内田樹『街場のメディア論』から〜コンテンツは誰かさんへの贈り物

ウカウカしている間にもう月曜日だ。先週は更新頻度が鈍化して、『街場のメディア論』について書き終わらないまま週を越してしまったぜ。ほんとにウカウカしていたね。

さてその『街場のメディア論』をぼくは「3つに分かれる」と受けとめた。だから今日が最後、完結編。実は、ぼくがここでこの本について書こうと思ったのは、3つ目のパートに感銘を受けたからだ。そしてなにげにカテゴリーを”iPad Messages”に入れてあるのは、この3つ目のパートが、iPadについて考えてきたことと関係しているからなんだ。

3つ目のパートは、第6講「読者はどこにいるのか」第7講「贈与経済と読書」第8講「わけのわからない未来へ」の3講分から成る。メディア論と言いながらメディア論は2つ目のパートの部分で、3つ目のパートでは読書論、あるいは表現とは何かについて書いている。

例によって散漫な内容をひとことでまとめるのは難しい。多岐に渡りあちこちに話が飛ぶわけだけど、例えば彼は「書物は商品ではない」と言いきる。740円で書店で売られている新書の中で彼は、これは商品ではない、と言ってのけるのだ。すごいでしょ。

書物が商品という仮象をまとって市場を行き来するのは、そうした方がそうしないよりテクストのクオリティが上がり、書く人、読む人双方にとっての利益が増大する確率が高いからです。それだけの理由です。書物が本来的に商品だからではありません。

なんて無茶なことを言い出すのか。いや、でもなぜか、納得してるしうれしくもなってる自分がいるぞ。なぜだろう。

そして彼は著作権に対して否定的なことを言い出す。

著作権というものはたしかに価値あるものですが、それに価値を賦与するのは読者や聴衆や観客の方です。紙やCDや電磁パルスやフィルムそのものに価値が内在するわけではありません。

なんだかだんだん、そうそう!と言いたくなってこない?うれしくなってこない?

つまり彼は、本を書く人にとって大事なのは、自分の本を読みたいと思ってくれることであって、自分の本にお金を払うことを優先させてはいけないんじゃないかと言っているのだ。著作権を守ろうと躍起になっている人は、お金を払わせる方を優先させていないか、と問いかけている。

そんな論をいろんな話を交えながらぐいぐい押し進めたあと、”贈与”の話になっていく。贈与経済はすべての経済活動の起源なのかもしれないという話をする。ある部族が自分たちの活動領域の境界に何か特産物を置く。となりの部族がそれを手にし、自分たちの特産物を返礼として置く。そうやって交易がはじまったのだろうと。その時、お互いの特産物の価値は相手にとっては”よくわからないもの”だったはずだと。

”価値がよくわからないもの”に返礼をする。価値がわからないけど、どうやらこれは”贈り物”らしい、だから返礼をしよう。相手の部族がそう感じれば、それは”価値”あるものになる。

著作物だって、そんなもんじゃないのか、と言いたいわけだ。誰かが、よくわからないけど、自分宛ての贈り物のようだな、うれしいな、ありがとう、と感じとる。そんな反応があれば、価値が生まれる。

ちょっと長いけどまた引用。

「著作物それ自体に価値が内在している」というのが著作権保護論者たちの採用している根本命題です。読者がいようといまいとそれには価値がある。だからこそ、それを受け取った者は(その価値を認めようと認めまいと)遅滞なく満額の代価を支払う義務がある。このようなロジックを掲げる人は、「贈与を受けた」と名乗る人の出現によってはじめて価値は生成するという根源的事実を見落としています。

ちょっとややこしい部分を引用しちゃったかな。実際に読んでもらえば、もっとわかりやすく語っていることがわかるのだけど。ようするに、著作物が価値を持つのは、価値を認める相手が出現した時なのだと言っている。価値を認める相手がいない著作物なんて価値がないよ、と。

ぼくはこうした『街場のメディア論』が唱える”表現とはありがとうと言われて価値を持つ”という論を読んで、何かを言葉や絵や映像にするということの原初的な意義を感じとった。そして、デバイスだ電子書籍だと最先端の議論をする際に、この原初的な感覚を忘れてはならないと思ったんだ。

表現は「ありがとう」と言われて価値を持つ。いや、ありがとう、じゃなくてさえいい。何か他人からの反応があれば、それが表現であり、表現をする意義なのだ。

例えばこのブログ。6月以降、更新頻度が高まっている。毎日のように書いている。どうしてかというと、前よりも読んでくれる人が格段に増えたからだ。アルファブロガーと言われる人はもっと多いのだろう。このブログはそこまでではないのだけど、でも毎日たくさんの人が読んでくれる。コメントを書いてくれもする。Twitterで感想をつぶやいてくれたりする。うれしくなって、日々書くようになったのだ。

みんなが読んでくれるから、うれしいんだ。そこには金銭化しようのない価値がある。喜びがある。だからどんどん書きたくなる。

もっと原初的な話をしていくとね。表現を仕事にする人は、表現を仕事にしたかったかどうかの前に、表現をすることが楽しかったからだろう。表現をして、誰かに見せたら何か反応をもらえた。それがうれしかったからではないだろうか。

教科書の落書きの話をこないだTwitterで交わしたのだけど、授業中に教科書に絵を描いて、パラパラマンガにしてみたりして、それを友達に見せたりなんかして、ウケちゃったりなんかして、もう一回描いちゃったりなんかして。そんなことが、表現することの最初の最初なんじゃないだろうか。

小学校のころ、ぼくは先生に命令されたわけでもないのにクラス新聞をつくって壁に貼った。記事とともになんと、マンガも描いて載せた。面白いとか、もっとこうしろとか言われた。ぼくは絵がチョー下手だ。いまはそう思ってるけど、その頃はそんなことまったく気にしなかった。五年生になったら、友だちと劇団を結成し、ほとんどコントの芝居をクリスマス会とか機会があるたびに上演してウケた。(その時こいつに脚本を書かせたらきっと面白いにちがいないと目をつけた男は、いまや有名な劇作家になっている)

クリエイターとか、なんとかディレクターとか、かんとかプロデューサーとか、作家ですとか、イラストレーターですとか、なんとかかんとか、そういう人たちも、原点は、教科書の落書きだったんじゃないか。クラスの出し物を演じてたんじゃないのか。そしてそれがクラスでウケた!そんなことがすべてのはじまりじゃないのか。

iPadにぼくたちが色めき立っているのは何なのか。考えてみれば、ぼくたちが頼ってすがってきた、ごはんのタネであるマスメディアが傾きかけ、iPadはその流れを加速するかもしれないのに、ぼくたちは何にそんなにコーフンしているのだろう。

それは、教科書の落書きを世界中の人に見せることができるからなんじゃないだろうか。ビジネスモデルがどうしたとか、中抜きによって収益構造がどうのとか、そんなことは二の次でよくて、ぼくたちの楽しい落書きを、直接見知らぬ人に見てもらうことができるんだ。世界中の見知らぬ人が”わけがわからないけどいいと思ったので、ありがとう”と言ってくれるかもしれない、ということなんだ。

もちろん、ビジネスモデルがどうのも、勉強しないといけないよ。ありがとうを、どうすれば言ってもらえるかには作戦が必要だよ。そのへんを馬鹿にしてるんじゃない。でも、大事なのは、落書きにありがとうをもらえることなんだ。そこをちゃんと感じとっていないで、ビジネスモデルを振りかざしても意味がない。ビジネスモデルのことだけ考えてる人は、失敗すると思う。落書きを見せることにプリミティブな喜びを感じていることに意義がある。その気持ちがあれば、なんとかなるって気がする。

落書きに立ち戻ろう。そこがはじまりであり、そこにしか答えはない。

『街場のメディア論』は、ぼくをそんな風に刺激してくれた。なぜか幸福な気持ちになれた。たまたま手にとった”わけのわからない”書籍に、ぼくは大いにありがとうを言いたい。こんなことがあるから、ぼくたちはまた本や音楽や映画に出会いたくなるんだね・・・

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コメント

  1. 市場原理に関係なく、供給側と言うか、流通側のエゴで、価格が、同一価格に設定されています。扱う処理数が多すぎて、困る。という50年前くらいのニーズに対応した処理だったと思います。それを、まだやっとるのかって感じはしますね。本、音楽、映画。PSぱらぱら漫画はね、国語の本が多かった。なぜなら、ページ数が多いから。

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