”いま”というタイミングで辞任表明するのは、意図が読めない。意図が読めない行為に対し、人びとの反応は冷淡だ。ふーん、としか受けとめられない。
まずどう考えても、このブログでも3月末に書いたように、秘書が起訴されたその瞬間に辞めるというのが第一の選択だっただろう。「私は決してまちがっていません。ただ、部下の不祥事の責任はとります!」と宣言してあの時に辞めてたら、民主党の支持率はうなぎ登りだっただろう。それができなかった。
そして、あの時辞めないんだったら、次のチャンスは”いま”じゃない。自民党が衆議院を解散していざ総選挙だ!というタイミングがいちばんだった。
もちろん、その前に、次の代表も決めておくわけ。小沢さんが辞めたあとの体制をどう作り、選挙をどう闘うか、あらかじめ示し合わせておくわけ。それが整った時点で、辞めます!と高らかに宣言する。後を引継いだ代表が、「小沢の無念を晴らします!」と言えば、自民党としては打つ手ナシだっただろう。
だから、”いま”ではなくて、解散まで頑張り続けるべきだったわけ。
てなことは、ぼくが言わなくても、けっこう誰でも考えることじゃない?
つまり問題なのは、そういう戦略性のなさなのだよ。
そしてこの国のえらい人は、戦略を持たない。考えない。その場その場での、とくにインナーのムードばかりをおもんばかってしまう。外の視点がまったくない。
戦略とは、つまりは、そういう俯瞰で見ることから生まれるのだ。
重ねて言うけど、ぼくは民主党にも自民党にも肩入れしていない。ただひたすら、政局が村の中で決まっていくことを嘆く立場だ。
行き当たりばったりでは、何も生み出せない。とくに政治のような大きなガイダンスを持つべき場で戦略がないのは影響が大きい。
大事なのは、民主党や自民党の政策でさえない、とぼくは思う。実際、両党の政策は方向が同じだ。問題は、戦略だ。戦略抜きで政策を感覚的に場当たり的に打ち出していっても、効果はない。それなりの人が考えれば、それなりの政策は出てきて、さほどまちがえようもないだろう。でも場当たり的に政策を打出しても、それが根付かないんだ。根付かない政策は、何も生み出せないんだ。
問われるのは戦略なのだ。
ああ、でもいったい、戦略的に次の日本を構築しそうな人なんて、自民党にも民主党にも、いないじゃござんせんか。
どうなるのかね、この国は・・・
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