まあこのブログはぼくを知ってる人も読んでいれば、まったく見知らぬ人も読んでいるだろうから、基本姿勢として何者かはっきりさせてこなかった。けっこう際どいこと書いてるしね。
まあ、細かいことはいいとして・・・
クリエイティブ維新その1の最後で、一度死んだら世界めざそう、って書いた。書いたすぐあとにアカデミー賞ダブル受賞ですぞ。タイミングよすぎ。世の中がイメージ通りになってきたのかもしれない。
世界をめざせ、ってのはちゃんと根拠があるんだとも書いた。今回はその根拠を少し書こう。
まずおっきなとこから行こう。あのね、20世紀はアメリカの世紀だったんだ。
前に近代化について書いた。近代化とは農村から都市に労働力が移動して経済の中心が農業から工業にシフトする現象だと。それと並行してマスメディアで商品が家庭にプレゼンテーションされる。都市労働者となった人びとは、自身が生産者であり消費者でもある状態になり、マスメディアでプレゼンテーションされた商品を購入した。それが経済全体を急速に押し上げた。それが近代化の正体だ。
この図式は、アメリカが震源地なんだ。
T型フォードが大量生産による安価な製造の原型になった。マスメディアと、それを支える広告の仕組みもアメリカが原形をつくった。映像で力強く人びとを惹きつける手法もアメリカで開発された。
20世紀的なものはほとんど、アメリカで生まれた。そしてアメリカがその先行者利益によって大発展した。
21世紀は、アメリカの時代じゃない。でもまだ、どこの時代かわからない。中国かもしれない。
とにかく、アメリカが世界の中心と言えなくなってきた。これが、”世界をめざせ”のおっきなレイヤーでの根拠。
もう少し小さなレイヤーで語ろう。でもこれは、おっきなレイヤーと関係する。
今回の”ダブル受賞”のバックグラウンドには、映画という、アメリカが生んだ最大の文化形態が、アメリカ中心では行き詰まっていることの象徴的な現象だといえる。
それは例えば、日本の映画興行で去年洋邦が完全逆転したこととリンクする。
つまりね、ぼくたちはもうアメリカ映画に飽きつつあるんだ。
言っておくとね。ぼくはかなりの映画好きで、でもって”結局はハリウッド映画にはかなわない”と思っているのよ。(その話は長くなるから別の機会にね)
でも明らかに、ハリウッド映画はつまらなくなっている。ドカーン、バコーン、ズガーン!そんな映画はもういいよ。と言うか、そんな映画はもう過去にいっぱいある。TSUTAYAに行ったらドカーン、バコーン、ズガーンのすごい作品が2枚よりどり2,000円とかで売ってる。すぐ見れる。
そういう映画はもういいのよ。もういい、っつうか、出尽くした。
『おくりびと』は納棺というなんとも地味な題材だ。『つみきのいえ』なんて、おじいさんが過去を振り返るこれまた地味な物語。でもすばらしい。ドカーン、とかなくてもすばらしい。それがいま、新しい。たぶん世界では。
世界では新しい。アメリカでは生み出せない何かがある。そこにアメリカが目をつけた。
世界に目をつけられよう。あるいは、世界が目をつけるようになってきたの。わが日本のクリエイティブにも。オウ!エキゾチック!とかいう段階はもう終わってて、アメリカ人でも世界マーケットでも、”ふつうに”楽しめる作品として、注目される時代になってきたの。
だってもう、21世紀じゃん。
日本のふつうのクリエイターが、世界をめざすのはあり、そういうことなの、21世紀は。
あ、もちろん、そこには”踏まえるべき”ポイントはあるのよ。
てことで、”その4”につづく・・・
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