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コピーライター→映像製作会社ロボット→広告代理店ビデオプロモーション→再びコピーライター(フリーランス)。 メディアとコンテンツの未来を切り拓くコミュニケーションをデザインします。講演・執筆依頼もお気軽に!

Rockの矛盾、Macの矛盾

iPadとスティーブ・ジョブズのメッセージについて2つ書いたので、もうひとつ書こうと思う。なんとなく3つ揃えたくて。でも今日は結末を見据えずに書くので、支離滅裂になっても許してね。

学生時代、ロックンロールについて探求した時期がある。プレスリーは南部の貧しい田舎町で黒人ブルースマンの音楽に慣れ親しんで育った。青年になってマイクの前で子供の頃身体に染みついたブルースを歌ったら白人が歌うロックンロールが誕生した。そのプレスリーにいかれたリバプールの若者たちが4人集まったらビートルズになった。ストーンズは最初の頃、大好きな黒人音楽のコピーばかり演奏しイギリスのヒットチャートを駆けのぼった。ロックギターの基礎を作ったクラプトンはようするにアンプで歪ませたギターの音でブルースを弾いてロックギターを完成させた。

アメリカで生まれたロックンロールが、イギリスの若者たちによって進化した。それがいまのロックミュージックの源流だ。そのルーツをどうたどっても黒人音楽にたどりつく。ではその黒人音楽とは何なのだろう。

もう名前も忘れたけどある学者が、アメリカのブルースのルーツを追い求めてアフリカの音楽を研究したそうだ。だけど、音楽的なつながりはほとんどないことがわかりその学者はがく然とした。ブルースは、アメリカ南部で奴隷生活を送っていた黒人たちが、欧米の楽器を使って生み出したオリジナルなものだった。つまりブルースは近代の矛盾、人権だなんだと言いながら奴隷制度に微塵の疑いも持たなかった西洋近代の矛盾を背負って虐げられて暮らしていた黒人たちの哀歌なのだ。

そのブルースに、西洋近代の恵まれない少年時代を過ごした白人がシンパシーを感じて化学反応を引き起こして生まれたのがロックンロールなのだ。だからロックンローラーはみな貧しい生まれだ。ロックンロールとは、哀しみをポジティブに爆発させた表現なのだ。もともと、矛盾を内包している音楽なのだ。だからこそ、20世紀のティーンエイジャーが引き込まれた。

ロックンロールにはもうひとつ、重大な矛盾がある。そのメッセージは、もともとが黒人たちへのシンパシーから生み出されたものだから、西洋近代へのアンチテーゼになっている。愛や人間性を歌い上げ、あらゆる権威、エスタブリッシュメントに背を向ける。だから、まっとうな社会を形成する大人たちに忌み嫌われた。西洋近代が造り上げてきたものに、反抗することがロックミュージックの使命だった。

ところが、ロックミュージックが世界を席巻し、ビートルズやストーンズがスーパースターになるための装置は、西洋近代の結実であるマスメディアとパッケージメディアだった。つまりはテレビ放送とレコードだった。マスメディアは何しろ、西洋近代の大きな果実である大量生産・大量消費を支える重要なシステムなのだ。そしてそうした20世紀のメディアなくしてはロックミュージックの大流行は起こらなかった。ビートルズの真似をして若者たちが長髪をなびかせジーンズをはいたのは、マスメディアでその姿を強烈に刷り込まれたからだ。西洋近代なんてやってらんねえぜ、というメッセージを、西洋近代の真骨頂であるメディアに乗せて送り届けていたのだ。

放送と複製に重要性を持たせるのが、マスメディアの特性だった。そして放送を起ち上げるには、発信するための設備と各エリアに放送を届ける電波網という莫大な投資が必要だった。複製にも特殊な工場設備と希少性の高い技術が欠かせなかった。だからマスメディアは非常に特殊な権益だった。著作権法が複製にやたらうるさいのも、その特殊性を守るためだ。放送に必要な電波を国家が管理し割り当てるのは、特殊な権益を通じて誰かが何かをコントロールしたいからだ。実際には誰も何もコントロールできないのだけれど。

Macの有名な「1984」というコマーシャルフィルムがある。You Tubeで検索すれば出てくるんじゃないかな。誰がどう見てもIBMにしか思えない巨大な企業が人びとを支配する社会を、ジャンヌ・ダルクよろしく登場する女性が打ち壊す物語。Macというパーソナルコンピュータは、IBMというエスタブリッシュメント、コンピュータを独占的につくってビジネス社会を支配してきた企業に対するアンチテーゼから生まれた。その理念を明快に示す映像だ。

Macはインターネットとも共犯関係を築きながら、人びとを解放してきた。コンピュータを使う自由を特定の巨大企業から人びとのために奪取してきたのだ。

そしてついに、iPadがマスメディアの仕組みをぶち壊そうとしている。西洋近代なんてやってらんねえぜ愛こそすべてだぜというジョン・レノンのメッセージを増幅したのは、西洋近代の真骨頂たるマスメディアだったわけだが、それを今度はIT界のロックンローラー、スティーブ・ジョブズがぶち壊すのだ。

ところがそのジョブズの理念を実現するために、またもや矛盾が起こりはじめている。西洋近代のコミュニケーションを支配してきたマスメディアの仕組みを壊すために、ジョブズはすべてのトラフィックをiOSに押し込めようとしているのだ。アプリの登録には明確なルールがなく、表現は曖昧に、でもはっきりと制限される。支配からの解放のために、新たな支配をもたらそうとしているかのように。

もちろん、Andoroid陣営が対抗勢力になるのだろうし、日本からはSHARPが名乗りをあげている。ジョブズの解放運動(=新たな支配)は100%達成はできないのだろう。

おおー、@KenzrockIzutani さんも期待してくれてたのでとにかくMacの理念とロックンロールのシリーズを書いたけど、なんだこりゃこの文章、結論がないじゃないか。ただひたすら、ぼくたちは矛盾を積み重ねて進んできた、という状態が少しわかっただけだ。でもまあ、人間とか、社会とか、生きることとかは、そういうものなんだろう。矛盾だらけなんだろう。

それがわかっても、ぼくたちは、自由をめざす。新しい地平へ向かっていく。どんなに矛盾が積み重なっていようと、そこには人生を傾ける価値はきっとあるのだろうから。ぼくたちが信じるべきはジョブズでもiPadでもない。自由をめざす意志、その価値だけを信じていればいいのだと思う。

スティーブ・ジョブズというロックンローラー

ジョン・レノンが撃たれて死んだ時、その衝撃がよくわからなかった。ぼくはご多分に漏れず70年代のギターキッズで、クラプトン少年だった。ビートルズはすでに過去で、ギターキッズとしてはあまり興味を持てなかった。カンタンじゃん、みたいな。そんなことより、ブルーノートスケールをペンタトニックでスローハンド奏法だぜ、てなことに夢中だった。

学生時代にビートルズって何だったのか考えるようになった。下北沢の酒場で仲間たちと、ジョンはメッセージがあるけどポールは音楽家にすぎないよな天才だけど、などと知ったようなことを語り合った。当時のぼくらとしては、ジョン・レノンこそロックンローラーで、ポールはそうじゃない、だけど二人が出会ったことがビートルズというヒットメイカーになったのだ、と結論づけて納得していた。

ロックンローラーとは、メッセージを世の中に問う存在なのだ。だからストーンズも当然ロックンローラーだし、清志郎ももちろんそう。U2なんかもロックンローラーとして認めていた。

ジョン・レノンがImagineなんて曲を臆面もなく歌う様はカッコいいと思った。夢みたいなことを平気で世の中に問いかける。ロックンローラーは理想家で夢想家で現実みてない人で、それがいいのだと。そんな思いの結果が、広告を通じてメッセージを問う仕事につながっていった。実際、コピーライターは音楽やってた人間が多い。ロックンローラーになってメッセージしたいぜ、という意気込みと、現実との兼合いというか打算が、広告という当時すでに立派な産業になっていた世界でコトバを編む仕事につながっていたんじゃないかな。

現実と兼ねあって打算したよな、という自覚があるもんで、どこか負い目持って生きてきてる感じがある。

昨日書いたような道筋でMacに出会った時、感じたのは「これはロックンロールなツールだぜベイビー」という気分だったんだと思う。この箱を手にすることで、自由になれる。メッセージを増幅できる。そんな感触だったんじゃないか。当時、明確にそう思ったとは言えないけど、そんな気分ではあった。

スティーブ・ジョブズは、ロックンローラーなのだと思う。メッセージを発する人がロックンローラーだとすれば、そうなんだ。

ジョブズとビル・ゲイツの関係は、ジョンとポールの関係に相似なんじゃないか。ゲイツは、ソフトウェアの天才だ。でもソフトウェア開発者のすごい人、にすぎない。ジョブズはちがう。彼はコンピュータがやりたかったんじゃない。メッセージを発していた。これを使って自由にいろんなことやってみなよ、そう言っている。コンピュータを通じて、言いたいことがあったのだ。たぶんね。そんなコンピュータ界のジョンとポールがいたからこそ、IT界の繁栄もあるのだと思う。

ロックンローラーはメッセージをたまたま、演奏というツールにのせている。ジョブズはたまたま、コンピュータという製品にのせている。おんなじなんじゃないか。

そうやって考えると、ジョン・レノンとスティーブ・ジョブズはつながっているのかもしれない。ビートルズ時代のメッセージは、Macのメッセージと似ているかもしれない。

例えばこのページに「Dig a Pony」という曲(アルバム”Let It Be”に入っている)の歌詞が載っている。この歌詞を若い頃みて、何が何だかわからなかった。でもこれ、Macについての曲だって解釈できるかも。要するに、君は何で何をやったっていいんだ、ってこと言ってるんだね。それってMacのことだよ。

そうすると、iPadはImagineなんじゃないかな。もう国家も宗教も所有もなくって、みんな兄弟で仲間でひとつなんだと。Imagineのそういう、なんだよ共産主義者かよ、って歌詞も、iPadについてのメッセージなんだと受けとめられるかもしれない。

なんてことは、ちょっと脳みそのお遊びに過ぎないんだけど、ジョブズとジョン・レノンを並べて見ると、いろいろ面白いよ。

ビートルズは”演奏を特別な機械で複製して世界中に売るビジネスモデル”の完成者だ。彼らの登場で、音楽によって世界的なスーパースターってのが有りだね、ってことになった。彼らに憧れる若者がそのあとを追った。そこでは”複製はカンタンにはできないからレコード会社とその周辺産業が莫大に儲かるね”という前提があった。

その構造がインターネットで壊れはじめた時、ジョブズが世界に提示したのがiTunesとiPodだった。そのレコードとかCDとか特別な複製にすがるの、もう終わりにしない?だって複製はもうファイルをコピーすればできちゃうよ。だったらもう、ユーザーの方で好き勝手に複製して利用してもらえるシステムにしない?そんな提案をしてきた。

そしてiPadだ。もうこれに対しては20世紀のスーパースター製造システムは無関係だ。マスメディアなどコンテンツの大量流通を支える産業はいらないことになってしまう。ビートルズのようなひとつのスーパースターが世界中を席巻する、なんてことはiPad上では起こらないだろう。

だたし、誰でも小さなジョン・レノンになれる可能性をiPadは示してくれる。自分の創造性をメディアのフィルター抜きでほんとうに理解して愛してくれる相手を世界中で数万人でも集められれば、クリエイターは表現し続けていけるのだ。それはスーパースターになって世界中のメディアにさらされるより、幸福なのかもしれない。

なんか、いったい何を言っているのだろう、という内容になってしまったけど、とにかくね、スティーブ・ジョブズはロックンローラーなのだと思う。そういうロックンローラーも有り、ってことに、していい?

iPadが受継いでいるMacのメッセージ

さて梅雨もあけていよいよiPadの熱い夏がはじまるね。なにしろ、決戦は夏休み(by @higekuma3)。iPadでなんかしたい皆さんはこの夏に何をどうするかで今後が決まっちゃうよ。焦らなきゃ。

さてiPadについて新しいシリーズを書きはじめるわけだけれども、その前に、いささか情緒的というか酒飲み話みたいなことを書くよ。でもiPadについて考える記事の一環ではあるのだけど。

iPadはどう見てもMacintoshというコンピュータのひとつの進化形だ。で、そもそもMacとは何なのだろう。

ぼくがMacをいじりだしたのは、ちゃんと憶えてはないけどたぶん93年だ。広告代理店を辞めてフリーランス稼業をはじめた。その生活の片手にあったのがMacだった。

その当時はようやく、気の早い広告デザイナーたちが仕事にMacを使いはじめていた。ぼくのMac体験も、あるデザイン事務所でふれたのが最初だった。すでにワープロは使っていたので、すぐになじんだ。これは仕事に必要だねと、秋葉原に買いに行った。Performaという機種だった。初心者向けの、わりと大したことない機種なのだけど、ぼくはすごいものを手に入れたと思ったもんだ。

当時はまだコンピュータはコマンドを入力して使う、シロウトにはわかりにくーい物体だったのが、MacはいわゆるGUIで、思い描いたことを形にできるマシンだった。普通のコンピュータとは発想がまったくちがう。Macを手にした時、ぼくは、さあこれであんたは何をするね、と言われている気がした。さらにモデムを使ってピイーーーーヒョロローーーガーーーーーーッとインターネットにつないでもみた。ちょっとしたWEBページを開くのに何分もかかったけれど、ああこれでぼくたちは世界中とつながるんだと感動した。

Macとは、頭の中にあることを次々に形にできるし、世界中の人ともつながることができる、そんなマシンだった。

創造力と、創意工夫が問われてる気がした。ほら、あんたもこれでいろんなこと、やってみなよ、というメッセージを感じとった。

そしてフリーランスの道を歩みはじめたぼくにとって、Macはひとりで生きていくための強力な武器だと思えた。自分の脳みそとMacがあれば、闘っていける。そんな気分になれた。

スティーブ・ジョブズという人が開発したのだけど、会社を追われていまはまた別のことをしているらしい、ということも知った。ガレージでウォズニアックというもうひとりのスティーブと一緒にはじめたのだという。そんなストーリーが、さらにMac独特の価値を高めた。若さと意欲で、新しい概念を産みだした、その結果がMacなのだと。なんてカッコいいんだ!

ストーンズのStart me upにのってウィンドウズ95が登場してもぼくは目もくれずにMacとともに走っていった。マシンも、PowerMacを数台買い替えたり、PowerBook2400というモバイル機も買ってケータイで通信したり、CPUやHDDの換装なんてことまでやった。クラリスインパクトで企画書を作ったり、ファイルメーカーで自分の利益管理をするフォーマットを作ったり、フリーウェアを落としてみたり、ISDNでネットにつないでその速度に感激したり。自分の仕事のやり方の進化と、Macの進化がシンクロしていた。

やがてスティーブ・ジョブズがAppleに復帰し、iMacを皮切りに次々と新しい施策を打ち出していった。MacOSXが登場して操作感覚がまったく変わった。新しいインターフェイスは未来そのものだと感じた。iTunesが登場したら持ってるCDをどんどんぶちこんで自分で編集したCDを焼いてカーステレオで聴いた。iPodが出たらさっそく買い、Video iPodが出たらまたすぐに買った。U2のVertigoの映像を購入して何度もビデオを見た。

そんな風にAppleと歩いてきた、その流れの中にiPad登場はある。だからそれまでの製品群と同じようにぼくは買ったのだろうか?いや、ちょっとちがうんだ。ちょっとじゃないな、ずいぶんちがう。iPadはMacの延長線上にある製品なのだけど、延長線上にはないとも言える。言ってみれば、突然変異なのだ。ガクンと一段ステージが変わった。そんな製品なのだと思う。

iPad登場を知った時、また徐々にその概要がわかってきた時、そして何より、実際に自分で手に入れてみて、感じとった印象はどこか懐かしいものだった。あ、この感覚は、前にも似たことがあったぞ。

それは、はじめてMacにふれて、Macを手に入れた時。あの時の気分とすごく近い。似ている。ほとんど同じ。

だってiPadはぼくに問いかけてくるのだ。さて、これであんたは何をやってみたい?創造力が問われてる。創意工夫をしたくなる。Macではできないことを、Macよりカンタンな感じで、できそうなんだ。

パーソナルコンピュータとは誰の発明なのか、いろいろ解釈はあるだろう。ぼくはスティーブ・ジョブズが発明者だと受けとめている。その発明品が、Macなのだと。そしていま、スティーブ・ジョブズはもうひとつ、重大な発明をした。iPadという、iPhoneを数倍にしただけのシロモノなのに、まったく新しい概念をまたもや形にしたのだ。

iPadに人びとはどうしてコーフンするのか。それは、問いかけてくるからだ。アプリを作りたい人に、コンテンツの新しい見せ方を考えたい人に、広告の新しい手法を考えたい人に、プラットフォーマーとなって巨大なマーケットと権力を手にしたい人に、さああんたは何をするのかと、問いかけてくる。もちろん、ただ使ってみたい人にも。だから面白いんだよ、これは。B5版程度の薄っぺらな板が、世界中の人の創造性と野心を刺激する。

なんか、不思議な現象だね。でも、この夏、世界中が、熱いよ。iPadで熱くなっちゃうよ・・・

おさらい3:iPadは普遍なのか?

というわけで、総集編の3つ目のテーマはようするに、iPadって定着するのかね?一時的なブームで三年ぐらいしたら盛り下がっちゃうんじゃね?大丈夫?って話。

これについてはまた”図”を描いてみたので見てみてちょうだい。

iPadはLIFEのための史上初のコンピュータだ、と前にも書いたのだけど、そのことを表した図なんだね。これ、わかりますか。

ぼくたちはいつの間にか、家庭でもPCを使うようになっていた。おそらくその大半はノートPCなんじゃないかな。もちろんデスクトップタイプより使い勝手がいい。ダイニングテーブルにノートPCを置いて家計簿つけて奥さんが暗い顔をする、なーんてシーンが”フツー”になっている。

でもよーく考えると、家庭の中でPCって変だった。そりゃ家計簿つけるのは”仕事”だったりするからPCはいいでしょう。でもPCをリビングにも持ってきて、ひざの上に置いてWEB眺めたりって、けっこう不格好だしそもそも不便だった。クリックしてまたクリックしてWEBを渡っていったり、RSSでチェックすべきニュースサイトやブログの記事を読んでみたり、Twitterのタイムラインをどんどん流し読みしていったり、そんな時にノートPCについてるキーボードはあんまり意味がなかった。

だからキーボードがないiPadは、キーボードがないという実に単純なことによって、LIFEに溶け込むことができるんだ。なーんだ、キーボードっていらなかったんだなあ。具体的なブツを提示されて初めて気づいた。

そうやってとらえると、iPadはパーソナルコンピュータが登場して以来の新しい物体なんだと思う。だからどんどん普及すると思う。普遍的な製品になりえると思うんだ。もちろんAndoroidのタブレット端末を買う人もこれからiPadと拮抗するぐらい増えて行くのだろうけど。Andoroidも含めて、タブレットに普遍性があるのだと思う。

ただし、ケータイ電話やPCみたいに、ほとんど人間の数だけ普及するかと言えば、それはちょっとちがう気がする。iPadとAndoroid合わせても3割ぐらいの普及率で止まるんじゃないかとぼくは予測している。誰にとっても必需品と言えるようにはならないんじゃないかな。

だってiPadでやることって、相当に余計なことばかりだろうから。何しろ、雑誌を読んだり、映像みたり、そういうものだから。ないと困る、と言えるものではない。あくまで、LIFEの中でPCを使っていたことの代わりに使うものだから。リビングでPCを使うよりは断然いいぜ!という製品なので、おれはもともとリビングでPCなんか使ってなかったぜ、と言う人には関係ないモノじゃないかな。

別の見方で言えば、iPadは情報やコンテンツに強い意欲を持つ人のための製品。そんな意欲はないね、あんましね、と言う人には無用の長物になってしまうだろう。

iPadについて書いている人の中で、持ち歩くには重たいのでiPadはダメだよ、ネットPCの方が便利だよ、という意見を見たことがある。それ、ちょいーっとちがうんだなあ。そういう人は、WORKしたいんだろう。日常的に移動しながら、WORKしたいんだろう。そういう用途なら、PCの方がいいに決まってる。だってキーボードついてるもん。

iPadはもっとそうとう、どうでもいいものだ。どうでもいいことをする時に使う、どうでもいいもの。それがiPadなのだと思う。

そして人間は、どうでもいいことをしたくなってしまう動物だ。どうでもいいことが大好きで、どうでもいいことができないと死んじゃうよ、って人がそれなりの割合でいる。そんな、どうでもいいことを便利に、気楽にできてしまう、どうでもいいものが必要だったりするんだ。どうでもいいことを、洗練させていくことが”文化”というものなんだ。

ぼくもそういう、どうでもいいことが死ぬほど好きな人間だったりする。このブログだって一銭にもならないどうでもいい作業けれども、もう日々書きたくなってしまう。そんなぼくだから、iPadは大好きだ。面白くって仕方ない。

iPadは普遍なのか?ぼくにとってはそうだ。そしてそういう、たぶん3割ぐらいの人にとっては普遍だ。逆に言うと、iPadとはしょせん、そんなもんだ。そんなもんだという前提で捉えていかないと、まちがっちゃったりすると、思うよ。

おさらい2:iPadは偶然なのか?

総集編は数回続く、と書いた通り、おさらいの2つ目を書くよ。まだまだiPadについて考えるべき点はあるからね、いっぱいある。

iPadの2010年の登場というのは、よくできてるなあ、と思う。今年でなければならなかったと思うんだ。去年だと早すぎただろうし、来年だと遅かったんじゃないか。今年登場したことが、すごくよくできたストーリーになっている。そう思わないすか?

終始ネットにつないで使うタブレット端末。使い方はすべてアプリで行なう。しかもアプリを提供するのはAppleではなくあまたのサードパーティで、なんだったら個人でもいい。そんな端末は、2010年こそぜひとも必要だった。

まずiPhoneによって”Appleのハードとサードパーティのアプリ”によるエコシステムが成立していた。しかもiTuneStoreにクレジットカードを登録してある。そういう状態が必要だった。ここでよーく考えてみると、多様なアプリ、つまり音楽関係のアプリはごく一部にすぎないのに、それをMac上でダウンロードするのはiTunesという名前の音楽アプリケーションを使う。これって変じゃね?

もちろんぼくたちは、そのプロセスを知っているし体験してきてもいるから、変とも不思議とも思わないけど、よく考えると奇妙なことなんじゃないか。最初はCDアルバムから楽曲を自由に取りだすためのアプリケーションだったiTunesが、やがてアルバムをHDに入れて楽しむiPodとのセットになり、次には音楽を有料で配信するiTuneStoreも内包するようになり、そして”電話もできるiPod”であるiPhoneが登場するとアプリのプラットフォームとしても使われるようになった。

そういうプロセスがあってiPadは登場した。まずこの流れがよくできたストーリーだと思う。

でもそこだけだと、Appleのマーケティング戦略は少しずつ進化してきたね、ジョブズは天才だね、という話で終わるところ。

ところがそこに、マスメディアの凋落という現象が加わると、このタイミングで登場したiPadの偶然はいったいなんだ、と言いたくなってくる。マスメディアがまだまだ世界中で元気で、マス広告費の減少も起こってなかったとしたら、人びとが20世紀と同じようにマスメディアで満足しきっていたとしたら、iPadの登場はこれほど盛り上がってなかっただろう。

そしてもう一点、マスメディア凋落とも関係するのだけど、ソーシャルメディアがちょうどぐいぐい普及してきた2010年、というのもある。これがまた、去年だと早すぎだし来年だと遅すぎた最大のポイントだ。

ずいぶん前の「iPad=LIFE STATION」という記事で、ソーシャルの”互いに教えあう仕組み”とその先にあるメディアをiPadが呑み込んでしまうと書いた。これは日々痛感していることで、iPadを楽しむ起点がぼくにとってはすっかりTwitterになってしまっている。iPadでTwitterを読み、そこで教わったことをまたiPadで見るのだ。メディア視聴が8割方iPadで完結してしまう。だからiPadに大きな存在意義があるのだ。

マスメディアの凋落と、ソーシャルメディアの普及が明確になったのが2010年であり、iPad登場のインパクトはここしかありえなかったのだ。

なんたる偶然!もしくは必然!スティーブ・ジョブズが神でないとしたら(そしてもちろんそうではないのだけど)、いったいこの偶然のカタマリは何なのだろう?誰が仕組んだのだろう?Macintoshが登場し、その後すぐにジョブズがAppleを追い出され、しばらくすると復帰してiMacを皮切りにAppleをよみがえらせていった、そのひとつひとつが、iPadの伏線にすぎないんじゃないか、とさえ思えてくる。あ、ごめん、ちょっと大袈裟に言い過ぎた。

偶然か必然か、ジョブズが神かどうかも、これまでが伏線かどうかもぜんぶ置いといても、とにかくiPadは実に絶妙なタイミングで登場したことはまちがいない。そのことに登場の意義があり、”世の中変えちゃうかもしんない感”が漂ってしまうのだ。そこんとこ、iPadについて考える深味に入る前に、おさえとかないといかんのよ、というお話でした。

で、えーっと、おさらい編がまだ続くのかは、よくわかんない。たぶん続くんだと思うなー。

おさらい:iPadは革命なのか?

iPadについての新しいシリーズをはじめる、と宣言しておいて、まだはじまらないの。その前に、総集編的な記事を書いておこうと。たぶん総集編が数回つづく、はず。

それでね、久々の”図”の登場です。これはね、コンテンツ業界というか、コンテンツの作り手はどういう分類で、どういう流れで作っているかを描いたもの。これに収まりきれてない職種もあるかとは思うんだけど(とくにWEB系を整理できてないのね、許してね)、大ざっぱな概念図ということでカンベンしてくださいな。

クリエイター(という括り方が適切かはわからないけど)はだいたいこんな感じで仕事してきた。これはつまり、メディア別なんだ。もっと言うと、マスメディア別。

結局、クリエイターとは、マスメディア別なの。そうだったの。だってそういうお金の流れの中で仕事してきたからね。

iPadは、革命なのか。革命だというなら、どういう革命なのか。その答えが、この図から見えてくる。iPadは、こういうコンテンツを作る流れと、構造と、まったく別な流れをつくろうとしている。最初にマスメディアが、企業から広告費をとったり、読者や観客から購読料や入場料を徴収したりする、そういう流れとはまったくちがうお金の流れを作ろうとしているわけ。あるいは、まったく別のお金の流れを、作ろうと思えば理論上作れちゃう、そういうプラットフォームを突然ボコッと登場させたわけ。そこが革命なんだと思うんだ。

いままでは、メディアにお金が流れてくるから、それを原資にコンテンツを作っていた。マスメディアにお金が集まる仕組みを前提にクリエイターが汗水たらしてきた。そしてそこには常に、どこか、なーんか働かされちゃってる感じ、使われちゃってる感じが漂っていた。他者が集めて渡してくれるお金に対して、隷属していた。あ、すみません、ありがとうございます、とひれ伏していた。え?ここはこう修正した方がいいですか、そうですか、明日までにやっときます、徹夜で、はい。あれ?昨日寝たっけ、みんな?そんなことがフツーだった。

iPadの場合は、コンテンツそのものにお金を集める力がありますか、というのが前提。そのコンテンツに世界の普通の老若男女がお金を払ってくれるんですか、そういう魅力があるんですか、と問われる。あります、あるはずです、と信じてアプリを配信したら、ほんとうにお金がたくさん集まる可能性が、ある。理論的には、ある。あるいは、そのコンテンツに企業が広告費を払いますか、という方向もある。これも理論的にはある。広告費、集まります、ということで、コンテンツが制作できる、かもしれない。理論的には、そうなの。

でも、まだ、実際にそういう事態が起こったわけでは、ない。あくまで、理論的には、起こりえる、ってこと。

それから、とにかく配信してみようか、作ってみようか、と企画しはじめると、おそらくみんな、あれ?と気づく。いままでと同じメンバーだとできなくね?だってプログラマーってどこにいんの?それに映像って誰つくれるの?とか、InDesignいじれるやついないじゃん、とか、音声ないと寂しいけど、音声ってどうやるんだ?なんてことが、次から次に起こるだろう。だってぼくたちは、メディア別の人たちだったから。大きく括ればコンテンツ業界、同業界のはずなのに、これまでメディア別の柵を越えて仕事したことなかったからね。でもiPadコンテンツでは、雑誌編集者と、映像制作者と、音楽制作者が、一緒になって仕事する、みたいなことやってかないといけない。そうじゃないと、なんでiPadで出すの?ってことに、なりがちだろう。

そういうところも、革命なんだと思う。理論的にドリーム描ける分、いままで越えたことのなかった柵を、おそるおそる、でもどんどん、飛び越えていかないといけない。てやんでい、おれは○○○職人でい!なんて江戸っ子で意地張ってる場合じゃなくなるんだ。

iPadは革命なのか?はい、そうです、革命です。マスメディアの集金構造にあぐらかいてた人に変革を迫り、自分の職業ワールドに頑固にこだわってた人にも意識改革を迫るんです。そいでもってこの流れは、止まらないんですなあ。

@higekuma3によれば、まず最初の決戦は夏休みなんだって。今年は、熱い夏になりそうだね・・・

DONの蛸三郎さんにお会いした

金曜日は東京ビッグサイトで開催されているデジタルパブリッシングフェアに行ってみた。午前中の2時間ほどいただけなんだけど、ちょっと物足りなかった。これまで電子書籍について情報収集してきた以上の内容ではなかったのだ。まあ、ぼくが先を急ぎすぎているだけかもしれなけれど。

前回、「とにかくはじまったんだなあ」というタイトルで書いたように、日本の電子出版はまだスタートしたばっかりで、具体的なサービスになりきれていない、という印象。いちばん気になったのは、中国の電子書籍端末のブースに、なんともいえない”勢い”があったことかな。

さてその夜、明石蛸三郎さんにお会いした。新聞業界の最新情報についてのブログ「DON」を書いておられる方だ。あるいは、Twitter上で@Akashitakosaburのアカウントでやはり新聞に関してTweetをどんどん発信している方でもある。

お会いしたのは新橋のもつ焼屋。蛸三郎さんファンの方数名によるオフ会にぼくも駆けつけたのだ。途中からだったのだが、すでに飲み会は”できあがって”いて、蛸三郎さんもどんどん酔っぱらっていく。

「DON」を読んでいる人ならわかることだけど、毎日4〜5本のブログを次々に更新されている。そしてその多くは、海外の新聞などメディアに関する情報を翻訳したものだ。ぼくはそのペースになんとか追いつきながら記事に目を通している。そしてその内容の濃さに圧倒される。

新聞業界に警鐘を鳴らしているのだろう、という意図は読んでいるだけで感じとれた。そしてぼくはそこに、どこかシンパシーを感じていた。このクリエイティブビジネス論だって、クリエイティブに携わる”仲間”のために書いているつもりだった。これから大変なことになるよ、いままでと同じ考え方じゃまずいよ。そんな気持ちで書いてきて、08年後半からホントに大変なことになってしまった。

蛸三郎さんのブログにも似たモチベーションがあるのかな、と思っていた。でもまた、もっと深刻で、真剣な危機意識を日々の文章の奥底に感じてもいた。そしてまた、どこか哀愁というか、悲哀というか、淡々とした文章の裏側に人間味めいたものもにじんでいた。だからぼくは蛸三郎さんに強い興味を持っていたのだ。いったいどんな人なんだろう?

名刺交換をすると、<新聞・電子出版評論Blog「DON」主催 明石蛸三郎」と堂々と印刷してある。その下に()付けで小さくご本名が入ってはいるけど、”明石蛸三郎”でセルフブランディングがなされているわけだ。

「DON」はその内容が新聞業界の人にとっては”キツすぎる”ようで、いろんな意見をもらうそうだ。だから、あまり本名や素顔を明かさないようにしているという。ぼくもここで、うかがったご経歴や外見の印象は書かないでおこう。

ただ、お話をうかがって、ブログを書くモチベーションが何なのかはよくわかった。やはりそれは、新聞に携わってきた仲間への警鐘なのだけど、彼にとっては具体的な他業界の例がある。その悲惨さを目の当たりにしてきたからこそ、真剣にメッセージしているのだ。

そのあたりは、DONの今日の記事の中で3つに分けて書いておられる。「失われた10年に於ける金融業界のようになって欲しくない」と書いている。金融業界の信頼崩壊の顛末を間近で見てきたからこそなのだと。

それからもうひとつ、ブログにも書いておられるが、「新聞業界はどうなってもええんですよ、ジャーナリズムが崩壊してしまったらあかんのですよ」と、ぐでんぐでんに酔いながらぼくに熱く語った。そうだ、大事なのは、業界や会社じゃないんだ。そこで働く人間が大事で、その人間たちが拠って立つべき精神が大事なんだ。それを支えるビジネス的な根拠が、このままただ失われてしまっていいのか。失われてならないなら、どうすればいいのか。そんなことを、蛸三郎さんは問いかけているのだろう。

さてぼくが「DON」にもうひとつ感じていた”人間味”。その発信源はもちろん、蛸三郎さんの人柄にあった。ブログのシリアスな内容とはまた別の、ユーモアとペーソスの入り交じった蛸三郎さんのキャラクターがブログからもにじみ出ているのだ。飲みながら話していると、ホントに”関西のおっさん”だ。Twitterでも夕方から突然「いけーーーーっ!」「逆転だあー!」などと阪神戦実況Tweetに変身するのだけど、阪神大好きな関西人のおちゃめなおっさん。なんと言うか、誰からも愛されてしまうようなキャラクターだった。

彼はこれから、新聞業界のコンサルタント的な人になっていくんじゃないだろうか。記者を引退して大学教授などになって古巣の業界への意見を言う人はいるけど、もっと現場に近い意識と、ビジネス的な見地を併せ持って業界に提言できる人は意外に他にはいない。彼が鳴らしてきた警鐘が、実際に各新聞社の上の層にまで届く日は近いとぼくは思う。

蛸三郎さんはぼくたちとの飲み会に感激してくれて、何度も握手を求めてきた。そのたんびにふれる蛸三郎さんの手は意外に柔らかく、温かかった。その感触が蛸三郎さんという人、そのものなんだなあと感じた。またきっと、お会いできるんじゃないかな。

とにかくはじまったんだなあ〜iPadから見えるコンテンツの未来・その32〜

今週もあっという間に週末を迎えようとしている。そして何やら、iPadに関する動きが具体的で活発になってきた。みんなただボーッとしているはずもないよね。このところ、ホントに”さあやりますよ!”というニュースが飛び込んできたり、コンテンツアプリが登場したり、とにかく次々に動きがある。

例えば「Shorts Shorts」というアプリ。日本発のVODサービスだ。ショートムービーが全部で8タイトル。これがいまなら800円で購入できる。ホントは1200円だけど発売記念価格らしい。

あるいは「少年サンデー」。これはもちろん、マンガ雑誌のコミック本を販売する書店アプリ。懐かしい「うる星やつら」や最近の「MAJOR」など4タイトルの単行本が一冊450円で読める。マンガはPDFでも全然オッケー。ある意味iPad向きなコンテンツだね。「うる星やつら」は学生時代に全巻揃えてたんだけど、数年前の引越しでついに捨てた。でもこうして電子版で登場するとまた読みたくなるから不思議。

かと思えば「NTTドコモが電子書籍配信に参入」というニュースも入ってきた。ケータイ電話やスマートフォン向け、としか書いてないからiPadは関係ないかもしれない。でもこれで、携帯キャリア3社が電子書籍事業にそろい踏みになったのだそうだ。

一方で、東芝やNECがタブレットPCを年内に出すらしいというニュースもあった。もちろんAndoroid端末で、アプリを使うためのもの。こういう動きもぐいぐい出てくるんだろうね。

かくして、ぼくのiPadにはアプリがズラリズラリと並んでいる。正直言って、どれで何すればいいかわからなくなってきた。

わからなくなってきたのは当然で、いまはまだ、何がどうなるのかわからない時期だ。ただ言えるのは、とにかくはじまったんだな、ということ。これからこのiPadという場所で、どんなコンテンツをどうアプリにしてどう配信しどうプロモーションすればいいのか、みんながよってたかって試行錯誤をはじめるわけ。

ぼくの予想では、2012年までは試行錯誤期間なのだと思う。戦国時代で言えば、戦国時代が応仁の乱ではじまった、ぐらいの時期なんじゃないかな。誰が天下を取るのかさっぱりわかんなくて、でも”もう室町幕府じゃなくっていいみたーい”ということだけは、はっきりしたと。

2012年までというのは、なんとなく三年間、といういい加減な理由もあるのだけど、なんと言っても来年の地デジ化完結、アナログ波停波、があるからね。これは大変なことだよ。まちがいなく、数パーセントは、つまり統計にはっきり現れるぐらいの世帯が、テレビを見なくなる。もう、広告業界ガタガタになる。と思うと、ちょっと恐ろしいね。

テレビにはもうひとつ、少し前に書いたコネクトテレビへのシフトか?という問題もある。放送はいまより比重がぐんと下がるだろう。

リーマンショック以降最大の余震が起こる。しかもこの余震はいまから起こる日が決まっているんだ。奇妙なことだね。そしてこの余震と、iPadの今後、っつうかタブレット端末の今後が大きく関係してくる。

だからぼくたちはとにかくはじまったこの、何て言うの、この大きな動きについていかなきゃいけない。業界中の試行錯誤に参加しないわけにはいかない。その試行錯誤をダイヤモンド社のDreaderの開発のようにめいっぱい面白がりながら、毎日新聞「photo J」チームのようにえいやっと決断して走り出さないといけない。

というところで、このブログの「iPadから見えるコンテンツの未来」のサブタイトルは一旦終了。終了と言ってもiPadについて書くのをやめるんじゃなく、もうちょい視点を変えるか分けるかして再スタートするってことね。iPadについて、はじまったね、と確認したところで節目をつけようというわけ。

さて、明日はビッグサイトに行かなくちゃ。何しに行くの?ってそりゃあなた、わかりきってるじゃござんせんか・・・

走りながら考える。それは正しい〜iPadから見えるコンテンツの未来・その31〜

昨日はダイヤモンド社でDreaderを開発した方の話を書いた。けっこう勇気をもらえる話だったでしょ?で、前々から書こうと思っていた別の方とのお話を、昨日の記事に続けて書くといいぞ、と思い立った。そちらの方とは、先週お会いしていて、これはいつ書こうかなと思っていたのだけど、うん、ここがそのタイミングだぞ、と。

iPadについて書いているこのシリーズは、日本の雑誌コンテンツがどれもこれもPDFだったことに大失望したところからはじまって、その数日後に「国産の電子雑誌も頑張ってるぞ!」と題した記事を書いた。がっかりしてたら、なんだ、ちゃんとiPadのための雑誌コンテンツが登場したじゃないかと。実際ぼくは、すごくうれしかったんだ。

その”頑張ってる”国産の雑誌「photo J」に関わっている毎日新聞社のTさんとお会いしたのだ。同社の別の方と、五反田でホルモン焼き食べたのね。そのホルモン焼きがね、って話は関係ないか。

Tさんは最初、あまりしゃべらなかった。その会は、もうお一方の毎日の方とぼくがお会いするのがメインの催しだったせいだろう。でもホントにあんまりしゃべらないので、大人しい方だなあと思っていた。

ところが話が「photo J」に及ぶと、キャラが一変。と言ってもすごい勢いでしゃべり出したってほどでもないんだけど、懐に隠していたあっちっちーと熱いものを、もう隠してらんないって感じで情熱的に語り出した。

「photo J」は編集後記に、4月にiPadを入手してから創刊することになったようなことが書いてある。DTPboosterに参加した人なら、WoodWingの説明の中でアイルランドの火山が噴火して「photo J」のスタッフが帰国できるか危うかった、というエピソードが出てきたのを憶えているだろう。この流れを生々しく聞くことができた。

ホントに、「photo J」をつくった部署のみなさんはiPadを手に入れて、ある日の会議で全員一致で「こりゃおれたちもやろうぜ!」と創刊を決めたのだそうだ。責任者の方もiPadを触ってしまうと、「やれ!進めろ!」とGOサインをくれた。

と、軽く書いてしまうと、あ、そうなの?と流されそうだけど、でもよく考えるとけっこうとんでもないことだ。普通なら、どうやってつくるか、いくらかかるか、どれくらい売れればもとがとれるのか、よく考えような、検討しような、となるだろう。ところが、そのチームの皆さんも、そして上司の方も、”まず決めるところから”はじめているのだ。しかも、こう言っちゃなんだけど、歴史ある新聞社の組織の中で、だよ。

そこからはホントにてんやわんや(死語?)のしっちゃかめっちゃか(これも?)だった様子。2カ月だもん。4月初めにiPadを見て、6月頭に出しちゃったんだもん。しかもiPadってどうやってつくるんだ?ってとこからはじめたんだもん。それは大変だわ。

TIMEはどうやったんだこれ?え?WoodWing?オランダのシステム?じゃオランダ行け!って勢いで、飛行機に乗ったスタッフ。オランダでWoodWingを学び、アイスランドの火山灰にゴホゴホいいながら飛んで帰る。記事の構成は誰がやるの?じゃあおれだ。あの作業はどうする?お前やれ。そんな感じで役割分担どんどん決めて、進めていったそうだ。そしたら、6月にできちゃったんだって。すごくね?

このプロセスでいちばん大事だったのは、最初なんだと思う。「まず、やると決めるところからはじめた」という点だ。これね、なかなか決められないよ。それは利益でるのかね?わからないのかね?わからないのはハンコ捺せないよ。そんな役人根性がどの会社でも蔓延している。でも彼らは「やる!」と決めた。決めたなら、なんとかなる。走り出せば、あとは走りながら考えればいいんだ。そしてだいたい、走りながらちゃんと考えれば、ゴールにはたどり着けるものなんだ。

ではなぜ最初に「やる!」と決められたのだろう。きっと、全員が「やりたい!何かここで見るものをつくりたい!」と強く感じたってことだと思う。これも昨日の”面白いが大事”という話とすごく近いんじゃないかな。やりたい!その感覚はすごく大事だ。

どんなにキレイな事業計画書を作っても、魔法のように単年度で黒字化するようなPLをつくったとしても、誰も「やりたい!」と思ってないことは、成功しないんじゃないか。逆にPLなんかなくても{やりたい!」があれば、黒字化できるのだと思う。

やりたい!と強烈に感じることには、PLには反映できないポテンシャルがあるのだろう。何しろいま、世の中全体の未来が見えない。ましてや出たばっかりの端末用に何かつくっても、利益が出るほど売れるかどうかなんてわかるはずがない。わからないからやめとこう、ではなく、わからないけどみんながやりたい!と感じたのなら、たぶん”やるべき”なんだな。そのチーム丸ごとの「やりたい!」には、実はマーケティング的な意味があるのだね、おそらく。

毎日新聞社のTさんとのホルモンミーティングは、そんな話が聞けてすごく楽しかった。iPadには不思議な力があるんだ、たぶん。「なんかやりたい!」と胸の中にあった情熱をぐいぐい引き出し、そしてまたそういう人たちを結びつけてしまう、そんな魔法をiPadは持っている。もやもやとくすぶっていた自分の中の何かをごごーっといきなり大きな炎にしてしまう発火剤みたいなものかもしれない。現業にどっか疑問を感じていた人たちを、ピピーッと集合させてしまう魔法の笛なのかもしれない。

だってさ、きっとこのブログを読んでくれてるあなたも、そうなんじゃない?胸の中でごごーっと炎が燃え出してるんじゃない?それが熱いうちに、走り出そうか。なーに、走りながら考えればいいんだから。イノベーションって、ようするに、走り出すことなんだからさ。

「面白くなってきちゃってね」〜iPadから見えるコンテンツの未来・その30〜

前々回の「iPad雑誌はうまくいかない?」でちょっと意気地なしなことを書いたらいろんな方からコメント欄やTwitterで心配してくれたり励ましてくれたりしてもらった。そこで前回の記事で「まだまだ妄想していこう」と気を取り直して前向きなことを書いたら今度は、元気が出たよとかモチベーション上がったよとか言ってもらえた。なにか、勇気のキャッチボールみたいなことになって、うれしいじゃないか。みなさん、ありがとう。

さてそこでここは、もう一歩勇気な話を書かなきゃと。そうしたらちょうど面白い方とお話できたので、今日はその話を書くよ。

出版社のダイヤモンド社には少なからぬ縁がある。ダイヤモンド社と言えば、TwitterユーザーやAppleファンは最近気になる出版社だと思う。週刊ダイヤモンドの特集がタイムリーな企画を打ちだし、また『もしドラ』の大ヒットでも注目されている。そして電子出版でもちょいと独自な取り組みを展開中。そこで、前々からおつきあいのある方にお願いして、電子出版部門の方をご紹介していただいたのだ。純粋に勉強のためというか取材したかったのね。

書籍編集局のIさん(イニシャルにする必要もないかもしれないけど、いちおう)は、んーとぼくは何を話せばいいの?というムードで登場。でもDreaderの開発の話をお願いしたら、淡々と、でも奥底にある情熱を垣間見せながら語ってくださった。

あ、Dreaderは知ってるでしょ?ダイヤモンド社が独自に開発した電子書籍リーダーアプリだ。よく知らなかったという人は、このリンクで基本説明を読むといい。ぼくはこのDreaderにはかなり驚いた。出版社が、しかも失礼ながら大手とは言えないダイヤモンド社が独自にリーダーアプリを開発したのだから。

前にも説明したけど、テキスト中心の電子書籍には様々なフォーマットがある。世界標準になりつつあるePub形式は縦書きやルビに対応していないので、日本語の電子書籍化には問題がややある。リーダーアプリではボイジャーが開発したT-Timeを採用する出版社が多かったりする。でも出版社が独自に開発した例はいまのところダイヤモンド社だけだ。

開発ストーリーを語るIさんが、楽しそうに(あからさまに楽しそうってわけでもないけれど、楽しさが伝わってくるのだ)話をされるのがまず面白い。こっちまで楽しくなるのだ。

電子書籍への対応を検討するうち、現状の各リーダーアプリには課題もあり、独自に開発しよう、となったのだそうだ。課題というのは、このままじゃ読者が読みやすくないんじゃない?というところ。ここがポイントで、企業としての利益面を気にしたのではなく、読者にとってどうなの?という視点に立っている。

それから、開発を優秀な方にお願いするのだけど、一緒に開発する姿勢で取組んだそうだ。ここも大事なことだと思う。開発者に丸投げしちゃって、ああできましたかそうですか、という態度ではないわけ。開発の方だって最適なインターフェイスをパパッと作り出せるわけではないに決まってる。読者視点でここはもっとこうしよう、などとどんどん意見を出しあっていくべきなのだ。プロにまかせるかどうか、ではなく、一人の読者として読みやすいのか、納得いくのか。

そんな話をしながら、Iさんはぼくに言うのだ。「そうやって読者はどう思うかななんて考えて開発して改良したりするのがね、どんどん面白くなってきちゃってね」

どお?ステキでしょ?どんどん面白くなってきちゃった、んだって。この人面白いなあ、ステキだなあ、とぼくの方も面白がりながら、またここは大事なところだなあ、と思ったんだ。

面白いことが大事。面白がることが大事。面白いことには何かがあり、面白がる心はなんともクリエイティブなことだと思ったんだ。

別の見方をすれば、他のガッカリするアプリや電子書籍の販売形式。どことは名指しはしないけど、あーこれめんどくさいなあ、というアプリ(=売場)には”読者視点”がないのだろう。”面白がる心”が足りないのだろう。開発者に頼んで、あ、できました?という姿勢から生まれたアプリは支持されないだろう。そうじゃなくて、こうなったらもっと読みやすいのかなあ、こういう買い方はめんどくさいのかなあ、などと”妄想”することが大事なんだ。

そして、そんな作業はちっとも苦じゃないのだろう。楽しくて仕方ないのだろう。

電子書籍が今後伸びるんじゃないかとか、iPadは何千万台売れるのなら市場になるなとか、もちろんビジネスとしての視点も重要だけれども、それよりもずっと大事なのが、優先されるべきなのが、面白さ、なのだと思う。

もうひとつ、重要なことも聞いた。「もしドラ(もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら)」を電子書籍で出したら紙の本の売れ行きも加速したのだそうだ。もちろん電子書籍版も大ヒット。電子版が話題づくりに一役かったのだろうし、相乗効果ももたらされたのだろう。

これに似た現象は、前に書いた「電子書籍の衝撃」発売前にも起こった。電子版無料ダウンロードがアマゾンでの予約順位をぐいぐい上昇させたのだ。

「もしドラ」の場合、けっこう勇気ある決断で、紙の方がどんどん売れている最中に電子版を出すのは普通の感覚では躊躇するところだろう。電子版の方は紙の半額くらいなので、損するんじゃないかと。でも実際には正反対の結果が出たのだ。

Iさんのそんな話から、ぼくは楽しさと勇気をもらった。ブログに書いちゃっていいですか、と聞いたら、ぜひぜひ、だったらDreaderのWEBサイトをみなさんに紹介してください、とのこと。ページの左下に”お問い合わせ”があるので、面白いことやりたい人、アプリ開発ができるエンジニアの方、どんどんコンタクトしてきてください、だそうだ。

面白い人と、面白いことやりたい人は、どんどんコンタクトするといいと思うよ。

という、今日の話も、すんごく勇気がわいてくる話じゃない?どおかな?elly(@elllll)さん?

まだまだ妄想していこう〜iPadから見えるコンテンツの未来・その29〜

昨日は情けない消極的なエンディングとなってしまった。そしたらコメント欄やTwitterでいろんな方から励まされた。なんかそういうコミュニケーションが面白いなあ。うん、そうだね。まだまだはじまったばっかだしね。

ひとつ、弱気になった自分に自分で反論すると、昨日書いたWIREDやTIMEの価格の問題は、アメリカの特殊事情じゃないですか境さんと。国土が広すぎるから雑誌は定期購読で郵送が主流。そうすると一号ごとの単価がすごく下がっちゃう。そんな商慣習の中、iPad版では一冊数ドルの値づけをせざるをえなかった。

日本だと全然ちがうね。

例えばぼくは日経ビジネスや週刊ダイヤモンド、週刊東洋経済などを月に2〜3冊買う。どれもだいたい600円台だ。日本の雑誌は定期購読はすごく少ないんじゃないかな。駅や書店で気軽に買えるからね。

こういう雑誌を買うとよく感じるのが、なんだか非効率な買い方読み方をしてしまっていること。どれもけっこう濃い雑誌なのだけど、だいたいは特集につられて買うから、その特集だけ買った日にイッキに読んじゃう。第2特集もそのうち読もうとか、他にも興味深い記事があるなあとかその時は思うんだけど、翌日はカバンに入れない。ちょっと重くなるからね。家に置いといて、帰宅したら読もうとか思うのだけど、結局読まない。家のデスクの本立てに並んじゃう。そのうち邪魔になってきて捨てちゃったりする。

この手の雑誌が電子化されたらもっと上手に愛読しそうだ。電子しおりとかつけて”あとで読む”ことにしておいて、土日に思い返して読むんじゃないか。あるいは、読んだ記事のスクラップとか電子的にできたらいいね。実際、仕事に関わる特集は切り抜いてスクラップしておこう、とよく考えるんだけど実行しない。でも資料的に重要なはずで、ちゃんととっておいたら企画書づくりに使えたりすると思う。そんな便利な使い方ができる電子版をつくってほしいな。いや日経BPやダイヤモンド社ならきっとそのうちやるんじゃないかな。期待してます。

こういう話に興味ある人は(そしてiPadを持ってる人は)「Sports Illustrated」のiPad版をぜひダウンロードしてみて。これ、いままでみたiPad雑誌の中でもかなりよくできている。

記事の中で”指を長押し”すると、ホイール状のインタフェイスが登場する。ホイールはいくつかに分れていて、記事についてメールできたりTwitterやFacebookでShareできたりする。そこまでは想像つくけど、もっとすごい。その記事の関連記事や写真を呼び出せる。別ウィンドウが出てきてどうやらWEB版のSports Illustratedの記事や写真をブラウズさせるようだ。

雑誌の価値として、「ストック」ということが電子雑誌では浮上するということだろう。さっき日本のビジネス誌について”スクラップできたらいいな”と書いた。簡単にスクラップできたらいいし、スクラップしなくても過去の記事の関連したものがひょいひょい呼び出せたらホントに便利だと思う。

「ストック」という捉え方はメディアにとって実はいままであまりなかった概念じゃないだろうか。マスメディアはコンテンツを短期的に消費させて運営してきた。日本のコンテンツビジネスにとってストックの発想は、盲点になっていたんじゃないかな。短期的に消費させる、つまり次から次にコンテンツを送り届けてそのタイミングでの購読料や広告料で運営してきた。そういうビジネスモデルだった。それでいいし、少なくとも2000年まではそれで十分儲かっていた。だからストックの価値に目がいかなかったわけ。

テレビ番組なんかもそうなんだ。日本の場合は放送された時にマネタイズしてそれでおしまい。ドラマは最近でこそDVDになったりするけど、他の番組はほんとにほとんど一回だけの放送であとはただのテープになってしまう。アメリカではシンジケーションと呼ばれる番組の2次3次マーケットが確立している。放送は”最初のマネタイズ”に過ぎない。そうすると、一回こっきりではない価値を持つ番組を作ろうとするでしょ。これも一種のストック発想。

電子化はコンテンツのストック価値を刺激していくんじゃないか。そこには何らかのヒントがあると思う。

お、ほら、今日は前向きだね。ということで、コンテンツの電子化から起こりうる新しい価値を妄想していこう。まだまだ、まだまだ、妄想は広げられる。広げた妄想を少しずつ具現化していきましょ。なんか、面白そうじゃない?

放送はテレビの一部になる〜iPadから見えるコンテンツの未来・その24〜

前回のテレビの今後の話の続きを書く。・・・とは言え、ぼくもあんまり明確なビジョンを持ってるわけではないので、行き当たりばったりで書いちゃう。だからあまり細かいこと気にしないでね。なはは

最近の日本人の各メディアに費やす時間はかなり変化しているようだ。

愛読しているブログGarbagenewsの最近の記事にも、こんな2つがあった。
ひとつめは、男性10〜30代は「テレビよりインターネット」という記事。
後半の「20代男性におけるメディア接触時間」というグラフはけっこうびっくりで、2008年と2010年でテレビとネットの視聴時間が”逆転”といえる現象を起こしている。

もうひとつ、「不景気でテレビの時間も少々増加、だが・・・」という記事。テレビの視聴時間が僅かに増加傾向だけど、ネット視聴時間はぐいぐい伸びている。

さてここでもう一点、加えるべき視点がある。上記のようなテレビの視聴時間とは、テレビ放送を見ている時間なのか、という点だ。

言うまでもなく、タイムシフト視聴は普通になっている。うちの子供たちなんか、録画が当り前。たまに生で見ている時に、リモコンのスキップボタンを押して「あ、録画じゃないんだっけ」なんて言っている。

さらには、ゲームだのDVDだのなんだのかんだの、テレビモニターをいろいろな使い方で見ているのだ。テレビにインプットするジャックが足りないほどだ。

もはや、テレビ放送は、テレビの機能の一部になってしまっているのだ。

それからもうひとつ、別のブログ記事を読んで欲しい。

野村総研の山崎さんという方が書いておられるSocial Networking.jpというブログ。
その最近の記事で”コネクトテレビ”について紹介している。

コネクトテレビ?

聞きなれない概念だね。正直、iPadやiPhoneを持っていなかったら、ピンと来なかったかもしれない。でも両方使っていると、なるほど将来のテレビはこうなるのかもね、と思えた。

つまり、iPhoneやiPadは基本的にアプリを使う仕組みなわけだけど、コネクトテレビもウィジェットという、ようするにアプリみたいなもんだね、というソフトウェアを使うもののようだ。

画面の下にYou Tubeとか天気予報とかのアイコンが並び、それをリモコンで選んで視聴するわけ。デモ映像の中にはCBSとかNewYorkTimesとか、マスメディアブランドの名前も並んでいた。

ぼくはテレビ放送の中でもやはりニュースをよく見る。帰宅してパッとニュースコンテンツを呼び出せたらこんなに便利なものはない。それができるなら、いままでよりテレビを(生ではないけど)見るのではないかな。

妻は、天気予報を見たがる。天気予報をやってそうな時間になるとテレビ局をザッピングする。翌日、洗濯物を外に干せるかどうかは彼女にとって重要な情報だ。それをウィジェットでパッと呼び出せれば彼女はありがたがるだろう。

言ってみれば、テレビモニター上でも、コンテンツがアプリ化するのだ。

こうしたテレビの新しい使い方は、いろんなことに広がりをもたらすだろう。例えばiPhoneやiPadのような端末と連携することで、有機的で多様な楽しみ方と利便性がもたらされるはずだ。新しいMac miniにHDMI端子がついているのは、Appleもそこを先どりしようというひとつの現れではないかな。

そしてコンテンツの作り手にも、メディア企業にも、考え方の転換を迫る。どうせ迫られるのなら、迫られてから取組むより、それを見越した動きをしていった方が、いいでしょ?

だからぼくたちは、iPadを日々使いこなしながら、その向こうにテレビの未来も見据えていかなきゃいけない。iPadいじってたら、イメージしやすいかもよ・・・