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コピーライター→映像製作会社ロボット→広告代理店ビデオプロモーション→再びコピーライター(フリーランス)。 メディアとコンテンツの未来を切り拓くコミュニケーションをデザインします。講演・執筆依頼もお気軽に!

iPadは「セカイテレビ」だ!(と思う)〜VODに未来はあるのか・その8〜

iPadの予約開始が近づき、Twitter上でもその話題で盛り上がってきた。そうした中で、iPadは持ち運ぶにはいろいろ問題あるしネットブックの代わりにはならない、という意見もいくつか読んだ。

それはそうだと思う。

でも、iPadはPCの代わりに使うもんじゃないと思うのだけど。だからと言ってiPhoneのでかいやつ、ともちょっとちがう。iPadは、まったく新しいモノなのではないかな。

別の見方をすれば、iPadはテレビに代わるモノなのだと、ぼくは思ってるんだ。

これだけだと、あんた何言ってんの?って思われちゃうだろうけど。

で、突然話は変わるのだけど、『お前はただの現在にすぎない』という本がある。ぼくは学生時代だった80年代に読んだのだけど、1969年に出版されたもの。30年前にすでに古本屋じゃないと探せなかった伝説の書籍だ。でも2年前に復刊されてアマゾンで買うこともできるよ。

お前はただの現在にすぎない テレビになにが可能か (朝日文庫)萩元 晴彦,村木 良彦,今野 勉朝日新聞出版このアイテムの詳細を見る

テレビとは何かを問いかけながら当時のTBS闘争などを伝えたもの。この本の結論はタイトル通りで、「テレビとは現在にすぎないのだ」ということ。つまり、テレビはその即時性に価値があり、それ以上でも以下でもないのだと、そこにテレビの真の可能性があるのだと、そんなことが書かれている。(もう30年近く前に読んだので細かな点は憶えていないけどね)

ぼくはこの本に強い衝撃を受け、その後のテレビの見方に少なからず影響されたと思う。

1962年生まれでまごうかたなきテレビ世代のぼくは、とにかくテレビが世の中の窓だった。家の真ん中には常にテレビがある、という生活だった。朝起きたらテレビをつけ、帰宅したらまたつけて、テレビを消す時が寝る時。そんな生活を何十年も続けてきたのだ。

ところが、そんなテレビ中心の生活が、変わった。朝起きてもテレビを真っ先にはつけない。帰宅してもつけない。テレビを消す時と寝る時はシンクロしない。

これまでのテレビの代わりに、PCかiPhoneをながめている。何を見ているかといえば、Twitterのタイムラインだ。みなさんのつぶやきを、朝起きては読み、帰宅してはながめ、寝る時にようやくやめる。テレビとちがうのは、iPhoneで通勤や移動時にも読むし、会社のPCでも読む。いままでのテレビよりもTwitterの接触時間は長いということだ。

どういうことだろう?こういうことだ。

Twitterよ、お前はただの現在にすぎない。

Twitterの中身は”みなさん”なんだから、”すぎない”ってのは失礼かもね。でもね、そういうことだと思うんだ。

さて、ここでiPadの話に戻ろう。

iPadをぼくはどう使うだろう。

少し前までは、帰宅したらすぐにテレビ、だった。いまは帰るやいなや、電車の中でiPhoneで読んでいたTwitterのタイムラインの続きを読んだり、みなさんのつぶやきで得たURLをRead it laterからたどって読んだりしている。これを、例の小さな小さな書斎のMacBook Proでやっている。パパったら最近、帰るとすぐに書斎にこもっちゃうのよねえ、となっている。もちろんぼくだって、リビングのソファでタイムラインを読みたいんだ。妻や子供たちとしゃべりながら、Read it laterしたいんだ。

iPadがあれば、それができるじゃないか!

ね、だからiPadはテレビに取って代るモノなんだよ。これは実際に小一時間ほどiPadをいじりたおしての実感。PCの代わりに使うモノじゃない。ごろごろしながらリラックスして眺めるものだ。かなり受動的に使うものなんだ。でも、Twitterを通じて世の中を見てる人には、つまりソーシャル空間がメディアのフィルターになる生活になった人には、こんなに便利でステキなものはないはずだ。

PCのじゃまっけなキーボードは付いてない。iPhoneだとつぶやきからWEBに飛んだ時にどうしても画面が小さくて見づらかったけど、十分な大きさで見ることができる。Twitter経由で世界を知るにはこれ以上ないツールになるだろう。

つまりこういうことだ。

iPadよ、お前はただの現在にすぎない。(と言いたくなるはず)

そしてiPadを通じて知ったテレビ番組を見たりもするだろうね。え?いまiPhoneAppについての番組やってるの?じゃ、テレビつけよう、てなことは、実際こないだあったし。

さらに、そこにはVOD的な映像コンテンツが入るスキマもできてくる。いまだって誰かのつぶやき経由でYou Tubeの動画を見に行くことはあるでしょ?面白そうな映像コンテンツの予告編をYou Tubeで流しておいて、Twitter経由でそれを見た人に、iPadアプリ版の数百円の本編を買ってもらう流れはつくれるわけ。

WEB上で課金コンテンツは売れないよ、って?そうだね、WEB上ではね。でもiPadならちがうのかも。おそらくiTunesのアカウントをそのまま使うことになるので、購入までスムーズじゃないかな。課金が成立するかどうかって、ほとんどそこだったのだと思うよ。実際ぼくも、iPhoneアプリはすでに軽く数千円使ってる。WEBだと”有料”って知った瞬間に「えー!?有料かよ!」って思ってたくせに、アプリだと「うーんどうしよ。評判いいし買っちゃうか、300円なら」なんて買っちゃうこと多い。大して使わなかったりもするのにね。

VODサービスが日本ではなかなかこれまで進んでこなかった。アメリカのようにCATVが普及しておらず、VODサービスをテレビとつなげるハードルが高かったせいもある。メジャーな映像コンテンツがVODにあまり出てこなかったのも理由のひとつだ。そしてWEB上では課金コンテンツがあまり成立しなかった。

それが思わず、iPadによって状況が変わるのではないか。映像コンテンツ流通にこそ、大変革が引き起こされるんじゃないか。テレビ受像機によってもPCによっても越えられなかった壁が、iPadがテレビにとって代わることで、越えられるのではないか。

もちろん、普及の度合いにもよるし、簡単なことではないだろう。でも、映像コンテンツにとってエポックメイキングなツールなのはまちがいないと思う。そんな期待で、5月28日を、みんなで待とうじゃないか。どお?ワクワクしてきた?

さて今回の”iPadはセカイテレビ”というタイトルにはもう少し語りたい意味があるのだけど、それはまた次回ね。このあともう少し、Twitterを眺めてもう寝るからさ。

AISASにはかねがね懸念があった〜広告の新たな地平線・その10〜

さて連休中にTwitterでもらった知見の中でも、@higekuma3さん(さんはアカウントにすでについてるけど)のブログを読んで得たものからは、すこぶる刺激を受けた。「IT系 企画マンの日記」というタイトルで、この数日はAppleの戦略について解説されている。

その最初の記事「Appleの戦略 巨大アップルモールの実現」からぜひ読み進めてみてほしい。笑えるギャグも満載なので楽しく読めるよ。こういう書き方は好きだなあ。

読んでいくと、なぜAppleが(最近みんながよく話題にするように)あれほどFlashをいじめるのか、なぜ突然他社の通販サイトでApple製品の取扱いをやめさせたのか、などなどがよくわかる。ジョブズの征服欲(?)ってすごいなあ。

そうやってAppleの野望をこってり説明した上で・・・

でも、どうしてなんでしょうね。

こんなことをしているにもかかわらず、

まったく、腹がたたないのです。

MACユーザだからでしょうかね。

と書いておられる。Mac一途でやって来たぼくも、まったく共感してしまうところだ。

あ、今日はここを掘り下げるつもりじゃなかった。”AISASってどうなの?”ってことが主題のはずだった。

上の記事の最後で@higekuma3は、今度はアプリ漬けのAppleがケンサク漬けのGoogleに勝利するだろうとした上で、こんなことを書いている。

なぜなら、googleの検索には、半日前になにをすべきだったかは出ますが、

今、何したらいいかの回答が、ないからです。

世の中の人は、今、何をしたらいいかの回答を今、ほしいのです。

これには、twitterを利用しないと(編集=人間の力)を借りるしかないのです。

編集を排除することを本質とするgoogleエンジンには、実現できない結果です。

なるほどー!これはこのところぼくが書いていたこととも関係するなあと、思ったわけ。

で、ようやくAISASにふれるんだけど、これ、知ってるよね?Googleの登場で、広告コミュニケーションの流れは、Attention(注意)Interest(興味)Search(検索)Action(行動・購買)Share(共有)になったのだと説明されるようになったわけ。

これについてぼくは、かねてから「そうなの?」と感じてた。いや、これがまちがっていたと言うより、これですべてを説明しようとしていた風潮に疑問を持っていたの。魔法の呪文のように語られすぎていたんじゃないかと。

どこに疑問を持ってたかというと、InterestからSearchへの流れ。AISASの説明としては、AttentionとInterestがとくにマス広告の役割だと解釈されていたと思う。でも例えばテレビや新聞の広告で瞬間的に興味を持ったとしても、PCを開いて検索するまでには簡単には至らないのではないか。少なくともそのためには相当な量の広告出稿が必要なのではないかと感じていたわけ。

前回書いたことともすごく関係するのだけど、リビングのソファでテレビを見る状況と、あるいはダイニングテーブルで新聞を読むことと、どこかの部屋(ぼくで言うと小さな小さな書斎)の”デスク”でPCを開く状況には、ものすごく”距離”があったのではないか。

また別の視点で言うと、上の@higekuma3の意見でもGoogleでは”今”何をしたらいいかは検索できないとある。つまり、Googleは「すでに何をしたいかがわかっている」状態の時に使うものなのだ。この連休中のぼくの行動で言うと、『第9地区』はどの映画館でやっているか、家族で行くホテルバイキングはどこがいいか、息子がテニスの試合に間に合うためには何時に家を出ればいいか、を検索した。その前にある、「この休みに家族でどこへ行くべきか」は検索できない。ホテルバイキングに行こうと決めるから検索するのだ。

AISASに感じていた疑問も、みんなそうそうCMでやってたことを能動的に受けとめないし、検索するってものすごく主体的な行動で、みんなそんなに「自分が何をしたいのか」を自覚できてないんじゃない?ということだったんだ。

AISASはGoogle登場時に広告コミュニケーションをマクロな視点で戦略的に語るにはとらえやすかったが、これをそのまま戦術レベルに使おうとするといろいろな点で無理があったのではないか。そういう使われ方は前提としていなかったのではないか。いわゆる「言葉だけ独り歩き」してしまっていた感がある。

それが、ソーシャルの登場ではっきりしてきた。ソーシャル空間は、時として「自分が何をするべきか」を教えてくれるのだ。あるいは、「自分が何をしたいのか」がわかってしまったりするのだ。そうやってとらえていくと、「検索する=Search」とはかなり部分的な要素にすぎないのだと思えてくる。

前々回の記事の図について@hhoshibaさんに広告という言葉の再定義と、Googleなどはどう位置づけるのかといコメントをいただいたのだけど、こうして考えていくと、答えがちょっと見えてきた気がするぞ。・・・なーんて安直に書くとあとで困りそうでもあるなあ・・・

iPadはショートムービーを押し上げる?〜VODに未来はあるのか・その7〜

広告の未来像とVODの可能性について、ソーシャルの影響にふれながら書き進んでいる。これどこまで交互にいけるのかな?あまり先を決め込まずに書いてるので、途中で突然方針変わること、ありってことで。

今日はiPadとVODについて。と言っても、ぼくはiPadに一回だけ、ほんの少しだけ触っただけなのであまり胸張って言えないのだけど。でもちょうど、Tech Waveで湯川さんが「iPad入手1週間、外出時に持ち歩かなくなった」と題した記事を書いていた。これはiPadはどんなツールなのか、実感として伝わる内容。簡単に言えば、持ち歩いても使う機会はあまりなく、自宅で使うにはいいだろう、ということだった。

この意見は、どれくらいピンとくるかなあ。ぼくは、なるほどなるほど、と思ったのだけど。

ぼくの家には、小さな小さな書斎があって、MacBook Proを置いて企画書作ったりメール書いたりWEB見たり、そしてTwitterでつぶやいたり、している。このWEB見たりつぶやいたりって方が意外に問題。仕事としてではなく、WEBをあまり明確な目的もなく眺めていくとか、Twitterをだらだら読んで時折誰かと話したり、教わったWEBを見たり、する。そういうリラックスしていろいろ見たい時、書斎はちょっとなあと思う。

そこで、リビングのソファにMacBookを持って行く。うーんでも、ソファでノートPCって、ちょっとなんだなあ。そこで、iPhoneで見たりしてみる。うーん画面ちっちゃいよなあ、と思う。

そうか、こういうの、iPadだといいのか。そこで、湯川さんの記事になるほどと感じたわけ。

そんな風に、iPadをソファでごろごろしながら使う状態をイメージした時、そこでTwitterやWEB以外に何をするといいだろう。何がぴったりくるだろう。もちろん、電子書籍!というのがいま盛り上がってることだよね。さらに言うと、映像コンテンツも、いいんでないかと思うんだ。

実際、このところ多様なiPad用電子書籍のデモ映像があちこちで紹介され、話題になっているけど、それらは映像的な要素をふんだんに取り入れたものが多い。だったら映像、でもいいんじゃないか。

では、それは「映画」がいいのだろうか。もちろん、それも有りだろう。でもあの端末で2時間映画を見続けるのはちとキビシイんではないか。むしろ、5分とか、10分とか、15分とかの長さがいいのではないか。

映像コンテンツは、劇場用に作られた90分〜2時間の映画か、テレビ放送用に作られた30分とか1時間の番組か、その2種類が大半を占める。その長さを規定していたのは、それぞれのメディアだ。コンテンツを見る場所だ。状態だ。わざわざ劇場に行って恋人なり家族なりと娯楽を楽しむのに、2時間がちょうどいいのだろう。テレビ放送は1時間ごとに編成していった方が都合がよかったのだろう。

映像コンテンツの長さは、そんな理由で決まっていたにすぎない。iPadをソファでごろごろ眺める、という状態にふさわしいのは、いままでで言う”ショートムービー”なのではないかな。

さらに考えていこう。ぼくは前にも書いたように、ケーブルテレビのVODサービスに加入した。ところが意外にあまり利用していない。それは見たいものが少ないとか、インターフェイスの問題とかが基本的な理由としてある。でももうひとつ、”長さ”の問題もあるのだと思う。

家族との暮らしの中で、リビングにあるテレビを、2時間同じコンテンツに使いつづけるのは、けっこう微妙なものなのだ。パパがひとりで、「ターミネーター4」だのを見るのは、なかなか言い出しにくい。それに父親としては、子供も一緒に見たいと言ってくれるものじゃないと、2時間テレビを使いつづけにくいのだ。

いかんせん、子供たちが寝室に行ったあと、夜中ぐらいしかチャンスはない。そこで、夜中の12時から2時間の映画を見るのは、土曜日の夜ぐらいしか有りえなくなってしまう。

だったらもっと短いものの方がいいのではないか。5分とか10分のものなら、昼間のちょっとした時間に、夜寝る前のほんの隙間に、楽しみやすいのではないか。

そうやって考えていくと、iPadをはじめとしてタブレットがどんどん世の中に出てくることは、映像コンテンツと人びとの関係を大きく変えていく気がするんだ。何しろ、これまで映像コンテンツは、映画館かテレビ放送で見るしかなかった。そしてその二次使用としてのDVDしかなかった。”はじめにタブレットありき”で映像コンテンツを制作し配信していく、そういう状況になった時、1時間とか2時間とかのこれまでの長さに必然性がなくなってくるんじゃないか。

それがいいのか悪いのかはわからない。ただとにかく、”変化”が起きるのだと思う。変化が起きるのなら、それを面白いと捉えようじゃないか。みんなで面白がろうじゃないか。ひょっとしたら映像表現の未知なる荒野がそこには開けているのかもしれないよ。

iPadでみんなのつぶやきを読んでいるうち、「このショートムービー面白いよ!」と誰かが言う。さっそくその予告編を見る。面白そうだってんでiPad上で購入し、見てみたら、なるほどこれは素晴らしい!そんな風に映像を楽しむ状況が、やって来るんじゃないかなあ。そう思うと、iPadの日本発売が、待ち遠しくってたまらない!

ソーシャルで広告はイキイキする!〜広告の新たな地平線・その9〜

今日の記事は、前々回のこの図の続きの話です。それなんだっけ、って方は復習してみてね。ソーシャル化でメディアとぼくたちの関係が変わろうとしている、という内容だったね。

そして上の新しい「図」を見てみましょう。

これまでの広告の仕組みは、上のようなものだった。ネットの登場以来、”いかに購買(会員獲得・売場誘導など)に結びつくか”が広告で問われるようになった。マスメディア時代までは、なんとなく面白い広告をテレビや新聞で展開すれば認知が上がってそれでよかったのが、いまはROIなんてことで具体的な効果が問われる。

ネット広告の場合は、そのメディアへのアクセスから誘導したいサイトへバナーなどをクリックして来てくれましたか?ということが具体的な数字で問われることになったわけ。

UU数やPV数(ネットメディアに来る人数やあちこち見てくれてるかどうか)が問われ、そこに置くバナーのCTR(どれくらいの割合でクリックしてくれるかどうか)が問われるキビシーイ世界に広告がどんどん入り込んでいった。

ただし、ソーシャル以前は、それらのメディアは点在していた。そのことは前の「図」の時に書いた通り。

この仕組みには限界があって、巨大なPV数を誇るYahoo!であっても、そこに行く習慣がない人には届かなかった。それが”点在”ということの意味。Yahoo!でいくらデモグラフィックターゲティングだの行動ターゲティングだのを駆使しても、そこに行かない人には絶対に届かないわけ。だからWEBマーケティングでは”点在”の”点”をいかに増やすかに主眼が置かれ、アドネットワーク使おうか、なんてことになっていた。

そこにソーシャル化がやって来た。しかもすごい勢いで広がっている。前の「図」のようなことになっている。そしてみんなTwitterにどっぷりハマらなくても、知らず知らずのうちに「面白いこと、興味深いことをみんなに教えてもらう」状態になってきている。

そうすると、広告の仕組みは上の図の下のように変化させることになるんじゃないかな?いままではYahoo!でバナーだけ置いてたのを、Yahoo!上で「何か面白いコンテンツ」を置くことにする。そうすればもちろん、もともとYahoo!によく行ってた人が見てくれるだろう。そしてその人は、「Yahoo!で面白いもん見っけ!」とつぶやいてしまうことだろう。

すると「なになに?それ何?」と、その人のフォロワーがYahoo!のそのページに見にいく。面白いと思えば、その人がまたつぶやいてくれるかもしれない。

とかやってるうちに、別の人が、「You Tubeでそれ関係のコンテンツ見っけ!かくかくしかじかな企画もあったよ!」とつぶやく。そうすると「え?なになに?Yahoo!のも面白かったけど、また少しちがうわけ?」と興味を持って見にいくかもしれない。

そうやって、いままでは各メディアに”点在”していた広告が、”遍在”している状態になる。目標である”企業サイトへの誘導”がこれまで以上に活性化し効果的になる、可能性がある。生々しく言うと、メディアコストを超えた価値が、こうした仕組みの中で生まれるかもしれないわけ。

当然のことながら、ここでものすごく重要になるのが、”コンテンツが面白いかどうか、話題になるかどうか”だよね。「見っけた!」ってつぶやいてもらわないといけないのだから。

そうするとね、広告がマスメディア時代とはちがった意味だけど、でも「面白いことを企画する」ことにまたなってくるんじゃないかな。生き生きした広告コンテンツが必要になってくるわけ。ただし、いろんなメディア上での面白いこと、なんだけど。WEBだけ、CMだけでものごとを企画していたのでは済まなくなる。

この話はまだまだ続きがあるので、連休の間にまた書こうと思うのだけど、ひとつだけ書き添えると、こうした仕組みの広告制作には、CMづくりと長尺のコンテンツづくりとWEBなどネットメディアのノウハウの合わせ技が必要になる。そんなこと、誰ができるのかな?おや?そういう制作をひとまとめでできるところあるなあ・・・そうそう、あそこあそこ!・・・と意外にここで営業的なことを言うのであった。あっはっは

映像コンテンツをソーシャル化が浮上させる〜VODに未来はあるのか・その6〜

前々回の記事(=VODに未来はあるのか・その5)で、映像コンテンツのアンビエント化が進んでるね、と書いた。

そして前回の記事(=広告の新たな地平線・その8)ではメディアと個人の間にソーシャル空間が出現しはじめたね、と書いた。

で、今日はまたVODについて書くのだけど、ちゃんと前回の記事ともつながっているのだよ。2つのテーマを別々に書きながら関連性も深いという、なかなか高度なハイパーテキストな感じで進んどるよ。

映像コンテンツがどんどんあふれだし、どれ見ていいかわからなくなる。そんな時、ソーシャル化がはじまった。そうすると、何がどうなるのか?

どれ見ていいかわからなかったのが、ソーシャル空間が教えてくれるようになるわけだ。前々回と前回を読み進めれば、論理的に当然の帰結。そしてそれは、映像コンテンツ市場を、生き生きと活性化していくのだ。

そもそもテレビ番組をぼくたちはどう視聴しているか。番組表が大まかに頭に入っているんだ。月曜9時には若い女子向けのイケてる役者が出るドラマをやっている。それはフジテレビ系列だ。日曜日の夜8時にはNHKで大河ドラマをやっていて、最近は民放連ドラより面白いよね、見よう。お父さんが帰宅したら11時だ、おっとニュース見ないとな。まあだいたいそんな感じ、じゃない?

こういう視聴習慣を国民に植え付けてきたテレビってすごいと思う。

でもいまや、テレビはひところまでの輝きを失った。誰のせいでもなく、時代のせいだ。うちの子供たちをみていると顕著だ。ほんとうにどんどん見なくなっている。極め付けは、テレビとともに育ったわが家のパパ(=ぼくのこと)は、帰宅したらすぐPCに張り付いてつぶやきまくってる。帰ったら意味なくテレビをつけてたパパだったのに。

一方で、実はすでに映像コンテンツのアンビエント化ははじまっている。ぼくのテレビはBSデジタルも受信するし、CATVでは何十チャンネルもいつでも見れる。VODサービスにも加入したので、いろんな映画やドラマが有料だけど視聴可能。

なのに地上波に比べると、それらを見る機会は極端に少ない。なぜならば、いま自分にとって面白い番組をどこでやっているかわからないからだ。選択肢が多すぎて、かえってわからないのだ。

ソーシャル空間は、こうした映像コンテンツについても、そのうちさかんにぼくに教えてくれるだろう。BSでiPadの特集番組あるんだって!というつぶやきを見たら、さっそく見るぞ!となる。『アリス・イン・ワンダーランド』をティム・バートンが語る?見る見る!とかね。iPhoneのおもしろアプリ大集合!もうすぐはじまります!えー?そりゃ見なきゃ!なんて絶対なるでしょ?

CATVの映画チャンネル、鈴木清順大特集!清順は日本のけれん味をプログラムピクチャーにもちこんで・・・へー、そうなんだ、清順ってよく知らないけど見たくなってきた。なんてこともあるかも。東欧のアートアニメ大特集。アートアニメってみんな小難しいと思ってるだろうけど、実はエンタテイメント性高いんだよ。へえ!そうなの!見ようかな?なんて思っちゃったりするかも。

こういう状況に、そのうちなる。自然にそうなるだろう、ってのもあるんだけど、そうなっていく前提でぼくたちにできることはなんだろう。考えなきゃいけないことはなんだろう。

あるいは、いやーぼくはテレビ番組とか関係ないですからね、という時代ではないんじゃないか。テレビと仕事上で全然接点がないとしても、関係なくないんじゃないか。だって、あなたがTwitterやってるのなら、あなたのフォロワーにテレビ関係の人、いるかもしれないんだもん。そしてあなたのフォロワーだってことは、あなたと関心が近い可能性すごく高いんだもん。実際、ぼくがフォローしあってる人の中に、テレビ関係の人、いるんだ。そして彼らがどんなことつぶやいてるか、知ってるんだ。もちろん仕事でリアルで知ってる人もいっぱいいるけど、ひょっとしたらTwitter上の人たちの方が面白いことできるのかもしれない。

そういう時代なんだろうと、ぼくは思うよ。そんな風に自由に考えていい、時代が来ているんだと思うよ。ぼくたちは、もう誰とどうつながって、何を考えて何をしてもいいんだ。もともとそうだったんだけど、ぼくたちにはそういう自由があることを、あらためて発見している。そういう時代だ。

あれ、話がそれちゃったけど、ソーシャル空間が映像コンテンツを浮上させるの巻、そんな感じでおしまい。そいでもって次回はまた<広告の新たな地平線>にテーマを戻すのである。乞うご期待!

ソーシャル化で変わろうとしていること〜広告の新たな地平線・その8〜

この週末、ぼくは家族に料理をつくったり娘を『アリス・イン・ワンダーランド』に連れて行ったりしつつ、ずーっとTwitterだった。ただだらだらとみなさんのタイムラインを眺めていたわけではない。おっ!と思ったつぶやきからblogを読みに行ったりニュースサイトに飛んだり、YouTubeの動画をみたり、ということだ。

それだけでなく、山手線が止まったこともTwitterで知って出かけようとしていた息子に注意するよう言ったり、孫正義のテレビ出演を知って映画に行く前に録画を予約したり、ということも含む。

さらには、Tweetを交わして知り合った人と今度会う約束をし、その間にDM送ってきた昔からの仲間もその方を知ってるというので一緒に行くことになった、なんてこともあったりした。

映画の簡単な感想をつぶやいたら同僚とちょいと仕事に関わるやりとりをした、なんてのもあった。

ん?ようするにぼくのこの週末はすべてTwitterが入口になっていないか?

もう少し詳しく言うと、Twitterでみんなと交わしたコミュニケーションがぼくの行動のすべての入口出口になっていないか?

ちょっと話を変えよう。先週、Facebookのキーノートスピーチが話題になったの、知ってる?え?知らない?じゃあこの記事をざっとでいいから読んで。うんほんとにざーっとでいいから。

え?よくわかんない?そりゃそうだ。これから起こるかもしれないことをFacebookの人たちがしゃべったわけだから、わかんないよ、まだ。ぼくだってよくわかんなかったし。

これにからんで、たまたま土曜日に、不躾にもぼくは@bokuさんのつぶやきに思わず反応し、結果的にいろいろヒントをもらった。

@bokuさんが言うには・・・
Twitterユーザーほどそうだと思うのですが、家に帰ってまずテレビをつけるという時代ではないですよね、家に限らず外でも暇があればまずTwitter。それがソーシャルのパワー。
さらに続けて・・・
だからといって、テレビがダメという安易な話ではなく、もしテレビにTwitterアイコンが表示されていて、チャンネルごとに、あの人、今、この番組みてるんだともしわかったら?ソーシャルとコネクトするだけで、テレビをリアルタイムにみることが一気に復活するかもしれない。
いちばんわかりやすいのが・・・
そんな時代のテレビ番組ってどういうものであるとより楽しんでもらえるのだろう。例えば、そんなことを考えるのが新しいクリエイティブかな、と。

このあたりで、うむむむむむむ!なるほどー!と少し見えてきた気がしてほしいのだけど、どお?ぼくはそんな気がしたので、考えて悩んで、上のような図を描いてみたわけ。Twitterが、つまりはソーシャル化が、ぼくたちとメディアとの関係をこんな風に変えようとしているのだ、と。

わかったような、わかんないような、って人は手元にある『電子書籍の衝撃』の最後の方をもう一度読んでみよう。そうそう、コンテキストとかマイクロインフルエンサーとか、そのあたり。またその本の話かよ、とか言わないで、まだ読んでない人はいますぐアマゾンで買おう。書店に飛んで行こう。すごく大事なとこだし、いま書いてることとすごく関係してるから。

これまでメディアは、そしてメディアに乗っかってるコンテンツは、言わば”点在”していた。それぞれ別個に存在していた。だからいちいち、どのメディアでどんなコンテンツが視聴できるかを調べたり、見に行ったりしていた。マスメディアの偉大なところは、それが習慣化していた点だ。月曜9時には若者向けどラマがあるとか、11時台には各局でニュースやってるとか、知ってた。朝になると新聞は軒先まで運ばれていた。

Yahoo!トップページにはその時々の旬なニュースが掲載されてる。この数年は、いくつかのブログをブックマークして、更新されたら読んでいた。SNSに行けば友人知人の近況が分かったりしていた。

それらは、”場所や時間を知っていて、こっちから情報を取得しにいく”のだ。それがマスであれネット上であれ、”メディアというもの”だった。

ソーシャル化は、そういうメディアの基本条件を根本から変えはじめているのだ。ぼくたちは、自分と興味や志向が近そうな人たちをフォローし、フォローされている。そんな人たちが、ブログやニュースサイトで興味深いものを教えてくれる。あるいは、ブログを更新して教えてくれる。どれどれ、とそれらを読んでいるうちに、テレビ番組の情報が入ってきたりする。新作映画の感想も読める。そればかりか、電車が止まったことや自分では気づかなかった地震のこともわかったりする。

ぼくが知りたいことは、ぼくがフォローしてる人たちが教えてくれるんだ。

ソーシャル化はつまり、WEBだけの話ではないんだ。あらゆるメディアを、ソーシャルが包みこんでフィルターになっていこうとしている。この仕組みはヒューマンでいいね、などと情緒的なことを言うより、”圧倒的に便利だ”という点が大事だ。

すべてのメディア、すべてのコンテンツはフラット化し、点在していたのが”遍在”している状態になる。その中で何が大事かを教えてくれるのが、ソーシャル空間であり、それはメディアとぼくの間に広がっている。

このことを、どうして”広告の新たな地平線”のサブテーマで書いているかというと、こういう前提で広告コミュニケーションを考えていくべきだからだ。広告コンテンツは、遍在化しはじめる。遍在化をたくらまねばならなくなる。そこでは、ウソは無力だ。ソーシャル空間ではウソは簡単に見破られる。でも真実と、誠意は通用する。

それから、ソーシャル空間を前提に広告コミュニケーションを考えると、クロスメディアでさえなくなる。クロスメディアという言い方は”点在”を前提としているからね。クロスじゃなくて、フラットメディアだ。フラットな中にメッセージを遍在化させて、それが生き生きと流通していくよう企画するんだ。”遍在化させ、流通させる”ことが大事。そのための仕組みが、メディアプランだといえば、メディアプラン。

さらにここで書いていることは、”VODに未来はあるのか”にも関わってくる。なぜなら、コンテンツ流通にも関係したことだから。

というわけで、広告の話と、コンテンツ流通の話、並行して、からみあいながら、この先を書き進めていくよ。・・・いやーけっこう脳みそが疲労するなあ・・・

映像コンテンツのアンビエント化が進んだら〜VODに未来はあるのか・その5〜

このところ『電子書籍の衝撃』のことばかり書いていた。でもそこにはいろんなヒントがつまっていたからね。で、今日は前回書いたことをもとにVODについて考えてみたい。

『電子書籍の衝撃』に書いてあることから発想して映像コンテンツのアンビエント化についてこないだ書いた。そのつづきの話でもあるよ。

映像コンテンツがアンビエント化しはじめている。最初はレンタルビデオだった。ビデオがDVDになって、どんどん多様な作品が視聴できるようになった。旧作名作もどっさり置いてある。そうした状況にうれしい悲鳴をあげたものだったなあ。

その昔、30年近く前、大学生になって上京した頃は、東京に名画座がものすごくたくさんあって驚いた。学生時代は学校にいる時間より映画館にいる時間の方が長かったんじゃないかな。毎週、ぴあを抱えて東京中の名画座で見たかった映画を見まくったものだ。

名画座がいっぱい、とは言え、映画館で見ることができる作品には限りがある。文芸座なんかで監督別の特集上映なんかがあると、これは見なきゃと通ったものだ。鈴木清順や岡本喜八などのプログラムピクチャー時代の作品を探しあてて見たのが素晴らしい体験になっている。

そうした、一所懸命映画館で見ていた頃に比べると、いまは新作準新作から名作旧作まで、なんともお手軽に見ることができるようになった。映像コンテンツのアンビエント化が起こりつつあるのだ。・・・そしてそんな状況になると・・・どれを見ればいいのかわからなくなってしまうのだ!

あるいは、こんな経験をみんなも持ったことないだろうか。ビデオ屋に行くと、劇場で見逃したちょい話題作のDVDが並んでいる。おお!これ、出てたんだ、借りよう!と思うと全部レンタル中。うーん残念!

翌週行くと、前の週に借りたかったものが次の棚に移動してレンタルできる状態になっている。ところが今度はまた別の話題作が新作コーナーに並んでいる。うわ!これ見たい!と思ったらまたしても全部レンタル中。さあそこで、まあいいやと前の週に借りたかったものを借りるか、というと・・・うーん、これ見たかったけど、あまりそういう気分じゃなくなっちゃったなあ。それより、今週出たこっち、見たかったなあ・・・と、前の週あれほど見たかったものがそうでもなくなってしまう・・・

さらに、学生時代に見逃していた名画が、何の気なしにポンと、ビデオ屋に置いてあったりする。一瞬、あーこれ、あの頃見れなかったあれだ!とコーフンする。でもその次に、また別の日に借りるか、とやや冷めた気分になり、結局借りなかったりする。おかしいなあ、あの映画はすんごい見たかったんじゃなかったっけ?どうやら、いつでも見れるんだと思うと、いつになっても見ないのだ。

つまり、レンタルビデオ店は「新しいかどうか」という軸しか提示できていない。『電子書籍の衝撃』の表現を借りれば、「新しいですよ」というコンテキストしか示してくれていないのだ。

最近わが家も導入したVODサービス。これがまた何も提示してくれない。「新作」として出てくるのはあまりにも数が少ない。そしてひとつひとつの作品の解説も情報量が少なく味気ない。出演者とあらすじだけ読んで、知らない映画を観たくなるか?

だから映像コンテンツのアンビエント化は、個々の映像コンテンツの魅力を失わせてしまうのか?いやいや、まだまだこれからってことなんだよ。やりようはあるんだよ。どうすればいいか、少しずつぼくはわかってきた、つもりだぜ・・・それはまた次回ね・・・

Twitterはマスメディアを超克する?〜『電子書籍の衝撃』の衝撃:解説編〜

はい、そうです、しつこいけど『電子書籍の衝撃』の衝撃のことをまだ書くのです。

今日も”図”をつくった。そして今日も、この図ですべてです。図でわかったなら、それでおしまい。

『電子書籍の衝撃』は電子版110円販売前はアマゾン順位100位前後だった。それが16位にまで浮上した。書店発売後のいまも20位くらいにつけている。

ぼくはこの現象が不思議で不思議で仕方ない。新しい現象だと思う。そしてそこには大いなる次代のヒントが隠れていると思うんだ。

ずいぶん前に、ぼくはこんなことを書いている。メガヒットの時代が過ぎるとメガヒットは出なくなる。そんなことを書いた。実際に音楽業界ではほぼ似たことが起きたことは、『電子書籍の衝撃』の中でも少し書かれている。

そしてメガヒットが出ない時代は、捨てたもんでもなく、けっこう生き生きとモノが動いていくんじゃないかと思う。『電子書籍の衝撃』がそうだったように。

上の図で書いたのは、110円販売の前後で”一部の人びと”にとって起こったことを模式化したもの。電子書籍や佐々木俊尚さんにさほど興味なかった人も、Twitterの#denshi上で起こった出来事にRTによって巻き込まれ、図の上から下のような変化が起こったわけ。起こったわけとか言いつつ、ちょっと大げさに描きすぎてるけど。

ふーん、『電子書籍の衝撃』でなんかみんな騒いでいるなあ。ぼくもがぜん興味持っちゃったなあ。そんな人がどんどん動かされた。それによってアマゾン順位まで動いた。つまり話題になって本が実際に売れたんだ。

その現象を起こすのに、出版社ディスカバー21はメディアコストをほとんどかけていない。メディアコストをまったくかけずに話題を巻き起こして本を売った。これってすごく画期的ではないか?

いやいや、と反論する人もいるだろう。メディアコストをかけずに話題を起こすのはPRの典型的な手法ですよ。王道ですよ。うん確かにね、そうかもしれない。

ではこういう捉え方はどうだろう?『電子書籍の衝撃』は話題になったけどマスメディアではほとんど取り上げられていない。なのに、実際に本が売れた。

これこそが画期的なポイントではないかいな?

確かにPRとはメディアコストをかけずに話題を生み出すことだ。でもそこでの話題とは、結局はマスメディアでの話題だ。媒体費を支払わずに記事になったりするよう頑張るのがPRだった。

『電子書籍の衝撃』の話題とはあくまでTwitter上の、記事を書くなんていう仕事とはまったくかけ離れた、メディアに関してはシロウトのみなさんのつぶやき、での話題なのだ。画期的だよ、やっぱり。

それからもうひとつ、トラブルを経て電子版110円販売が1万人限定から、発売前日まで無制限に変わった。110円で、つまり缶コーヒー1杯分の価格で貴重な書籍が手に入ってた。そんな中、アマゾン順位が上がった。つまり予約した人が1100円を、同じ内容のものを十分の1の値段で買えるのに支払ったんだ。

なんかおもしろくない?すんごくヘンテコな状況が起きたってことじゃない?予想以上に不合理、なことではないかいな?

これは”たまたま”ではないと思う。”これからこうなる”のだと思う。

そういうね、Twitterのマスメディアを超克したような潜在能力が花開いたのが、『電子書籍の衝撃』に起こった出来事なのだと思う。そしてそこには、いろんなヒントが隠されている。

どんなヒントがあるかというと、次回以降で書くから、待っててちょ。

Twitterはパワー・トゥ・ザ・ピープルだ!〜『電子書籍の衝撃』の衝撃:解説編〜

はい、久々に”図”です。今日はねえ、この図を理解したらもうおしまい。パッと見てピン!と理解できた人は、このあとの文章を読む必要はありません。あ、なるほどね。そんなことが起こったんだね。それでオッケー。あるいは、そんなこととっくにわかってたことだよ、なのかもしれないし。

でもこの図は、今後のコミュニケーションのいろんなヒントになる、はずだよ。それは、広告もしくは販促コミュニケーションかもしれない。一方で、コンテンツ流通のための仕組みなのかもしれない。そういう方向別の詳しい解説は別の日に書くよ。今日はとにかく、先週『電子書籍の衝撃』の周辺で何が起こったかに話を絞っておく。

図の上の方は、「without Twitter」とあるね。ソーシャルメディアが登場する前のコミュニケーション。と言うより、先週の出来事にTwitterが関与してなかったらこうなってたね、という図だ。

ディスカバー21社が110円ダウンロード販売を発表したとしよう。それに応えて、講演会でひと足お先に本を手に入れた人たちがブログに書いたり、いち早くダウンロード販売で手に入れた人たちが情報発信したりする。お互いにトラックバックかけたり、リンク張ったりするかもしれない。それでも、”ネット上の話題”になったのかもしれない。でも、あまり拡散しないわけ。

これまでは、こうだった。

今回起こったことを図にしたのが下の方。ぼくみたいに、ブログ書いて「書きましたー!」などとTweetを発信すると、それがぼくのフォロワーのみなさんに伝わる。それがRTされたりする。別の人のブログについても同様のことが起きる。そしてそうした同心円がハッシュタグ<#denshi>に流れ込んでくる。<#denshi>からまた外にいくつもの同心円を拡散させていく。

中心の”賑わい”に力があるほど、外部へ拡散する遠心力が大きくなる。”電子書籍”に強い興味を持つ人から、そうでもない人にまでぐいぐい伝わっていく。RTを読んだ人が「なになに?何が起こってるの?」と中心をのぞきに来たりする。「へー、110円で買えるんだ。iPhoneで読めるんだ」などと新しもの見たさで人がどんどん寄ってくる。

賑わいの中心にあるのは『電子書籍の衝撃』そのものであり、<110円販売>なのだ。そうなのだけど、遠心力をつけたのは、「サーバーダウン事件」であり「D21社の誠意ある対応」であり「著者自身の誠実さ」であり「1万人限定から無制限へ」であり。そしてさらには多くの人びとの「寛容さ」だったり「読後の共感」だったり「イノベーションへのエール」だったりする。

Twitterはそこで遠心力を増幅した立役者ではある。でも、ただの”仕組み”に過ぎないといえば過ぎない。その仕組みに力を与え、命を吹き込んで驚くべき遠心力をもたらしアマゾンでの『電子書籍の衝撃』の順位を上げたのは、”人びと”なのだ。ピープル、なのだ。

つまり、Twitterがもたらすコミュニケーションとは、パワー・トゥ・ザ・ピープル、なのだ!

なのだ!とか叫んで、ぼくは『龍馬伝』にかぶれて日本の夜明けぜよ、たちあがるぞなもし、などと盛り上がりたいわけではない。パワー・トゥ・ザ・ピープルを生かした、コミュニケーションの仕掛けを構想してみたいのだ。これから、例えば広告コミュニケーションはこうなるんでないの?と見透かしてみたい。コンテンツ流通はああなるかもしれんよ、と見通してみたい。

今日の”図”を踏まえて、さらに踏み込んだことを書き進めていくかんね。さあピープル、進むかんね!

ソーシャルメディアが何かを動かす力について〜『電子書籍の衝撃』の衝撃:続編

前編と後編で終わりにしないんだな、『電子書籍の衝撃』については。ほんとうにぼくは衝撃を受けた。それは書籍の内容そのものと、その周囲で起こったコミュニケーションとが響きあいながら、大きなメタコンテンツとしてぼくに何かを教えてくれたからだ。

おっとその前に、何が起こったかあんまりわかってないんだけど、って人に、軽くレクチャー。

4月6日夜:『電子書籍の衝撃』の講演会が行なわれ、来場者約100名に発売前の書籍(紙)が配られた。
      その場で、書籍(電子版)を1万人限定で110円で販売する旨が発表された。
 7日正午:限定販売開始。すぐさま”つながらない”状態になりやがてサーバー不具合。深夜になりやっと復旧。
 8日?時:電子版が購入できるようになり、110円販売を14日(書店発売前日)まで人数無制限にすると発表。
ざっとこんな展開だった。これはTwitterでハッシュタグ<#denshi>を追っていけばわかる。あるいはいろいろ検索すれば出てくるし、出版社ディスカバー21の「社長室ブログ」のこのエントリーあたりを読んだりそこで紹介されているブログに飛んだりすればわかるはず。

その流れを追っていくと、最初は不満と応援の両方のTweetが交錯していたのがだんだん応援の方が大勢を占めていく過程がわかる。それはもちろん出版社のスタッフたちの必死のサポートに誠意が感じられたからでもあるし、途中で著者本人たる佐々木俊尚さんがこんな感動的なTweetをしたことも大きいだろう。

やがてダウンロードできないという騒ぎは収まり、<#denshi>は今度は内容へのTweetとともに”電子書籍を読む興奮と発見”にメインがシフトしていった。とくにiPhoneで読んだ人が読みやすいと発言するのが印象的だった。

さて、ここでぼくが注目したいのが、この瞬間だ。4月9日午後1時52分にディスカバー21干場社長がこうつぶやいた瞬間。「ほんとだ!今16位。書店さんからの注文も増えています。」

『電子書籍の衝撃』の発売前の売れ行き(だから予約状況?)について佐々木俊尚さん自身が4月5日にこうつぶやいている。「Amazon予約、再び100位以内に復活。」つまり講演会前は100位前後だったということだろう。それが上に書いたような”騒動”のあと、16位に急浮上しているのだ。いまは少し落ちたがそれでも34位となっている。これは”すべての和書”で、第1位には村上春樹の『1Q84』の3巻目が堂々と位置するようなランキングの中での話だ。そんな中で100位前後から急浮上したのだ。

そこから、コンテンツ流通についてとマーケティング(=ものを売る)に関して、ぼくたちは何かを学びとれるんじゃないだろうか。

だってこれ、よく考えたら不思議だしすごく面白いことじゃない?まず、どうやらTwitter上で、しかもハッシュタグ<#denshi>の小さな世界で起こった”騒動”が書籍の”売れ行き”の順位を実際に上げたんだよ。しかも!電子版を110円の大サービス価格で発売しているのに”紙の本”の予約が大きく増えたんだよ。いったいこれは、どういうこったい?!

つまりね・・・

1)Twitterで盛り上がったらものが売れた
2)電子版が流布したら紙の方も売れた

そういうことが起こったんだわ。

『電子書籍の衝撃』の最終章の中で「ソーシャルメディアの中でのコンテキスト構築がこれからの出版ビジネスの課題」という見出しの部分があるのだけど、ちょっとちがうとは言え、ほぼそれに近い現象が他ならぬ『電子書籍の衝撃』を取り巻く”コンテキスト”を通じて起こってしまったということだ。

今回のケースはサーバートラブルが起こったからでしょ?なんてこと、言う人もいるかもしれない。確かにそうだし、それに対し出版社と著者の読者を思う誠意があったからでもある。また読者の側も寛容な姿勢で受けとめる人が多かったからかもしれない。そういう偶然と特殊な状況が引き起こしたと言えなくもない。

でもよく考えてみて。そんな”誠意”だの”寛容”だのがコンテンツ流通にこんな風に強く関与することって不思議じゃない?なかったことじゃない?それに電子版は紙の書籍を駆逐するもので、電子版が流布すればするほど紙の方が売れるのは理屈にあわなくない?

しかし、実際にはその不思議な現象が起こったんだ。

ぼくたちはそこから多くのことを学べそうだ。ここで書き進めてきた「広告の新たな地平線」を見出すためにも、「VODに未来にあるのか」の答えを見つけるためにも、大いに参考になる出来事だ。

というわけで、これからしばらく、『電子書籍の衝撃』がぼくの頭に及ぼした余波をもとに、書き進めていこうと思う。15日の発売の際も、また何かが学べる出来事が起こるのかもしれないなあ・・・

つまり、自由と勇気について書かれている〜『電子書籍の衝撃』の衝撃!:後編〜

一昨日”前編”と題して『電子書籍の衝撃』について書き、”後編”は翌日書くと宣言しておきながら、昨日はサボってしまった。やること満載で、肝心の本の方を読みはじめたのが夜中。読み終わったら猛烈な睡魔に襲われたのだった。約束やぶってすみません。個人的に書いてるブログだから、謝ればすむ、と、思う。

さてその間に『電子書籍の衝撃』を巡る事件が起こった。たぶんこれを読んでる人なら知ってるだろうからはしょって書くと、この本の電子版が当初1万人限定で110円ダウンロードだったのが、サーバーダウンを経て14日まで無制限の110円ダウンロードとなったのだった。たくさんの人が困っちゃったにせよ、なんちゅう大盤振る舞い!

この顛末は、当事者のみなさんには失礼かもしれないけど、ものすごく貴重なメディア体験になった。これについてはまた別に書こうと思う。

ところがこれによってぼくは困ってしまった。『電子書籍の衝撃』をひと足お先に手に入れたので、その内容に触れながら書いていたつもりなのだけど、たぶんみんな読んじゃったよね!後半にはこんなことやあんなことが書いてある、などと先に読んだ優越感たっぷりに書くつもりが、そんなこと書いても、いや私もう読んじゃいましたから、ってことになっちゃうじゃないか。

さあ、どうするこの後編!

ってことで、”後編”では全体を総括することに路線変更。

『電子書籍の衝撃』は思いのほか、話題が豊富な濃厚な本だった。書籍の未来を、音楽で起こった変化を参照しながら書いている。その中に、ISBNコードやアマゾンアカウントの具体的な取得方法や記号消費、ケータイ小説や取次制の成り立ちなどが刻銘に書かれている。佐々木さんの著作はいつも多岐に渡る話題のひとつひとつが刻銘に書かれているが、今回はいままでにも増して濃厚だった。濃厚だったので読むのに時間かかちゃったんだな。

中でも、自作の音楽を自分で配信して売っているミュージシャン”まつきあゆむ”についてのパートは興味深かった。ぼくはさっそく「1億年レコード」を申し込んだ。ここからダウンロードを申し込めるから、やってみたらいいかも。ぼくはこの週末あたり、どっぷりハマりそうな予感。

そして最終章では”コンテキスト”の話に入ってラストスパート。そうなることを予感して、ぼくは後編を「キーワードはコンテキスト」と題して書けばいいんじゃないかと思ってたんだけど、みんなが読んじゃったであろういま、そんなのわかってるよ、ってことになっちゃう。うーむ。

そこでぼくがここで読んじゃったみなさんに言いたいのは、こういうこと。

読んだあとでなぜか勇気がわいてこなかった?

『電子書籍の衝撃』は、確かに書籍の未来について書かれた本だ。それはまちがいない。でもこの本は一方で、自由と勇気についても書かれている、とぼくは思うのだ。そして佐々木俊尚さんの本のひとつひとつから、ぼくは自由と勇気をもらってきたよなとあらためて思い至る。

ぼくは最初、『2011年 新聞テレビ消滅』で佐々木さんと出会った。(意外につい最近じゃん!)そして『仕事をするのにオフィスはいらない』『ネットがあればオフィスはいらない』『マスコミは、もはや政治を語れない』と出るたびに読んできて、それから『インフォコモンズ』や『フラット革命』に遡ったりして、今度の『電子書籍の衝撃』にまでたどり着くことになる。そこでは一貫して既存の権威の崩壊がテーマになっていた。まるで一連の大きなストーリーを読んできたような感覚だ。

そして読むたびに自由と勇気を受けとめてきた。それは、ただ権威の崩壊が書かれていたからではなく、崩壊による解放を書いているからではないかな。いや、書いてなどはいないんだ。自由になれよ、勇気を持とうぜ、などとはひとことも書いていない。でも”感じた”んだ。自由と勇気を、一冊一冊に感じとりながらぼくは読み進んできた。

ここでいう自由と勇気は、だからと言ってそれぞれのテーマに直接結びつくわけではない。『電子書籍の衝撃』には確かにセルフパブリッシングについて刻銘に書かれているけれども、そこから感じる自由は「ぼくも自分で出版しよう」ということではない。そうではなく、これから自分で出版できる自由な時代になる、だったらぼくはどうしよう。何をはじめようか。そんな受け止め方だ。

つまりこの本の読み方とは、こういうことだ、と思う。

音楽は自由に→出版は自由に→だったらぼくは?

もちろん”ぼくは?”の答えは、自分がいまやっている仕事にダイレクトにつなげてもいいだろう。だからぼくは前編の中で、映像もアンビエント化し自由になる、と解釈して書いた。

でも佐々木さんの本を何冊か読んできた人ならわかると思う。ぼくたちが感じてきたのはそんな直截なことだけじゃない。もっと大きな自由と、力強い勇気を、読み終わったあとで受けとめてきたのだと。

ぼくたちはこれから、自由になっていく。もう、権威に気兼ねしたり、媚びたりする必要はない。ぼくたちは、何をして、何を表現してもいいんだ!ただ、したたかな戦略を忘れずに。

・・・というコンテキストを流布するマイクロインフルエンサー、ってことにしてもらって、いい?・・・

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キーワードはアンビエント化〜『電子書籍の衝撃』の衝撃!:前編〜

今朝、会社に着いたら驚いた。デスクに届いた封筒を開けると、中から出てきたのが、この本だった。

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ワオ!なんと、佐々木俊尚さんの依頼により、ディスカバー21が”このぼく!”に送ってくれたのだった!4月15日発売の話題の本を、ひと足お先にぼくは手にしてしまったのだ。へっへっへ。

え?なんでそんないい思いできるのかって?それはまあ、あれなんだけどね、へっへっへ、とにかくぼくは佐々木さんにものすごく啓発されている。それについては、この”焼け跡ブログ”カテゴリーの一連をざっと読んでもらえればわかるよん。

それに佐々木氏はいま、メディアコンテンツ業界にとってもっとも注目すべき発言者だ。メディアの預言者、2010年代のマクルーハンだと言ってもちっとも言いすぎじゃないぞ。何しろぼくは、佐々木氏のTwitter上でのつぶやきを日々チェックし、言及されているサイトをいちいち読んでいる。それにメールマガジンだって読んでるんだ。佐々木さんに注目している人ならこのメルマガは、読んだ方がいいよ。ここから申し込めるから、はいすぐ申し込みなさい。ほら、いますぐ!

さっそくその『電子書籍の衝撃』を読みはじめたのだけど、会議はあるわ電話は鳴るわメール書かなきゃだわで、なかなか落ち着いて読めない。そうこうしているうちに出かけないといけなくなった。どこに?『電子書籍の衝撃』の出版記念講演会に!献本をいただいたその日に、その本についての講演会を聞きに行くという、たまたまの一致だけど不思議な体験をした。

講演会の内容についてはここにトゥゲられているので、ざっと読むといいよ。億劫だという人は、@dankogai氏のTweetだけ追っていけばいいかもしれない。そう、あの小飼弾氏もひとりの聴講者として来ていたのだよ。

さてせっかく”献本(!)”いただいたのだから、『電子書籍の衝撃』の衝撃について書こうじゃないか。しかも前編と後編の二回に分けて。・・・というのも、結局まだ半分しか読んでないからさ。あはははは

半分しか読んでないけど、言えること。この本は電子書籍についての本だけど、出版社や文筆業の人だけの書籍ではない。メディアやコンテンツに関わるすべての人に大いに参考になるはずだ。例えば、広告や映像の仕事をしているぼくが猛烈に読みたかったのは、電子書籍についての話が、映像や広告の未来を考えるのに役立つと考えたからだ。読んでみるとやはりその内容は、ぼくの期待以上のものだった(まだ半分だけどさ)

前半では、電子書籍の概観的な説明から入り、ビジネスとしての電子書籍について細かに語っている。この部分は、ネットワークを生かしたビジネス全般の参考に大いに役立つのではないかな。Kindleの仕組み、そこに登場したiPadの電子書籍の手法。そして両社に翻弄されるアメリカの出版業界。さらにはGoogleも参戦して、三つ巴、四つ巴の熾烈な主導権争いを展開する。それはまさに”闘い”だ。あっちがこう来たら、こっちはこうする。それを受けてこうしちゃえ。そんな争いが実際に行われている最中なのだ。こうした熾烈な闘いが、ひとつの産業を鍛え抜いて強固なものにする。

電子書籍を巡る攻防は、コンテンツを巡るビジネスモデル開発の最前線になっていたのだ。アメリカでは、ね。ネットの黒船に脅えているだけの日本が情けなくなってくるかも。

そういったこの本の主旋律とは別にぼくが注目したのが”アンビエント化”の概念だ。これについては講演の中でもとくに深く語られていた。メディアとコンテンツの将来像を考える上での重要なキーワード。そしてこれも、書籍だけの話ではない。音楽の世界ではとうに起こり、これからおそらく、映像コンテンツの分野でも、また広告の世界でも、大きな波になってくるだろう。

アンビエントとは、”環境”とか”遍在”と訳されている。いくつかのかみ砕き方があるのだけど、これもアンビエント化がすでに起こっている音楽で見ていくとわかりやすい。iTunesストアで音楽を手に入れるようになって、音楽は”どこにでも存在する=遍在”状態になった。PCで聞いてもいいし、iPodなら動き回りながら聞けるし、iPodを機器につなげば以前のステレオのようにも聞ける。

それから音楽は時代性が無意味化した。iTunesで手に入れた曲は、60年代のビートルズだったり、80年代のポップミュージックだったり、最新のヒット曲だったり、もはやすべて並列だ。実際今の若い人はビートルズを聞いていたりする。そこに”懐かしいなあ”という感慨はない。時代を越えていい音楽はいい、という聞き方だ。

もうひとつ、”所有する”感覚が無意味化する。LPジャケットを後生大事に並べる、という音楽ファンの姿はもはや一部のものになってしまった。そういう、格別な”パッケージ”された形でコンテンツを所有するのはもはや一般的なものではないのだ。

音楽で起こったアンビエント化が、電子書籍の大きな波によって”本”でも起こるだろう。

そこでぼくが考えるに、少し遅れた形で映像コンテンツでもアンビエント化が起こるのではないか。それよりもっと早く、広告コミュニケーションはアンビエント化するのではないか。”ないか”と書いたけど、ほぼまちがいなく起こると思うよ。これについては近々、別の記事でちゃんと書くつもり。待っててね。

てなところが、『電子書籍の衝撃』の衝撃、前編でした。後編は、さらにふくらんでいくよ、たぶん。後編のキーワードは、コンテキストと、キュレーション、のはず。というか、明日はそれらについて、書くけんね。