この連休の中日、7月15日に久々にデジタルハリウッドの教室をお借りしての境塾を開催した。何度も書いてきた通り、コラムニストの小寺信良さんと、弁護士の四宮隆史さんをパネラーに、「デジタル時代の著作権」をテーマにしたパネルディスカッション。Ust配信もしたのだけど、まだアーカイブになってないので、ここでカンタンにプレビューしておこうと思う。
今回、こういう催しにしようと思ったきっかけが、MIAUによる「違法ダウンロード罰則化についての議員向け反対声明」の発表だった。小寺さんは、あの津田大介氏とともにインターネットユーザー協会、略称MIAUを設立した人だ。そのMIAUが特別な声明を発表したのだから、注目せざるをえない。小寺さんと去年お会いした時から、著作権をテーマに勉強会にお招きしたいと考えていたので、格好のきっかけとなったのだった。
四宮さんとも去年知りあっていた。まったく別経由での知人ともつながっていた縁もあり、やはり勉強会にお招きしたいと考えていたのだ。いわゆるエンタテイメントロイヤー、映画やテレビ、音楽などの分野に強い弁護士だ。ぼくが重要だと思っているのが、もともとはNHKで番組制作をしていた経歴。作り手の現場を肌で知っている、数少ない弁護士ということだ。
お二人をお招きして、違法ダウンロード罰則化の話から、今後の著作権のあるべき姿を議論してみたい、というのが今回の趣旨。
まず最初はMIAUがなぜ違法ダウンロード罰則化に反対声明を出したのか。もっとも重要なのは、議論もせずに拙速に決めようとしていたことだ。
例えば、今回の改正のポイントがあらかじめ文科省のサイトで示されていたのだが、そこには「違法ダウンロード罰則化」は入っていなかった。つまりかなり土壇場になって改正案に加わったのだ。自民党と公明党、つまり野党側から出てきた改正案で、ドタバタと法案に加わったのはどうも消費税増税案とバーター的に取り扱われたのではないか、とあくまで推測だが考えたくもなる。著作権の改正とは、国政の中でそれくらい小さく扱われているということかもしれない。
罰則化の内容もかなり大ざっぱで、懲役2年以内もしくは罰金200万円以内、というもの。一曲あたりせいぜい数百円の音楽ダウンロード価格からすると重すぎないだろうか。ダウンロードしちゃうのは未成年が多いので、法律の運用によっては子供たちが手痛い罰を受けかねない。
また小寺さんによれば、罰則化を先行させたいくつかの国ではかなり混乱したそうだ。ほんとに未成年がどんどん訴えられたり、あるいは大量の訴えが出てきて結局は運用できない状態になったり。
MIAUの主張はあくまで「もっと議論が必要」というもので、罰則化にやみくもに反対しているわけではない。
というような話から、次に、そもそも著作権とはどういう法律なのかという議論に進んでいった。著作権法には、財産権の側面と、著作者の人格を守る側面とがある。財産権は譲渡も可能で、複製権などビジネス的な権利だ。人格権は著作者が作品を守ることを主張できる権利で譲渡できない。四宮さんによれば、財産権は英米法の影響、人格権は大陸法の影響を受けてのもので、日本の法律はだいたい両方の影響で作られている。著作権はその典型のようだ。
もうひとつ、著作者隣接権というのもある。著作者本人ではなく、著作物を頒布する立場の者が主張できる権利。音楽におけるレコード会社や放送におけるテレビ局のような存在だ。
著作権法をどうするかの議論では、もっぱら財産権もしくは隣接権を持つ事業者が出てきて、著作者本人の声があまり聞こえてこない。それでどうしても、そういった事業者の”既得権益”を守る方向に議論が進みがちなのだ。
著作権の話がわかりにくく、また議論が込み入ってしまいがちなのは、著作権にはこうしたいくつかの側面があり、またとにかくひたすら”守るとトクする、守らないと損する”という思い込みが先行する傾向が強いからではないだろうか。
最後に、これからの著作権の姿についての議論に進んだ。これは一口には言いがたいわけだが、要するにいまの著作権法はこれまでのビジネスの枠組みをベースにできている。そこを今後どうするかであり、それはつまり今後のコンテンツビジネスがどうなっていくのか、ということだろう。
お二人とも大きな方向としては非常に近いことをおっしゃっていたと思う。ひたすら守るという姿勢では何も生まれない、ダメになってしまうだけだということだ。パッケージされたメディアに、あるいは放送のようなマスメディアに、コンテンツを複製して大量に売る、そういうやり方自体がいま大きな転換点を迎えようとしているのに、いまの著作権法はそういった旧来型ビジネスを守る構造にしかなっていない。新しい方向へ促すような考え方が著作権法には必要なのだろう。
最後の最後に小寺さんがおっしゃったことがすごく重要だと思った。例えばニコニコ動画にはアマチュアの若者たちが音楽や映像をみんなで共有する前提であげている。いわゆるCGMだ。そのクオリティはビックリするほど高い。お金を出してプロのコンテンツをパッケージで購入しなくても、音楽や映像を楽しみたい人はニコ動に行けば十分楽しめるのだ。これはぼくの子供たちを見ていると、ホントにそうなのでぼくは実感している。娘がピアノですごく難しい曲を練習しているのでそれは誰の曲か聴いたら、ニコ動で流行っている曲で作者は知らない、と平然と言うのだ。その曲はホントに素晴らしい曲なのだ。
小寺さんが主張するのは、これからプロの表現者は、そうしたアマチュアの表現者との勝負を迫られるし、ユーザーもそういう楽しみ方を好むようになっている。かなり厳しい戦いになるだろうから、そこを乗り越えねばならないだろう、というのだ。
考えてみると、ぼくたちはかなり特殊な時代を過ごしてきたのかもしれないのだ。ほんの二百年ほど前までは、”プロの表現者”なんてすごく数は少なかっただろう。王様や殿様に気に入られてパトロンになってもらうとか、そういう”めしの食い方”しかなかった。ほんとにごく少数の、相当な才能と運がある人だけだったはずだ。
それが、もはや誰でも表現者だし、とくに日本のレベルはとてつもなく高くなった。こんな国はどうやら日本だけなのだ。
そしたら別にプロにならなくてもいいのかもしれない。自分の食いぶちは何か別の仕事で稼いでなんとかし、その代わり表現は自分の好きなことを自分の好きなように行う。それをネットで発表して何千人かが評価してくれれば、そんな素敵なことはないだろう。食うために不本意な表現をして悩み苦しむよりずっと健全だとも言える。
小寺さんは、そういう状態を”セルフパトロン”と称した。昔は王様がパトロンになって芸術を支えた。いまは自分が自分のパトロンになれる。それはありだし、素晴らしいことではないか。
概念としてこの”セルフパトロン”は面白い。そして佐々木俊尚さんが「電子書籍の衝撃」など一連の書籍に書いていたことともかなり近いと思う。
表現とはちと呼べないが、ぼくがブログでこうして書きたいことを書いたり、境塾と称してパネルディスカッションを催すのも、少し近いのかもしれない。別にお金になるわけでもないが、仕事として文章を書くよりずっと気持ちいい。
日本が特殊な”表現者の国”になったことと、”セルフパトロン”的な活動形態については、今後も考えていこうと思う。表現活動をする人とは、お金になるならないとは別にどうしても何か表現をしないとやってられないというか、生きていけないというか、そういう人だと思う。昔は例えばミュージシャンになるにはすべてを投げ捨てたり故郷の親父を説得したりしたものだろうが、いまはそんな必要ないのかもしれない。表現したいのなら、表現すればいいのだ。思いがこもっていれば、必ず反応してくれる人が出てくる。それが、ソーシャルの時代の真実かもしれないね。
関連記事