でね、3D映画を観に行ったんだ。『クリスマス・キャロル』by ロバート・ゼメキス。中二の息子と小五の娘を誘ったら、めずらしく二人ともノってくれた。でも決して「うん、行く!行きたい!」と強く反応したわけじゃない。「まあ、パパが行きたいならつきあうけどー」って感じ。
3D映画はいま、映画興行界の救い主かも、ってんで注目だ。今年は3D作品が多いので、映画館側はデジタルプロジェクターをかなり導入した。3D映画が、映画館のデジタル化をかなり引っ張ったらしい。
3Dなんて邪道だよ。そんなことを言ってのける映画ファンは多いだろう。
でも、映画は文化で芸術だとカッコつける前に、そもそも映画は出発点が”見せ物”なんだぜ。
映画の原理はエジソンの発明だけど、”大きなスクリーンで大勢の人を前に動画を見せる”といういまの映画興行の形態を発明したのは、フランスのリュミエール兄弟だ。
彼らが史上はじめてスクリーンで映し出したのは、蒸気機関車が力強く動く映像だった。それを観た観客は、機関車に轢かれるう〜とパニックになったという。映画はそもそも、そんな形ではじまった。いまで言うSFXを最初に開発したのはメリエスで、彼は史上初の職業映画監督だと言われる。そして彼の前身は、手品師だ。
そんな”もともとは見せ物だろ”な映画にとって、さらに見せ物パワーを増強する3Dは、新たな市場を開拓するかもしれない。
このところ書いてきたクリエイティブデフレを克服する可能性が3D映画にはある、とちょっと思ったんだ。だって3D映像こそ、シロウトには撮れない映像だから。映画監督と、You Tubeに動画をアップするアマチュアを明確に分けるファクターになるのかもしれないじゃない。
3Dの世界はテレビモニターでもはじまっている。専用の受像機が開発され、実際に売っていたりもする。数十年後には、映画館でも家庭のテレビでも3Dが標準になるのかも。
さて『クリスマス・キャロル』を見終わったわが家の感想は・・・つかれる・・・
疲れるんだよ、3D映像って。かなり、ものすごく、疲れる。そのわりに、特別な映像っていうほどの驚きや魅力はない。こんなに疲れるのなら、普通版でじっくり見た方がいいよ。ぼくもだけど、息子も娘も同感だった。
3D映画の潮流は、主流にはならない、とぼくは思う。昔より技術は進歩したし、『クリスマス・キャロル』のようなCG作品に馴染みはいいけど、映画館すべてが3Dになるのはありえないだろう。そういう作品もあってもいいかもね、という程度。
映像という表現形態は、進化完了、ということかもしれない。映像に限らず、リュミエールが開発したような”大勢の人を一度に楽しませる”という形態が、ってことじゃないか。
この問題は、もっと掘る。掘ると、深そうだけど・・・
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3D映像はシロウトに撮れない、っていうのは誤解ですね。原理的には、2台のカメラを目線の距離だけ離して、撮影された映像をシンクロさせるなので、自作できるレベルの話です。撮影ではなく「3D映像を映写する技術」が今まで敷居が非常に高かっただけです。「映像という表現形態は、進化完了」についても、技術的なことでいえば、フィルムを超える高精細な映像が撮影できるような高精細デジタルカメラの実用化も目前です。そこでの現実感の高さ、といったものが、また映画表現に新しい可能性を開く、、、かもしれません。それこそ、「汽車の映像を見て逃げ出す人々」を再来できるかもしれません。今の映像業界の道筋は、デジタル技術の進化と密接に結びついているので、技術部分の理解を見誤ると、全貌を見失うのでは、、と思っています。
コメントがついていたことにいま、気づきました。Unknownさん、どうもです。3D映像はシロウトに撮れない、と書いたのは確かに極端かもしれませんね。”撮ろうと思えば撮れる”というべき?でも、家庭用デジカメやケータイで撮った映像を気軽にネット上にアップする、てなことにはあんまりならないだろうと。フィルムを超える高精細デジタルカメラについても、ぼくは映像製作会社にいるので、会社でも研究してます。カメラだけでなく、撮影後のプロセスもデジタル化で大きく変わると思うよ。表現もまた進化するでしょう。ここも、あれですね、進化完了、と言うより、リュミエール以来の進化が一度区切りがつく、と言うべきかもしれない。パラダイムシフトが起きるだろうと。まあ、この話は追い追い書き進めていくので、ね・・・