ソーシャル化で変わろうとしていること〜広告の新たな地平線・その8〜

この週末、ぼくは家族に料理をつくったり娘を『アリス・イン・ワンダーランド』に連れて行ったりしつつ、ずーっとTwitterだった。ただだらだらとみなさんのタイムラインを眺めていたわけではない。おっ!と思ったつぶやきからblogを読みに行ったりニュースサイトに飛んだり、YouTubeの動画をみたり、ということだ。

それだけでなく、山手線が止まったこともTwitterで知って出かけようとしていた息子に注意するよう言ったり、孫正義のテレビ出演を知って映画に行く前に録画を予約したり、ということも含む。

さらには、Tweetを交わして知り合った人と今度会う約束をし、その間にDM送ってきた昔からの仲間もその方を知ってるというので一緒に行くことになった、なんてこともあったりした。

映画の簡単な感想をつぶやいたら同僚とちょいと仕事に関わるやりとりをした、なんてのもあった。

ん?ようするにぼくのこの週末はすべてTwitterが入口になっていないか?

もう少し詳しく言うと、Twitterでみんなと交わしたコミュニケーションがぼくの行動のすべての入口出口になっていないか?

ちょっと話を変えよう。先週、Facebookのキーノートスピーチが話題になったの、知ってる?え?知らない?じゃあこの記事をざっとでいいから読んで。うんほんとにざーっとでいいから。

え?よくわかんない?そりゃそうだ。これから起こるかもしれないことをFacebookの人たちがしゃべったわけだから、わかんないよ、まだ。ぼくだってよくわかんなかったし。

これにからんで、たまたま土曜日に、不躾にもぼくは@bokuさんのつぶやきに思わず反応し、結果的にいろいろヒントをもらった。

@bokuさんが言うには・・・
Twitterユーザーほどそうだと思うのですが、家に帰ってまずテレビをつけるという時代ではないですよね、家に限らず外でも暇があればまずTwitter。それがソーシャルのパワー。
さらに続けて・・・
だからといって、テレビがダメという安易な話ではなく、もしテレビにTwitterアイコンが表示されていて、チャンネルごとに、あの人、今、この番組みてるんだともしわかったら?ソーシャルとコネクトするだけで、テレビをリアルタイムにみることが一気に復活するかもしれない。
いちばんわかりやすいのが・・・
そんな時代のテレビ番組ってどういうものであるとより楽しんでもらえるのだろう。例えば、そんなことを考えるのが新しいクリエイティブかな、と。

このあたりで、うむむむむむむ!なるほどー!と少し見えてきた気がしてほしいのだけど、どお?ぼくはそんな気がしたので、考えて悩んで、上のような図を描いてみたわけ。Twitterが、つまりはソーシャル化が、ぼくたちとメディアとの関係をこんな風に変えようとしているのだ、と。

わかったような、わかんないような、って人は手元にある『電子書籍の衝撃』の最後の方をもう一度読んでみよう。そうそう、コンテキストとかマイクロインフルエンサーとか、そのあたり。またその本の話かよ、とか言わないで、まだ読んでない人はいますぐアマゾンで買おう。書店に飛んで行こう。すごく大事なとこだし、いま書いてることとすごく関係してるから。

これまでメディアは、そしてメディアに乗っかってるコンテンツは、言わば”点在”していた。それぞれ別個に存在していた。だからいちいち、どのメディアでどんなコンテンツが視聴できるかを調べたり、見に行ったりしていた。マスメディアの偉大なところは、それが習慣化していた点だ。月曜9時には若者向けどラマがあるとか、11時台には各局でニュースやってるとか、知ってた。朝になると新聞は軒先まで運ばれていた。

Yahoo!トップページにはその時々の旬なニュースが掲載されてる。この数年は、いくつかのブログをブックマークして、更新されたら読んでいた。SNSに行けば友人知人の近況が分かったりしていた。

それらは、”場所や時間を知っていて、こっちから情報を取得しにいく”のだ。それがマスであれネット上であれ、”メディアというもの”だった。

ソーシャル化は、そういうメディアの基本条件を根本から変えはじめているのだ。ぼくたちは、自分と興味や志向が近そうな人たちをフォローし、フォローされている。そんな人たちが、ブログやニュースサイトで興味深いものを教えてくれる。あるいは、ブログを更新して教えてくれる。どれどれ、とそれらを読んでいるうちに、テレビ番組の情報が入ってきたりする。新作映画の感想も読める。そればかりか、電車が止まったことや自分では気づかなかった地震のこともわかったりする。

ぼくが知りたいことは、ぼくがフォローしてる人たちが教えてくれるんだ。

ソーシャル化はつまり、WEBだけの話ではないんだ。あらゆるメディアを、ソーシャルが包みこんでフィルターになっていこうとしている。この仕組みはヒューマンでいいね、などと情緒的なことを言うより、”圧倒的に便利だ”という点が大事だ。

すべてのメディア、すべてのコンテンツはフラット化し、点在していたのが”遍在”している状態になる。その中で何が大事かを教えてくれるのが、ソーシャル空間であり、それはメディアとぼくの間に広がっている。

このことを、どうして”広告の新たな地平線”のサブテーマで書いているかというと、こういう前提で広告コミュニケーションを考えていくべきだからだ。広告コンテンツは、遍在化しはじめる。遍在化をたくらまねばならなくなる。そこでは、ウソは無力だ。ソーシャル空間ではウソは簡単に見破られる。でも真実と、誠意は通用する。

それから、ソーシャル空間を前提に広告コミュニケーションを考えると、クロスメディアでさえなくなる。クロスメディアという言い方は”点在”を前提としているからね。クロスじゃなくて、フラットメディアだ。フラットな中にメッセージを遍在化させて、それが生き生きと流通していくよう企画するんだ。”遍在化させ、流通させる”ことが大事。そのための仕組みが、メディアプランだといえば、メディアプラン。

さらにここで書いていることは、”VODに未来はあるのか”にも関わってくる。なぜなら、コンテンツ流通にも関係したことだから。

というわけで、広告の話と、コンテンツ流通の話、並行して、からみあいながら、この先を書き進めていくよ。・・・いやーけっこう脳みそが疲労するなあ・・・

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コメント

  1. ”メディアはフラット化する”の論理、良く分かります。僕がこだわるのがリアル〈実在空間)ポータルサイトの実現です。具体的には駅ホーム、コンビニやスーパーの店頭です。大会社玄関のポータル化です。もし多くの人が離合集散する地点に”巨大なiPad”があったなら、ユビキタスネットワークメディアになりますね?どうやって、これを偏在化出来るかという究極のビジネスモデルを模索している処です。毎日1つのメディアで日本だけで毎日6000万人に接触出来て、映像情報を瞬時に伝達出来る媒体はこれしかありません。

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