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sakaiosamu について

コピーライター→映像製作会社ロボット→広告代理店ビデオプロモーション→再びコピーライター(フリーランス)。 メディアとコンテンツの未来を切り拓くコミュニケーションをデザインします。講演・執筆依頼もお気軽に!

mixi × ケータイ vs FB × スマートフォン!

Facebook今年来るよね、ってんで日々いじって楽しいんだけど・・・

このブログの読者のためのFacebookページ「境塾」(http://www.facebook.com/SAKAIjyuku)の中で、ディスカッションボード(テーマを自由に設定できる掲示板みたいなもの)をつくってあって、その中で「周りの人、やってる?〜TwとFB」というトピックを立ててみた。

その中で、ある地方在住という方が報告してくれたのだけど、周りの方でTwitterもFacebookもやっている人がほとんどいないそうなのだ。というのは、地方生活だとケータイ電話はまさに携帯する電話であって、アプリを便利に使う局面が少ない。だからスマートフォン欲しいともあまりならない。

そうかあ。

考えてみると、電車通勤だとiPhoneでつぶやいたり調べたり遊んだり、したくなる小刻みな時間がいっぱいあるけど、クルマ通勤だとなあ。仕事の移動もクルマだったりすると、つぶやきもゲームもいつやるんだよ、ってなっちゃうよねえ。

ところが、不思議とmixiはみんなやってる。「ほとんどやってるんじゃないですかねえ」なのだそうだ。

スマートフォンいらないよ、って人の場合、mixiとケータイでいいもん十分だもん、ってことなんじゃないかな。

ぼくはイメージとして、学生時代まではケータイでmixiでいいもん、だったのが、就職活動初めて実際に働くあたりでソーシャルメディアでスマートフォン必要です、になってくるんじゃないかと思っていた。でもそれは、東京だけの話なんだろう。

日本は、日本と、東京という、2つの文化圏に分かれてしまっているのかもしれない。東京は、日本じゃないのかもしれない。

この感覚は学生時代から感じていた。九州から出てきて東京ってすごい街ばい、山手線どこ降りても天神のごたる、と日々感動してたんだけど、友だちに誘われてドライブしたら、郊外に行くと九州のバイパス周辺と同じ光景だったのでびっくりした。ファミレスと紳士服屋となんやらかんやらと、それぞれの店の看板までおんなじで、ほんとに九州と見分けがつかないと思った。

一方で、地方でも繁華街に行くと東京と同じ感じになっていった。だから各県の中心部だけが東京になっているのかもしれない。

話がそれたね。そんな風だとすると、この先ぐいぐいソーシャルメディアが普及していくのか、わからない。さほど普及しないのかもしれない。Twitterは1300万人とからしいけど、2000万人ぐらいがせいぜいかも。Facebookは1000万人に届くのだろうか。

そんな状態で、ソーシャルメディアは機能するのだろうか。東京に住む人の(そして各地方都市のミニ東京生活者の)特殊なライフスタイルではあっても、日本社会全体のメディア構造を変えるようなことになるのだろうか。

と、いうものすごく中途半端なところで、今日はおしまい。疲れてるのね。

あ、ところで、今日(14日)発売の週刊東洋経済は面白そうだよ。・・・こんなタイトル・・・

「地デジ化後」には、「スマートテレビ」革命が加速する!
テレビ新世紀

読んでみようぜ!

Facebook 新しくなったり、わかんなかったり

さてFacebookのつづきだよ。気づいたかどうかわかんないけど、「Facebookどんどこどん!」というカテゴリーもつくった。というくらい重点的に語っていくつもり。だって面白いからさ。

面白い。面白いんだけどわからないこといっぱい!わからないこといっぱいな上に、突然いろいろ変わったりする。かなり勝手に予告もなく変更しちゃうんだわ。

このところあちこちでも話題になってたのが、ファンページに関する変更。

少し前に、「Facebookでファンページをつくってみた(正確にはつくってもらった)」という記事で「境塾」というこのブログのファンページができたことを書いた。 http://www.facebook.com/SAKAIjyukuのURLでそこに飛べるから、まだの人は行ってみて。「いいね!」ボタンを押すと、「境塾」の更新情報があなたのページにフィードされる。このブログの更新も届くんだよ。

この「ファンページ」が名称をまず「Facebookページ」に変更されていた。ファンページを持ってた人に事前に知らされた、なんてことはなく、知らない間に変わってた。勝手だなあ、ザッカーバーグ。

これはたぶん「ファンページ」の呼び方だと収まりきれない使い方が出てきたからではないかな?あるいは、「ファンページ」という呼び方も”いかがなものか”と。「いや、おれ”いいね!”ボタンは押したけど”ファン”じゃねえし」みたいな意見もあるんですけど、ってことかもしれない。

これはまだいいのね。呼び方の変更だけだから。

昨日、唐突に起こったのが、「Facebookページの人格化」事件。これはけっこう仕様変更の領域に入るような変化だった。

これまでのファンページ=Facebookページ(この名称は呼びにくいなあ)は、あくまで”存在”だった。”場所”だった。

ところが、”場所”であるだけでなく、”行動”もできるようになった。「Osamu Sakai」は、どこか他へ行って「いいね!」ボタンを押したりできたけど、「SAKAIjyuku」はできなかった。ところがいまや、「SAKAIjyuku」も「いいね!」ボタンを押せるのだ。

実際、「SAKAIjyuku」ページ= http://www.facebook.com/SAKAIjyukuを見てもらうと、左カラムに「いいね!」と表示がありいくつかページアイコンと名前が並んでると思う。それはぼくが「SAKAIjyuku」として「いいね!」ボタンを押した結果だ。

あとはねえ・・・あれ?人格化事件と言っても、できるようになったのはこれだけかな?

えーっと、ファンページを持ってない人にはさっぱりわかんないと思うので、画像付きで説明するとね・・・

ファンページを持っていると、アカウントのところに上のようなメニューが出てくる。この「ページ名でFacebookを利用」ってのが、「ページ名の人としてふるまう?」ってことね。そこを選ぶと今度はこんなのが出てくる。

ファンページを複数持ってるとここにいくつか並ぶんだろうね。ぼくは「SAKAIjyuku」だけだからひとつだけ出てきている。

それを選ぶと、画面が変わって、左側がこういう状態になる。

ここは普通、顔写真のアイコンと自分の名前が出てくるとこでしょ?そこがこうなるわけ。

あれ?なんか革命的な変化な気がしてたんだけど、こうして説明していくと「それが何か?」という感じもしてきた。

ただ、久々ここで登場の @higekuma3 によれば「法人向け仕様に、なった。が、正しい。」なのだそうだ。確かに、企業がFacebookを活用する際、まずそもそも「ファンページ」だと「自分でファンとか言うなよ」とか言われかねないし、自ら行動できないと、Facebookページへの誘導もおぼつかない。言わば、Twitter上で企業が公式アカウントを持つ感覚に近づいたのかもしれないね。

こんな感じで、なんだかどんどこどんと変化していくFacebook。追いつくのも大変だけど、そんな追いつくとか言ってないで気楽に楽しんでいればいいのかもしれないね。

ちなみに、このブログのFacebookページ・境塾=SAKAIjyukuでは、いろんな方々が集まってくれていて、知ってる方もいれば知らない方もいる。そんな方々が「ディスカッション」(上のディスカッションというタブを選ぶ)上でFacebookとTwitterの使い分けをおしゃべりしたりしている。ぼくの想像を超えた楽しい場に育っていっているので、よかったら寄ってみてくださいな。

てことで、Facebookについては引き続き、どんどこどん!と語っていくよ。

Facebook経過報告〜面白くって、でも不思議〜

昨日書いたように、『キュレーションの時代』については、「読んだ後の人」向けの記事を近々書くよ。で、今日はFacebookの話に戻るね。

ぼくのFacebook生活は快調に進んでいるというか。お友達は現在(2011年2月8日)64人。いまは、リアルでも知ってる人か、Twitterなどでけっこうやりとりして人物像がつかめている人に絞ってお友達承認をしている。申請したけど返事ないじゃないかって人もいると思うんだけど、ごめんなさい、そういうルールでいまんとこやってます。

それぐらいの人数で、けっこうニュースフィードは頻繁に新しいネタが流れてくる。これはつまり、ぼくのお友達の皆さんが活発にFacebookを使っているからだ。Twitterの方はフォロー数が1800を超えていて、それぐらいになるともう、Tweetが急流のように流れていく。とても追いきれない。それに比べると、Facebookの方は落ち着いてみんなの書き込みが読めていいあんばいだ。

それと、ファンページあらためFacebookページ。前に書いた通り、このブログの読者の方向けにFacebook上にページを作成した(してもらった)。「境塾」という名前で、独自URLも取得できた。25人以上集まればそれが可能。ぼくのページもhttp://www.facebook.com/SAKAIjyuku というURLを取得した。

このページを訪れた人が興味を持ってくれて「いいね!」ボタンを押すと、”会員”的な扱いになる。と言っても、ページで何らか更新されたら、その人のニュースフィードに情報が出てくるだけなんだけど。

このブログの左、いまたぶんちょうどこの左にある枠の中の文章をクリックするとFacebookの境塾ページに飛ぶので、よかったら「いいね!」ボタンを押してみてね。

まあとにかく、そんな風にぼくのFacebook生活は楽しく進んでいる。でも、まだまだわからない点や整理できないところもある。

まず、皆さんとのコミュニケーションの窓があちこちにあいているので、あちこちをチェックする必要が出てきた。TwitterでRTもらったり、Facebookのニュースフィード上でコメントもらったり、境塾Facebookページでもコメントもらったり。通常のメールのやり取りも含めて、ちょい混乱しかねない。実はブログのコメント欄やめたのも、この理由があるのだ。窓をひとつ減らそうという意図。

”窓”とも関連するのだけど、Twitterとの使い分けではまだまだ整理がついていない。それこそ、Twitterで知りあったけど直接お会いしたし、という方々とのやりとりはかなりFacebookに移行した。でもFacebookに積極的でない人も多いし、Twitterの方がこっちもまだまだ慣れてるのでベースになっている。でももう少し整理しないとわけわかんなくなりかねないぞ。

ある人に連絡するのに、TwitterでDMするか、Facebookでメッセージ送るか、ふつうにメールを出すか・・・なんとなくその場その場で使い分けているだけだ。いかんのじゃないか、おれ?

そういう、Twitterとの使い分けで悩んでいるうち、そもそもFacebookってなんだ?という気持ちになってくる。これって必要なのか?

ニュースフィードでみんなの書き込みを読むなら、Twitterで”お友達”のリストを作れば済んだんじゃないか?メッセージはもちろん、メールでもできる。Facebookページはブログ作ったりすればいいし、写真や動画の見せっこならFlickrやYouTubeでずっと前からできていた。

Facebookってホントに必要なのか?なくても同じことできるサ−ビスやツールは世界中にいっぱいあるじゃないか!

・・・いや、やっぱりそうじゃないんだな。プラットフォームがひとつあって、そこの上で”お友達”を軸にいろんなことができる。だからぼくたちは(ぼくたち6億人は!)Facebookを使うんだ。必要なんだ。ないと困るんだ。

FacebookはまるでひとつのOSのようなものだ。インフラなのだ。

必要じゃないのに、必要なインフラ。そこがFacebookの面白さであり、不思議さであり、新しさなんだろうね・・・

メディアの書ではない。思想の書だ!〜佐々木俊尚新著『キュレーションの時代』感想その1〜

さあ!佐々木俊尚さんの新著を入手!でもってこの土日で読破したので、書くぞ!まあでもとりあえずみんな、この『キュレーションの時代』を購入しよう!

キュレーションの時代 「つながり」の情報革命が始まる (ちくま新書 887)
佐々木 俊尚
筑摩書房

現時点(2011年2月7日)では発売前だ。じゃあなんでぼくがもう読んだのかって?著者から謹呈いただいたからに決まってるじゃないか。\(^-^)/

このブログで何度も書いてきたように、ぼくは佐々木俊尚さんの影響をモロに受けていて、勝手に「第一使徒」だと自任している。2010年4月に『電子書籍の衝撃』が出た時には興奮のあまり数回に渡ってブログで書いたほど。そのあとも別の本が出たら記事を書くし、佐々木さんがセミナーで講演をしたらまたブログで書いてきた。まさに信徒だね。

さて今回のこの本も、一回では済みそうにない。そこでこの回では、「読む前の人」のために書くことにしよう。読む価値がどこにあるのか、という点を書いていくよ。

まず言えるのは、『電子書籍の衝撃』を読んで文字通り衝撃を受けた人なら、その続きとして絶対に読んだ方がいいだろう。タイトルからはまったくつながっていないようで、でもつながっているのだ。まるで続編のようでさえある。

つまり『電子書籍の衝撃』で、これからコンテンツ流通はこうなるよ、と書いたその続きとして、これからメディア構造はこう変化するよ、という内容になっている。

ぼくは佐々木さんがセミナーに出ると聞くと聴講しに行き、毎週メールマガジンを読み、彼の日々のTweetは必ずおさえている。そんなぼくからすると、『電子書籍の衝撃』以降の彼の発言の集大成を読んでいるようでもあった。この部分はいつだったかつぶやいてた話、ここはあの講演でしゃべってたな、といった感じ。そうやってこの数カ月間五月雨式に頭に入ってきた話が、秩序立てられ整理されて一冊の本になっている。

だからと言って、日ごろ言ってきたことをだらんとまとめただけ、ではもちろんない。むしろ、もんのすごく力が入っている。まさに「力作」と言える。何しろ濃いのだ。いつもそうだけど、今回はまたいつにも増して「いろいろ調べたぜ!」という感じだ。

例えばプロローグだ。アマゾンのサイトからプロローグの全文がPDFで読めるようになっているので、ざっと読んでみるといいだろう。これだけでも、そうとう濃い。それに、これのどこが「キュレーション」に関係するのだというプロローグだ。そんな風に、一見すると本論と関係ないような部分も多い。もちろん関係するんだけど、メディア論から離れた部分もものすごい体力で調べて書いてあるのだ。「力作」なのだね、文字通り。

『電子書籍の衝撃』の続きとして面白いのだけど、別の見方をすると、ずいぶん書き方がちがうかもしれない。『電子書籍の衝撃』はかなりまっすぐな本だった。電子書籍を中心にコンテンツ流通について書かれていた。最後に、「コンテキスト」という概念にたどり着く、ある種の「目的地」がある本だったと言える。

それに比べると、『キュレーションの時代』はまっすぐに「キュレーション」について書かれているわけではないかもしれない。途中で、あれ?何の本を読んでたっけ?という展開にもなったりする。もちろん大筋は、マスメディアからソーシャルメディアに中心が移り、キュレーションの時代になっていくよ、とタイトル通りではある。そうなのだけれど、ある意味、出てくる話は多岐にわたっている。寄り道しているということではなく、キュレーションについて語るために多様な事象を持ち出しているのだ。つまり、キュレーションとはメディアや情報収集の話だけではないということだろう。

えーっと、そうだなつまり、メディアの話というだけでなく、物事の見方、考え方がこう変わるという話にもなっている。ちょっと大げさに言えば、思想の変化、価値観のシフトについて書かれているのだ。

ちょっとしたシンクロニシティかもしれないのだけど、ぼくがここ数回書いてきた、近代がうんぬんの話とも、関係している。ぼくにとってはそこを整理するための参考書にもなるかもしれない。

「読む前の人」のためには、これくらいかな。で、「読んだ後の人」向けにもまた書くので、読んだら楽しみにしてね。

せっかくなので、このブログで佐々木さんについて書いてきた記事を並べておく。よかったら参考に読んでくださいな。なにしろ、「第一使徒」だからさ・・・笑

キーワードはアンビエント化〜『電子書籍の衝撃』の衝撃!:前編〜
つまり、自由と勇気について書かれている〜『電子書籍の衝撃』の衝撃!:後編〜
ソーシャルメディアが何かを動かす力について〜『電子書籍の衝撃』の衝撃:続編
Twitterはパワー・トゥ・ザ・ピープルだ!〜『電子書籍の衝撃』の衝撃:解説編〜
Twitterはマスメディアを超克する?〜『電子書籍の衝撃』の衝撃:解説編〜
ぼくのソーシャルメディア体験〜広告の新たな地平線・その11〜
『本当に使えるウェブサイトのすごい仕組み』〜佐々木俊尚はこう読め!〜
佐々木俊尚セミナー「ネット広告の未来地図」からエッセンスを
『本当に使えるウェブサイトのすごい仕組み』は本当に使える!
『決闘 ネット「光の道」革命 孫正義 vs 佐々木俊尚』〜2010最大の事件のパンフレット〜

【お知らせ】コメント記入できなくなりました

今回はちゃんとした記事ではなく、ちょっとしたお知らせです。

このブログのコメントが、記入できなくなりました。理由は前回の記事のコメント欄を読んでもらえればわかると思います。このところの「コメント問題」については、心配してTwitterでDMくださる方もいて、ぼくとしても困ったなあと思っていた。ほっとくしかないよな、という姿勢だったのだけど、こう毎日だとホントに不気味に感じるようになってきて。ストーカーされるってこんな感覚なんだろうなあ。

コメント欄は、ここを通して仲よくなった方もいるので、記入不可にするのはぼくとしても惜しいのです。でも一方で、コメント欄って書いた人の素性がまったくわからないんだよね。Twitterだと、実名じゃなかったとしても、プロフィール欄の情報から、だいたいこんな人だとイメージはできる。

実名じゃなくても、意見を言う人が何らかの自分の立場なり興味なりを表明していることは、コミュニケーションのやり取り上すごく大きいと思う。実名か匿名かは本質ではない気がするんだよね。

話がそれたけど、とにかくそういう事情で、コメント記入は今後できなくなりました。でもこれまでのものは読めるようにしてあります。コメント欄もブログのコンテンツの一部だと思うのでね。(だから記入不可は避けたかったんだよなあ〜)

今後、ブログに関するご意見などは、TwitterやFacebookでお願いします。

Twitterは、左上にぼくのTLがあるでしょ?その「sakaiosamu」ってとこをクリックすると、Twitterのページが出てきて、ぼくをフォローできる。

Facebookでは、このブログのファンページ(ファンページという呼び方はもうしないらしいけど)をつくってある。タイトルは「境塾」といいます。http://www.facebook.com/SAKAIjyukuでアクセスしてもらえれば。Facebookアカウント持ってれば、コメントできるし、できれば「いいね!」ボタン押してください。

なんだい、じゃあTwitterかFacebookにアカウント持ってないと、コミュニケーションできないのかよ、ふん!とか思うかもしれないけど、もうねえ、そういう段階に突入しました。ブログとソーシャルを組み合わせてコミュニケーションを構築していく、そういう時代なんだからさ。

あ、ところで、いま佐々木俊尚さんの新著『キュレーションの時代』を読み進めています。これ、9日発売なんだけど献本いただいたのね(自慢!)。読み終わったら感想を書くので、お楽しみに!

ソーシャルメディアと「近代」をあえて関係づけるのはね・・・

こないだ告知したそめけん(ソーシャルメディア研究会)Ust番組出演はなかなか盛り上がった。なんだそれ?という人は、そめけんのUstチャンネルにアーカイブ映像があるので見てもらうとわかる。“someken 02/01/11″という名前の映像がそれだ。ぼくと @hhoshiba さんの白熱の議論(というかあちこち話が飛ぶ与太話?)が楽しんでもらえる。

この番組でも映画「ソーシャルネットワーク」が題材だったし、Facebookはこの数週間でどんどん広まっている様子。ぼくの生活にもすっかり溶け込んで、Twitterより見る頻度は高いかもしれない。干場先生のおっしゃるTwitterからFacebookへの民族大移動がほんとうに起こっているのだろう。

一方で、前々回の「ソーシャルメディアがひっくり返すのは「近代」なのかもしれない」と題した記事の中でふれたエジプトの騒乱はついに、大統領の引退宣言にまで至った。しかも、そんなもんじゃ納得できない民衆が軍隊とさらに過激に激突したらしい。どうやって収束するのだろうね。

その前々回の記事に対し、いろいろ共感もいただいたけれど、反論とまではいわないけど、ちょいとしたご意見ももらった。

例えば@suiius さんはこう言うのだ。

「拝読。おっしゃりたいこと、多分「近代」って言うと台無しになるかと。WWII以降OR東欧革命以後が「現代」であるという区分に則ると「現代」の凌駕が起こりつつある、或いは最新版の「市民革命」をネットのソーシャルメディアが起こす時代?と言うのが正確かと。」

これに対しぼくが「もちろんここで倒されようとしているのは「現代」と捉えるのも正しい。でもぼくは「近代」と大きく捉えることで何かを見出だしたいのだわ。続きはまたブログでね。」

と書いたら、彼女は「なるほど…「20世紀のアメリカ中心の世界こそが近代の結論」というのは私としては総力を挙げて反証したくなるワーディングで、「結果」なら文句ないけど「結論」は言えないと思うのです。とにかく心して続きをお待ちすることにします。笑」と続きを待ってくれているという。

というわけで、続きを書かなきゃならないわけだ・・・

エジプトで起こっていることを、「現代」の揺らぎととらえ、つまりは”パックスアメリカーナ”(アメリカ中心で世界はなんだか平穏にまとまるね)の終焉かも、と解釈した方がわかりやすいし、正確だろうとは思う。パックスアメリカーナをアメリカ発のソーシャルネットワークが揺さぶっている、と受け止める時点で十分に皮肉で面白い。

ただ、ぼくはこのブログでメディアの激動について書き進めながら、ずっと考えてきたのが”近代”というスケールでの物事の見方なのだ。

じゃあその近代ってのは何なのさ、その定義を明確にするところから始めなきゃ、と @hhoshiba さんには突っ込まれそうだ。でも実は、そこを明確にするのは骨が折れるんだなあ。

ひとつ、おぼろげながら自分として明確かもしれないのは、ここで言う”近代”とは”国家”というものがいまのような存在になった時代、ということかもしれない。メディアについて語る上で”国家”を持ち出すのは、メディアと国家は密接に結びついていると思うからだ。メディアは国家の輪郭を形作る際、大きな役割を担ってきたし、時として近代の権力者たちはメディアを支配したがってきた。

だからもし、エジプトでソーシャルメディアが市民革命の一助となったのなら、ムバラクを倒そうとしているだけではなく、国家というフレームまで揺さぶっている、と言えるのかもしれない。

ソーシャルメディアとは、それぐらいのスケールでの変革なのではないかと思うんだ。

もう少し書き進めよう。ソーシャルメディアはマスメディアに引導を渡そうとしている。そこでもっとも鋭い刃を突きつけられているのは、新聞メディアなのではないだろうか。

新聞というのはどういう存在なのか。輪転機という、印刷技術の集大成であり、設備投資としてもかなり大きいもの。つまりそれを業とするには大きな投資が必要で、だから誰にでもできるものではないキーファクターが関与する。ところがいま、ネットにつながったPCさえあれば、つまり5万円ぐらい投資すれば、一度にたくさんの人に自分のメッセージを伝えることができる。

マスメディアとは、大きな設備投資をするという、特殊な存在だったのが、そんじょそこらの人が誰でも情報発信できるようになった。こう書くと、マスメディアは既得権益のイヤなやつらに思えてしまうが、もともとはそうじゃなかったはずだ。マスメディアとは、「ペンは剣より強し」の象徴だったはずだ。ここで言う”剣”とは軍隊であり、王様の権力のことだ。それに対し、ペンで立ち向かう。それが近代だった。ペンで立ち向かうのだけれど、輪転機に投資できないとペンは役に立たない。それこそが近代の実態だったのだ。市民なら誰でもモノが言えたようで、実際には輪転機は誰でも買える代物ではなかったのだ。

結果的にはマスメディアは輪転機を最初の方に買えた人たちの”既得権益”になってしまった。もともとは、王様の剣に対抗して市民の声を伝える存在だったはずなのに。

ソーシャルメディアは、そんな既得権益を揺さぶっているのだ。その既得権益とは、近代が始まって以来、培われてきたものだと(概念的には)とらえられるのではないか。

うーん、あまりうまく論を展開できていない気がするなあ。大枠ではまちがったことは言ってないんだけどさ。

もうちょっと考えをまとめてから、また書くね、この”近代”の問題は・・・

【告知】2月1日21時から、そめけんUst番組に出演します

昨日書いた記事「ソーシャルメディアがひっくり返すのは「近代」なのかもしれない」について共感も異論反論も多々いただいたので、もう少しつっこんだ内容を書く予定だった。でも予定は予定通りいかないものだ。

ふと気づくと、今日(2011年2月1日)の夜、Ust番組に出るのでここで告知しておこう、ということで、予定を変更することにした。

デジタルハリウッド大学院で教えておられる荻野健一教授(@kenny715)が”ソーシャルメディア研究会”という研究チームを運営されている。公式サイトはこちらだ。ソーシャルメディア研究会、だから、そめけん、という通称。その活動の一環で、Ust番組を定期的に放送されている。

Ustreamのチャンネルはここをクリック!

その第38回配信のゲストが、干場英男先生だ。電通OBで在籍中はクリエイティブ所属でMBAを取得されたり電通アメリカの社長をやられたり、大変博学な方。いまも日本大学芸術学部で学生たちを教えておられる。映画「ソーシャルネットワーク」をネタにトークを展開されるとのこと。

その干場先生が、さらにぼくを対談相手に指名してくださったのだ。・・・っていうか、これは巻き込まれたってことじゃね?(^_^ゞ

干場先生は @hhoshiba のアカウントでTwitterでも活発に発言しておられるし、ぼくのブログでも何度かお名前を出している。ほんの一年ほど前に @m_kaneko さんのご紹介でお会いして以来、ぼくはすごく頻繁にやりとりさせていただいている。

いつもエッジの鋭いご発言で、また時に大変シニカル。きっつぅ、みたいな(笑)。そんな干場さんとの対談は、ご一緒して楽しめるものになりそうだ。

見ようかな、と思ってくれてる方は、せっかくだから予習しておこう。

まずは映画「ソーシャルネットワーク」を公開日に観てぼくが書いたブログ記事。

それから、干場先生がその映画を観て書いたブログ記事がこれ。

読み比べるとなかなか面白いんじゃないかな。ぼくは映画そのものを青春映画として楽しんだのに対し、干場先生は青春映画なのはわかるが葛藤や人間関係に迫りきれてないんじゃないかとバッサリ切る。

一方で、二人とも後半では”アメリカの凄さ”にふれている。ここは干場先生の方がぐいっと力を入れておられる点だ。いや確かに、この映画を観るとアメリカという国のイノベイティブなパワー、あるいは仕組みがよくわかる。ちょいと杭が出るとすぐに叩いてしまう日本とは大きく違う。どっちがトクをしているかは誰だってわかるだろう。

当然明日も、そんな話になっていくだろう。・・・うわ!・・・ちょっと怖くなってきたぞ。日米の気風や気質のちがいに話題が及ぶうち、干場さんのシニカルハリケーンに巻き込まれてしまうのかもしれない。・・・うーん、風邪でもひいておこうかな・・・(^_^ゞ

ソーシャルメディアがひっくり返すのは「近代」なのかもしれない

Facebookにどんどんはまりこんでいる。でも、わかんないことだらけだ。操作がわかんなくて失敗もいろいろしちゃったし。機能が多いからね。

それでも、いまやTwitterのぞいてはFacebookも見て、と並行して使うようになってきた。Twitterを通じてリアルで会った人たちがどんどんFacebookに押し寄せてる感じだから。たぶんお互いに相乗効果でみんな一度に活発化してるんじゃないかな。

Facebookが少しずつわかってくると、これがプラットフォームでありインフラなんだということもわかってきた。いろんなもんを乗っけられるんだね。大げさに言うとひとつのOSのようでもある。Googleがコアコンピタンスを”検索”に置いちゃったがためにできなかったことを、Facebookはできるようになろうとしている。コアコンピタンスが”交流”だから。人同士のつながりは、検索より概念的に大きいということなんだろう。

一方で、連日エジプトのニュースが届いてくる。正直、ぼくはよくわかってないのだけれど、ムバラク大統領に民衆がNOをつきつけているらしい。識者の意見では、これは親アメリカ政権への拒否反応なのだそうだ。

そして民衆の気持ちを瞬く間に伝染させたのは、TwitterやFacebookだという。

だとしたら、なんとも奇妙なことが起こっていることになる。アメリカIT産業が生み出したソーシャルメディアが、アメリカが支えてきた中東の政権を倒すのに一役かっているのだから。アメリカがアメリカを倒そうとしているのか?

ソーシャルメディアは、それを生み出したザッカーバーグたちや、面白がって使っているユーザーのあずかり知らないところで、ものすごく大きな波を引き起こしているのかもしれない。さっきインフラなんだと書いたけど、デジタル機器上の新しいインフラが、社会そのものを突き動かそうとしているのだ。

ソーシャルメディアは”メディア”とつくからには、メディアの革命であり、つまりはマスメディアの規模を急速に縮小させるものだ。それはおそらく、誰もが認めるところだろう。マスメディアの中枢にいる人たちも、だからこそ拒否反応を示すのだ。

でもソーシャルメディアは、もっと大きな存在なのかもしれない。それらが揺さぶるのはメディアだけではないのかもしれない。彼方の国の政権さえ揺さぶっている。アメリカを軸にした世界秩序を揺るがそうとしている。

さっきアメリカがアメリカを倒そうとしているのかと書いたけど、そうとらえてもイメージのおふざけにしかならない。たぶんそうとらえるより、21世紀と20世紀の確執が起こっているのだととらえた方が実はわかりやすいし、正確な把握なんじゃないか。

これをもっと大げさにとらえれば、ソーシャルメディアは「近代」という大きなモノをひっくり返そうとしているのだ。20世紀のアメリカ的な秩序が近代の結論だとしたならば、そうなる。そして確かに、20世紀のアメリカ中心の世界こそが近代の結論なのだ。

ぼくはこのブログで、新しいことが起こるなら新しいことを起こす側にまわろうよとアジテーションしてきた。でもそれはあくまで、メディアコンテンツ業界での話のつもりだった。だけどどうやら、ぼくがアジっていたのは、もっと大きな潮流らしい。国によっては革命が起きかねないようなことをぼくは言っていたらしい。いやー!そんな大それたことだったとは!

ソーシャルメディアには、どこかそういう、理念的な面がある。思想が入ってできている感じがする。ぼくたちは本能的にそれも感じとって、だからこそハマってきているのかもしれない。いや、きっとそうでしょ?あなただって・・・

2010年の映画界の統計が発表されたよ〜日本映画製作者連盟発表資料より〜

Facebookにファンページを開設してたくさんの方が来てくれたり、いろいろ七転八倒したりしているので、それについて書きたいところなんだけど、重要なデータが発表されたので、そっちを書くね。

日本映画製作者連盟という団体が毎年、1月のこの時期に、前年の映画興行の集計結果を発表している。このブログの読者ならチェックしなきゃね。

さっそくここをクリックして直接そのページを見てみよう!

少しでも映画が好きな人なら、興行収入ランキングを見ると楽しいんじゃないかな。あの作品、意外にこんなだったのかとかね。

とは言え、今年のデータをパッと見ただけでは、どう解釈すればいいかわからないと思う。そこでぼくからいくつかのポイントを解説しよう。

さて今年の特徴をとらえるには、今年のデータだけではなかなかくっきりしてこない。

そこで、この表を見てみよう。

これはこのページにある表のいちばん下の部分だ。この10年の興行データをまとめたもの。

これを見ると、2010年はとっても際立った年だったことがわかる。何と言っても、興行収入が2,200億円にもなっている。表を見てもらえば2000年代の興行収入は2,000億円前後で終始してきたことがわかる。これまでの水準を1割も上回ったのはエポックメイキングだと言えるだろう。

邦画と洋画の比率は2008年から3年間続いて、邦画の方が高い傾向になった。ただ、興行収入の絶対額を比べると、邦画はほぼ横ばいで洋画が大きく伸びたことがわかる。

ではそれはどういうことなのか?ここでもう一度最初の統計結果のページの下の方にある、洋画の興行収入ランキング表を見てほしい。

その部分だけを取り出したのがこれだ。

なんと洋画のトップ3作品が100億を超えている。そして4位のカールじいさん、5位のバイオハザードも合わせてトップ5作品が3D作品だった。

つまり、2,000億円が普通だった映画興行を1割押し上げたのは、3Dのチカラだったのだ。これをどう受け止めるかは様々だろう。技術革新が市場を広げたとも言えるし、映画はますますイベント化したとも言える。ま、ぼくが思うに映画はもともとイベント的なものなんだ。

さてそれから、もうひとつ注目したいポイント。
このページで邦画の興行収入ランキング表を見てみよう。そしてその上で、こっちのページで2009年の邦画ランキングも見比べてみよう。・・・どお?何か感じるところがないかな?・・・

わかりやすいところを言えば、この表(10億以上の作品)にあがっている作品数が、2009年は34本だったのに対し、2010年は29本と、5本も減っている。そして作品のバラエティも2009年の方が豊かに感じられないだろうか。少なくとも、2009年の方が映画オリジナルの企画が多い。

ここから先はぼくもまだ考えがまとまらないが、どうやら2010年は、何らかのターニングポイントなのではないだろうか。2000年代に続いてきた傾向が、くいっと角度を変えたのだ。

その角度がどう曲がったのかは、今年の映画界を追っていくうちに見えてくるのかもしれない。今後の映画産業の行く末は、いままでとちがう目線で見つめていかないといけないね・・・

Facebookでファンページをつくってみた(正確にはつくってもらった)

前回宣言した通り、週刊ダイヤモンドのまねをして、Facebook特集をこのブログでも展開するよ。ひょっとしたら毎日書くのかもね。

Facebookを日常的に使うようになると、だんだんそのいろんな機能に気づく。機能の豊富さがFacebookの楽しさなのかもしれない。また、機能が豊富な割にインターフェイスがわかりにくいのかもしれない。でも少しずつ、やってるうちにわかってくるんだけどね。

さてそんな豊富な機能の中に、「ファンページをつくる」というのがある。このファンページは、mixiで言えば「コミュニティを持つ」ことと似ているかもしれない。ファンページを持って上手に運営すると、いろいろと役に立ちそうだ。広告関係の人は把握しておいた方がいい。今後の企業コミュニケーションのハブになるかもしれないんだ。

と言ってるぼくも、まだファンページとは何か、ちゃんとわかっていない。自分で持つのがいちばんだよな、と思っていたら、Twitter仲間の@m_kanekoさんや@tamarincoさんがつくってくれたのだった。

つくってくれたのは、ぼくのファンページ、ではなくて、”境塾”のファンページ。

Facebookのアカウント持ってる人は、ここをクリックするとそのファンページに飛ぶ。あるいは、Facebook上で”SAKAIjuku”を検索してくれてもいい。

あ、そうか、「何よその、境塾ってのは?」という人もいるかもしれないね。そういう人は「「境塾」というか勉強会についてマジに検討してみるかな」と題したこの記事を読んでみて。まあ、軽く説明すると、このブログを読んでくれてる人たちと勉強会やろうか、という話。

このファンページ。昨日紹介した週刊ダイヤモンドの記事でも、小林弘人さんが、友だちは人数を絞ったけど、自分のファンページをつくって自分の本の読者とはそこでコミュニケーションをとっていると言っていた。つまり、ファンページは、文字通り、その人なりその企業なりの”ファン”が集まるコミュニティだ。「いいね!」ボタンを押せば誰でもそのコミュニティのメンバーだ。自分のホーム画面に、ファンページの更新情報が表示されるようになる。

「いいね!」ボタンを押せばいい、という気楽さがいいのかも。”承認”のようなプロセスはないんだ。”友だち”には承認が必要なのと比べるとずいぶんハードルの高さがちがう。そういったところに、Facebookが込めた意志というか思想が見える。ファンページは気軽にコミュニティをつくるためのものだよ、とザッカーバーグが言っているわけだ。

ファンページは自分のファンページとは限らない。有名な話として、コカコーラのファンページはユーザーが作ったのを、コカ・コーラ側が公式なものと認めて運営を託してくれたのだそうだ。

さて、せっかくだからこの記事を読んだら、境塾ファンページに行って「いいね!」ボタンを押してみて欲しい。25人以上の人が押してくれたら、短縮URLをとれるらしい。ちょっと”昇格”する感じなんだろうね。

はい、このリンクを押してファンページに行ってみて!

行ったら、「いいね!」ボタンを押して、せっかくだからウォール(掲示板)に何か書いていってちょ。

え?このブログに「いいね!」ボタンを置けばいいじゃないか、って?えーっと、うん、そうなんだけど、置き方がわからなくて。いや、やり方はわかったんだけど、ブログサービスによって対応非対応があるらしく、このgooブログはどうやら対応してないらしいんだ。ここさあ、Twitter対応も遅かったし、ちょっとどうなの?・・・

Facebookこりゃあ、来るなあ〜週刊ダイヤモンドの特集を読んで〜

このブログをよく読んでくれてる人なら、昨日発売の週刊ダイヤモンドは読んだんじゃないかな?「2011年フェイスブックの旅」と題してFacebookの特集記事を組んでいた。アイコンパレードの表紙を書店で見た人も多いんじゃない?

あれ?なんか、聞いたことある話だ。そう、ほぼ一年前、同じ週刊ダイヤモンドが「2010年ツイッターの旅」と題した特集記事を組んだんだ。表紙もアイコンパレードだったよね。その頃の日本のTwitterユーザーは400万人台だったそうだ。それがいまや1300万人だとか。そしていま、Facebookユーザーは300万人だというから、同じような展開でこれから一年で1000万人を超えるのかもしれない。

ちなみに同じ24日発売の週刊エコノミストと日経MJもFacebook特集だったそうだ。足並みをそろえたわけでもなさそうだから、そうしたくなるタイミングなのかもしれない。

さて先週あたりから急にぼくのFacebookの画面も活発になっていた。それが今日、いよいよ盛り上がっている。ぼく自身も、今日だけでFacebook上でかなりのコメントを書き込んだ。これはもう、ぼくの日常の中に習慣として入り込んできそうだ。帰宅してからも、メールとTwitterとRSSとチェックしたらFacebookものぞいてみて、それからまたメールとTwitterと、と繰り返していた。それぞれのぞくたびに、新しい書き込みがあったり話しかけられたりして、大忙しだ。

うーん、こういうことなんだなあ。

こりゃあ、やっぱり来ますぜ、皆さん。Facebookは今年、来ちゃう。

根拠は前にも書いたけど、イノベイターでもアーリーアダプターでもなく、アーリーマジョリティたるぼくがいま、こうして活発にFacebookを使っているから。ってそんな根拠、全然論理性ないけどね。でも論理を超えて、ぼくは予言する。今年はFacebook元年だわ。

週刊ダイヤモンドの特集記事でけっこう重要なことを教わった。勝間和代さんと小林弘人さんが異口同音に言っていた。最初は友だち申請をどんどん承認して増やしていたのだけど、ある時からそれをやめて実際の友人に絞っていった、のだそうだ。ここ、重要!

Twitterの面白さは”拡散”だ。だから、どんどん面白そうな人をフォローしていくといい。あるいは、フォローしてくれる人が増えていくのも面白がれる。”増える”のは歓迎すべきことだった。

でもFacebookは”限定”なのだ。へたに”拡散”させようとしても、わけわからなくなる。混とんとするだけだ。だから、「リアルでも知ってる人」に絞っていくのが”正解”のようだ。

もちろん、ある方向の見知らぬ人たちを友だちにしていくのも使い方のひとつだろうけど、Facebookの”基本理念”を生かすなら、”知ってる人に絞る”方がいいだろう。

Facebookの楽しみ方の重要な点、とくに先に普及したTwitterとのちがいを世に示しただけでも、ダイヤモンドの特集は意義が大きい。少なからぬ人たちが「なるほどねー、おれもそうすっか」と思ったはずだ。そして、そこを踏まえるとFacebookは楽しくなる。

いやいや、だってここまでこんなに普及しなかったんだから、日本人には向いてないんだよ。そう主張する人もいるかもしれない。

でもいま、ぼくは実感していることがある。ソーシャルメディアの普及はやっぱりソーシャルなチカラなんだと思う。いまぼくがどうしてFacebookに頻繁にアクセスしているか。お友達が活発に何かしているからだ。思い起こせばTwitterもそうだった。誰かと話さないわけにはいかなくなってきたのだ、ある時点から。Facebookも、なんとなく登録していた人たちが、映画や雑誌に刺激されて、せーので活動し出した、それがいまなんだ。Facebookにとっての、ソーシャル沸点みたいなものが2011年1月後半で、沸点を超えるとすごい勢いで鍋がぐらぐら煮えたぎり出しているのだ。

さてFacebookは、使いはじめるとわかる不思議な点、面白い点がいっぱいある。Twitterはそのシンプルさが魅力だけど、Facebookの機能はいろいろあって奥深い。日々使いながら、レポートしていこうと思う。

というわけで、しばらくはFacebook特集ね、このブログも・・・

テレビはミドルメディアの母体になるかもしれない

ぼくのFacebook画面はどんどん活発になってきた。Twitterと合わせて、忙しくてしょうがない。面白いけどね。

さて、そんなソーシャルメディアの話と並行して、テレビとタブレットの話も続きを書かなきゃ。この2つの話の流れは実はすごく関係があるんだけどね。テレビとタブレットで何かを楽しむことは、ソーシャルメディアが促すことになるから。まあ、これを関係づける話はもう少し先にするとして、テレビとタブレットについて。

テレビとタブレットは、例えばテレビで番組を見ながらタブレットでTwitterを楽しむ、なんて時にすごく相性がいい、連携すると前に書いた。

ここをもう少し踏み込むと、コンテンツの連携もこの2つの間で進むのではないかと思う。

例えばそうだなあ、毎日見ているスポーツニュースがあったとしよう。ぼくはスポーツ観戦にさほど興味がないのでわかんないけど、スポーツ好きな人からすると、スポーツニュースは何時間見ても飽き足らないんじゃないだろうか。ところが、だいたい30分くらいで終わってしまう。テレビ番組の編成はそんな風にできている。

大好きな選手のインタビューがスポーツニュースであったのだけど、5分で終わっちゃった。もっと見たいんだけどなあ。きっとホントはもっと長くインタビューしたんだろうなあ。

タブレットで、そのインタビューの続きが見れたらどうだろう。きっと見るでしょ?その上、そのインタビューにTwitterでコメントできたら、するでしょ?Facebookの「いいね!」ボタンがあったら押すでしょ?

そんな風に、テレビ放送の”時間の制約”を、タブレットを使うことで取り払うことができる。その番組をもっとこってり楽しむことができるわけ。

これを延長して考えると、”スポーツニュース”なんていう大ざっぱな枠組みを、もっと細分化することもできる。スポーツニュースの中で10分だけのゴルフコーナーを、もっとこってりゴルフを楽しめるタブレット上のコンテンツ(たぶんアプリ)として提供してもいいかもしれない。ほんとにゴルフが好きな人なら見るだろう。ほんとにゴルフ好きな人が見るなら、広告もつくかもしれない。あるいは有料でもいいのかもしれない。

そこには”ミドルメディア”の可能性があるのではないか。

もしかしたら、テレビ放送は、ミドルメディアとしてのコンテンツを生み出す最上の装置なのかもしれないんだ。ミドルメディアを生み出す際にもっとも悩ましいのがプロモーションだろう。そこは我慢してコツコツやっていくしかない。でもテレビ放送という、いまだにリーチの獲得にはもっとも最適な装置があれば、ミドルメディアのスタートが切りやすいかもしれない。

そんなこと、現状のテレビ放送がやろうとするはずない?そうかもね。いまはまだそうかも。でも、今年はちょっとちがうんじゃないかな。もう少ししたら、ほっといてもそんなことをみんなが考えはじめるんじゃないか。そして実際に具体化しようとするんじゃないか。

もちろん、それで簡単にマネタイズできるって話でもないだろう。でも、そんな風に、いままでとはちがう仕組みを検討しはじめる。それが2011年だと思う。”イノベーションのジレンマ”からメディアコンテンツ業界が脱却できるかどうかが、今年は問われるんじゃないだろうか・・・