顔の見えるジャーナリズムへ〜クリエイティブ維新その19〜

海外のジャーナリズムは新聞であっても署名記事がほとんどだそうだ。新聞社の社員であったとしても、記者であるからには自分の名前で責任を持って記事を書く。それがジャーナリズムの基本ではないかと思っていた。

匿名で書かれた記事は記者個人の文章ではなく○○新聞の文章になってしまう。だが、記事は情報であっても情報を越えた存在ではないか。書き手の視点はどうやったって出てくる。それを署名で印刷しないのはすごく奇妙なことだと思う。

同時に、大量に印刷される媒体で何か文章を書くことには大きな責任が伴うはずだ。まちがったことを書いてはいけない。反論を受けてたつ覚悟だって必要だと思う。匿名記事ではそうした”書く責任”がほとんどなくなってしまう。

さらに言えば、”書く責任”はないけど大新聞社の社員である特権性は残る。ほんとうに価値のある書き手かどうかは問われることもないまま、”おれは天下の○○新聞の記者だ”という気概は、ヘタをすると傲慢さにつながる。そんな状態が、いままで許されてきてしまったのだ。

新聞が書き手ひとりひとりの”顔”を見せることがこれから必要なんじゃないか。

少なくとも、”価値のある書き手”でなければ、例え大新聞の記者であっても生き残れない時代にさしかかっている。逆に言えば、ネットの時代とは個々の書き手の価値が問われる。大新聞の記者であっても、無名のジャーナリストであっても、価値のある書き手であれば人びとは記事を読みにやって来るのかもしれない。そうすれば、そこには何らかの経済価値が生まれるだろう。

新聞の危機は、ジャーナリストひとりひとりに”価値のある書き手になれ”と求めているんじゃないだろうか。

あ、なんか遊びのない文章だったね、今回は。ジャーナリズムはけっこう昔からまじめに見つめているんだ、ぼくは・・・

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