メディアについて語ることは、自由について語ることだ

前回の記事でさほどの気負いもなく「メディアについて考えることは、自由について考えることに近いんじゃないかと思うんだ。」と書いた。そしたら24日にリアル境塾にお招きしている志村さんからコメントが。

「表現とメディアは、自由と制限と言い換えてもよかったと​思います。今までは。個人と組織、趣味とビジネスとも言​えます。ネットでは自由な表現が可能だけど、あとはそれ​をメディアが受け入れるか、しないのか、どちらを選択す​るか。(以下略)」

そんなことを書いてくださった。

つまり、いままでのメディアとは、表現に関して制限付きだった。でもこれからはもっと自由になるのかもね、と。あるいはそういう自由さを既存メディアが受け入れるのかがポイントだ、と。

そうやって考えていくと、これまでのメディアって表現の場として不思議な面を持っていたことに気づく。

そもそも、メディアは表現の受け皿だ。そしてその”表現”とは、本来的には自由に行われるべきものだ。実際、誰かが何か問題になるようなことを言ったとしたら、その責任はその発言者が問われるはずだ。

ところが奇妙なことに、テレビ番組の中でゲスト出演者が”不謹慎な発言”をしたら、その出演者本人ではなく、局のアナウンサーが謝る、でしょ?これはよく考えたら変なことだったんじゃないか。表現の受け皿なのだから、ゲストの発言はゲストが発言したことです、と言えばいいのに。

でもなぜかいままでは、それが言えなかったのだ、

そんなことで、例えば○○○や△△△のような言葉は使ってはならなくなった。(○○○や△△△には適切な猥褻語や差別用語を入れよう)

もちろんここで言う”自由”とはそんな「言ってはならない言葉が言えるかどうか」なんていう小さな問題ではない。

例えばここでぼくが好き勝手に書いている、自由、のようなことだ。ここでぼくは、何文字書いたっていい。誰かの批判をしてもいい。政治的な発言をしてもいい。

ぼくはこの場で何をどう言ったっていいのだ。そしてぼくがもし不謹慎なことを言ったとしても、誰かが代わりに謝ったりしなくてもいい。読んだ人の中ですごく怒った人がコメント欄に書き込んできてもいいし、ぼくはそれに反論しても、ほっといてもいい。なんだったら削除もできる。

ただし、ぼくがここでただ書き散らかしたり無神経なことを書いたりしたら、コメント欄が炎上したり誰も見に来なくなったりする。自分のしでかしたことには、自分に報いが来るのだ。

こういう感覚は、既存のマスメディアにはない。問題になるようなことは避けるのだ。だから事前にチェックする。チェックするのは表現の自由に制限を加えるためではなく、何か問題が起こらないようにするためだ。マスメディアとはそういう存在になってしまっている。

既存メディアはこれから、ネットの力を取り入れなくてはならないだろう。そしてそれはなんとなくメディア側の人たちも感じているはずだ。でもそこで、ネットが持つ”自由性”をも取り入れられるか。

これからそこが問われる。

この話、面白いのでもう少し続けるね。

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