ハリウッドの「スーパー8」は日本映画の「奇跡」になる

先週の週末は『奇跡』を観た。そしてこの土曜日は「スーパー8」を観た。どっちも素晴らしい映画で、よく似た物語だった。

『奇跡』は九州の少年少女の話だ。鹿児島と福岡で離れ離れに暮らす兄弟が、”新幹線がすれ違う時、願いを言うとそれがかなう”という奇跡を信じて、仲間たちと冒険に出る。

『スーパー8』はアメリカの小さな街の少年少女の話だ。夜中にこっそり映画撮影に出かけたら列車の大事故に遭遇。回り続けた8ミリフィルムに驚くべき映像が映っていた。さらわれた少女を助けに、少年たちは冒険に出る。

どちらも子供たちの冒険の話なのだ。『スーパー8』を観ながら、ぼくの頭の中のスクリーンでは『奇跡』のシーンが重なって映し出された。子供たちが親に隠れて日常を抜け出し、特別な体験をする。わくわくするモチーフだ。両方ともにそんな胸を熱くする種から生まれた映画だ。だから似てるんだ。同じ物語だ。

とは言え、二つの映画はまったくちがう。『スーパー8』はとにかく、驚くべき映像だ。最初の列車事故のシーンを見るだけでも映画館に行く価値はある。それだけでなく、全編VFXのオンパレードだ。いったいいくらかかっているか、見当もつかない。メジャーな役者がひとりも出演していないのは、その分CGにこってり予算をかけたかったからだろう。

一方、『奇跡』はお金がかかっていない。セットは一切使ってないだろう。全編ロケだと思う。是枝監督がそういうドキュメンタリーっぽい演出をめざす監督だからでもあるが、日本映画だからだ。それにどうやらテレビ局もついていない。テレビ局のついていない日本映画は、予算が少ないのだ。

『スーパー8』と『奇跡』がよく似たモチーフを扱っているのに、表面上まったくちがう映画であることは、ハリウッド映画に対し日本映画が進むべき姿のヒントになるかもしれない。

映画を作ろうという時、ハリウッドというシステムがそこにあれば、「子供たちの冒険』を、いかにエンタテイメントとして広げるか、という発想になるだろう。実際J.J.エイブラムズは当初、8ミリ映画に夢中な少年たちの映画を作ろうと思っていた。でもそれだけだとなあ、ということで、別の企画で考えていたモンスター映画のプロットを合体させたのだそうだ。

一方、是枝監督は、九州新幹線を題材に子供たちの映画を作ろうと考えた。オーディションをしたところ漫才師まえだまえだの兄弟に出会った。こいつらはすごい!ってことで、鹿児島と福岡で離れ離れの家族の物語に変えたのだという。

プロットを膨らませる方向がまったく違う。

映画の方向も正反対だ。子供たちの冒険を、J.J.エイブラムズが徹底的に空想にしていく。ありえない物語、起こりえない映像を作り上げていく。

是枝監督もファンタジーを描いている。でもひょっとしたらあり得る話だ。それに起こりえない事件は勃発しない。宇宙からも地底からも謎のモンスターは現れない。そればかりか、『奇跡』の演技は、これはほんとうに演技なのだろうか、というスタイルだ。とくに子供たちの芝居は、芝居には見えない。『奇跡』は決してドキュメンタリーではないし、これはこれでウソなのだが、ホントに見えてしまうウソだ。

日本映画はこっち行くべきなのかも。ぼくはそう思った。ハリウッドには、お金のかかるウソの映像化ではかなわない。到底かなわないのだ。そんな勝負してはいけない。

でも、少年たちの冒険というモチーフを、お金のかからない、ウソに見えないホントみたいな映画にすることはできる。できあがった映画の価値は、かかった予算に比例しない。『奇跡』がぼくにもたらした感動は、決して『スーパー8』に対して劣らないのだ。それぞれ、いい!という感じ。

ただ残念なことに、『奇跡』は興行ランキングにはまったく入ってこない。そこが課題だなあ。テレビ局のバックアップ抜きでは、映画はなかなかヒットしないのだ。

『奇跡』のラストで、まえだまえだ演じる兄弟は、離れ離れのままでもいいと感じたらしいことがわかる。『スーパー8』の少年は、亡くなった母の形見のペンダントをあえて手放してしまう。母親がいない状況を認めたのだろう。

”家族は絶対に一緒にいなければならない”・・・ってわけでもないのかもよ。2つの映画とも、そんなラストになっている。これも面白い点だなあ・・・

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