先週、勘三郎さんが亡くなった。あんなに楽しくまた挑戦し続ける歌舞伎役者もいないよな、などと思いに浸った。妻はあちこちのワイドショーを録画して、勘三郎追悼の部分ばかり選びだして観ていた。
翌日だったかに息子の勘九郎さんの口上がテレビで流れた。ぼくは夜のニュースで2回見て、翌朝のワイドショーでもまた見た。なんとも素晴らしい口上で、観るたびに目頭が熱くなった。
感動しながら、もうひとりのぼくが感動しているぼくを冷静に見ていた。
もうひとりのぼくが指摘する。繰り返すから残るんだよな。一回じゃないんだよ、繰り返すんだよ。はいはい、言いたいことはわかりました。
確かに、その数日間で勘九郎さんの口上はあちこちの局で日に何度と放送されただろう。ぼくでさえ3回見ている。テレビの視聴時間が長いと10回ぐらい目に入ってくるかもしれない。しかも、そのたんびに目頭を熱くするのだ。印象に残らないはずがない。
テレビは共同幻想だ。そんな捉え方がある。だから必要だし強いのだと。先日のビデオリサーチフォーラムでもそんなことを言う人がいた。テレビはみんなが観て、だから感動を共有し、同じことを感じとるのだと。それがこの国にもたらす共感は大きい。大事だ。気持ちをひとつにする。
そこには正直言って、そう自分たちに言い聞かせて安心したがってる匂いがある。ぼくは後退感を受け取ってしまう。一所懸命前向きになろうとして後ろ向き、みたいな。
さっきのもうひとりのぼくの指摘なんだけど。けっこう大事なポイントなんじゃないか。
そこには視聴率の不思議な算出法もある。視聴率30%と言われると、国民の3割が観たのかよ3千万人以上かよすげえなとパッと受けとめてしまう。でも、あくまで世帯視聴率なので、4人家族のひとりしか見てなくても4人全員観ていても同じだ。仮に、視聴者の世帯の平均家族数が2人とする。その片方だけが視聴して世帯視聴率30%とすると、実際には国民の15%が見た計算になる。視聴率は、そのまま人数にならないのだ。
90年代、「101回目のプロポーズ」は視聴率30%を超えた。「ぼくは死にまっしぇーん」と言ってトラックに立ちふさがる武田鉄矢のクライマックスを知らない日本人はいないのではないか。そんなイメージがある。
ぼくもそのシーンをよく記憶している。・・・あれ?でも実際には見たわけではないな。・・・ぼくは「101回目のプロポーズ」を観たことはないのだ。でもウッチャンナンチャンが真似をするのは観た。何度となくやったと思うので、何度となく観たはずだ。そして本物のその場面も、過去の名場面としていろんな番組で何度も何度も出てきた。
繰り返されるから、刷り込まれたのだ。実際には観ていない。
子供の頃、浅間山荘事件があって、その模様はテレビで生中継された。これは覚えている。・・・いや?これも、あとで繰り返されたから覚えているんじゃないか?鉄球が山荘にぶつけられる場面を、何度も観ているのだ。昭和を振り返る番組などで、何度も何度も繰り返された。
同じ頃、”成田空港予定地の強制執行”というのもあった、と思う。これはよく覚えていない。でも確か、何度か行われテレビで放送された。なのに記憶が曖昧だ。・・・なぜなら、その後映像がテレビ上で取り上げられることがなかったからだ。おそらく浅間山荘事件はテロリストの犯罪だけど、成田強制執行は一種の内戦だからだと思う。
おぼろげな記憶の中で、成田強制執行は相当過激な映像だった。火炎瓶が飛び交い、服に火が燃え移った人がじたばたする様子を覚えている。日本人同士で激烈な戦いを繰り広げていた。機動隊が向き合うのは、犯罪者ではなくごく普通の人びとだった。その後テレビで流されなかったのも致し方ないかもしれない。封印されたのではないだろうか。
同じ頃の出来事でも、そしてテレビが大々的に放送したものでも、その後繰り返したかどうかで記憶に残るかどうかが決まる。繰り返すから記憶に残るんだ。
CMもそうなんだ。いまのCMの中ではずば抜けて面白いし流れたら注目する白い犬のお父さん。1回ですべてわかってすべて理解しているわけではない。何度か流すうちに意味も面白さもわかってくるのだ。最初、“今なんて言った?“と思ったり。いきなりはじまってセリフを聞き落としたりするのだ。幸い、犬のお父さんのCMは大量に流れているので、まちがいなく数回視聴する。だから効果がある。
国民すべてが同じ番組を観て気持ちを共有する。それがテレビという装置だ。そんな風に思わない方がいいんじゃないか。そういう装置が日本には必要だ、共同幻想は必要なのだ。いままでずっとそうだったように。という思い込みこそが業界の共同幻想なのではないだろうか。そしてそこから次の時代への何かが生まれるとは思えない。
最近どこかで目にしたフレーズ。“絶望の向こうにほんとうの希望がある“。そっちに真理があると思うんだよなー。
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