南相馬の苦悩は終わってない(最前線の医師が託してくれたスライドを公開)

3月29日に福島県南相馬市に行ってきた。その顛末は前回のこのブログに書いたので、読んでない人はできればそっちから読んでください。たった一日で貴重で濃厚な時間を体験できた。

さてその時、友人フルさんが手伝いに行った南相馬市立総合病院。副院長の及川先生がスライドを見せながら当地の医療の現状を解説してくださった。ぼくは衝撃を受け、また自分がこの二年間、いかに被災地の課題に無関心でいたかを思い知らされた。

せめてできることとして、そしてフルさんもそのためにぼくを連れていったのだろうけど、ここで及川先生の話を書きまとめて、少しでも多くの人たちに読んでもらうように努めてみたい。及川先生が、院長の金澤先生のお許しもいただいた上で、スライドのファイルをぼくに渡してくれた。82枚にも及ぶスライドのエッセンスとして、ここでそのうちの十数枚をお見せしながら、ぼくなりに解説をしてみたいと思う。

ぜひ皆さん最後まで読んでもらい、できればTwitterやFacebookで拡散してもらえればありがたい。とにかく、少しでも多くに知ってもらうことからはじまるのだと思うので。

まず南相馬の位置を皆さん知ってもらいたい。

福島県の太平洋側・北寄りにあるのが南相馬市だ。豆知識的に言うと福島県は南北に伸びるふたつの山脈、奥羽山脈と阿武隈山地を境界線に3つの区域に分けて捉えられる。西から会津、中通り、浜通りと呼ばれている。福島に行くと天気予報でもこの3区域それぞれの予報が発表される。天候が分れるだけでなく文化的にも3つは少しずつ違う、別々の歴史を持っている。いま大河ドラマで注目の会津は、南相馬とは違う地域なのだ。


南相馬は一次産業人口が全国平均より高い。一方で年少人口が少し平均より高く、また老年人口がぐんと高い。及川先生によればこれは、三世代で一緒に住んでいる家庭が多いことの証しらしい。核家族だけより、おじいちゃんおばあちゃんも同居していれば子育てもしやすいのだろう。とても素敵なコミュニティであったのではないだろうか。

その素敵なコミュニティは、震災と原発で一変してしまう。

太平洋に接している南相馬は、東日本大震災で震度6の地震に見舞われ、さらに8.6mの高さの津波に襲われた。それだけでも大変だったわけだが、でもそれだけなら3日間程度で医療機関は平常を取り戻せていたはずだ。

事態を深刻にしたのは原発との距離であり、2度にわたる水素爆発だった。

水素爆発が起こったことはぼくも知っていた。でもそれが福島に引き起こした混乱と不安をぼくはまったくと言っていいほど知らなかった。避難しろと言われること、そして指示や命令がころころ変わること、何より真実が見えないことがどれだけ不愉快で不安に陥れられるか。ぼくたちは想像してみなければならないだろう。

そして震災から数日後に2回に分けて”指示”が出された。

及川先生によれば、この”指示”と”命令”とは違うのだそうだ。”命令”は従わねばならないし、だからこそ出す側には責任がある。避難を政府が命令すると、政府は非難する人びとに責任が生じる。ところが指示の場合は、責任は生じないのだそうだ。誰がどんな意図で”指示”にしたのかわからないが、巧妙さを感じざるをえない。

とにかく南相馬には3月15日に「屋内退避指示」が出された。屋内退避?避難ではないのだ。屋内に退避せよ。つまり家から出るなと。いったいそれでどう暮らせというのか。どういうつもりの”指示”なのか。南相馬とこの町の医療が振り回される日々のはじまりだ。

上の図を見ると大いに混乱するだろう。原発20km圏内は避難指示区域だ。指示とは言え、とにかくみんな避難するしかない。一方、南相馬の西側、飯舘村も避難指示が出ている。南相馬の20km圏外であり30km圏内である地域はビミョーな場所になってしまっている。避難しなければいけないわけではない。でも屋内退避しろと言うのだから、なんだか普通には暮らせないぞというモヤモヤした空気に包まれるだろう。

さらに困ったことに、多くの民間企業では50km圏内への社員の立ち入りを禁止してしまった。なんということだろうか!政府はあくまで20km圏内に避難の”指示”を出した。だから20km圏外の南相馬には大勢の人がいる。なのに民間企業が50km以内に入れないようだと、企業が提供するものが一切南相馬に届かなくなってしまう。だからすぐに食料が不足し、みんな困り果てたという。

食料が届かないだけではない。例えば、マスメディアも南相馬まで取材に来ない。及川先生は某全国紙の記者から取材の申込を受けたが、会社の命令でそちらに行けないので50km圏外まで出てきてほしいと言われたそうだ。これにはびっくりした。ジャーナリズムは公器ではないのか。困っている人がいてその窮状を取材するのに、現地に行くなと?そんな命令を出す会社も会社だけど、それに従ってしまう記者もどうかと思う。

また医療関係のスタッフや車両なども南相馬まで来てもらえなくなってしまった。緊急車両が入ってこれない。医師や看護師も来てもらえない。なんとも不条理ではないだろうか。そもそも、避難区域とは別に南相馬が”屋内退避区域”という中途半端な地域指定をされたのはいったいどういう考え方なのだろう。そう思っても問いかける相手もいなければ世間に訴えたくても取材にも来てもらえない。なんとも心細い日々だっただろう。

そんな中、防災大臣がやって来た場での議論で、入院患者の避難が決定したという。

3月19日〜20日には患者の移動が行われた。福島医大を経て、ほとんどは新潟の病院に移されたという。福島県内に移動してまた避難となったら二度の転院になってしまうから、いっそもっと遠くへということだったそうだ。

そんなこんなで、入院患者が転院したのはいいことだが、スタッフも多くが避難してしまった。入院患者はいなくなっても、診療に来る住人はいるので大変だ。

さらに4月11日には新たな政府の指示が発表された。

”緊急時避難準備区域”。なんだろう、この言葉は。こういう言葉を産み出すのはどういう意図なのだろう。何かあったら避難できるよう準備しなきゃダメな区域。避難するか、しないか。どっちかではダメなのだろうか。

自主的に避難するように。子供や妊婦は区域に入らないように。なんと中途半端な。この区域指定は、9月になり解除された。だが半年間もこんなビミョーな区域指定を受けて、南相馬は地域社会として大きく崩れてしまった。

もともと7万人あった人口が、一気に1万人以下になり、いまはまた戻ってきたものの7割といったところだ。さらにその年齢構成の変化に注目したい。

このグラフを見ると一目瞭然だが、子供たちが大きく減ってしまっている。最初に書いたように、南相馬は三世代で暮らす素敵なコミュニティだった。年少人口が平均より多い町だったのに、子供の数が減ったのは、地域の活力と未来が大きく損なわれたに等しい。

「子供は入らないようにすること」そんな中途半端な区域指定を半年間もされてしまった。その間に別の町に住みはじめて友だちもでき、地域に溶け込んでしまうと、そこを離れるわけにはいかないだろう。

地震と津波は南相馬で多くの命を奪い、家や田畑を破壊した。だが原発はさらに追い討ちをかけるように地域社会を一度崩壊させ、その余波はまだまだ続いている。

南相馬にはいまだに精神的な意味での余震が続いているのだ。そしてその余震を引き起こしたのは行政であり、社会だ。

だからぼくたちはどうすればいいのだろう。ぼくにはまだわからない。わからないけど、考えはじめる、ということなのだと思う。

ぼくは南相馬にふれあった。ふれあった縁を大事に受けとめ、少しずつでも考えていこうと思う。このブログを通じて、南相馬について皆さんが知ってもらえればうれしい。

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