。

ネイティブ広告を、クリックしたらバナー同様のランディングページがでてきたら読者はがっかりするだろう。

これも大事な話だと思う。はっきり書くけど、グノシーの見出しをクリックしたらいきなりアプリダウンロードに飛ばされた。何度か経験してどれを押さなければいいかわかるようになった。ネイティブ広告がメディアと読者の騙しあいになっては意味がない。ネイティブ広告で誘導されたら面白かった、と言わせないと読者に軽蔑されるだけだろう。

オーディエンスデータはメディアが絶対手放してはいけない

これも響いたひと言。読者こそがメディアの宝。そのデータを安易に渡さず、その価値付けを自分たちでやらねばならない、ということ。

このセッションでは、メディア運営にとってパラダイムシフトが起きようとしていることをあらためて思い知らされた。アドテクがバナーの価値を下げてしまった一方、ソーシャルからの流入がどんどん重要になり、一方でキュレーションアプリの台頭に振り回される。その中で、ネイティブ広告を読者から信頼を得られる形で開発し、その読者のデータをどう武器にできるかが大事になっている。

コンテンツ・イズ・キングとよく言うけれど、実は読者が王様なのではないかな。

さてその次は”編集”に関するセッション。これがまた面白かった。

ハフィントンポスト日本版編集長の松浦さん、Yahoo!ニュースの編集長(という肩書きはないらしいけど通称)伊藤さん、共同通信デジタルの伊地知さんが登壇。モデレーターはご存知、ジャーナリストで法政大学準教授の藤代さん。
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面白いと思ったのが、伊藤さんは新聞社からYahoo!に移った一方で、伊地知さんはライブドアから共同通信に移っている。アナログとデジタルで人材が錯綜しはじめている証しかもしれない。

ニュースをテーマにしたイベントが開かれること自体驚き、と藤代さん

これは観客席側としてもほんとうに感じたところで、しかもジャーナリズムではなくニュースメディアのイベントなわけで、このイベントのユニークさを言い表している。つい一年前でも、そんなイメージは持てなかっただろう。かなり新しい流れなのだと思う。

同じPVでも、いいねが10の記事と100の記事は違うよね、と松浦さん

PV一辺倒から脱却せねば。そんな思いはもはやメディア界の共通認識かもしれない。さっきのセッションとも重なる話だ。

新聞記者時代はどれくらい記事が読まれているかわからなかった。ネットではPV数がわかるので気にするようになった。 Yahooの記事で子育て給付金を伝えたものが48万いいねついた。もっと前に新聞で詳しい解説記事はあったのに、と伊藤さん

これは二つのイシューをひとつのツイートにしたためわかりにくくなったかもしれない。
伊藤さんは新聞記者時代に記事が何人に読まれたかは気にしなかった。だってわからないからね。ところがデジタルだとわかるのだ。紙だと一面トップの記事がネットでは読まれてないことがわかったり、その逆もある。

そして子育て給付金の制度を知らない人のために書かれた記事が、しかもYahoo!個人だからブロガーの記事が、48万いいね!ついて大ブレイクした。この給付金の記事はもっと前に記者がちゃんと書いたものもあったのに。そっちは読まれてなかったらしい。これも非常に考えさせられる現象だ。

共同通信に来た時、コンテンツに金かけることに驚いた、と伊地知さん

伊地知さんは登壇者の中でおそらくいちばん年長だと思うのだけど、その伊地知さんがこう言ったのが面白かった。災害があるとヘリを飛ばすのをみて、ネットメディアでは絶対にありえないと驚愕したそうだ。

ユーザーが考えてることを知ろうとすることが大事、と松浦さん

読者と言わずユーザーと言うところがネットメディアなのだろう。

共同通信でも記事を書いてますけど難しくて読みにくい。藤代さんのブログは読みやすい。ネットではそういう点が大事、と伊地知さん

読みやすくないと読まれない。これは内容がと言うより書き方が、という話だと思う。新聞の文体ってぼくも前々からつまらないと思っていた。読みやすく、でもちゃんとした記事の書き方がこれから必要になるだろう。

このニュースが当たるぞ、というセンスは必要だしそこはプログラムではできない

Yahoo!ニュースとキュレーションアプリは似ているようでここがまったく違う。どちらがいいとか優れているとかではないだろうけど、ニュースに関する嗅覚はこれからも必要だしむしろ大事になってくるとぼくも思う。それがないと、全部同じになってしまいかねない。

ということで、一通りのセッションが終わり、最後はクロージング・キーノートとしてイベント企画者である堀江氏が登場。話題の編集会社コルクの佐渡島氏と対談がはじまった。

closing

タイトルも「メディア大予測:膨大なネット上の情報をいかに処理するのか」となっていて、これは激論になるかはたまたびっくりするようなメディア予測が展開されるのかと大いに期待した。

さてこのキーノート中のぼくのツイートを見てみると・・・

ホリエモンのお話をうかがう佐渡島さん、という構図になってるσ(^_^;)

FacebookもTwitterもPC時代のサービスではないか、スマホネイティブのものが必要ではないか、と堀江さん

すいません、話が専門的でわかりにくいのですけどσ(^_^;)

LINEがAppleやGoogleを超えるにはハードを作る必要があるのでは、と堀江さん

すいません、エンジニアの話よりメディアの話、お願いしますσ(^_^;)

スマホの体積の大半はバッテリーと液晶

すっかり開発の話になってしまった。 面白くないわけじゃないけどメディア大予測じゃないよねσ(^_^;)

堀江さんが熱く熱くこれからのスマートフォンでの開発について語るのだけど、いっこうにメディアの話になっていかない。佐渡島さんもあんまりついていけてない様子なのだけど堀江さんが熱く語るので引きずられている感じだった。気がつくと時間が経っていて、メディア大予測にたどり着かずに終わってしまった。まあ、堀江さんのおかげでこのイベントが生まれたのだから、いいか、と。それに、やはり根が情熱的なエンジニアなのだなあとあらためて思った。

さてさて、ニュースサミットという画期的で時代を映したイベントに参加して思ったこと。ニュースが熱い。メディアが揺れ動いている。

少し前までは、マスメディアが危機で、ネットメディアがそれを追って成長している、というとらえ方だったと思う。でもいまや、マスもネットも含めて、メディアの今後が見えなくなっているのだ。そしてだからこそ、面白い。新しい試みが次々に出てきている。

ぼくには、その中でもネイティブ広告がもっとも重要に思える。長らくメディアではコンテンツと広告は明確に分かれていた。でもぼくたち広告制作者からすると、広告だってコンテンツなのだ。その境目を取り払うことで、新しいメディアの姿、コンテンツの有り様が見えてくると考えている。

それから、メディアは危機だし、コンテンツの作り手はどうすりゃいいのさ、という状況だが、コンテンツを作りつづけて、その読者がいてくれれば、何かにはなるはずだ、ということもあらためて思った。だからぼくは書きつづける。書くことであなたともコミュニケーションし続けられるのだから。

さて来週は、子育て関係の記事、溜まってるんでいきますよー。

コピーライター/メディアコンサルタント
境 治
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日本のおじさんの誇りは失われたままなのだろうか〜都議会の醜悪な野次で思うこと〜

ことの経緯はもう説明する必要はないだろう。都議会で女性議員に対してひどい野次が浴びせられた一件。

最初にどなたかのブログで知った時は、言っちゃった人がすぐ名乗り出て謝らざるをえないだろうと思っていた。そうしないと疑いをかけられた自民党会派のダメージがあまりにも大きいからだ。そういう時代になっているのはもうわかっているだろうからと。

ところが不思議なことに誰も名乗り出ない。近くにいる人はわかっているはずだから”自首”を勧めればいいのにそれもなさそうだ。あ〜あ、知らないよ。名乗り出るのを先延ばしにするほど、本人も自民会派も、計り知れない大きなダメージを負って取り返しがつかなくなるのに。それにしても日本のおじさんってなんてカッコ悪いんだろう、と思った時にハッと気づいた。ぼくもとっくに五十を過ぎたおじさんだし、この醜悪な野次を発したのはぼくと同世代かもしれない。そういう年になっていた。

80年代後半に中堅の広告代理店に入った。年配社員が何のてらいもなく自分のデスクで電気かみそりでヒゲを”じ〜っ”と剃っているのを見て驚愕した。そうなのか、会社社会とはおじさん社会なのかと直感的に気づいた。そしてそのあと経験したことは、その直感を確信に変える出来事ばかりだった。

男尊女卑とよく言うが、少しちがうのだ。おじさん社会なのだ。だって男尊女卑に年功序列と終身雇用が加わるのだから。女性全般と若い男性が自由にものを言えない世界。

つまり、さほどレールを外れなければ男性社員はみんなそれなりの権力と収入を持つおじさんになれるのだ。若い時はそこへ向かって我慢する時代。けっこうつらいかもしれないが、我慢して居続ければ”それなりの”権力が手に入る。

当時セクハラという言葉はなかったが、セクハラにあたる言動はしょっちゅうだった。おじさんほどセクハラ発言をする。中には女性社員のカラダに日課のように触れるおじさんもいた。

おじさんがセクハラをしがちなのは、権力を持っているからだ。それを誇示するために、それを維持するために、やってしまう。それに、嫌がられていることがわからない。ウケるとさえ思っている。おじさん同士にウケるし、若い男性社員にもウケるし、女性に対してもウケると勘違いしている。なにしろ権力があるのでセクハラされる女性社員は言えないし、若い男性社員も言えない。

誰も「やめてください」とか「嫌がってますよ」と言わないので、おじさんにはわからないのだ。

セクハラに限らない。やたら暴言を吐き、威圧的に怒鳴り散らす。面白くないダジャレを言う。おじさんは”それなりの”権力を手にしてしまうし、ふだんの仕事生活の中では自分の権力が及ぶ範囲内でしか行動しない。だから権力を手にするほど、周りが見えなくなる。何をしても注意されない。むしろ、さすが!とか言われる。そして終身雇用なので、そんな人間関係のまま年をとっていく。だからおじさんは社会人としてとんでもないような言動をすることも多い。それがまかり通るのが日本の会社社会なのだ。

都議会での例の野次も、本人はさほど特別なことをした自覚もないだろう。娘みたいな新人議員に対し、ちょっと威嚇して自分たちベテラン議員の強さを誇示しよう、そして仲間うちでウケよう、そんな感覚なのだ。それが録画されネットで誰でも見れるしブログにまで書かれちゃうことがどういうことかわかっていない。え?そんなにまずかった?そんな心持ちなのだろう。

さて今回の野次の一件で驚いたのは、まだこんなこと言うおじさんがいるんだ!という点だ。

会社に入った頃はもう20年以上前だ。当時、このおじさん社会は自然消滅するだろうと思っていた。なぜならば、時間が経てば引退するからだ。ぼくがおじさんになる頃には、おじさんはいなくなるのだから時がすべてを解決するはずだ。そう思っていた。

ところが、ぼくがおじさんになった今も、おじさん社会は継続され継承もされていまも残ってしまっている。つまり、当時のおじさんより少し下のおじさんたち、そしてぼくと同世代のおじさんたちも、一部がおじさん化してしまったのだ。

ぼくと同世代の男性たちも若い頃はおじさんじゃなかったし、セクハラを軽蔑していただろう。おそらく、今もおじさん化してない、つまりセクハラをしない同世代の方が多いはずだ。だが一方で、おじさん化してしまった人もけっこういるのだろう。たぶんその方がラクなのだ。周りが、とくに上司がおじさんだと、非おじさんを貫くのはけっこうしんどいと思う。ダジャレを無視するわけにはいかないし、下ネタをやめろとも言えない。そんな毎日は、地獄じゃないか。だったら自分もあっち側に行った方がラクになる。そんな背景でおじさん化してしまい、年齢的にもおじさんになったおじさんはきっと多いと思う。

都議会の自民党会派なんてきっとそうだ。おじさん化しないと先輩議員とも後援会ともつきあえそうにない。想像するだけで死にたくなる。

それでここから、今回いちばん言いたいことを書くのだけど、どうしておじさん社会は温存されるか。はっきり言わないからだと思う。ダジャレやセクハラがいやだと、そう気づいている周りの男性は言わないといけない。女性も言わないといけない。もちろんおじさんはそう簡単にネをあげない。だから、毎日毎日、毎回毎回、言ってやらないといけない。

それを避けてきたんじゃないか。おじさんにビシッと言うことを、しないできてしまったのではないか。この二十年、そうだったんじゃないか。

ドラマ「花咲舞が黙ってない」の主人公のように「お言葉を返すようですが」と言ってしまうのは現実的でないだろう。でもうまく、やんわりと、はっきりと、言う。言い方はある、きっと。

おじさん社会は日本古来の伝統ではない。前に「日本人の普通は、実は昭和の普通に過ぎない。」と題した記事に書いた昭和の残滓がおじさん社会だと思う。会社という閉鎖社会が男性にとって生きることのすべてになっていた環境で培われたイビツな文化なのだ。人前でセクハラ発言するのも、受け止めようのないダジャレを連発するのも、21世紀にひきずるべきではない。

日本の男性は下品なふるまいを是とするものではなく、誇り高く生きる者たちだったはずだと信じている。気高さと凛々しさを日本のおじさんたちは取りもどさないといけない。そのために、恥ずかしい言動には毅然とものを言っていくべきだと思う。

あと、おじさんはおじさん化していないか、自らをチェックした方がいいかもしれないね。セクハラはしてなくても、暴言吐いてないか、部下や女性に横柄になってないか、とか。気をつけないと、例の野次を責められなくなってしまう。

追記:6月23日(月)13時30分過ぎ、この野次の主が自民党会派の鈴木章浩議員だと、本人が名乗り出て判明したと報じられた。ほんとうに同い年の議員だったのでなんだか落ち込んでしまっている。しかもぼくが住む大田区選出だ。自民党会派を離脱したそうだ。なぜか、悲しい。

追記2:15時から鈴木都議の会見が行われ、ライブで放送された。「早く結婚した方がいいぞ」とは、誹謗中傷の意図ではなく、少子化なので早く結婚していただきたいとの思いの表明だったと釈明。誹謗中傷の意図なくこういうこと言えちゃうのがおじさんだなあ。それに誹謗中傷じゃないなら質問の最中にこんな野次言う必要ないよね。
もうひとつショックだったのが、この件はまだ家族と話をしていないと答えたこと。じゃあ家族はこの会見のニュースで初めて知るわけだ。そんなひどい夫、もしくは父親、いるのか。家族はメディアを通じてこれを知ってどれだけ悲しいか。そういう風に家族ともやって来たし疑問も持たなかったのだろう。そういう人が、自覚なくセクハラしちゃう。それが、おじさん。ダメだなあ。さらに悲しくなった。


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”「良いマスコミ」「悪いマスコミ」論に意見してみる”に意見してみる

6月8日、日曜日の午後、さーて今日の夕飯はなにつくろうかなー、などとのんびり考えながらだらだらiPadをいじっていたら、飲んでたお茶を吹きそうになった。BLOGOSの記事にぼくのツイートが載っていたのだ。

「横綱・白鵬さんの告白「良いマスコミ」「悪いマスコミ」論に意見してみる」のタイトルで、こんな記事が出ていた。
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英国在住のジャーナリスト木村正人さんの記事を”軽はずみな書き方”と批判しているのだけど、まさかご本人が読むとは思わず、ぼく自身が軽はずみなことをしでかしていた。あーあ、すんません、失礼なものの言い方で。

ちなみに木村さんの最初の記事「もう誰もマスコミを信じない 横綱・白鵬の告白」はこちら。

ただ、言い方は失礼だが内容的には間違ったことは言ってないつもりだ。そしてこの反論記事を読んでも何ら思いを新たにすることもなかったし、この反論記事がまたさらに反論したくなるものだった。ぼくも同じBLOGOSに転載される論者として、この記事にふれずに新たな記事を書くのも何だなあと思うし、記事の最後では「そう主張することが境さんのいうように果たして「軽はずみ」なことなのか。」と、また名前を出して問いかけられているので、何か言っとかないわけにはいかないだろう。ツイートしようかと思ったけど、きちんとまとまった文章にした方がいいと考え直したので、書いておきたい。

で、ここから先は木村さん宛てに書くので”ですます体”になります。

さて木村さん。ぼくのツイートへの反論のブログ記事を読みましたが、正直言って内容があちこち飛びすぎて何が言いたいのかわかりませんでした。(BLOGOSのコメント欄では何人かの方が冷静にその点を書いてくれていたのでホッとしましたが)

まず”「良いマスコミ」「悪いマスコミ」論に意見してみる”とタイトルにありますが、ぼくはそんな言い方してません。東スポなどが「悪いマスコミ」だから偏っていると言っているわけではまったくないですよ。

あの見出しでぼくのツイートがポンと出てくると、まるでぼくがそう言ったみたいで、なんだかなーって感じです。

東スポはマスコミと言えばマスコミですが、相当な異端児だと思います。それは自他共に認めるところではないでしょうか。「東スポ伝説」という本もあったくらいで、極端にセンセーショナルな(そしてありえないことも含んだ)見出しを一面にどかんと据えて人びとの興味をそそる新聞です。受け止める側も「おー!東スポ今度はこうきたかー」とその極端さをわかっていて楽しむ、そういうメディアです。その東スポの記事が「もう誰もマスコミを信じない 横綱・白鵬の告白」の中で2つも例として出てきます。

他の例も、日刊サイゾー、NEWSポストセブン、ZAKZAK、が出てきていますが、マスコミの代表例と言うにはあまりにも特殊なメディアだと思います。サイゾーやポストセブンは、”マスコミを批判する”記事も多く、つまり彼ら自身は自分たちをマスコミと思ってない可能性が高いです。

そういうメディアだから”偏った”と言ったわけで、「悪いマスコミ」だからではありません。

そして、そんなかなり特殊なメディアの記事を並べてそれを根拠に「もう誰もマスコミを信じない」と見出しを立てていることを”軽はずみ”と言いました。木村さんの反論記事を読んでもその考えは変わりません。

軽はずみとまで書いたのは、誤解を生むからです。いま、ネット上の記事を誰もがざざーっと読んでしまいます。ぼく自身もそうです。見出しを見たあと記事の中身は大ざっぱに拾い読みをしてしまいます。ですから「もう誰もマスコミを信じない」の見出しでこの記事をざざーっと読んだ人は、「そうか多くのマスコミが白鵬にひどい記事を書いたんだな」と受け止めてしまいかねない。だからぼくは2回もツイートしたのです。みんな誤解しかねないから。

木村さんの反論記事の後半、論旨があちこちに飛んでいてわかりにくかったです。ただ、大まかに言いたいことは分かります。日本のマスメディアは、そしてジャーナリズムは、インターネットの革新性を活用して変えていくべきだ。そこはまったく共感するところです。ぼくも同じ思いで動いています。テレビとネットの融合を日々考え、そのための勉強会を運営したりセミナーイベントを企画したりしています。ブログでも主要なテーマはそこです。

ぼくも日本のメディアやジャーナリズムには経年疲労があちこちに露呈していると思っています。それを変える鍵がネットだというのもまったく同感です。

だからこそ”言い方”は大事だと思います。批判する時は”ちゃんと”批判しないとそれこそスルーされちゃいます。ぼくが感じた以上に、マスコミの現場の人たちがあの記事を読んでも「一部だけあげつらうんじゃないよ!」と受け止めたでしょう。それでは意味がなくないですか?

ぼくはBLOGOSで木村さんの記事を前々から読んでいます。欧州在住のジャーナリストの視点で日本について書いている貴重な記事だと思う。その木村さんの記事が(ぼくの目からみて)軽はずみだったのでものすごくがっかりしました。リスペクトしていたのに、なんでこんな記事を書くの?そんな人だと思わなかったよ。そんな思いでツイートしました。

木村さんが書いていたように日本のテレビも新聞も、ネットへの対応が遅れていました。でも、それぞれの会社に少しずつ、ネットを軸にした改革への思いを持つ人びとはいて、去年から今年にかけてはその人たちの努力が実りはじめています。テレビ局にも、新聞社にも、小さいけれどダイナミックな動きはあって、これから大きな渦になっていきそうです。また外部のIT系の人たちの知恵と結びつきはじめてもいます。

そんな中で、木村さんのように日本のメディアのことを知っていて、欧州にいる人の情報や知見は大きな価値を持つと思いますよ。批判記事より、欧州の新しい動きを伝えて刺激していけばいいと思います。これは余計なお世話ですが。

あれ?反論に反論するはずだったのに、こういう終わり方でいいんだっけ。まあでも、もう激しいやり取りをするほど若くないんだよね・・・。

コミュニケーションディレクター/メディアコンサルタント
境 治
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フィンランドが実現できたなら日本も子育て社会にできるはずだ〜ハフポ一周年イベント〜

ハフィントンポスト一周年イベントが5月27日に開催された。ぼくも参加したので、もう一週間以上経ってしまったがレビュー的なことを書いておこう。

直前に発表されたがケネディ大使がやってくることになり、松浦編集長以下ハフィントンポストのみなさんはてんやわんやだったようだ。そりゃそうだね。米国の要人である上に、あのJ.F.K.の娘なんだから。

当日、ハフィントンの編集室でぼくらが待ってるとぞろぞろといろんな人を引き連れてやって来た。意外に気さくな女性であれやこれやと話しかけている。記念写真を撮ろうとみんなで並んでいたらぼくの隣に立った。ものすごくキンチョーしながら「あなたが来ると聞いて昨日慌てて美容院で髪を切ってきましたよ」って英語でどう言えばいいか、んんんーっと考えはじめたら「大使はこちらへ」と誰かが呼びかけてぼくの隣を離れていってしまった。ま、いいけど。

編集主幹の長野智子さんとは少しだけお話できた。彼女とは同い年なので”同級生”のような感覚がある。フジテレビに在籍された頃は「ひょうきん族」で島田紳助の隣に立って”ひょうきんアナウンサー”と呼ばれていた。それがいまやアナウンサーと言うよりジャーナリストとして活躍されている。ひょうきんアナのころも楽しくて好きだったんだけど、同級生が出世したようで勝手にうれしがっていた。そしていま、時々ぼくが書いた記事をtwitterでRTしてくれたりして、その長野さんと少しだけ話ができたのは、ちょい舞い上がった。

さてこのイベントでのぼくの役割は、イクメンたちによるパネルディスカッションの進行役だ。フィンランド大使館の参事官ミッコ・コイヴマーさん、元デンマーク大使館広報官でいまは食や住のアドバイザーであるイェンス・イェンセンさん、そしてNPOファザリング・ジャパンの代表、吉田大樹さん。この三人のイクメン代表の話の司会をすることになっていた。

お三方についてのハフィントンポストの記事へのリンクはこちら。
「イクメン」という言葉がない国フィンランド―ミッコ・コイヴマー駐日フィンランド大使館参事官に聞く”世界一幸せな子育て”

「サンタクロースはグリーンランドに住んでいます!」 デンマーク大使館のイェンセンさんに聞く世界サンタクロース会議とは

現在シングルパパ。小5長男、小2長女、年長次男の3人の子どもがいます。

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(左から)松浦茂樹編集長、吉田大樹氏、ミッコ・コイヴマー氏、イェンス・イェンセン氏、筆者、長野智子編集主幹

一周年イベントは、長野智子編集主幹の開始の挨拶にはじまり、ケネディ大使のスピーチ、ワークライフバランスの小室淑恵さんと長野さんの対談と続く。

ケネディ大使のスピーチは素晴らしいもので日本の女性たちにエールを送る内容だった。来場したとくに女性たちは感銘を受けていたようだ。

スピーチの全文がハフィントンポスト上に掲載されているので、読んでもらうといいと思う。
ケネディ大使、働く女性にエール 「小さな変化が、人生を変える」ハフポスト日本版1周年イベント【全文】

小室さんの話は現代ビジネスが記事にまとめている。
「労働時間を減らした方が、業績が上がる」 小室淑恵氏が語る「これからのワークライフバランス」
後半で来場者からあらかじめ募った質問に小室さんが答えるコーナーがあった。「夫に家事をやってもらうにはどうしたらいいか」との質問に「小さな家事でもやってくれたら褒める」という回答だった。それを聞いてぼくはハッとした。

ぼくはここ数年、土日は料理をやる。それは自分が料理が好きだし得意だからと思っている。だがそう言えば、10年くらい前に何度か料理をやったら、妻が「うちのパパは料理が上手でよかったねー」と言っていた。晩ごはんを作るたびに言っていたかもしれない。それに気を良くして土日の料理が習慣化したような気もする。・・・そ、そうだったのかー、あれは彼女の作戦だったのかー・・・いやいや、そうじゃなくて、いやそうかもしれないけど、褒められてうれしかったのだからそれでいいのだ。

そのあと、いよいよイクメンディスカッションになった。ただ、この時点で時間が押していてちょっと急がなきゃなー、というのもあり焦ってしまい、司会役たるぼくの時間配分がうまくなかった。せっかくのお三方に十分話してもらえなかったかもしれない。このディスカッションについても、現代ビジネスの記事があるのでそれを読んでもらうといいだろう。進行役としての反省はありながら、うまくまとめてもらっている。
「家事・子育てに男女の役割はない」 イクメン先進国、フィンランドとデンマークから学ぶこと

ちなみにこのイベントについては5月30日の東京MXテレビの『モーニングCROSS』という番組で紹介された。せっかくだからその放送にもふれると・・・

松浦編集長はこの放送の時スタジオにいたのだが、画面にもでーんと登場した。
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イクメンディスカッションの紹介ではまずぼくが15万いいね!のブロガーとして紹介され・・・
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ディスカッションの場面もちゃんと写しだしてくれた。
MXTV3ミッコさんとイェンスさん。

そして吉田さんとぼくも・・・。
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さて、イベントのレビューはこんなところにしてと・・・

ここからが、ぼくが今日書きたかった本論だ。えー?まだ書くのかよ、と思うだろうけど。でも大事なことを書くつもり。

フィンランド大使館のミッコ・コイヴマーさんは「イクメンMIKKOの世界一しあわせな子育て」というタイトルで本を出している。イベントで司会役を頼まれた際、ハフィントンの猪谷記者にこの本を渡された。これは読まなきゃなとページをめくりはじめると、面白いのであっという間に読んでしまった。そしていろいろ驚いたし考えさせられもした。

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この本には事細かにミッコさんのイクメン生活が書かれている。読んでいるとほほ笑ましく、楽しくなる。フィンランドのお父さんはこんなことまでやるんだ、イクメンってここまでできるものなのかと感心するけど、それが楽しそうに書かれているのだ。フィンランドのお父さんはなぜ育児や家事をやるのか、それはそうしたいから。その方が楽しいからなのだ。そのことがよーく伝わる。そこがまず素敵だ。

それから、フィンランドには子育てのためのありとあらゆる制度が整っている。大袈裟に言うと、社会のすべてが子育てを軸に構成されている。ぼくがこのところ赤ちゃんのこと、子育ての問題を考えるようになって思い至ったのは、子育てをお母さんだけに、夫婦二人だけに任せないで、社会全体で引き受けることが大事だということ。まあでも理想論かなあと思っていたが、その理想論をフィンランドは実現しているのだ。理想は実現できる!そのことを思い知った。

そしてさらにさらに、ここがいちばん今日言いたいことなのだけど、フィンランドだってつい数十年前まではこの理想から程遠かった。子育てやイクメンのための制度が整ったのはそんなに昔のことではない。国民性や文化がちがうからイクメンが多いのではなく、長い時間をかけて社会を変えていったのだ。

フィンランドでは、日本同様に第二次大戦後、急速な工業化・都市化が進んだ。それまでは農業国だったし、男は働き女は家庭へ、だったらしい。ただ、ちがったのはフィンランドでは早くから女性も働くようになった。なぜならば労働力が足りなかったから。

フィンランドは日本とさほど変わらない広さの国土だが人口は540万人。北海道と同じくらいだ。国の経済にとって働き手の人口は大きな要素。だから女性が働く必要があったのだ。

そのため「女性は家庭」の文化だったのが、少しずつ変わっていった。1970年代までは男性が家事や育児に参加するのが普通とは言えなかった。1985年にはついに、出産後も産前と同じ仕事につくための支援が法律化された。その後は少しずつ、制度が進んできた。この十年だけでも父親が取る休暇の制度が大きく進歩している。いまの状態が整ったのはほんの最近だし、今後も進んでいくのだろう。

ここでぼくが注目したいのは、70年代までは男性の家庭参加がまだ普通じゃなかったことだ。この40年間で大きく変わった。

日本は何をしていたのだろう。少なくとも80年代には男女雇用機会均等法ができたし、90年代には少子化問題が浮上していた。なのに問題は少しも解決できていない。ぼくたちが怠けていた努力、目を背けていた問題に、フィンランドは何十年も前からちゃんと向き合ってきた。

だから日本ってダメだよね、と言える。でも、だったら日本も変えられるよね、とも言えるんじゃないだろうか。

フィンランドの人たちが向き合ってきたことに、遅ればせながらぼくたちも本気で向き合えば、状況は変えられるのだ。ミッコさんの本から、ぼくたちはそこをこそ学びとるべきではないか。

それに、ここをあげつらうのはちょっといやなことだが、フィンランドが人口の少なさに直面し変わったように、ぼくたちはこれから人口が減少する時代に突入する。人手不足が進むと、女性が働かざるをえないし、では育児をどうするかということになる。いままで目を背けてきたことに否が応でも向き合うことになるのだ。

皮肉なことかもしれないが、希望が失われるからこそ、変化への希望がもたらされる。皮肉だけど、いいことだ。

ぼくたちはフィンランドをはじめとする、北欧に学ぼう。

ミッコさんの本からはまだ学べる点があるのだけど、いい加減長くなったのでそれはまた別の回で。

とりあえず、一周年イベントも無事に終わり、松浦さん以下ハフィントンポストのみなさん、イベント参加者のみなさん、お疲れさまでした。

コミュニケーションディレクター/メディアコンサルタント
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テレビはもう一度おっぱいを映しだせるか?〜エンタメはテレビとネットで交錯する〜

(タイトルに「おっぱい」だなんて入ってて、せっかくぼくの記事を読むようになった若いお母さんたちに嫌われるんじゃないかと心配なんだけど、きわめて真面目な内容なのですぞ。・・・うーん、いや、あんまり真面目でもないかな?)

先週、5月30日にブライトコーブという会社のカンファレンスがあって参加していた。

同社はネットで動画配信するためのシステムを提供する米国が本国の会社で、グローバルではこの分野のトップ企業だ。クラウド上で動画を簡単に管理できる最先端のシステム。ネット動画の成長が見込まれる日本でも、これから注目されることだろう。
BCplay2014
そのカンファレンスは「ブライトコーブPLAY」のタイトルでニューヨーク、ロンドン、シドニーで行われていたのが今年は日本でも開催されることになった。丸一日セッションが展開され、ぼくはその一部の企画のお手伝いをした。

詳しくはこのサイトで概要を見てもらえばわかる。(→ブライトコーブPLAY2014)例えばハフィントンポストの松浦編集長と、何かと話題の東洋経済オンライン佐々木編集長のディスカッションを日経BPの柳瀬博一氏がモデレーションする、というセッションもあった。クロージングは各テレビ局の動画配信担当者が一堂に会する贅沢な時間となった。

ぼくが企画した中で「エンタメはテレビとネットで交錯する」のタイトルでテレビ制作者がネット動画について語るものがあった。お呼びしたのは三人。日本テレビの電波少年T部長こと土屋敏男さん、テレビ東京で「モヤさま」を制作する伊藤隆行さん、そしてフジテレビ+(プラス)という動画枠で「世界一即戦力な男」を制作したフジテレビの俊英・狩野雄太さん。それぞれ何らかネット動画に関わっており、奇しくも30代、40代、50代の三世代のテレビマンによるディスカッションとなった。

土屋さんがネット動画黎明期(2005年!)に「第2日本テレビ」をプロデュースしたのはみんな知っているだろう。有料課金で動画ビジネスに挑んだり、広告モデルでもやってみたりと当時考えられるあらゆるアプローチを試したのが”第2日テレ”。それから、間寛平が地球を一周したアースマラソンも土屋さんのプロデュースだ。スポンサーもたくさんついてネット動画(動画だけでもないわけだが)の成功モデルとなった。

伊藤さんの「モヤさま」はネットでスピンオフ映像を配信し24時間で50万回再生された。この経験をもとにテレビ東京はちょうどこの5月30日に「テレ東プレイ」という動画サイトを立上げた。放送されたものではなく、オリジナル番組を配信するサイトで、広告をつけている。ビジネス化を狙った動きだ。

フジテレビの狩野さんが取り組んでいる「フジテレビ+(プラス)」は今年1月にスタートしたサイトで、ネットでオリジナル番組を配信している。こちらも独自に広告をつけており「テレ東プレイ」と近いビジネスモデルだ。「世界一即戦力な男」は実際にそのスローガンで就職活動をした菊池青年の活動をドラマ化したもの。ネットらしい企画を、ネットらしい切り口で制作している。

さてテレビ東京の「テレ東プレイ」は立ち上がったばかりで、最初は「TVチャンピオン」と「ギルガメッシュWEB」を流している。この「ギルガメッシュWEB」とは、90年代に放送された伝説の深夜番組「ギルガメッシュないと」をネット上で復活させたものだ。この番組、若い人は知らないだろうが「ギルガメ」と呼ばれある種、一世を風靡した。何で一世を風靡したかと言えば「エロ」だ。飯島愛をはじめAV女優が出演し、時折あられもない姿を披露していた。

そうなのだ。90年代は深夜番組に”おっぱい”が出ていたのだ。

さて、土屋さんはかねがねこの”おっぱい問題”について疑問を投げかけている。

「ぼくがこのところ気になっているのは”テレビはいつからおっぱいを出さなくなったか”ってことなんですよ」

お会いするたびにそうおっしゃる。

このセッションでも当然のようにその話になっていった。

「注目したいのは、ギルガメッシュWEBではおっぱいを映すのか、ですね。いや、おっぱいを出さないといけないんじゃないかなあ」とんでもないけど、興味深いことをおっしゃる。

立派な企業が主催するきわめてまっとうなカンファレンスの場で、いったい何を言っているのかと思うかもしれないが、これは表現についての重大な話なのだ。いやちがうかな?100%の確信は持てないけど、たぶんそうなのだ。

土屋さんは言う。「昔は深夜におっぱいがけっこう出てたんですよ。でもいつの間にか出せないことになっていた。それがいつからなのか。たぶん誰か最初に言ったやつがいるんですよ。”おい、おっぱい出しちゃまずいんじゃないか”って。そこから各局各番組に広がって気がつくと、どの局でもおっぱいは出さないことになっちゃったんです。犯人は誰なのか、知らなくてはいけません」最初に”おっぱい禁止”にした人間が”犯人”なのだと言う。

もちろん、”おっぱい”は”表現を制限するコード”の象徴として言っているのだ。

テレビはそもそも、実はかなり猥雑な存在だった。テレビばかり見てると頭が悪くなると言われ、大宅壮一という評論家が「一億総白痴化」と、これはこれでいまだと問題になりそうな言い方で批判した。

「11PM」について年配男性に話を向けてみるとおそらく必ず「ああ、子どもの頃ふすまを細くあけて隠れ見てたもんだよ」と遠くを見つめながら語るだろう。この伝説の大人男性向け夜のワイドショーでは、”うさぎちゃん”と呼ばれた女性レポーターが温泉を巡るコーナーがあり、その、見えていたのだ。”おっぱい”が。

あるいは「時間ですよ」という銭湯を舞台にしたホームドラマがあり、ここでも時折見えていた。見せちゃっていた。

そして「ギルガメ」。これはもう、かなり積極的に見せていた。”そういう”番組だった。

それがいつから見せなくなったのか。見せてはいけないことになったのか。

テレビは大宅先生に叱られながらも猥雑に歩んできた。”おっぱい”だけでなく、80年代から90年代のテレビはいま思い返すとやんちゃどころではなかった。むちゃくちゃしていた。そしてその度にもちろん、世間様からおしかりの言葉を受けていた。ごめんなさい、すみません。と謝りながらやんちゃするのがテレビだった。

90年代後半から、やんちゃもやってられなくなった。これはなぜだろう。世の中全体の空気が許さなくなったのだろうか。”おっぱい”も誰かが「もうやめとこうぜ」と言ったのだろうし、あれやこれやのむちゃくちゃも、少しずつ誰かが自制をかけたりお叱りの電話がかかってきたりしてしぼんでいったのだろう。

そしていつの間にか、世間様からお叱りを受けていたテレビそのものが世間様そのものになっていった。テレビばかり見てると馬鹿になるなんてもう誰も言わない。いまはむしろ、テレビを見ない若者は、世の中の動きが掴めていないんじゃないかと危惧する人もいるほどだ。

そんな馬鹿みたいなことしなきゃ番組作れないの?おっぱい出さなきゃ面白くできないって言うの?いやそうじゃない。そうじゃないけど、そうなんだ。表現には自由の枠があり、その枠の中で番組を作らないといけない。でも”面白い”ということには、あらかじめ規定された”枠”の境界線を綱渡りのように走り抜ける、という要素がたぶんにある。表現する内容と言うより、ギリギリに挑んでいくその様こそが表現であり、ぼくたちに興奮を、この場合の興奮はおっぱいとは関係ない方向の興奮なのだけど、もたらすのだ。「やべー!」と言いたくなるきわどさ、こんなテレビってなかったよなー、という類いの興奮が一昔前は確かにあり、表現はそうやって進んできた。表現の枠も広げてきた。

でもテレビは表現の枠をこの十年以上の間に広げるどころか狭めてしまった。”おっぱい”はその象徴なのだ。土屋さんがあえて”おっぱい問題”を提議するのもそういうことなのだと思う。実際におっぱいを出すべきだと言ってるわけではないはずだ。

「ギルガメッシュWEB」におっぱいを期待するなあ、と土屋さんが言うのはだから、ネット動画には新しい表現の枠組みがあるのではないか、という問いかけだ。あるいは枠組みができてないならそこで何ができるかを一から試そうよという、作り手としての意気込みだろう。ほんとうに”おっぱい”を出してよ、という意味ではなく、ネットでやるならそれくらい自由な場として番組を作るといいね!という大先輩からのエールなのだ。

おっぱいの話でほとんどセッションが進んだ。そしたら最後にテレビ東京の伊藤Pが「よし!ギルガメWEBで、おっぱい出します!」と宣言しちゃっていた。伊藤さん、大丈夫?・・・いや、そうじゃないか。これは土屋さんから伊藤さんへのエールへの返答なのだ。”がんばります”という宣言だ。おっぱいを出す!くらいの意気込みでネットならではの面白さをめざしますよ!伊藤さんは電波少年を大いにリスペクトしているので、大先輩からのエールに応えた、ということだろう。

テレ東プレイは伊藤さんが監修的に関わっている。フジテレビプラスでは狩野さんのような世代がメインで制作している。若いテレビマンが、テレビのノウハウを生かしつつも、未知の表現領域に足を踏みだしている。きっとギリギリへの挑戦をしていくのだろうし、ビジネス化のための悩みもどんどん出てくるだろう。テレビマンがそれをどう乗り越えて新しい表現を構築できるか。テレビじゃないけどテレビって面白いなあ。そう思わせてくれるように、テレビマンのネット動画には期待したい。

そんな素晴らしいセッションになってほんとうによかった、土屋さんのおかげだなあと思っていたら、Facebookにこんな写真とコメントを投稿していた。

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六本木でたそがれて自分を振り返ってる投稿を見ると、土屋さんはやっぱり、大勢の前で”おっぱい”と野放図に言いたかっただけなのかもしれないと思えてきた。いや、つまりそれが表現者のサガなのだということでもあるけど・・・

コミュニケーションディレクター/メディアコンサルタント
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人様に迷惑なんかかけちゃいなさい。(とくに子育てでは)

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この数カ月、子育てについて考えてきた。いろんな問題があるのだけど、これまで日本で常識とされてきた考え方や習慣と、子育てが相いれない側面がある気がする。

”満員電車にベビーカーで乗る”ことに関する議論も、そもそも”満員電車”というものが赤ちゃんを育てることとまったく合わない、相いれないのが根本にある。でも戦後の社会は都市に人口が大移動しほとんどの人びとが定時に会社に出社するので”満員電車”がおのずから発生してしまう。そこにベビーカーがやって来るとみんなが目くじらを立てるのだ。合わないから。無理があるから。「ベビーカーで満員電車に来られると、迷惑だよ!」と言われてしまう。

この”迷惑”という言葉は水戸黄門の印籠のように強い威力がある。「それは迷惑である」と言われると「ははぁ〜!」とひれ伏さざるをえないオーラを放つ。太刀打ちできない。謝るしかない。

でも赤ちゃんは、迷惑だと言い出したらどこへどう連れて行っても迷惑だ。満員電車じゃなくても、レストランでも、デパートでも、銀行でも、迷惑をまき散らしかねない。かくして、赤ちゃんを連れたお母さんは、「迷惑じゃ!」のとがめを受けないかビクビクしながら行動することになる。赤ちゃん連れててすみません、泣き出しちゃったらごめんなさい、オムツ替えます申し訳ありません。

そうやっておびえはじめると、都市という、互いに見知らぬ人びとが大勢集まる空間では、迷惑を引き起こす可能性だらけだ。”満員電車”どころか”都市”が子育てと相いれないのだ。合わないのだ。・・・あれ?そうすると、都市では子育てできないのか?

そこには、矛盾がある。都市では子育てできないなんて、おかしい。都市が持続できなくなる。何かを考え直すべきではないだろうか。どこか、間違っちゃってるんじゃないだろうか。

見直すべき点はこうではないか。「迷惑をかけるな」という常識から問い直すのだ。つまり、迷惑かけてもいいじゃない。

「人様に迷惑だけはかけない人間に育てたのに」どこかでよく聞いた言い方だ。誰が言いはじめたのか知らない。どこかに明確に書かれているわけでもない。でもぼくたちはこの国でそう言われて育ってきた。実際に親に言われたというより、世の中全体からそう教育されてきたのだと思う。

もちろん人間として正しい。自分でできることはやった方がいい。それぞれの生活を邪魔したり脅かしたりせずに暮らせるチカラを持つべきだ。だから人様に迷惑はかけちゃいけない。そりゃそうだ。

でもぼくたちは、迷惑に敏感になりすぎていないだろうか。「あ、それ迷惑!ダメ!失格!」とか「そういうことすると、他の人に迷惑かけるってわかりませんか?」と言いあっている。迷惑を見つけたら鬼の首をとったように指摘する。「みなさん!こいつ、迷惑かけちゃってます!いけないですよね!」そんな世の中悲しくない?

そんなことをもやもや考えていたら、前回の記事で紹介したように雑誌「Yogini」の対談の際、ヨガの先生・吉川めいさんが似たことを言っていて驚いた。インドには”迷惑”を許容する文化がある。だから子どもを連れていくと、安心して迷惑をかけられる。インドの方が人口がずっと多くて、だったら迷惑に敏感になりそうなのに、逆に寛容になっている。子どもが多少羽目を外したりなれなれしくても、受け入れてくれる。吉川さんのお子さんはその違いをもうすっかり呑み込んでいて、インドでは見知らぬ人にどんどん話しかけ、日本では逆に大人しくしているそうだ。日本社会の度量の狭さを見透かされている。

ぼくたちは、この百年くらいの間に、農村から都市に、地方から中央に移って生活をはじめた。都市で自立した生活を営めるようになるのがひとつの目標だった。それは馴染みの人びととの暮らしから脱却し、他人たちの中に居場所を見つけることだった。その際、大事だったのが”迷惑をかけないこと”だった。都市で自立した個人として住まう際の大事なキーワードが”迷惑”だったのだ。それはもちろん正しいと思う。

でもぼくたちはあらためて、認識した方がいい。人間は迷惑をかけあわずには生きていけない。少なくとも、迷惑をかけないと子育てなんてできないのだ。核家族の夫婦二人だけで誰の手も借りずに赤ちゃんを生んで育てていくなんてできやしない。できやしないのに、できやしないことに気づかず、できるのだと自分を信じ込ませ、無理を強いてきた。その結果が、いまのこの状況なのではないだろうか。

コンピュータが進化して、電子メールだポータルサイトだと便利で合理的になってきたのが、ここへ来てソーシャルメディアがコミュニケーションの核になりつつある。人とのつながりが大事だ、エンゲージメントなのだ。エンゲージメントとカタカナで書くと最先端なようで、なんてことない、最新技術で昔ながらの体温ある人付き合いをやっている。それが人間の真理なのだろう。

農村の地縁血縁を脱却して、都市で個として生きる。そのためには互いに不必要に干渉しないことが大事だった。迷惑なんて持っての他。でも本来、人間は干渉しあわずに生きていけない。とくに子育てなんてできない。助け合いながら生きていこう。だから迷惑かけあったっていいじゃない!

赤ちゃんを抱えたお母さんたちも、迷惑かけたらどうしよう、と脅えながら出かける必要はないんじゃないかな。迷惑ってかけあうでしょ、お互い様でしょ、そんな気持ちでいいのだと思う。ただ、ありがとうとか、ごめんなさいとか、そんな気持ちを少しでも持っていれば。

ベビーカーが重くて困ったら「すみません、ちょっと手伝ってもらえないでしょうか?」と言ってみればいい。言われた側は、迷惑だけど迷惑をかけあうのは当然だよね、ととらえてさっと手伝ってあげるのだ。手伝ってくれたら「ありがとうございました!」とはっきり言えばいい。手を貸してくれた人はとても気持ちよくなる。迷惑だったけど迷惑をかけられてありがとうと言われるのはとても気持ちいいなあ、いいことしたんだなあ、そう思えば一日楽しく過ごせるだろう。迷惑をかけあうことは、お互いにとって素晴らしいことなのだ!

なんてね、そんなにうまくいくかはわからないけど、そんなささいなことの積み重ねで、社会は変わっていくのだとぼくは思う。

BeeStaffCompanyのアートディレクター・上田豪氏と一緒に続けているビジュアル付きのシリーズ。しばらくお互い忙しくて、間が開いてしまった。今回のビジュアルは、みてわかる通り「工事中」の看板のパロディ的な表現。こういうマーク、ほんとに作ったらどうかなあ。いちいち「すみません、ごめんなさい」と言わなくてもいいのではと。・・・まあそれはそれでとやかく言う人も出てきそうだけど。

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【赤ちゃんにやさしい国へ】カラダを気づかっていると、社会も気づかえるようになる〜ヨガ雑誌「Yogini」対談〜

4月のある日、メールをいただいた。「Yogini」というヨガの雑誌の編集者の方からだった。

・・・なんでぼくにヨガの雑誌の人からコンタクトがあるの?健康とはおよそ縁のない生活をしてきたおっさんなんですけど。

吉川めい、というヨガのインストラクターでありモデルでもある女性がいて、長らく「Yogini」の表紙モデルをやっていたのだけど、最近表紙は交代して誌面の中で対談記事の連載をはじめた。その対談の相手に吉川めいさんがぼくを指名してきたのだという。・・・え?・・・なんでぼくが指名されるの?・・・

よくよく聞くと、1月末に赤ちゃんの記事をきっかけにtwitterでやりとりしたとのこと。そこで、あーっと思い出した。

「赤ちゃんにきびしい国で、赤ちゃんが増えるはずがない」の記事を書いた数日後、こういうツイートがメンションで届いた。

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ツイートの中にある”昨年の私のブログ”が気になったので読んでみた。

「子どもの声は元気の声」のタイトルで書かれていた記事。幼稚園で子どもたちが遊ぶ声にクレームがついたことをとりあげ、ドイツでは正反対の法律があると書いている。少しだけ引用すると・・・

父の話によると、ドイツ連邦議会では2011年に「子供の声を騒音としない」という法律が可決したそうです。騒音には厳しいドイツですが、理由は「子供の発する騒音は、自明な子供の成長の表現として、かつ、子供の正当な発達の可能性を保護するものとして、原則として社会的相当性があり、従って、受認限度内である」というもの。

私はこのことを聞いて、「ドイツって、こういうところがスゴイ!進歩的!」なんて感心したのですが、みなさんはどう思われますか?

へー、そんな法律があるんだ、いいことだなあと思い、こう返信した。
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これに対し吉川さんはこう返してくれた。
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これだけと言えばこれだけ。ぼくの方はどんな人か気になったのでブログを少し読んだりして、ヨガの先生をやられているらしいことはわかったのだけど、それっきり忘れてしまっていた。失礼な話かもしれないけど、一回だけのやりとりだし、その頃はいろんな人からtwitterであの記事について話しかけられることも多かったし、メールも一杯もらったもので。

そんな吉川めいさんが、ぼくと対談を申し出てくれた。ヨガ雑誌で。・・・どう受け止めればいいの?吉川さんのサイトや「Yogini」について調べると、本格的でまたおしゃれなヨガ雑誌だし、吉川さんはモデルでもあり大変きれいな女性だ。うーん、この美しい健康的な世界にぼくが行っても浮くよね。浮きまくってみっともないんじゃないだろうか。お受けしていいのだろうか。

・・・と悩みつつ、腰が引けているのにも関わらず、受けてしまった。ヨガの世界って知らない。知らないから興味あるし、せっかくのきれいな女性との対談のお話を断るのももったいない。

ということで、対談して撮ってもらった写真がこれだ。
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やはり浮いている。違和感放っている。そして恥ずかしい。

恥ずかしい恥ずかしいと大いに緊張しつつ、対談とあいなった。

ヨガのことはあまりよく知らなかった。美容法、健康法としてこの十年くらい一般化しているようだな、その程度の知識。

吉川さんによれば、ヨガは”意識の使い方”なのだそうだ。

例えば、朝のレッスンに通う人びとがいる。朝ヨガをやることで、その日一日の”意識”が変わるものだという。満員電車に押し込まれて人とぶつかったり足を踏まれたりした時、ムカーッとなってキリキリしたりする、それが普通だと思う。ヨガによってそのキリキリがなくなるのだそうだ。自分がキーッとなった時に、ハッと気づくのだ。

”意識が自分の元に戻ってくる”という言い方をしていた。「我に返る」ということと同じなのだろう。ヨガによって自分を取りもどし、我を忘れている状態にならずにすむのだという。

吉川さんはヨガによって”気づき”を持った人が、何かを変えていけるのではないかと考えているそうだ。ここはちょっと驚いた。カラダに関わることを教えている人が、それによって社会にも変化を及ぼせると言っている。カラダと社会。無関係のようで、確かに関係してくるのだと思えた。ひとりひとりが健やかなカラダを持つことで、社会全体も健やかになる。そうかもしれない。

彼女は、インドに何度も行っている。お子さんと一緒に行くと、インド社会が子どもにいかに大らかで寛容かを体験したそうだ。例えば日本では「人様に迷惑をかけてはいけない」と教わって育ったものだが、インドでは「迷惑をかけあうのは当たり前、支え合って生きなさい」と教わる。だから子どもに関しても迷惑をかけあっていいし、支え合おうという文化があるのだそうだ。

ぼくは近々ブログで書こうと考えていたテーマと同じことを言われて驚いた。子育てについて考えていくと、迷惑をかけないでとやみくもに考えない方がいいんじゃないかと、感じていたところなのだった。こんなおっさんブロガーとヨガの先生が似た考え方を持っているとはと、びっくりした。だから対談を申し出てくれたのかな。

それにしても恥ずかしい。最後まで緊張しっぱなしだった。どう見ても、何度見ても、違和感を放っているなあ、このおっさんは。

ただ、ヨガには興味を持った。いまの日本は明治以来百数十年かけて”西洋化”してきた結果で、そこにはいろんな”無理”が凝縮されている。その無理を解きほぐすのはヨガのような東洋的な精神かもしれない。

子育てに関する悩みがもしかして”西洋化の無理”に起因するとしたら、ヨガのような方法論はその悩みを解消するひとつの策になってもおかしくないだろう。
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ということで、「Yogini」最新号は5月20日発売なので読んでみてください。対談記事は・・・あまりしげしげ眺めないでね。恥ずかしいので。

雑誌「Yogini」WEBサイト(http://www.yogini.jp/)
吉川めいさんのWEBサイト(http://maeyoga.com/)

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【赤ちゃんにやさしい国へ】保育士さんの悩みはこの国の子育ての悩みそのもの〜イベント型保育活動・asobi基地(その2)〜

前回、「保育士さんたちがきっと世界を変えていく」のタイトルでイベント型保育活動asobi基地について書いた。取材は2回に渡って行ったので、続きを書きつつ、保育士についてももうちょっと書こうと思う。

5月初めの連休中に二子玉川でasobi基地の活動があるというのでまた行ってみた。取材というより遊びに行った感じ。今回は、また三輪舎の中岡さんも来てくれた。前に「子育ての問題を本にしたい」と書いたら連絡してきた物好きな男で、今年出版社を設立したばかり。そんな作ったばかりの出版社でホントに本ができるんだろうかといぶかりつつ、彼の熱い想いに引っ張られて一緒に取材を進めている。そしてこの日は奥さんの寛子さんと8カ月の赤ちゃん、湊人くんも連れてきた。

寛子さんは別の出版社で働いていたが育休中。中岡夫妻にとってぼくが書いていることは、いままさに直面している問題でもあるのだ。

さて今回のasobi基地の会場は二子玉川のライズというショッピングセンター。この街はここ数年で再開発が進み、伝統ある玉川高島屋、通称タマタカとは別に新しく施設が次々にできている。その中には来年、楽天が移ってくるビルも建設中だ。

二子玉川は”世田谷”の専業主婦のセレブな奥様の街、というイメージだったが、新しい方の街はいまの若いファミリーに合う、もっと地に足のついた生活感がある。H&MやABCマートがテナントに入っているのが象徴している。旧来のニコタマにはありえなかったタイプの店だ。それでもどことなく”セレブ感”もほのかに漂い、いいバランスかもしれない。

そんな中にasobi基地の感覚はどんぴしゃりとハマっている気がする。

イベント全体は二子玉川ギャザリングと銘打たれている。その核となるのがasobi基地。
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こんなデザインの看板がライズの中庭に立てられている。このカジュアルさが新しい二子玉川に似合っている。

うしろにH&Mがみえる中、会場の中央にasobi基地のスペースが配置されている。その姿には2014年の子育てを取り巻く現代があると思う。
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前回見た時同様、遊び場で子どもたちが思うがままに遊んでいる。保育士を中心としたasobi基地のキャストたちが子どもたちが伸び伸び楽しめるよう導いている。親たちは座ってその様子を見守っていたり、自分たちも一緒に遊んだりする。

遊んでいるのはホントに素朴なもので、家の中にもありそうな紙コップだのテープだのがおもちゃになる。子どもは本来、どんなものでも遊べてしまうことがよくわかる。

子どもたちが遊ぶ脇で、親のためのコーナーもあった。「おしえて保育士さん」という、お母さんのためのカウンセリングだ。こちらはasobi基地の代表である小笠原舞さんがやっているもう一つの活動”こどもみらい探求社”の企画。
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同行した寛子さんが興味を持って参加している。下の写真に写っているのだが、どれが寛子さんかはここでは書かないでおこう。
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寛子さんが相談をしている間、お父さんは湊人くんの相手をしていた。お父さんはお母さんのサポートをしなきゃね。

ところで、前回の記事を読んだ方からメールをもらった。保育士だという彼女は、一方で7カ月の赤ちゃんの母親でもある。いまは育休中なのだそうだ。

前回の記事でぼくは保育士について、長く続けないことが普通になってしまっていると書いた。メールをくれた方はこれに関して切実な悩みを書いてくれていた。以下に一部を引用する。(YTさん、引用したい旨をメールで送ったのですが、Unknown userということで戻ってきちゃいました。あらためてメルアドを確認してメールしてもらえないでしょうか。以上、業務連絡)

実は私は今とても葛藤しています。保育士をしている以上仕方のない葛藤なのですが、
“このまま働き続けていいのだろうか?自分の子どもを預け、他人の子どもの世話をするのでいいのか?”というものと、”子育てしながら働くことは可能なのか?子どもにしわ寄せしないのか?”というものです。
実は潜在保育士がかず多くいる理由はこの葛藤も大きいのではないかと思うのです。
(中略)
母親になる間は保育士としてたくさんのお母さん達の相談を聞いたりもしてきました。気持ちに寄り添ってきたつもりですが、お母さんにならないとわからないことがたくさんあります。
だからこそ保育の現場には子育て中の保育士の存在は大きいと思いますが、現場の体質が、独身の体力のある若い人しかできない様な体質なのも確かです。
(激務•低賃金など)
もちろんそんな現場だけではないですが。
こんな現状があるから、結婚したら辞める。辞めるから新しい若い人が入る。一度辞めてしまうとなかなか復職しずらい。こんなループこそが潜在保育士を育成してるのではないかと思うのです。

なるほど、そうかあ。

「子供ができるまでの仕事」のイメージになってしまっていると書いたわけだが、やりがいと使命感で続けたいと思っても、ハードルがかなりあるのがよくわかった。

子育てを経験すれば、保育の仕事にきっと役立つはず。でも、ハードさの前に躊躇してしまう。だって、ワーキングマザーが夜子どもを迎えに来るまで、保育士の仕事は続く。12時間労働が当たり前なのだという。それと自分の子育てを両立できるのか。

子どもがある程度育つまで復帰は難しく、彼女の言う”潜在保育士”となっていく。これはもったいないのではないか。

それに保育士の仕事は経済的に報われにくい。体力的にもハード。

いろんな側面で、出産後も続けるのが難しいのだ。

高度成長の時代はそれでもよかったのかもしれない。ゆくゆくは専業主婦になるのが普通なので無理して続ける人も少なかっただろう。でもいまは、共働きが当たり前、と言うより共働きが必要な世の中だ。せっかく国家資格をとっても出産すると生かせなくなるようでは、本人の生活のためにも社会のためにも、よくないのではないか。

また違う話だが、asobi基地に限らず保育士さんの話を聞くと、預かる子どもたちの親との関係がいかに難しいか、わかってくる。

例えば、保育士は親と仲よくなってはいけないのだそうだ。どの家族にも公平に接しなければならないので、特定のお母さんとお茶を飲みに行くのも許されない。無用な誤解を生みかねないからだ。そうなると、ようするにどの親とも距離を置かなくてはならなくなる。保育士は保護者と永遠に”仲間”にはなれないのだ。

その話を聞いた時、その保育士さんは”保護者”ではなく”保護者様”と呼んでいた。”様”をつける関係。つまり保育所から見ると親とはお客様なのだ。保育所は、個々の保育士にそういう姿勢を求めてくる。

それはどうなのだろう。それで幸福な保育になるのだろうか。

ぼくはこの数カ月で保育についていろいろ取材してきたが、よくわかったのは、子育て中にお母さん同士がどう助けあうかが重要だということだ。子育てをするもの同士が、姉妹のように親密で悩みも喜びも共有できるのが必要だし自然だ。だから保育士と保護者は”友達”になった方がいい。

それが”保護者様”と呼ぶことでまったくできなくなる。まるでサービスを受ける者とそれに対価を支払う者のような距離がある関係では、”仲間”になれないではないか。

asobi基地の取材を通して、ぼくは保育士のみなさんの想いや悩みに少しだけふれることができた。asobi基地の活動は子どもたちのため、育てる親のためではあるが、それを保育士さんが中心になって行うことで、保育士の想いと社会との新しい接点にもなっている。そのことの意義も大きいのだと感じた。保育士さんたちの悩みには、この国の子育てが解決すべきポイントが見え隠れしている。

ところで、ハフィントンポスト日本版は今月で一周年を迎えたそうだ。ぼくは子育てについて自分のブログで書いているのだがハフィントンに転載されて拡散するので、”ハフィントンポストの記者の方”と誤解されたりしつつ、その一周年にはわが事のようにおめでたい気持ちになっている。5月27日に一周年記念のイベントがあり、ぼくも少し関与する。参加料は1000円で、申し込めば誰でも参加できる。興味あったら来てみてはどうでしょう?

ハフィントンポスト日本版1周年イベント「未来のつくりかた」 2014年5月27日(火)18:00開催

コミュニケーションディレクター/メディアコンサルタント
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【赤ちゃんにやさしい国へ】保育士さんたちがきっと世界を変えていく〜イベント型保育活動・asobi基地〜

1月の記事「赤ちゃんにきびしい国で、赤ちゃんが増えるはずがない。」が転載されたハフィントンポストで16万いいね!になったことをきっかけに【赤ちゃんにやさしい国へ】のシリーズでいろいろ書いてきた。

3月18日の「子育てはやっぱりみんなでするものだ〜二人のママさん訪問録〜」はそのひとつなのだが、これもけっこう多くの人に読まれて多くの反響があった。メールをもらった中に「asobi基地という活動をやっています。よかったら遊びに来てください」というものがあった。asobi基地?どんな活動だろう。もらったURLを見てみると、素敵なサイトで活動を紹介していた。日々子供を預ける保育所ではなく、不定期で開催するイベント的な活動のようだが、書いてあることがどうもこれまで取材してきた自主保育共同保育所とシンクロするものがある。とにかく行ってみようと、2回に渡って取材したことを今日は書いておく。

asobi基地の活動は、イベントに呼ばれてその中にスペースを作って行うことが多いようだ。最初に訪れたのは、赤坂アークヒルズのカラヤン広場で開催されるヒルズマルシェだった。
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これがヒルズマルシェの会場の様子。この催し自体素敵なイベントで、関東各地から集まった出店者が、自分たちが作った野菜や手づくりの加工品を売っている。食いしん坊としては、歩いているだけで次々に買い物をしてしまいそうだ。

そんなお店たちの並ぶ中央に、緑のシートが敷かれたスペースがあった。それがasobi基地だった。
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こんな手づくりの看板が出ている。「楽しんでいってね」とある。右側の4つのルールも気になるなあ。

そのうち、ちらほら親子が集まってきた。asobi基地の人と子供たちで遊びはじめる。
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さっきの4つのルールにはこんなことが書かれている。

asobi基地4つのルール

  1. ここはオトナもコドモも全ての人が平等です。
  2. (ダメ!)等の否定する言葉は禁止!
  3. 何か言う前にオトナもコドモと同じ目線になり、やってみる。
  4. 自分の価値観を押し付けずフェアに対応する。

ふむふむ。これはたんなる遊び場の注意書きではない。何しろこれ、子供ではなく大人へのメッセージだ。何らかの考え方に根ざした理念的なものを感じるなあ。どうやらasobi基地とは、ただ親子に遊び場を提供するだけでなく、世の中へのメッセージを含んだ活動のようだ。

代表の小笠原舞さんに話を聞くことができた。まだ20代だと思うが、遠くをまっすぐに見つめる眼差しを持つ、しっかりした女性だった。
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大学で福祉を学んで、卒業後就職したが思うところあり保育士になったそうだ。保育現場で働きながら、もっと子供たちを生き生きと、伸び伸びと遊ばせられる場を作りたいとはじめたのがasobi基地だった。

毎日預ける保育所ではないが、保育所とは別のもうひとつの保育の場だ。

保育所ではどうしても時間を決めて保育を行わざるをえない。何時になったのでお昼ごはん。何時になったら運動。何時になったら今度はお昼寝。時間に子どもたちを合わせるよう仕向けることになる。

子どもたちは「もっとこの遊びを続けたい」「ゆっくりごはんを食べていたい」とそれぞれ感じている。でも大勢を預かっている中で子どもたちがやりたいようにさせることは難しい。保育園はどうしても団体行動を規律に沿ってさせる、ようになってしまうのだ。

asobi基地は保育園ではなかなかできないことを主眼にする。子どもたちがやりたいことをやりたいようにやらせる。主役は子ども。何をするかは、子どもたちの気持ちで決める。伸び伸び遊ばせる、伸び伸び育てる場なのだ。

WEBサイトをみた時に感じた予感はこれだった。これまでに取材した自主保育”野毛風の子”や共同保育”たつのこ”と考え方がとても近い。保育園ではなかなかできない伸び伸びと自由な子育ての場をめざしている。さっきの4つのルールも、こうした考え方を反映してできたものなのだ。

asobi基地が特徴的なのは、中心が保育士たちであることだ。子どもたちを迎える側をasobi基地では”キャスト”と呼ぶ。そのおよそ半分が保育士で、ふだんはそれぞれ保育園で働いている。やりがいを持って保育に取り組んでいるが、どうしても保育園ではできない自由な保育を、asobi基地なら実践できる。そのために参加しているのだ。

半分は保育士ではないが、保育士をめざす学生だったり、asobi基地に共感して参加する若者だったり、保育に興味を持つ人たちが集まっている。

参加する親子の側は、asobi基地の楽しさに共感するお母さんたち、子どもたち。お父さんたちもけっこう参加している。何度か参加してくれているメンバーたちが、あちこちのイベントでasobi基地を開くたびに集まってきて、また少しずつ増えている。ゆるやかなコミュニティが形成されているのは、ソーシャルの時代らしい形だろう。

代表の小笠原さんはあちこち飛び回っていて、この日も途中で別の催しに向かった。代わりにお話ししてくれたのが、支部代表の相原里紗さん。各地にいくつかの”支部”ができていて、相原さんはその東京支部を支えている。
asobi-aihara2彼女もやはり、最初は一般企業に勤めていたのが、思うところがあり保育に転じた。保育士の資格は持っていなかったが、保育所で働きながら勉強してめでたく保育士になった。その上で、この春からはasobi基地にさらに注力するために保育園の勤務を非常勤にした。大変だが、理解してくれる夫が応援してくれているそうだ。

相原さんに聞いて驚いたのだが、保育士になったら収入は2/3に減ってしまったそうだ。保育士は厚生労働省が所管する資格なのだが、一般企業より給料が安いのは奇妙ではないだろうか。子どもを預かる大事な大事な仕事なのに。

asobi基地の活動には、保育士たちの立場を向上させたい、という目標もある。そこで”保育士のマーク”を考案したそうだ。お会いしたあと、サイトもできたと連絡があった。
保育士マーク
これがそのマーク。

これを実際にプリントして志を共有できる保育士さんたちに配布して使ってもらいたい。そのための資金40万円をクラウドファンディングを使って集めようとしている。こちらのサイトだ。→ https://readyfor.jp/projects/asobikichi3
実は目標金額はすぐに集まってしまったそうだ。でも理念に共感してくれるならまだ参加できるので見てみてほしい。

このマークにはいろんな意味があるのだが、いちばんのポイントは「私は保育士です!」と表明して、子育て中の親を助けたい、ということにある。例えば子どもを抱えて電車に乗る時、ベビーカーで階段を上がり下りする時、このマークをつけた人には助けを乞うていいのだな、と認識してもらいたい。保育士の側も「手伝いましょう!」と申し出た時、変に遠慮されずに「この人はプロだから手伝ってくれるんだな」とパッと意志疎通できる。そういうメリットがあるのだ。

もちろん、保育士じゃなくても手伝っていいし、助けを願っていいのだが、やはり”保育のプロ”をはっきり表明しておくとお互いに頼みやすい頼まれやすいということだ。

ぼくがこのマークにもうひとつ感じたのは、保育士さんたちが社会でもっと前に出ることができそう、という点だ。

子育てについて取材して考えを進めていくと、保育士さんがこれからますます重要になるだろうと思い至る。一方、これまで保育士さんはあまりスポットライトが当たらずにいたのではないか。イメージとして、短大を出て保育園に勤めて子どもたちの世話をしてそのうち結婚とともに退職する。そんなキャリアスタイルになっているのではないか。学校の教師が定年まで勤めるのが普通であるのに対し、なぜか”若い女性の職業”になってしまっていると思う。そこには、職業として低く見られている気配がある。保育士の側もこれまではそれをよしとしてしまっていた人が多かったのではないか。

だが、保育所が足りない、待機児童を減らせ、少子化対策どうする、というこの時代にそれではいけない気がする。そんな中、小笠原さんや相原さんのように、保育の現場にあとから入っていく人たちが出てきた。そして彼女たちは自己主張をしはじめた。

保育士さんたちは、もっと前へ出ていいのだ。自分たちの価値をもっと社会に感じてもらえるように。自分たちが人びとの役にもっと立てるように。給料だってもっと高くていいはずだ。ずっと続けるのが当たり前の仕事であっていいはずだ。私は保育士です。そう、胸を張って世の中に言っていこう。

保育士マークにはそんな意志が込められているのだと思う。そしてそれはいま、この時代にあるべき考え方だと言っていい。だって保育士さんに助けてもらいたい人は大勢いるのだ。保育士さんたちが自分を高めることで、健やかに成長していく子どもたちが増えるはずなのだ。

などと熱く書いているうちにけっこうな文章量になってしまった。asobi基地はもう一回取材しているので、別の回にこの続きを書こうと思う。

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コミュニケーションディレクター/メディアコンサルタント
境 治
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