昨日、”テレビCMが効かなくなったのはぼくらが消費に冷めてしまったからじゃないかな”という趣旨の記事をここで書いた。消費に対して前向きな気持ちが薄い時に、テレビCMという商品認知ツールを使っても購買には結びつかないんじゃないか、と。
そしたらコメント欄でブログ”デマこいてんじゃねえ!”の先週の記事を教えてもらった。「”消費の時代”から”生産の時代”へ」というタイトル。こちらではニコ動登場前と後でメディアやコンテンツとの接し方が大きく変わったと説いている。なるほどなあと。”beforeニコ動”ではコンテンツは消費するだけだったが、”afterニコ動”では視聴者は同時に生産もするのだというのだ。
この話は、昨日のブログに続いてぼくが書こうとしていたこととすごく関係する、というか近い。合同、じゃないけど、相似、ではある。
テレビCMをはじめとする”広告”は、メディアのあらゆる隙間に商品メッセージを、人目を惹きつけるビジュアルとともに”はさみこむ”ものだった。はさみこみ方は強引であり姑息でもあった。油断しているとはさみこまれる。ドラマが盛り上がって、んでそこからどうなるのー?!というタイミングではさみこまれる。クイズ番組で、そしてそして答えはなにー?!とワクワクしてるとすかさずはさみこまれる。
引っ張るなよー、とモンク言いつつも、まあ広告ってそんなもんよねと受け流してもいた。受け流しつつも面白いCMだとそれなりに注視したりもした。興味ある商品なら、ふーん、今度お店で見てみよっかなー。それが広告の役割だった。よし買うぞ!と思わせるのは店頭に役目を譲り、ひたすら強引にはさみこんで認知を高めてきた。
”消費の時代”はそれでよかった。でも”デマこいてんじゃねえ!”も書いているように、どうやらそんな時代は終わってしまったのだ。
それでもマーケティング活動は続くし、そこにはコミュニケーションの役割が求められるはずだ。それはどんなものなのだろう。そうだ、それは”共告”と呼ぶべきもののはずだ。
共告・・・。お!いいんじゃないか、このワード。さすが元コピーライターだな、おれ様ときたら。・・・これはぼくが言いだしたワードだと言えるんじゃないか?・・・と検索したのだけど、あっさり先人がいた。
こちらの書評ブログによれば、つい3年前に電通の人たちがまとめた「広告新時代 ネット×広告の素敵な関係」という本の中に”共告”の言葉が登場するそうだ。
少しそのブログから引用させてもらうと・・・
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私が本書で特に面白かったのは、広告の将来について語った第六部、「広告の未来図-「精告」と「共告」」です。「広くにメッセージを告げる」ものであった広告は、時の流れと共に一人一人のニーズに対して「精密にメッセージを告げる」ものや、共通の趣味や嗜好を持つコミュニティに対して告げる、「共有されるためにメッセージを告げる」ものに変化しているそうです。
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”共有されるためにメッセージを告げる”ものが共告だという定義らしい。
そうだけど、それだけじゃないんだけどなー・・・。先を越されてしょんぼりしつつ負け惜しみのように言う。ぼくが思うに共告は、共有されるものであるだけでなく、消費者側が勝手に発言してくれるものだ。つまりそれが”デマこいてんじゃねえ!”の言う”生産の時代”と似ているわけ。まあ電通の人たちも、それももちろん含めての話に決まってるだろ、ふん!と罵るのかもしれないけど。
さてそれでは、テレビCMが広告の典型である一方で、”共告”はどんな形態なのだろう。テレビCMの一種なのだろうか。それともテレビCMの枠組みでは無理なのだろうか。
あ、その前にひとつはっきりさせておく。こういうことを書くとすぐに”広告は必要なくなり、共告に移行していく”と言いふらす人がいる。広告は消滅だ。広告からの脱却だ。広告は死ぬのだ。すぐ煽りたがる。
ぼくは広告はまるっきりなくなりはしないと思う。一定規模で残ると思う。なぜならば、”共告”活動は、商品情報を”広告”を通じてある程度認知させておいた方がうまくいくからだ。少なくとも、共告によって認知を拡大するには時間がかかってしまう。
だから、”広告”から”広告+共告”へ。そんな書き表し方が正確だろう。潔くないけどね。
で、戻ると、”共告”はどんな活動か・・・えーっとね・・・よくわかんないんだよね・・・
と、ここで話が終わると無責任なので、次では”共告”のヒントくらいは書いていこうと思うんだよね。・・・え、はい、つまり今日はここまでね・・・
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