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sakaiosamu について

コピーライター→映像製作会社ロボット→広告代理店ビデオプロモーション→再びコピーライター(フリーランス)。 メディアとコンテンツの未来を切り拓くコミュニケーションをデザインします。講演・執筆依頼もお気軽に!

メッセージを紡ぎ続けること

2010年ももう、あと十日でおしまいだね、ってことで、今年を振り返るつづきだよ。

今年はほんとうにソーシャルに明けてソーシャルに暮れようとしている感じだ。そしてこのブログにとって決定的な変化があった。

1)実名をさらした。2)Twitterアカウントを載せた。→アクセス数もフォロワー数も格段に増え、ゆるやかなコミュニティが生まれた。

ソーシャルメディアが起こす現象そのまんまが起こったわけ。個人的なブログでそんな類いまれな体験ができたのはホントによかったなと思うよ。

そうなったのは、佐々木俊尚さんの『ネットがあれば履歴書はいらない』を読んで、書いてある通りに”セルフブランディング”を実行した結果だ。

その顛末は、”焼け跡ブログ”というカテゴリーでくくった一連の記事を読むとわかる。この一連は自分で言うのもなんだけど、面白い読み物になっている。ソーシャル体験を生々しく語っているから。日々驚いたり喜んだりしている様子がホント、おもろいよ、おれ。

中でも、「高度成長の焼け跡に、ぼくらはiPhoneを手に立っている」と題した記事はなんというか、中年のぼくがみずみずしいこと書いたもんだと思う。最初に出てくる会食した”ある方”が佐々木俊尚さんだということは、前にも書いたよね。

この記事については、何人かの方から、”あの文章はホントによかったっす”てなことを言われた。このブログに目を留めてくれたきっかけになった、という方も多いみたいだ。

ぼくはいまはコピーライターという仕事からは離れてしまった。でも、同じようなことは結局、続けているんだと思う。つまり、”時代のメッセージ”を一所懸命紡ぎ出そうとしているんだね、いまも。

突然話が変わるんだけど、大学では宗教学を専攻していた。宗教を社会学的に研究する学問だ。その中で、”依り代(よりしろ)”という概念を教わった。例えばユタとかイタコとか、あるいは広くシャーマンとか、ある共同体にとって大事なことを”告げる”存在のことだ。神霊が”依りつく”対象のことで、人間に限らない。”言霊”なんて言い方もあるように、言葉にも神は依ってくる。

ぼくの解釈では、”神”とは、その共同体の共通意志みたいなものだと思うんだ。だから、依り代は、その共同体(コミュニティ)の意志を受け止める存在。

コピーライターとは、依り代だと思ってやってた。おのおのの仕事での共同体(=その商品を出す企業と広告にかかわる人々)の意志を言葉にする。その意志が対象となる消費者とも共有できると、商品を動かすこともできる。

コピーは、天才的なコピーライターがひとりで勝手に考えるんじゃなくて、打ち合せを何度も重ねるうちにそのチームの意志が乗り移って、書くというより”書かされる”ものだと思ってるんだ。

ぼくにはそんな性癖というか、習性というかが、身について離れないんだろう。だから、いまのぼくはたぶん、大きくメディアコンテンツ業界で頑張っていて、次の時代を真剣に考えている人たちの”共通意志”を言葉にしている、メッセージしているんじゃないだろうか。

そのひとつの表れが「高度成長の焼け跡に、ぼくらはiPhoneを手に立っている」という一行になったのだと思う。

ちょっと大げさだけど、sakaiosamuのミッションが、そういうことなんだと思う。ぼくとあなたと、それからあの人やその人の頭の中にもやもや、もごもごしている気分や概念を、「こういうことじゃね?」と文章化する。メッセージにする。そしてそのメッセージを通じてゆるやかな共同体を形成する。

この一年、ぼくは知らずして、そんなことをやっていたのではないだろうか。それこそ、誰かに命令されたのでもなく、一方で自分で明確になすべきことを自覚していたわけでもなく、ただ感覚的に動いているうちになぜか、このブログの場で言葉を紡ぎ続けてきた。

そう自分で気づくと、これはなんとも面白いと思うんだ。直接的な仕事ではないし、お金にも何にもなりそうにない。でも、面白いし価値もあると思う。そう思うと、来年もずっと続けていけそうだ。

そういう、不思議な自分のミッションを自覚できた2010年は、ずっと後で振り返ってもすごく大事な年だったんだろうなあ。そのミッションにはあなたも関与しているわけなので、あなたも当面はぼくのミッションに関わり続けなきゃね。飽きるまで、でいいからさ・・・

ソーシャルとは、ぼくとあなたの関係のことだよ

やっぱりね、12月は振り返るよね、この一年を。

そいで、この2010年はぼくにとってすごく特別な一年だったと思うんだな。

だって、ぼくはあなたと出会った。

あ、すんません、図々しく、あなたに対して「あなたと出会った」だなんて。でもね、確かにぼくとあなたは、出会ったんだよ。実際に会ったもんね、とか、Twitterでやりとりしてるもんね、っていう意味もある。あなたがそういう相手だったら、ぼくらは今年、出会ったよね。

でも、「いやぼくはいまたまたまこのブログを読みに来ただけでね」なーんていうあなたとも、やっぱりぼくは出会ったんだよ。だっていま、あなたはぼくの文章を読んでいる。間接的だけど、ぼくとあなたは対話しているんだよ。

ソーシャルメディアについて、このところ、いろんな人がいろんなことを言っている。いろんなソーシャル論を展開している。

でもぼくにとって、ソーシャル論はシンプルだ。「ぼくとあなたが出会うこと」それがソーシャルということだ。それでおしまいだ。そしてそこが素晴らしいじゃないか。

ぼくにとってこの2010年が特別だったのは、ぼくがソーシャルメディアでの活動を通じて、いままで出会えなかった人と出会ったからだ。すごい数の人と出会った。

もちろん、ブログは何年も前から書いていた。だからほんとうは何年も前から、何百人もの人と出会っていたのだろう。実際、ブログを通じてリアルで会った人だっているし、その中のひとりである@m_kaneko氏からTwitterを勧められたのだった。

そうしてTwitterをはじめて、セルフブランディングに目覚めて実名をさらし、さらにTwitterとこのブログを連携させた。そうすることによってブログがすごくアクティブになった。Twitterも騒がしくなった。相乗効果で、ぼくはほんとうにたくさんの人たちと”出会った”のだ。ブログだけの時期の”出会い”はおぼろげであやふやで、なかなか自覚できなかった。でもTwitterとの連携で、”出会い”がくっきりと形を帯びてきた。やがて、実際にお会いしたり、リアルで会わなくてもTweetで考え方を交わしたりするようになった。

そのことが、この上なく素晴らしいと思う。ものすごく価値があると思う。

これまでだと出会えなかった人たちと、出会ったこと。これからも出会うであろうこと。ソーシャルとは、それ以上でもそれ以下でもないと思う。

そこから先は、それぞれの問題で、ソーシャルメディアの役割はそこまでだ。そこから先は、出会ったぼくとあなたが、一緒に何をどうするかだ。

もちろん、一緒にあれをこうしよう、と盛り上がったことを実行する時、またソーシャルメディアを活用するのかもしれない。そうしたらまた新たな出会いがあるのだろう。そうやってどんどんどんどん、出会いが増殖していくのだ。

もう一回言うけど、ソーシャルメディアそれ自体に何か目標があるわけではないのだ。ソーシャルメディアは地球環境を維持するために生まれたわけではない。経済格差をなくすためのツールでもない。ただ、ぼくとあなたが出会うための装置なんだ。でも、いままでだと絶対に出会うことのなかった誰かと、出会える。そこがすごい。さらには、こうしてメッセージを発信していると、そのメッセージに反応してくれる。共感してくれる。”御意”とか言ってもらえる。そうすると、出会ったぼくとあなたとあの人やこの人は、非常に大まかなところでは意志共有できているんだ。近い問題意識を持っているんだ。

そんなゆるやかだけどでもつながっているコミュニティができている。そのことがありがたい。心強い。うれしい。

このブログを軸にできた、もやもやとしたコミュニティを、ぼくとあなたはどうしていこうか。それは、そうだな、正月休みの宿題にしようか。

その宿題に取りかかる前に、今年を振り返る作業をもう少し、大掃除あたりまではやっていこうかな・・・

映像コンテンツのアンビエント化の実際〜AppleTVその後〜

AppleTVを、日本での発売日に買って大騒ぎしてからもう、一ヶ月経っちゃったよ。あの時はホントに大興奮だった。きっと境はあれ以来VOD三昧なんだろうとみなさん思うでしょうが。・・・実は、そーでもないんだよねー。

毎週土日になると、確かにAppleTVを起動する。新しいタイトルはないかな、と思ってね。正直、毎週さほど増えてないんだよね。先週だったか先々週だったか、「アイアンマン2」が加わってたので見たけど。それも含めて、AppleTVで見た映画は3本だと思う。

一か月で3本・・・少なくね?

ずいぶん前に、映像コンテンツのアンビエント化について書いたことがある。アンビエント化によって何が起こるかといえば、何を見ればいいかわからなくなるのだと。

DVDで名作旧作がどんどんレンタル店に並ぶと、そんな状態になった。そしていま、ほぼ同じことが”自宅”で起こりはじめているのだ。レンタル店に行かなくてよくなってきたら、自宅で同じことになってしまう。

実際、毎週末、AppleTVで新しいものを探す。それから、各ジャンルの中で面白そうな映画をチェックする。”ウィッシュリスト”という、気になる映画を入れておける仕組みがあるのだ。もう10本ぐらい入っている。そうやって、”そのうち見る映画”を選んで、おしまい、になってしまう。そしてその”そのうち”はなかなかやって来ないのだ。

それに加えて、HDDレコーダーには7〜8本の映画が録画してある。CATVの映画チャンネルで見つけた”ちょっと見たい気がする映画”が録画されている。さらに少し前にNHKBSで放送していたスティーブ・マクイーンの主演作も録画されていたりする。

”ちょっとみたい気がする映画”だらけなのだ。

一方、”いますぐ死ぬほどみたい映画”はなかなかない。そういう形で特定の作品が自分にとってなかなか浮上しないのだ。

それに、映画の場合は見るとなると2時間程度費やすのも大きい。なかなかねえ、まとまって2時間確保するって難しいよ。結局は、土曜の夜中ぐらいしかなくなる。

なんてことやってると、結局あんまり見ないんだ、映画を。

そんな中、意外にテレビドラマの重要性がぼくの中で増している気がする。”死ぬほど”とは言わないけど、”いまみたい”映像コンテンツとして、毎週のドラマが重要だ。

このクールでは何と言っても「フリーター、家を買う」がいい。毎週見てだらだら泣いている。父と子の関係とか出てくると、父としてはそれだけでグッと来る。

それから、日曜9時枠を始めたフジテレビの「パーフェクト・リポート」もいい!テレビ局の報道局の話で、問題児が集まって遊軍班を形成している。ドライだったはずの彼らが徐々に、ヒューマンな取材者として目覚め、また仲間意識も芽生えていく。ジンと来る。

それから金曜夜の「SPEC」も欠かせない。超能力者を追う、ダメ刑事たちの物語。

いやいや、今クールのドラマの紹介を書くのは本筋ではないわ。こうしてついつい書き込みたくなるほど、ドラマにハマっている。ドラマを毎週見るのがすごく優先順位が高い。

でもドラマは必ずしもオンタイムでは見ない。毎週コツコツ録画している。夜遅く帰宅してからじっくり見ることが多い。そしてあまりため込まない。タイムシフト視聴だが、その日のうちか、せいぜい翌日までに見る。そこがCATVでやってた名作を録画しているのとちがう。録画するだけしてちっとも見やしない。ドラマはせっせと録画してはその都度見る。

映画はVODサービスでいつでも見れる。すると、あまり見ない。ドラマはどんどん録画して、コンスタントに見ていく。(ただし1クールで2〜3本というところ)

もともとのHDレコーダーにAppleTVが加わり、映像のアンビエント化が進んだぼくのリビングルーム。結局どういう方向性なのか、まだよくわからない。でも何らかの傾向が出てきている。少し映像とぼくの関係性が変化している。

ってことで、もう少し分析していこうと思うんだよね・・・

「境塾」というか勉強会についてマジに検討してみるかな(そしてソーシャルの定義について)

Twitterをはじめてからというもの、とにかく人と会うことが増えた。もちろん、Twitterや、このブログをきっかけに。

こちらから会いたい!と声をかけることもあれば、誘われることもある。中には、なんだかよく知らない人たちのやり取りの中にぼくのアカウントも紛れ込んでいて、その人たちと飲む相談にも巻き込まれてたりとか。

あと、前にも書いたようにセミナーに行ったらブログ読んでますとかフォローしてますとか、声かけられたりとかね。この時のメンバーが、最近のおつきあいの”核”になってたりする。不思議な流れだ。

さて先週の金曜日、またもやTwitterつながりの飲み会があった。(以下敬称略)もう何度も会ってる@hfuruta 、それからこの日でもう3回目だよの@tamarinco 、そして、この日二人から紹介してもらって初めて会ったなんと中学高校大学でのぼくの後輩にあたるという@never1968 との集い。

それぞれ、メディアコンテンツ界で仕事をしているので、話題は自然と、「これからメディアはどうなるよ、コンテンツはどうするよ」という方向にどんどんなる。いや確かに、これからいよいよ混迷だ、見えないねと。マスメディアの規模縮小は逃れられない。でもなくなるわけでは決してない。新しいメディアはさっぱりわかんないしお金に当面なりそうにない。うーんうーん・・・でも不思議と、暗くなったりはしない。その時のメンツは皆、そうした読めない状況を楽しんでいるのかもしれない。

そんな話をする中で(敬称略)@hfurutaが、「境さんはそんな時代の吉田松陰ですよね」と言う。ぼくがこのブログでメディアコンテンツの将来について書いていることが、幕末の志士を教えた吉田松陰のようだと言うわけ。

そんな風に言ってもらえるのは光栄なんだろう。「でも吉田松陰死んじゃうじゃないの!」などと言いつつ、まんざらでもないような、でもどうせなら坂本龍馬とか言ってもらえないのかとか、心の中ではいろんな気持ちが渦巻いていた。そこへ今度は@tamarincoが「境塾やりましょうよ。メディアの将来を見通す勉強会ですよ。30人ぐらいでインタラクティブにできたら面白い!」と勝手なことを言って盛り上がり出した。@hfurutaも、@never1968も、それはいい!と本人は置いてどんどん盛り上がっている。

をいをい。そんな勉強会なんて大変じゃないかよ・・・

さらに茶目っ気たっぷりの@tamarinco。なんか猛烈にiPhoneに向かってやりはじめたと思ったら・・・
メディアの将来を考える勉強会「境( @sakaiosamu )塾」設立なう。これから不定期に20〜30人が集まってインタラクティブに議論し合う会を開くと宣言しました。
というTweetで勝手に境塾を設立なうしちゃってる。

をいをいをいをい。何を勝手なことつぶやいているんだ。しっかりぼくのアカウント入りじゃないか・・・

しかもそうすると、けっこう反応があったりした。よくわからないのが、@tamarincoのフォロワーだけどぼくのフォロワーじゃない人が「面白そう!」とか言ってくる。君たちは「境塾」の意味がわかっているのか、クリエイティブビジネス論は読んでおるのかね?

をいをい、と言ってるうちに、でもやってみてもいいのかなーと思うようにもなった。ソーシャルな出会いの延長として、勉強会と称して月一でそこそこの人数で集まる、と。飲み会に誘われたり自分から誘って日程調整とかするうち、いっそ定期的な集まりをやった方がいいのではないかとちょっと考えていたのもある。また、勉強会という趣旨でいろんな著名な方にお会いできたら面白そうだ。

少し話がそれるんだけど、ちょっと前にTechWaveに掲載された大学生の記事が話題になった。ソーシャルメディアの定義について、リアルの交際がベースでそれをネット上に拡張するのがソーシャルメディアなのだとその大学生が断言したのがきっかけだったと思う。

その学生さんに反論するつもりもないのだけど、でもぼくにとってのソーシャルメディアは明らかに逆だ。ブログを読んだ人がフォローしてくれてTwitterでやりとりするようになり、そのうち会ったりもする。そりゃ会った方がリアルな人柄もわかって面白いけど、リアルで会わないと意味がないってことも全然ない。

ただ、ブログやTweetを通じて共感できてる人は、リアルでもネットでも、話すのが楽しい。教わることも多い。そこが大事だと思う。このブログを通じて言葉を交わす人たちとの間に柔らかなコミュニティができているのだとしたら、それはみんなが「メディアはどうなるよ、コンテンツはどうするよ」との問いをいま持っており、しかもその渦中にいながらそれを楽しんでいる。そういう人種の(なんて自虐的で前向きなやつらだよ!)コミュニティができているのだろう。そんな人たちと話すのは面白いに決まってる!

話を戻すと、だから勉強会も楽しそうだと思うんだ。「どうなるよ、どうするよ」をみんなで語り合う。一定の共感ベース(そして自虐的で前向きな人種!)があるはずだから、前提となる知識もきっとある程度揃っていて、けっこう実のある議論ができる気がする。

うん、なんだか楽しそうで、面白そうだぞ!

というわけで、具体的にどうするかも含めて、わりーとマジで検討していこうと思う。

まずは、名称大募集。名前、大事でしょ?でも「境塾」ってのはねえ、ちょっと。いいネーミング、あったら、コメント欄かTwitter上でよろしく!

・・・ところで、上のTweetをよく読むと「宣言しました」のは@tamarincoだから、発言としての責任はぼくじゃなくて彼にあるんだね。ふっふっふ。設立なうしたのは、ぼくじゃないんだ君なんだ。たのんだよ、まかせたよ、@tamarinco!

STRAY SHEEP「ポーのクリスマス」iPad版、ギフトキャンペーンはじまる

STRAY SHEEP “Poe’s Christmas” for the iPad

iPad版「ポーのクリスマス」は絶賛発売中なわけですが、12月1日からキャンペーンをはじめています。

このアプリはもちろん、クリスマスにぴったり、つまりクリスマスプレゼントにもぴったりなわけで。

だったらと、あなたの代わりに誰かに贈ってあげますよ、という趣旨ですね。

「ポーのクリスマス」公式サイトにあるバナーを押すと、申し込みページに飛ぶので、フォーム上にあなたのメルアドとプレゼントしたい相手のメルアドを入力してください。抽選で50名ずつ100名様が当たります。

12月10日と20日の2回に分けて抽選するので、いますぐ申し込むと少し待つことになりますね。

それから、あなた自身がiPadを持ってなくても、贈る相手が持っていればキャンペーンに応募できます。相手の方が持ってるかどうかは確認しようね。

あれ?今日はなんでこんなに”ですます調”で書いてるんだろ?ショーバイのことになると姿勢が変わるんだね、あはは。・・・と、笑ってごまかすのだった・・・こういうことでいいのか、このブログは・・・いいのだ、ぼくのブログだからね・・・

所有することの価値が変わっていくのかもしれない〜Mac修理完了〜

MacがおかしくなってAppleStoreに預けた顛末を書き、さらにそこから派生して、クラウド上にデータを持つ感覚について書いた。今日はその続き。

続きを書くのは、今日AppleStoreから電話があり、修理完了したもので。23日の祝日に預けて5日で完了したのだからなかなかのスピード。最近はShopができたこともあり、Appleは実にカスタマーサービスがよくなっている。昔は電話しかなくてすぐにたらい回されたもんだったがねー。うん、上出来!

HDDを完全に新しく入れ替えてSnowLeopardをインストールした状態。帰宅したら早速、復旧作業に入った。とは言え、MicrosoftOffice2008とiWork’08をインストールし、あとはMobileMeからファイルを戻しただけなので、すーぐだった。MobileMeに入れてなかったファイルもあったにはあったけど、困るってほどでもない。iTunesに入れていた音楽ファイルと子供たちが幼稚園の頃からの写真が完全消失したけど、それらはiPhone/iPadに入っている。

これについてはPodCopyというソフトをダウンロード購入。写真はまだだけど、音楽の方はほぼiPhoneからMacにコピーできた。Apple的には指導が入る行為かもしれないが、背に腹は代えられない。持っているCDをまた一からコピーし直すなんて人生で二度とやりたくないよ。こういう便利アプリがあることに感謝。

MobileMeで問題なくデータを継続できることは今回わかったが、やっぱりバックアップは日頃からとっておこうと、TimeMachineをこないだヤマダ電機で買って来た500GBのHDDに使っていこうと思う。

バックアップをとろうと思う、と言ってることとは矛盾するけど、今回よくわかった。データを物理的に持つことがこれから無意味化するんだろう、ということが。

そしてそれは、コンピュータ上のデータだけの話でもなくなるだろう。エンタテイメントコンテンツ全般にも広がっていくのではないかな。

例えばiTunesの音楽ファイルだ。少し前から、近いうちにiTunesはクラウド上のデータ保持サービスになるにちがいない、と言われている。実際ね、今回ぼくは普通のファイルはMobileMeで復旧した。MobileMeの容量をもっと増やせば、iTunesの音楽ファイルも同じことはできたわけだ。そして、いっそぼくがiTunesで買った音楽ファイルはAppleのサーバー上に置いてくれるようになれば、MobileMeに置く必要すらなくなるわけだ。Macでも、iPhoneでもiPadでも、ネットワーク上からいつでも”引き出す”ものになるかもしれない。

同じことが、映像や電子書籍でも起こるのかもしれない。いまAppleTVでは”購入”とはやはり、”データをダウンロードする”ことだという解釈だ。だから、レンタルの方がストリーミングな分、気安く視聴できる。”購入”したにしても、買った印をつけておいてAppleのサーバー上に置いておいてくれた方が、楽なのかもしれないのだ。

こういうことを書いていると、「いやーでも、やっぱりパッケージを持たないと”買った”気になれないよ」という反論めいた話が出てくる。少し前ならぼくもそう思ったかもしれない。

だけど、”所有する”ことにそんなに価値があるのだろうか。”所有する”とはどういう概念なのだろう。”所有する”って、そんなにいいことなのだろうか。

例えばぼくは自分がいま、DVDパッケージで何を所有しているのか知らない。DVDプレイヤーが出た頃、大喜びしてピクサーの作品や、大好きなヒチコックの昔の作品をいくつか買ったのだと思う。でもわからない。わからないのは、買ったきり、見てないからだ。

音楽CDは百だか二百だか持っている。でも本棚に置いてあり、もうその棚は何年もいじっていない。そしてこの数年、CDパッケージは数枚しか買っていない。音楽はいまもよく聞くのだが、もっぱらiPodだ。

本は悩みのタネだ。今回Macを壊してしまったのも、棚からあふれた本がどさどさと落ちて来たからだ。今の家に越して来た時、ものすごい数を捨てたのだけど、またすごい量になった。そしてそうした本も、一度読むとたぶん人生で二度読む本は10%もないだろう。

コンテンツがものすごい勢いで増えたのだと思う。

だって、音楽がレコードの形になって売られるようになって100年ぐらいだ。映画だってそうだ。そしてぼくたちは、音楽も映画も、その誕生からこれまでの進化をすべて見てきているのだ。いまだにチャップリンやキートンは素晴らしいし、ビートルズなんかこないだiTunesStoreで200万枚も売れたそうだ。この50年ぐらいで世界の”コンテンツ”は宇宙ビッグバンみたいに増えたのだ。それこそ星の数ほども・・・全部”所有する”なんてもう無茶だよ・・・気に入ったコンテンツを物理的に所有していたら、みんなどでかい倉庫が必要になっちゃうだろう。

クラウドとか、バーチャルとか、そういう感覚にはついていけない、などという人もいるだろう。でもよーく考えたら、すでにクラウド的な所有をしている領域がある。”お金”だ。ぼくたちは何百万円とか何千万円とか”持っている”という時、自宅の金庫やタンスの中に持ってはいない。銀行に持っている。iTunesで買った音楽をAppleのサーバー上に”所有する”のと、五百万円の定期預金を三井住友銀行の口座に”所有する”のと、別に同じ感覚のはずではないだろうか。お金は物理的に持たなくても持っているのだから、コンテンツだってクラウド所有してもいいんじゃないだろうか。

銀行の話を出したら自分でも面白くなってきたので、この話はもう少し続けようかな・・・

STRAY SHEEP 「ポーのクリスマス」をTechWaveの@maskinさんが取材に来た!ことなど

STRAY SHEEP “Poe’s Christmas” for the iPad

少し前にTechWaveにこのブログの記事が転載された。Twitter で@maskinさんに依頼されたのだ。

その際、原稿料は出ませんが、と言われたので、こんなことをお願いした。「原稿料はいりませんが、お願いがあります。ぼくらがいま制作中のiPadアプリというかコンテンツを取材してもらえませんか?もちろん記事にする価値があるとご判断いただければ、ですが」まったくもって図々しいこのお願いを、@maskinさんはあっさりいいともと応えてくれた。

これを受けて、この木曜日に@maskinさんがホントに取材に来てくれた。


左が@maskin さん。右側がポーをつくった仲間たち。テクニカルディレクターの@ikuo_nishii、アートディレクターの@andotakeshi、そしていちばん右でテカってるのが、ポーの作家である@GonNomura。ここにはいないが、もっと多くの仲間たちががんばってつくったのだ。

この展開、考えてみると実に不思議だ。ソーシャルメディアならではのことの成り行きだと思う。Twitter上でAppleTVが渋谷でもう売っていると知り、すぐに買った。たまたまそれを@maskinさんに「買っちゃった」と自慢したら、ブログ記事の転載を依頼された。それがまた、この取材につながったのだ。ソーシャル以前には考えられなかった現象だ。

@maskin さんは時間より少し早く来社された。ぼくは前々から興味があったので、TechWaveに関わることになった経緯や、他にやってるお仕事の話などを聞いた。そして驚いたことに、わがロボットのアニメ制作チームの仕事はずいぶん前から注目していたのだそうだ。それに学生時代には自分でも映像制作をやったりしたことがあるという。@GonNomuraの少し前の仕事のことなどもよくご存知で、一同感激!やはり映画の方が目立つので、アニメーションでの実績に目を留めていただく方はなかなかいないのだ。なんというか、”ロボットの通”みたいでうれしかった。

取材後に、@GonNomuraの仕事場に本人自らご案内したら、いたく感激してくださった様子。ぼくとしては、いい出会いをセッティングできたみたいだなとうれしかった。

この取材の記事は、近々TechWaveに載ると思うけど、ひと足お先に取材を受けた側の記事を書かせていただいた。なんかこういうのも、面白くない?

今週はもう一つ、ポーがらみでうれしいニュースが飛び込んできた。

ポーのプログラミングはロボットの@harashowが担当した。彼は独学でオブジェクティブCとやらを習得した向上心あふれる若者。ポーをつくる前に、個人的にというか奥さんと一緒に「かなもじ」というかわいい教育アプリを開発した。これがなんと、大きな賞をいただいたのだ!Yahoo! Japan Internet Creative Award 一般部門Gold 賞!

仲間が大きな賞をもらったのがうれしいのはもちろんだけど、「ポーのクリスマス」発売とうまく重なったのがますますうれしい!どこか幸運に恵まれたアプリなのかもしれないぞ!

それからもうひとつ、ここでふれておきたいことがある。

時々なかなかするどいTweetをくれる@reepicheep75 さんが「ポーのクリスマス」を買ってくれた(正確にはまんまとお父様に買わせた)らしいのだが、ポーをさわってみて、まとまったTweetをしてくれていた。ポーの創作上の価値や、さらなる可能性をこってり語ってくれている。これがこのままタイムラインに流れていってしまうのは惜しいなと、初めてトゥギャッターをしてみた。“@reepicheep75 さんがiPad「ポーのクリスマス」についてこってり”というタイトル。興味ある方もない方もぜひご覧あれ。ポーを未購入の方には、その魅力の一端が感じてもらえるだろうし、購入した方は気付かなかった発見ができるかもしれない。ポーが幾重にも楽しめるテキストだ。

・・・と、いうことでもちろん「ポーのクリスマス」を宣伝しているわけだ。悪い?ぼくはちっとも悪くないと思うなあ。あはは

呪文を唱えれば呼び出せる私の分身〜Macまだ入院中〜

昨日の記事はタイトルとちょっとちがったかな。タイトルを最初に書いたときに書こうと思ってたことにたどり着く前に終わっちゃった、みたいな。

ということで、間髪入れずに昨日の続き、本来書こうと思ってたことを書くよ、今日は。

Macがおかしくなって入院させるまでの一連の流れの中で、ぼくは当初大きく落ち込んだのに、なんか、落ち込まなくてもいいんだな、と事態をとらえ直した。クラウドサービスを使っていたのに、とらえ方がクラウド化していなかったのだ。

大事なデータ(=現在進行中の自分)は、手元のMacのHDDの中にある。そんな感覚で十数年生きてきた。いやほんとに、Macはすっかり、ぼくが”生きる”ことと密接に結びついていた。だから、落ち込んだ。ところが、MobileMeを使っているということは、データをクラウドに置いているということは、別に落ち込むほどではないじゃないか。AppleStoreに預けておくだけだ。しばらく待てば元気になったMacが帰ってくるし、その間も別のMacで十分暮らせる。

つまりぼくにとって大事なのはもはやMacというマシンではないのだ。Macがぼくの分身なんじゃない。Macを操作して扱うデータがぼくの分身なのだ。

少し前に売り出した新しいMacBook Airのラインナップ。11インチなら8万円台。しかもストレージはたったの64GB!なるほどなー、ということだ。コンピュータって、なんだったらそんな構成でよくなくなくないすか?データは全部MobileMeに置いちゃえば、全然オッケーすよ。そんなメッセージなのかもしれない。

MacBook Airは、データを保存できるiPad、なのかもしれない。キーボードがついたiPadなのかもしれない。MacBookとiPadの差異は、いつかなくなるのかもしれない。

コンピュータは、いつか、ただの鏡になるのかもしれない。魔法使いが「鏡よ」と呼び出すように、IDとパスワードという呪文を唱えれば、鏡に分身が登場する、そんな存在になるのかも。

このクラウド感覚に、ぼくはもっと早く目覚めていてもおかしくなかった。だって、この何年間も書いてきたブログサービスこそ、クラウドじゃないか。ぼくは何年分もの自分のこの渾身の思いを、思想を、記録を、主張を、一行だって自分のMacの中に置いてやしない。gooのサーバーの中に置いてあるだけだ。書いているのはほとんど、自宅だけど、会社でも書けるし、なんだったら他人のPCやネットカフェでだって書けるのだ。99%自宅のMacで書いてきたから、ぼくが感覚的に誤解していただけだ。自分のMacに書き続けてきたような錯覚を感じていただけだった。

そしてこの話は、メディアとは何かという話にも結びついていく。自分の分身はMacなのか、クラウド上のデータなのかは、映像作品の鑑賞をDVDを所有して行うのか、なんらかのサーバー上から”呼び出す”のか。

なんて話に入っていこうと思ったけど、眠たいのでまた続きを書くからね。よろしくね。

クラウドの海に漂っている私という存在〜Mac復旧せず〜

日曜日にMacがおかしくなりはじめた。

原因ははっきりしていて、本棚からドサドサドサーッと大量の本がMacの上に落ちたのだ。あとで気付いたのだけど、トラックパッドの右側部分にはっきりとへこみができていた。

ただ、日曜日の段階では、うーんちょっとおかしいな、ぐらいで済んでいた。起動して、Finderでファイル操作をしようとすると虹の円が回り続ける。でも、立ち上げてあるメールやFirefoxは動く。Finderがおかしいぞ、という程度だった。

月曜日に帰宅してからインストールディスクで起動し、ディスクユーティリティをかけた。これで絶対に直る、と思っていた。案の定、○○○を修復しました、というメッセージがすごい数出てきた。あー、これで直ったんだな、よくわかんないけど。そう思った。

再起動したら・・・やっぱり同じだ。うーん、これは重症。

翌日が祝日だったのも天の助けとばかりにアサイチでヤマダ電機に行って外付けHDDを買い、バックアップとってOS再インストールをやって、と作業を進めれば進めるほど、事態は悪くなり、ついに・・・起動ボタンを押しても、画面が明るくなるだけで何も起こらなくなってしまった。・・・うーん、IntelMacになってこんなの初めて・・・

少し前に、90年代からMac好きだったことを書いた。その頃はMacと言えば一日一回はフリーズし、月に一回は深刻な事態に陥るマシンだった。OSXになってからずいぶん安定し、IntelMacになってからはトラブルめいた事態が起こらなくなった。だから、ユーティリティだ再インストールだとやってみたのも何年ぶりかだったのだけど。

事態は最悪になった・・・

Macが動かない。数年ぶりで我が身に起こったこの事態は、ぼくをとてつもない重さで押しつぶしてきた。ものすごく落ち込んだ。いまのぼくにとって、Macが動かないことは、手足が動かないのに等しい事態だ。頭の中で考えたことを反映する手段がない。これまで考えてきたプロセスをぱっととり出すこともできない。iPadなんかでは到底カバーできない、自分の脳みその一部とも言える機能、それが動かなくなってしまった。一週間ぐらい寝込みたくなった。

いや?・・・だがしかし?・・・

ぼくはAppleのMobileMeというサービスを使っている。いわゆるクラウドサービス。Mac上のデータを必要な分だけクラウドサーバーに置ける。置いたデータは、別のMacからもとり出せるし、iPadやiPhoneとも同期できる。別々の場所の、別々のデバイスで、同じ環境、同じデータを扱うことができるのだ。

もちろん100%のデータをMobileMeに置いているわけではない。まだどこか、100%クラウドに置くことに抵抗があり、日々作業するデータに絞って置いている。仕事にとってほんとうに重要で機密にすべき文書は会社のMacだけに置いている。あるいは、プライベートな写真や音楽データはiPhotoやiTunesのデータとして、自宅Macの内蔵HDに入れてあった。

しかしこうなるとどうだ?全部MobileMeに置いちゃった方がよかったんでね?会社の機密に関わるもの以外はクラウドにしとけばよかった。少なくとも、きわめてプライベートなデータは消えてしまった。MobileMeに置いておけば、別のMacでもパパッと取り出せたじゃないか。

幸い、iTunesの音楽データはすべてiPhoneに入っている。iPhotoの写真の山はiPadに全部同期済みだ。そうすると、日々の作業に使うデータを別のMacでMobileMeから呼び出せばいいんだ。そうか。と気付いたぼくは、渋谷のAppleStoreにMacを預け、妻と息子に使わせていた旧MacBook Proを奪い取り、自分のアカウントのMobileMeのiDiskを呼び出した。あっという間に、ぼくの目の前に、ぼくの最新の作業ファイルたちが出現した。

妻子に渡していたのは最初のIntelMacBook Proで4年ぐらい前の機種だ。CPUはまだ、Intel Core Duo。OSもLeopardどまり。Snowにはしてない。去年買ったIntel Core2 DuoのSnowLeopardマシンに比べるといろいろ難はある。でも、こうしてブログを書ける状態にまで至っている。仕事上、軽い宿題もあったのだが、それもなんとか完成できた。

MobileMeを本格的に使い出したのは、実はこの春、iPhoneを買ってからだ。さっき100%クラウドに置くことに抵抗があり、と書いた。でもこうなるとどうだ?ぼくのデータは、100%クラウドに置けば、何かあっても別のマシンやデバイスで”あっという間に目の前にデータを出現”させられるじゃないか。手元のHDに物理的に”所有”しようとする方がずっと不安定だ。クラウドに置くことは、手元に置かないこと。だから不安になるけど、手元に”持ってない”状態の方が、ずっと長く”持っている”ことができるじゃないか。

ぼくにはいま、ようやくクラウドの意味と、予兆がわかってきた。

すごく大きな意味がありそうだ。

ひとつには、今後のコンテンツ流通とも関わる。こないだ紹介した志村一隆さんの『ネットテレビの衝撃』の後半に出てくるキーワードがある。”Buy Once, Play Anywhere”これもコンテンツのクラウドサービスの話だ。

もうひとつ、観念的なことを言うと、西洋近代が信奉してきた”所有”に対し、東洋哲学的に反論するのがクラウドということかもしれない。ぼくがものすごく不安になり、そして結局安心したのが、そういうことなんだ。そういうことってなんだよ、って話は追々ね。・・・追々書くテーマがまた一つ増えちゃったなあ・・・

STRAY SHEEP ポーのクリスマス iPad版 販売好調?

STRAY SHEEP “Poe’s Christmas” for the iPad

昨日何度もTweetしてしまい、皆さんのタイムラインを小うるさいものにしてしまったかもしれないけど、ぼくたちが秘かに製作を進めてきたiPadアプリがこの週末、世の中に登場した。

いろんな経緯と流れで、本格的なリリース配信などは月曜日からになるのだけど、すでに”動いて”いるようで、ランキングに登場を果たした。と言っても、iPad有料アプリの”ブック”カテゴリーの中で、ということなのだけど。iPadをお持ちの方はAppStoreを起ち上げ、「☆トップチャート」の左上の”カテゴリー”を押すと出てくるポップアップから”ブック”を選んでみてください。10位以内にわがポーくんがいるはず(2010年11月21日現在)

それから、MacでiTunesStoreを見ると、AppStore→iPad→ブックとたどっていけば”注目の新作”にやはりポーくんが登場。これはアップル側で”これはちょっと注目じゃない?”というアプリが選ばれるものらしい。これもうれしい。光栄!でもまあ、「キャバ嬢、社長になっちゃった」というアプリと並列だからあまり喜び過ぎないようにしようか・・・(^^;

ひょっとしたらこのブログを読んでくださってる方々や、Twitterで見てくださっている皆さんが「まあ、境がやってんのなら買ってやるか」と、購入ボタンを押してもらったおかげかもしれない。@higekuma3や@punikuniさんはすぐに買ってくれたしね。ありがとう、みなさん、@higekuma3 @punikuniさん!(higekuma3に”さん”をつけていないのは、アカウント名に入っているから(^^;)

思えば5月末にiPadを手に入れて以来、考えたり感じたりしてきたことが、結実したのかもしれない。

このブログでiPadについて書きはじめたいちばん最初の回でぼくはこう書いている。

iPadはコンテンツのジャンル、表現の分類を無意味化する。

これは表現者としてiPadに接すると意識するにせよ無意識にせよ、そう受けとめるものだと思う。『ポーのクリスマス』も自然とそんなつくり方になっている。絵本なのか、アニメーションなのか、定義しにくい。また、さわって反応するというのは本当に面白いし、映像クリエイターとしてはこれまであまりやってこなかったことだ。そこで、「遊べるアニメーションブック」というコトバで定義している。わかるような、わかりにくいような。でも既存の表現分野では分類不能だから、わかりにくくなっちゃうわね。

そんなSTRAY SHEEP『ポーのクリスマス』、まだの人はさあ、買っちゃおう(って宣伝かよ結局・・・(^^;)

ここをクリックすると、iTunesStoreにジャンプ!

公式サイトをじっくり見てからでも、もちろん遅くはない!

STRAY SHEEP ポーのクリスマス iPad版 発売開始!

STRAY SHEEP ポーのクリスマス iPad版

ついにというか、意外に早くと言うか、発売開始されました!

ここをクリックすると、iTunesStoreにジャンプします!

そんないきなりは買わないよ、という方は、公式サイトをじっくり見て決めてくださいな。

審査にもっと時間がかかるのかと思っていたのだけど、あっさりクリア!

審査を待つ間に、ここで少しずつ開発録を書き進めていくつもりが、計算がちがった。まあでも、うれしい悲鳴です。

買ってみて楽しかったら、みなさん、どんどん言いふらしてね!

AppleTVはこれから起こることのひとつに過ぎない

ネットテレビの衝撃 —20XX年のコンテンツビジネス
志村一隆
東洋経済新報社

AppleTVを発売日に即買いし、ここで書いた記事がTechWaveにも転載されてはや一週間。AppleTVを買った興奮も、TechWaveデビューした感激も、落ち着いたよ。

さてここでおもむろに書籍の紹介。佐々木俊尚さんの著作じゃないよ。志村一隆さんという、放送について研究されている方。志村さんは少し前にも『明日のテレビ〜チャンネルが消える日』という本も出している。どちらも、アメリカのテレビを取り巻く状況をレポートしたもの。その志村さんの最新作がこの『ネットテレビの衝撃』だ。

期せずして『電子書籍の衝撃』と似たタイトル。実際今年は、iPadの登場とともに”電子書籍の衝撃”が出版界を走り、AppleTVの登場によって”ネットテレビの衝撃”が放送界を揺さぶっているのかもしれない。

とは言え、『ネットテレビの衝撃』にAppleTVの話はほとんど出てこない。AppleTV登場以前に書かれたものだからね。それでも、充実した内容。AppleTVはテレビの新しい姿のひとつに過ぎず、もっといろんなことがアメリカではすでに起こっているからだ。そのアメリカの状況をもとに、日本の”地デジ後”のテレビのあり方を考えようという趣旨だ。

非常に象徴的な話として、いちばん最初に書かれていること。地デジ後のテレビ放送の指標は視聴率つまりパーセンテージから実数つまり”何万人が見たか”に変わるでしょうと言うのだ。なぜならば地デジ後はテレビの普及度が100%ではなくなる可能性があるから。

よく考えたら、視聴率をパーセントで出してメディアの強さの指標にしたのは、変なことだったのかもしれない。だって、これは100%の世帯にテレビがある前提だったわけだ。どこの家庭にも必ずテレビがある。そういう前提で、テレビ広告のビジネスモデルはできあがっていた。

変なようで、立派に通用していたのは、実際にテレビの普及率がほぼ100%と言えたからだろう。そんなメディアありまっか?よく考えたらスゴイことだ。テレビがメディアとしてどれだけ強かったか、この点を考えるだけでもわかるね。

ところが、地デジ後は、(何度か書いてきた気がするけど)「うーんと、テレビはもういいよ」という人が少なからず出てくる。そしたら、テレビは100%ご家庭にありますよね、という前提ががらがらがらと崩れ去るのだ。だから、何%見ていたか、から、何万人見ていたか、に指標が変わるかもしれないと志村さんは言うわけ。

そこへAppleTVだのGoogleTVだのがからんでくると、いよいよわけわかんなくなる。うちのテレビは、37インチのiPadだ、ってことになっていくのかもしれない。番組はアプリになり、見たいと思ったらダウンロードしてきて楽しむ、とかね。

と、いうようなことを考えたい方は、この本買っとくよ、いいよ。という記事を夕べ書きかけて途中で寝ちゃった。昼休みになんとか、書き足したぞ!・・・