美しいウソの時代は、もう終わったんだね

今日は広告の話であり、この終末が終わったら何がどうなるんだろう、の続きでもある話を書くよ。

たまたま、少し前に録画した番組を見た。見て気づいたのだけど、地震前、つまり3月11日より前の番組だった。そうしたらね・・・CMがたっくさん流れたんだ。もちろん、ACじゃないやつ。

なつかしかったなー!ああ、こんなに明るかったんだ、世の中って!ほんの数週間前の、この国のコマーシャルなのに、遠い昔の、別の国のもののように思えた。

こういう明るい広告の時代に、ぼくたちは戻れるんだろうか。・・・うん、そうだね、ぼくたちはもう、わかってる。もうあそこには戻れないんだよね・・・

そもそも広告は、ここ数年間変わりはじめていた。大げさに言うと広告はもう広告じゃなくなろうとしていた。それがこの誰も想像しなかった大災害で、決定的になろうとしている。リーマンショックでひしゃげていた感覚が、容赦ないほどふみつぶされてぺしゃんこになっちゃったんだ。

20数年前、ぼくは広告代理店に入ってコピーライターになった。コピーライターという仕事がよくわからないままなってしまったので、勉強しようと、いまはなき広告学校に通った。いまはなき雑誌、広告批評が開催した広告に関する学校だった。

前半はいろんな人がやって来てそれぞれ勝手な話をする講義だった。当時の広告は時代にもてはやされていたし、他の分野からの注目度も高かったので、様々な分野の方が講師で来て、ほんとうに勝手なことをしゃべっていった。

その中で、ぼくにとって強烈な印象を残したのが、評論家の柄谷行人氏の講義だった。

彼はなぜかぼくたちにヒトラーの話をはじめた。ヒトラーは『我が闘争』を書いた。この本はヒトラーが”ミュンヘン一揆”に失敗して入れられた獄中で書かれ、1925年に出版された。出版当初はさほどではなかったが、ナチス党人気とともに売れはじめ、やがてベストセラーとなった。

この本の内容は、ヒトラーの生い立ちや、基本的な主張がメインらしいが、群集心理についての考察やプロパガンダのノウハウも書かれているそうだ。柄谷氏によれば、大勢の人々の前で演説をする際、こういう言い方をすると民衆はこう反応する、などと人の心の惹きつけ方まで事細かに書かれているのだという。

つまり、ドイツの民衆は、ヒトラーの演説には演出があると知っていたのだ。ベストセラーとなった『我が闘争』をかなりの国民が読んで、なるほどヒトラーはこんな要領で演説をするのか、と知った上で、その演説を聞き、惹きつけられ、酔いしれた。その結果、ナチス党は第一党になりヒトラーは総統閣下になることができた。

演説を聞く人は、言わばウソだと知ってそれを聞き、それでいて酔いしれるのだ。言ってることがホントかどうかは問われない。ウソならウソでもいい。でもウソのつき方が上手かどうかは問われる。上手にウソをつかれると、うんいいぞ!そのウソ買った!となるのだ。

柄谷氏が広告学校で『我が闘争』をとりあげた理由は、そこだった。広告はウソだとみんな知っている。知っている上で、ウソのつき方の上手なところにダマされる。

この講義には大いに触発された。なるほど!上手なウソつきになればいいのか。美しいウソがつけるように頑張ろう!美しいウソをつく、という倒錯した感覚にも魅惑され、ぼくはコピーライターの仕事にまい進した。

広告は、美しいウソのしのぎあいだった。20世紀まではそうだった。テレビをはじめとするマスメディアが、巨大な消費意欲喚起装置として発展した時代の、必要な要素が、広告という美しいウソの場だった。

高級大型車に乗ったら幸福になれる、などと信じてるわけじゃないけど、この高級車に乗ると幸せになれますよと言われてクルマを買い替えた。この冷蔵庫を買うと家中が明るくなる、はずはないとわかっているのだけれど、家中明るくなるらしいわと冷蔵庫を新たに買った。

いつの頃からか、(おそらく2000年あたりから)広告はそんなウソはあまり言わなくなった。リーマンショック以降、テレビCMはほとんど”お知らせ”になった。ウソもつかないしエンタテイメントでさえなかった。もっともリーチの稼げる、”告知メディア”になった。(最近、モバゲーやグリーに限らずネットサービス事業者のURL告知CMがどっと増えていたでしょ!)

それでもなお、テレビCMにはウソの名残が、残りかすが、かすかな匂いが、漂っていた。ウソのつき方にこだわってきた職人たちの意地が、時代にあらがっていた。ブラウン管から液晶モニターになった、16:9の画面の隅っこに、こびりついていた。

こびりついていた”美しいウソ”を、大津波が洗い流してしまった。たぶん、そんなことが起こったのだと思う。

どんなに美しくても、ウソはウソだったのかもしれない。そんなウソを平気でついていた時代は、いやウソを平気で共有していた時代は、もう再び来なくていいのかもしれない。

企業コミュニケーションはウソがないと成立しないのか?いや、そんなことはない!これからはむしろ、ホントのことだけを生活者と直接交わしあう、素晴らしい世の中になるんじゃないかな。だとしたら、そっちの方が美しいじゃないか!美しいウソなんかつかなくても、ほんとのことを交わしあうことこそが、美しいじゃないか!

でもさあ、だったらね。そのコミュニケーションはもう、”広告”と呼べないんじゃないかなあ。”広告”って呼ばない方がいいんじゃないかなあ。”広告”という言葉には、ウソが似合うから。美しいウソをつかない広告なんて、広告じゃないんだもん。だいいち、そんな広告、つまんなそうじゃないか・・・

美しいウソの時代のおしまいは、広告のおしまいなのかもしれないね・・・

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コメント

  1. 仰る通り広告は「美しい(あるいは面白い)ウソ」です。でも広告って場所では所詮「ホントのこと」なんて意味をもたないし、言ったって(聞いてる人も?)面白くもなんともない。あえていえば広告において「ホントのこと」言うべきならば「広告」すること自体に意味がないと思います。「ホントのこと」言いたければどっか他で言ってもらったほうがいいです。フーテンの寅さんの口上こそが広告の原点であり誠意だと思います。広告をつくる人間の誠意は常に「ウソくさいよりウソをつけ」でしょう。

  2. 伝えること(もっとわかりやすくいうと、「広告主が伝えたい」こと)だけを敷延することがどれだけ不毛なことか、は70年代でも80年代でも、ぼくたちは(もちろん、ぼくたちの先輩達も)知っていたと思います。ウソかホントか、という軸じゃなく、夢があるかどうか、という軸で考えると、この【大震災後】の、この仕事の世界の道が見えてくるんじゃないかな。というか、私はそこに“自分の夢”を見ていきたいと思ってますよ〜(^^)

  3. 「リーマンショック以降、テレビCMはほとんど”お知らせ”…告知メディアになった」というところは、すごく同感。もう、ほとんど全部、そうなった。ここには夢はなかったね。

  4. 広告作る人間に夢がなかったら、夢のある広告、夢をあたえる広告なんてできるわけないと思います。小手先のクリエイティブではもう、無理ということで。でも、もしかしたら終焉をむかえたことで、新しい夢を獲得したのかもしれません。今までとおなじやり方では無理でも、何か方法はあるはず。テレビも広告も。何もかも。

  5. shimizuさん、taxer9さん、遊子さん、コメントどうもです。この記事、意外にバズったみたいで、たくさんの人に読まれちゃった。なんかちょっと、せつなくせちがらいこと書いちゃったもんだ、と、反省。広告がなくなったり、美しいウソが不要になったり、は、しない、と思う。でも、ウソじゃなくてホント、を軸にした、広告とは別のコミュニケーションがいまもやもやと生まれつつある、そしてそれはこの震災で促進されている、気がする。でも気がするだけだから、もうちょい経ってみないと結論は出ないっす。

  6. 20世紀の民衆は「ウソ」を許容する余裕があった、ということでしょうか。この数年は、「ちょっと、それどころじゃないわな」という声が聞こえてきそうです。

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