映画「テッド」がヒットしているそうだ。ぼくも観た。大笑いした。なんでもこの週末で三週目で、興行収入16億円を超えたそうだ。30億円も圏内に入ったとかで、この手のコメディでは珍しいヒットとなった。まあ、面白いもんねえ。ラブコメになってるし、デートムービーにもなるの?でもつきあい浅いと気まずいシーン満載だから気をつけてね。
少年の夢がかなって命を持ったテディベアも、少年が中年になったいま、エロトークとヤクまみれのむさいおっさんになっちゃった、という設定。
さらに面白いのは、このテッド、相棒の元少年ジョンとともに映画大好きの大オタクなのだ。会話のあちこちに映画ネタが出てきてついていくのが大変。核になるのが「フラッシュゴードン」で、これはもともと、1930年代に連載されたマンガだった。いわゆるスペースオペラで、スターウォーズはこの世界観にインスパイアされてジョージ・ルーカスが企画したという。そして80年代には実際に映画化された。「テッド」にはその時主演したサム・ジョーンズという役者が実名で登場する。
映画「フラッシュ・ゴードン」をぼくは観たことはなかったが、クイーンによる主題歌を通じてそんな作品があったことは知っていた。米国では誰もが知っているのだろう。
これに限らず「テッド」には映画ネタ満載。例えば最後にヘンタイにやられて上半身と下半身に分かれてしまったテッドがジョンに言う。「エイリアン2のビショップみたいだぜ」ををー!確かに!
ビショップはアンドロイドでシガニー・ウィーバー演じる主人公に忌み嫌われながらも彼女を助ける。最後に下半身を失っても落ち着いた顔で人間をサポートする。
「テッド」は娘と行ったのだけど(こんな下品な映画に娘を連れていくとはなんて父親だ?)彼女に「エイリアン2は観たっけ?」と聞くと知らないという。中学生の彼女からすると生まれる前の作品だ。でもこんな古典的な作品もないからぜひ見せたい!帰ったらAppleTVで観ようか、と言うと「べつに・・・」と素っ気ない。彼女からすると、そんな古いの、どうだっていい、ということだろう。
「テッド」の物語の骨子は、子供の頃から丸きり一緒に暮らしてきたテッドと、つきあってる恋人と、主人公はどっちを選ぶか、にある。子供っぽさの象徴であるテッドと別れて、一人前の大人として恋人との生活を選び取れるのか?
つまりテッドは自分自身なのだ。自分の、”これまでの居心地の良いもたれ合える感じ”の象徴がテッドなのだ。
想像してみよう。テッドとの楽しい生活を。テッドは人間の親友とわけが違う。まったく同じ生活をしてきたのだ。何より、まったく同じ映画を観て、同じ音楽を聞いて、同じものを食べて育ったのだ。自分自身が親友として一緒に暮らしてるなんて、こんなに楽な友情もないだろう。
自分自身と暮らす居心地の良さを象徴化するのに、一緒に見て育った映画ネタは格好だったのだ。
ただでさえ、高校や大学時代の友人と昔話をするのは楽しいじゃないか。Facebookに浸ってるあなたなら、この二年間に同窓会で仲間たちと十数年ぶりに会ったことがあるはずだ。そして、他人には全くもってどうでもいい話を、高校の裏庭でタバコを吸ったり、体育教師にケツバットされたり、隣の女子高のマドンナにこっそり告白してフラれたことをみんな知ってたり、といったエピソードを、またみんなで話して盛り上がったんじゃないか。
テッドとジョンは、そんな席でのぼくとあなただ。
そしてぼくたちは、育ってきた映画や音楽やテレビ番組の話をするのだ。それは大好きな行為だ。楽しくて楽しくて楽しくて仕方ない。
ぼくらが青年時代、コンテンツはまだまだ少なかった。そしてぼくたちは面白いコンテンツに飢えていた。東京に出てきたら山手線の駅ひとつひとつに一軒以上の名画座があって、ヒチコック特集だの、鈴木清順オールナイトだの、仁義なき戦い連続上映だのをやっていて、毎日うれしくて仕方なかった。ぴあやシティロードを片手に今日は池袋文芸座、明日は早稲田松竹だと名画座を渡り歩いた。
ぼくたちはそうやってずーっと、コンテンツ探しに明け暮れて青年から中年になっていった。テレビではさらに新しいコンテンツが次々に登場し、CDショップに行けば新たなアルバムをいち早く手に入れ、名画座は少なくなったけどTSUTAYAに行くと黒澤明作品がどれだって借りて観れるようになった。
気がつくと、世界はコンテンツにあふれてもはやすべてを見尽くすのは到底無理になっている。その上最近は、VODで気軽に最新映画が観れる。TSUTAYAに行って探す必要さえない。家にいながらにして“検索“できてしまう。おおー、ウディ・アレン作品がAppleTVでかなり観れるんだなあ。どれ観ようかなあ。まあいつでも観れるんだからいつか観よう。Huluには24もLOSTもPRISON BREAKも全シーズン揃ってる。まだまだ知らないドラマもいっぱいあるし、ウルトラマンや刑事コロンボも全部観れる。
このまま年金生活に入って毎日huluの作品を観て夜になったら寝るだけ、なんて暮らしになったらそれは最高に幸せなんじゃないだろうか。
映画「テッド」で、ぬいぐるみの熊は最初、恋人と暮らすより自分を選べ、と言う。こんなに一緒に暮らしてきたじゃないか。映画オタクなネタを言いあえるのはおれだけだぜ。テッドは観客にとって、浸ってきたコンテンツの象徴なのだ。一緒に浸っていようよ、成長なんかしなくていいじゃないか。そうささやきかけてくる。
ところが、途中でテッドは理解する。自分の親友は、自分と決別しないといけないのだと。自ら身を引いて、恋人との生活にジョンを導こうとする。
ぼくたちも、決別しないといけないのかもしれない。コンテンツのぬるま湯に浸っていてはいけないのだろう。いや、最終的にはテッドとジョンと、恋人とで暮らせるようになった。同じように、ぼくたちはhuluを見ながら、新しい何かを、探し続けなければいけないのだ。テッドがぼくたちに言いたいのは、そういうことなのだろう。
ただ、それにしても、コンテンツは増えた。こんなにコンテンツが豊かで、はち切れそうな状態は想定していなかった。考えたこともなかった。家にいながらにして何万もの映画やドラマから観るべきものを探すなんて、そんな贅沢はありえなかった。
なんかとんでもない未来にぼくたちはたどり着こうとしてるんじゃないだろうか?筒井康隆の小説で、時間が滝のように流れ落ちる、という終わり方のものがあった。そんな風に、ある日突然、このコンテンツの洪水を支えきれなくなったぼくたちの時空が流れ落ちてしまう日が来るんじゃないか。そんな末期的な感覚を持ってしまう。
何を書いているかわからなくなってきたけど、テッドは意外にも見終わったあとで考えさせられる映画だったのだった。
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